目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「悟り」は確かにエライ、されどニンゲンの修練もまた「小悟」を生む。ーさう佛法と生活を関連付け御話を致すことの意義に就いてー

「悟り」は確かにエライ、されどニンゲンの修練もまた「小悟」を生む。ーさう佛法と生活を関連付け御話を致すことの意義に就いてー

 

 

 

 

仏教とは何か?  基礎編 2 悟りとは何か? - 仏教の全てが分かるブログーこちらが今回のテクストですー

 

ーこうしてシッダールタは悟りを開き、仏陀となりました。仏陀とは、万物の本質に目覚めた者を意味する言葉です。ー仏教とは何か?  基礎編 2 悟りとは何か? - 仏教の全てが分かるブログより

 

万物の本質に目覚めた者=佛陀

 

ところでココのブログの表題はナニか?

あれ「目覚めよ!」とのことでした。

 

皆様はさぞや彼animistが壱佛教徒として長年に亘り思想的宗教的に悩んだ末にソレを決めたとさう御考えのことかと存じます。

でもほんたうはそんなもんではまるで無くそりゃ単にワタシがエホバの証人の機関誌である「目覚めよ」をかって読んで居たからでのことなのでした。

 

尚さう訳の分らぬ決め方をするのがワタシ流でありでも偏差値の方も常に70以上の理知派ですので彼に勝たうなどと思ってはイケません。

ですが彼はまた同時におバカでも有り且つ女性的に感情面からホイホイとも動きますので余り信用しない方がイイ。

 

要するに意思決定過程ソレ自體が天才肌のものとなりますので兎に角奴が考えて居ることは常に想定外のことばかりとなる。

えっ?ではたったイマナニを考えて居られるのですか?

 

 

無論のこと「夏はカレーに限る」とさう考えて居りましたのです。

ええっそんな印度の🍛とな?

 

いやソコはカリー饂飩であれカリー焼きそばでありナンでもエエのですよ。

兎に角夏はカリーであり且つ佛法でせう。

 

じゃあ御釈迦様もまたカリーを食されたのですか?

…おそらくはさうでせう。

 

ソレもタップリと牛肉の入った反ヒンドゥー主義のカリーなどをおそらくは秘密裏に食されて居たのではなかりしか。

左様に御釈迦様の教説はむしろヒンドゥー主義のアンチテーゼとしてのものでしたのでさぞやヒンドゥー教の高僧達の不興を買って居たことであらう。

 

ありゃそんな天邪鬼さんでしたのですか、アノ穏やかさうな御釈迦様の思想の内容が。

はいもうとんでもねえ非常識で且つ反體制での教えの内容なのだった。

 

またソレに近いことをした方がいま壱人居られまさにソレがイイエス・クリスト様です。

 

ありゃそんな天邪鬼さんでしたのですか、アノ穏やかさうなイエス様の思想が。

はいもうとんでもねえ非常識で且つ反體制での教えの内容なのだった。

 

 

いずれにせよわたくしが強調して置きたいのは佛法とクリスト教がさう過激な反體制的思想ソノモノで有ったことなのだ。

が、ソノ後社會に求められイザ正教化すると逆に穏やかさうな印象がどうしてもして仕舞う訳だ。

 

でもアノエス様はカリーを食しては居られないでせう?

いや説によってはイイエス様が印度へ旅立ちソコにて主に佛法を學ばれたとの逸話などが有る。

 

でもそりゃ青森かドコかでノイエス様が布教し死んだ、つまり十字架刑などは無かったとの支離滅裂な御話と似たやうなものですね。

ま、イイエス様が佛法を學んだことなどはまず無かったことじゃらうて。

 

では御釈迦様はソノ印度カリーの大ファンだったので?

いやカリーの大ファンなのはあくまでワタシのことですよ。

 

じゃあ君はさうカリーを食って成佛するので?

いやナニを食うにせよ👩に触ったら最後もはや成佛は遠のく。

 

ソレも永遠に遠のくのだ。

 

じゃあ👩に触る代わりにイマアナタはさうカリーを食いまくるので?

…仰る通りです。

 

 

我はかうしてイマカリーにコダワリソレをたらふく食うコトで👩に触りたいとのソノ欲を抑えておる。

なる程、するとアナタの考えでは欲望にも階層のやうなものが有りより上位の欲ー罪ーを滅せんが為に下位の欲に耽溺するのはむしろ道理である、とさう仰られて居るのですか。

 

ですから、壱番滅し難いのは無論のこと生存欲でありでも個としての肉體の存続と👪としての生存の存続を願うのとでは質がまるで異なる。

例えばワタシはすでに何時死んでも良い位に思想的闘争を終えて來ておりますので👪主義もクソも無く後はもうどう死んで行くかとのことばかりです。

 

ですが人によりソレはまるで違うことだらう。

普通壱般人は👪や友人や知己のつつがない生存の存続をこそ願うことであらう。

 

だがワタシに言わせればまさにソレが壱番危ない橋のことぞ。

じゃあイザさう思想的に壱度死んで後はなるべく樂に死ねないかなーなどと云うのは別にコダワリでもナニでも無いのですか?

 

うんだから御釈迦様もまたある程度道理が分かった僧の自殺をむしろ酷くは咎められなんだのだった。

ソノ「自殺」はクリスト教に於いてまさしく背教なので?

