目覚めよ!

文明批判と心の探求と

佛法をより深く學ぶー壱 無(現世否定)から有(現世利益主義)への佛法上の大転換ー

ありましたー、尼僧!尼僧 10402

修道女!昭和レトロ シスター人形 ポーズ人形 修道女

 

まあ、なんて可愛ひのでせう。

どちらかと申せばシスター人形の方がより好みなのですがね。

 

マリヤ観音菩薩像?

確か家にも白磁観音菩薩像があった筈だが其れはマリヤ様とはまるで関係は無ひ筈だ。

 

 

尚、所謂偶像崇拝に就ひてですが、どうかカン違ひして頂きたく無ひのは釈迦の佛法では其の偶像崇拝が認められて居なかったと云ふ点です。

従って佛像を拝むか祈る、また佛壇に祈るか拝む行為は釈迦の佛法の形のものではありません。

 

ズバリ其れは後世での世俗化した佛教でのあり方であり習慣なのです。

また墓も世俗化した佛教でのあり方であり慣習なのです。#日本における墓制

 

 

墓は所有の概念と深く結び付くものでありむしろ其れは謗法ー“誹謗正法”ーであり尚且つ故人を偲ぶとのことですが其れは儒教など何か他の宗教の考へ方のことでせう。

つまり墓とは元々胡散臭くまさに佛陀の望まれるやうな儀式又は慣習なのではありません。

佛陀は大層思慮深く明晰な方で慣習的な感情論にて動かれるやうな方ではまるでなかった筈。

 

で、本来ならばお経を唱へることなどよりもじぶんでもって哲學し眞理を悟ることの方が重要な訳だ。

さうした考へさうして悟る力のある智者を、声聞縁覚ー独覚ーと申しますが皆様の場合ならばー此処をいつもご覧になって居る方々ならばーもしやお気付きになられることかと思はれる。

 

さうなんです、實はわたくしの場合其の独覚の要素を多分に持った人間なのです。ー所謂麟角喩独覚としてのー

つまるところじぶんでもって何かを分かって行って仕舞ふのであり、しかも其れが妄想や空想の類ではなくちゃんと眞理の一端を其処に攫むかのやうにさへ見へる。

「縁覚は寂静な孤独を好むために、説法教化をしないとされる」縁覚より

 

さうわたくしにとり大事なのは自己にとっての静寂でありまさに他人では無ひのであります。

正直他人など救ひやうが無ひとさう考へても居り従って基本的にわたくしは大乗佛教徒では無くもっと古ひ形での佛教徒と必然的になって仕舞ふ。

 

其れはさうなって仕舞って居るのでありそっちの方がより恰好良ひから其れをやらうとかさうしたことでは無ひのだ。

ちなみにわたくしがかって小悟したのは般若波羅蜜でした。

 

まさに其れを直観したのであります。

では其れを証明してみよと言はれるとまさに困るのではありますがとりあへずは以下をご参照下され。

 

 

 

般若心経講義-Ⅰ

般若心経講義‐Ⅱ

般若心経講義-Ⅲ

般若心経講義ーⅣ

 

 

うーむ、今読めば何やら真面目に書ひて居りますね。

第一当時は仕事の方も忙しかったのですから良くこんなものが書けたものです。

 

マリヤ観音だの尼僧フィギュアだのまさかそんなもんは出て来ては居りませぬ。

ま、でも言ってることの本質は今でもまるで同じことなのですけれども。

 

兎に角可成に哲學的な内容でもって御勉強が好きな方々への御勧めの作品です。

此処の読者であればもう此の位のことは屁の河童だ。

 

いや河童の屁だ。

河童の屁とはそも何だ?

 

河童が屁をたれたと云ふ只さう云ふことよ。

ところで今の適度に壊れた書き方よりもずっとモノが良ひとさう思はれませんか?

 

と云ふことはどうもヤッパリ壊れちゃったのかな、つひに。

 

いやー、兎に角今よりも短ひ作品群ですが佛法に於けるエッセンスだけが語られて居り全く素晴らしひですね。

個人的に読者になっちゃひましたー。ー其れもじぶんの作品の読者になる馬鹿となった訳だー

 

 

 

生の始めに暗く死の終りに冥し

 

「即ち佛はキリストで、また神こそは佛。」


いーやー、凄ひな、まさに散文詩のやうなものなのだらうか、何処か藝術的な香りさへもがして居りますね。

 

つまりこちらはより詩的なもので、自分で言ふのも何ですが心理的にもとても純粋な作品です。

かう云ふのがまさに詩人としての佛法解釈なのだらう。

 

「猫は犬で、


莫迦は利口。」




馬鹿が利口なのはままあり得るにせよまた🐈が何で🐕なのでせう?
 

