目覚めよ!

文明批判と心の探求と

かってカントが目指した二元論的観念論

人間の生、社會のあり方とはつまるところ理性のあり方の問題であり其れ即ち理性の自己矛盾を如何に克服して行くかと云う課題である。

理性つまりは其の抽象的認識作用が其の侭では自己矛盾に陥るからまさに其処をどう解決に導くかと云うことに就きて居る。

 

何でかと申しますと人間とは所謂ニュータイプであり獣では無いからなのだ。

あくまで理性としての段階ではまさにさうである。

 

さて🐵と人間は違うが實は良く似て居る。

實はほとんど同じである。

 

違うのは人間が抽象的価値ばかりに生きて居ることに対したとえば🐵共は便所を造らず便を垂れ流して居ることである。

 

其の行為を逆に偉いと見るべきなのだらうか。

個人的には偉いと見るべき視点も是非担保しておくべきなのだと思う。

 

 

然し其の折角のニュータイプが余りにも獣臭い。

むしろ🐵の方が常に慎み深くして謙虚なのではなからうか。

 

さう彼等はさうして自然に対し謙虚である。

 

 

 

 

其の自然に対して謙虚ではあり得なくなるのが進歩の過程である。ー進歩⇔自然ー

進歩の過程には具象的進歩と抽象的進歩とがあらうが今我我が居るのは無論のこと抽象的進歩の段階であらう。

 

其の抽象的進歩をやり続けるのは我我の脳がいつの間にかさうなって居るからなのだ。

我我の欲望はいつしかさうして酷く抽象化されて来て仕舞った。

 

其の抽象化こそがまさに理性としての欲望である訳だ。

何故なら🐵共はそんな抽象度の高い欲望に苛まれて居る訳では無い。

 

さうして木の實を喰らいメスを追っかけ喧嘩しさうかうするうちに日が暮れて其の繰り返しにて一生を終える。

 

要するに彼等は理性的に生きて居る訳では無いのだが其処にて充分に其の欲望は満足され得るつまりは幸せなのであらう。

 

なのだが今我我はかうしてとんでも無いことに巻き込まれいやまた今後は余計にトンデモナイことに巻き込まれて行かざるを得ない。

 

さても一体何でこんなに不幸なのだ?

おそらく其れは其の理性其れ自体に何か問題があるからなのであらう。

 

 

 

ー人間の理性や知性は間違いを犯しやすいとカントはいい、一見理性は信用できるけど、本当は・・・と、理性批判を行う。

理性批判とは、仮象批判であり、仮象とは、主観であり、客観的でないものである。

さて絶対的に考えられている理性をどのように批判するかだが、理性の自己矛盾を証明すればいいとカントは言う。ー「カント哲学」より

 

 

なる程、至極良く分かりました。

要するに一見理性は信用出来るやうで居て實は信頼に足るやうなものでは無いと云うことですね。

 

其れはまた理性に基づき造られた文明世界が同様に信頼に足るやうなものでは無いと云うことでもある。

なんですが、まさに其れを言うてはお仕舞いな訳です。

 

だから其のことはかのカントみたく利口な人間には最初から分かって居ることだが何せ其れを言うてはお仕舞いなので信じてるフリをしつつ文明をやって行きませうと云うことではなかったかと想われる。

 

かうして眞に利口な奴は兎に角悲観的と申しますかむしろ何をも信じては居ない訳だ。

 

でもあえて其処を信じなければ人間などとてもやってられませんので其処で信じたか又は信じたフリをしつつやって行かねばならぬ訳だ。

 

 

ーこのように、世界は極限を考えると、量の概念が破綻し、「世界は大きさをもたない」ということがわかる。もっというなら、ぼくたちが考えている世界は「存在しない」ということになる。

カントのこのような考え方は、「法廷モデル」といわれる。これは、A と Bという対立軸がある際に、そうした対立を超えた第三者の立場を築く考え方である。

「法廷モデル」は、「弁証法」と似ているところがあるが、「弁証法」とは、対立や矛盾を 通して、その統一により一層高いレベルへと展開していく考え方である。

また、「カント哲学」は、「コペルニクス的転回」とも似ている。「コペルニクス的転回」 とは、物事の見方が 180 度かわることを示し、「パラダイムシフト」ともいわれる。

カントは、「ぼくたちの認識が世界に従うのではなく、世界のほうがぼくたちの認識に従う」という。つまり 180 度違う考え方である。

要は、「わたしが見てはじめて世界がある」 ということである。ー「カント哲学」より

 

 

 なる程、世界にはそも大きさが無い?

でもボクもボクの子もまた妻も其ればかりかボク自身にもちゃんと大きさがありますが其れが無いとでも申されるのか?

 

いや、其れはな、君が只の認識の形式として取って居ることの其の結果であるに過ぎぬ可能性が高くあらう。

 

可能性も何もかうしてボクもボクの子もまた妻も其ればかりかボク自身にもちゃんと大きさがありまさに其れが現實としての事實です。

 

 

でも其の現實はな、そも苦しいぞよ。

 

何故苦しいのか?

 

其の君の認識の形式に由来するところでの苦、つまりは煩悩か又は罪の意識に苛まれなくてはならぬからだな。

 

いやさうでは無かった。

 

さうでは無く其の認識上の癖を理性的に解決しやうとすると自己矛盾するからこそこそ其れが正しいとは言えなくなる、つまりはさうした認識の形式を取る限り理性には従えずつまりはこんな腐った世界を成り立たせて居るのはそも我我に理性が無い=獣其のものであるからのことだ。

 

相当に飛躍した論理をまさに今述べましたね。

 

相当に飛躍した論理をまさに今述べました。

 

 

何故かと申せば私が述べることは全部が文學であり哲學などでは金輪際無いからなのです。

 

 

さうか其れでは此処はまるで信用がならぬ訳だな。

 

チョット待て。

其の君の価値観は然しまるで間違って居るぞ。

 

其の君の価値観では外にだけ正しさの根拠=正しい価値となるものを置いているがそも其れが誤りなのだ。

 

其の外界を生じさせて居るのはあくまで其の現象としての認識をして居る人間としての君の認識の形式によるものだ。

 

つまり「世界のあり方」は外側にあるのでは無くむしろ内側との相互作用、其の見る見られると云う相対認識関係より齎されて居ることだらう可能性が高い訳だ。

 

 

もう何のことやらまるで分かりませんのですが。

 

分からずとも良い。

 

どだい誰も何も分からぬのが此の現象世界での出来事のことだ。

 

 

ー客観的で世界の大前提とされている空間・時間もひょっとしたら「ただの主観」なのかもしれないわけである。こう考えると、空間・時間が主観的に過ぎず、感性の形式ということになる。

どう見ても客観的な「空間と時間」が、主観的なものにすぎなかったのである。

さて、絶対的に考えられていた空間・時間が存在しないということは、客観的に存在して いるわけではないということをあらわし、世界の絶対量はゼロであることを示している。

このように、空間・時間が存在しないということを考えると、そこには因果律さえ存在しないことになる。ー「カント哲学」より

 

 

かくして時空は相対認識により分離してさう捉えられて居るだけのものである可能性が高くなる。

 

其の相対認識には意識の流れが生じるので其の意識の流れーウソの認識の流れーが時空を繋ぎ其のウソコキとしての何かー認識の形式ーに依って居る訳だ。

 

もしや其れは佛法で語られる唯識だの阿頼耶識だのそんなものとも関連するものなのでせうか?

 

いずれにせよ其の客観性には疑いが残るつまりは主観的にウソの認識をあえてして居る可能性の方がむしろ高い訳だ。

 

 

さても其のウソと云うのは誰が決めたことなのだ?

 

おまえか、其れとも神か又は佛なのか?

 

個人的には自分はウソコキである、とさう思って居る方が自分は正解であると思って居るよりはずっとまともであるとさう考えて居ますのですが。

 

 

でもたとえば宗教の人達は皆自分が正しいことを信じ正しい道を歩んで居るとさう思って居る筈だ。

 

まあ宗教と哲學はそも違う訳だ。

また文學と哲學もまた大いに違う訳だ。

 

 

じゃあおまえは一体ドッチを今やって居るのだ?

だから其れはグチャグチャに混ざったものをまさに今かうして實験的にやって居るのだ。

 

もう訳が分かりません。

正直私ももう訳が分かりません。

 

 

なる程、観念苦と云うのはまさにかうした世界のことを言うのだらうな。

 

さうだとすれば全くおまえも可哀想な奴よのう。

 

いや私が可哀想なのでは無く理性全体がまさに其の可哀想な奴なのです。

 

強いて言えば人間の其の認識の形式こそが最も可哀想な訳です。

 

 

ウソコキだとか可哀想だとかまた人間のことをそんなに悪くばかり言う。

だから皆が逃げて行くのだぞ。

 

それこそウソでも良いのだからもっともっと肯定的なことが言えぬものか。

 

じゃあ個としてのみんなが何か「役に立つ」やうに生きれば世界は良くなるのか?

個としてのみんなが「前向き」に頑張ればもっともっと世界は良くなると云うのか?

 

でもおそらくはさうでは無いぞ。

 

僕はむしろ其の「お役立ち」だの「前向きに頑張る」価値観が世界を壊して居るのだとさうも思いますね。

 

 

 

ではどうすれば良いのだ?

一体どうすれば人類が持続可能性を獲得しより良い明日を築くことに繋がるのだ?

 

 

個人的にはだから逆を見ると云うことに尽きるのだと思います。

 

より良い明日を築くことをしたいのであればむしろより良い明日を築くことなどには拘らぬことだ。

持続可能性がそんなに欲しいのであればむしろ何もしないことでこそ其れが築けるのやもしれません。

 

 

そもそんなにやる気が無くて良いのか?

其のやる気は現代文明でのやうにプラス思考が過ぎてもまたオウム教の如くに人類抹殺の為のマイナス思考が過ぎてもイケません。

 

また必ずや広宣流布をしたるだの自分の宗教が絶対だのそんな風にもまさに思うべきでは無いことだらう。

 

何故なら其の認識の形式其れ自体がウソコキである可能性が高くよって其の認識の形式に寄り掛かったアナタ方の価値観其れ自体が全部ウソコキである可能性もまた高くあらうからだ。

 

 

そんなこと言ったら其れこそ不可知論だの懐疑主義だのそんなところに嵌り其れこそ観念の🐜地獄へと陥って行くのではないか。

 

そんなこと言ったら其れこそ「其れを言うてはお仕舞いよ」とならざるを得ぬではないか。

 

いや私は正と負の価値観が共に✖である旨を述べて居るだけのことです。

 

 

要するに其の認識の形式其れ自体が理性的には成り立って居ない訳だ。

 

故に理性には限界があり従って理性的に此の現象世界を形作ることにも同様に限度がある。

 

其れが即ち人間存在に与えられし限定のことだ。

 

人間の認識の形式其れ自体がそもさうした限定なので其れを幾ら拡張したにせよ幸福になどはなれない。

 

むしろ諸の破壊を生じることになるのだと思う。

 

其れは其の認識の形式に於いて正の価値ヒエラルキーを實行することから生じて来るのだと思う。

 

 

破壊を止めるには其の正の価値ヒエラルキーへの信仰を是非断じて行くべきだらう。

 

正の価値ヒエラルキーへの信仰はむしろ煩悩を強化し持って生まれた罪をより罪深くもすることだらう。

 

 

 

10.2 カントの認識論; コペルニクス的転回

 

此処などもとても面白く読めました。

 

其のカントによる認識論、所謂観念論が面白いのは、まさに我我は其の侭に現象するものをまさに模写するやうに認識して居るのでは無くさう思い込んで見て居るに過ぎぬと云う部分である。

 

其処をより厳密に言うと現象には元来實體が無く仮象即ち幻の如きもので且つ其の幻は如何様にも認識され得ると云うことなのだらう。

 

つまるところ認識と対象ー現象ーには相互作用があり互いに関係を及ぼし合うと云うことなのでもまたある。

 

さらに🐵と🐈が見て居る世界ー現象ーは異なり当然のことながら我我人間の認識はまた其れ等とはまるで違うものなのだ。

 

ところがカント以前には其れー現象ーが外部に於いて固定的に捉えられ其れを見る見方は程度の差があれ同質のものだと考えられて居た筈である。

 

 

さう云う現ナマ思考と云うか現實主義と云うかまた素朴実在論と云うか其処には理性的な力は宿らないのだと思う、何故なら理性とは疑う力のことでもまたあるからなのだ。

 

ちなみに私が中学生位の頃に、世界ー現象ーは人それぞれによりあり方が違いつまりは別別の世界を同時に生きて居るなどとも考えたことがあった。

 

現實に所謂クオリアと云う問題があり、たとえば赤い色の其の赤や靑い色の其の靑其れ自体を普遍的な色として規定することなどは元来不可能なのだ。

 

要するに私が赤だと見る其の赤の色がアナタにとっての靑である可能性もまた存して居るが故に。

 

つまるところアナタは私にとっての靑を赤だとさう思い込み、逆に私はアナタにとっての赤を靑だとさう思い込んで居る可能性などもまたある訳だ。

 

 

目に見えるものはかうしてむしろ一番信じられぬものであらう。

 

変な譬えですが逆に目に見えぬ神だの佛だのの方が確かであり且つ信じられるものだ。

 

目に見えるもののみに拘る奴等は思考力が無く要するに理性には欠けて居るので其れではまるで🐵のやうなものでまさにメスを追いかけ孕ませて居るうちに日が暮れて仕舞う。

 

たった今🐵を馬鹿にしたな!

 

いや🐵では無く所謂素朴実在論者を馬鹿にしたばかりでのことです。

 

 

第一鏡、此の鏡と云う現象も一般に理解不可能なことです。

 

たとえば右手を上げた姿が鏡に映るとします。

 

其れを見ると確かにこちらから見て右の手を上げて居るのだが鏡に映った自分からすれば其の上げた手は左側にあるつまりは左手なのだ。

 

まさに此れなどが其の現象と云うことの怪異さを指し示すことなのではないか。

 

同様に現象全般とはまさに不可解なものなのであります。

 

全く数式などで其れが記述など出来る筈が無いのではなからうか。

 

 

どだい文豪の死などに就いてもまさに其れがまことに不可解なことと言わねばなるまい。

 

さう此の世は神秘的な不可解さに満ちて居り其はまるで百鬼夜行であり妖怪変化のやうなものなのです。

 

妖怪変化と言えば動物の♀などは大抵が其の妖怪変化でせう。

 

 

其れにしても何故だ?

何故自分は右手を上げて居るのに鏡に映った自分の左手が上がって居るのだ。

 

鏡に映ると左右が反対に見えるのはなぜ?

