目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「資本」による「洗脳」に就いてー「資本主義」を其れに對置されるだらう「マルクス主義」より読み解くー

「資本」による「洗脳」に就いてー「資本主義」を其れに對置されるだらう「マルクス主義」より読み解く 壱ー

 

 

 

 

 

百田尚樹氏ら「安倍応援団」が自民党批判に転じた理由は? 「日本保守党」国政選の初陣へ 衆院東京15区補選 (msn.com)

 

個人的に其の「日本保守党」には是非頑張って頂きたいとさう考えて居ます。

ではワタシは「右派」かと云えば其れは必ずしもさうでは無い。

 

但しアメリカの言いなりとなることや中國の属國化することが良いことだとは決して思わない。

要するに國家としての自立性をまずは保つことこそが此処🗾國の重要な目標となる。

 

國家としての自立性を持つのであればたとえ此処🗾が社會主義化するにせよ其れは其れで良いことです。

其の逆に右傾化するにせよまた其れは其れで良いことです。

 

が、わたくしが言いたいこととは其のイデオロギーをむしろ捨て去り「閉じ籠り國家」とした方がむしろ🗾のみんなは幸福となれる、とのことなのです。

つまりは「幕藩鎖國體制」の復活がむしろ最良の選択となるのではなからうか。

 

でもってさうしてイザ「閉じ籠る」のであれば「限定」された枠の中で思うやうに生きられるやうになる。

逆にアメリカの言いなりでは🗾の體制とのギャップがドンドン大きくなり様様なものが壊れませう。

 

また中国の属國となったにせよ🗾の體制とのギャップがドンドン大きくなり様様なものが壊れませう。

だがどちらかと言えば後者の方がまだマシなのかもしれません。

 

🗾の體制はそもさうして「特殊」なもので要するに「閉じ籠り」とは極めて相性の良いものとなる。

またイザ閉じ籠っても頭は良い=利口なのが🗾の民人なのですからまさかバカにはならないのです。

 

「徳川幕藩鎖國體制」の復活

 

兎に角其れが良いことだらう。

また首都は「浜松」か「岡崎」に置きませう。

 

つまりは其の「家康公」の御力にて再び🗾を統壱に導きますのです。

其の為にはまず「河村名古屋市長」を総理大臣に据えねばならなくなる。

 

でもって大村愛知県知事を追い出し百田氏に愛知県知事をして貰います。

だがもしも「河村名古屋市長」が総理大臣にでもなれば🗾國は相当に価値観が狂います。

 

まずはソコこそが狙い目でせう。

でもって「河村名古屋市長」は衆議院及び参議院による國政其れ自體をそも廃止するに及ぶことでせう。

 

また官僚なども居なくなるのやもしれません。

するとみんなが困るのであとはもう「新たな幕府」を開くしか手がなくなるのです。

 

ですがより「本質的」な意味での文明の問題点とは實は「政治」や「行政」の部分には無く「経済システム」の問題へと帰着致します。

つまりは其れが「資本主義社會」の履行の部分にこそ大きく問題が生じて居るのである。



「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com)

 

實は「資本主義」=「資本の論理」との現代社會に於ける本質部のことをよくよく考えてみませんと現代社會が齎す「闇」=「矛盾」及び「破壊」の理由を其の根本より明らかにすることは出來ません。

 

でもって壱つには「資本主義」のヤバさと云うことがまずは大問題となるのです。

其処にて「資本主義」=「合理主義」=数的還元値への「崇拝」其のものであることをまずは知って置く必要がある。

 

さう「資本主義」とはまずは何よりも「信仰」なのだ。

でもってソレが「邪教」である確率が現在ほぼ80パーセント程にも高まって來て居る。

 

とは言え我我無學な庶民は其の主義主張とは関係無くタダタダ毎日腹が減るばかりです。

腹が減れば無論のこと何かを食わねばならずそう云うのはほぼ全てが動植物の死體ですが其れにも関わらず其れをあえて食いませんと樂しくは生活などしていけません。

 

またわたくしなどは公園で配布される無料の🍱を食うことを夢みつつかうして部屋に閉じ籠りつつコカ・コーラーをストーヴにて温め其れを好んで飲んだりまた最近嵌まった埼玉の川島屋の創価でないさう草加🍘、兎に角コレなどをバリバリ、ボリボリとあれ今日はもう六枚程は食ったか、だが其れは幾らなんでも食い過ぎとちゃうか、でもまあ其れを飯の代わりに食ったのでとりあえずはエエか。

 

などと云う乱れた食生活をするタダの壱ジジイながらでも現代社會の事ダケは気になると申しますか正直「ヤバい」とさう思いますのです。

 

「かう腹が減るからさう資本に洗脳される」

 

まさに至言であります。

ところが問題は其の草加🍘ダケではすぐに物足りなくなりやがては肉汁の滴るあさくまのハンバーグ🍱やさらにステーキガストの🥩🍱に迄手を出し挙句の果てにより高級な江戸前の寿司や鰻🍜などをどうしても食いたくなって仕舞う。

 

要するに「欲望」に歯止めが効かなくなる。

また其のことと同じ論理にて百万を持ってる人は壱千萬を欲しがりさらに壱千萬を持つ人は壱億円を欲しがり壱億円を持つ人は拾億円、さらに百億円と要するに其の持つ金の額をほぼ無制限に上げて行くのです。

 

ところが其れは根本的に歯止めの効かぬ「欲望」ですので何処まで数字ー抽象的価値ヒエラルキーーを上げても満足されると云うことが基本的に無い。

と云うことは其の「資本の論理」其のものに予め「ケモノ性」の如きものが組み込まれて居ることとなる。

 

要するに其れは決して「理性的」な判断の場とはならずむしろ「弱肉強食」での熾烈な利潤競争へと企業を駆り立てて行くこととならざるを得ぬ。

またさうして「個」及び「社會」の次元にてまさに其の利潤競争だの「強欲」だの「😣出来ぬ感じ」が刷り込まれて行くこととなる。

 

つまりはさうした惡どい商法乃至は見境無く追及して止まぬ抽象的な数的還元値其れ自體がむしろ我我ニンゲンの本來あるべき認識を崩し去りまさに「洗脳」へと導いて行くことだらう。

 

でもって上の記事にて語られる「コスパ」の問題等も全ては「合理性による打算」が齎す弊害のことなのでありませう。

尚「資本による人間の家畜化」とはまさに其の通りのことで但し自分の場合は「資本の奴隷化」との言葉の方がよりイヤらしくて良いかとさう思います。

 

つまりはニンゲンが「資本の論理」によりすでに奴隷化され故にか主に「デカいこと」ばかりに興味が向けられる訳だ。

すると大衆はよりデカいカネを稼ぐスタアである大谷君や藤井君を羨ましく思いつまりはつましい飯を食いつつ大谷君や藤井君にやれることであらう「酒池肉林」の様を夢見つつもある始末です。

 

だがワタシに言わせればよりデカいカネを稼ぐスタア程「地獄へと堕ちる」ものです。

其の逆に「貧しき者」は幸いなり。

 

汝貧しき者は逆に天の扉を開かん。

 

 

「腹が減っては戦は出來ぬ」

でもセンセー、腹が減ってはもう壱歩も動けません!

 

…確かにさうだ。

實際かう腹が減っては「御勉強」も何も無い。

 

「御勉強」以前にまずは「腹ごしらえ」こそが大事なことだ。

「腹ごしらえ」をするにはまず現金が必要だ。

 

現金が無いともうどんな🍱も買えぬ。

現金が無いともうどんな石も万年筆も買えぬ。

 

じゃあ拾って來れば?

おお良いことを聞いた。

 

實際に我は良くモノを拾って來る。

例えば道端の硝子片ー其れも銀化せし硝子片ーだとか捨てられたラジカセだとかまた🏔の石だとかを。

 

さうか、では其の「拾い」の人生に於いてすでに「資本の論理」は超越され無意味なものと成り果てておる。

つまりは其処に「売買」が為されず本質的に其れはさう「盗んで來しモノ」となる。

 

いやでもソレをイチイチ犯罪だとさう喚く法律家などもおそらくは居ないことだらう。

即ち其れは消費財なのですら無いのだから。

 

 

さうか、じゃあお空でもって雲や虹と戯れたりまた海の中でお魚や貝と戯れたりさらに🏔の中で野宿したりすることにはまさに其のカネが壱切かからんではないか。

うーむ確かにさうだ、だから「仙人」と化しあえて進んで其れをやれば基本的には「0円生活」をすることとなり其の惡としての「資本の論理」に「洗脳」されずとも済むことだらう。

 

アンタでも其れでは至極腹が減りますよ。

…ヤッパリさうだらうね。

 

と云うことはむしろ世間の人人は進んで「自己家畜化」または「自己奴隷化」して行くとのこととならう。

 

 

そして進化生物学は、私たち人間自身に起こった自己家畜化も論じています。考古学、生物学、心理学などから多角的に検討すると、この自己家畜化が私たちの先祖にも起こってきたというのです。自己家畜化にともなう生物学的な変化によってセロトニンが増大し不安や攻撃性が抑えられ、より人懐こく、協力しあえる性質が人間にもたらされました。

進化生物学の研究者たちも述べるように、自己家畜化は今日の文化や社会環境を築くうえで非常に重要だったはずで、この変化がなければ都市に集まって暮らす今日のライフスタイルは成立不可能だったでしょう。

「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com)より

 

其の「自己家畜化」または「自己奴隷化」と云うのは言わば「経済體制」に於ける「合理化」での命題です。

今日世界では「資本の論理」が蔓延しむしろ其のことにより金のある國に限りたらふく食うことが可能となった。

 

逆に申せば今日でもなお金の無い國ではたらふく食うことは出來ぬこととなる。

 

ところがたらふくは食えずとも第壱次産業が成り立って居れば民人の多くが飢え死にしなくても良いこととなる。

ですので其の「資本の論理」を國是として全面的にはあえて取り入れぬ國家としてのあり方などもまた有り得る。ーたとえば「ブータン #経済- Wikipedia」のやうにー

 

またむしろさうした國の方が「資本の論理」による「破壊」を免れて居るのだともまた言えやう。

 

 

ところが最近、その生物学的な自己家畜化の進展よりずっと早い速度で文化や社会環境が変わっています。生物学的な自己家畜化の歩みと文化の歩みの速度にギャップが生まれ、リードする文化の側が「人間よ、文化の進歩にあわせてもっと自己家畜化しなさい」「資本主義などの思想にみあった家畜人になりなさい」と人間を引っ張っています。

その結果、文化や社会環境が人間の動物性をますます漂白していく現況を精神科医としての私は憂慮しています。

自己家畜化が進んだとはいえ、人間は、ホモ・エコノミクスである以前に動物としてのホモ・サピエンスでもあります。遺伝子を継承し、子々孫々の繁栄を求める動物の観点からみれば、最もコスパが良いとは、最も効率的に子孫や血縁者を残せることを指すはずです。

「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com)より

 

さう「文化」もまたニンゲンを追い詰めて行く可能性が高くある。

「文化」は普通良いものであり「文化人」などは皆偉く勲章すらもが出たりもまた致しますが逆にソコにはほんたうの意味でのゲージツ家は少ないことでせう。

 

要するに極めてバランスの惡い文化であり文明を近現代と云う時代が築いて参りました。

其れの何処が惡いかと言えば、

 

合理化⇔非合理領域=新たな脳⇔古い脳

 

に於ける其の認識上でのバランスこそが取れて居ないのです。

でもってあえてソコへ経済體制を捻じ込んでみますと、

 

資本主義⇔社會主義

 

となるがまた其の部分でのバランスが惡いが故に現代社會は失敗致しました。

より正しくは其れが拮抗する位のバランスでないと地球を救うことは元より無理でしたのです。

 

また其のことは資本の強欲のみならず共産党壱党支配による独裁的な権力構造がブチ壊したバランスなのでもまたありましたのです。

 

 

進化生物学者リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)のなかで、「人間も含めた生物は、遺伝子からみれば(遺伝子を運ぶ)乗り物である」と比喩しましたが、今日の人間はまるで自己増殖する資本の乗り物のようです。

社会の隅々にまで資本主義の思想が浸透し、それを内面化した私たちにとって、資本主義の思想(ミーム)は生物学的な遺伝子(ミーム)よりも強い行動原理になっていて、子孫を残すのにふさわしい暮らしは、資本主義にふさわしい暮らしに上書きされています。

「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com)より

 

「資本の乗り物」=「資本の奴隷」

 

個人的に廿代の頃は其の「資本の奴隷」であることが何よりも生理的にイヤでした。

だから普通の企業には入らずあえて家庭教師→塾講師となって行ったのでした。

 

ですが「資本の論理」が本質的にオカシイ、まさに其れが「惡」だとさう気付きましたのがむしろ五拾歳位の頃でした。

三拾代~四拾代の頃はモノコレクターをやりますことに夢中ーまた其れが為に金を稼ぐことに夢中ーで且つ🗾共産党を強く批判してさえ居たのです。

 

故にまさに其の様や「資本の奴隷」状態にあった訳です。

ですが其のボーナスの分を得ませんとまさか高い🖋は買えやしない。

 