 

クリスト教は創造主の御業を「善」だと捉えやうからソノ神に授かりし肉體及び精神を傷付け死に至らしめることはまさにタブーでせう。

 

 

ーこれとは対照的に、サンスクリット語の経典(古代インドの言語で書かれたもの)では、菩薩達が悟りに触れながら修行しているという表現が見られ、悟りは日常的に誰でも触れる事ができるものであることが示唆されています。仏教とは何か?  基礎編 2 悟りとは何か? - 仏教の全てが分かるブログより

 

さて坊様の間などでは悟りが屡「小悟」やまた「大悟」などとも表現されて居たり致します。

「悟り」とは「気付き」のことでありわたくしなどは昔からソノ「小悟」の方を多く経験致しました方です。

 

ですが正直申せば「大悟」し例えば「拾弐因縁」の理を悟った!などと云うことは壱度も御座りませんでした。

またむしろ得意な哲學的な思考の分野の上で佛法上の認識と被る部分を何度か経験したことがありました。

 

1.独我論

廿代の頃ふと自分が考えて居ない世界ー観て居ない世界ーは無いのではないかと突然思った。

ナゼナラ自分が考えて居ない世界の實在を証拠立てる術などは無いのであるから。ーバークリーと云う牧師がソノ独我論者として有名だー

 

2.唯識的認識論

参拾代の頃世界の重層性を直観し世界は無限的に細かな差異を持つ世界の寄せ集めであることをまさに感覚的に理解したことがあった。

よって己がAと云う選択を行う場合の世界とBと云う選択を行う場合の世界は似ては居るが別物となる。

 

が、佛法が語るやうに認識自體が虚妄=妄想世界であるとは考えたことが無い。

虚妄で有ると同時に眞實をも含む世界であると常にさう認識して居たので。

 

3.「佛性」の扱いに悩む

 

四拾代の頃は主に大乗教説を批判的に捉えて居りソコで大問題として捉えられたのが所謂「佛性」の扱いである。

「佛性」とは最終的に「神性」のやうなものなのではないかとさう結論す。

 

されどかの天台本覚思想のやうに山川草木の壱切に「佛性」が宿るとのことはほぼ山川草木の壱切に「神性」が宿るとの山岳信仰神道系のアニミズムとほぼ同義であらう。

即ち天台本覚思想はやり過ぎであり其は佛法には非ず。

 

要するにあくまで御釈迦様の教説では山川草木やまた壱切の衆生がソノ侭に成佛し得るものには非ず。

なので別に岩や山や動物、植物が成佛するのでは無くあくまで成佛への機縁を持つのはニンゲンと神神のみ。(ソレもニンゲンの場合は分かった人のみ)

 

なのでコノ「佛性」の大問題より大乗教説が如何に御釈迦様の佛法よりかけ離れたものであるかの實態のやうなものを思い知ることとなり申した。

ですがまた個人的には🏔が大好きなのですし「神神」がキライな訳でも無いのでまあーエエか、てな感じでもって今に至りましたのです。

 

とりあえずさう思想的に潔癖なワタクシは當時兎に角大乗教説の不純性のやうなものに深く悩まされておったものでした。

 

 

ですが五拾代に至り主に仕事の面、ソノ勞働に於けるニンゲン関係だのニンゲン模様の面などでもうほんたうにあれこれと有りもう澤山だわなこんなアホみたいな奴等となんでいっつも😣して付き合い月に弐拾萬バカリの薄給を貰わねばならんのか!

 

とさう思いつまりはもう頭に來ましたのです。

ですがソコにてある意味ではニンゲンが否応なしに練られたのか寛容さや人間味と云ったものが心理的に浮上し兎に角優しいニンゲンになれさらに大乗教説への強い怒りのやうなものさえ次第に消えて行ったのでした。

 

ですが還暦位の頃から今度はまた左翼思想のぶり返しとクリスト教への興味とが大きく出ましてまた余計に複雑でもって且つ面妖な宗教的な世界観のうちに生きるやうになったのです。

 

でもソレは佛法の話では無くあくまで君の思想的變遷並びに宗教的變遷の御話ではないですか!

あれさうでしたかね、まあソコもまた人間味に溢れる宗教論とのことで別に佛法の話に限らずともイイのではにゃーか。

 

にゃーか?

さうソノにゃーにゃーか。

 

「悟り」

 

尚ワタシはソノ「悟り」を肯定しソレは「直観」=般若知のことであらうとさう結論付けて居ります。

しかしながらソレは「常識的発想」からはなかなか得られにくいことであらう。

 

さりながら先にも申しましたやうにわたくしはむしろ仕事の上でのニンゲン界のゴタゴタをさうして経験するうちに内面的にむしろ變化することが出來たのです。

即ち佛教関係の情報からの認識の變化などではむしろ有りませんでした。

 

さう「眞理」規程の部分と實體験はまた違うものでせう。

かと言って「實體験」=ニンゲン界のゴタゴタとまみえるコトが至上の価値であるとはまるで申せぬ訳ですが少なくともソレがワタシに取り優れた佛法の本を壱冊読むこと位に役立ちましたことは紛れもない事實なのです。