認識上の革命家であるイエス様の認識ー社會的にはどう見ても變なクリストの認識ー
さて所謂宗教的な認識のことをまず壱般人はまるで認識出來ずに居る。
其れはナゼかと言えばつまりは心がソコには無いからだ。
では壱般人のココロはそもドコに有るのか?
まあソコにしか無い。
要するにソレは藝術的自我や宗教的自我とは遠く隔てられた日常の中にこそ有る。
要するにソレは日日食うモノや着るモノ、また住むところに不自由せずさらに妻や孫や子が安泰であればもうソレだけで良い。
ところがであるからこそソレは間違って居ます。
と御釈迦様やクリスト様がさう仰る。
ボクは彼等の使徒となりソノコトヲバ伝える壱詩人である。
さう詩人はさうして日日「聖なる言葉」を翻訳しニンゲンのみんなに伝える役目を負う。
もうほとんどソレが「苦」ソノモノでありほんたうはすぐにでも宇宙へと逃げて行きたいのだけれど地の神や自然の精霊がその心の向きを勝手に變えて仕舞いつまりはココに彼の心を縛り付けドコへも逃げられなくして御座る。
では早速にあえて「聖なる言葉」を伝えさせて頂くとするか。
ならばまずは儀式を行わねばなるまい。
月桂樹の葉を弐枚用意し其れにライターでもって火を点ける。
すると「パチパチ」とソレがよーく燃える。
ソノ後に如何にも🗾離れした芳香が漂う。
うーん、コレぞアノ古代マケドニアの香りぞ。
しかも今使うのが中華産の懐中時計でソレをあえて辿れば秦の始皇帝の時代へと遡る。
アナタはもしや机上でそんな古代の世界史の再現をして居るのですか?
さうです、まずはソノ「世界史」をしかと復習して置く必要がある。
「🗾史」などよりもまずは「世界史」をやらう。
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こちらは兎に角面白く且つ勉強になるTVドラマとなる。
何せ中國が國家事業として制作した番組だから頗る質が高い。
まだ半分位しか視られて居らずよって普通の🗾人はまずソノ全てを視られないことかと思われる。ーさう全話を視聴することが兎に角大變な作業となるが故にー
だが中華文明をソノ根本より理解するには恰好の教材となるドラマである。
個人的に🗾人は東亜細亜人としてコノ種の番組を是非視て置かねばならぬものとさう考える。
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ソノ秦の始皇帝に負けず劣らずのかのアレキサンドロス大王のことなどもまたこちらより御勉強することが可能だ。
所謂「世界史」の教科書よりも細かく彼の生き様が記録されるので物凄く勉強になる。
されどソノ「世界制覇」を夢見た大王の生涯は意外と儚くしかも不幸なものであったやうに見受けられる。
つまるところ、
1.政治権力の空しさ
2.「世界制覇」の野望の空虚さ
3.👪主義ー民族主義ーの限界
とのことがまさにココより學ばれることとなる。
逆に申せばニンゲンの幸福は世俗的な願いの成就には無くむしろソレは精神の幸福のことであるとの壱つの教訓を紡ぎ出す物語としてかの英雄の生涯を語り得ることだらう。
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またこちらがまさにソノ「精神」の世界を描く物語となる。
さてクリストの認識程風變わりなものはまず無い。
また佛陀の認識程風變わりなものはまず無い。
だから基本的にコノ人類のココロに對する弐大巨頭の考えは壱般人に取りむしろ最も理解し難い価値観ソノモノとなる。
しかも怖ろしいことにどちらもまたさうなって居る。
なのでドチラがより理解がし易いかと云うことでも無くまず普通はドチラも理解出來ない。
要するにさうニンゲンの生きる上での願いの「逆方向」ばかりをまた好んで彼等は攻めるのでもうまるで彼等がウソでもコイてる位にしかみんなには思えない。
そんな認識の上での「逆方向」?
まるでアンタみたいだがそんなアンタはクリストの弟子でありまた佛陀の弟子なのか?
はいあくまで自称の弟子です。
でもってドチラからでもソノ認識を語ることは可能ですがあいにく佛陀御自身の伝記映画などが出て來ない。
ですがソレは東洋人として情けない限りです。
其れは上座部などの方でちゃんと映画を創り佛教徒の教化に使わないと正しくは佛陀の思想が伝わらない。
また🗾の大乗各派は宗祖重視、宗の教え重視ですので元元釈迦御自身の佛法には疎い面が有る。
だがそんなんでどうするのか?
