目覚めよ!

文明批判と美の探求と

極楽浄土と地獄へ同時に行くのは金輪際イヤだが…

さてわたくしにとっての生とはまさに闘争の過程です。

 

其れも何やらまるで分からぬ闘争の過程其のものだ。

ですがわたくしは幼き頃より其のゴタゴタと云ふか悲惨と云ふかそんな情けなひ自分の様を俯瞰しつつ眺めることが出来た。

 

さうした理性の眼を何処かに宿して居たことでせう。

 

其の理性の眼とは所謂合理的解釈では無く謂はば直観的な把握でした。

どちらかと申せば其れは藝術の方に近ひもので従って其れは学校での御勉強により教へられるものでは無かった。

 

 

其れは言はば御勉強にては分からぬものなのでより正確には其れは言外ー抽象的な思考以前ーのものによる規定なのだ。

まあ其処は宗教的な気付きや御導きのやうなものなのでもまたあらう。

 

よって其処を周りに伝へることこそが最も困難なことでした。

其の困難さこそがまさに自分の中にあり世の中の大問題はむしろ大問題なのではありませんでした。

 

さうしてわたくしは自身として完結した形でもってすでに六拾年もの期間を生きて参りました。

 

 

ではアナタ御自身が完全であり周りは皆不完全なのでせうか?

其れもアナタ御自身のみが全知でもってして周りは皆馬鹿なのでせうか?

 

まあ正直さう思へることさへもが屡ありました。

まさに其れがわたくしの病気かとも思はれますが元々さう云ふ人間なので其れを全否定して仕舞っては如何にも可哀想です。

 

どだひ作家タヒプの人間はおそらくは皆が自分こそが神であり佛だとさう信じ込んで居ることでせう。

 

ズバリ其れは頭が半分オカシヒと云ふことなのですね?

 

いや、其の半壊した頭でもってして創造性をば発揮して行くのが謂はば文人なのですよ。

 

逆に言へば頭が半壊する程でなければー苦悩が其処まで行かなければー實は何も見へては参りませぬ。

 

 

さうして詩人さんには何でも見へて仕舞ふんだ!

するともしや👩の裸なども見放題ですか?

 

まあ心の内側までもが見へるとでも申しますか単なるヌードのことでは無ひですね。

 

其れは凄ひ。

 

ではたとへば宇宙の果てなども見へるのですか?

 

いや宇宙は自分の内側がすでに其の宇宙なので其処をいつも宇宙遊泳して居る感じでもって生きて居りますがね。

 

 

ひゃあー、まさにとんでもなひ人ですね。

 

貴方はもしや神ですか、其れとも佛ですか?

 

いや、おそらくは誰もが其の神であり佛でせう。

 

只其れに気付けぬだけなのだとさう思はれます。

 

 

さてもさうして見へ過ぎちゃって困るのですか?

さうです、見へ過ぎちゃって困るのです。マスプロアンテナ CM 昭和

 

かうして此の歌を歌ふ👩の下着が透けて見へても居ります。

 

其の👩の下着が透けて見へて居ることが嬉しひのですか?

 

いやまるで嬉しくはありません。

 

タダ何故獣は👩の下着が透けて見へて居ることがそんなに嬉しひのだらうかとさう思ふばかりでのことだ。

 

 

すると貴方にとっては周りは皆其の獣なのですね?

 

うーむ、まあ、ズバリ其の獣ですが其の獣振りが可愛くも無ひ訳では無ひ。

 

其れは猫とか犬とかまさにそんなものと同じだと云ふことなのですね?

 

まあさうではありません。

 

 

人間は人間なのでまさか🐶や😸並だと云ふことでは無ひだらう。

 

何故なら先にも述べましたが如くに佛教にせよキリスト教にせよ佛性や神の属性としての人間の価値をしかと認めて居りませう。

 

但し心の持ち様の方向性が悪ひが為に獣化して仕舞って居るのだとさうも申せませう。

 

さうか、貴方様にとり其の獣との闘ひこそがまさに熾烈であった訳ですね?

 

 

いや其れはわたくしだけのことでは無くあらゆる藝術家、また知識人、宗教家による精神的闘争がまさに熾烈を極めて居たのだとさうも申されませう。

 

幸か不幸かわたくしは其の系譜の末端に連なる者であったと云ふだけのことです。

 

すると詩人さんには其の精神的闘争のより上位を究めたひと云ふ欲望はありませんのでせうか?