分かったやうな分からぬやうな。

 

もう此れはどう考えてもオカシイ。

或は文明が自己矛盾しつつ追い詰められて行くことと此の現象には何か関連があるのではないだらうか?

 

果たして此の不可思議な様を説明出来る人が此の世に居るのでせうか?

 

尚私は其の所謂鏡映反転のことなどまるで気付いて居ませんでした。

意外かもしれぬがどーでも宜しいことなどです、基本的にそんなことは。

 

但しイザ気にし始めると何処までも其れが気になるので御座ります。

 

其の鏡のじぶんが何故ウソのじぶんなのか?

 

まさに其れが現象界のウソコキの様を映じて居るからなのではなからうか。

 

 

ところで考えぬ奴は馬鹿なのか?

 

何せ考える奴は何かと危険ですが人間としては正しいのだと思う。

 

理性として正しいとはむしろさうしたことであり教祖様の意見に盲目的に従うことには非ずだ。

 

するとカントの考えは目に見えるものを其の侭に信じることとは違う訳ですか?

 

さう違う訳だ。ー素朴実在論⇔観念論ー

 

では今此処に妻と子と僕が居る訳ですが其れを其の侭ストレートに「實在して居る」とさう認識して居るのは馬鹿がやることなのですか?

 

 

まあ哲學的には馬鹿もエエトコでせう。

 

實在⇔現象ー仮象

 

我我が認識して居るのはソコでの二元対立に於ける相互作用に過ぎないのではないだらうか。

 

で、其の現象ー仮象ーを認識として成立させて居るのはむしろ主観としてのー分離されたー自分自身です。

 

 

ー「世界」は人間の認識能力というメガネを通して, 把握する以外にすべはない. カラスはカラスの認識能力というメガネを通して, 「世界」を理解しているに違いない. したがって,カラスには「カラスの世界」, ダンゴ虫には「ダンゴ虫の世界」
があるに違いない. 人間よりシャープな認識力を持つ宇宙人がいたとして, そうならば,
「その宇宙人の世界」があるに違いない. 認識能力の違いにより, 全く「別の物」が見えるとしても, そこには「何か」があるはずで, それを「物自体」と呼ぼう
である.ー10.2 カントの認識論; コペルニクス的転回より

 

ーすなわち, 「世界があって, それを模写するように認識している」のではなく, 「認識者はその
認識能力に応じて, 世界を構成している」のである.ー10.2 カントの認識論; コペルニクス的転回より

 

 

此のやうに認識には能力差があるので、虫には虫の世界がありまた🐍には🐍の世界がありまた🐵は🐵の世界でまた馬鹿には馬鹿の世界が見えており対してカントの如くに利口な人には利口なだけの世界が見えて居るのであらう。

 

また自然科学者には自然科学者としての世界が見えて居り哲學者には哲學者としての世界が見えて居るのである。

 

さらに宗教家には宗教家としての世界が見えて居りゲージツ家には其のゲージツ家としての世界が見えて居るのである。

 

 

問題は其の「認識者はその認識能力に応じて, 世界を構成している」と云う部分である。

 

たとえば其の認識能力こそは変化する。

つまりは前近代に於ける人間の認識能力と現代の人間の認識能力とはまた違うものだ。

 

まさに其れが認識能力の進歩なのだと文明は主張することだらうが私は進歩=退歩位に思って居るので現代人が其の偉そうに思う部分をまるで認めてなど居ない。

 

 

具象的進化⇔抽象的進歩

 

此の両者はそも違うものなのでドチラが偉いとかさうした問題では無く要するに其れは相剋し尚且つ相即する関係性にこそある筈だ。

 

重要なことは其の二元対立に於ける相互関係を理解した上で理性としてのバランスを取って行くことだらう。

 

何故ならカントが述べた如くに理性とは所詮限定されたもので全知全能のものでは無い=神でも佛でも無いからなのだ。

 

 

ー「世界が先で, 認識が後」でなくて「認識が先で, 世界が後」
を主張して, これをカントは認識論のコペルニクス的転回と呼んだ.ー10.2 カントの認識論; コペルニクス的転回より

 

「世界が先で, 認識が後」では無いのだとすれば、

 

まずは素朴実在論としての世界が否定される訳です。

即ち今見えて居る妻と子とボクの世界は認識上のクセに起因する仮の現象のやうなものであるに過ぎない。

 

 

ー「200 年早すぎた妄想」では哲学にはならない
妄想と哲学は違う
哲学の行き先は, 科学(形而下学) であってはならない. 二元論的観念論を目指さ
なくてはならないー10.2 カントの認識論; コペルニクス的転回より

 

「認識が先で, 世界が後」なのだとすれば、ボクの認識は其の妻と子とボクの世界と云う認識は結局ボクがさう思い込んで居る幻のやうなものに過ぎずであるからこそ其の妻と子とボクは他の人からまた🐵から或は🐈から見た場合にはまた違ったものに見えるのであらう。

 

ではほんたうのものは果たして實在するのであらうか?

 

其れは此の世には無い形で「物自体」として在るのである。

 

有るのでは無く在るのである。

 

 

対して我我人間は在るのでは無く単に有るだけーさう認識されて居るだけのことーのことなのだ。

 

有るだけのこと即ち現象は限定的に相対規定され要するに二元分離されるが故に實體ではあり得ない。

 

實體ではあり得ぬので有限であり要するに儚くも移ろい易くして其処で永続的な価値を何処にも設定出来ぬ存在である。

 

 

で、例えば金持ちが最低十億は欲しいと思い投資にて何とか一億を得たが其の一億で買ったデカい家も美人のお手伝いさんもまたデカい墓もフェラーリも全てが自分が死ねば消えてなくなる、うわあ惜しい哉まさに諸行が非常であったが故に。

 

だから金持ちになることは逆にむしろ其の価値喪失の苦、失うものの辛さをデカくすることだけなのだ。

また妻も子も友人もまた尊敬する師もやがては皆死ぬぞ。

 

所詮はみんな死んで消えてなくなるのだ。

だから其処には別離の苦が生じやう。

ー現象としてー愛するものが多い程にむしろ其の苦が増すのである。

 

 

また文明が奉ずる其の進歩にはそも意味など無い。

進歩など間違いー抽象的進歩は✖ーであり進化することー具象的進化は○ーこそが正しい。

 

左様に価値観がそもさもしい。

 

文明としての価値観がそもオカシイ。

 

其れは眞の天才カントの考えを軽んじ抽象的価値に終始することによりいつの間にかさうなっちまったものだ。

 

さうだ、矢張りと云うべきかソコは哲學の行先は科学であってはならず二元的観念論をこそ目指すべきなのだらう、うふふふふふふふ。

 

 

科学はそもオカシイ。

科学はどうも一元論だな。

 

 

私は其の一元化論など嫌いだ。

自然⇔自然科学

 

矢張りかうした二元論にこそしておくべきだ。

 

なので自然と自然科学がまさに相剋し尚且つ相即する関係を築くことこそが重要なのだらう。

 

ところで何故大衆は鏡に映った自分の姿に何処までをも疑問を抱かぬのだらうか?

進歩思想に対する理論的且つ感性的なる反駁ー今我我は心のウンコたれであるか否か?ー

山口二郎教授 安倍晋三前首相に「嘘つきがキングメーカーを気取るな」

こんなところにかうして怒る教授が居たぞ!

 

 

さてもしも何かを独り占めし其のことで世界を破壊するに至らせしめるのであれば其の欲こそがまさに獣欲であり魔の仕業でもあることだらう。

 

ところが、現實的には其の欲こそがむしろ野放しになって居ります。

いやむしろ何かを独り占めし其のことで世界を破壊するに至らしめることをすると世間では称賛されたりも致します。

 

なので其処が何よりイヤですのでもはや脱世間だと私は述べて来て居るのです。

 

 

其れは其の常識としての世間の価値観をいっぺん何処までも攻撃したらうかと云うことでもある。

 

だから其れではもうまるで価値観が狂って居るよ、或は腐り切って居るよとさう申して居るので御座ります。

 

其の近代としての弁証法過程に挑むとでも申しますか何とかして其れをやりこめてやると云う何やら妄想と云うか大言壮語と云うかそんなものに捉えられましてからもう廿年程は實は経過しております。

 

ですが其れはかのオウム教がやりましたこととは無論のこと違います。

 

オウム教は結局やり過ぎちゃったのだとさう思う。

私の場合は言う事だけは言いますが何せ手が動きませんので實は誰にも迷惑などかけては居りません。

 

なのだが其処は何せ何かと厄介な部分を精神的に周りに対して振り撒きますのでみんなが引くと申しますかまさにみんなが逃げて行く訳ですね。

 

 

ーつまり、カント等に見られるように、その時々で、あらかじめ、ある形式や真理を先決して、体系を構築したとしても、その真理はその形式・体系の中における限りでの真理であるに過ぎず、現実の将来的見通しをもたらす普遍的真理になるわけでもないし、条件が変わり、その形式・体系が変わるに伴い、雲散霧消して、また別に新たに生み出されるような、仮初の真理に他ならない。したがって、本物の普遍的真理に到達するためには、そうした先決や、時々の形式・体系への固執は、むしろ不要・邪魔であり、避けられなくてはならない。

そのため、彼にとっては、哲学がなすべきことは、あくまでも「時間的に過ぎ去りゆくものの中に、内在的・現在的かつ永遠なものを (外的な形態化されたものの内にも脈打つ、内的な脈動を)概念的に認識する」ことであり、「実体的なものの中にいながら、主体的な自由を保持しようとし、それでいながら、特殊的・偶然的なものの内にではなく、即自かつ対自的に存在するもの(自覚・認識と充足の一体性、形式と内容の一体性)の内にいようとする内的な欲求に従った、現実との熱い和解・平和」である、ということになる。

つまり、哲学は、人間の主観・認識が、己の性質・欲求に従いつつ、主体的かつ漸進的に、試行錯誤を経ながら、現実と調和していく形で、真理・絶対知に到達していく過程・道程として、また、その最終的な結実として、捉えられなくてはならない。

そこで、人間の現実認識が対立・媒介を通して展開し、絶対知に到達していく過程のダイナミズムの内実に着目する、「ヘーゲル弁証法」と呼ばれるような考え方が、持ち出されることになる。ー弁証法#ドイツ観念論による弁証法的回答より

 

以前にも述べましたが近代と云う世紀はまさに綱渡りのものであり其れぞまさにイチかバチかの歴史過程だったのだと思われます。

 

何故かと申しますと其れは世界人口の推移を見ればまた一目瞭然のことでせう。

 

  • 2019年 77億人[5]
  • 2011年 70億人
  • 1998年 60億人[注 1]
  • 1987年 50億人
  • 1974年 40億人
  • 1961年 30億人
  • 1927年 20億人
  • 1802年 10億人[注 2]

 

世界人口より

 

我我は普段気付きませんのですが、かうして近代以降人間の数は爆発的に増えて居ます。

 

即ち其の増え方は異常でありまさにウイルス並ともなって居る訳だ。

でも我我は自分等のことをウイルスだとはまさか考えぬ訳だ。

 

なのだが實質的にはもうほとんどウイルスのやうなものでせう。

なのであればコロナにやられて少し位人が死んでも可なのか?

 

いえ別に人間は死ね、死んで此の際減れ、などとは此の私でさえ一言も申して居りません。

 

 

ですが其の増え方の異常さを見る限り其処でもって何が起こってもおかしくは無いのではないだらうか。

何故なら小学生の頃私が初めて世界人口の数を覚えましたが其れが36億人でした。

 

此の半世紀の間に其れが何と倍増した訳です。

 

 

元より其の倍増の様こそが恐ろしい話です。

ですが私が最も恐れて居るのは其の数自体では無く我我の意識にそんな實感がスッカリ欠けて居ると云うことなのです。

 

と申しますのも中学生の頃にすでに其の人口爆発に就き危惧して居た私でさえ實はいつも其のことを気にして居る訳では無いからだ。

要するに人間には気付きにくいことがあると云うことなのではないか。

 

 

特に自分等に取り都合の悪いことにはあえて知らぬフリを決め込み我我人類は此処まで発展して来たのです。

 

其の反面我我はたとえば👪の現状のことや其の将来のことやまた自分のことや身近な人々のことなどに就き至極敏感に出来て御座る。

また其れは地位や名誉がある人であれ基本的には同じなのです。

 

即ち我我は常に限定された心の範囲ー利己的範囲ーに居て其処から基本的に大きく思考することなど出来ません。

 

大きく思考することが好きな人もたまには居られますがたとえば宮澤 賢治だの三島  由紀夫だのと云ったレヴェルでのデカい考えをすることはまず大衆レヴェルでは無理と云うものです。

 

 

要するにみんなの考え其れ自体がちっこい、つまるところみみっちい訳だ。

 

へへへへへ、つまりは単なるチビのことですな。

尤も其の割にみんな夢やら希望やらがデカいんですね。

 

曰く早く宇宙旅行がしたいだの、アンドロイドの美人妻を迎えるのだのと言った具合に。

其れもたとえ頭が良い=偏差値が高くある人であるにせよみ其のみみっちい心の奴が實は多い訳だ。

 

 

「哲学は、人間の主観・認識が、己の性質・欲求に従いつつ、主体的かつ漸進的に、試行錯誤を経ながら、現実と調和していく形で、真理・絶対知に到達していく過程・道程として、また、その最終的な結実として、捉えられなくてはならない。」ー弁証法#ドイツ観念論による弁証法的回答より

 

近代的な進歩の概念とはつまりはさうした部分から形成されるものなのだらう。

人間が眞理としての絶対智に到達すると云う此の弁証法的帰結はしかしながら人間の自尊心を擽り如何にも魅力的なものです。

 

即ち人間は進歩し世界を改変させることで次第に神の認識の領域へと近づいて行く訳です。

なのですが、實際には今文明其れ自体が具象的に限定されるに至って居る。

 

ワクチンの接種により或はコロナ禍が終わるにせよ究極の課題としての温暖化の大問題は愈これからなのです。

 

此処からしても近代的な進歩としての概念に誤謬が含まれて居たであらうことは明らかです。

では一体何が間違って居たのでしょうか?