だがやっぱり宗教のことは此れ位は真面目に書くべきなんでせう。

 

でもね兎に角わたくしはかうした風に眞理の方へ引き寄せられて行く力か又は性質が元々あるのです。

こんな風に宗教詩のやうなものを多く書けば稀なる宗教詩人として世に名をのこせたのやもしれぬ。

 

だが腐ったやうな社会批判ばかりして来ましたので何だか折角の感度もまた鈍ったのやもしれぬ。

「縁覚は寂静な孤独を好む」

でも孤独に徹すればまた感覚も戻りませう。

 

 

故にかつまらぬ社会性の部分に縛られて居たくは無ひ。

其の社会性の部分に表現する力を其れも詩の言葉でもって表現する機会を奪はれて仕舞ふ。

 

尚、人間は目覚めれば目覚める程に其の価値観の持ち方が異なって参ります。

何に対してかと云ふに釈迦やキリストの価値観即ち煩悩と罪に対する潔癖性が増して参ります。

 

此のブログ『目覚めよ!』は其の価値観の違ひの部分を出来得れば描ひてみたかったものでした。

其れも創作的に釈迦やキリストの価値観と凡人の価値観との違ひを描くだけでは無くわたくし自身が持つ聖性への指向のやうなものと其処に培はれるだらう「凡」とは異なる価値の様を描くことこそが其の目的でした。

 

 

わたくしは所謂「凡」ではあり得ぬが故に生まれてから以降多くを苦しんで来ざるを得なかった。

何故なら皆様にとっては性にせよ生にせよもっと単純なものの筈です。

 

いや、あくまで其れをバカにするか又は下に見るのでは無く何故さうして普通に心のバカではあり得ぬのか、其れは自我による理窟解釈が強過ぎるからなのだらうか?

其れとも何かの使命を与へられて居るのだらうか?

 

ひょっとすると何かを語らねばならぬ立場にあったのやもしれぬ。

なので其れがまさに邪教の教祖様のことなのですが、勿論其れを其の侭に言へば只の妄想的教祖様の独り言となるが故にかうして文學化しておる訳です。

 

さうして文學者の価値観も往往にしてまた一般とは異なって参ります。

文學は其の差を詰める為のものでは無くむしろ其の差を世に提示する形で示さねばならぬもののことでせう。

 

 

 

其の声聞、縁覚の心的領域が元々此の世にはあるものです。

佛陀が悟りを拓くことと同じやうにそちらの方へ向かって仕舞ふ、其れもどうしても向かって仕舞ふタイプの人間は確かに居るものです。

 

わたくしの場合には元々さうした傾向があったところへ佛教への學びの機会が与へられたのですからさうして小悟するところにまでは至ったことでしょう。

ところが世の教祖様の方々のやうに「悟った」か又は「目覚めた」などとはまるで思っては居なひ。

 

むしろ「悟れぬ」か又は「目覚められぬ」と云ふことをこそ「悟った」か又は「目覚めた」訳だ。

つまるところ「悟れぬ」か又は「目覚められぬ」と云ふことをこそ「悟った」か又は「目覚めた」形でもって人間に絶望して居るのだとも申せませう。

 

無論のこと其れは自分に絶望して居ると云ふことなのでもまたある。

ところがまさに其の精神的状況こそが文學としての一つの領域なのです。

 

むしろかように宗教と文學が相剋且つ相即する形でもってして常にグダグダとやって居ること自体が此の根源的な人間としての「苦」を放逐する為のわたくし流の方策なのではある。

 

 

 

そもさん:ブッダは偶像崇拝を禁じたり、所有の制限を説かれていたと思うのですが…

 

元より佛陀は人間の所有を最小限に設定され偶像崇拝も認められて居なひと云ふか無意味なことだとさう考へて居られました。

初期の佛教は左様に厳しひもので大乗各宗派のやうに「何でもあり」の宗教では無ひのであります。

日本での大乗としての佛教観の一番の問題点は其れが佛教宗派として何処に思想的根拠を置ひたものであるかと云ふことがまるで分からなくなることです。

 

第一本職の御坊様でさへ分からなくなりがちなのですから日頃佛教とは疎遠な一般の方々には余計に訳が分からず其の分からぬ侭での「何でもあり」の状態となりがちなのです。

 

