目覚めよ!

文明批判と心の探求と

般若心経講義-Ⅰ


それでは、本日よりかの般若心経につきお勉強していくことと致してみます。

Wikipedia-般若心経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C


ただしご注意下さい。

ここにもありますように、般若心経とはあくまで大乗経典のひとつとして成立したものです。

「西暦2~3世紀にイ ンド龍樹般若経 典の注釈書である『大智度論』を著したとされ、般若心経もこの頃に成立したものと推定する説がある。」とここにもありますように、一番古く成立したとされて居る説に拠っても釈迦の入滅後大変な時間が経過してからのものです。即ち般若心経とは釈迦の直接の教えでは全然ないものです。

元々大乗仏典のほとんど全てが釈迦の教えとは無関係のものが多いということです。

然し釈迦の教えの内容のエッセンスを伝えるものではないと一概に否定出来るものでもありません。

元より釈迦の説法の厳密な解釈ではないが仏教としての望ましい哲学的内容は踏まえたものであると考えて良いものなのかもしれない。



般若心経 (三蔵法師玄奘訳)‐故花山勝友氏による訳
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm


ここではまず、観音菩薩様が知恵の完成の為の実践に於いて全ての苦しみを取り除かれたとそう書かれて居ます。

観音菩薩というのは、要するに仏でも神でもなく当時の民間信仰、または他宗教の神などから影響を受け大乗仏教がつくり出した救済者のことです。

菩薩とは悟りを求め修行中の者で仏と凡夫ー我々ーとの中間者的な存在のことを云います。


然し其の両性具有的な性格は多分に慈悲、慈愛の化身といった側面を持ちまるでキリスト教に於けるマリア信仰の如くに大衆化された要素が多分に見て取れるものです。

ですから其れは多分に習俗的信仰の要素を含んで居り釈迦自身の説いた理性的かつ理論的な仏教教理とは相容れないものであるようにも感ぜられる。


然し釈迦入滅後から2700年も経過した現在ではこの観音菩薩への信仰を一概に否定する訳にもいかない訳です。

たとえ不純なものではあっても愛すべきものではあるといった論理がこの感情生物である人間の心理には古より存して居るが故に。


全ての苦しみを取り除くということは、一見不可能なことのように見受けられますが仏教の基本は観念的転換、即ち考え方のチェンジで全てが変わると いった部分でもありますのでおそらく其れは可能なことでしょう。

其れでとりあえずは此の世界の、または此の人間の体と心の要素が全て仮または虚のものであることを見抜かれ其れらが本質的なものではないと観音様が断ぜられた訳です。

故に人間というものには本質などどこにもない、其れはまさに実体ではない何かだということになるのであります。


そう、人間とは実体ではないのです。

其れが仏教に於ける基本的な人間乃至は生命の基本的な捉え方です。




そうは云われても、我々凡人には常に自分が真実に今此処に存在して居るという感覚がありましょうがそもそも其の感覚上生じる錯覚こそが誤りであると仏教は説くのです。

ですので本来ならこの部分をこそ仏教徒はまず学んでおかなくてはなりません。

ここで心理的に百八十度考え方を変えて仕舞わなければならないのです。


何故なら此の世そのもの、貴方そのもの、わたくしそのものが実体ではない即ち実在のものではないのですから実在していない我に拘る必要などどこにもない。

日本の常識的な大乗仏教徒の多くはまず此の部分に躓いて仕舞うことでしょう。


日本の仏教には禅宗を除き哲学的要素が少ないですから仏教徒とはいえこうした思考がなかなか理解し難いことでしょう。

然し釈尊はまさに可成の観念的飛躍でもってしてお悟りになられて居ることを我々は忘れてはならない。




そして舎利子に向かい、 (形あるものは実体がないことと同じことであり、) (実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。) (したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、)(実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。) と述べられたとのことです。


尚ここの部分はわたくしの考えた存在論ー昨年ことあるごとにこちらにて披露させて頂きましたーとほとんど同一の考えです。

ただし私はあくまで大乗仏典のひとつである般若心経には余り興味が無く、とは言え読経したことはこれまで何度もありましたが其の意味するところを真剣に調べてみた訳ではなかった。