資本主義はかうして「逃れられぬ」論理にて我我庶民を縛り続け其の癖まさに理不尽な迄の搾取をこそ押し通すのです。

例えば其の五拾歳の頃に自分は研究所でもってとある現場の副責任者をして居りましたがソコへ製鉄會社ー大企業ーから出向社員が來て立場は自分の方が上ですのに同じ仕事をやるにも関わらず彼等のボーナスの額が倍、又は参倍もの額であることには心底打ちのめされた。

 

資本主義によるヒエラルキーとはまあそんなもんです。

むしろ其れがさうして「格差」により駆動される経済システムであることを知って置く方が良いことだらう。

 

また「文化人」などはまた其れ以上に「ヒエラルキー地獄」の住人ともならう。

つまりは無名のゲージツ家などはまさに食えませんのですし最終的にはゲージツを放棄せざるを得なくもならう。

 

 

こうなってしまった以上、最終的には、配偶や子育ては個人のものから社会のものになるしかないのではないでしょうか。

そもそも、世代再生産を個人のインセンティブに頼っているから少子化が進むのです。資本主義が浸透し、誰もが家族や子育てにまつわるリスクを合理的に考えるようになれば、ホモ・エコノミクスとしての私たちが子育てを躊躇し、配偶すらリスクとして回避するのは当然でしょう。なぜならそれらは投資事業としてはあまりに長期的でベネフィットが不確かだからです。

「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com)より

 

さうかうなって仕舞った以上は妻も子も要らんのです。

だから其れは資本による搾取が酷過ぎるからこそさうなったのです。

 

だから例えば廿萬の給料が倍にもなれば妻も子もドンドコ増える。

でもソレをアホの資本家共がやらんから世の中が滅びる。

 

尤も今凄い賃上げブームなのださうです。

但し輸出関連の大企業に限れば。

 

そりゃさうだ、國が彼等をしこたま儲けさせて來たのだから故に。

ですが🗾の中小企業は此の侭ではあと五年も持ちません。

 

さう中小企業はみな潰れるとして果たして大企業ダケが生き残れるのだらうか?

故に其のものズバリ資本主義社會の問題点とは、

 

1.搾取が酷

2.みんなが奴隷化

3.金持ちがバカ

 

との御話となります。

もうこんな腐った強欲體制は壱刻も早う止めるべきだらう!

 

でもまた他方では「資本主義地獄」の御陰にてかうしてモノ其のものが樂しめることともなる。

さうモノ其のものへの「愛」をこそ育むのが其の「惡」としての「資本主義體制」其のものなのか。

『サバイビング・プログレス 進歩の罠』を再度視て思う事ーそんな「理性の良心」としてのドキュメンタリー作品を視て思う事ー

『サバイビング・プログレス 進歩の罠』を再度視て思う事ーそんな「理性の良心」としてのドキュメンタリー作品を視て思う事 弐ー

 

 

 

 

まあそんな訳で話は兎に角複雑です。

其れはまさに「文明の抱える闇」の部分が壱筋縄では行かずむしろ相互の要素が関連し合いつつ雁字搦めとなって居る部分でせう。

 

また誰もがまた此の「文明の罠」であり「暴走の罠」の当事者なのです。

其のことは誰も逃れられはしない事實です。

 

さらに言えば単純に申して此の世にて得る賃金の額に比例し「罪」は生じて参りませう。

まあ其の点ではわたくしをも含めビンボー人は大した罪などは犯しては居りません。

 

其れでも長年に亘り趣味の方でやりたいことをやれば普通弐、参千萬円分程は其れに注ぎ込んでも居ることでせうからまさに其れも✖です。

するとありゃ自分などもヤッパシ✖でしたか。

 

嗚呼自分もヤッパリ自然を搾取し奴隷としてコキ使い半死人と化して居たのですね!

 

「金持ちはもれなく地獄行き」

 

まあ其れがわたくしの論理での結論でせう。

 

 

7.経済の罠

8.科学の罠

9.生活(人口)の罠

 

さらに其の4.の部分には例えば以上での概念が含まれて居る。

此れ等の概念もまた實に厄介な命題でありつまるところ「個」としては解決が不可能な課題ばかりです。

 

かってわたくしは此処にて近現代の社會が生じさせる「矛盾」なり「破壊」なりが常により大きくなることに就き言及致しました。

近現代の「拡張主義」が必然として其の目的ばかりか不利益其のものをも實はさうしてより大きく齎して行かざるを得ない。

 

要するに「高望み」をし過ぎるのでしっぺ返しの部分がより大きく出且つ「破壊」する範囲などがより大きくなるのである。

 

 

「文明よ正気に戻れ!」

 

とさう述べて來て居るのは無論のことわたくし壱社會科詩人によるもののみでは無く結構多くの學者の方方が以前から世に對し訴えかけられて居ることです。

 

作品中ではすでに亡くなられたホーキング博士などが「ニンゲンは暴力的であり野蛮ですらある」とさう「理性的」な立場から述べられて居る。

またデヴィッド・スズキ氏などは強い調子で現代に蔓延するであらう経済學による抽象的な価値としての還元作用を批判されても居る。

 

さらに「ジェーン・グドール - Wikipedia」氏による自然破壊への警鐘の部分が描き出されてもまた居る。

個人的に其のグドール氏こそがまるでかのマリヤ様のやうな方でもあるとさう感じても居ります。

 

ママチンパンジー学者から環境活動家に | ジェーン・グドール | Jane Goodall |日本語字幕 | 英語字幕

 

ジェーン・グドール:地球の未来に希望を抱く5つの理由 - 環境ニュース (mongabay.com)

86歳の動物行動学者、ジェーン・グドールから学ぶこと。【ジーン・クレールが選ぶVOGUEな女性】 | Vogue Japan

 

 

※参考資料

「暴走する文明」ロナルド・ライト著 - 爽風上々のブログ (hatenablog.com)

 

また、

 

10.ニンゲンの認識其れ自體にそも自己矛盾性=惡=どーにもならんヤバさが有る確率が高くある点

11.ニンゲンは普通偏った認識しか出來ぬ点=双方向的に認識し観念化する能力には常に欠ける点

12.ニンゲンの認識が意外とほぼケモノである点

 

とのことがまずは哲學的に導き出されたところでの重要な観点です。

また其処からは必然的に、

 

13.其のケモノ並みの認識を改めニンゲンの「認識上の革命」をこそ目指すこと

14.まさに「内向型の天才」の意見に是非耳を傾けること

15.文明!おめえ、自分の「ケツ」は自分でもって拭けい!

 

さらに、

 

16.伝統的宗教を是非見直すべき

17.國會議員並びに地方議會議員数の削減

18.金持ちへの課税の強化

 

などを是非やって行って頂きたいところだ。

 

さらに出來得れば、

 

19.不倫及びふしだらな👩の撲滅

20.禁酒法の制定

21.ギャンブルの放逐

 

とのことなどを是非實施して頂きたいものです。

 

 

9.生活(人口)の罠

 

さて「ロナルド・ライト」氏は現代人は何せ多過ぎるので半分かまた参分の壱程に減らすべきだとさうも仰る。

無論のこと自分などもまた其れには同感でありとりあえずは「半分」にすべきだと正直思う。

 

ところが此の辺りの価値は壱般大衆に取りむしろ大きな価値ですので減るも減らすも無く要するにそんなことで制限されたらたまらん訳です。

まあ其のやうに大衆の認識とはほぼドーブツ並みなのですから。

 

また此の作品へのレヴューのところにも書いてあるやうに此のドキュメンタリー作品は其の現代社會への問題提起の仕方がほぼストレートであり所謂マイルドな大衆向けの内容なのではありません。

要するに「御茶の間」などではとても視られぬ作品です。

 

が、其れだけにか文明の批判者に對し「強いパワー」を発揮するものとなる。

従ってわたくしの場合はまた何度視ても「凄い!」とさう思わされる。

 

「文明よ正気に戻れ!」

 

さう批判を重ねることは正直に申して心理的に大變なこととなる。

問題は其れをして文明が變わり得るのかとのことですが壱言で申せば言わば「慣性の法則」のやうなものでたった今動いて居るものを「止める」ことはまず出來やしない。

 

でもってそもソレが出來ないのであれば自ら進んで縁するものを「限定」し同時に「懐疑の眼差し」を文明に對し持つべきではないかと思う。

ハッキリ申して此の世の中の其れも多数派の人人は「文明」での諸価値の方をむしろ「信仰」して居り其れを貶し否定的に扱う見方其のものを嫌惡して居るのです。

 

ですが其れではまさに「文明のやりたい放題」が進んで仕舞う。

よって文明に取り最も重要なのはまさに其の「批判的な眼差し」のことでせう。

 

但しそんな「批判的な眼差し」はむしろ己を見詰めることでこそ涵養されやう。

さうしていずれは「文明論」もまた「宗教」や「藝術」に於ける論点と重なって來る。

 

其のことがまさに「我我ニンゲンとは何者か?」との問いの部分でもあることだらう。

『サバイビング・プログレス 進歩の罠』を再度視て思う事ーそんな「理性の良心」としてのドキュメンタリー作品を視て思う事ー

『サバイビング・プログレス 進歩の罠』を再度視て思う事ーそんな「理性の良心」としてのドキュメンタリー作品を視て思う事 壱ー

 

 

 

 

さて今回と及び次回分の作文にてとりあえず「観念的」に「近現代社會」との決着をつけむしろ他の面へと飛翔して行きたく個人的には存じて居ります。

ー他の面=藝術や物語りを中心とする具體的分野のことー

 

1.結果近現代の社會はあくまで「惡」いが其の惡を放逐することは宗教的次元によるものでないと成されない

2.大衆の認識への洗脳過程

3.自己實現は非観念的過程にこそ有り

 

ところがまさに其の「宗教的次元」であるにせよ「自己矛盾」する。

例えば露西亜侵略主義と結託した露西亜正教の様や我が國にて公明党が権力に擦り寄るなどとの宗教的な「自己矛盾」の例が挙げられやう。

 

其れもまあイザソコへ入り込んで仕舞えば或いは周りとはカンケーなく「幸せ」なのでは御座りませう。

また我我庶民もまたイザ現代文明に洗脳され何の疑問も無く樂しく自然を破壊して行くに限り實は「幸せ♡」なのだ。

 

ですのでまずはソコのところでの「洗脳」の有無こそが問題となりませう。

ところが「人生」とはむしろ其の「洗脳」のこととなる。

 

学校でさらに會社でまたケッコンでおまけに町内會やら子やら孫やら親類縁者やら友達やらに囲まれてこそ今アナタは仕合わせであり得る。

ボクなどは必ずしもさうでは無いがでも其れ等を前提としない限りまさに「生活」は成り立たない。

 

要するに其処には「社會的評価」が常に必要となりだからこそ引き籠りや登校拒否は排除の対象となり得る。

尚自分はかって自身も登校拒否をしたことがありましたのですが其れでもキッチリ地元の大學は卒業して其の登校拒否児の家庭教師を暫くして居りましたものでした。

 

そもセンセイがそんな登校拒否児ですのでもう登校拒否児の方方は限り無く安心してわたくしを受け容れて下さり結果其の登校拒否児弐名を復学させることに成功致しましたものです。

また其の後やりました塾の先生の頃は今思えば結構樂しかった。

 

其処ではまさに「ニンゲンは様様だ」とのことを學んだやうな気が致します。

先日も当時の写眞を眺めて居たところ當時の社會科のセンセイはむしろ今より老けて居りましたものです。ーなにせ心勞が何かと多くてー

 

 

3.自己實現は非観念的過程にこそ有り

 

わたくしは当時より何かと問題の多い現代社會が嫌いでしたのですが其れはまた直に観てみないと何とも言えぬことですので其れをせんが為にそんな「御勉強」中心での社會から「金儲け中心」での世の中に飛び込んで行ったが今思えば其れは明らかに「間違い」でした。

 

だから其れはアノ大變人のルソーやショーペンハウアーが會社勤めはしなかったこととおそらくは大いに関係があることでせう。

つまるところ此の世の中には「金儲け中心」で生きてはならない人もまた居てわたくしなどもまた其の末席に名を連ねて居たのではなかったか。

 

2.大衆の認識への洗脳過程

 

尚登校拒否児を学校へ行かせることはむしろ其の「洗脳過程」へと放り込むこととなる。

故にむしろほんたうは良く無くむしろ登校拒否をやりつつ現代文明をボロクソに批判するグレタ氏のやうな子供を育てることこそが眞の意味でのセンセイの御仕事です。

 

1.結果近現代の社會はあくまで「惡」いが其の惡を放逐することは宗教的次元によるものでないと成されない

 

でもって自分は廿代の後半より宗教活動などもまたして居りましたものです。

其処では主に「法華経」を學んだが實は大學の頃に宗教のことを多く學んでも居りました。

 

尤も現在「法華経」系統はヤバいとさう考えるに至った。

其れもまた宗教的な意味での「自立的」な「御勉強」が進んだ御陰でのことでせう。

 

また「クリスト」教なども實はヤバいとさう考えるのですがさうかと言って「邪教」なのでは無くあくまで「正教」であるとさう捉えるに至りました。

さらに「イスラーム」教などはほぼまんま「邪教」のやうで居て其れが必ずしもさうでは無く但し個人的に其れを「正教」として信じるかと言えば別に信じはしないのであくまで「其の他の宗教」として心の中に有るやうな感じですか。

 

では「禅宗」は?