で、まさに其れは絶望的な状況でもまたある訳ですが先に述べたが如くにわたくしは佛教と元々縁がある上でやってることですのでむしろ愉しみつつやってる訳です。

要するに好きなことですのでお寺へ行くこともまた佛教の教義を研究したりすることもまた愉しくやれる訳だ。

 

 

逆に飲み屋やらキャバクラへ誘はれることこそが苦痛なのですね。

要するに生に対する価値観が違ふのですね。

 

また家庭生活などにも本質的に興味は無ひ。

其処は逆にイエス様の方により近ひのやもしれぬのだが。

 

で、以上のやうに「本質」面を強調されむしろ大乗佛教の方がほんたうの佛教の教へなのだと言はれる大乗宗派の御坊様がほとんどなのです。

 

が、わたくしは其れには疑問を抱かざるを得ぬ。

其れも宗教的な意味での全否定では無くあくまで文學的にさう思ふと云ふことなのだが。

 

何故なら大衆に「本質」を諭すのは、其れも現代の大衆に佛教の本質を語るのはほとんど無意味なことなのです。

と、縁覚っぽい壱佛教徒であるわたくしはさうして常に否定的に物事を捉へていきます。

 

其れでは悟れぬ、まさに悪ひ考へ方だ。

さう大乗の眞理からは申されませうがわたくし自身はまるでお構ひなし。

要するに其処にはキリスト教的な悲観論もまた混入して居りますが故に。

 

 

で、ズバリ申せば偶像崇拝もまた墓も訳の分からぬ慣習及び儀式であるに過ぎず釈迦の佛法からはまるで必要の無ひものです。

だが其れは外面的な形であり本質はさうでは無ひと大乗の僧侶の方々はおそらくさう仰ることでせう。

 

ですが、大衆の心はまさに其の外面的なものにつき従ひさらに申せば其の外面的なものでもって崩れても行くのです。

またズバリ申せば偶像崇拝もまた墓も大乗各派の飯のタネ、つまりは現世利益としての食ひ扶持其のもののことだ。

さうして坊主の妻子を養ひ大乗佛法と云ふ日本独自の伝統宗教を継続させる為の方便其のもののことだ。

 

 

だがアンタは以前にお寺や教会にお布施又は寄付せよとさう申して居たのではなかったか?

申しましたよ。

 

でも程と云ふものがまた御座りませう。

本質が分かって居れば其れで良ひと云ふ其の論理にこそ問題があるのではなからうかと縁覚っぽい壱文學佛教徒がさう述べて居るばかりで御座ります。

 

つまるところ日本の大乗各派は余りにも現世利益主義に偏り過ぎて居る。

だが佛法は本来ならば現世利益には悉く背を向けて歩むものだ。

何故なら釈尊御自身の思想がまるで其の現世利益主義では無かった故になのだ。

 

其の点ではキリスト教に於ける非現世利益主義とまるで同じ次元でのものなのだ。

かのイエス・キリストが潔癖な精神性をお持ちになられたことと同じくして釈尊御自身にも其の潔癖な精神性がおありだったことだらう。

 

其の点で日本の大乗各宗派は潔癖な精神性を欠ひて居ると申しても過言では無ひことだらう。

 

 

が、現象としての事象又は論理には必ずや二面が存する。

即ち潔癖な精神性を欠くが故に其れがニセモノなのだとは決して申されぬものなのだ。

 

事象又は論理にはA⇔B⇔Cで故にA⇔Cのやうな関係が常に成り立ち實はAもBもCも単独として否定することが出来ぬ。

 

たとへばキリスト教と佛教、其れにイスラム教を其処に当て嵌めることが出来やう。

原始佛教と大乗佛教、ジャイナ教又はヒンズー教と云ふやうにしても良ひ訳だ。

 

さらに右派と左派、其れにリベラル派などを其処に当て嵌めることも出来やう。

また概念的規定としての本質主義相対主義、さらに虚無主義などを其処に当て嵌めることさへもが出来やう。

 

其のやうな複合的相剋、複合的相即関係が常に此の世界を覆ひ常に個と云ふ幻想の意識に対し「関はる=繋がる」と云ふアクションを強ひて居る。

故に縁覚的な智慧はむしろ其れを遮断することを常に望んで居る。

 

遮断するのがまさに本来的な意味での佛の方向での智慧なのだがキリスト教や大乗佛教では其れをむしろ「関はる=繋がる」のだと思ふ。

 

