クリスト教に於いて「罪」の概念は弐元分離するか?ークリスト教に於ける内面的な意味での罪との闘いと外面的な意味での罪との闘いに就いてー
映画『メガロポリス』フランシス・フォード・コッポラ監督の演出が垣間見える本編映像公開
こちらは是非観たいSF大作映画ですがニュ―ヨークがニュー羅馬とされまさに風刺的に描かれて居るやうだ。
ちなみにSF映画には凄い作品が稀に有ります。
凄い作品とは時を置いて何度でも視たくなる映画のことでせう。
ひょっとすればコノ作品などがまさにそんな映画であるのかもしれません。
確かにさう全能の神へと御捧げ致しました。
されば早速ながら本日は「罪」ソレ自體のことに就きゼヒにも考えてみたい。
ソノ「罪」なるものがニンゲン界か又はニンゲンに深く兆すものであるが故にニンゲンはソノ侭では救われぬとさうクリスト教は説く。
またソノ「罪」なるものは完全に等しい訳では無いにせよかの佛陀が述べた「煩悩」なる概念にほぼ等しくもならう。
キリスト教における罪とは何か? 25 罪は思考から始まり、それが成長し行動へと成熟していく。そして欲望へとつながり、罪を生み出す。
そも思考がさう欲を生み且つ罪を生むのである。
ならばニンゲンはむしろ🐵にでも戻るべきなのか?
いいえですがどうしても🐵には戻れない。
だってかうアタマが良くなり余計に罪深くなっちまったんだ。
おい🐵!おめえなんぞは所詮ワシのドレイだわ。
だからまずはソノ支配欲こそがイケません。
眞の意味で「理性的」であることとはむしろソノ諄い社會的欲望にこそ打ち克つことだらう。
社會的欲望と個體的生理欲求のカタマリのやうなものがソレ即ち「罪」であり「煩悩」とのことなのではないか。
するとソノやうにもしや「罪」か又は「煩悩」も弐元的に分かれるとのことで?
おそらくはさうならう。
そも現象界はさう弐元的對立若しくは弐元的闘争の世界とならう。
故に結果としてソノ對立的闘争により破壊が引き起こされ世界は壊れて行く。
さう捉えるであらう救済宗教の側はソノ「破壊」をば何とか食い止めやうとする。
ココで「神」なるものがまた分かりにくいことかと思われますが「神」とはまず「罪」を知ることでありソノ「罪の過程としてのニンゲンの生」を何とか軌道修正せんとするココロの働き=善なるココロの動き、のことなのではないだらうか。
ですがソノ「罪」なる概念がイザ「煩悩」に置き換われば即「佛」がソコに出現しソノ「煩悩の過程としてのニンゲンの生」を何とか軌道修正せんとするココロの働き=善なるココロの動き、のこととなるのであらう。
ですがより厳密に申せば「佛」の世界にはさう「善惡分別」としての弐元的価値對立(弐項對立)が生ぜず。
なのですが大乗教説などではむしろ善行などのクリスト教的な世界観が奨励されたりもまたするのであらう。
えっ?では佛陀御自身は「善」でもまた「惡」でも無いのだと?