 

 

先に申しましたが、我我人間の欲望の本質とは常に認識上狭くてみみっちいものであるに過ぎません。

故に皆自分や👪が大事で適当に夢だの希望だのが叶えられればおそらくは其れで良しとすることでせう。

 

さう人間とは元々そんな限定的な存在だと云うこと、言い換えれば具象的に規定された現象です。

ですが、近代以降は社會は其の限定性を解除し人間其のものを巨大化して行くことに迫られた訳だ。

 

何故なら進歩を奉じる近代思想は種としての人間を繁栄させることでまさに観念的にー抽象的にー運命を切り開いて行かねばならぬ羽目に陥ったからだ。

 

 

其の進歩こそがそんなデカい夢や希望ー抽象的価値ーを實現して行く思想其のもののことですので其れに寄り掛からねばならぬやうにいつの間にかなっちまいましたとさ。

何故なら人間はデカい=偉いとされて仕舞ったので其の偉い人間様はいつかは神の如くに全知全能とならねばならぬからです。

 

逆に本来人間はちっこい、みみっちいと私は述べておる訳ですがそんなことを申しますればみんなは此の自称詩人は頭がおかしいとさう決めつける訳だらう。

 

 

ですがあえて言うたりますわ、人間とは其の人間とは只の🐵山の大将のやうなものです。

其れは神とはまるで違うものだと云うことです。

また佛とはまるで違うものだと云うことです。

 

要するに其の🐵が進歩しただけのまさに只のウンコたれのことですな。

 

 

ーつまり、カント等に見られるように、その時々で、あらかじめ、ある形式や真理を先決して、体系を構築したとしても、その真理はその形式・体系の中における限りでの真理であるに過ぎず、現実の将来的見通しをもたらす普遍的真理になるわけでもないし、条件が変わり、その形式・体系が変わるに伴い、雲散霧消して、また別に新たに生み出されるような、仮初の真理に他ならない。したがって、本物の普遍的真理に到達するためには、そうした先決や、時々の形式・体系への固執は、むしろ不要・邪魔であり、避けられなくてはならない。

そのため、彼にとっては、哲学がなすべきことは、あくまでも「時間的に過ぎ去りゆくものの中に、内在的・現在的かつ永遠なものを (外的な形態化されたものの内にも脈打つ、内的な脈動を)概念的に認識する」ことであり、「実体的なものの中にいながら、主体的な自由を保持しようとし、それでいながら、特殊的・偶然的なものの内にではなく、即自かつ対自的に存在するもの(自覚・認識と充足の一体性、形式と内容の一体性)の内にいようとする内的な欲求に従った、現実との熱い和解・平和」である、ということになる。ー弁証法#ドイツ観念論による弁証法的回答より

 

いや、だから、生きる為の其の指針が何も普遍的眞理で無くとも良い訳だ。

カント先生はまさに其のことを何よりも御存じでもってして其れでもって毎日毎日規則正しく同じことをやられ最後に「コレで良い」と一言述べられつつ死んでいかれたのだ。

 

逆に普遍的進歩だなんてまさにそんな大それた、第一不遜なまた不穏な思想の確立により近代以降我我にはロクなことが無かったよ。

 

第一経済的進歩に縛られ我我には鉱物採集をする暇さえもが無いではないか。

で金持ち共が豪華客船に乗り世界一周の豪遊を決め込んで居たところ其の豪華客船内の金持ち共が皆コロナに罹って仕舞った。

 

無論のこと其の中にはコロナ死した奴等もまた居る事だらう。

でコロナが下火になったと思いもう一度船を出してみたところまたコロナに罹って仕舞う。

 

 

「時間的に過ぎ去りゆくものの中に、内在的・現在的かつ永遠なものを (外的な形態化されたものの内にも脈打つ、内的な脈動を)概念的に認識する」ことが可能なのであれば確かに其れは観念性の優越を指し示すものであり其処を足掛かりとしての抽象的進歩を可能とするものなのだらうがまさに其の抽象的進歩の中には観念としての悲劇性がしかと刻み込まれて居やう。

 

世は諸行が非常にて価値は保存出来ずまた我も非我にてそも保存出来ぬので逆に全ての価値を観念化し其の抽象性の枠内で進歩するー観念的進歩=抽象的進歩ーことを人間の生の目的化して仕舞った訳だ。

だが其れは欲望の単なる抽象化に過ぎぬのではなかったか。

 

動物の中では一番頭の良い🐵は好奇心が強くまさに色んなことを工夫し生きて行かうとする。

🐵の其の好奇心は具象的欲望と抽象的欲望の中間辺りにある。

 

だが其の抽象的欲望がより進化することでまさに進歩の領域へと踏み込んで行く訳だ。

具象的欲望→抽象的欲望=進化→進歩

 

で、文明化ー社會化ーされることで我我人間の進歩の領域は其の極へと達した。

其処では限りない其の強欲が全部抽象化されるに及び野っ原でウンコをたれるのは止め便所を造ったりもする。

 

やった、やったぞ!

ようやく其の獣であることを卒業したぞ!

 

俺等はもはや単なる獣では無い。

かうしてスマートに且つグローバルに生きられる理性の従僕である。

 

 

ばか。

そりゃおまえらの其の欲望が単に抽象化しただけのことだわいな。

だから逆におまえらこそが強欲生物だわい。

 

おまえたちなどもう何かに食われ去勢でもされて仕舞え!

あれコロナだ、やれ温暖化だ、うわあ小惑星の激突だー、ほーれ宇宙の肥溜めだ!

落ちよ、落ちよ、今すぐにでも其処へ落ちよ!

 

 

でも僕等こそがかうして洗練された感性と知性の持ち主で都市にて最新のモードを身に纏いかうしてグローバルに活躍するのだ。

 

ほんたうに君は馬鹿だなあ。

其れもまるで駅前の高級分譲マンションのCMの如くに薄っぺらいしかも如何にもバカバカしい価値観をまるでお題目の如くに述べ立てやがって。

 

ではおまえの眞の姿を今此処に示そう。

 

何を隠そうおまえは其の強欲資本主義に踊らされて居る只の🐵だ。

おまえはすでに社會に洗脳されて居るのだ、其の強欲の👿の論理にこそさうして醜く踊らされて居やう。

 

 

でも僕らはもう山の中でウンコなどたれてはおりませんが。

だから逆だらう、ソレ?

 

別にウンコは垂れてもいいのだよ。

第一そんな裸でもって毛むくじゃらでも其れが自然なことなのだから全然恥ずかしいことじゃ無い。

 

逆にそんなおかしな服を着込んでグローバルに金融資本主義をやり大多数の人間をイジメることこそが其の獣の仕業なのではないかいな。

逆にそんなおかしな会社などつくり其処でもって自然を搾取しやりたい放題に自分等の望む物ばかりで満たして置いて其れでもじぶんがむしろ利口だとさう述べて居る様こそが大馬鹿でありおおまさに理性無き様であり心のウンコたれ其のものなのではないかいな。

 

 

 

さて其の時近代の開始と云うタイムリミットが間近に迫っても居た。

其れは近代以前の具象的進歩に頼るやり方ではとても人類の人口爆発を支えることなど出来なんだが故にだ。

 

さう近代の開始とは其の弁証法的歴史過程とはまさに其の歴史としての人類の危機を救う為にこそあった訳だ。

其の弁証法的進歩がもしも成らねば近代は開闢することが無く従って我我の父ちゃんや母ちゃん、其れに数世代前までの御先祖様は皆飢え死にする位が関の山でよって我我が今此処に居る筈も無いのである。

 

なので近代はまず何より偉い!

 

偉いのだがまさに其処には大きく問題点が畳み込まれておった。

 

其の意味では近代とはまさに捨て身の新世紀であった。

おおまさに奇跡の世紀、奇跡の歴史過程であったのだとも言えることだらう。

 

ところがそんなまさにミュータントみたいな或は超人みたいな社會は兎に角やることが全部やり過ぎばかりなのでいつの間にかバランスが取れぬやうになっちまう。

 

其のバランスを取ったと云う意味ではむしろカントの哲學の方がしかと其れを取っても居やう。

でもヘーゲル弁証法は兎に角正しくしかも優れた考え方なのだ。

 

うーむ、どうしても其れを否定することなどは出来ぬ。

何故なら其れをイザ否定するとなるとむしろ自分が今此処に居ることを否定することとなって仕舞うからだ。

 

 

「其の抽象的進歩の中には観念としての悲劇性がしかと刻み込まれて居やう。」

 

詩人が其処まで言うならちゃんと其れを証明してみよ。

だがヘーゲル弁証法の概念規定にはちゃんと生の具象性の部分も組み込まれて居て其れを批判するのははなはだ困難だ。

 

 

ーそれでいながら、特殊的・偶然的なものの内にではなく、即自かつ対自的に存在するもの(自覚・認識と充足の一体性、形式と内容の一体性)の内にいようとする内的な欲求に従った、現実との熱い和解・平和」である、ということになる。ーー弁証法#ドイツ観念論による弁証法的回答より

 

あえて言えばカントの考えは限定的ー繰り返しーなもので、ヘーゲルによる弁証法はまさに発展的ー前向きーである。

近代以降の社會ー文明ーは其の弁証法により生き延び尚且つ発展することさえをも可能として来た訳だ。

 

「現実との熱い和解・平和」

 

もしや其の熱いと云うのがやり過ぎなのじゃなからうか。

 

何も其処まで熱くならずとも…。

 

で、結果的に進歩は調和もまた平和も齎しては呉れぬ。

 

と云うことは当時からやる気の無いショーペンハウアーによる悲観哲學の方がどう考えても解脱思想には近い筈だらう。

 

 

弁証法とは?意味や例を簡単にわかりやすく解説

 

さても此れは分かり易い。

 

 

  1. 弁証法は、対立するものが一つであることを証明する。
  2. 歴史はただ繰り返すのではなく、弁証法的に発展していくものだ。
  3. ヘーゲルが主張する弁証法は、お互いの意見を統合していくことである。
  4. 「ラーメンを食べたい人」と「カレーを食べたい人」が弁証法的に考えた結果、「カレーラーメン」が生まれた。
  5. アリストレスは自然学に則り、弁証法的に考えることを重視した。
  6. マルクス唯物論の考え方に基づき、唯物論弁証法を唱えた。
  7. 心身二元論を統一した考えにするには、弁証法的な思考が必要だ。

 

弁証法とは?意味や例を簡単にわかりやすく解説より

 

但し歴史が元に戻らぬものだとはもはや言い切れぬところがあります。

要するに具象的限定がイザ強く働くと文明社會は過去へと逆戻りする可能性が無いでは無い訳だ。

 

實際21世紀は感染症の流行や温暖化の大問題などで文明の進み方にもある種のいびつさが出て来て居ます。

或はもはや理念的な発展ー抽象的進歩ーだけに寄り掛かるやうな時代では無いのかもしれません。

 

発展と云うことはより高次な段階への文明の移行ー止揚の過程ーと云うことでせうが何より其れは資源的な且つ精神的な意味での限定を考慮して居ない考え方です。

ところが實際には個としての欲求と社會としての欲求に乖離がある即ち即自かつ対自的に存在するものの間には内的な欲求としての差異が認められる筈だ。

 

要するに其の社會の欲求とは至極抽象的なものとなり易く逆に我我個の欲求は常にもっともっと限定されたものでせう。

ー例えば社會は抽象的利益に群がる。GDPだのまたAIだの宇宙開発だのさうしたものに何故か拘る。対して個は自分と周囲の具象的存続を究極的には願うばかりである。ー

 

さうだ、我我は別に宇宙など行かなくても良いから毎日ちゃんと飯が食え例えば庭に出てキイチゴを摘んだり猫共とじゃれあったりすることが何より幸せ♡な筈だ。

別に再生医療で復活したりクローン化などされずともたまにはルンペンさん達ともお話の出来るそんな自由な意思こそが与えられてしかるべきではないか。

 

 

其れなのにかうして毎日会社で訳の分からぬ仕事をさせられおまけに生意気な妻や子に毎日小言を言われ続けさらにこんなコロナ禍にて兎に角金が無い。

そんな状態で良くも宇宙開発だの会社の利益だのとそんな抽象的なことばかりを述べて居られるものだ。

 

第一そんなものに俺らを巻き込むな、社會よ此のボケが。

 

其の抽象的な社會の目的とはな、結局自分等が神にならうとする妄想に起因するところでのもので嗚呼其れぞまさに獣の欲望のことだ。

 

でも近代は偉い!のでは無かったのか?

 

 

だから近代が偉い!ことの為にはまず肉体を維持する具象性こそが不可欠であらう。

 

其の具象性も与えずして何が進歩だ、何が弁証法的歴史過程だ。

 

何が自然科学だ、一体何が科学技術の進展だ。

 

かうして食うや食わずのみんなが死んでも其れでも社會は進歩するとさう仰りますのか!

 

社會はな、一遍頭を冷やせ、其の頭でっかちの頭をな。

 

 

さうだ、是非進歩を止めて其の分の金をベーシックインカムへと回せば良いのだ。

さうだ、イチローTOYOTAなどの大金持ちから大金を毟り取り其れでもって其れをみんなに配れば其れで済むことだ。

 

さうだ、人間は決して神になどなれぬぞよ。

カントはな、其の神をちゃんと神として認めて居たぞ!

 

もう頭がオカシイぞ。

 

もしやじぶんの頭がオカシイのか?

いや現代社會としての頭ー思想ーが何よりオカシイのだ。

 

尚個人的に私は其の二元対立を統合に導くことなど誤りだとさう考えて居る。

そも二元対立は統合など出来ぬので其の侭で矛盾であり苦の種である。

 

其の矛盾であり苦の種に寄り添うところにこそ慈悲の心がまた異の苦への理解が生じるものとさう考える。

 

 

ところでおまえはさうして庭の木苺を摘んだのか?

はい、實は昨日摘んだところです。

 

其の木苺を食ったな?

へい、食いました。

 

さても今年の出来はどうであったか?

 

ほい、其れが何故か豊作で沢山採れたので御座ります。

庭の木々がまさにボウボウに生えて居り其の自然状態のところへ木苺が繁茂し沢山實を付けたので御座ります。

 

しかも何故か鳥などが食いに来ず其れでもって其の全部が我のものとなったのです。

 

 

果たして其れはどんな味でしたか?

 

うーむ、要するに進歩思想とは眞逆の實に素朴な風味が致しました。

謂わば其の弁証法的過程ー進歩主義ーなどには毒されて居ない自然物其の物の風味、今此処に其の侭に与えられて居るであらう作為無き優しい味がしたものだった。

 

ところで弁証法的発展は良いのですか其れとも悪いのですか、まさに其れが問題なのだが…。

 

 

だから其れはあくまで社會にとっては良いことです。

でも個にとってはむしろ要らぬものでもある訳だ。

 

なる程、最終的には次第に自他対立がどうしても大きくなる考えだと云うことですね。

 

なので理想的には社會は共同体レヴェルでの統治がより望ましい訳なのですが其れがそも近代の推進力とは矛盾して仕舞う訳だ。

 

とのことですのであくまでやるだけやってむしろやり過ぎて現代文明はドカーンと其の宇宙の肥溜めやら歴史の🐜地獄やらへと落ちて行くことでせう。

でも私などはもはや其れには付き合わずさうして庭でセッセと木苺でも摘み其れを食ってることこそが何より幸せなのだ。

ガブリエル氏による文明に対する過激な提言

 

若き天才哲学者が「SNSのアカウントはすぐに削除すべきだ」と真剣に訴えるワケ

 

何と今かうしてかのガブリエル氏が吠えて居るぞ!

