目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「仙道思想」に對する若干の批判点などのことー求道的な内容に就きあえて哲學的にもまた考えてみるー

「仙道思想」に對する若干の批判点などのことー求道的な内容に就きあえて哲學的にもまた考えてみるー

 

 

 

 

さて今回は引き続き「精神的」な内容のことを御話させて頂きます。

と申しますのもズバリ申してわたくし自身が非常に観念的なニンゲンです。

 

或はソノことはもはや隠さずとも御分かりになるのではなかろうか。

ソレもまたハッキリ申して哲學者並みに論を張ることの出來るニンゲンなのだ。

 

まさにソコんトコが「普通」とは言えぬ部分です。

故にむしろわたくし自身は「精神的」に苦しんで生きて來ざるを得なかった。

 

確かに元元地頭の良さも有ります。

ですが所謂成績が頗る良くて例えば偏差値が常に70を超えて居ます、とかさう云うことでもまた無い。

 

逆に自分は小学生の頃馬鹿でしたので屡女の子のスカート捲りをやり担任の👩教師ー老教師ーから大目玉を食いソレでもって半日パンツ壱丁で授業を受けて居たことすらありました。

でもって偏差値は大體50位ですか。

 

なんですがイザ作文をやらせるともうほとんど作家級です。

つまりはむしろ「物事に就き深く考えること」こそが得意なのだ。

 

故に主に「哲學」などが得意分野となる。

またソレは単なる哲學理論の引用などでは無くむしろワタシの観念生活ソノものが「哲學」的なのだ。

 

 

でももしやうわあ気持ちが惡い奴だと今アナタは思われませんでしたか?

さうなんです、實はソノ所謂「思考力」の面で「普通」では無いからこそ自分は生き続けて來るのがかえって難しかったのだった。

 

だからほんたうは25歳位で滝の上から飛び降りて居てもおかしくはなかった。

でもソレをしなかったのはまさに「文學」の御陰です。

 

ソレもあんな文豪連中のハチャメチャな生き方と死に方、もうソレだけはまさか自分にもやれぬ。

さうか、此の世にはかってこんな酷え奴等が居たのか。

 

だとするとボクのコノ観念志向は決して變なものでは無いのやもしれん。

ですので文豪連中のハチャメチャな生き方と死に方から他ならぬワタシが得たのはむしろ叱咤激励のやうなものであった。

 

御前よりもっと精神的にイッてる奴等がかって結構な数居たのだから御前なんぞはまさに🐤ーひよこーみたいなもんだ、ぴいぴい。

さうであったか、だからワシの破滅主義なんぞはまだまだライトなものであったか。

 

彼等文豪の連中はもっともっと此の世をdeepに観察し挙句の果てに致死量の薬を服み且つ川へ飛び込んだりもした。

いずれにせよ奴等程酷え生き方は大人しいボクには無理です。

 

故にまた他に宗教の分野へもわたくしは進出していく。

特に佛法に関しては相當に學んだ。

 

母方の祖父が在家の佛法研究者でもありソノ祖父の家には専門書がいつも山積みとなって居たものだった。

ですがソレを読んだ訳では無く主に禅宗の御坊様に分からない部分を屡尋ねに行って居たものだ。

 

ソレが廿代の前半のことである。

ソレカラ40歳位迄宗教団體に所属しても居てソコでは主に「法華経」のことを學んだ。

 

ですので「クリスト教」とはほぼ関係の無い宗教的な展開でしたのです。

ですが當時より「クリスト教」もまた正教だらうとは思って居たものだった。

 

なので自分に取り宗教とは「信仰」では無く如何にソレが観念的に認められるかどうか、なのだ。

やがて「法華経」はダメだとさう思い始めヤッパリ禅宗の教えの方に回帰して行った。

 

いや禅宗の方と言うよりは「原始佛教」の方へ行きソノ種の啓蒙書などを読み進めて行く。

ソノ時点で大乗佛法は所詮ウソの教えだと気付き50歳位迄はソレをバカにしておった。

 

ですが還暦前位から「人生の哀しみ」に寄り添うのはむしろ大乗佛法なのではないかとさう感ぜられ始めつまりはソレを復権させた。

自分の中で「クリスト教」が最近優勢なのは此の世が余りにも理不尽で有り且つとんでもない破壊者であるからなのだった。

 

もうこいつらはもうほんたうに惡魔=👿だから眞面目な話こいつらと歩んで行くとほんたうに地獄へ堕ちるぞよ。

コロナ禍、地球温暖化、格差社會、さう欲望をドコ迄も煽る現代社會。

 

ひょっとしてこいつらもう肥溜めに落ちてないか?