どうせ毎年盆をやるなら佛陀の伝記映画位は是非創って置くべきだ。
ありゃ、さうか、ソノ盆そのものがむしろ佛法とはまるで違う土着的習俗のやうなものなのだな。
だからまずは頭に來ましたのです。
なのでクリストの弟子の方に變化し話を進めたい。
でもってソノクリスト御自身の認識ですが、
4.變態=神聖
5.非現世利益的
6.所謂デカい認識
とさう判断される。
「變態」的認識とは異常のことで異常こそが神聖さを孕む。
またソノ価値観は常に非現世利益的であり且つ脱👪主義ー民族主義ー的です。
また脱「世界制覇」的である。
ナゼナラクリスト御自身に野心が有れば「汝の敵を愛せ」とはまさか仰らなんだ筈です。
但し佛陀と違うのはクリストは酒も飲んだし👩を弟子にして居たとのことなのだ。
佛陀はもう少し潔癖の度が強く従って出家後には主に👩の価値観を貶して居られた程でした。
「汝の敵を愛せ」
クリストはかってかうニンゲンに出來ぬことをこそ述べられました。
だから力の有るエライニンゲン=英雄なども普通敵を愛すことは出來ぬ。
なのでまずはソレが「愛」のほんたうの意味なのだ。
「愛」とはさう世俗の次元での愛では無くつまりはより普遍化される「アガペー」としての愛の意となる。
ではソノ「アガペー」とはそも何でせう?
「アガペー」とはソレ即ち「神の愛」のことだ。
「神の愛」に気付く、即ちソノことがまずはクリスト教に於ける「信仰」の大前提となる。
ですが普通は我我ニンゲンが持ってる愛は皆ちっこく限定されて居る。
だから自分の血縁者に對し常に愛は有りますが道を歩く知らんジジイやババアは結局行き倒れ死んだにせよどうってこたあないのが普通である。
逆に言えば道を歩くジジイやババアが死んだ時にワザワザソノ葬式まで出す人の方がオカシイ訳です。
だがイエス様はさうではないとさう仰るのだ。
だから佛教徒のジジイやババアが死んだ時にもソレは「神の愛」の元に生きた結果なのでソノ生も死も愛さねばならない。
「汝の宗教的な敵をも愛せ」
ほらね、さうなるでせう。
だけれども、彼イエス様はまた物凄く冷たいのです。
つまり彼は母であるマリアや兄弟であるヤコブ (イエスの兄弟) - Wikipediaをまるで他人の如くに扱って居たりもした。
ではナゼさうなるのか?
結果として「神の認識」に近ずく者こそが本質的にニンゲンとして救われるであらう「神の眷属」たり得る。
でも佛教徒のジジイやババアが死んだ時にもソレを愛さねばならんのでせう?
いや愛すには愛すのですが何せ奴等は佛陀の弟子なので教會での供養はやれんでせう。(結果寺での供養しかやれぬ)
じゃあイスラーム教徒のジジイやババアが死んだ時にもソレを愛さねばならんのでせう?
いや愛すには愛すのですが何せ奴等はモハメッドの弟子なので教會での供養はやれんでせう。(結果モスクでの供養しかやれぬ)
では「神の愛」とはそも矛盾するものではないのか?
どだいクリスチャンは救済されクリスチャン以外は本質的に救済されぬのであればソレは「普遍の愛」などでは無くむしろ「特殊の愛」ぞ。
でも佛教にせよ釈尊御自身の佛法にて救われるのはボーサットゥ並みに認識を磨いたニンゲンのことでありソレ以下ですとほぼみんな地獄へ堕ちるのです。
エエッそもそんな勝手な佛法だったの?
いやだから完璧な教えなんてそもコノ世には有りはしません。
またつまりはそんな「特殊の愛」であり「特殊の救済」に就き語られるのがクリスト教であり佛法なのだから。
どだいクリスチャンは釈迦の認識からすれば「外道教の信者」と云うことにしかならん。
エエッじゃあクリスチャンはむしろ壱人も救われることはない?
うん、確かに無理だ、奴等は皆無間地獄へ堕ちる。
じゃあ十字架を首から下げつつさう無間地獄へ堕ちるので?
ああソノ通り、だが全能の神の手がソコへと伸びる。
うわっ、では釈迦は負けるのか?
いや最終的にドチラが勝つかは正直分からん。
だが観念的には釈迦が正しく現實的にはクリストが正しいやうにたった今自分は思って居る。
ですが結局はドチラも認識として正しい。
なので問題は世間の認識の方である。
ソノ世間の認識が常に間違い=✖なのこそが問題なのだ。
じゃあ👪主義を否定するに及ぶソノクリストの變な認識こそが正しいのだとも?