 

ちなみに私はガブリエル氏の考え方又は発言に対する支持者です。

何故ならガブリエル氏の考え方又は発言の何処か生一本なところがまさに好きだからです。

 

よって氏の以上の主張に対してもほぼ全面的に賛同致します。

 

 

 

『ー「私たちはSNSを楽しんでいると思っているが、実際には窒息している」ー

 

ーインスタグラムやツイッターなどのプラットフォームには、それぞれできることとできないことを規定する枠組みがありますが、この枠組みが人の行動を変化させているのです。ー

 

ーグーグルは個人の検索行動を利用してその人の行動を操作し、より長い時間、オンラインに止まらせようとするのです。ー

 

ー一方、アメリカのソーシャルメディアでは、このような組織的制御がまったく機能しないのです。

ネット上で誰かに中傷されても自己防衛の術(すべ)がありません。それはとりわけソーシャルメディアを過剰に使用している若者たちに深刻な影響を及ぼします。端的にいうと、アメリカのソーシャルメディア自由民主主義を弱体化させる危険なドラッグなのです。自由民主主義の失墜とソーシャルメディアの台頭には相関関係があるだけでなく、ソーシャルメディアが民主主義の破滅をもたらす主因だと思っています。ー

 

ソーシャルメディアの問題は、人を変えてしまうことです。ソーシャルメディアで人の行動が変わるということは、ソーシャルメディアがわれわれに自己を与えているということです。

しかしフェイスブックに私が何者であるかを決める権限などありません。とんでもないことです。そんなことに時間を費やすよりも、ソフォクレスシェークスピアの作品を読んだり、友人と話をする方がよっぽどいい。ー

 

ソーシャルメディアは人に、「本人が望まない自己」を押し付けているということです。しかもそのプロセスが不透明なのです。ソーシャルメディアは人に新たなアイデンティティを売り付けて大儲けしているのです。ー

 

ソーシャルメディアは自分がもともと持っていなかったアイデンティティを押し付けてくるのです。あなたはアフリカ系アメリカ人だとか白人だとか、左翼だとか右翼だとか、若いとか歳をとっているとか、環境派だとかそうでないだとかを勝手に決め付けます。自分になかったアイデンティティを創り出すのですが、それは幻想に過ぎません。

こうしてアイデンティティを押し付けられると、人は誤った自己概念に基づいて行動するようになります。私は、「確固たる自己がある」という考えを捨てることが自己を見つけることだという仏教の考えに賛同します。私という人間は極めて複雑なプロセスの塊なのです。ー

 

 

ー私たちは本当にデジタル・デトックス(解毒)を始める必要があると思います。そのプロセスを魅力的な観光旅行のようにすれば良いのです。富士山の近くなどで3週間過ごし、その間美味しい食事をして、ネットには一切接続しない。それが第一のステップです。

パンデミックの最中、私はすべてのソーシャルメディアのアカウントを削除しました。フェイスブックツイッターのアカウントを持っていたのですが、パンデミックが発生すると、ただちにこれらをすべてキャンセルしたのです。

驚いたことに、何の不自由もありませんでした。例えばフェイスブックアメリカ人の友人とコミュニケーションが取れないのは困るだろうと思ったのですが、そんなこともなかった。麻薬はやめたら離脱症状が現れますが、ソーシャルメディアはやめてもちっとも困りませんでした。

ですからソーシャルメディアの利用は最低限にとどめることをお勧めします。フェイスブックのサービスの一部は維持しても良いでしょう。友達の近況を知ったり、写真をシェアしたり、他の人と交流することには何ら問題ありません。LinkedIn などはビジネスにも利用価値があるでしょう。ソーシャルメディアには便利な面もたくさんあるのです。ー

 

 

ーあるいは、非常に斬新なアイディアとして、新たなソーシャルメディアを作ることを提案します。今あるソーシャルメディアの問題点がわかっているのですから、それよりも優れたソーシャルメディアを作ったら良いのです。

新たなソーシャル・ネットワークを作ることは良いビジネスになると思います。民主的で倫理的なオンラインのプラットフォームを作れたとします。私のアイディアは、それをアゴラ(古代ギリシャの広場)と呼び、アイディアの市場にすることです。アゴラにかけて「Egora(E-ゴラ)」という洒落た名前をつけてはどうでしょう。E-ゴラは民主的行動を培う場です。そこでは人を侮辱することは許されません。われわれはE-ゴラで良い友人を作ることができるでしょう。ー』ー若き天才哲学者が「SNSのアカウントはすぐに削除すべきだ」と真剣に訴えるワケ より

 

 

ガブリエル氏の発言は然し哲學者にしては意外と過激です。

私は其の過激系のもの言い、又は思想が大好きですので其れに同調する形で是非述べて置きたいと思う。

 

 

まず私が見知った限りでのガブリエル氏は親日派です。

何故なら彼にとり最も大事な筈の哲學には戦前の西田哲學の影響が色濃く見て取れるからだ。

 

其の一方で氏はまさしく反米的です。

尤も其処が如何にも独逸人らしい潔癖な精神を持ち合わせて居るのだと思う。

 

だからやりたい放題の金融資本主義ややり過ぎた自由民主主義に対し可成に批判的です。

 

 

で、私は自分で日本人の中でも可成に潔癖な方だとさう自負して来ても居る訳だ。

 

其の私もやりたい放題の金融資本主義ややり過ぎた自由民主主義に対し批判的な訳です。

 

なので其処に関しては全面的に氏の意見に賛成出来る訳です。

 

 

また以前から私は所謂ソーシャルメディアを批判して来ても居ます。

 

たとえばあんなもんやると馬鹿になるぞ、位のこともかって言った覚えが御座ります。

 

で、其のソーシャルメディアを利用したことなどは此れまでに一度も御座いません。ー視たことはありますが其処で何かを述べては居ないー

 

と申しますか、今でさえ手一杯なのです。

 

只でさえ忙しい毎日なのに其のやうなものを利用し時間を無駄にして居たくは無いと云うのが本音です。

 

 

其の人とのコミュニケーションと云うものは、元来押し付けられてするやうなものではありません。

然し其の「やらねばならなくなる」何かをソーシャルメディアは持って居ることでせう。

 

また其れはスマフォなどにもある要素です。

即ち折角携帯端末を持ち歩くのであれば歩く時にまた駅のホームで電車の中で其れを視て居なければならなくなる。

 

ですがイザ其れをやるとなるとそれこそ危険です。

何故なら戸外は人間が移動するところであり他ごとに熱中するところでは無いからだ。

 

 

勿論PCにも似たやうな毒素はあります。

でもデスクトップパソコンはまだしも抽象度、洗脳度共に携帯端末よりもより低い筈です。

 

もっと遡ればTVにさえ中毒症状が生じます。

だからTVなどもまた厳選した上で即ち番組を選んで視て行く必要がある。

 

其の中毒の本質とは情報の洗脳に対する中毒なのだと思う。

 

確かにあんなTVのCMを見続けて居るだけで強欲資本主義にも洗脳されませう。

だから私は今好んでEテレを視て居る訳なのでもあるし。

 

 

ソーシャルメディアが我我に何かをー特に時間をー押しつけ且つ奪って居ることだけは確かなことでせう。

要するに其れは資本主義とまるで同じやうな論理でもって押しつけがましいものです。

 

米國の文化とはまた体制とはまさに其の押しつけがましさのカタマリ其のものでせう。

 

 

つい其処まで申して仕舞いましたが米國が全部悪いと申して居る訳では無く米國人は日本人にはむしろとても親切です。

 

私は拾年程米國を中心に万年筆の方の取引をかってして居りましたのですが慨して彼等ー米國の店が多い訳ですがーはフレンドリーでたとえば商品に便りを付けて呉れたりもし暫其処に心の温かみを感じましたものです。

 

ですがあくまで思想的には米國の合理思想には何より行き過ぎたところがある筈だと思って居る。

其の面で彼ガブリエル氏と私自身の立ち位置はほぼ同じところにこそある。

 

 

其れと米國の物の保存力は實は凄いのです。

 

米國英國から離脱した人々が築き上げた國でまさに進歩主義でもある訳だが意外なことに其の英國流の物を大事に保管する気風さえもがしかと残って居ります。

 

だから其れこそアノ広い國土からポンポンと百年以上前のアンティークの品などが出て参ります。

ですので米國の文化の全てが合理主義に毒されて居る訳でも無いことだらう。

 

 

むしろ戦後の日本こそがさうした古い物の価値をほぼ全的に否定して行ったやうにも思われる。

何が間違いだと言えば其の種の思想無き経済成長こそが誤りであり失敗だったのでせう。

 

かってかの三島 由紀夫先生が其の部分を大変に心配されついには自衛隊に決起を促すべく隊を説得するに及ばれ挙句には自決されて仕舞いましたがまさに其の通りに日本人は次第次第におバカ化したのではないかと思われてならぬ今日この頃です。

 

其のソーシャルメディアはコミュニケーションのツールとしては広範囲に過ぎー拡大し過ぎー且つ抽象化され過ぎても居ます。

 

其の抽象化され過ぎた領域で所謂繋がるのだがまさに其れがウソー虚ーの繋がりなので其処に様々なタイプでの悪が蔓延り易いのではないかしら。

 

 

ガブリエル氏が奉じる自由民主主義に関しては私は必ずしも其れを奉じて居る訳では無く逆に民主制に拘るのであれば直接民主制を実行に移す方がスッキリするのではないかとも時に考える。

 

但し無論のこと独逸人が自由民主主義を奉ずるのはかのナチス・ドイツ全体主義に対する反省からなのでせう。

 

兎に角私の場合は人間は自由でも無制限なのでも無いと考える限定主義者なので独逸人の反省とはまた違った意味でまさに人間に対し潔癖なのです。

 

 

また其のデジタル・デトックス(解毒)に限らずキャピタリズムデトックスやモダン・デトックスこそが現代人には是非必要なのではないかと私は考える。

 

と申しますのも、人間の思考や行動は元より其の範囲が限定されて居るものだ。

 

故に我我は抽象的に其れを拡張して行くことなどは出来ない。

 

何故なら👪もまた共同体もまた天皇様も國家もあくまで具象的に其処に与えられたものなのですから。

 

確かに天皇様や國家はより抽象度の高い価値なのですがあくまで其れは具象的領域のものです。

ところがソーシャルメディアや又はPCの世界つまりはネット世界にイザ毒されて仕舞いますとまず其処から脱け出すことなどは難しい訳だ。

 

故に其の仮想現實に生きる上での多くの時間を割いて仕舞う羽目ともなり易い。

よってまさに其の為に具象的価値を見失う羽目にも陥り易い訳だ。

 

 

尤も私の場合はかうして文人だと自分で名乗っても居る訳ですので其の表現の場から逃げる訳には参りません。

でもこんなものからは何時逃げたって構わぬ筈だ。

 

抽象的な価値のものとは所詮は其の位の感じでもって付き合うべきものなのでせう。

 

 

尚其の抽象的領域の遮断に関しては非常に興味深い部分です。

 

丁度今瞑想に就き書き始めた訳ですが、其の瞑想こそがまさに究極的に何もしないことの具体化の筈です

 

何もしないことこそがむしろさうして心を落ち着け眞理方向へさえ心を向けるのだとすれば果たして我我は其のことをどう理解したら良いのでせう?

 

だからまさに其れが正では無い負のヒエラルキーとしての構築であり動では無い静のヒエラルキーにこそ関わることなのだ。

 

特に近代以降我我の社會はさうして正の方向、動の状態ばかりを維持しつつ社會を進歩へと導いて来た。

 

其の進歩の末にソーシャルメディアこそが今まさに情報化された社會のアイデンティティとなって居る訳ですが反面其れを遮断したとしても我我にとっての具象的現實が変わる訳では無い訳だ。

 

 

なので其れは所詮価値の押し付けなのだらう。

まさに其処が資本主義社會に於ける下らぬTVCMの垂れ流しなどとも良く似て居る部分なのだらう。

 

全く何だのかんだのと實に押し付けがましい。

いや勿論商品其れ自体は嘘じゃ無く勿論買えばちゃんと其れは届きます。

 

でも大抵そんなものは要らんからTVCM其れ自体をむしろ視たくは無いのであります。

欲しければちゃんと自分で調べて買うからそんなおせっかいな要するに押し売りのやうなことは最初から要らないと云うのに。

 

 

かくして人間の社會と云うものは常にバランスを取りつつ上手くは進んで行けぬもののやうです。

利便性に頼ればむしろ不便にもなり其れを具体的に示せば現在のコロナ禍であり今後文明が直面せざるを得ない地球温暖化の大問題でもあるのです。

 

多様性を求めれば自己の領域が守れなくもなりー移民等の問題の発生ー自己利益にばかり拘れば全体の利益を破壊するに至る。

 

其の社會の上では結局バランスを取ることなど出来ぬので釈迦やキリストが内面にてバランスを取ることを目指されたのかもしれません。

 

 

さて上で「ソーシャルメディアの利用は最低限にとどめることをお勧めする」とガブリエル氏は述べられて居ますがまさに其れは勇気ある発言なのだと私は思います。

価値観の上で言えば其れは戦時中に戦争反対!と述べて居るやうなものなのではないか。

 

私は此の種の一種過激なプロテストの様が好きなのですぐに其れに吸い付いて仕舞いますが其れは結局意味不明の進言として大衆に受け取られて仕舞うのかもしれません。

 

ソーシャルメディアにせよ其れを可とする技術革新にせよ其の根本のところには進歩と云う大前提としての大きな社會的枠組みがある訳です。

 

見る限りガブリエル氏の考え方は其の進歩思想に対して基本的に懐疑的なやうです。

 

いえおそらくは行き過ぎた進歩思想に対して慎重なのではないだらうか。

 

ちなみに個人的に過度な情報社會は「百害あって一利なし」位に實は考えて居ります。

まあ其処は日頃の私の発言からすぐに察しが付くことかと思われますがズバリ私は諸の進歩に対しては物凄く懐疑的です。

 

 

故に其の進歩を今すぐに止めて頂きたい。

 

進歩などもう止めよ!

ストップ・ザ・進歩!