要するにわたくしは大乗佛法全体を他力救済化=一面ではキリスト教化=社会化されし佛法なのだとさう捉へる。

其処では非合理的にむしろ合理化されるのであるから、必然として其処に価値観が現世利益主義化しやう。

即ち釈迦の佛法の「無」から「有」への流れが其処に形成されやう。

 

其れも究極的には「無」の宗教から「有」の宗教へとの大転換が其処にて引き起こされた。ー有としての佛性主義への転換ー

 

尚、其の複合的相剋、複合的相即関係とは佛法で云ふ所謂縁起の理のことだ。

だが其の関係はまさにわたくしがいつの間にか直観したものなのであり佛法其れ自体から學んだものなのでは無ひ。

但し其の直観もまた學ぶことや逆に學ばぬこと=遊びの中からある時ふと掬し取るものなのだ。

 

かくしてわたくしはじぶんでもって考へ気付くことが出来る。

故に常に時間と静寂とが必要なのだ。

だが其のことを社会からは理解されぬのでかうして悩み且つ苦しんで来たことこそがまさに唯一のわたくしの此の世に於ける苦の様だった。

 

 

まず、最も重要な意味に「遺骨を埋葬する場」としての役割があげられます。そしてもうひとつは、故人を偲び、先祖を祀るという「祈りの場」でもあります。少子高齢化核家族化が急速に進み、従来どおりの墓の祭祀を家族が担い続けていける時代ではなくなった今の日本ですが、お墓とは自分やその家族、先祖が生きてきたことの物理的な証、シンボルといった役割もあるのです。
また、お墓は遺骨を埋葬する前に魂入れの儀式を行います。魂入れの儀式をすることでお墓には亡くなった人の魂が宿ります。そのお墓の前で手をあわせ、故人を偲び心の中で会話することで、残された人の心のよりどころともなるのです。お墓には、遺骨の埋葬場所としての役割だけでなく、残された人の生きる原動力としての意味も担っているのです。お墓はいらない?お墓を持つ意味と意義より

 

尚、大乗佛教各宗派ではことのほかお墓を重視します。

が、本来ならば釈迦の佛法では余り重視しません。

墓はー故人を偲び、先祖を祀るという「祈りの場」ーとのことですが、祈るものは本来ならば自己としての内宇宙に宿る佛のことでありー大乗的に言へば佛性ー其れも具体的に手を合はせる必要などは無く心の中にて其れに語りかけるだけで宜しひ。

故人を偲ぶのは元来釈迦の佛法では余り良ひことでは無ひのだがさりとて其処に先祖崇拝が禁止されて居ると云ふ訳でも無ひことだらう。

 

釈迦の佛法はとても理性的に組み上げられしもので基本的に死後の世界を重視するものでは無くむしろ生きて居るうちに心のあり方ー価値観ーを正して行くと云ふ性質のものです。

つまり死んで花實が咲くものでは無くあくまで生きた現象としての上で花實が咲く即ち本質として変化することが為し遂げられやう。

 

で、其の「祈りの場」として先祖を祀る墓とは儒教などまた別の宗教の慣習との習合である可能性が高ひ。

 

要するに日本の大乗佛教は釈迦による純粋な佛法とはまるで別物である儒教ヒンズー教其の他の中國の思想がごちゃごちゃに混ぜ合わされて居て訳の分からぬものにもなって御座る訳だ。

なので祈る対象がそも違ふ訳なのです。

 

 

では佛像に祈る、此のことなどは果たしてどうなのでせうか?

勿論本来ならば佛像には祈るべきでは無ひのです。

何故なら偶像を造るなと佛陀御自身がさう述べられても居たからなのだ。

 

佛陀御自身は佛像への祈りや崇拝はまるで✖でしかも佛舎利ーお釈迦様の御遺骨ーへの祈りや崇拝もまるで✖だと事實さう述べられても居りました。

ところが俗物しか居なひ世間ー佛弟子をも含めてーでは聖者聖人様とは逆の価値観を持って居るが故に兎に角偶像崇拝がとてもしたくなるんです。

 

たとへばSEXは本来の教へからは禁止だよとさう戒められますとむしろ淫らな世俗の者共は其れがやりたくてたまらなくなるものなんです。

だからみんながしたひことをしたひ訳なのでどうしてもさうなって仕舞ひますのです。

 

さうです、お釈迦様やイエス様の価値観其のものがそもそも其のみんながしたひことをむしろしたくは無ひのです。

 

では、佛像の入って居なひ御本尊だの何だのに向かひ手を合はせ祈ったり読経することなどは大丈夫なのでしょうか?

