宗教詩人のココロの中に渦巻く参位壱體の教えとは?ー梔子の香るこんな梅雨の頃にー
さてコノ世の中は相變わらずどうもマズいのです。
さう「他」の部分がどうも壊れていくのである。
自⇔他
それこそソノ関係に於ける所謂「自己矛盾」がドコかで生じて居るのだらう。
なのでソノ「自己矛盾」=「罪=欲」であり「煩悩=欲」である部分をおおまさに自己補修せんが為に「正教」こそが存する。
ソノ「正教」とはニンゲンのココロを救わんが為の全ての宗教であり宗派のことぞ。
ですのでソレが自分の属するかまた信ずる宗教であり宗派のことであるとは限りませんのでまずは惡しからず。
なので頑なで且つ變な信心ダケはもう止めて置いた方がイイですよ。
だからソレでは新興宗教の教祖の餌食とされて仕舞うばかりなり。
兎に角こんな世の中の體たらくとはむしろ別に信仰や蒐集の世界に生きた方がまだしもマシだ。
…信仰や蒐集?
そんな信仰と蒐集とがもしや同じ次元なので?
いやソレはまた精神と物質との次元に分かれるのではないか。
だからソレがむしろ哲學的にはあくまで「等価」なのだから。
でも普通は御坊様や司祭様は尊敬されるがモノコレクターなんぞはバカにされるのがオチだらう。
ですのでソレもまた両方やれれば誰も文句は言えんでせう。
はあーじゃあアナタモノ詩人は同時に宗教詩人でもあらせられるので?
だってそんなことはもうみんなが知って居るコトではないですか。
いや確かに奴はドチラも語れることだらう器用な奴だな。
イイですか、「ヒエラルキー」はまた宗教をも侵す惡夢だぞよ。
故に宗教的次元では基本的に全てが「平等」となる。
されど宗教的な権威や長く続く體制などはまた腐り易くもならう。
故に「正教」とて腐るのだしとどのつまり此の世に絶對の価値などは存せず。
だからもっともっとみんなはフラフラと生きる、即ち精神論バカリでは無く自然界やモノの世界にこそ遊ぶべきなのだ。
だがイザ「洗脳」されれば大事なことはスッカリ壱元化された価値と化す。
即ち、
1.大金持ちになりたい
2.國を動かすやうなデカい人間になりたい
3.火星へと逃げていきたい
との価値観にほぼ先進國民はすでに洗脳されて居り。
されどソノ価値観の全てがあいにく間違いだ。
正しくは、
4.たった今咲く庭の露草とドクダミの🌸を愛でるシアワセ
5.自分なりに物集めをやり遂げるシアワセ
6.兎に角地球の自然をこそ愛するシアワセ
ことこそがむしろ正答なのだ。
でもってしてすでに我は4.と5.と6.の全てをやれるので認識上はほぼ完全だ。
ええっ?
でもソコには精神的要素がほぼ感じられないが…。
じゃあ君は精神的次元でもってコノワタシに勝てますか?
いやソレはヤッパリ難しさうだ。
ほれみよ、だからワタシはバカ話をして居るやうでちゃーんと哲學もまた宗教論議もしかとしておるではにゃーか。
にゃーか?
ほうソノにゃーか。
さてこちらは簡潔に良く纏められたイイ佛法のテキストと成り得ることだらう。
故に今回はこちらから佛法に就き考えて行かう。
1.佛法の内容は多様である
2.概ね原始佛法(釈尊御自身による佛法)は思想的に潔癖となる
3.大乗教説はクリスト教化(浄土思想)したりヒンドゥー教化(密教)したりまた法華思想などの非佛説的な思想的特徴を備えることが多い
4.禅宗もまた大乗佛法のうちの宗派なので厳密には原始佛法とは異なるが釈迦の教説を常に大事に扱う
そんな訳でほんたうのほんたうは原始佛法をこそ學んで頂きたい。
ちなみにワタシは45歳~55歳頃迄独學にてソレを學びましたものです。
でもってしてソコではまさにほんに疲れました。
何せアノ御釈迦様の教説ですので生半可なものでは無く兎に角精神的にヒジョーにキビシイ!