 

なんとなれば其の進歩のヒエラルキーこそが人間の未来の全てを奪い去るのですから。

 

でも何で皆様は其れには反対せず中國共産党の行いばかりを目の敵にして居るのでせうか。

むしろ私には其の論理こそが理解出来ません。

 

いや其れは中國共産党を認めて居ると云うことでは無く中國共産党以上に進歩思想の蔓延の方が怖いとさう申して居るのです。

 

 

つまりは君はあくまで反米としてのアカなのか?

いやさうでは無い。

 

私はすでに思想になど生きては居ない。

言いたいことは只ひとつだけでまさに其れが進歩反対!なのだ。

 

 

何でそんなんなったかなあ。

いやね其れが余りにもマイナスの価値に拘り過ぎていつの間にかこんなんなって居ます。

 

 

ところで橋の下のルンペンさんとはお友達になったりもした?

いえ何処にも行ってませんので誰とも話などして居りません。

 

屡鉱物採集には行って居ましたのですが…。

 

採れたのか?

まあ色々と採れました。

 

さうか、連休中には是非皆様に鉱物採集を御勧めして置きたいところだ。

 

石はいいですよー、何せ進歩など絶対にしないですから。

さうして進歩する人間よりも進歩しない石の方がどうしても私は好きですね。

コロナ禍での連休の過ごし方と人類に対する深い愛

其の現代文明ー現代社會ーのあり方に関してはあくまで私の見方によれば所謂「危機意識」に欠けて居た、と云うのが正直なところでの私の感想です。

組織の構造的な問題としての其の危機意識の無さ、また個としての精神的な意味での危機感の無さ、さうしたまさに無防備な様が積み重なり現在と云う現實を招いて居ると私は見て居る。

 


其の危機感を持つことと云うのは、まさに理性の働きなのだと思う。

 


なのだが其れが持てずに終わるのであれば、要するに人類には理性が無かったか又は欠けて居たと言われても仕方が無い訳だ。

 


さてこんなやる気の無い私でもすでに長く此の世を生きて参りましたので世間ー社會ーの様だけは其れなりに長くも見て来て居る。

其処で感じたのは人間は可成に利己的な動物であると云う其の一点でした。

 


ですが其の利己的な部分へは誰しもが陥ることでせう。

其れは誰しもまずは自分が大事で、次に👪が大事で親戚が大事でひいては恋人、友人、知人、さらに共同体、帰依する宗教団体、郷土としての日本、國家としての日本と云うやうに其処に「愛のヒエラルキー」が形作られて行くからなのです。

 


さうして最後の方に地球乃至は大宇宙と云ったデカい価値観が登場する訳だらう。

 


ですが其の所謂常識的価値ヒエラルキーとは何かおかしくはないですか?

 


むしろ其の逆のヒエラルキーを構築してみるとむしろ簡単に其の自己が大事だ病に対し薬を与えることが出来るやうにさえ思える。

 

 

 

私が其の「価値観の転換」を説くのは其れは宗教的見地からなのでむしろ無くむしろ現代社會に洗脳されし大衆の価値観を解き放つ為が故にです。

 


ですから、前々より私には現代社會が危ういものとして認識されて居ました。

其の認識を齎すものが謂わば詩人的視野でもある訳です。

 


詩人的視野即ちかの宮澤 賢治による「ぜんたひの幸福」としての概念でせう。

其の「ぜんたひの幸福」が成らぬと云うのにグローバルに成し遂げられる自己利益の追求ばかりに走る現代社會のあり方こそは明らかに病んで居りました。

 


でも会社のみんなや共同体のみんな、また國をやって行くみんなはまさかそんなことまでは考えて居なかった筈です。

ですのでまさに其の様が「理性無き」獣としての様其のものなのだ。

 

 

 

で其の獣共よりはたとえば宗教に走って居る方々の方がまだしも心が清い訳だ。

事實私が見知った限りでは宗教に走って居る方々は眞面目な方々が多く其の点ではまさしく頭が下がる部分でもある。

 


逆に世間では屡次のやうなことが横行して居る。

 


たとえば社會的な地位だの肩書きだのに胡坐をかき往々にして其の陰に隠れてコソコソと悪いことをして居たりもする。

余計にタチの悪いことに、其の社會的な地位だの肩書きだのが出来ると金が沢山入って来ますのでイザさうなればもうしたい放題です。

 


さうして美味いものをたらふく食い、かつ妾さへ囲い、おまけに一流品をしこたま買い揃えもう何でもがお望み通りだらう。

 


其の美名の元に、其の社會が認めた善なる価値の元にさうして集う獣共の何と汚らわしいことか!

僕には金があり地位があるからおまえら貧乏詩人などとはまるで違う特別な人間でしかもかうして👩にもモテるのだ。

 

 

 

正直申しまして、其の汚らわしい社會のドレイ獣としての醜い心の堆積こそが現代社會を追い詰め或は破滅へと向かわせて居ることだらう。

 


たとえば医師会や看護師。

 


確かに其れは人間の命を救う正義の味方の筈ですがほんたうはむしろそちらの側にこそ問題がありはしないのか?

 


たとえば國会議員。

 


其れにアノ馬鹿元法相。

 


其れにアホな環境相

 


うわあ小池妖怪都知事

 


アアー、そんなこんなでむしろ能力の無い奴等ばかりが政治家になって居るのだぞよ。

 

 

 

さて其の危機感とは理性が感じ取るべきもののことです。

理性は欲望ばかりには走らず屡立ち止まり反省する働きをしかと持って居る。

 


だが何故政治家達には、また資本家達には、さらに今の教師や學者、宗教家等には其の理性の働きが少ないのだらう?

 


其れは価値ヒエラルキー構築に於ける一種の構造的問題で要するに其処には逆構築が無いが故に全的に正のヒエラルキー化が図られて居るからのことだ。

正のヒエラルキー化、即ち全てを正の序列社會としますと、實は危機管理が出来ずもしも其れが訪れれば其の正の序列社會ごと崩壊して行くより他は無いのである。

 

 

 

逆に負としての秩序、謂わば逆方向での価値ヒエラルキーを非常時用に確保しておくことこそがまさに理性的な危機に対する対処法なのだらう。

そんな訳ですので現代の社會は眞の意味での理性には欠けて居た即ち社會其のものが馬鹿でしたと云った話のオチです。

 


で、其の馬鹿は利己心より生ずると先に述べました。

利己心の蔓延した社會でもって其の馬鹿を治すのは極めて難しい筈です。

 

 

 

でも馬鹿を続けて行けば行く程に社會は崩壊して行きます。

 


第一すでに其の社會としての正の価値ヒエラルキーが崩されても居ます。

まさに其れがコロナウイルスによる具象的限定のことだ。

 


事實全國各地の観光地では今も閑古鳥が鳴いて居ます。

度重なる経済的な打撃により自治体もまた國も疲弊し日本人が何時飯が食えなくなるものやら知れたものではない。

 

 

 

だから其れは所詮理性が無かったからさうなって行くことであるに過ぎない。

だからほんたうに頭の良い奴、またほんたうに心の清い人々などをむしろ蔑み馬鹿がつまりは獣が其処に繁殖しおおまさに日本の社會をグダグダのドロドロにして行ったからこそさうなったことであるに過ぎぬ。

 


ーこのところ新興宗教を攻撃して居たやうでしたが其処のところはどう決着が付いたのですか?一転して今日は宗教を認めるやうな発言をなされて居ますが。ー

 


いや、宗教はね、其れは其れは尊いものですよ。

宗教とは花です。

 


花?

其れも心の花です。

 


其の花にはね、勿論芳香がありますが毒気もまたありませう。

 


宗教とはかの宮澤 賢治の志其のもののことでまさに其処にて藝術と宗教の一致をみるもののことだ。

 

 

 

藝術と宗教の一致とは此れ如何に?

 


そも眞理探究の方法には弐種がある。

 


ひとつが眞我の形成でいまひとつが非我としての矛盾を愛することだ。

 

 

 

獣としての己を放逐するのが宗教の目的ですが藝術の目的は獣としての己に殉ずることだ。

 


もしやアナタは?

 


さうなんです、其の両方をやらうとして居ましたのですが早々と撃沈されました。

 


其れで藝術的自我を生きやうとさうしてもがいて居なさるのか?

 


いえまるでもがいてなど居りません。

 


何故ならもがけばもがく程に観念地獄としての深みにハマるだらうからです。

 

 

 

でも其れって社會の問題とはまた違う話ですね。

確かに違う話なのだし社會の問題の方がより低次元された問題なのです。

 


此の社會が問題なのはさうして正の序列化により価値観が硬直化されて仕舞って居ることに他ならないからだ。

なので危機に際し有効な手立てがまるで打てない。

 


また其れは文明規模でのものなので部分的に何を言って居てもまるで役には立たない。

文明規模での問題は國連などの國際機関が解決すべきものでせうが其の國連自体が正の序列化されて居るだけのことなので其処から有効な対処策を編み出すことなどは不可能だ。

 


では何を見るべきなのですか、今何を?

 


たとえば橋の下に居られるルンペンさんなどの生活の仕方などから學ぶべきなのではないか。

 

 

 

また極端な話を…。

だから頭がおかしいとさう思われて仕舞うのですよ。

 


でも其れがほんたうのことだよ。

 


むしろ逆ヒエラルキー化をする為に其れをこそ見詰めておくべきではないのかな。

 


むしろ其の位の柔軟性でもって世界としての価値の把握をして置く方が危機の折には何かと役立つ筈だ。

 


では果たしてみんなは此の連休をどう過ごすべきなのですか?

 

 

 

1.宗教に走るー此の際新興宗教なども可ー

2.山に籠るー山で駆け回り遊び瞑想にも勤しむー

3.家に籠るー部屋で静かに哲學書、文學書などの読書に勤しむー


4.むしろ観光地へ出掛け遊んで来るー何せ空いてるので楽しく遊べるー


5.むしろ百貨店でお買い物をして来るー何せ空いてるので楽しくお買い物が可能だー

6.むしろ飲食店へ出向き美味いものをたらふく食うー何せ空いてるのでサーヴィスの方が良い筈だー

7.橋の下のルンペンさんなどと交流してみる

 


要するに正の価値ヒエラルキーには束縛されぬ生き方を今あえてしてみよ。

 


くれぐれも其処で日常をなど具現化せぬやうに。

むしろ普段はとても出来ぬやうなことを其処であえてしてみるのだ。

 


すると妾と遊んでみたりして非日常を体験することもまた可なのか?

 


残念ながら其れは✖だ。

其の👩遊びだけは絶対に✖だ。

 

 

 

此のコロナウイルスによる具象的限定が正の価値ヒエラルキー破壊を齎して居ることは善悪で云えば善なのですか、其れとも悪なのですか?

 


だから其れは正の価値ヒエラルキーからすれば悪の出来事なのだし逆に負の価値ヒエラルキーからすればむしろ善の出来事だらう。

故に其の価値規定をむしろ社會の側からすべきでは無いと云う判断である。

 


其のやうに概念分別には必ずや二極化が行われるので価値は相対化して行かざるを得ない。

こと社會の問題に限れば問題は価値の相対化其れ自体にあるのでは無く正の価値ヒエラルキーに拘り続けることで危機から脱し修復しやうとする其の方法論としての選択を誤って居ることにこそある。

 


逆に言えばコロナ危機は社會の価値観を逆転させる為のむしろ好機である。


まさに其れぞ価値ヒエラルキーを逆転させよりフレキシブルにまたより視野を広く保つ=ぜんたひの幸福を見詰める為のまたと無い機会であらう。

 


さうだ、こと資本主義経済体制にとっては確かに大打撃なのだが人類の心の進化にとっては逆に最大の好機である。

さらに其れは社會的に行われる大衆への洗脳を解く為のまたとない機会なのでもある。

 

 

 

故に其の意味でのまさに今を大事にしやうではないか。

此の危機の今を大切に生き人間が人間として持ち得る価値観に就きいま一度個として吟味してみるべきだらう。

 


強く生きるとはまさにさうしたことなのだ。

強く生きるとは社會の価値観に盲目的に従い生きることとは違う。

 


どだい我我個には其のひとりひとりに理性の力が宿って居る筈だ。

其の理性に対し常に誠實であれ。

 


理性の最高位には神がおわす筈。

神で無ければ其れが佛だ。

 


理性に基づき其れに従い生きることは神ともまた佛とも矛盾することなどは無い。

さうして神佛の前に常に誠實であれ。

 

 

 

業火に灼かれる其の獣共の世界に光が降り立ちおおまさに其れぞ理性の灯なのだらう。

神であり佛であり且つ人間でもある其の理性の光のさ中へとたった今サア飛び込め!

 


我我の価値観はさうして正しいやうで居て實は正しくは無かった。

善のやうで居て實は悪であった。

 


一体何故そんなんなって居るのか?

其れは一方向しか見て居なかったが故にだ。

 


正の方向だけを見過ぎて居たが故にだ。

 

 

 

でも神も佛も其の正であり善なる絶対者である筈だが…。

 


馬鹿者!

 


神も佛も悪が何であるかをそも知り無論のこと全てーぜんたひーを見渡して居られやう。

 

 

 

社會如きが其の獣の仕業如きが神や佛の真似などして一体どうするのだ?

おまへたちは只の馬鹿🐵共の群れだとさう観念し大人しくして居ろだから連休中位は全部がオアズケだ、オアズケ!

 


でも人権が…。

 


アホンダラ!

 


馬鹿🐵共の群れには人権など元々無いのだよ。

其れをワザワザ人権思想化などするからオカシクなるのだよ。

 


馬鹿🐵共の群れには人権など無いが個としてのアナタ様には人権はしかとある。

其処をこそしかと間違えぬやうに。

 

 

今回もまた馬鹿だの阿呆だのと人間の社會をボロクソに貶されましたね。

 


さうでしたっけ?