佛陀の教説はむしろソノ相對的分別世界からの脱出を図ることだらう。
どうでもイイのですがさう神の話と佛の話をゴッチャにして語られるとみんなはもう分からんようになりがちだ。
ああすみません、さう言えばワタシ自身も何だか良く分からないな。
神よりの離脱=神の不在
おおまさにクリスト教はコノコトをこそ「罪」と捉えるのであらう。
ソレは「眞理の拒否」であり同時に「眞理の無視」であり「眞理よりの逸脱」のことぞ。
さらにソレは神なる秩序よりの反抗であり拒絶である。
問題は果たしてニンゲンに取りソレが得策かどうかとのことなのではないか。
またソノことは佛なる秩序よりの反抗であり拒絶であるにせよまるで同じこととなる。
キリスト教における罪とは何か?20 成熟度は認識に影響を与える
さう精神の成熟度はニンゲンの生のあり方への基礎認識を形成しやう。
よって所謂「意識の高い人」の認識は「意識の低い人」の認識とはまるで異なることとならう。
また「意識の高い人」の認識は概して罪深いニンゲンの行為(特に社會的営為)に對し常に敏感であり且つ反省的でもあらう。
さう「信仰」によらぬ考えや行為は「罪」なのださうである。
ナゼナラ基本的にニンゲンは「原罪」としての罪深さを抱える生き物なのだから故に。
だが「信仰」によらぬ考えや行為は同時に「煩悩」なのだとも言い得る。
ナゼナラ基本的にニンゲンは「煩悩」から離れられぬ弱い生き物なのだから故に。
さてクリストはソノ罪の課題をさう内面化して捉えたやうだ。
どうもソレは解脱思想の方での内面化の過程と被る部分となる。
さうして常にコノ世は闘争世界となるのである。
また佛陀の認識もコノ世を闘争世界と捉える。
しかしながら東洋思想、即ち老荘思想の如きものはまた見解が異なりソコは元元調和と美の有る世界でありタダニンゲンの變な認識がソレと接するシアワセを阻害するダケなのだと説く。
うーむソコはまた所謂参位壱體的にそれぞれが正しい。
うーん、うーん、そりゃまたどう考えても困ったな。
ではどうしたら良いのでせう?
尚老荘思想は「脱俗思想」であり「解脱」や「救済」の思想とは異なるやうに個人的に感じて居る。
「脱俗思想」即ち世間が✖だからあえて個的に〇をやるが為に仙人が壱人で🏔へ籠るとのそんな御話ですね。
とりあえずクリストと佛陀の認識に於いてはコノ世が元元〇だとは捉えられて居りません。
キリスト教における罪とは何か?26 コントロールは心より始まる
個人的に思うのは大問題が山積する現代文明世界に取りソノクリストと佛陀の認識こそがまさに貴重なものとなるのではないか。
さうクリストがおおまさに人類の贖罪を担われたにせよ我我ニンゲンは常に自分が大原罪者であるとの所謂「罪の自覚」としての認識をば常に担わねばならぬのであらう。
なのでおみゃーはバカだ、などとさう言っておるヒマなどは我我ににゃあ。
バカなのはさう他でも無い君自身でありつまりはワシのことだろ。
では宗教詩人様、ソノバカはバカなりに罪を認めよとさう仰せになられて居るのでせうか?
うーん、さうですね、でもバカは何時迄経ってもまたバカなんで…。
ありゃまた反體制の社會科教師様に御戻りになられたので?
だからな、もう的を外すなよ、ソノマトを。
だからソコに的が有る訳です。
ソノマトが果たしてアナタには観えますか?
はいわたくしめにはしかと観えて居りまするソノデカい的コソが。
やうしではソコへと突っ込め!
いやでもそんなもんに突っ込むのはまるでブラックホールへ突っ込むやうなものでもう怖くてたまりません。
だから吉野家で牛丼を食って居るかまたはココ壱番屋で野菜カレーを食ってる方がずっとイイ。
コノ現世利益主義の馬鹿者めが!!
さう現存在は常に不完全で有りしかもバカです。
ですので眞に御利口な人はまず自分がバカだとさう思いつつ後は神佛に祈る(縋る)のだ。
ですが實際には多くの現代人がさう社會の向き(シンポ史観)に踊らされすでに洗脳状態にある。
故にニンゲンは利口だーもう何でも出來るんだー、なので未來世界は薔薇色なんだー、ほれアノ火星もすでに植民地化されたも同然のことですよー。
などと云うナニを言ってるのやらまるで分からんやうなまるで宇宙語の中へとすでに全ての価値観が浸されて居りますがズバリ申してソレは全部が間違いです。
正しくはニンゲンは何もやれぬタダの罪人だぞ。
ソレに文明の尻拭いさえやれぬではないか。
おまけに御前等の都市は概して臭い。
ひゃあー、そんなことは初めて聞きましたがそりゃまさかどんな感覚ですか?