はい、「禅宗」ばかりは正しいです。

 

さう常に正しいですが同時に間違っても居ます。

其れは「眞理」に對し正しいが「生活」に對し正しいとは申せません。

 

じゃあ「禅宗」こそが正教なのですね?

いえですから、

 

まさに其の(「クリスト」教+「禅宗」)÷弐、位が自分に取り合った宗教なのではないかと現在はさう思い及んで居ります。

また浄土信仰や密教に對しても個人的に理解があり且つ惡くはない宗教だとさう考えても居ます。

 

さてつい前置きが長くなりましたが以下にてまさに「文明」と「格闘」致します。

其の「文明」と「格闘」致す場合最終的には其の「宗教」的な課題こそが炙り出されても來やう。

 

 

暴走する文明 「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ | NHK出版 (nhk-book.co.jp)

 

此の本はまさに其の「進歩の罠」に就き書かれたものであり「文明批評」としては壱級のものです。

わたくしは七年程前に此の本を手に入れすでに何度か読み返して來て居る。

 

暴走する文明 / ライト,ロナルド【著】〈Wright,Ronald〉/星川 淳【訳】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア (kinokuniya.co.jp)

暴走する文明: 「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ | ロナルド ライト, Wright,Ronald, 淳, 星川 |本 | 通販 | Amazon

 

其の著者の「ロナルド・ライト」なる英國の作家が學者としての現代の知性などを交え展開するところでの所謂「文明論」の本となる。

まずは其の「ロナルド・ライト」なる英國の作家がなかなかの人物であり個人的にはまさに的確な文明評を展開されて居るやうにあくまで思われる。

 

Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 暴走する文明: 「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ

『暴走する文明―「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ』|感想・レビュー - 読書メーター (bookmeter.com)

 

ですが其の本の要点をクドクドと述べる気などは無く本日論じたいのは以下の「ドキュメンタリー作品」の方です。

つまりはDVDのことですが其れを2020年にわたくしは手に入れ其れを視た途端にまずは魂を揺さぶられましたものです。

 

Amazon | サバイビング・プログレス-進歩の罠 [DVD] | 映画

 

此処に表示される迄には時間がかかるやうですが本日自分もanimist77名義にてたった弐行ダケですがレヴューを投稿して置きました。

勿論其の評価はー☆☆☆☆☆ーです。

 

要するに此のDVDを昨日弐度に亘りまた視てみた。

すると恐ろしいことにかってよりも其の「文明の暴走」に對し「麻痺」しつつある自分の心を感じ愕然とした。

 

尤もわたくしはかうしてずっと「文明を批判」して來た積もりです。

其れももうかれこれ五、六年、いや七、八年になるでせうか、兎に角其れをして参った。

 

其れは「文明を批判」する程に理性的なニンゲンでもまたあるとのことなのです。

だってワタシが只の洗脳ニンゲンならばそんなことをイチイチ言う筈がないではあ-りませんか。

 

ですから兎に角此の文明はヤバいのでさうヤバいと言ったダケのことです。

が、確かにダンダン其の批判其のものが不眞面目化して行ったことは否めません。

 

ですが皆様、ソコでよーく考えてみて下され。

何をかと言えば其処にて独り闘うことの其の苦しみや辛さのことを…。

 

御前なんぞむしろ樂しみながら其れをやってた筈だらう、エエッズバリ言ってさうではないのかい?

などとそんな意地の惡いことをこんな至って善人でもって気の小さいわたくしに申されても其れでは余りに酷過ぎます。

 

こんなか弱い壱詩人に人類の罪の全てをなすりつけて其れでもって君等は樂しいのか?

ああ確かに樂しい、おおまるで「極樂」の世界にでも居るかのやうだ。

 

さうだったのか、僕の存在がそんな「いびられ役」としてそんな意地惡な君等の役にも立って居たのか。

さうか、さうか、其れはまずは目出度い。

 

おい、少なくとも「文明の問題」ダケはもっと眞面目にやれい!

 

 

映画『サバイビング・プログレス 進歩の罠』予告編 (youtube.com)

 

まさにこんな感じでの御話です。

 

サバイビング・プログレス 進歩の罠 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

 

尚此のドキュメンタリー作品はどうも人気に欠けるやうでしかも其の評価すらもが低い。

ですがあくまでわたくしに限れば此の作品こそが◎なのです。ー又は💮だー

 

でもって自分はコレを視ると自分の頭は狂って居なかったとの「確信」が持てるのだった。

でもみんなは其の眞實の姿こそが怖いのだし其れに洗脳もされてるのでこんなもんを観てヘラヘラ嗤ってなどはまさか居られない。

 

もしや御前はコレを視つつ嗤って居たのか?

それも「うふふふふふふ♡」とか言いつつチョッコレートと草加🍘を食いながらむしろ極樂の世界に遊んで居たのではなかったか?

 

確かにさうでした、むしろ大層良い気分でもってコレを視て居りましたのでした。

 

 

暴走する文明 - YouTube

 

かうしてこちらでも購入か又はレンタルすることが可能です。

 

4.ニンゲン(文明)に固有な抽象的思考能力及び其の能力より齎されて居るだらう近代的価値ー進歩的な価値ー

5.地球環境破壊

6.道義的腐敗=惡の蔓延

 

尚此の作品の筋を大まかに掴みたい方は、

Amazon | サバイビング・プログレス-進歩の罠 [DVD] | 映画

のところでレヴューを書かれて居る方が壱人だけ居られるので是非そちらを参照して頂きたい。

 

此の方は「人類に取り非常に重要なこと」が語られる作品だとまずは述べられて居る。

また最後に「人類の将來を鑑みれば悠長に批評して居る場合ではない」などとも書かれて居る。

 

まさに其の通りでのことなのだ。

しかしながら事實上其れは「もはや如何ともし難い」ことなのでしか無い。

 

其れも自立的な思考の有無=知識層で有るか否かに関わらずまさにさうなのだ。

其れ即ち頭の良し惡しや知識の有無に関わらずもはや其れは「無理」なことでしか無い。

 

何故なら雁字搦めでの「価値ヒエラルキー」がすでにニンゲンの認識を支配するに及んで居るからなのだ。ーわたくしの哲學的な帰着であり結論の部分ー

 

例えば企業は果たして何の為に有るか?

勿論其れは「金儲け」の為にこそある。

 

但しかって其のことをかのマルクスエンゲルスが批判しやがて社會は史的に唯物論の世界へと移行するとさう社會主義、共産制社會なる概念を導き出した。

ところが其の社會主義諸國も現在は資本主義とは無関係では居られなくなって居る。

 

何故なら「金儲け」をしないと結果ビンボーとならざるを得ずビンボーの度が酷くなればもはや飯も食えん。

其れもまだ🗾みたいな恵まれた國だと公園で無料の🍱が配られるが故にワシなどはすぐに其れに飛び付く。

 

でも露西亜だの中國だの北朝鮮にてそんな🍱が配られるとはなかなか思えぬ。

いや、だが其れを確かに配るなら共産党壱党支配だらうがプーチン独裁だらうがまたあのデブの独裁だらうがむしろまーなんでもエエわ。

 

兎に角此の世で壱番大事なのは其の「🍱」のことだぞよ。

そも「🍱」を民に配れんやうな國ではまさか其れは國とは言えずタダのムラみてーなもんだ。

 

 

例えば自然は果たして何の為に有るか?

勿論其れは「金儲け」の為にこそある。

 

なんとなれば木を伐り倒しソレを製品化しさらに開発しソコに畑だの居住地だのを造る。

まさに其のことが「文明」としての営為なのでありであるからしてそも「文明」とは反自然であり且つ自然資源の略取過程のこととなる。

 

また其のことが其の國を「開発」し「富ます」ことにも繋がるので要するに其れは「金儲け」の為にこそある。

 

 

例えば道義は果たして何の為に有るか?

勿論其れは「金儲け」の為にこそある。

 

何故なら坊主も神父も所詮はカネ次第なのだ。

坊主も神父もカネが無いと公園で🍱を貰うより他は無し。

 

そんな訳でたとえ法主であれまた大司教であれつまりはカネ次第なんだ。

だって幾ら「精神論」を説くにせよ實際にカネが無いと寺も教會も皆潰れて仕舞うじゃらう。

 

 

すると其の「金儲け」こそが「惡」なのですね?

まあとりあえずは「惡」でせう。

 

だから其の諸惡の根源としての「金儲け」を野放しにしないが為に「マルクス主義」が生まれた訳でせう。

じゃあもしや「世界革命」をすれば此の地球は助かりますか?

 

まあ百年程度は「人類滅亡」が先延ばしになるのやもしれません。

ですが今の社會主義陣営の様ではまたそのことも望み薄です。

 

尚「金儲け」とは「抽象的価値」のまずは壱番手に來るものです。

また「自然環境破壊」や「地球温暖化」を進めて居るのも結局は其の「資本」による「金儲け」主義によるものなのだ。

 

例えば『進歩の罠』の中では如何に「環境破壊」が進むのかと云うことが暴き出されて居ます。

其れは「現地人」が焼き畑をする為にまた生活の為に木を伐り出すと云った話ではまるで無かった。

 

要するにウォール街に代表される大手金融機関が後進國に貸した金の利子を取らんが為に木材としての天然資源を売却させて居た訳です。

要するにさう所謂「黑幕」が居る。

 

また大手石油會社は次世代エネルギー源としての藻を育成するスペースを確保せんが為にむしろ大規模に自然破壊を行う。

またそんな話は世界規模の話であり此処🗾なら大丈夫かと言えばまるで大丈夫には非ず。

 

どだい🗾の山奥には産廃物の処理場や廃棄場があり例えば其の周辺はダイオキシンに汚染されて居る可能性が高くある。

わたくしに限りそんな山奥がまた好きだものですから逆に個としての危険度が高くもまたなる。

 

さらに🗾の所謂里山の自然は本当の自然では無く壱度全部伐られて其の後に杉や檜などの有用林として造られた人工林であるに過ぎない。

其のやうに「文明規模」での出來事は至って大きなことをして行かざるを得ないものと相場は決まって居る。

 

要するに感情論でもってどうのかうのする問題ではもはや無くなる。

さて其の「感情」と云う面で此のドキュメンタリー作品は重要なことを伝えて居ます。

 

 

其れはニンゲンの意思決定に関する御話ですが、ニンゲンの意思決定は其の多くを所謂大脳旧皮質を使う古い形でしか処理されないとのことを番組中で脳科学者が述べて居る。

要するにニンゲンはいまだ原始人と余り變わらぬ情報処理過程でもって複雑怪奇な現代の諸問題を解決しやうとさえして居る。

 

故に必然として其れは何時迄経っても解決出來ずむしろより問題を膨らませて行くことともなる。

でもって其のことをわたくしになりに解釈すれば「理性的」な意味での問題の解決にはむしろ程遠いとのこととなる。

 

またさうした部分は所謂「大衆的嗜好」とも密接に絡み合いつまりは其れが「ワアー!」であり「キャアー!」となり易くつまりは大谷君だの藤井君だのの持つ力=スタア性にこそ群がる訳です。

自分は「ワアー!」であり「キャアー!」とは決してならない要するに壱種「クール」な人間ですのでそんなアホみたいなことはまるで分かりません。

 

との要するに「認識論」のやうなところに迄此の作品は踏み込んで述べても居るのだった。

 

よって、

 

4.ニンゲン(文明)に固有な抽象的思考能力及び其の能力より齎されて居るだらう近代的価値ー進歩的な価値ー

5.地球環境破壊

6.道義的腐敗=惡の蔓延

 

の部分は結果としてニンゲンの欲の部分こそが色濃く絡むだらう大問題の集積となる。

 

ところが、です。

ところが4.も5.も6.も「個」が其れを行うものでは無いことを是非確認して置くべきことでせう。

 

先の話で言えば眞の意味での「森林破壊」を進めて居るのは其の森林に恵まれた國の民人では無くグローバル企業だのウォール街だのとなるのである。

また道義的な意味での「惡」もまた「個」に於いて其れが為されるのではむしろ無く主にグローバル企業だのさらに國家だのそんなよりデカい組織こそが「儲け主義」の果てに成立させて居るであらう「抽象的価値」である。

 

であるからこそグレタ氏は其のグローバル企業をも含む資本主義に對しかって「否」を突き付けたのです。

また其のことは文明史に於いて大きな批判的活動であったのだとあくまでわたくしは評価する。

 

けれどまた其れはあくまで「理性」が行った仕事でした。

ところが此の世では常に「理性」が通るものとはまさか申せません。

 

其れはニンゲンの意思決定過程がそも原始的な「反射」の如きものでしか無いからなのだ。

故に「難しく」ものを述べれば普通ニンゲンは嫌がり逆にバカ凡のパパ並みにバカになりますとむしろ人は寄って参ります。

故渡辺 京二先生の著作から読み解く「近代の呪い」ー「近代」其れ自體への懐疑的な眼差しと現代社會による罪業の御話ー

故渡辺 京二先生の著作から読み解く「近代の呪い」ー「近代」其れ自體への懐疑的な眼差しと現代社會による罪業の御話ー

 