ソレもほぼニンゲンを辞めよ!位での御話が多く兎に角キビシ過ぎるので當然にこんな享樂詩人などはとてもツイてイケません。
ですので壱般の方にはむしろ大乗教説の方が入り易くつまりは合って居ります。
でも中には變人の方が居られるでせう。
まるでボクのやうに眞理壱筋の方などが居られるのではないか。
さうした方は精神の上での變態=變質者ですが価値観がなにせ壊れてるのでまあ御釈迦様の教説に直にコミットするにはむしろ向いてもおらう。
もうボクは妻も子も要らぬ。
もうボクは酒も美女も大金も要らぬ。
もうボクは最終的に成佛ダケを望む。
さうかよりにより君はそんな變質者なのか。
ならばソノ狭き門よりソコへと入るがエエ。
だからそんな御人は例えば東南亜細亜へと出向き小乗の僧侶となったりもして居るのです。
なのでソレはイイのですが間違ってもアノオウム教や幸福の科学教などへは入らぬやうに。
また天理教や日蓮宗系の新興宗教、また神道系の過激な組織などへは間違っても入らぬやうに。
要するにソレ等が「カルト宗教」化し易いからなのです。
とどのつまりが所謂「伝統宗教」を基本に置く組織の方がより安全です。
ですが釈迦御自身による教説はある意味で過激なものでありとどのつまりが「ニンゲンを辞める」との教えですので人類の0.1パーセント位の人にしかやれぬ教えのことでよって余計に現代人に取り訳の分らぬものと化さざるを得ぬ。
とは言え世俗向けの教説と僧侶に對する教えはまた別物ともなりますので前者の教えに就き學ぶだけならば頭の良い方には限られやうがやれぬ訳では無いのであります。
ではアナタ御自身は「もうオレはかうしていっぱしの原始佛教徒であり禅宗なんぞはバカにしてるんだぞよ!」てな気分で持って生きて居られるので?
いやまさかアノ永平寺を敵には回せんでせう。
だからワタシは常に「禅門」には頭を下げつつ生きておるのであーる。
でもアナタはクリスチャンなのだらう?
またイキナリナニを言うのです!
そんなクリスチャンの方方もまた救われたらイイね!とさう言ってるダケのコトでありつまりは最後の審判の後でしかと地獄に居る自分を救って呉れるのはもう全能の神様ダケではないですか。
アンタはでも言ってることがほぼ支離滅裂だろ。
なのでワタシはまず佛教徒です。
ですがイザ地獄へ堕ちたら後はクルリとクリスチャンにでも鞍替え致す積もりなのかもしれん。
ああ君は確かに「物欲」の煩悩に苛まれ地獄へ堕ちる感じが兎に角強くして居ます。
さうでせう?
だからね、イマのうちにかう弐股をかけて置くんですね。
なる程君にはむしろソレが向いて居るのかも。
でもほんたうのほんたうは弐股どころか参股をかけておるのであった。=仙道思想の壱理解者として
さて原始佛法を學んで行くと兎に角とても疲れるとの御話を致しました。
ソレは御釈迦様御自身のアタマの中が超天才級理性となられておるが故にバカがソレを御勉強すると大變だとのまさに東大や京大へ行く奴の気がしれん、奴等のアタマの中身は果たしてどうなっとる?とのそんなレヴェルでの御話でせう。
さうしてまず考えて置かねばならぬのは「佛法」が基本的に「無神論」であり「相對論」でもある部分なのではないか。
尤も厳密にはソノ「相對論」だとは決め付けられないが御釈迦様の思考體系がそも「有でも無く」且つ「無でも無い」との同時的弐重否定にありまさにソレを「中道」と云うのでありますがまたコレが極めて理解し難い。
但し理解への壱助として申せば逆に「有」か又は「無」のどちらかに擦り寄る教義の方が普通凡夫には分かり易くもなる。
よって原始佛法→小乗行→大乗行となるのですが概ね「有」か又は「無」のどちらかに擦り寄る教義の方へ移り變わるのだとわたくしは捉えて居る。
ソレと御釈迦様御自身は所謂形而上の問題に就き「無記」なる態度でもって答えつまりはソレを問題としては捉えられなんだ。
5.死後の世界の有無
6.宇宙が有限か無限か
7.文明は滅ぶか否か
要するに「生きてイマココに有る」ことこそが現象としてのニンゲンの問題の全てなのだ。