 

世に認められし偉ひ文人となり死後に堂々と文士の園へ入ることを望まれては居らぬのでせうか?

 

 

まるで望んでなど居ません。

 

わたくしは先人の文士の先生方の婢として生きることを決意した者でありすでに大きな欲の其の全てを捨て去っております。

 

 

其れは偉ひ!まさに偉ひぞ。

 

其れも宗教団体の幹部の人達に是非聞ひて貰ひたひやうな無欲な御言葉だな。

 

もしや其れでもって見へ過ぎちゃって困るのですか?

 

さうなの、見へ過ぎちゃってー困るのー。

 

 

ところでもしや最近書きながら遊んで居ませんか?

 

いや實は書きながらかうして遊んで居ります。

 

 

さても👩の裸に飛び付くことは罪ですか?

まあ根本的と申しますか根源的な命題でせうね、まさに其れが。

 

👩の裸に飛び付かぬ👨はまず居なひ訳ででも其処を理性的に制御して居る男性もまた少なからず居られることでせう。

又は其れどころでは無く生きるか死ぬかでもってやって居る人々は其処までの余裕が無ひと申しませうか、まさに自分の生を維持するのがやっとですが結果的にはわたくしの場合も其処に入ることでせう。

 

 

だが世間にはかうして余裕があり過ぎの👨が居るものですね。2度目不倫の宮崎謙介氏「ボランティア活動したい」

 

ところで何故コヒツはこんなにモテるのですか?

 

いやだから其れはそも👩とは馬鹿な👨にむしろ擦り寄って行くものなのだ。

逆に眞に理性的な🚹を🚺共は嫌ふものです。

 

 

さうか、では詩人さんもこれまでに随分嫌はれて来たのですね、可哀想に。

 

おまへに可哀想などとは言はれたくは無ひのだがさうだよ。

 

ところで詩人さん、其の🚹の女癖の悪ひのは果たして治りませうや?

 

まあ其れは無理でせう。

 

 

👩好きの奴は其れこそ中学生の頃位からすでに👩たらしです。

逆に文學フェチの奴も其れこそ中学生の頃位からすでに文學フェチです。

 

でも其処は其れこそ人其々なので、まさに仕方の無ひ部分でもまたあらう筈です。

 

人間の精神の傾向性は此のやうに変はり様が無ひものです。

 

ですが信仰を得れば其の変はり様の無ひ部分も或は変はって行くのやもしれません。

 

 

重要なことは世間の人々には其のやうな認識が概ね無ひと云ふことです。

ごく一部の見識の高ひ人々を除き世間の人々は自分と社会を疑ふことなく漠然と生活を繰り返して居ます。

 

故に其処では何も変はり様がありません。

 

変はらなくても良ひではなひか、そも何で変はる必要があるのか?

 

もしやおまへは革新主義のリベラル派なのか?

又は共産主義者なのか?

 

 

いや、そも変はりませんと近現代の社会は維持出来ぬこととなって居ります。

 

問題は日本が精神的には封建制をやりつつ現代の先進国となって御座ると云ふ其の矛盾だ、まさに其の矛盾。

 

いや別に社会は何主義でも良ひのです。

 

ですが日本の社会に限れば其れが常に矛盾的推進に陥って居る訳だ。

 

イキナリまた社会學者のやうなことを言ひ始めたな。

 

 

いやずっと前からさう言ってますよ。

 

そも日本の社会では常に矛盾が大きくあるので相当に危険だとさう述べて来ても居る。

 

まさに其れは社会的に危険だと云ふことでせう。

 

おそらく日本の文學者達は鋭ひ嗅覚にて其の危機を予知して居たことだったらう。

 

 

ではたとへば皇室に於ける結婚話などでワヒワヒ、ガヤガヤやってる場合では無ひとさう申されて居るのですか?

 

だってそんな話はバカバカしひ話以外のなにものでも無ひ筈ですよ。

 

全く馬鹿にもほどがありませう、其の程と云ふものが。

 

 

何でそんな馬鹿話に日本のみんなは群れたがるのですか?

 

もしや日本のみんなはすでに大馬鹿者なのでせうか?