 

 

 

授業中に生徒3人の尻を触る 中学教諭を懲戒免職処分に 神奈川 (msn.com)

 

壱言で言えば「公的秩序」の崩壊のやうなものが此処🗾國ではたった今蔓延して居り其の理由は主に「🗾の近代化の失敗」であるとさうわたくしは考えて來て居る。

つまりはそも日本型の體制が特殊であり其れが「近代社會」にもまた「民主主義」にも合って居なかったとのことなのだらう。

 

と其のやうに理屈にて言えばさうなりますがたとえさうなのだとしてもすでに其れはどうにもならんことですのでさう云う本質的な意味での論議ではむしろ無く自分に取り「価値ある時間」をなるべく生きて行かうと云うのがわたくしの論理での要旨です。

 

でもって其の「🏔へ逃げる」とのことは自分に取り最も「価値ある時間」となることですので其れは其れで目標としてあくまで成立致す価値となる。

 

後期高齢者のハードル越えよ 有名人の死を考える 「若いことは素晴らしい」の論調は危険 心が急激な老化を受け入れられず生活に変調 食生活、日常運動、睡眠で改善を (msn.com)

 

此の問題にせよまさに深読みを致しますれば「現代人は洗脳によりすでに老いを受け容れられない」との命題が出て参りますがまた其れとは別に是非實存側での論理を優先しつつ其の「老後」を生き抜いて行く方が良いことだらう。

 

ですがもはや還暦を過ぎればニンゲンは「何時死んだとしてもおかしくない」のであります。

どだい還暦を過ぎればニンゲンはすでに何らかのことを成就させて來ても居る。

 

例えばわたくしの如き變人ですら、

 

1.哲學的思考に於ける完成

2.万年筆コレクターとしての成就

3.石コレクターとしての成就

 

との目的を不完全ながら壱応は成し遂げて來ても居る。

 

但し其れが、

 

4.👪主義

5.地位や名誉

6.資産形成

 

とのむしろ皆様が欲する価値とは逆方向になって居るダケの話です。

 

ですので其の實存に取り「やりたい事」がやれればもはや其れ以上は望み得ぬ「幸福」をさえ手にして來ても居る。

また其のことは其れこそ個としての知能レヴェルや性格による認識法の違いにより異なるのです。

 

でもってむしろ壱番幸福なのはわたくしの場合さう「🏔へと逃げる」ことなのだ。

そんな🏔の中で好きなベートーヴェンのピアノ・ソナタでも聴きながら俗界を軽蔑の眼差しでもって見下しそんな「仙人」をすることだけがまあ理想と言えば理想なのであります。

 

またつまりは価値観は共有されず本質的には其れ其れに「違う」ものです。

大衆社會はむしろ価値観の共有を前提とするものでせうが實際には其れは「ウソの共感」を招くばかりでのものともなる。

 

特にわたくしの場合はすでに「内宇宙」の保持者ですので其れには共感も何も無く只其れダケでもってつまりは其れしかありませんのです。

まあさう云うことを言うとかっての「オノ・ヨーコ」さんのやうに「全世界を敵に回す」可能性がまた高くもなりますのですが。

 

 

其れと好きなことに強く拘る位の方が老後のモチベーションを高めることにも繋がりませう。

其れも「酒池肉林」とギャンブル浸け以外のことならどんな分野のことでもまた良い。

 

さうして好きなことがあるから「やる気」が出るのでありイヤなことばかりではほぼ「やる気」になどならず。

 

 

「私どもの勉強は、ただ本当のところを知るため」……『逝きし世の面影』で知られた思想史家、渡辺京二さん、魂の書簡集 (msn.com)

 

其の渡辺 京二先生こそが自分の尊敬する「理性」としての御壱人です。

他にも西部 邁先生や佐伯 啓史先生などからもかって深く影響を受けました。

 

「ほんたうのところ」

さう學問とは其のことを知るが為にのみ本來有ることだ。

 

但し其の「ほんたうのところ」はまず役には立ちません。

逆に此の世で役に立つのは「誤魔化し」だの「無節操」だの「厚顔無恥」と言った類での「惡」の要素である。

 

要するに此の世には「本質的」な意味で「善」だの「眞理」だのとの本質的な価値がむしろ通らない。

まさに其のことがおそらくは此の世の實相であり逆に申せば「眞理」なのです。

 

故に「さう云うものだ」とさう達観するより他はなくなります。

ですので後はむしろどう其の不条理だの矛盾の様と個として向き合うかと云う部分にこそ心理的課題は帰結する。

 

7.「思想的」に其の「惡」と闘う

8.「惡」とはあえて闘わずに創造的に自我を歩む

9.「惡」を放棄し「逃げ」をうつ

 

「ほんたうのところ」

其の本質主義にはまた弐面があり「闘う」か其れとも「放棄する」かです。

 

ですが出來得れば其れもまた双方をして行く方が良い。

また上での参要素を同時にやってもまた良いのではなからうか。

 

こんな「参位壱體だー!」とかさう叫びつつ其れをやれるのはもう「天才」か「アホウ」かのどちらかでせう。

 

 

ところで渡辺 京二先生の著作からかって感銘を受けたことがあり其れは「明治時代初期での🗾國民の國民としての自覚の無さ」とのことであった。

先生は「結局民とはさうしたもの」なのであり別に「理念」だとか「國是」だとかと云う抽象的な価値領域の為に日日を生きるのでは無い、と云うやうなことを著作中に述べられて居た。

 

其のことはまさに仰る通りでのことです。

我我庶民は別に文明を常に「進歩」させたい訳でもまた「富國強兵」に勤しみたいのでも無い。

 

只飯を食う自由と物に耽溺する自由と女房子供を大事にしたい自由を得んが為にやりたくもないのに「文明」の壱員とされそいでもってセッセと會社へと出向き日銭を稼いで居るだけのことなのだから。

また「天皇陛下」の為に死ぬ奴など昔からむしろ居らず最終的には母ちゃんや妻や子の名前を連呼しつつさうしてかの零戦にて敵艦に體当たりをし果てたのでした。

 

左様にまずは其の「國家」と云う強大なる権力基盤の持つ悪夢性に関し渡辺先生は鋭い洞察を働かされ且つ結果的に其処でもって「庶民としてのニンゲンを救って」居られるやうにも思われた。

即ちニンゲンは決して文明だの國家だのの為に生きている訳では元より無い。

 

ですが渡辺先生は同時に「國家の解體」はなし得ないことだとさう其処に述べられて居たのです。

尚わたくしは理想論の保持者としてはあくまでアナキストなのですが其のことが為し得ぬ社會の變革であること位はまた同時に良く分かっても居ます。

 

ですが其処にてよーく考えてみればすぐに分かることながら「理念」だとか「國是」だとかと云う抽象的な価値領域の為に日日を生きろとさう強要するであらう國家乃至は文明の価値観は明らかに誤って居り何故なら其れを突き詰めて行くことで庶民としての生活はまさに其の価値の為に圧迫され且つ剥奪、搾取されるに及ぶからなのだ。

 

そんなデカい価値の為に圧迫され且つ剥奪、搾取され其れでも國をまた文明を続けて行けるのであらうや?

 

そんなデカい価値の為に圧迫されるのは例えば具體的に言えば派遣社員や中小企業の勞働者の方方などだ。

おおまさに其処に居場所のある方方はむしろ「理念」だとか「國是」だとかと云う抽象的な価値領域の為に生涯コキ使われおまけに其の給金の方が大企業のやうに恵まれては居ない。

 

こんな理不尽で且つ腐った社會はいっそのこと壱編「革命」でもしたった方が良くはないのか?

いや別に渡辺先生は其の「革命主義者」なのではまるでありませんのですが。

 

渡辺京二 - Wikipedia

 

渡辺先生はむしろさうして共産主義運動に絶望し転向した上で古き良き🗾の様を追い求めて行かれた保守派としての論客の方でした。

嗚呼さう言えば西部 邁先生や佐伯 啓史先生などもまた其のことはまるで同様でありまた現在の有名人では田原 総一朗氏などもまた其れに当たることかと思われる。

 

ですが左翼運動に関わり其れに絶望したのであれば少なくとも「國家」が行うであらう「個」への圧迫や横暴の様に関し人壱倍「敏感」なのでもあったことでせう。

尚個人的にはすでに其の「思想」をも放棄して居りましてどちらかと申せば上で云う8.と9.の部分に邁進して居ると云うのがまさに自分としての精神的な立ち位置です。

 

わたくしはかうして思想的な部分の強くあるニンゲンですが還暦を過ぎてからはむしろ「創造性」の方をより重視したくさう思い直しましたのです。

 

さうして「思想的」なもので内心の安定を得やうとする試み其れ自體に實は「無理」が生じる。

其の「無理」とはまさに抽象性の齎す罠のことであり且つ観念に於けるイデオロギー的展開での限界と云うこととなる。

 

さう「デカい思惑」のやうなものには逆に強い「限定性」の部分が突き付けられ易い。

また「近代」などと云う歴史的な過程に於けるイデオロギーであるにせよまさに同様なこととなる。

 

ならばそも「イデオロギー」などは要らんからまた🐒にでも戻ればエエのではないか?

ですが何せニンゲンはすでにニンゲンですので其の🐵にはまさか戻れないのです。

 

まあ其れも🐒のやうな人は何処にでもまたイラッシャイますのですが…。

 

でも渡辺先生をはじめ思想家の方方はまさに其の「思想」こそが御仕事ですので上での7.の方をやられて行かざるを得ない。

かと言って其の「思想」が最終的に「役に立たぬ」訳ではなくむしろ「役立つ」のです。

 

要するにニンゲンの文明に對する精神的な態度を涵養するべく必然的に學ばねばならぬものこそがまさに其の「思想的領域」のこととならう。

ですが無論のこと其のこともまた自ら進んで「御勉強」を重ねて行かぬ限りはまるで見えては來ぬこととなる。

 

 

渡辺京二さんの『逝きし世の面影』に対する思い|じんぶん堂 (asahi.com)

 

さう江戸文化への憧憬のやうなものが此処からは伝わって來る。

 

近代の呪い - 平凡社 (heibonsha.co.jp)

 

尚わたくしの愛読書とはまさにコレです。

實際此の本を再読する度に常に少しは気分が晴れる。

 

されど其の内容はむしろ思い切りに「近代」其れ自體への懐疑的な眼差しが投げかけられて居る。

要するにコレは我が國に於ける「近代化」の意味とまた世界に於ける「近代化」の流れに根底より疑問符を突き付けるが如き論評となる。

 

またわたくし個人もまた此の「近代化」の意味を其れも其の根底より問うて來た壱理性です。

でもって渡辺先生の説同様に其の「近代化」の流れには如何ともし難き「呪い」が込められて居るものとさう結論せざるを得ません。

 

但しわたくしの場合には最終的に近代に於ける「ヒエラルキー秩序」のあり方に大きく問題が生じて居ることに気付きましたのです。

よって其の「ヒエラルキー解體論」にて近代社會其れ自體と闘うとでも申しますか兎に角其の部分にて精神的に「社會」と闘うことをして参りました。

 

また繰り返しとはなりますが此の著作中で渡辺先生は「🗾の大衆の自己本位で身勝手な様」をむしろ良い意味で捉えられて居る点こそが個人的に「衝撃的」に感ぜられた。

ですので善惡で言えば先生は決して大衆を惡とは見なされて居らず逆にそんな「近代の呪い」に雁字搦めな國だの體制の側の方の非に就き其処にて論じられて居るのです。

 

また其の部分は明らかに左翼的な発想でもあることでせう。

 

さて現在わたくしは「近現代文明」自體に大きく問題があるのでありよって民人の側には特に問題が無いとさう考えつつあります。

また其のことは所謂判官贔屓であるとかむしろさうしたことでは無く「實際」に其れがさうなって居て特に政治家などがまたコソコソと私腹を肥やしたり権力を独り占めしやうとなどするのですが無論のこと其れは誤りでありだから彼等は是非壱度「断頭」されてしかるべきなのです。

 

また「ふしだら」な👩などもまた政治家に多いものです。

無論のことコレなどは不義密通の咎にて「獄門」の刑に是非処して置くべきでせう。

 

 

尚個人的に、

 

10.「抽象的観念」の暴走

11.「本質主義」の堕落

12.「自然」界の奴隷化

 

の参点がまさに自分なりに考えるところでの「近代の呪い」であるやうに感ぜられて居る。

特に10.と12.の内容はほぼイコールでのことでせう。

 

何故なら「観念」は「自然」界のものではあくまで無いが故に。

また其のことを脳科学的に言えば「大脳旧皮質」と「大脳新皮質」との「對立」であり且つニンゲンに取り乗り越えられぬ「矛盾」であり「壁」とのこととなる。

 

いずれにせよ素朴な気持ちから言えばかうして良書に巡り合えたことこそが我が生涯に於ける壱番の精神的な意味での寶であったのだと言える。

 

渡辺京二「近代の呪い」(5)第4話「近代のふたつの呪い」 - jmiyazaの日記(日々平安録2) (hatenablog.com)