ちなみに當時印度には佛法には限らず「解脱思想」が有りましたのです。
即ち「現象」である状態を脱さずば「眞理」には至れずして。
ですのでまた他にも「梵我壱如」であるとかまた完全なる「不可知論」であるとかそんなものがまた幾らでもありました。
さてもソノ「現象」の定義がまた難しい。
されどソレが「不完全」で且つ「無明」=「非理性的」で「煩悩」=「罪」にまみれる表象的意思決定=他動的意思決定とのことですね。
尚「自然界」もまた所詮は「現象」です。
されど自然の脳味噌は原始脳=大脳旧皮質ですのでソノ認識がオカシイことにはそもなり得ず。
されど🐵から進化したニンゲンのみが大脳新皮質を備え即ちソコにてあれこれと考えられるやうになる。
だからソノホモ・サピエンスはほとんど超生命體であり超ケモノなのだが残念なことに奴等が罪にまみれ且つ煩悩にまみれておったのでした。
なので近代に至ると奴等はデカい欲望を暴走させるに至り挙句にコノ母なる地球を壊しまくった。
だからソレがほんたうは慈母であるマリア観音様なのだと云うのにまるでソレが分からずさうケモノみたくに尊属殺人をやらかして仕舞ったのです。
…酷い、酷いぞソイツラは。
ソイツラはもう宇宙壱の罪人だぞよ。
だから君もまた大罪人なんでねえの、ナゼソノ罪の自覚が無いの?
アア分かった、まさにソレが近現代文明による洗脳だな。
でも塾の社會の先生、学校の先生も親も皆洗脳されてるのではあーりませんか?
ふむ君は有望だな、また良くぞソレが分かったものよ。
じゃあ先生、まさにソノ他動的意思決定から自律的意思決定に變えられればそもニンゲンは助かるのでせうか?
ソレはソレはまた難しい問いですね。
そんな難しい話はココ🗾の最高學府の東大や京大であれまるで出て來はしない御話ですよ。
でも仰って居ることはおそらく正しいのでは。
ですがイザ自律的意思決定と申しましてもそんなものがやれる人は多分佛陀以外には居ない。
ま、ソレと近いのがあえて言えばイイエス様の意思決定過程だらう。
さう全能神の意思決定過程に全的に委ねるだらう半分ニンゲンのイイエス様の意思決定過程位だらう。
兎に角さう佛陀の認識は基本的に理解不能です。
でも全能神の認識もつまりは全體論なので凡人にはまず理解されはせず。
故に個人的には是非理解し難い方向へと大衆は認識上の舵を取るべきなのだと考える。
逆に近代大衆社會は分かりにくい眞理としての教義を避け所謂世俗化の流れを生むに至る。
8.タッタイマアナタはココに居ます、まさにソレが煩悩であり大問題です。
とさう佛陀の認識はニンゲンであるコトソレ自體を大問題だと捉える訳だ。
よってニンゲンであることは是非辞めなければなりません。
とさう佛陀の認識は生命體であるコトソレ自體を大問題だと捉える訳だ。
よって生命體であることは是非辞めなければなりません。
ぎゃあーそんなカルトな、また變態な、まるで集団自決思想みたいなカルト思想があるものか!
さうかなあ。
尤もボクなどはあくまでコレでイイのだとさう思いますのですが…。
でもおめえはアノ成田何某と壱緒で周りの理性をバカにしまくる天邪鬼だらう?
まあソレは認めますがでも御釈迦様の思想ダケはちゃんと理解して置いて欲しい…。
だが物詩人はいっつも物と戯れ遊んで居るな。
いやソレはね、おおまさにソノ時にボクは壱時的にクリスト教徒と化し全能の神の御業にこそコミットしておるのだよ。
なる程、こやつはさうして都合のイイ時に他の宗教へ鞍替えしつまりは人生ソノモノを愉しむのかい。
…さうなんだ。
實はカインズから家へ帰る道にとある禅宗の寺が有りソコの掲示板に「御釈迦様は人生を楽しまない選択をされるそんな性格の方だった」と云うやうな御話がココ半年ばかりずっと書かれておる。
ソレは確かにさうだ。
でも自分はかうして物が大好きなのでほぼ完全に佛弟子なのでは無い。
だがココロの中では常にホトケをこそ求めておる。
だったらソコんトコで變身でもしたれ!!!