 

ま、其れを言ってはお仕舞ひなのであへて其処は申しませんがね。

 

 

要するに全ては幼稚化し即ち低次元化して居ると云ふお話をして居ります。

 

其れはたとへば観念のあり方が非本質化して居ると云ふことなのでせうか?

 

おっ、鋭ひですね、まさに其の通りでのことでせう。

 

 

其の観念が観念として非本質化すること其れ自体がー日本又は社会がーおバカ化することの正体なのではなからうか。

 

本質主義相対主義

 

現代は其の相対主義に則り社会での価値観が組み立てられつつあります。

 

ですので、其の相対主義によりたとへばジェンダーフリーだの人種差別の撤廃などが声高に叫ばりたりもして居る訳だ。

 

 

ですが、相対主義ばかりをやるとたとへば伝統的秩序は守れなくもなりませう。

また本質主義ばかりをやるとたとへば変化することが出来なくなります。

 

~主義と云ふのは、實は左様に矛盾其れ自体を抱へ込むことなのです。

即ち右の思想の主義も左の思想の主義も共に矛盾を抱へ込んで居るのです。

 

 

本質主義の方が良ひのだとわたくしがさう述べて来ましたのは、廿壱世紀に入った後に相対主義的な見方が大きく勢力を持ち過ぎまさに何でもありの世界となって仕舞ったことへの反省を踏まへたことでもあった訳です。

ですが、本質主義本質主義でもって融通が利かぬ面、変はりたくは無ひ面をまた多分に持って居る訳だ。

 

だから其の本質主義でもってあへて行くのであれば我が國はもはや鎖國するより他は無くなる。

 

其の鎖國も一つの手ではあるが現代社会に於ひてはもはや不可能な理想論であるに過ぎぬ。

 

ですが、今回のパンデミックでもって相対主義の危うさもまた浮き彫りになって来ました。

 

具体的に述べればグローバル資本主義が其の相対主義のまさに具現化でもあった訳だが其れは次第に限定されて行かざるを得ぬことだらう。

 

 

ちなみに社会に於ける営為の全てが幼稚化し即ち低次元化して居る面もまた相対主義のひとつの側面なのだと思はれる。

其れは言はば事の本質を問はぬ世界が欲望に流され欲望に流された分思考と行動が幼稚化、低次元化して行く訳だ。

 

なのではありますが、最も深部に横たはる根本での問題はさうした幼稚化、低次元化=おバカ化することに不感症となって仕舞って居る現代の大衆の認識能力の低さにこそあらう筈だ。

 

つまるところは其処こそがまさに馬鹿なんです。

 

其の馬鹿はでもわたくし自身も持って居ます。

 

わたくしは別に何処かの教祖様のやうに自分が神の使徒だとか佛の生まれ変はりだとかさう云ふことを言ふつもりなどは一切無ひ。

 

 

無ひのではあるが、實際現代の大衆の認識能力には可成の危機感を抱ひて居ます。

 

で、わたくしが問題として認識して居ることはかうして常に社会的な問題であり其れはすでに個の能力を超へて仕舞って居るのです。

 

だからどんなに個が其処でもって自分の正義を振りかざさうともはやどうにもならぬ問題であることさへもが分かって居るのだ。

 

 

其れでも猶こうして世に対し何かをもの申して居るのはひとへにみんなの中の神や佛に祈りたひ一心からなのだ。

 

ところが社会を信じて生きて行くのがごく当たり前としての人間の生き方です。

 

さうして皆が社会を信じ日々を頑張るのでかうして社会は成り立って居るのだ。

 

確かに其れは当たり前のことです。

 

当たり前のことですが、其処には矛盾としての大きな盲点もまたあることでせう。

 

 

つまるところは其の社会に順じて低次元化する意識の流れを根絶せしめ自らの魂としての階梯を上げて行く=目覚めることを目指した場こそが此のブログの内容其のものなのだ。

 

 

左様に相対主義に陥れば事の本質からは遠ざかり逆に本質主義に拘れば変化に対し意固地となり融通が利かなくもなるものです。

 

男性原理⇔女性原理

 

老人⇔若者

 

大學生ー利口ー⇔文盲ー馬鹿ー

 

と云ふやうに此の世での概念は必ずや相対分離されたものとならざるを得ぬ。

 

ですが其の立ち場に固執すべき根拠自体が概念的にそも成立して居なひ訳だ。

 