 

尚こちらには此の著作の結論部分への詳しい解説があるので興味のある方は是非参考にして頂きたい。

また其の國民國家としての経済的膨張主義ー経済成長主義ーと「人工化」なるものはむしろイコールとしての概念でありよってわたくしの場合には其れを10.及び12.として並べて居るのである。

 

また其のことは最終的につい「観念化」するとのニンゲンにしか許されぬ認識上の「癖」の部分に帰結するであらう問題となる。

其のことはまた「観念化」することが吉=善と出るか其れとも其の逆に凶=惡と出るかとの瀬戸際のことなのでありとりあえず渡辺先生や其れにわたくし個人はまさに其のことを「凶=惡」だとさう捉えて居るのである。

 

精神のあり方とはまさにそんなものであり「考えが似た者同士は惹き合い理解される」が「考えが逆方向の者は貶し合いまるでもって理解されず」の状態に陥るものと相場は決まっておる。

でもって11.の部分に関して實は昨日述べたことなどがまた効いて來る。

 

即ち「内向的」な天才達を社會が登用して來なかったからこそこんなんとなり要するにかうしっちゃかめっちゃかでもって所謂「ケジメ」のつかぬ世の中となりつつある。

まさに其のことは其の事の本質的要件に関し考える力が有る天才的能力をあえて現代社會が切り捨てて來しことへの「ツケ」でありおおまさに「罪」の部分なのだ。

「内向する」ギフテッドの人の内面的能力ーそんな「天才」の人人へ今是非告げて置きたいことー

「内向する」ギフテッドの人の内面的能力ーそんな「天才」の人人へ今是非告げて置きたいことー

 

 

 

 

 

「日本人は無宗教」は勘違いである…クリスマスを祝い、初詣で神社に行く日本人の「宗教好き」を考える (msn.com)

 

我もまた此の問題に関し長きに亘り考えて参りましたのですが結局日本人は「非創唱宗教」としての「現世利益型信仰」の信者なのだらう。

故に確かに「無宗教」なのでは無く非常に特殊な信仰のあり方を「大衆」として信じる國民性なのです。

 

また其れは壱面で「全體主義」化しても居る。

故に其処には「洗脳」もまた生ずるが必ずしも其れが人人の生活に取り惡いものとはむしろならない。

 

また日本人は例えば独逸人の如くに「観念的」な民族なのでは無く極めて現實的で且つ實質的な民族です。

ですから基本的に「主義」や「主張」とは無関係であり要するに目の前に生じた問題に対処し其れをこそ解決に導くそんな力にこそ恵まれて居やう。

 

さう云うのをあえて哲學的に申せば「素朴實在論を奉ずるバカ」とならざるを得ぬが其のバカがバカとはならずに現實的に此の世を生き抜く力となることなどもまた此の胡乱な世界では認められて居ることなのです。

また其のことを別の言葉で言えばかの文豪芥川 龍之介がかって批判的に見詰めたところでの「生活至上主義」なるもののこととなる。

 

無論のこと観念での理想から言えば是非「生活至上主義」なるものは排斥されるべきものとなるがイザ其れを無くして仕舞えば彼芥川の如くに「生活力」を失い挙句に「観念と心中」するより他はない。

ですので其れもまた壱つの理想への方向性なのではあれこと「生を全うする」と云う意味では明らかな敗北と化して仕舞う。

 

故にあくまで個人的には🗾人の信仰はむしろ其の侭で良いとさう考えるに至った。

とは言え危惧すべきことはむしろ他の面に有り其れは🗾と云う國の特殊な物理的崩壊性の問題となる。

 

要するに🗾國は安全でも安心でもまるで無い國でありまさに其の逆に何時どうなるか分からん國なのだから故に。

要するに災害國であり持続可能性に欠ける國ともなる。

 

其れをまた天皇制ばかりが長く続いたものですから「伝統」の國でしかも「永続」する國であるとさう大衆は判断する。

ですのでまずは其のことだけが🗾國民の認識上の「間違い」なのです。

 

 

日本人がいよいよ「絶滅危惧種」になる…この国がもう一度「豊かな国」になる「たったひとつの方法」 (msn.com)

 

こちらでの御意見などが正しいやうに個人的には思われる。

但し其の「豊かさ」とは経済成長の指標や國家のランク付け等で決め付けられるものにはそも非ず。

 

「豊かさ」とはむしろ心の有り方が「豊か」と云うことでありまた🗾の豊かな自然の様と交流する心の余裕を保持し得ることこそが眞の意味での「豊かさ」なのだ。

また「豊かさ」とは「要らん」物に囲まれることでは無く自らが選び抜いた「要る」物と共に暮らしを生き抜くこととなる。

 

よって其の「都市型でのヒエラルキー社會」から「分散型の非ヒエラルキー型社會」へと価値観其のものを転換させて行く方が良い。

さらに大震災などでおそらくは2060年頃迄に近畿圏や中部圏の大都市圏は壊滅致します。

 

また関東圏も例の富士山の噴火などで壊滅する可能性が高く有る。

だから今のうちに都市の住人は🏔へと是非逃げて行きませう。

 

兎に角🗾全國に点在する山奥などが是非御勧めです。

其の折に食料と飲み物を廿年間分位買い占めて其れを持って🏔へ入って下され。

 

實際わたくしなどはたった今壱億の金があれば其のことを速やかに實行致します。

要するに都市などは見捨てて早う逃げるべきなのだ。

 

サアサ壱刻も早う逃げよ!

でもって今後🗾國がどうならうが知ったことでは無く只個としての命ばかりは自ら防衛すべきですよとさう申し上げましたばかりなのです。

 

 

世界の「ギフテッド」の75%以上がじつは「内向型」だった…外向型と違う「脳の仕組み」 (msn.com)

 

さて其の「ギフテッド」の御話ですが自分もまた其の種のニンゲンであることはまず間違い無い。

どだい自分はまだ社會科などを小中学生に教えられるのですし其れに文學や思想に強くさらに宗教や哲學の分野を深く理解してなども居る。

 

そんな人はまず居ないことでせう。

ありゃ困ったな、よりにより自分がそんな特別なニンゲンで。

 

でもって問題は自分が所謂「社交」に全く興味が無いことなのです。

其れどころかわたくしの場合はかうして文明其のものに對する批判者なのです。

 

「社交」どころか所謂「文明嫌い」なのでして其の癖「筆記具」ダケは好きなのです。

また「スーパーカー」なども嫌いでは無い。

ー「分裂気質者」はさうして「ニンゲン其のもの」よりも「物其れ自體」が好きなのださうですー

 

まさかの「“トヨタ”ノフェラーリ」登場!? アンダー210万円で買える「FFスポーツカー」! “ニセF430”に仕上げられた“クオリティ高すぎマシン”の「ベース車」とは? (msn.com)

 

あれ恰好良い。

 

CYBERTRUCK | Teslaジャパン

新型「斬新すぎ“カクカク”4WD」実車公開! 全長5m超えボディ&“アフリカ象”も引っ張れるパワトレ採用! ステンレスボディの「サイバートラック」日本導入は? (msn.com)

 

か、かかかかかかかかかかかかのカクー。

嗚呼なんて恰好良いのだ!!

 

はい、宝くじが当たった時に買う🚙がたった今決まりました!!

 

ですがとりあえず哲學的に🚙及び🚢並びに✈を否定し🚲の効用を説く自分としてはそんな「スーパーカー」なんぞに乗って居る場合ではありませんのです。

また意外と「美女」なども可成に好きですが其れは「生もの」であるが故に決して手を出してはならないものなのです。

 

 

でもって「内向する」ギフテッドとのことですが彼等は結果むしろ高知能者なのでありつまりは社會が求めるであらう「外向型」のニンゲンよりも壱般に思慮深く控えめです。

其れもまた良く考えてみれば分かることでさうして人やら何やらに振り回されるのが好きな人に「考える力」などある筈が無いのです。

 

ちなみに家の母がまさに其の「外向型」のニンゲンです。

ですので互いが互いを理解出來ませんがまあ其処は何せ親子ですのでさうして毎日火花を散らしながらも仲が良い訳です。

 

ところでさう「内向する」ギフテッドの人は矢張りと云うべきか藝術家や哲學者にはおそらく多かったことでせう。

其れもまた程度が色色有る訳ですが例えば画家で言えばセザンヌなどは其の變人振りが凄かったのださうだ。

 

また岡本 太郎氏などもヤッパリ變です。

さらに草間 彌生氏なんぞほとんどビョーキかと思われますがでも其れがゲージツなのです。

 

哲學者ではショーペンハウアーが明らかにそんな變人のジジイであり其の弟子筋のニーチェなどはやがて発狂するに至りました。

ですがさうして社會生活を営み世に評価される訳ですので彼等はほんたうの意味での社會忌避者なのでは無い。

 

ほんたうの意味での社會忌避者ならば人知れず山奥に逃げて行き其処にて生涯を終えることでせうから世に出ると云うことがそも考えにくい。

まあ自分などはまさに其れでありカネさえあればほんたうに山奥へと逃げて行きますのです。

 

でもって先にも述べましたが「内向する」ギフテッドの人人は「内宇宙」の所持者ですので其れのみで元來自己完結して居ります。

また「思想」と言っても自分の頭の中で何でも考えられるので別に勉強などはしなくても哲學的な理論の壱つ位は生み出せます。

 

 

ドーパミンの受容体の遺伝子(DRD4)には個人差があります。外向型はDRD4遺伝子が長く刺激の許容量が大きいため刺激に鈍感であり、さらなる刺激を求めることに意識が向きます。幸せを感じるためにはドーパミンをより多く必要とします。

一方、内向型はDRD4遺伝子が短く刺激の許容量が少ないため刺激に敏感で、刺激を抑えようとします。ドーパミンが多すぎると疲れてしまうため、ドーパミンが増えるのを避けるようにあらかじめプログラムされています。

また、脳の中に流れる血の量や流れる経路も異なります。内向型の人は脳内に流れる血の量が多く、血流量が多いということはそれだけ活発に働いていることを示します。

 

世界の「ギフテッド」の75%以上がじつは「内向型」だった…外向型と違う「脳の仕組み」 (msn.com)より

 

21世紀ではかうして科学の発達によりあらゆる事象がより事細かに分かって來て居ます。

まさに此の部分などは「凄い事實」其のものです。

 

要するに内向型の人は「刺激」に敏感でありむしろ其れを避けたいと常に感じて居る訳です。

 

昔何かの本でとある男性の🗾の詩人が「風がそよぎ机の上の便箋を揺らす度にドキリとする」と云うやうなことを述べて居られ嗚呼まさにさうなのだとさう共感されたことがありましたものです。

詩人の心のあり方とはまさにさうしたものなのです。

 

ですのでまさに其のことが脳の仕組みの上からも両者は眞逆だと言えることなのです。

でもって其のことをより分かり易く現實的に言えば「外向型は至って鈍感」なのであり「内向型は至って敏感」なのだともまた申せませう。

 

また内向型の人には基本的に「考える力」が有ることが上の部分からも良く分かります。

 

 

また、内向型の血液が外向型に比べて、「思考」に携わる部分に流れていることもわかりました。記憶したり、問題を解決したり、計画を立てたりといった内的経験に関わる部位に流れていたのです。当然、目的を理解してタスクを処理するような能力にも優れていて、知能指数も高い傾向にあります。

一方、外向型は視覚や聴覚、触覚など感覚情報を処理する脳の各部へと流れていました。

外向型の人は周りで起こっていることに注意を払っていますが、内向型の人は自分の「内面の考えや感情」に注意を払っています。

内向型に強いこだわりを持つ人が多いのも、そうした思考がもたらすものといえます。知能指数が高く、こだわりが強いギフテッドに内向型が多いのもこうした脳の仕組みから説明できるのです。

 

世界の「ギフテッド」の75%以上がじつは「内向型」だった…外向型と違う「脳の仕組み」 (msn.com)より

 

「内向型」の人はつまるところより「理性的」であり動物の中ではニンゲンにしか備わらぬ「思考」の領域に長けて居るとのことがまさに此処からも分かる。

他方で「外向型」の人はむしろ其の「理性」以前での情報処理の部分に長けて居るやうです。

 

ですが其のこともまた程度があり例えばわたくしなどはどちらもまた得意です。

ではあるが基本的には矢張り「思考派」であり「理性派」でせう。

 

またイチイチ周りに関わって居ると自己としての世界がむしろ貧しくなる感覚などはどうも個的に強いやうです。

周りから大きく影響を受けたことなども何度かはありましたのですがさうしたことはごく稀な例であり大抵はロクなものに出合えないと云うのがむしろ世間と云うものです。

 

また「拘り」の強さに就いてですが確かに自分の其の拘り方はまずは並外れて強い方なのだらう。

ですがかってかのベートーヴェンが挽く豆の数に迄厳格に拘って居たとの話を知り愕然としたものでした。

 

何故ならワタシは其の豆の数などはどーでもエエからなのです。

其れに潔癖症ではありますが案外ダラダラなところもまたあり要するに両面が出易いタイプなのでせう。

 

 