でもボクは楽しく此の連休のことを、其の楽しい連休のことを述べてみたまでのことですよ。

 


其れに僕は金輪際批判などして居ませんよ。

さうです、最終的にボクが語って居るのは人類に対する愛だけ、其の愛♡の思いだけなのだ。

藝術と宗教の本質的差異ー自我に於ける構築と放棄の違いー

其の矛盾的推進としての生の意味の本質を分って居るかどうかと云うことこそが聖俗の閾なのであり且つ藝術家であるか俗人であるかと云うことの区別でもまたある訳だ。

其の聖なる者であれ或は藝術家であれより深い世界への洞察を為し謂わばより鋭い感度にて此の世と対峙する訳ですので要するに其処では凡人の世界とはまた別の強い苦悩を其処に背負わされる訳だ。

 


だが私は一種さうした特殊な苦悩のスペシャリストなのでもある。

故にかさうした苦悩の世界を書き描くことなどもまた可能なのだ。

 


なのですが、決まって世人はさうした洞察の深さや鋭さにはむしろ無縁でありむしろ生に於ける楽しい物語ばかりを追い求めて居るものなのだ。

要するにまるで獣並に其の意識の方が低いと来てる。

 

 

 

其の意識の低さにあえて寄り掛かり其処に胡坐をかくことこそが所謂「大人になる」と云うことなのでせう。

 


なのだが其の大人馬鹿ばかりとなるとやがては社會崩壊を引き起こし文明其れ自体が破壊されて行くと云うのがむしろ歴史上の大前提でせう。

 


で、其の馬鹿は一体どうすれば治るのかと云うことを長々と論じて参りましたが結局其れは治らないと云う結論へと傾きつつある訳だ。

 

 

 

勿論究極的にはまさに其の馬鹿を根絶せしめることこそが宗教としての課題でもあると云うことです。

 


其の宗教的な課題としての自力救済と他力救済のことに就き此れ迄くどい程に説明させて頂いても来た。

 


其れ等を共に精神にとっての正しい道であると述べたところこそがまさに私の認識上の特徴でありオンリーワンとしての価値観の部分でせう。

 

 

 

宗教の課題として最終的に否定しておかねばならぬものが個人崇拝ー教祖様へのーであることも述べて置きましたが實際オウム教などにも其の傾向が色濃くあった訳なのだった。

 


翻りキリスト教の場合はキリスト崇拝やマリヤ崇拝などが確かに御座りますがキリストの場合には其れは神の子でもまたある訳なので個人崇拝には当たらぬものと私は考えます。

対してマリヤ崇拝に関しては多々疑問は御座りますが其れもまさに観音信仰と同じやうなもので生命を生む命の母への信仰ー地母神信仰ーと似たやうなもので其れは確かにキリスト教を不純化しては居りませうが全否定するべきものでは無いと私は捉えて居る。

 

 

 

さうして誰しも己の母を否定することが出来ぬと云う意味で人間には完全な認識など望み得ぬ筈だ。

 


佛教の場合釈迦の佛法に於いては釈尊御自身が其の個人崇拝を否定的に考えられ故に御自身への崇拝は止めるやうにと屡説かれて居たものでした。

釈迦の佛法はかやうに至極理性的なもので究極的には其れは先祖崇拝でも個人崇拝でも無く佛への帰依の一点張りでのものです。

 


其の佛とはまさに普遍化されし人間の精神の階梯の最上位に位置するものー分かり易くあえてヒエラルキーとして述べればーなので其れをこそ崇拝すべきものでもしも自分が成佛したとすればまさに其れが釈迦と同等に偉くもなれるのです。

 


其のやうに佛法とキリスト教の教義は違い、また個人崇拝の宗教と個人を崇拝しない宗教とは根本的に異なります。

 


佛法とキリスト教の教義が異なるのは其れは当たり前のことですが原則として個人崇拝をしない点に於いて謂わばどちらも正しく、でも個人崇拝の宗教と個人を崇拝しない宗教とは根本的に異なり言わば其れがまさに邪教と正教との違いなのだとさう考えられやう。

 

 

 

さて、其の人間存在にとっての苦悩を考えますれば、藝術ー文化ーにとっての苦悩と正教にとっての苦悩はまた違うものであるやうにも思う。

 


藝術ー文化ーにとっての苦悩⇔正教にとっての苦悩

 


とりあえず私はさうして其の苦悩を二元分離させてみた訳です。

 


藝術ー文化ーにとっての苦悩とはまさに創造的自我の苦悩であり正教にとっての苦悩とはむしろ自我放逐の苦悩其のものなのだらう。

 


なのでどうも其処ではベクトルが違うやうに思える訳だ。

 


即ち藝術とは創造ですのでたとえどんなに自己の心が腐って居ようが其の作品は皆作品としての態を為す。

つまりは成功する訳です、此の世での其の創造的自我の構築に於いてだけは。

 


対して其の自我放逐はキリスト教でもまた佛教でも大いなる目的とされて居ることです。

 


確かに其の自我放逐こそが其の正教としての課題です。

ですが實は其処に一つ大きな落とし穴が御座る。

 


まさに其れが教祖様に盲目的に従う為に自我を放棄することです。

ですが其れは眞の意味での自我放逐には非ず。

 

 

 

1.神に帰依する

2.佛に帰依する

 


故に此の弐種だけが正教として許されることだらう崇拝の形であらう。

 


さうして王や天皇を崇め奉り國會議員や地方の議員、また會社の社長、地元の有力者などについヘコヘコして頭を下げるのは其れは人間にとっての救いを齎すものでは元より無い。

逆に申せば教祖様や王や天皇を崇め奉り國會議員や地方の議員、また會社の社長、地元の有力者などの権威者、権力者についヘコヘコして頭を下げることを止めねば正教の齎す価値には決して気付けぬ訳だ。

 

 

 

藝術ー文化ーにとっての苦悩⇔正教にとっての苦悩

 


私にとり此の二面を両立させてやって行くことが次第に可成に辛い段階へと移って来て居る。

 


其の創造的自我と宗教的自我の並立が困難となって仕舞った訳だ。

 


其処で其れを+と-の要素に分けしてみることにこのほど決意を固めた。

 


何故+と-の要素に分けたのかと申せば、藝術とは創造的構築のことであり故に其の本質的価値は+となり、宗教とは正教に限れば其れは自我放逐のことなので其の本質的価値は-だと見て置いても良い訳だ。

 


ー但し最終的には藝術と宗教は其の価値を一致させ得る。最終的に其れは-としての現實から+の価値を生じさせる動きのことだらうー

 

 

其のやうに藝術と宗教は相剋し且つ相即するやうな価値である。ー但し教祖様が威張るやうな宗教は邪教なので宗教には非ずなのだがー

 

 

 


私が今述べて置きたいこととはかうした学校でもまた会社でもまた共同体でも教えては貰えぬ価値に就き述べることだ。

 


其の価値とはむしろマイナスから発する価値のことである。

 


宗教、其れはキリストの場合でもまた釈迦の場合でもまさにマイナスからこそ発して居るのである。

 


キリストは当時の社會を全否定しむしろ自分が子としてある神のみが正しいとほとんど妄想のやうなことばかりを述べられて居た訳だった。

また釈迦は其の奥方と其の子、また地位と名誉と國其のものをお捨てになりまるで妄想のやうな修行の世界へと入られて行った。

 


共にもう誰が見ても超マイナス思考の塊其のものであった。

なのだが結果的に正しいのは王でも無く國會議員や地方の議員、また會社の社長、地元の有力者でも無く其の御二方が成し遂げし価値観であった。

 

 

 

其のやうに聖なる者の認識は一般的に形成される価値ヒエラルキーをむしろ離れたものなのだ。

 


ところでいまひとつ一般的に形成される価値ヒエラルキーをむしろ離れた認識がありまさに其れが藝術家としての眼差しであらう。

 


此の弐種の認識が普通大衆にはまるで理解が出来ずよって大衆はむしろより分かり易い教祖崇拝への方へと走り結局はさうして邪教を信じて仕舞うこととなる訳だ。

 


なのでむしろ一番気を付けて置かねばならぬことこそが正教ー正統的な佛教の各宗派及び正統的なキリスト教各宗派ーを信じることであり邪教とは何かと云うことを知ることであらう。

 


で、個人的な選択の話に戻れば其の藝術ー文化ーにとっての苦悩と正教にとっての苦悩は共に捨てられぬものなのであえて私は同時に其の二つの苦悩を見詰めて行くこととしてみた。

 

 

 

其の価値判断をより具体的に申せば創造的自我と宗教的自我の両立のことである。

だが其れはなかなか難しいことでもあるが故に創造的自我の内容は別のブログへと移行させ宗教的自我ー批判精神をも含むーの内容はこちらにて続けて行くことと相成った訳だ。

 

 

 

先にも述べた如くに創造的自我と宗教的自我は相剋するー二元対立するーがまた同時に相即するー同じにならうとするー訳である。

 


己が生の目的とは其の創造的自我と宗教的自我を共に突き詰めてやって行くことにこそある。

己が生の目的とはさうして周囲にヘコヘコ頭を下げることでは無くまた大金を稼ぐことでは無い。

 


己が生の目的とは己にのみ可能な世界を形作ると云うことでなくてはならぬ筈だ。

 

 

 

でもコロナ苦が…。

 


いやコロナ苦云々と云った話では無い。

 


今や誰でもがコロナに罹り死ぬる可能性が無いでは無い。

 


つまるところコロナ禍は社會の問題であり個としての内面的問題なのでは無い訳だ。

 

 

 

でもイザコロナに罹れば…。

 


いや私にはコロナ其れ自体よりも人間社會が齎す諸の破壊の方がずっと怖い。

 


コロナ禍は其の破壊の端緒であるに過ぎずよって今後社會的な自我に対し破壊の波が次々と押し寄せて来ることだらう。

 


また問題が複合化しより具体的に資本主義社會や民主制と云った社會的価値に影響が及ぶ可能性が今後は高くあらう。

 


故に我はむしろ其れとは無関係に己の道をこそ歩みたい。

 


是非其れをやって置かねば後悔することだらう。

 


其れもたった一度の人生で後悔などしたくは無いのであるから。

 

 

 

尤も其の後悔の仕方は大衆の価値観などとはむしろまるで異なる。

 


1.もっとデカい企業でもって高給を得つつ65歳まで是非働きたい。

2.美人妻と所帯を持ち優秀な子を授かることが夢だ。

3.周りにヘコヘコしよりデカい家に住みデカい仏壇を置きおまけにデカい墓をつくり其処で死後はみんなで安心して暮らすのだ。

 


対する私の正直な気持ちとは、

1.教祖様にはヘコヘコせず此処まで来られ眞に幸せであった。

2.兎に角自然と親しむことが多く出来最高の人生だった。

3.後は持って生まれし此の文才と心中するばかりである。

 


即ちそも持って居る其の価値観其れ自体が違う訳だ。

 


かくして自我を放逐する為の其の正教としての価値観と逆に自我執着により作品を生み出す創造の価値観は時に混じり合いー相即しー且つぶつかり合ったりもするー相剋するーのである。

止と観の二元論より學ぶーコロナ禍での佛道修行 ー

其の社會がおかしい、つまりは社會が迷走して居ることと佛法が説くやうに人間の認識其れ自体が迷いにうち沈んで居ることとは哲學的には違うことかとも思う。

でも其の根の部分では問題のあり方は同じなのかもしれない。

 

社會の迷走とはみんなでやる迷走なのでより厄介と言えば厄介で人間存在としての個が抱える問題とはまた違った集団心理での問題であり歴史や人類其れ自体の課題なのでもある。

但し其の酷い社會の迷走はたとえば合理的に解決し得る筈だと私はさう考えて参りました。

 

つまるところ人間を止めるー此の世から抹消するーには佛法が是非必要な訳だが社會を修正するのはむしろ所謂社会科学としての領分のことだ。

其れでもって社会學者は一体全体此れ迄何をして来たのだらうと正直さう思いますのです。

 

でもって壱文人として其処で何を考えたのかと申しますと社會と個ー己ーの間に境界線を築き個の側のことだけを考え且つ論じて行きたいと云う一種の個人主義へと至りました。

 

其れは利己主義なのだとも言えるのかもしれぬがでも此れ以上社會の問題と関わって居るとほんたうにじぶんの方が破壊されかねぬ訳だ。

 

また其れは今多くの日本人の皆様の思いなのでもあるのだと思う。

 

なのですが日本人の多くは其の民族としての心理的性質から云ってもまさか其の社會を捨てられぬ訳だ。

 

 

でも私はこんな変わり者ですので喜んで捨てたりますわ、はい、捨てた、ああー何だか至極せいせいしたわいな。

 

ですから人文理性と云うか社會科の理性と云うかソコのところがまるで機能せずたとえばTVでは芸能人やお笑いタレントが其の社會の現状に就きしたり顔で論じて居ることなどがまずは変だ。

 

きっと學問の分野が専業化、専門化され過ぎおまけにTVに出て来るやうな學者は大抵が出たがりの変な學者が多いのでむしろ眞面目な社會學者が仰って居ることなど我我の耳には届かぬと云うことなのだらう。

 

 

さう言えば中学の後輩に一人社會學者が居りますのですが、さても彼は最近一体何を述べて居るのだらうか。

 

さて釈迦は社會ー他ーを変えることは出来ない、などとかって述べられて居たやうです。

 

其れはおそらく自分が変わらずば社會は決して変わらぬと云うことなのではないか。

 

 

さうして佛教は社會を変革する為の教えでは無く自己の認識を変えるつまりは認識を正す為の教えなのだと理解される。

 

ちなみに私個人の仏道修行歴は實はとても長くすでに参拾年以上となる。

 

なのではありますが其の間常に真摯に佛法と向き合って来た訳では無く主に哲學的に即ち内面として佛法とは向き合って参りました。

 

其の理由は先にも述べた如くに文明論との付き合いが長くまた勤めの方もあり実践的に佛法と関わる時間が其処には無かったが故にです。

 

 

ですが其の中でも若き頃にはとある宗教団体とも関わり其処で仏道修行としての基本的なものを学び其れを教える側の資格を取ったことなどもありました。

 

なのではあってもほんたうの意味での仏道修行が始まったのはむしろ其の後のことで其処では主に原始佛教の方へと至り其れこそ様々な著作に触れても来ました。

 

要するに後者の方では本を読んだだけのことなので實践的なものは何ひとつ学んでは居ない訳だ。

 

 

兎に角社會生活の方がさうして忙しかったのでさうして社會に振り回されつつ自らの心の中でのみ佛教哲理のやうなものをまさに自己流に組み上げて居ただけのことだった。

 

だが此のコロナ禍にて気付かされたことがひとつだけある。

 

其れはコロナ禍に対して世間の常識ー世俗としての価値ヒエラルキーーはまるで通用しないと云う事實でした。

 

其の世俗としての価値ヒエラルキーにて其の種の大きな社會的課題を解決に導くことはまず難しい。

 

と云う事は、問題がより根本のところへと遡及されまさに人間存在が抱えるだらう本質的問題の辺りにまで戻って仕舞って居る訳だ。

 

 

地球温暖化の問題を論じた時にもまさにそんなことを述べたことが御座いましたが、現代の文明が抱える大問題とはさうしたより事の本質を問う問題でありより根源的な何かを問うであらう問題其のものなのです。

 

其のやうな折に學者が専門外のことは何も述べられない、だの、また作家の先生方でも御自分の作品を仕上げる為に時間を費やすのは其れは仕方がなからうが、まさに我のやうに捨て身にて此の大問題に立ち向かい、揚句の果てにはついに何かにやられ倒れたと云う其のけなげなる努力と人類全体を思う心、おお、其のまるで暖炉の如きあたたかい心が何故理解出来ぬのか。

 

まるで暖炉の如きあたたかい心?