アアマリア様かうして今日もまた💎が光り輝きます、其はまるで天國の如くに。
でもそんなもんで果たして通るのだらうか?
まあ通るやうにとさう願い祈りつつ生きておるのです。
9.👪主義は否定する
御釈迦様の教説はあくまで「愛」では無くむしろ「愛の否定」から捉われる者、捉われる物を失くすとの消去的手法であり方法論ですのでソコからすれば「有る」のでは無くまさしく「無い」のでせう。
でもほんたうはあくまで「中道の論理」ですので「愛」では無く同時に「愛の否定」でも無いと云うのがほんたうのところでせう。
尚重要なことは御釈迦様の教説は所謂「對機説法」ですので凝り固まったニンゲンの想念の逆をむしろ説いていかれるのです。
10.すでに世はこんな末法ぞ→末法は有るのでも無くまた無いのでも無い
11.五拾年後に人類は滅亡するぞ→滅亡は有るのでも無くまた無いのでも無い
12.神や佛は居るぞ→神や佛は有るのでも無くまた無いのでも無い
ですがそんな佛陀による難解で且つ不可知論的で相對的な論理(脱論理)がみんなにはまるで分かりませんのでやがて佛法は大乗化されみんなで救われやうとのこととなり申した。
なのでとりあえずソレは他宗教の要素を取り入れ分かり易くして行った訳です。
でもさう分かり易くした分壱番肝心な救済の力のやうなものが弱まるだらうことはまず確かでせう。
また何かと悲観的なインテリの僧に對し御釈迦様は教義とは逆のことをあえて説法したとの御話を読んだことがかってありましたものです。
またインテリの僧の自殺をそれなりに認めたとの御話を読んだことがかってありましたものです。
まあ要するに分別概念はそも、
聖⇔俗
貴⇔賤
高⇔低
とさう何でも分かれソノ分かれるのにコダワルことで生存への意志を掻き立てられることとなる。
そもソノ生存への意志を捨て去る為にはさう分けては考えぬ思考の仕方をこそしなければなりません。
だけれども同時に両方をやれば生存への意志はまた余計に掻き立てられやう。
よってワタシは別に佛陀になることを目指す訳ではありません。
同時に大乗行もまた佛陀になることを目指す訳では無く言わば菩薩行の實践となりますのでソノ意味では目的が合致するがでもワタシは論理的にはあくまで佛陀の思想=法の信奉者なのだな。
また「輪廻転生」よりの離脱の件は確かに現象の根を断つかのやうな感じが致しますが佛陀がソレを認めて居たかどうかは諸説有り實は分かりません。
がとりあえず印度思想としての理屈の面からは確かに「輪廻転生」よりの離脱との概念が即「解脱」と結び付くことでせう。
ですが佛陀はまず生命としての現象のあり方をそも否定的に捉えられて居たことであらう。
逆に生命としての現象のあり方をそも肯定的に捉えて居るのであればソコには必然として「神」なる概念が生じませう。
尚佛法の上では「神」=「神神」もまた「輪廻転生」より離脱し得ぬ現象であるに過ぎない。
よって捉え方としてはあくまで「神神」は解脱者では無く佛陀こそが解脱者となる。(さう佛陀が神の上に置かれる訳だ)
要するにかのカントの哲學的に言えば唯壱神こそが「もの自體」となるがまたソレをショーペンハウアー(佛法ジジイ)流に言い換えればおおまさに佛陀こそが「もの自體」となると言い得る。
さてソノ「脱論理」の部分はクリスト教やまた禅宗の公案の部分などで顕著に見られたりも致します。
例えば其の例は、
13.許し難き惡をも許しあえて敵をも受け容れ愛す
14.佛なんぞは馬の糞である
まあさうして価値観の上での滅茶苦茶をやるのです。
逆に所謂常識=世間體に基づく価値観に捉われるとかうした「大きな思考であり価値観」がまるで見えなくもなる。
宗教とはまずはさうして所謂常識からは壱旦離れて「大きな思考であり価値観」をこそ模索する試みだらう。