これは社会が外向型人材を求め続けてきたことを物語っています。ジマーマンは、内向的なタイプは一流の学術機関でポジションを確保するチャンスを妨げられているかもしれないことも示唆しています。

バーに行ったり友達と遊んだりする代わりに家にいて映画を見たり本を読んだりする内向型の人は、一流の学歴を持ち、平均以上の知識を持っていても、外向型の人と比べて教室や講義ホールで目立たないからだとしています。

 

世界の「ギフテッド」の75%以上がじつは「内向型」だった…外向型と違う「脳の仕組み」 (msn.com)より

 

まさに其の「社會」が「外向型」人材を重視して來たのでむしろ「社會」が惡くなりつつある可能性が高くあると以前よりわたくしは考えても來た。

逆に「内向型」人材が文明の推進側に多く居れば現状でのやうなまさに問題ダラケで且つ持続可能性の低い社會を築くことは無かったことでせう。

 

現状でもって問題ダラケで且つ持続可能性の低い社會となって居るのは所謂「思慮を欠く文明の進め方」であり「イケイケドンドン」での儲け主義などがさうなるやうにそも導かれて來たのです。

だからわたくしなどは屡妄想をしたものでした。

 

きっと其のうちに👽が我が家を訪れる筈だ。

其の折に自分は「選抜者」の壱人として選ばれやう。

 

さすれば田舎に大豪邸を建て召使を持ちやりたいことがやれるぞよ。

また「選抜會議」には出ねばならんが何せかうしてすぐに「論が張れる」のでノート壱冊と筆記具壱本さえあれば人類の歴史に残るだらう「大講義」をすることさえもが可能である。

 

うん、さうだ、確かにソレをやった方が此の地球及び文明の為になる。

などと實は屡「妄想」をして居りましたのです。

 

が、基本的にさう「目立ちたい」のでは無くむしろ「隠れたい」のです。

其れと正直申して文明のことは可成にバカにして居ります。

 

問題は其の田舎の豪邸をなかなか建てられんので何とかしてさう云うラッキーが來ないものかとさう思ううちにすでに高齢者になって仕舞いましたのです。

 

「内向型」=「鎮静型」

「外向型」=「わちゃわちゃ型」

 

なのだともまた言えませう。

要するにさう脳の仕組み自體が異なるのでどちらが良いとのことでは無く要は近現代社會が其の「わちゃわちゃ型」をあえて重視して來たとのことです。

 

ですが其の結果がこんな社會の有様となって仕舞って居る。

其のことはまた取り返しのつかない誤りであった可能性が高くある筈です。

 

何故なら「鎮静型」の人はまず「自然破壊」を進めるやうなことはしない。

其れどころか彼等は兎に角思慮深いのですでに現代社會を理想的な形に構築し直して居る可能性すらもがまたある。

 

其の大きな可能性を自ら潰して來たのが他でも無い近現代社會に於けるニンゲンの選抜法によるものなのだ。

 

 

さてそんな「ギフテッド」のむしろ半分以上の人人が其の才能を埋もれさせた侭に生涯を終えて居たかと思うと實に残念でなりません。

まさに其の「ギフテッド」系の人人は高知能と強い思考力とを持ち近現代文明の羅針盤として機能すること位はむしろ容易なことだったことでせう。

 

實際に自分がたった今「文明」に関する講義を依頼されたなら早速明日にでもソレをする用意はすでに出來て居る。

と言うか今晩此処にて言って來たことを纏めれば其の講義用のノートはすぐにでも出來やう。

 

また實際にネット上にもそんな「ギフテッド」系の人人が確かに居られます。

でも自分の場合は其の種の人人の中でもすでに高齢な方かと思われる。

 

なので最後に壱言だけ述べさせて頂きますがアナタ方の其の天才的な能力を表立って此の文明社會が評価することなどはまず望み薄ですのでむしろ🏔へ逃げて行くべきです。

たとえ🏔へ逃げてもアナタ方の其の天才的能力は決して消え去りはせずむしろ此の大宇宙が消滅する直前まで其れ即ち「アカシックレコード - Wikipedia」の中にしかと刻まれて行くのです。

 

そんなアナタ方の天才的能力をこそわたくしは決して忘れないことでせう、たとえ急におっ死んだのだとしても。

岡本 太郎氏による対極主義ー『創作者の体感世界』を読んで思う事ー

岡本 太郎氏による対極主義ー『創作者の体感世界』を読んで思う事ー

 

 

 

 

漫画家の鳥山明さん死去 68歳 「ドラゴンボール」など:朝日新聞デジタル (asahi.com)

「まる子」TARAKOさん、出身地・群馬で「夏休みコンサートの顔」…訃報に「今までありがとう」 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

オレたちひょうきん族でアダモちゃん…島崎俊郎さん死去、68歳 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

かうして今世間では六拾代や七拾代が次次と没しある種の違和感のやうなものを感じさせても居る。

其れはどんな違和感かと言えば所謂「平均寿命」に関する違和感です。

 

日本人男女の平均寿命、2年連続で縮む…女性は3年連続で世界1位 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

個人的に其の平均寿命は今後むしろ縮むものとさう見て居る。

特に2050年以降は地球温暖化の影響がより顕著となり大體65歳辺りがニンゲンに取り限界での年齢となるのではなからうか。

 

よって文明が撒き散らす「常識」には騙されず例え若くても「今のうちにやりたいことをやり切る」位である方がより望ましいのではないか。

でもって今ですらかうして六拾代は何故か早死にをする。

 

其れは食って來たものが今の八拾代とはまるで違うからなのであらう。

實際我我還暦世代からはカップ麺だのファンタだのコーラだのさらに他の變なものを多く食って來て居るので根本的に體が弱いと來てる。

 

だから八拾迄生きやうと云う方が其れは無理なのだ。

故に我我還暦世代の寿命はかうしてすでに七拾歳を切った。

 

 

さうして「文明病」に蝕まれることで我我還暦世代の余命はあと僅かであらう。

だからわたくしもあと壱、弐年ばかりを頑張れるかどうか位のものだらう。

 

アンタ考え方が「悲観的」過ぎるのだって。

いいやさうでは無い。

 

さうでは無く何せ此の文明こそが「バカ」過ぎるのさ。

 

 

また最近兎に角寒いのでわたくしはチキンラーメンばかり食しておるが其れには惡い脂が含まれておりよって其れにて我が長生きの因子が悉く破壊され65歳迄しか生きられぬやうになって仕舞う。

さうして「チキンラーメン」ばかりを今度は惡者に仕立て上げる御積りですか?

 

いいやさうでは無く此の「文明」其れ自體がほぼ惡者なのだ。

 

そもこんな社會に誰がした?

君か其れとも儂なのか?

 

其れともジミントーか、官僚か、又は日銀なのか?

 

がん闘病の森永卓郎氏、医師から「桜は見られない」宣告も「もうつぼみ膨らみ始めていますね」 (msn.com)

 

ほれ、コイツなどもいずれ死ぬぞよ。

だが意外としぶといな。

 

其処は是非見習って置くべきことだらう。

 

 

さて本日は主に以下の著作を読み考えさせられたことの其の内容に就き是非述べさせて頂きたい。

 

創作者の体感世界 横道誠 | 光文社新書 | 光文社 (kobunsha.com)

 

此の本は藝術を認識世界としての類型として論ずる本であり壱種「革命」的な視点を世に示すものであらう。

尤も昔から所謂「病跡学 - Wikipedia」なるものが世には存在して居た。

 

自分はかって其の病跡学関連の著作を何冊か読んだことがある。

 

病跡学からみる精神疾患と天才たち|「うつ」の心に癒しを。 (kokoro-iyashi.info)

芥川龍之介と病跡学(パトグラフィー)|歴史系高等遊民 (note.com)

 

尚先日「天才とキチ外は紙壱重」と云う諺は正しいと自分は述べた。

其の自分にも實は天才型の素養があり其のことでもう長く苦しんでも來て居る。

 

ところが其の自分でもって自分に感ぜられる所謂「天才」とは所謂「ヒエラルキーの上部構造」のことでは決して無いのである。

むしろ其れは上へも下へも通ずるだらうより幅広い認識世界のことなのである。

 

要するに「事の両面」に對し「同時」に理解が可能となることなのだ。

が、其れを行うには通常の価値観の解體や再構築が必然的に個としての心中にて行われなければならずよって並外れた心理的エネルギーが必要となり其のことは当然ながら誰にでも可能なこととはならない。

 

また其れを逆にも捉えることが可能でありつまりは所謂常識的な見方なり価値観なりがむしろ初めから「壊れて居る」のだとも言えやう。

でもって其の枠組みがむしろ初めから壊れて居るので其れ即ち「自己完結」的に物の見方なり価値観なりを再構築することが可能となるのだ。

 

いや再構築ですら無くむしろ初めから其のやうになって居るのである。

でもって最初から其のやうなので何せ認識の方が傍から見て居ると「變」に見えて仕舞う。

 

ところが其の「變」だからこそ例えば藝術やまた宗教さらに哲學の分野などに強い理解や構築力を発揮することが可能となるのである。

と云うことは元元其れ等の分野の出発点がそも「變」なのであらう。

 

そりゃさうだ、藝術家や宗教家や哲學者はどう見ても「普通」では無くむしろ「變人」ばかりではないか。

そりゃさうだ、「普通」でもってみんなと同じで其れでもって藝術家や宗教家や哲學者になれる筈が無いのですから。

 

 

其の「變」は「負」の領域ともまた考えられるが其れが「負」ばかりですと藝術家や宗教家や哲學者では無く単なる「精神🏥へ収容される人人」にしかなり得ない。

故に「正」と「負」の両面の領域に亘り其れに精通する認識でなくては「天才的認識」とはまさかなり得ぬ。

 

尚此の本其れ自體は其の「天才的認識」が有るが故に苦しんで生きて來られた大學の先生が自らの體験から語られるところでの「天才論」であり「藝術論」となって居る。

わたくしはまず其の点にこそ大きく感銘を受けた。

 

故にこそ此の著作は単なる「病跡学」の著作では無く自己としてのタマシイの表白の側面を多分に持ち合わせる。

だが本日は此の本の書評を展開するのでは無くあくまでわたくし自身の體験をも交え「天才論」を講じて居るだけのことなのだ。

 

1.「自閉症スペクトラム」と「ADHD」の違い

2.拘り=同壱性=理性

3.正負の領域に拘らず拘ること

 

 

ADHDの特徴とは?衝動性、不注意、多動の3つのタイプの特徴と具体例をご紹介 - あらたまこころのクリニック | 名古屋市瑞穂区の心療内科・精神科 (mentalclinic.com)

自閉症スペクトラムとは――特徴と症状、どんな人が当てはまるのか?発達や大人になってからの不安について | メディカルノート (medicalnote.jp)

 

さてわたくし自身にはたった今其の「自閉症スペクトラム」としての資質が明らかに認められるのですが「ADHD」の方での資質はむしろほぼ認められない。

尤も小学生の其れも低学年の頃には確かに其のやうな資質もまた認められて居たりはした。

 

だが小学生の高学年となり其の資質を「理性的」なものへと転換せしめたが故に以降は其れが発現しなくなったものと考えられる。

實際に「ADHD」の資質は「理性的」なものだとは言えないが「自閉症スペクトラム」の資質を持った人には例えば高学歴者や高知能者などが其処に含まれることが多いとされて居たりもまたする。

 

故に下司な言い方をあえてすれば「キチ外にもまた色色とあり」そんなキチ外どころか高学歴者や高知能者なども確かにソコに含まれるとのこととなるのである。

但しあくまでキチ外的な素養は持つとのことであらう。

 

4.自己完結的な「宇宙」の持ち主

5.よって外部に頼る必然性に欠ける

6.外部への強い批判力を持つ

 

自分を観察してまず思うことが以上の点となる。

即ち初めから「宇宙」が其処に有るので外部から何かを得る必要がそも本質的には無い。

 

ではあるが自分の場合は兎に角「御勉強」を欠かさず行い「理性のキレ」のやうなものを常に磨いて置く訳です。

まさに其の「御勉強」をしないと「理性のキレ」が失われがちであり要するに凡俗の認識へと落ちて行って仕舞い易い。

 

故に常に外部より知識を得る必要が生じだけれども其のことにより自分の認識を転換させて居る訳なのでは決して無い。

何故ならすでに「宇宙」は其処に有るので。

 

でもって本の方では「萩尾 望都」氏を論じた部分で此の両者での資質の違いに就き論じられて居る。

其の「萩尾 望都」氏は「自閉症スペクトラム」型での天才であるとさう結論付けて居られる。

 

またおそらくはわたくし自身も其の「自閉症スペクトラム」型での認識を行う壱理性なのであらう。

 

さて個人的に萩尾望都 - Wikipedia氏の百億の昼と千億の夜 - Wikipediaと云う作品には若い頃に大きく影響を受けた。

尤も其れの原作は光瀬龍 - Wikipedia氏によるSF小説作品となる。

 

光瀬氏は学校の先生までされて居た方でSF作品ではあるにせよ其の認識世界は至極眞面目なものであり当時自分には合って居た覚えがある。

ー廿代の頃わたくしはSF小説のマニアでもまたあったー

 