いやソノ👪主義を佛陀もまたかって否定した。
よって妻も子も捨てた上で佛陀は出家するに至る。
はあー、まさにソコは両方共變だわ。
いや變では無い。
「神」と「佛」に對しむしろ限り無く彼等は忠實である。
「變」なのはつまりは御前等壱般人の認識の方なのだ。
うわあー、また出たぞソノ宗教詩人の俗世間批判が。
宗教詩人は常に俗世間の価値認識をバカにし顧みない。
でもって常に周りの認識を見下して居る。
だから御前は良くスーパーなどでトラブルを引き起こす。
うんまあそんなこともたまにはあるけれど余りソレを気にすると宗教詩人の「聖なる認識」の方に曇りが生じるが故に是非放って置いて頂けませんか?
そんな妻も子も顧みずさらに妻も子も捨てて宗教をやるとはイイ度胸だ!
うんまあ確かに両方共頭がオカシイがソノ頭がオカシイ認識こそがまさに「聖なる認識」なのでソレもまた致し方なからう。
要するに、
「認識上の価値基準」
ソノモノが「聖なる認識」の場合には大きくズレて参ります。
何に對しズレるかと申せば主に世間の壱般常識に對し大きくズレるのだ。
さらに佛陀の価値認識などは負の領域へも大きくズレ込んで行くので余計に訳が分からなくもなる。
ソコはまだしも「全能の神」を信じればアナタは死後に救われますよーと述べるクリスト教の方が分かり易くもなる。
だから大乗佛教でみんなを救済せんが為にクリスト教化した「浄土教」なるものがかって出現せり。
また「密教」に於いてヒンズー教化が進み「梵我壱如」の思想が語られたりもまたするのである。
だがおそらく御釈迦様は宇宙壱潔癖な方であり多分さう云うのは認めず壱言で「外道」とされて仕舞うことだらう。
御釈迦様はナゼそんなに潔癖であらせられ👩遊びとかをしないのでせうか?
いや若い頃に父王に妾を澤山与えられたのですがソノ👩共の根性が惡いのでもうイヤになって仕舞った訳です。
兎に角ソノ👩共の根性が惡いので正妻の方も嫡子の方も全部捨てて仕舞われることになり申した。
思うにソノ👪主義では宗教的な意味での精神的な何かが欠けて仕舞うことだらう。
故に本物の宗教家ともなればむしろソレを否定した上で違う認識をあえて築いて行くこととなる。
でもって結局何を信じれば良いのですか?
だからむしろ「世間の常識」のやうなものを認識の核に据えればあくまで認識上は間違えます。
但し所謂世渡り(生きて行く上では)の上ではむしろ「世間の常識」を信じないと生きられない。
ですが「世間の常識」から所謂「地球温暖化」や「イデオロギー對立」=「戦争」や「ヒエラルキー問題」=「資本」による格差の問題などは解決さえ得ません。
と申すのも世間での価値観ソノモノがむしろ其れ等を前提とする上での繁榮であり進歩の世界観となって仕舞って居るからなのだ。
ですので其れ等を推進する価値ソノモノに對し否定的若しくは反抗的な価値観でないとソノ大問題の数数は解決し得ぬこととなる。
壱つには「革命」的価値がニンゲンの社會を直す価値として歴史上近代に登場したがココ🗾國のやうに何時迄経ってもどんな「革命」にも縁が無い國もまたある。ーそんな永遠の無革命國家ー
だからもはや後は宗教的価値のみです。
宗教は利己的で且つカルト的な新興宗教団體を避け是非伝統宗教の方を選べばまず間違いは無い。
たとえ外道のクリスト教であれまた浄土教や密教であれ大丈夫です。
大丈夫ではあるがなるべく釈迦自身の教えやまたクリスト自身の教えの方を向く方がより良いことでせう。
釈迦御自身の教えやまたクリスト御自身の教えはつまるところ「脱イデオロギー」であり且つ「脱ヒエラルキー」です。
だから其れ等は共に「立派な伽藍や教會を建てソノ中で威張る」教えなのでは無い。
要するに共に食うや食わずでもってビンボーだ。
またソノビンボー宗教家こそがホンモノです。
ー尤も沙門の教団には當時金持ちからの御布施が溢れて居たやうだ、元元釈迦御自身が超上流階級の出の方でつまりはビンボーでは無くむしろクリストの方が下層民でありよりビンボーでした。故にビンボー人に對してはクリスト教の方がむしろより優しい。ー
ーですが修行中の釈迦はまたクリスト以上にビンボーでしたのです。兎に角まともなものを食ってないのでガリガリに痩せこけもはや死ぬ寸前でしたがさう死んでも問題は解決しないと考えた釈迦はあえて生きる道を選び取りやがて瞑想により成道するに至る。ー
もしや自称宗教詩人様の教えの内容とはソノ「脱イデオロギー」であり且つ「脱ヒエラルキー」なのか?