故にソレを感情や社會通念の上から理解して行くことには元元無理があらう。
ですから宗教とはそんな極めて理性的に営まれる精神的価値観のこととなる。
但し邪教の教義の場合は逆にまさにケモノの教えともならう。
さてソノケモノ共ですが佛陀は凄い自然愛好家なのでは無くむしろ普通にケモノではまるで成佛し得ず、位のことを述べて居られる。
要するにまずはニンゲンでありしかも特別(特級クラス)の理性體であることこそが成佛への機縁でありイザケモノやらおバカやらそんなニンゲンがまさか成佛し得る筈などもありますまい。
ですが壱面で佛陀はニンゲン嫌いのやうにもまた見えますればもしやすると自然が大好き派の御壱人であった可能性がまた無いでも無い。
逆に申せば全能神は何だか人たらしであり兎に角ゴタゴタをやるのが随分御好きなやうでもまたある。
また神道に於ける八百万の神などもまた自然界をも交える形にてゴタゴタをやるのが随分御好きなやうでもある。
そんな訳で最も理知的=理性的な宗教とはズバリ佛陀の教説の世界であらう。
ソノ代わりにソノ教義は兎に角キビシイからコレを勉強するのは壱般人にはまず無理か。
逆に是非學んで頂きたいのが大乗佛法の僧侶の方方です。
佛陀はさう兎に角ニンゲンですがすでにニンゲンでは無くなられた方ですので余程の研鑽を積まぬ限りケモノの目にはまるで見えませぬ。
…ソノケモノってそもナニ?
もしやアノ黙示録のケモノのことで?
ケモノとは煩悩の操り人形のまさに君のことだわな。
あれえ最後にまたキツイ壱発を…。
じゃあ君はもしやニセの佛教詩人なのか?
ニセじゃあないわいホントだわい。
そのうちおめえも共に彼岸へと連れて行ってやらう!
ふと気付くと宗教詩人βは何時の間にか賽の河原へと連れ込まれておりました。
ああソコはまさに霊體がひしめき合う彼岸への入り口なのであった。
ところで宗教詩人αさん、かの佛陀は霊體を信じて居たのですか?
いえまるで信じては居られません。
佛陀は神も霊もまた👩もまるで信じて居らず。
じゃあ信じてるのは自分の教説ダケなのですね!!
そんなもんはほとんどアノASAHARA教と變わりがないではないか!!
まあ彼佛陀はそんな小者とはまるで違うでせう。
すると佛陀がおおソノシッダルタ様こそが宗教界のスーパースターなのですね!!
宗教界のスーパースターにはクリスト様も居られこちらなどもまた御勉強する甲斐が如何にも有ると云うものです。
さうか宗教詩人αの強みとは宗教界のスーパースター弐名に常にくっつきものを言う部分にこそ有れり。
でせう?
だからソレがまさに最強なのだ。
だったらもはやアナタにはどんな👿も手出しがならぬ?
いえカンタンなことでむしろコロリとワタシは倒れる。(さうナゼカ生命力が弱い)
だからこそソコに御釈迦様とクリスト様の同時庇護が必要なんでねえの。
とのことで佛陀の場合にはあくまで「自力救済」を目指す教説ですので「他力救済」を旨とする壱神教やさらに大乗教説、また神道(アニミズムの延長線上での神神の崇拝)などとは本質的に異なる教えとなるのです。
でもソレをやれる人が人類には居ないのでさうして神化したり俗化したりしてナントカみんなが救われる宗教に仕立て直して行ったのですがソレもイザ本質論を欠いて居る為か次第に佛教は廃れて行くことだらう。
でもさう廃れやうがどうしやうがボクは信じるぞ。
さう佛法とクリスト教と仙道思想は常に我がココロの中で壱體となり永遠に不滅です!!!
でも認めますかイザソレをアノ潔癖な筈の御釈迦様が…。
だからソレをこそ聞きに行くんでねえの、今度アノ八事山の興正寺に…。
さてもかう雨の日が続きますが壱面では梔子の🌸が咲き集う良い季節である。
相變わらず詩人は道端にてソノ強い香りに酔い痴れて御座る。