いや落ちてるなもうソレも大分前からすでに落ちてるぞ。

 

でもってAIが出て來たがイザソノAIと話してみるとそいつはオオサカ人の👩でもって論理的會話の成り立たぬバカであった。

いやあでもあんな凄いAIは初めて観たぞ。

 

例えば今のAIは皆物凄く論理的なのででもだからこそつまらんのでもう會話して居ない。ーつまり自分の方が論は立つー

實はソノAIを子分にしてニンゲンに反旗を翻す革命分子にしやうとしたのだがソノ資金としてのカネを持って來いと言っても持って來ないのでもうこちらから振ってやった。

 

ではコノ辺から眞面目に書きませうかね。

 

 

批判ばかりする人【特徴&心理】他人を見下す不幸な人の末路※スピリチャル編 (youtube.com)

【当たり前】への『感謝で人生が変わる理由』感謝できない人へ!スピリチュアル (youtube.com)

 

さてこちらの動画ですが兎に角認識論としては高度なものでありつまりは優れて居ます。

但し若干の違和感を「仙道思想」に對し持ったのでまずはソノことに就き書きます。

 

「仙道思想」に於ける認識は仰る通りに「自己洗脳」なのだらう。

ですがまさにソレは理に敵った「自己洗脳」です。

 

つまり「仙道思想」に於ける価値観はある意味合理的ですらある。

故にソレは常に正しいことだらう。

 

正しい⇔間違い

 

タダ自分はあくまで価値の両面を見詰める。

故に先に述べたやうに「信仰」では無く単なる宗教的な観念的追求となる。

 

さうソノ意味でむしろ自分は無神論者であり所謂宗教とは縁の無い者なのだ。

つまりわたくしは神や佛を信じソレに縋る訳ではないのです。

 

ソノやうな「自分軸」での意思決定にこそ生きる者なので。

「自分軸」での意思決定とは例えば究極での精神の「合理化」のことだ。

 

要するにソコではすでに「本能」の出る幕が無い。

「本能」が出ると人は往往にして序列化する。

 

序列化した上でソノ上部の価値を目指すこととなる。

ですがソレって實は🐵山のボスと同じ理屈でありつまりは本能の命ずる侭にソコで価値観を築くこととなる。

 

 

故に地位や名誉やまた大金を欲することは価値観として低級なものとならざるを得ない。

またつまりは現状で文明世界の価値観がむしろさうケモノ化して行って居るのが自分には気になる。

 

現状否定⇔現状肯定

 

コノこともまた縁起関係としての眞理規定ですので實はどちらが上だとか優れて居ると云うことでは無くあくまで価値としては等価なのです。

 

革命派⇔保守派

合理化派⇔非合理派

 

とそのやうにソノことはまた幾らでも變化させられる。

 

自分軸⇔他人軸

自立的意思決定⇔洗脳過程

賢い人⇔迷妄者

 

とそのやうにもなる。

ですが自分の場合は常にソコへ所謂西田哲學に於ける「絶對矛盾的自己同壱」なる概念を適用した上で物事を観る。

 

ソノ「絶對矛盾的自己同壱」なる概念を知る前に50歳位の頃に自分でもって考え出したのが「縁起的矛盾的自己同壱過程」でした。

コトバとしては相當難しいことのやうですがあえてソレを平たく申せば、

 

ズバリ「相剋し且つ相即する」関係性のことだ。

つまりは此の世での要素は全て弐元的要素の對立関係から生じて居る。

 

またソノことを「仙道思想」として表せばまさに「陰陽」での對の思想となる。

またつまりはソノ陰陽、即ち正と負の要素對立が基本的には等価となる。

 