むしろおまへは毎回毎回文明を罵倒し馬鹿とか阿呆だとかウンコたれだとか兎に角そんな悪口雑言ばかりを連呼し自らの鬱憤を思い切り此処にて晴らして居たのではなかったか!

 

ついに見破ったな、我の本心を。

 

 

まあいいでせう、此処からは眞面目に佛法に就き語って参りませう。

 

 

まず世俗としての佛道修行と本職の僧侶の方々にとっての佛道修行とはまた別ものなのだとさう思われる。

 

特に新興宗教に於ける佛道修行は世俗としての価値観を離れるものでは無いが故に余程に注意が必要です。

 

つまりは其処で佛法を信じる訳では無く其の教義の上に立てられた教祖様自身を信じて仕舞って居るからです。

 

 

でもおまえの場合も實は似たやうなもので、何故なら君はじぶんの観念を佛道修行だと何か勘違いして居るやうだが其れは只の自称哲學であり佛法とはまるで関係無いものなのではなからうか。

 

だから私の佛法は文學であるに過ぎぬと其処は前々から何度も述べて来たではありませぬか。

 

故に私は眞理を語って居るのでは無く文學としての其の私の心の中での佛法との関わり合いを述べて居るだけのことです。

 

 

さて、昨日以下の番組をTVにて視ましたが其処から大きく感銘を受け其の部分に就き以下に書きます。

 

こころの時代~宗教・人生~ 瞑想(めいそう)でたどる仏教~心と身体を観察する1

 

まず其の瞑想に就いてですが、個人的には其れをさほど重視しては居りません。

 

何故なら個人的に常に集中し何かに就き考えて居るやうな人間なので基本的にはいつも所謂動禅状態にあります。

 

だから瞑想じみたことをするのは其れこそ年に弐度程奥三河の山中に入った時のことだけで現状で其れが程良いバランスのやうにも思って居る訳だ。

 

なのではありますが、瞑想の本質的意義とはまさに其の分別する自己としての観念的営為を滅することにこそあるのでせう。

 

其の意味ではむしろ今の私、またこれからの私にとってはむしろ一番大事なことなのやもしれません。

 

 

其の「考える」ことに就いては、私は考えることは大事だとさう思って居ます。

何故なら近代的に規定された社會の矛盾に対抗する為には個としての思考力が何より大事なものとなるからです。

 

近代的に規定された社會の矛盾ー問題ーに対しては佛法と云う本質論的な論議では無く社会科学からまた科学技術からのアプローチこそが最も有効であることでせう。

 

ですが、無論のこと其れだけでは人間存在が抱える本質的矛盾を解決することなど出来ません。

 

其れが出来ぬことは分かっては居るのですが、とりあえずは大問題に対し時を稼ぐ為にはむしろさうして行くより他ありません。

 

また文學にせよ其れは決して実効的に大問題に対し機能するものでは無い。

 

文學もあくまでまた其の本質的なもののありかを問う場であり其れでもって現實的に社會としての明日が救える訳では決して無いのです。

 

 

藝術とは所詮はそんなものなのですが、其れでも猶私があえて今藝術の力に拘るのは其れがまさに個としての力によるものだからなのだ。

 

逆に近代以降の社會化されし宗教の領域はさうした意味での個としての純粋さを離れ其処でもって社會的にヒエラルキー化されしかも教祖様が威張る場とも化して来て居る。

 

但し其処は藝術にせよ権威化し且つ高額化して居ることだらうまさに腐ったやうな商品としての場なのですが其れでも猶我は新興宗教の教祖様だけには従いたくは無いのであります。

 

元より私にはそんな反骨としての心性が色濃くあるので其処に限ればむしろ宗教向きなのでは無くむしろ仙人向き、つまりは文人系の世捨て人のやうなものなのだ。

 

 

なのではあれ折角かうして内面にて様々にやって行ける性分の人間ですので其処はむしろ其処の部分でやって行くことの方でこそ自己實現が可能な訳だ。

 

尚其の自己實現と云う概念其れ自体がまた佛法とは乖離して居りませうが其れも本質として自己を問うた時の話に限り近代を生き抜く上ではむしろ其の自我執着こそが大事です。

 

ですが其の自我執着からこそ諸の苦は生じると佛法は説きます。

 

 

故に本気にて解脱を目指す限りは是非其の自我の意識をこそ滅して行かねばならない。

 

ところが釈迦はむしろ其の最晩年の説法で「自己を頼りに進め」とさう仰られた。

 

其の自己こそが眞の自分、即ち眞我であるところまでは前回説明させて頂きました。

 

 

では其の眞我をどう形成して行くのでせう?

 

其の眞我の形成は然し並大抵のものには非ず。

でも結局其れは所謂観想によりまさに成し遂げられて行くものなのだらう。

 

 

ー仏教では瞑想を止と観の二つに大別する。(シャマタ:奢摩他)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。また(ヴィパシヤナ、毘鉢舎那)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。ブッダは止により、人間の苦の根本原因が無明であることを自覚し、十二因縁を順逆に観想する観によって無明を脱したとされる[3]。ー止観より

 

其の瞑想が止と観の二元論となることに気付いたことこそが今回私にとっての最大の学びの部分でした。

 

キリスト教の場合も明らに其の二元論なのですが原始佛教にせよ後の大乗思想にせよ矢張りと云うべきか其の二元論をこそ奉ずるものなのだらう。

止と観は併せて念処とも称せられる。

 

 

釈迦初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法であり、仏教の主な瞑想である止観の内、(ヴィパッサナー)の中核を成す観想法である[要出典]

 

四念処より

 

 

で、現代人の皆様、其の不浄観って何のことやら果たして分かりませうや?

 

まるで分からないことでしょう。

でも私はかってさうした認識を持って居ました。

 

何故なら幼い頃私は所謂不潔恐怖症だったからです。

 

其れを偉いなどとさう威張って居るのでは無くさうして感覚が普通では無かったが故に分かることもまたあったと云うことをまさに述べて居ります。

また其の頃は肉食さえをも體が受け付けませんでした。

 

ですが小学校の高学年の頃に親により矯正され逆に肉は🐟以外なら何でも食うやうになりました。

言わば其の不浄と云うことは、私にとってはむしろ当たり前のことだったのですが世間にとってはまるで通用しない感覚其のもののことでした。

 

 

故に私はまさに世間の逆を悩みに悩んで来たとさう言える部分を確かに持って居ます。

しかも其れは生まれつきのもので自分で選択して得たやうなものでは無かった。

 

 

ですので、其の一切皆苦と云う概念なども元々分からぬ訳では無い訳だ。

むしろソッチの方へと傾き易い人間なので自然と其れが良く分かる訳だ。

 

さて問題は、まさに此れ等の概念が世俗に於ける価値ヒエラルキーとは眞逆の価値基準となって居ることです。

 

 

故に世俗の壱佛道修行者として其の価値を世俗流に焼き直し解釈などすべきでは無い。

要するに社會に身を置く者として都合の良いやうに佛法の内容を解釈などしては断じてならぬ筈だ。

 

第一釈尊は👩には触れるなとさう述べて居られます。

でも我我世俗の者はむしろ此れ迄に充分👩にまみれて来ても居りませう。

 

 

ー四つの道理に背く見解。すなわち、凡夫が無常・苦・無我・不浄のこの世を常・楽・我・浄と思い誤ること。これを有為(うい)の四顛倒という。また、声聞縁覚がさとりの世界が常・楽・我・浄であることを知らないので無常・苦・無我・不浄であると思い誤ること。これを無為(むい)の四顛倒という。ー四顛倒より

 

其の世俗の価値観とは基本的に眞理とは眞逆の認識作用が生み出し其の誤った認識作用を基に価値ヒエラルキー化されて居るもののことだ。

謂わば眞理とは眞逆の価値観にて全てが構成されて居る訳だ。

 

 

有為⇔無為

観念ー概念ーとは分離ー分裂ーですので生滅変化としての苦ー迷いーがあれば他方に常住不変の樂ー眞如ーが形成されます。

 

観念ー精神としての認識=主体ーと物質ー物としての客体ーは相互に影響し合いー相即しーさらに矛盾的にいがみ合い-相剋する-もします。

 

其の認識其れ自体を佛法は迷いー誤りーだとして断ずる訳だ。

 

ですが其れ、實は人間の否定に繋がることでもまたある訳だ。

 

だからオウム教の事件などあれはひとつの必然でもまたあった訳です。ーオウム教が佛法の影響を受けて居たこともまた否めぬ訳ですー

 

 

ではズバリ申しませう。

 

聖なる認識、其の清らかなる認識とはむしろ人間であることを否定して行くことにこそある。

 

但し有為が否定されると同時に無為もまた否定されて行く訳だ。

 

有為✖且つ無為✖

佛法では此の両極否定が屡行われて居る。

 

其れこそが即ち釈尊による中道としての概念規定のことだ。

 

では一体何が正しいのですか?

 

即ち有為でも無く無為でも無い分たれること無き心の流れとしての中道こそが正しい。

 

概念規定としてはさうなりませうが、解脱にとっての其の核心部とは實は観念ソレ自体の抹消にこそある。

 

 

観念を消しますともはや人間じゃ無くなりますが…。

 

だから其の人間じゃ無くなることこそが佛法の目的なのです。

 

もう何言ってるのだかまるで分かりません。

タダでさえコロナにみんながやられかうして苦しんで居ると云うのに…。

 

だがそんなものは本質的苦では無い。

本質的な苦とはまさにおまえの其の観念にこそある。

 

さても果たして今どちらの方が教えを説かれて居るのですか?

 

かうして自称佛教詩人が今説いておる。

 

 

其の自称佛教詩人に限らず、考えることが好きな人は声聞、縁覚的な悲観論に陥り易く要するにマイナス思考へと傾き易い訳です。

ですが佛教とは實はマイナス思考ではありません。ー究極的には至樂を追い求めると云う意味でー

 

一切皆苦は確かに超ネガティヴ思考ですが此の世はそんな一切皆苦なのでたった今華厳の滝から飛び降ります、では無く謂わば悲観も樂観も同時に否定し観念其のもの、概念其のものを消し去ることこそが佛法としての要諦です。

 

故に其処ではぜんたいのことを考えずー感じずー部分的利益に終始しー諸欲に捉われー自らの魂を汚して行くことこそが生存の本義とならざるを得ない。

即ち生存の本義とはむしろ穢すもの、壊すものに全的に捉われることだ。

 

其のやうな認識をして居る限り常樂であり浄土である彼岸へと至ることなど決して無い。

 

よって認識其れ自体を念処ー止と観ーにより整え名色の分離智へと至るべし。

 

其の念処にて是非戯論を抑えよ。

 

其のやうな概念否定ー観念否定ーをなす為にこそ瞑想を行う訳だ。

 

其れは概念ー観念ー其れ自体が戯論であり故に本質的には其の戯論としての迷妄ー虚妄分別ーを去らねば常樂の境地は無いからだ。

 

 

彼岸ー動じない佛の境地ー⇔此岸ーせわしなく動き回る現世での価値構築ー

 

其の此岸とはまさに今此処にある我我の住する世界のことです。

我我は今此処に居てこうしたい、ああしたいなどと余分な欲望に苛まれて居る。

 

なのですが其の欲望は本質としてかなえられることが無い。

何故なら世界は具象的に限定されて居りー諸行非常ー眞の我による認識には基づくものでは無いー諸法非我ー虚妄のものであるに過ぎない。

 

でも妻は子はかうして此処に居ります。

だから様々なものが必要となりアンタみたくオレは藝術に生きるのだなどとそんな世間離れしたことを言ってたら皆に笑われませう。

 

笑われやうがどうしやうがオイラはとっくの昔に其れを捨てて居るのだよ。

第一縛られるだらう心が、そんなしがらみにこそ。

 

 

今に拘泥することなどもまた愚の骨頂だ。

其の今は迷いの今なのだ。

 

其の迷いの今を大事になどしてどうする?

でも禅とは今に生きることなのでせう?

 

 

禅語 而今

 

其の点に就きこちらで元名古屋大學教授の中野 紀和男先生が物凄く理性的な佛法解釈をなされて居ます。

仰るやうに「今だけを大切にして生きる」などと良く説かれたりもする其の「今」の解釈は間違って居るのだと私も思う。

 

むしろ其れは逆です。

今を滅する即ち相対分離することの無い自我を目指さねばほんたうの今は我我に訪れない。

 

じゃあ我我にとっての「今」とはウソの今なのか?

 

此処でも先生が仰って居るやうに「今此処」と云う生体験の連続としての瞬間の積み重ねこそが生を形作って居る。

其の瞬間瞬間が果たして大事なのだらうか?

 

大事だと捉えるのであればまさに其れは有為であり逆に常見に傾き大事で無いと捉えるのであれば其れは無為であり断見へと傾くこととなる。

其の有為と無為の二元否定、常見と断見の二重否定をしてこそのー概念的な意味でのー解脱であり正しい事象の見方なのではなからうか。

 

また其れは「生き方」の問題では無く事實其のものだと先生は仰る。

全く凄く理性的な佛法解釈ではありませんか。

 

確かに其の事實の正しい認識があってこそ生き方の指針や道徳が其処に成り立つ訳だ。

 

 

尚私個人も其の「今」の解釈には困り果てて来て居ましたのですが最近になり此処にて其の「今」の二元論を述べて来て居ます。

 

即ち今には二種があり其れは分離された今と分離されぬー永遠のー今とです。

もう少し噛み砕いて申しますとまさに其れがウソの今とほんたうの今だと云う事です。

 

では我我が生きて居る今此の瞬間とは果たしてどちらの今なのだらう?

残念ながらまさに其れこそがウソの今なのです。

 

逆に言うと其れがウソの今の集積だからまるでウソみたく社會がボロボロとなって行く訳だ。

 

釈尊は其のウソの今を大事にし且つ続けよなどとはまるで仰ってなど居ない。

 

釈尊は逆に「今」を滅し常樂へと至れとさう申された筈です。

 

 

つまりは我我の認識其れ自体にそも過失または過誤または負債つまりは間違いがあると云った話のオチです。

またつまりは其の過ちを正し正しい認識と云うか穢れ無き明らかな認識に至ることこそが佛法の目的なのです。

 

「今だけを大切にして生きる」

一見すると良い言葉のやうに聞こえまさに正しいことのやうにも思えます。

 

でも其処を疑ってかかっていらっしゃる元名大教授の知性にこそ私は感服致しました。

 

 

「今だけを大切にして生きる」

 

ですが私は今此の価値観を否定するつもりなど無くむしろ座右の銘となしていきたい位です。

 

一体其れは何故でせうか?