私の場合はあくまで直観にて其の結論に至りました。

形態として現象化するということが存在の定義かと思われますが、其の現象化とは存在化を迫られて居るものの何らかの瑕疵性により一時的乃至は限定的に行われるものである。

従って形態として現象化する必要のないものもまた在り其れは限定を離れし世界にて実体的に作用する永遠性を帯びしものである筈だ。


故に形態として現象化するものとはむしろ実体としてあり得ないものなのであり逆に形態として現象化しないものの方こそが実体性を獲得して居るのである。


其のことはそして心的領域での働きにも其の儘にあてはまることとなる。

故に心的現在とは限定であり限定こそが概念としての思考である。


思考するものは自由なのでもなく永遠なのでもなくむしろ限定されているが故の不自由でかつ刹那での現象である。

思考即ち観念そのものがそうした限定性を付与されし現在即ち瞬間なのである。


従って概念或は観念には限定的瞬間の連続しかなく其れは不連続の連続といった言葉の世界でのみ記載されることとなる。

思考は其の様にマイナスの何かとして与えられて居るものであり本質的にはむしろ生じない方がより良いことだろう類のものだ。


現象するものも基本的に瑕疵性という責を負う限定的かつ負債的存在である。

概念化されしものも基本的に瑕疵性という責を負う限定的かつ負債的存在である。


故に人間存在の存在論的な意味はまさに負のものとなろう筈。


其の本質を言い当てて居るのは仏教ー無明性によりーとキリスト教ー原罪性によりーのみなのである。

或は過去の宗教にはそうした生への負の要素を認める宗教が幾つか発生して居たのであったが其れも時の経過と共に自然消滅していくこととなった。



この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がないのであるから、(もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、)(よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、)(増えることもなく、減ることもないのである。)

ということにならざるを得ない。
要するに確定的に捉えられる世界ではない。
其れが確定的に思われて仕舞うのは、我々生命ー人間だけではなく動植物も其れに含まれるが人間が一番タチが悪いーが変なところに拘って現実をみて仕舞う癖があるからなのである。
高い境地ー高い精神性ーにある者には現世がどう見ても幻のように見えて仕方が無いのであるが、低い精神性の部分に住する者には其れが絶対的に確定的な世界であるかのように感じられてならないのである。
尚此のことは知識量や知能指数といった尺度には本質的に無関係なので其処は是非注意しておくべきである。
非常に利口だと思われる人でも実は低い精神性の部分に住する者であることも多く、其の逆にまさにバカなんじゃないかと思われる人でも直観的に其れを分かって居る場合があるので其れは文明がつくった頭の良さの尺度でははかれないものなのである。

実体が無いという此の現象世界での出来事は、其の全てが夢幻の如くに儚いものなのである。
其の儚さこそが此の現在と現在の連なる過去及び未来の本質である。
だから其の本質に沿って精神の網を張り巡らせて居る人には此の世の全てが幻のようにしか見えないのである。
然しご安心めされよ、其処まで精神性が高いかまたは鋭くなって居る人など滅多に居るものではないのだから。

(感覚も念想も意志も知識もないし、)(さらに、悟りに対する無知もないし、)(ついには老と死もなく)(老と死がなくなることもないことになる。)(苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。)(知ることもなければ、得ることもない。)(かくて、得ることもないのだから、)(悟りを求めている者は、)(知恵の完成に住する。)

此処は世ー現象としての世界ーの実相につき述べられて居るのである。
然しながら、現実の我々には決してそうは見えて来ない。
何故なら我々は高める努力なくば心が低い所にとどまるように元々つくられて居るからなのだ。
精神を高い位置に保つことは我々凡夫には極めて難しいことなのである。ー其の高低とは先にも述べた如くに頭の良し悪しではない。むしろ勘の鋭さの方で、こればかりは努力というよりは生まれついての能力によるところが大きい。ー
逆に精神が低い位置にあればある程、目の前の現象に深く捉われ、たとえば金銭への固執や権力欲、また食欲や物欲、性欲などが旺盛となる傾向がどちらかと云えばある。
精神性の高い人はそうしたことには振り回されず、と申しますかそもそうした低次元のことには元々興味が無い。

ともあれ、其のように我々は精神の錬磨無しに其れを高めていくことなど出来やしないのである。
其れは丁度人間の子供が躾という教育でようやく人間となっていくことと同じことだ。
逆に言えば教育を受けて居ない子供は人間にはなれないのであるからして、其の教育こそが人をして人ならしめている大事な何かなのである。
其れと同じ様に錬磨されて居ない精神性は兎に角低いところにとどまるばかりなのである。
特にここ日本では戦後民主主義の教育で「精神」ということが全部悪いことと捉えられたので精神の錬磨がまるでなって居らず、其れで一部の男子高校生は親や祖父母をつい殺して仕舞うわ、また一部の女子高校生は援助交際などと称してまさにおぞましき大淫婦と化して居るわで、これはもう何とも言いようの無いひどい精神性の部分を生きて居るのだと申すほか御座らぬ。
精神を高く掲げ常に清く正しく美しく生くべし。
是が現代の日本人に必要な精神論であり日本人の精神の病気を治す薬または医者のありかなのである。