さうです、ワタシが観念として皆様に示せる教えの内容こそがまさにソノ「脱イデオロギー」であり且つ「脱ヒエラルキー」です。
ところがよーく考えてみたところソレはすでに釈迦やクリストが此の世に對し示されて居たことでもありました。
教祖様!
是非ワタシを救って下され。
實は今日食うものも無いのです。
いやワタシの家にもまた食うモノは大して有りません。
どだい幾らさう「脱イデオロギー」であり且つ「脱ヒエラルキー」だとは言え現實にはまずは飯を食って何かを飲まないと頭が働かない。
だからむしろ「モノ」は大事なのですよ。
どだい自然界とは概ねまさにモノの相互作用のやうなものだ。
さう常に、
観念的拡張⇔具象的限定
をむしろ同時に行うのです。
ソレ即ち観念的次元バカリではむしろダメでモノをモノとして「愛す」やうにならなければソノ認識は捻じ曲がる。
ですが最終的に壱番ニンゲンの認識を捻じ曲げるのが、
さう世間知である👪主義であり権威権力志向であり進歩向上主義です。
でもソノ「進歩向上主義」を今やドコの学校でも教え込んで居ますのですが…。
だから現代文明は根本的に間違って居ます。
正しくはむしろ釈迦とクリストの認識である「脱イデオロギー」主義であり且つ「脱ヒエラルキー」主義をこそ是非民人に教え込む必要がある。
でもそんな「脱イデオロギー」主義であり且つ「脱ヒエラルキー」主義を子供に教え込むと君は逮捕されるよ。
ああさうか、ヤッパシボクは牢に入るんだ。
さうなんだ、實はソノ「脱イデオロギー」主義であり且つ「脱ヒエラルキー」主義こそが行き過ぎた革命思想でもってつまりは危険思想なのでさう社會科詩人は捕まるのだった。
でも彼はまだイイぞ。
あのクリストなんぞは自ら十字架を担いで処刑の丘へ行きまさにソコで磔刑だったのだぞ。
ソレと云うのも、
7.自分は救世主でありユダヤの王です
8.自分は神の子です
9.自分は最後の審判の日以降生き返ります
などとまたとんでもないことを吹聴し羅馬権力に危険視されついにはアノ世へ送られたのでした。
ソレも元元は田舎町の大工に過ぎぬ男がです。
しかも兄弟にもバカにされて居てつまりはまともな奴ではなかったのです。
もう今なら確實に精神病棟送りでせう。
あれでもなんだか境遇が良く似て居るぞ自分と。
まさか自分は御釈迦様のやうに上流階級の出なのでは無い。
だが「妄想」が強いとの壱点で我は正直言ってクリストのタイプではないか。
10.自分は教祖です
11.佛も神も共に信仰し得る
12.世間の認識を見下す
ほれ、ヤッパリ彼にソックリだ。
ピーポー、ピーポー。
ほれまたさうして精神病棟送りとなったりもする。
挙句に國家ソノモノを否定し御盆とクリスマスの区別などは無いとさう叫ぶに及ぶ!
うーん、出來得ればもう少し深くクリストの人格をこそ研究してみたいものだ。
そのうちに是非教會を訪れクリストはワタシと同じでキチ外教祖でしたか?とさうハッキリ聞いてみやう。
いやあしかしそんな頭の變な「愛の人」クリストの最後はまさに悲惨でせう。
ああだから僕は今十字架を胸に抱くのか。
ですが八月に入るとまたすぐに御寺モードに代わり寺巡りをする予定です。
ソノ御寺に御布施を持って行く時に流石に十字架アクセサリーを付けては居られません。
じゃあ涅槃佛のアクセサリーを作ったら如何ですか?
嗚呼さう言えば涅槃佛のちっこい奴をすでに求めて居たぞ。
やうしでは涅槃佛のちっこい首飾りを早う作るのだ。
さうかうしつつ夏の夜は更ける。
だが彼宗教詩人の周りに決して👻は出ず出るのは決まってこんな「聖なる認識」バカリとなる。