ロン先生の虫眼鏡 (漫画) - Wikipediaなどと云う作品にもまた大いに感心させられた覚えがある。

 

尚藝術表現の中には此の種での「教師物」での分野がまたしかとある。

学校の先生や大學の先生が表現をされるものでさうしたものが自分には合うことがまた多かった。ー例えば「ステファヌ・マラルメ」の詩などがー

 

またかっては「西脇 順三郎」の詩などが其れも可成に好きであった。

さらに「萩尾 望都」氏の認識世界は所謂「分裂」型であるとさう本には書かれて居た。

 

 

エルンスト・クレッチマー #クレッチマーの三気質- Wikipedia

 

わたくし自身もまた認識上の主調はおそらく「分裂」気質なのでせうが同時に「神経質」で且つ「粘着質」且つ「偏執質」でもありだからと言って痩せて居る訳では無く腹も出て居ますし見た目はむしろ「人の良さそうなハゲのオッサン」でしかない。

 

またどう見ても「神経質」には見えない。

でも實際に可成に「神経質」です。

 

ーデリケートな性格で通俗的な物事を軽蔑し、自分だけの世界を作り上げ、それに熱中するタイプ。 文学美術等の芸術面に関することがらにおいて才能を発揮することが多く、貴族的なほど洗練された上品なセンスと冷酷さを持ち合わせている。 粗野で下品なことに対して極端に嫌悪感を示すのもその一端のあらわれである。 さらにこのタイプの人は観察力と分析力にすぐれ、理路整然とした物事の考え方をすることが多い。ーエルンスト・クレッチマー #分裂質タイプ(Sタイプ)- Wikipedia

 

やっぱしコレだらう。

但し粗野で下品なこともまたあえてしたり言ったりもする。

 

兎に角全てを理路整然として捉えるので其の論理に反するやうな理不尽さに對し特に我慢がならない。

が、其の怒って居るコトの対象其のものが人とはまるで違って居ることなどが結構多い。

 

例えば環境破壊のことをかのグレタ氏が怒るがまあ其のやうなものである。

さらにスーパーのレジ係や看護師などの對応の惡さに就き大層厳しい。ーつまりは社會的役割に對し厳しいー

 

さらに物に對し怒ることなどが多い。

例えばトースターや自動洗濯機や布団の出來の惡さに就き常に根を持った形でもって怒ったりもして居る。ーまた其れも社會的役割に對し厳しいとのことだらうー

 

さらに「性的な事象」に興味が無く常に「権威を否定」的に見詰めるのも其の(Sタイプ)者としての気質なのやもしれぬ。

 

 

また此の本を買うきっかけとなったことが「オノ・ヨーコ」氏に関する章が設けられて居たことである。

其れを読んでみたがなかなかに面白かった。

 

特に「全世界レヴェルでの無理解」と云うやうなことを「オノ・ヨーコ」氏がかって述べて居られたことには衝撃を受けた。

其の「全世界レヴェルでの誤解」を解くことなどは元より無理なので逆に自分の人生を「生産的」で且つ「ポジティヴ」なものに転換するが為に彼女は「藝術の場」に専念して行くこととなる。

 

また氏はかって草との御話を試みて居たさうである。

まあわたくしなども常に動物との會話ー🐈や🐦との會話ーを心掛けては居るのですがでも植物との會話は可成に難しいのだと正直思う。

 

ですがかっては🏔を常に訪れまたそんなこともたまにはして居ないでもありませんでした。

またニンゲンには本來其の類での「テレパシー」の能力が有った筈だと彼女は述べる。

 

つまりは其れが「超能力」のことです。

 

次に「岡本 太郎」の章などもまた読んでみたが其処に限りいまひとつピンと來なかった。

「岡本 太郎」氏は「ADHD」型での天才でありB級オオサカ的な何でも首を突っ込むタイプでの藝術的爆発の世界だとさう捉えられて居る部分に正直違和感を覚えた。

 

逆にわたくしには「岡本 太郎」氏は相当な「分裂」気質者に見えまた非常に論理的で且つ静謐な世界観の持ち主ではなかったか。

また彼の凄いところは其の文章を読むと壱目瞭然となる。

 

特に此の本の137頁に引用された文章には言葉を失った程である。

 

 

ーそれは彼の最終哲学の観念、「テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ」、弁証法の結末となるジンテーゼ(合)の哲学概念に納得できない面があったからだ。

私自身の生命的実感として、いま、なまなましく引き裂かれながら生きている。

「正」の内にまた相対立する「反」が共存しており、激しく相剋する。「反」の内にまた逃走する「正」がゆるぎなくある。その矛盾した両極が互いに激烈に挑みあい、反発する。

人間存在はこの引き裂かれたままの運命を背負っている。ヘーゲルのように理論を前提としたのではなく、この永遠の矛盾に引き裂かれてあることのほうが、はるかに現実的な弁証法弁証法は正・反・裂かれてあることが絶対なのだ。(39ページより)ー

 

「人生には、道がないからおもしろい」。そう断言する岡本太郎さんの根底にある絶望とは | レビュー | Book Bang -ブックバン-より

 

わたくし自身もまた其の「ヘーゲル弁証法過程」を認めては居ない。

また此の「岡本 太郎」氏の言葉に強く共感する。

 

其の「正」と「反」はさうして激しく鬩ぎ合いつつも同時に相即する。

即ち相剋し且つ相即する。ー我が哲學的概念ー

 

まさに其の様や矛盾過程としての両極が「ぶつかり合う」様で無くて何であらう?

よって正⇔反→合となるのでは無くあくまで正⇔反はむしろ其の侭に引き裂かれて居るより他は無い。

 

また自分は其のことをそんな「岡本 太郎」氏の言葉より學んだ訳では無くあくまで自らの頭でもってさう考えた。

 

「永遠の矛盾に引き裂かれてある」

 

其れにつけても凄い言葉である。

ニンゲンの實像とはまさにそんなものであるに違いない。

 

故にあくまでわたくしの場合は「岡本 太郎」氏をまさにそんな哲學的な意味での「本質主義者」だとさう捉えており且つ「近代文明世界」へ最も鋭利な刃を突き付ける刺客であるやうに考えても居る。

 

 

ー私は「対極主義」を唱えた。日本の文化界、美術界の惰性的状況に挑んだのだ。以来、ずっとそのスジをつらぬいてきた。

だがそれを「主義」として主張し、広めようとはしなかった。主義という型にはめると、対極は死んでしまう。理論づけて同調者をもとめたり、ロジカルに一般化しようとするよりも、私は孤独のなかで、いわばナマ身で、両極の間に引き裂かれて生きたい。あくまでも己れ自身の生きるスジとして、悲劇的に深めていくべきだと思ったからだ。

だから対極はいまも私の生き方の根源にある。(38ページより)ー

 

「人生には、道がないからおもしろい」。そう断言する岡本太郎さんの根底にある絶望とは | レビュー | Book Bang -ブックバン-より

 

いやはや、まさに凄い言葉である。

 

「對極主義」

 

結果的にわたくしもまさに其の「對極主義」を取ることとなった。

 

「生身でもってして引き裂かれる」

 

ですが、其れって明らかに「分裂」気質者としての言葉ではなかったか?

 

バラバラに乱れた渾沌のなかに、生命をつらぬきとおすのだ。

ときどき、声を出して笑う。

「おもしろいねえ、じつに。オレの人生は。だって、道がないんだ」(40ページより)ー

「人生には、道がないからおもしろい」。そう断言する岡本太郎さんの根底にある絶望とは | レビュー | Book Bang -ブックバン-より

 

さう、人生とはそんな「渾沌」世界のことであり論理的に合壱する世界のことなんぞではまずあり得ない。

またさう云う有様をしかと目の前に示して呉れるのがまさに「自然」としての様でせう。

 

尤もさう「自然界」は分裂し引き裂かれて居るがあくまで自分の見立てではニンゲンの認識はまた其れがさらに分裂して居る。

要するに弐重に分裂するであらう認識こそがニンゲンの価値観の正體となる。

 

よってあくまでわたくしの哲學的考察に於いてはさうニンゲンの認識は酷え「分裂型」なのだ。

なのでビョーキなのはむしろ其の社會的認識の方なのであって其れが「分裂型」だから惡いのでは無くむしろ其れを「合壱」せしめて「進歩」又は「発展」させやうと躍起になるからこそまさに其れがビョーキなんです。

 

とのことでまさに其のことこそがわたくしの展開する現代文明批判に於ける最終的な「結論」となる。

とどのつまりは其れが、

「ビョーキ」

だとのことですね。

 

でも御前こそがビョーキだらう!

ええ、まあ其れでも宜しゅう御座りますがもっともっとビョーキなのが現代文明でもあることだらう。

 

でもそんな絶望的な…。

いやだからまさに其れがかの岡本 太郎氏が抱えた「絶望」なのでありそんな「絶望」の侭に其れでもゲージツを爆発させると云うことこそが嗚呼まさに彼のゲージツの核心部に横たわる眞理なのだからして。

「翡翠TV」を視聴し感動したことー横浜JOYTECさんの最近の動向と翡翠原石に就いてー

翡翠TV」を視聴し感動したことー物に関する認識論に就いてー

 

 

 

 

 

さて其れでは「物に関する認識論」に就きまずは説明させて頂きます。

 

まず物は物であり所詮モノです。

ところが観念による認識が所謂「相對認識」となるが故に其処には最終的に自己矛盾が引き起こされ要するに「破壊過程」が生ずるとのことがわたくしの「哲學」での主要な概念です。

 

とさうあくまで概念として其の「自己矛盾」を捉えますれば其の「破壊」は必定となり事實として認識上のバランスを欠くことだらう観念的近代社會はむしろ「破壊」にこそ勤しむが如き様相を呈して來てさえ居る。

では壱體どうすれば其の破壊を免れ認識上のバランスを保った上で我我は生きて行けるのであらう?

 

其の問いに對する答えはあくまで「無理」とのことです。

何故なら観念的近代社會はすでに堅固に築かれて居り其処ではむしろ日毎に「破壊」の度を進めつつ歩んで居るからです。

 

では所謂「諦めて」居れば良いのか?

諦め=明らかに究めることでもまたあるが故に認識上個として達観することで社會的価値を「放棄」することなどもまた壱つの究極的な解決法でせう。

 

ですがわたくし個人に限れば其れをやりたくてもやれない状態にある。

よって主に其の逆方向をあえて模索して参りました。

 

なんとなれば価値としての概念はさう常に弐極化する訳なのですから。

 

「さうして社會は變わりやうが無い」

 

おそらくは社會が變革され例えば世界革命に至るにせよ「ヒエラルキー秩序」はしかと生じますので根本的に「破壊」を食い止めるやうなこととはならない。

であるのだとすれば其処には、

 

「變革し得るのはむしろ自己認識の方」

 

との結論がまずは得られやう。

無論のこと社會變革に挑むこと其れ自體に価値が無い訳では無いにせよ其れでは徒労に終わる可能性の方がどうしても高くならう。

 

其処で「物其れ自體」のことを自分はむしろ考え始めた。

するとやがて「物」其のものには観念的な意味での分離の幅が無いことに気付いた。

 

と云うことは「物其れ自體」には實は「相對矛盾」が引き起こされる余地は無いこととなる。

即ち物=物で且つ物=モノ、なのだった。

 

そんな「物其のもの」にはつまるところ「罪」も無ければ「煩悩」もまた無い。

「罪」であり「煩悩」である物との関係性とは主に「社會的」なものに限られる。

 

例えば「酒池肉林」を常に望むやうな物の希求をすればまさに其れが「魔境」と化す。

故に其のやうに「放埓」では無い即ち「建設的」な意味での「物」との関係性を築くべき。

 

さうかうするうちに此処🗾に於ける「物」への認識の仕方が炙り出されても來た。

🗾に於ける「物」への認識の仕方は欧米流の合理的近代認識とは異なるだらう「現世利益的」で且つ「地に足が着いた」タイプでのものとなる。

 

要するに其れが古來より連綿として続く「🗾のモノ創り」としての體制となる。

また其の「體制」には基本的に「資本主義」もまた「社會主義」も無くさらに言えば「高級」もまた「低級」も無い。

 

つまりは其れが「心の面」より捉えられた「要る物」としての姿なのだった。

さう其れはあくまで實存に取り「要る物」なので其れが必要不可欠なものとして其処に創られる訳だ。

 

其れはさう其処に「置かれる」物であり不要物には非ず。

 

されど欧米流の合理的近代認識に毒されし我が國の認識世界はたった今まさに「玉石混交」なのだと言える。

つまりはさうしてゴタ混ぜにされても居り要するに「要らん物」ばかりをまた次から次へと買わされる羽目にも陥って居る。

 

だが故にこそ「自己限定」した上で其れと付き合わねばならない。

くれぐれも「社會としての価値観」には踊らされること無く自らの判断にて要不要を決めイザさうして置きむしろ其のモノの垂れ流しとしての現實を利用する位でなければならぬ。

 

其処に曰く、

 

「物其のもの」に「矛盾」は生ぜず。

 

物は有無の中にあるが故に其れ自體は「劣化」する運命にあるが其れは「無い」のでは無く「有り」且つ本來豊穣な世界を形作るものなのだ。

むしろ「概念化」される物の方にアムビバレント性及び妄想が含まれるのでありイザ其れを脱すれば物は物としてタダの「物」たり得やう。

 

「タダのモノ」

 

全く其れで良いのである。

其の認識がすでに我我🗾人の中には刷り込まれて居る。

 

だが我我還暦世代に限り幼き頃に経験した貧乏生活がむしろかけがえのない財産ともなるのである。

ー当時は皆貧乏であり例えば我が家のやうに中流の上の方の家庭でさえエアコンも無ければ風呂も薪で焚くものであったー

 

まずはそんな年寄りの知恵をこそ是非活用しやう。

いやワタシは必ずしも「年寄り」では無いが。

 

むしろスーパーカーに乗れと言われれば今すぐにでも其れで330キロ位が出せますのですが。

またつまりは其の「相對認識」からの「自己矛盾」=「破壊の世界」を離れ野に咲く壱輪の🌸の如くに清い認識へと至るのだ。

 

また我我🗾人には必ずや其れが可能とならう。

さうして物からの呪縛より離れるのでは無くむしろ自分から「物」へと飛び込め!