勿論本来ならば其れも所詮は謗法なのですぞ。

 

なんだけれども、兎に角もう長い時の流れのうちにさう組上がって仕舞ってもおる訳だ。

なので宗教上の儀礼や慣習をイチイチ否定は出来ぬとさう解釈しておくべきことなのでせう。

 

 

つまり、世俗⇔佛陀⇔悪魔、世俗⇔悪魔、と云ふが如くに現象の根本因として二元が関係して居りますが故に単体での俗悪要素としての人間の営為を否定することなどかなはぬのです。

なる程、だからこそ馬鹿は利口なんですねえ。

 

また🐈は🐕なんですねえ。

また👩は👨で👨は👩なのですよ。

 

 

でも兎に角其の墓には余り拘らぬ方がむしろ宜しひのです。

 

もっと心のレヴェルが高くなると墓どころか仏壇もじぶんの遺骨も何もかも要らなくなるのです。

佛教の本質とはさうした現象其れ自体への徹底的な放棄=不執着の心理的立場=である価値観其れ自体なのです。

 

で、問題はさうして心のレヴェルが高ひと言ってるわたくし自身が何故大日如来像に手を合はせに行くのかと云ふことですね。

ま、其れは要するに趣味として愉しんで居るだけのことなのですね、尤も其処は實に不謹慎な言ひ方なのでは御座りますが。

 

 

大乗佛法による其の「本質」主義によれば色んな価値が相対化され「何でもあり」となりませうから釈迦の佛法としての「本質」面が逆にグズグズにされて仕舞ふのですがある意味では確かに「拘らぬ」ことへの良き修行の場を其処に提示して頂ひて居るのやもしれませぬ。

第一其のイエス様の価値観の方でももうバラバラに其の後色んな教への方へと分れて仕舞ひもう何が何だか分からぬと云ふのが正直な感想なのでは御座りますまひか。

 

結果的に本日わたくしが何を述べたのかと申しますと、此の世の事象とは諸要素が相剋し尚且つ相即するが故に単一の価値観でもって論理的に規定することは不可能だとさう述べたばかりでのことで御座ります。

故に實は佛法と聖書などもまたさうした関係にこそ多分御座りませう。

 

 

でもキリスト教では墓はまた大事なものでせう?

だって土葬にて墓に入り其れが死後の審判を経て天国へ行くかどうか決められて行くのでせう?

 

でもまあ其れもあくまでも霊的な段階での話なのでせう?

あとひとつだけ述べて置きますと其の魂として墓の中に宿ると云ふリンクのところでの思想乃至概念は可成に危なひものを孕んで居りますね。

 

其れも釈迦の佛法的にはかなりに危なひ、或は謗法かもしれぬなと云った意味での大問題でせう。

ヘッ?そんなもん当たり前のことじゃなひでせうか。

でも形而上学上の問題を不問にした釈迦の思想からは魂の継続を確定的に捉へられはせぬ。

 

だから何度も申しておるが如くに縁覚ー独覚ー的な感覚の持ち主にはあくまで其れが大問題なのですよ。

また非常に初歩的な問題なのですが、人間は死んだだけでは佛=佛陀には決してなれません。

 

 

じゃ何になるんですか?

だから其処は信じて居るものに応じおそらく何かになるんでせう。

 

ズバリ死んだおまへは一体何になるのだ?

わたくしの場合はたとへ死んでも死なん。

 

此れだけ迷ひが深ひと幽霊化して何処へでも出没しやう。

だから墓なんぞ金輪際要らねえんだよ。

 

人間は金輪際成佛など出来ぬとさう仰るので?

どだひ大乗佛法では声聞、縁覚は成佛など金輪際出来ぬ訳だし。

 

法華経を學んで居た頃にさう學んだものだった。

だが声聞、縁覚にはむしろ気付きの力が何よりあるのだ。

 

目覚めて仕舞ふ力が常にあるのだが其の力故にむしろ成佛=成道=佛陀化其のものなど出来やせぬ。

つまり大乗佛法と其れ以前での佛法とは常に相剋し尚且つ相即して居やう。

 

即ち大乗佛法⇔小乗佛法ー上座部ー⇔原始佛法であり大乗佛法⇔原始佛法なのだ。