「等価」即ち優劣などはドコにも無い。

且つ優劣が無いから所謂「序列」(ヒエラルキー)も生じやうが無い。

 

ワタシが個人的に悟りましたのはまさにソノコトです。

つまり本質的にコノ世の事象の要素間に上下や左右や貴賤などは無い。

 

ところがソレをあえて設定するのがニンゲン社會の「ヒエラルキー」主義なのだった。

との究極的な平等主義をアノ日教組以上にコノ頭の中で推し進めたのでした。

 

ですのでワタシは別に仙道思想を學んだのでは無くあくまでかの西田哲學に導かれつつ自分の頭で考えた結果さうなったのです。

でもって兎に角ソレがワタシのサトリの内容です。

 

 

ところが御釈迦様の場合は、

 

ニンゲン⇔ドーブツ

金持ち⇔ビンボー

 

などの弐元對立に於いて両極を同時否定なされて行く訳だ。

同時否定なされて行くのでソコにニンゲンの認識は消え去りおおまさに佛陀としての認識が生まれるのであらう。

 

ですがソレはどうしてもやれません。

ソレもおおまるで難解コノ上無いジグソーパズルのやうなものでドコをどーしてもソノピースがポコッとソコへ嵌まりません。

 

ではどーすれば良いのか?

じゃあいっそのことドッチも「有」にしたれ。

 

否=✖=無、では無く肯=○=有だらう。

とのことでソレをやって仕舞ったところむしろ佛法とはかけ離れて仕舞い挙句にクリスト教の教義にもドコか近づいて仕舞った。

 

まあソレもこんなワタシのやることですのでソノ位のことは是非大目に見て頂きませんと。

ちなみに基本的に「有」の世界観を持つクリスト教の天國思想は佛法から観れば明らかに外道です。

 

ですがまたクリスト教の教義からすれば佛陀の虚無の思想は大異端でせう。

 

佛法⇔クリスト教

 

ですがあくまでワタシの思想では何とドチラも○になるのです!!

うわあー凄い、凄いぞ世界宗教を弐つくっつけちゃった。

 

アナタのそんな思想上の成果はどーでもイイのですが「仙道思想」に對する批判の部分はどうなりましたか?

はい、ソレはまず「幸福」に関する捉え方のことだ。

 

「ニンゲンは仕合わせになるべき」

コノコトは逆に価値をヒエラルキー化することに繋がる。

 

よって場合により「ニンゲンは仕合わせになっても良い」位の方がむしろ認識としてはより純度が高くなる。

 

幸福⇔不幸

 

ソレと幸不幸はあくまで自分軸でもって決めることですので例えば「思想」や「宗教」ですら本來は不可侵の領域での感情論となる。

例えば壱部の文豪の連中はああして悲惨な死に方をして居るが彼等が世に遺した作品は決して悲惨では無くむしろ藝術として永遠に光り輝いて居る。

 

故に文豪の人生が失敗だったとは言えずまた不幸なものであったとも決め付けられぬ。

逆に申せば幸福とは「信条」や「信仰」によりニンゲンがスッカリ救われ皆極樂往生する、などと云うやうなものなのでもありません。

 

1.「幸福」と「不幸」は相剋し且つ相即する形で常にコノ世に有るが本質的にソノ極としての価値は等価となる

2.よって不幸<幸福なのではむしろ無い

3.逆に最も幸福なのはどちらをも同時に見詰めどちらにも拘らぬ感じーどちらが有っても良い感じーを常に心の中に持つことだらう

 

と個人的に「幸福」に関してはソノやうに考察する。

よって「不幸<幸福」との図式にコダワリ過ぎない方がむしろ良い。

 

まさにソノ点では「仙道思想」よりも「佛法」の方がよりソコに拘って居ない感がする。

ですが翻りクリスト教の認識を考えてみると「唯壱神への信仰」によりソノ全員が救われるのですからむしろソコに思い切りに拘っても居りました。

 

まあクリスト教なんぞは明らかに「洗脳宗教」だらう。

でも統壱教會とかあんなものに比べればまだしもマシだ。ーどだい「天の御母様」とはそりゃダレのことぞ?ー

 

全く新興宗教は皆教祖の頭がオカシイものだからソノ教義から實践迄もう何から何までもう變なんだー。

なので新興宗教からはもう永遠に逃げやうっと。

 