 

だが其れはPCだとかさう云うモノでは無く単なる「石」であり「ペン」である。

 

「タダのモノ」としての「石」であり「ペン」

 

つまりはさうしたこととなる。

 

「タダのモノ」としての「スーパーカー」であり「美食」

と云うのは例えばダメなのか?

 

ダメだ。

 

兎に角「社會的妄想」の部分が入るやうな価値にはむしろなるべく手を触れるで無いぞ。

では、

 

「タダのモノ」としての「壱億円の💎」であり「弐千萬円の限定万年筆」

と云うのは例えばダメなのか?

 

ダメだ。

 

其れも「壱萬円の💎」であり「弐萬円の限定万年筆」に是非「限定」するべきだ。

 

 

糸魚川ひすい探しの旅episode8 第7話 「翡翠TV史上最も美しく最大の原石」ヒスイ海岸で拾いました!! (youtube.com)

糸魚川ひすい探しの旅episode9第3話「ベテランハンターさんが採取されたひすいたち」@糸魚川 歌海岸 (youtube.com)

糸魚川ひすい探しの旅EPISODE9第5話 「過去最多!!ろうかん?!青?!ひすい拾いの収穫」@糸魚川 歌海岸 (youtube.com)

糸魚川ひすい探しの旅EPISODE9 最終話「拾ったヒスイとともに天空露天風呂へ」 (youtube.com)

 

さて「物欲」追求での横浜JOYTECさんによる翡翠の旅ですが昨年は「万年筆蒐集」の方が忙しくまるで動画を視られて居ませんでした。

其れ等を昨日ようやく視ることが出來まさに「感動」致しました。

 

尚其の翡翠もまた所詮は「物」ですので「永遠」のモノでは無くむしろ「劣化」し變化致すものとなる。

ですが其れは「只其処に有る」ものとなる。

 

「只其処に有る」が故に其れは基本的に経済成長だのまた宇宙開発だのさうした意味での社會的価値とは本來別物です。

故に本質的に其れは「静か」な物でありまた其のことは主義や主張などの社會的指標とは別箇でのものとなる。

 

つまりは其れが「自然」の産物であり故にこそ其れは「只其処に有る」ものとなる。

 

尚個人的に「石」は「筆記具」よりも静けさに充ちたものだと感ずる。

「筆記具」は所詮観念の為の道具であるが壱方「石」はまさに其処に「置いてある」やうなものである。

 

またつまりは其のやうな価値こそがむしろ「持続性」の有る価値となる。

其れ即ち「人為的な尺度」を元元超越するであらう価値其のものなのだ。

 

其の意味での超越的存在又は超越的意味は此の世にしかと有りませう。

其れは無いのでは無くかうして常に其処に有る。

 

尚佛法では基本的に其の超越的存在又は超越的意味を嫌うのですが其れもより不純な佛教に於いては必ずしもさうでは無いやうです。

アノ潔癖な佛法ですらさうなのですから況や我我凡夫に於いてはさう「有の認識」の方へ傾くことなども致し方なからう。

 

元來普通の認識ではあくまで物は有りしかも其れが目の前に有るのです。ー所謂素朴實在論による認識法ー

 

さう思いつつ無邪気な形でかうして石拾いに興じることは此の世での最大の樂しみでなくて何でせう?

さう「石拾い」の醍醐味とは實はかうして「観念世界」を離れ感覚的に遊ぶことこそにある。

 

自分なども2010年位迄は様様な産地へ出向き主に💎系の鉱物を採取して参りましたがズバリ申せば其のことこそが人生に於いて最も樂しい経験となった。

勿論「万年筆」を操ること以上に樂しいことであったのだと言える。

 

「万年筆」はさうあくまで「理性」が司る物であり他方で石はほぼ「感覚」が支配するものであるが故に。

まさにニンゲンは其の「理性」と「感覚」の複合體ですので完璧なニンゲンであればある程にむしろ「感覚」の方も重視して行かざるを得ぬ。

 

尤も中途半端なインテリ野郎程其の「感覚」の方を軽視するのでまあ僕に言わせれば「バカ」なんですが。

さう何せ「バカ」にも色色とあり「學者バカ」だとかインテリ風バカの類が確かに此の世には巣食って居ります。

 

 

さて動画の感想ですが兎に角滅茶苦茶に面白かった。

でもって相變わらず日本海は綺麗です。

 

尤も震災が有ったので今は其れどころではないのでせうが。

ですが海の中を大規模に浚い良質の翡翠原石のみをトラック壱台分程選別し其れをヤフオク楽天でもってして売っては如何か?

 

いや其れでは所謂「自然破壊」となるのか。

だが屑翡翠はまた海の中へ戻せば良い話でせう?

 

まあ其れは単なる妄想ですがもしもやったら凄い石が幾らでも出て來さうです。

 

でもって「荒木」氏は相變わらず元気ですね。

實は弐年前に鉱物ショーで彼と話をしたことがあり其の折に「是非もっと動画を!」とさう述べて置きましたが以降は思って居た以上に凄い仕上がりでの動画を視せて頂いたりもして居る。

 

元気だからこそ「翡翠原石の引き」の方もまた並では無い。

 

ですが糸魚川迄行くだけで大變です。

まず弐、参萬はかかることでせう。

 

 

ところが弐、参萬も払うとネット上で翡翠原石の其れも良いのが壱つは買える。

實際個人的にはこんな原石などもまたヤフオクの方で得て居ます。

 

 

糸魚川翡翠 139 鮮緑 245g-1

糸魚川翡翠 139 鮮緑 245g-2

 

尚此の翡翠原石は、

 

1.デカい

2.安いー壱萬参千円ー

3.荒荒しい緑

 

の石となる。

 

でもって現在はコレを「握り石」として使用中です。

 

糸魚川翡翠 139 鮮緑 245g-3

糸魚川翡翠 139 鮮緑 245g-4

 

ですが壱度で良いから糸魚川を訪れてみたくは思う。

其れも採取の方よりも翡翠の販売店をしらみつぶしに訪れ秘蔵の翡翠を是非見せて貰いたいところです。

 

 

糸魚川ひすい探しの旅 episode8 第1話 小さな糸魚川ひすい原石館で美しい国産翡翠の原石たちに出会う (youtube.com)

糸魚川ひすい探しの旅episode8 第2話 小さな糸魚川ヒスイ原石館での感動体験!美しいろうかん翡翠原石が登場【市振海岸への探検】 (youtube.com)

 

其の糸魚川での翡翠原石採取や翡翠原石の現金採集はまさに現代社會の動向とはほぼ無関係な具象的現實であり且つ實存的な壱つの物語です。

わたくしはむしろさうした意味での實存的な物語をこそ大事にするべきでありまたつまりは其れが「社會の発展や進歩」とのイデオロギーとはほぼ無関係の価値であることこそをたった今此処に述べて置きたい。

 

さうして日本海の海岸で美しい翡翠原石を拾いまた糸魚川翡翠の展示館やフォッサマグナミュージアムなどを訪れ地球科学に於ける研鑽を積み重ねること。

まさに其れこそが具體的な「文明批判」の様であり「石がものを言う世界」での御話のこととなる。

 

とまあ理屈で申せばさうもなりますのですがむしろ其れ以前に「日本海翡翠原石を拾い秘境の温泉に入り現地の店で原石を観賞した」ことだけですでに奇跡的な大観光の様では御座りませんか。

 

實に羨ましいです。

羨ましい限りですが現在の自分の夢は、

 

1.東山若しくは相生山でまた💎級の石英を拾う

2.奥三河の棚山を参年振りに訪れる

 

とのことであるに過ぎない。

翡翠原石も現状で数ばかり多くを持ちますのでとりあえずは整理整頓をした上で良い物のみを残せば良いこだらう。

 

いずれにせよ常に「石は寡黙にして語るところがむしろ多い」とのことでせう。

 

 

【楽天市場】翡翠 (ヒスイ) カット原石 / 置物『HAKUBA』グリーン翡翠 天然石 一点物 無着色 高品質 ミャンマー産天然ひすい 硬玉 ナチュラルジェダイト 5月誕生石 国石 お守り ギフト プレゼント パワーストーン 縁起物 誕生日 記念日 インテリア 【鑑別無料】【送料無料】:翡翠専門店ジョイテック (rakuten.co.jp)

 

現在販売中のJOYTECさんの商品ではコレなどが良いかと思われますが兎に角高価です。

ですが別に此の程度に高価なのが惡だとは言い切れずむしろ實存との関係に於いて其れが必要かどうかダケのことでせう。

 

【楽天市場】天然翡翠 (ヒスイ) 極上原石・インテリア・握り石 『黄金亀』一点物 ミャンマー産天然ひすい 高品質 無着色 ジェダイト 天然石 5月誕生石 国石 パワーストーン 縁起物 お守り ギフト プレゼント【送料無料】:翡翠専門店ジョイテック (rakuten.co.jp)

 

如何にも怪しい形状の黄翡翠でもってしてもしやこんなワタシにピッタリの御品か!

 

【楽天市場】天然翡翠 (ヒスイ) 原石・インテリア『黄風格』(562g) 一点物 ミャンマー産天然ひすい 高品質 無着色 ジェダイト 天然石 5月誕生石 国石 パワーストーン 縁起物 お守り ギフト プレゼント ペーパーウエイト ものづくり【送料無料】:翡翠専門店ジョイテック (rakuten.co.jp)

 

兎に角黄翡翠は「壱般的」では無いが嫌いでは無い。

 

【楽天市場】【さざれし工房】花仙山 碧玉『碧空 Pearl Harbor』原石 (123g) 島根県 出雲石 無加工 無着色 希少 蔵出し パワーストーン お守り ギフト プレゼント 贈答品 縁起物 誕生日 記念日 藍 青【送料無料】:翡翠専門店ジョイテック (rakuten.co.jp)

 

そも石にこんな作品が有るの?

 

糸魚川翡翠(ヒスイ)の磐笛(石笛)  (ID:248390) | 榎本通商 (enomototsusho.jp)

 

以前から大いに気になって居ますが此の商品はもしや糸魚川産の檸檬翡翠ではないのだらうか?

また此のやうにおそらくは糸魚川産の翡翠にも稀に黄色系の原石が有るのではないか?

 

おそらく赤翡翠は無いにせよ其の黄翡翠は有るやうに個人的に思われてならない。

 

翡翠はあくまで蒼系での岩石です。

其れは何処となく靑っぽく要するに陰性の色合いでの岩石です。

 

ですが暖色系の色合いの翡翠が有ればそんな翡翠に對する印象がまた異なっても來る。

 

 

BLOG | 翡翠専門店 ジョイテック (jadeite.co.jp)

ミャンマー行ってきます! ろうかん(2009/09/17)/翡翠にまつわるとっておきのお話 (jadeite.co.jp)

 

ちなみにこちらは其のJOYTECさんが現在復活させて居るブログの方です。

自分はかってこちらを樂しみにしつつ読ませて頂いて居たものだった。

 

故に早速また今夜にでも読んでみたい。

かうして翡翠と云う石の上で大きく我我を樂しませて下さるJOYTECさんに是非感謝しつつ其れを読ませて頂く積もりで居ります。

 

Yahoo!オークション - 【厳選されたコレクション】全透過する上質な翠...

 

さても此れなどがまさに其のロウカン翡翠なのか?

尚ロウカン翡翠とは緑色のゼリーか又は羊羹のやうな石質の翡翠原石のことです。

 

ロウカン翡翠は普通頗る高価ですので庶民にはまず買えずよって我我が集めるやうな石は屑石であることが多いのですが要は其処にイザ「物語性」の部分を堅固に構築すれば誰が何と言っても其の石こそが値段や評価を超越する上での御寶と化す。

 

また其のことの原理は他のモノであるにせよ全く同じこととなる。

よってとある物を御寶とさう信じ常に其れと付き合えばまさに其れが實存に取っての御寶と化すのである。

 

最終的に其のことは對人関係であるにせよまさにさうです。

そんな御寶である物や人をなるべく増やして置くのはこんな生き辛い世の中を樂しく生きて行くことのまさしく秘訣なのだらう。