まあアスペルガーでしかも分裂症でおまけに人嫌いとのそんな感覚でこそ成せる業でせう。
が、我我宗教者はどうあらうがドコ迄をも歩いて行かねばならぬ。
たとえ👿に誘惑されやうとまたこんな灼熱の夏場に晒されやうと兎に角壱縷の望みを神佛に託しつつ生きて行かねばなりますまい。
實際にはまさにそんな闘争世界を生きて行くことこそがクリスト教徒及び佛教徒の使命であり且つ運命となる。
でも例えば三河の山奥へでも逃げて行きソコにて仙人暮らしを成就させる場合に限りまたソレとは違う人生の上での展開が待ち受けて御座るのだらう。
個人的にはまさにそんな暮らしを三河でもって早うやりたし。
ー神への愛と他者への愛ー「神を愛し且つ隣人を愛す」
さてもソノ縦と横での双方向での「愛の實践」が必要だとクリスト教は説く。
他者(社會)への無関心=「愛の實践」の放棄
さうクリスト教は双方(内面と外面)に於いて「愛の實践」を行う宗教だらう。
ですが佛陀の認識はまたソレとは違い「愛の放棄」をこそ説く。
はい確かにソレは「有」と「無」の違いのこととならう。
但しクリスト教の説く「有」はあくまで霊的な次元でのことでありつまりは彼の世でのこととならう。
ソノ彼の世での神の國の到來を延延と弐千年にも亘りクリスト教は語りしがソレと現代社會に於ける現世利益主義(世俗的論理優先主義)の相性が可成に惡くなり故にクリスト教と雖も安心はして居られずもはや壱部の教會などが荒れ放題です。
でもソコはまた貧乏寺でも荒れ放題でせうからあくまで仕方が無いことなのだ。
じゃあクリスト教はニンゲンが壱度「霊」にならんと救われぬ教えなので?
ところでソノ「霊」って果たして居るの?
「霊」を「有」として力技にて設定するのがクリスト教なのであり佛陀の場合はソレを「非有非無」としか捉えては居らず。
ではアノ「輪廻」からの解脱なのでは實は無い?
個人的におそらく佛陀は生命現象に必然的に組み込まれる「悲惨さ」のやうなものを至極嫌われたのではなかったかと思う。
ソノ「悲惨さ」から逃れんが為には美女もまた子も財産も王國をも全て捨て去らねばならんのでさう捨て去られた迄のことよ。
では捨て去るのであればソレは贖罪の方では無くあくまで放棄なので?
まあさうでせう、さう社會をも捨て去る訳ですので人類の未來もナニもネエのです。
じゃあそんな放棄主義の御釈迦様がもしも奥三河へと逃げて行かれた場合にどうおなりになるのでせうか、まさか仙人とおなりなのか?
ズバリ申しませう、まさにソレが「即身佛」です。
ちりーん、チリーン。
とさう🏔の中に掘った穴に御坊様方が御入りになられる。
やがてソノ鈴の音も止む。
そりゃさうだ、地中の坊様はさう飲まず食わずなのだ。
チリーン、ちりーん、…。
おおおついに入定されたのかアノ宗教詩人様が…。
いえワタシはそんな死に方はどうもイヤですのでかうして苦しくとも娑婆世界にて闘います。
ですのでさうもはややるしかない、そんな惡の世界とこそ闘うしかないのだよ。
ちなみにソノ「理性的努力」でもってソレも長年に亘り頑張れば大體のところなれど世間の實相が攫めて参ります。
故にイザソコへ至れば後はまさしく「信仰」でせう。
おそらくはさう理性と信仰を同時にやらねばならんとのことがわたくしが築いた宗教的な立場です。
尤も「信仰」の對象は神であれ佛であれむしろどちらでもイイ。
また全能神と多神の区別すら不要です。
そんな訳で夏の終わり頃迄にはソノ「信仰」の對象を絞る予定で居ります。
されどクリスト教に對しワタシは常にイイものをまた感じて居る。
故に今回はソノ根幹に横たわる「罪の概念」に就き考えてみました。