其れでも概念的に成立する場は宗教的な信仰や藝術、學問による主義、主張しか無ひ訳ですがより正確には其れは宗教的な信仰より他に得られやうが無ひものです。

 

 

ところが其処で邪教を信じて仕舞へばまた其れは別の無知蒙昧さを自らの内側に抱へ込むことともならう。

 

二元分離した価値としての概念をどうバランス化させて行くかと云ふことだけがー本質的にはー人類にとっての喫緊の課題です。

 

ですが世俗での喫緊の課題とはさうしたことでは無くあくまで非本質的にどう生き延びて行くかと云ふことなのだ。

 

生き延びるー非本質化ー⇔滅ぶー本質化ー

 

なのでもまたあることだらう。

 

 

簡単に申せば非本質的に生きれば生きる程に此の世は生き易くもなって参りませう。

 

逆にかっての文士達のやうに本質を問へば問ふ程に夭折したり自決したりする他は無くならう。

 

だからこそ自らバランスを取って生きることが其処に求められて居る。

 

 

自らバランスを取り毎日其の社畜となり頑張りました。

 

どうですか、一点の曇りも無ひ奉仕にてまさに偉ひ行動でせう?

 

其れも特に偉くは無ひことでせう。

 

さうでは無く、其れはまたわたくしのやうに社会に対し文句を垂れる=提言する訳でも勿論良ひ訳なのでせう。

 

 

此の世はね、まさにさうした二元対立ー二項対立ーとしての世界なのだ。

 

まさに其の部分こそが不変且つ普遍としての眞理です。

 

理性の役目とは其の二元対立ー二項対立ーを乗り越へるところにこそ生ずる。

 

理性とは其の矛盾に挑む力でこそあるべきだ。

 

理性を快適さだの延命だのそんなところには金輪際使ふな。

 

また理性でもって宇宙へ行きました、なんてことはまるでもって茶番だぞ。

 

其の理性を二元分離した価値としての概念をどうバランス化させて行くかと云ふことだけに使へ。

 

 

其の茶番としての文明が今のアナタの現代社会への認識なのですね?

 

まあ茶番でせう。

 

ですが何せ馬鹿は治りませんのですし根絶することも不可能です。

 

 

エッ?

言葉の力にて是が非でも馬鹿を根絶させてやるとつひ先日さう仰って居た筈ですが…。

 

馬鹿もウヒルスも結局は共存すると申しますかイヤイヤながらも受け容れて行く他は無ひことだらう。

 

 

さうして生き延びる為には非本質化して行かざるを得ぬのが世の常でのことですので。

 

さても其の見へ過ぎた👩の裸は非本質化なのですか?

 

まあさうでせうね。

 

尚最近わたくしはたとへば👩の人が何かを喋るのですが其の意味がまるで分からなくなっても来ました。

 

エッ?

 

まさかどんな病気なのでせうか、其れは?

 

いや病気では無くおそらくは本質化が過ぎて居るばかりにでせう。

 

左様に本質化の度が過ぎますと次第にかの藤村 操みたくにもなり下々の👩共とはもはや意思が通じなくなっても来るものだ。

 

 

ゲエッ、詩人さん大丈夫ですか、其れ?

 

大丈夫です。

 

其れも適当に石や万年筆でもっていつも遊んで居るので大丈夫ですよ。

 

其れに🐈や銀化ガラスがかうして心を癒して呉れて居ます。

 

 

非本質化と本質化としての概念の流れもまた相剋し且つ相即する関係にある為矢張りと云ふべきか其のどちらをも見詰めて行かねばなりません。

 

男性原理⇔女性原理

 

老人⇔若者

 

大學生ー利口ー⇔文盲ー馬鹿ー

 

などと言ふ概念規定も所詮は概念の流れのものなので相剋し且つ相即する関係にある為其のどちらをも見詰めて行かねばなりません。

 

 

まさに其れが詩人さんが得たところでの直観的な把握なのですか?

まあさうしたことです。

 

でも其れは釈迦による眞理規定とは異なって居たのです。

 

釈迦は二重否定により対概念を滅して行きますがわたくしの直観はさうして対概念を滅し切れませんでした。

 

 

なる程、貴方の気付きー悟りーはだからこそ声聞、縁覚止まりなのだね。

さうなんです、要するに佛陀にはとてもなり切れぬと云ふことだけを其処に悟ったやうなものです。

 

でも其れこそ浄土眞宗が言ってることこそがアナタの考へにも何だか似て居るやうですが。

其処を勝手に決め付けなひで頂きたひ!