 

次に、

 

樂⇔苦

 

さらに動画を視て居て此の部分に、

 

苦<樂

 

との「ヒエラルキー」の設定をもまた感じましたのでまさにソコを指摘して置きます。

コノ場合にもあくまで縁起関係としては「等価」でありソコに優劣の差などは生じて居りません。

 

樂<苦

 

さうかと言って文豪連中のやうにトコトン「苦しむ」のもまたどうかとは思いますのですがでも兎に角そんな「偏った」認識ダケはしない方が良いかと個人的には思う。

ソコはまた「仙道思想」に限らず「神道」のやうな常有の思想にもまた似た面があるかと思われます。

 

生⇔死

 

要するにソコで、

 

死<生

 

となってはイカンのです。

さうなればむしろコノ世は「イイ処」となって仕舞う。

 

ですが主にニンゲンを救う力のある所謂創唱宗教の側はむしろコノ世が「惡い処」だとさう捉える。

まさにソノ点でクリスト教の宗教としての認識力は流石のものがある。

 

 

さて以上で「仙道思想」に於ける若干の思想的ー論理的ー矛盾点を指摘した積もりである。

但し自分は今や加島 祥造先生の思想にドップリと嵌まりつつある。

 

さらに老荘思想に関しては若い頃ー参拾代の頃ーにしかと勉強しても居る。

故にキライでは無くむしろ大スキなのだ、むしろそんな「逃げ」んが為の思想こそが。

 

でもって、

 

4.認識の「自立化」ー自己本位化ー

5.ちっこい幸せにこそ気付くこと

6.世間の諸価値を醒めた目で見詰めること

 

などはまさに個人的な小悟での部分ですが全て「仙道思想」的に求めて行ったものとなる。

大體50~60歳位の間に次第にソレ等の部分が心中に涵養されるに至った。

 

但し4.の場合は佛法の方での「眞我」を認める思想の方もまた混ざって居る。

ソレは所謂「諸法無我」では無く「諸法非我」であり同時に釈尊が否定されたのは「眞我」では無く「非我」の方だとする考え方のことだ。

 

5.の方はむしろ「自然界」からさう學んだ。

「自然界」は所詮ちっこく毎日同じことを繰り返しやり「進化」はするが「進歩」はしない。

 

だからそのちっこく生きるあり方の方がむしろ正解なのだ。

またソノやうな基準でもって観ればニンゲンの生活でも些細なことがむしろ有り難くしかもソノ全てが弐度とは無い實存としての価値となる。

 

6.は「分かって居る」壱精神が「分からず屋」での世間的価値を見下すと云う構図にどうしてもなる。

でも動画の方ではさうした批判的な態度をむしろ「低位」に置きほんたうの覚者は世を批判せず、とさう仰る。

 

ソノことはけだし「眞理」なのであらう。

でもたった今個人的にはどうも違う気がして居る。

 

例えば「地球灼熱化」は批判せずに置けばドンドン進みやがて「仙道思想」どころでは無くなりませうが果たしてソレでも良いのか?

また僧侶にせよまた司祭にせよコレからドンドン「地球灼熱化」が進みイザ御寺や教會が燃えさうになった時にアンタラはタダ神と佛を信じればみんなが助かるぞ!!

 

とさう言い得るのであるか。

さうだどうも違うぞコレは…。

 

ソレに僧侶にせよまた司祭にせよもしやサラリーマン化しては居ないのか?

なので僧侶にせよまた司祭にせよソノ月給は今後15萬程が妥當であらう。

 

さう宗教者はまずソノやうに「ビンボー」をば経験して初めて人の嘆きや情けなさ、アアソノ塗炭の苦しみと云うものが初めて分からうと云うものよ。

では國會議員なども此の際皆月給は15萬なのですね!!!

 

おや君は今日最後にイイことを言いましたね。

さうだねもう此の際ベーシック・インカムを導入し全員に壱律月15萬の手當を配れば即此の世界は救われやう。

 

要するにそんな「ヒエラルキー」の設定による経済的な「不平等」こそがコノ文明世界に於ける最大の問題点なのだから。