 

 

第一常に禅をやってるとかうして言ひ放しつつまんま浄土眞宗ではまるで恰好が付きません。

 

ま、エエではなひですか、其処は所詮は大乗の佛教なので何でも🐜じゃあーりませんか、いやありじゃありませぬか。

 

でも其れじゃ酷ひ非本質主義ですよ。

 

いや、違った。

 

さうか、佛法とは其の本質と非本質との相剋し且つ相即する関係にこそあったのだ!

 

いやあ、おめでたう御座ります、またもや重要なお気付きがあったやうで。

 

其れもまあタダの言葉遊びでのことですがね。

 

 

其れにつけても浄土眞宗への汝の接近度はもはや消し難ひことだらう!

 

さうして決め付けるな!

嗚呼極楽浄土と地獄へ同時に行くのは金輪際イヤだは。

 

いや、待てよ、極楽浄土と地獄、地獄と極楽?

さう言へばそんなのを前に書ひても居たな。

 

 

じゃ、早速今夜読んでみやうか。

 

さうして今夜はじぶんの作品の読者になるのか?

 

さうだよ、何故ならわたくしの場合はかって書ひたものの其のほとんど全てを忘れて仕舞ふのだよ。

 

エッ?まるで記憶して居なひの、ほんたうのはんたうにさうなの?

 

ほんたうにさうだよ。

 

 

 

サアサ愉しみだなあ、面白ひのかなあ。

 

かうしてコロナ禍の丁度一年程前にヤフーブログにて書ひたものです。

 

 

地獄と極楽ー2019-02-01
地獄と極楽ー般若(大乗)の智慧ー2019-02-03

地獄と極楽ー直観による無分別智の構築ー2019-02-04

地獄と極楽ー社会(内面)の地獄から逃れる法ー2019-02-09

地獄と極楽ー無常と云ふ地獄ー2019-02-11

 

 

全部を読みなかなか面白かったのですが仮名遣ひとか言ひ回しのところで違和感があったのでとりあへず修正して置きました。

 

此の作品「地獄と極楽」の基本的なスタンスとしては法華経→原始佛教→法華経以外の大乗佛教と學んで参りましたわたくしの大乗佛法への返り咲きの歓びのやうなものを述べたものです。

一時期わたくしは禅宗以外の大乗佛法をほぼ否定して居ましたのです。

 

要するに其の不純性に我慢がならずまさに生臭ひ似非佛法のやうなもの其のものだとさう考へても居ました。

でも現實に様々なことを体験し此の世の中には理屈では割り切れぬまさにどうしやうも無ひ悲惨な世界が現實として拡がることにはたと気付きました。

 

そんな折にそんな理不尽でもって矛盾だらけの社会の様に対し慰めて呉れたのが大乗佛法でありキリスト教だったのです。

 

 

でも釈迦御自身による佛法は謂はば完璧です。

完璧である分此のまさにどーにもならぬやうな情けなひ世界の様にとってはハードルが高過ぎるのです。

 

で、今思へば何故コレを書ひたのか今ならば妙に合点がいく部分がまたある訳です。

其れも佛法に於けるわたくしの遍歴の総決算のやうなものとして如何にもヤバひ社会の状況に対し是非一石を投じて置きたかったのだらうと思ふ。

 

また實は此の頃から少しはアホも入り初めておりまして自分でもソコが嫌ひでは無ひ訳だ。

アホとは要するに遊びですので言ふなれば関西でのボケのやうなものでせうか。

 

何かと理論化が好きなわたくしは元々ガチガチの関東的人間なのやもしれませんがさうして實体験上でのどうしやうも無ひものを具に見たわたくしにはいつの間にかさうした秀吉主義のやうなものが混じって行ったのです。

 

 

信長+家康+秀吉。

 

嗚呼まさにコレぞ郷土の三英傑の揃ひ踏みだあ。

 

さてもコレの続編などは書けぬものですか?

 

こんなものは書かうと思へば幾らでも書けませうがさうは言っても実際にはなかなか時間的な余裕が無ひものだよ。