 

其れと申しますのも私は藝術の方をやらねばなりません。

弐箇月前に藝術のことを書くことを二人の🚺にさう約束致しました。

 

でも其の約束を破ってでも宗教ライターにでも是非なりたい位です。

 

何故ならかうして宗教的闘争をして居る時がむしろ自分として一番樂しいからなのです。

其のやうに宗教は人間にとっての根源的本質をしかと見詰める訳ですが藝術もまた違う場にてまさに其のことを見詰め続けて行く。

 

故に私は其の選択に於いて大いに悩みました。

かうして物事を観念的には把握し得る人間であるが故にむしろ其の種の苦を与えられたことだったのだらう。

 

 

今一度述べますがむしろ其の相対分別されし虚妄としての今と云う認識に拘泥するな、むしろ其れを放棄せよ、と云う位のことがまさに眞理としての認識のことなのでせう。

 

じゃあやる気が無くても良い?

 

やる気など初めから無い方が良い。

 

でも其れでは生きられぬから逆にやる気を出して今を生きて行かねばならぬ訳だ。

ー本質的には生への意欲は最終的に自己矛盾する。宗教は其処から人間を救おうとする。でも藝術は其処から逃れず悩み苦しみのたうち回りつつ作品だけを此の世に遺す。ー

 

今詩人は其の創造的自我にだけは向いて居ると云うことなのです。

 

 

彼岸ー佛の境地ー⇔此岸ー現世での価値構築ー

 

其処からしても彼岸にはむしろ何処にも「今」が無い訳です。

逆に捉えれば「今」は今此処と云う我我の認識ーの癖ーに起因するものなのだ。

 

すると「今」とは分離即ち時と云う分離に過ぎぬ訳だ。

其の分離ーウソーにしがみつくのが我我大衆で、対して聖人は分離ーウソーなどにはしがみ付かず彼岸を見詰め生きると云うさうした意味です。

 

左様に佛法とは此岸での二元対立ー弐項対立ーを超克する為の教えです。

従って至極哲學的でしかも科学的なものでさえある。

 

其れ即ち新興宗教の教祖様の妄想とは其れは別物だと云うことだ。

 

だから其れを學ぶにはとりあえずは理性が要ります。

故に理性無き教祖様への服従ほど危ないものはありません。

 

 

苦は迷いから生じる。

迷いとはウソを信じることである。

 

なのに我我は其のウソを信じ続け永遠に続く今を生きる。ー永遠其のものでは無くー

だから何だか余りにも人間が可哀想だ。

 

まさに其れぞ慈悲の視座でもまたあることだらう。

 

 

最後にひとつだけお尋ねします。

そりゃ何でせう?

 

我我人間は馬鹿なのですか?

 

馬鹿も悪も所詮は相対概念です。

相対概念を離れぬ限り馬鹿からも悪からも決して逃れられぬ。

 

また利口からも善からも決して逃れられぬ。

ひいては生からも死からも病からもまた老いからも。

 

 

其れは凄い、流石は藝術家の言葉だな。

いえ僕は今藝術家としてでは無く壱佛道修行者としてさう申して居りますのです。

 

現代文明にとっての今はまさに辛からう。

でも其の辛いのは社會が至らなかった故のものでみんなの持ってる認識上の馬鹿が悪い訳では決して無いのだ。

 

みんなはむしろ其の侭に馬鹿で良い?

 

だから馬鹿は決して治らぬからまさに其の馬鹿でもって「今」を生きるしか無い。

 

かうして欲にまみれた限りでの今を生きみんなで樂しく遊んで是非滅びて行かうではないか!

 

なる程、すると今太宰や今鴨 長明の方がまだしもみんなにとり優しかったと云うことだな。

 

しかも其のお釈迦様が説かれた眞理よりも何よりも!

 

 

眞理とは、其の眞理とは其処に世俗の者が思い描くものとは比べ物にならぬ程の厳しい心の道程を其処に指し示すものだ。

 

さう眞理とは心の苦行のことでもまたある。

其れは人並みの情や常識的な発想、またさうして価値ヒエラルキーの上部構造に殉ずると云った大衆的な性質とは本質的に異なるものである。

 

貴方の佛道修行とはさうして何処までも己としての佛への観念を磨いて行くことか?

 

さう其れも私には其れしか出来なんだが故に。

観念では解脱することは出来ぬが故にまさに其の故にこそかうして今観念を磨き続けるのだ。

我の有無ーコロナ禍での佛道修行 ー

現代社會が抱える其の深い闇の部分、其れも根深く堆積する其の罪と煩悩の部分は文學を始めとする文の領域では決して其れを根本的な解決に導くことが出来ない。

ひとつだけ解決に導くことが可能であるのはまさに其れは宗教的次元に於いてでのことだ。

 

但し是非勘違いをしないで頂きたい。

教祖様を其の組織の頂点に戴き其の言説を神の如くに信奉すると云うのでは其れではまるで本当の宗教では無いのである。

 

本物の宗教とはむしろ自己としての哲學の範疇に属するものだ。

 

眞理への希求の其の根の部分とは其の自己としての心の性質にこそある。

 

其の性質の部分は然しほとんどが生まれながらのものである。

釈迦がまたキリストが其の類での特殊な心の性質の持ち主であっただらうことはまず間違い無いことだらう。

 

またたとえば學問の世界であるにせよ東大や京大へまた阪大や名大へ入る奴など滅多に居るものでは無く謂わば其れは其の分野での特殊能力者ースペシャリストー達なのだ。

 

さらに其の上に準教授や教授になる人間も居て其れなどはまた違う次元での學問のスペシャリストなのだ。

 

 

其の心の上でのスペシャリストが釈迦でありまたキリストである訳で、其れは断じて新興宗教の教祖様などでは無いと私はハッキリ述べて居るのである。

 

新興宗教の教祖様の価値観は概ね現世利益的なものでまさに其処が俗物の代表格のやうなものなのでそんな腐ったやうな価値に重きを置く宗教などはやがては大方腐り切って行くのである。

 

 

でもまあ其処は良い。

今は正直其れどころでは無い。

 

今文明は「破壊」と日々対峙し闘って居る。

 

元より其れは偉い。

良くぞ頑張ってる。

 

だが私は五年も前からいつかはさうなるぞとさう警告して居た筈なのだ。

 

 

では何で其れが分かったのか?

 

無論のこと私は釈迦やキリストほど心が清くは無くむしろ心が醜いまさに心のウンコたれであらう。

 

だがあいにく其の詩的感性の権化のやうな感度の鋭敏さだけは常に持ち合わせて来ても居た。

むしろ其の感度の高さ故に少年時代より此の方ずっと苦しみ続けて来たのであった。

 

さて其の「破壊」に就いてである。

 

 

まさに其の破壊は、社會の価値観即ち進歩だの資本主義だのと云った正の価値観からすれば眞逆の価値ともなる筈だ。

然し我我はまさに其の眞逆の価値をこそ今突き付けられて居る訳だ。

 

だからこそ先行きに対する不安が大きく拡がり社會的に大きくダメージも受けて来て居る。

 

然し釈迦やキリストがかって説いた眞理に照らし合わせてみればー其の教祖様の言説などとは別にー、實は其れが当たり前のことであったと云う其の事實にまさに愕然とすることだらう。

 

即ち其の「破壊」とは必然なのである。

 

 

釈迦は滅びぬものー破壊されぬものーがあらう筈は無く滅びぬことー破壊されぬことーがあらう筈も無いとかってさう述べられた。

其のやうに諸行は非常であることこそが眞理である。

 

またキリストは其の非常なる世での神の愛への帰依を説かれた。

と云うことは其の神の愛に背き自己流でもって社會がやってると其れはいつかは滅ぼされると云う話のオチである。

 

要するにどちらの場合も其の「破壊」が説かれて居るのではなかったか!

 

 

仕舞った!

何故こんなに基本的なことに気付かなんだのか。

 

ー其れはおまえらの心がくもりにくもって居るからだらうー

 

 

其の「破壊」を説く教えこそが人類にとっての正教である。

何故なら、もしも我我が深く釈迦又はキリストの教えに帰依して居たのであれば、此の社會を滅ぼさんとする邪悪な流れに対しむしろ「ありがたう」とさえ言えることであらう。

 

ところが邪教の教祖を信じる余りにか「コロナが悪い」と云うレッテルをコロナに貼りまた「自分は正しいのに悪いコロナが来て正しい自分を苦しめる」との誤った認識を繰り返すと云う始末だ。

 

其のやうな邪な心ではまるでもって此のコロナ苦を終息させることなど出来ぬ相談だ。

 

 

其処でまずは釈迦又はキリストの教えに帰依することとしてみた。

 

すると、「コロナが悪い」のでは無かったことにまずは気付く。

 

尤も宗教的には其れも当たり前のことで、何故なら其れは眞理からはほど遠いところを歩み過ぎた文明の内容が陥る必然の態でもまたあった訳だ。

 

 

但し宗教的な捉え方が価値の全てでは無いことだらう。

 

特に経済対策や科学技術からのコロナ禍へのアプローチこそが現實的には大事である。

 

哲學や宗教は人間の根本の部分を問うていく為の観念的アプローチなので無論のこと其れがほんたうのほんたうの意味では大事な領域なのだがまさに其れが現代人にとってはもはや意味不明の領域であることもまた否めぬ部分なのであらう。

 

 

で、其処であえて宗教をやるとなるとむしろ邪教の教祖様を頑なに信じて仕舞ったりもするので全くのところタチが悪い訳だ。

が、科学技術を信じるよりは其れはまだマシかとも正直思うのである。

 

しかも其の信ずるに足らぬ科学技術によりコロナをやっつける他無いと云った矛盾に陥る様こそがむしろ實情なのだ。

 

 

現代社會が抱える其の深い闇の部分、根深く堆積する其の罪と煩悩の部分は文學を始めとする文の領域では決して其れを解決に導くことが出来ない。」

 

其れにつけてもまたイキナリ怖いことを申されたものですね。

 

でもほんたうのことですので要するにまるでほんたうのことですよ。

ではどうすれば良いのですか?

 

かうして何度も何度もお尋ねしますが一体どうしたら良いのですか?

 

まあどうにもなりまへんな。

 

でも意識が高い系の方々は皆様御自分で解脱に至るか又は神と一心同体になることを目指す、即ち「目覚める」為に今を生きて居られやう筈だ。

 

では其の意識が高い系のおまえ自身はすでに「目覚めた」のか。

 

 

まるで目覚めてなど居ません。

 

其処はまるで今太宰であり今鴨 長明ですのでソコの辺りをウロウロとしつつ色んなことを考えて居るばかりでなので御座ります。

 

で何故「目覚め」ても居ないのに社會に対し「目覚めよ!」などとやって居るのだ。

 

あ、でも實はソコだけは目覚めてます。

 

社會に問題が大きく存して居ることだけはもう中学生位の頃よりハッキリ分かって居りましたが故に。

 

 

では其の社會の一体何が問題ですか?

 

其れは前々から申して来て居るやうに抽象的価値の履行ー合理的世界観の確立ーが過ぎたことから具象的限定が引き起こされて居るものかとも思う。

具象的限定とは具象的破壊と云うことでもあり重要なことは其の破壊が自然の範疇を離れて仕舞って居ることだ。

 

たとえば鳥は空を飛ぶのだが文明の場合は金属の塊を加工することで其れを飛ばして仕舞うことだらう。

 

まさに其れがオカシイとさう述べて居るのだ。

 

 

何処がオカシイ?

何故なら金属の塊が空を飛ぶことはいざ感覚にて捉えればまさに其れはオカシイことだ。

 

そんなことを言い始めたら文明の諸価値はみんなおかしくなるのではないか。

だから其れがオカシイと思う心もまた必要だとさう述べて居ることがまだ分からぬのか。

 

其れに宗教的な価値もまた是非必要なものだったのだ。

あえて其れを合理化し罪だの煩悩の深さだのに不感症になってる文明其のものがむしろオカシイ訳だ。

 

 

さても君は文明を全否定して居るのだな?

うーん、さうでもないね。

 

文明其れ自体よりも文明のあり方、考え方其のものに誤りがあると云ったところではないかな。

 

つまりは其の思考の方がオカシイ?

 

さう其の思考こそが何よりオカシイ。

 

 

では何故釈迦が解脱を目指したかと云うことに就き深く考えてみやう。

 

私は今其れは抽象的に齎される破壊を阻止する為だったのではないかとさうも考えて居る。

 

たとえば先にも申したやうにコロナ禍は今社會に対し具象的限定を齎して来て居る。

 

だが元を辿ればまさに其れは文明の抽象的欲望が齎すものなのだ。

 

抽象的欲望には同質化ー画一化ー及び拡張化ー非限定化ーとしての原理が働き易い。

 

つまりなるべく社會が安定的ー計画的ーに大きくなると云う形態が其処に恒常化されて仕舞うこととならう。

 

 

対して具象的願望ー前近代的な願望ーは元々不安定で計画し切れぬものなのでまさか其処まで大きくはなれない。

 

すると近代とは其の計画的によりデカくなると云う人間の抽象的願望を實現したものだと云う事か。

 

つまるところはさうである。

 

其のことをかって私は「人間の巨大化=巨人化」だとして述べて居た筈だ。

 

 

其の人間の抽象的な願望はいつしか具象的な欲望への供給源としての仕事を離れ具象性其れ自体を圧迫する程に肥大化して仕舞う訳だ。

 

たとえばAIに於ける所謂シンギュラリティの問題や環境破壊の大問題などもまさに其のことにより齎されて居ることだらう。

 

 

では不安定で且つ貧乏でまさに小さくなって生きてる方が人間の社會にとっては良いと云うことなのですか?

 

だって釈迦もキリストもいつもそんなやうなことばかりを仰って居られた筈でせう。

 

釈迦の場合は此の世から人間を消して仕舞うことがむしろ良いことだとされキリストにせよ此の世では救われぬから神を信じあの世でもって是非パラダイスへ行きませうとさう申されて居るではないか。

 

つまりは人間がデカくなり過ぎたが故にまさに其のことにより現世の大破壊がたった今進行中であるとさう云うことなのであるか。

 

 

さうだ、つまりは人間がデカくなり過ぎ其のことにより現世での大破壊が進行中なのだ。

 

で、今まさにソコをどうするかと云った点だ。

 

コロナ禍がもし終わったにせよ今後は其れこそ次から次へと大問題が文明に対し突き付けられて来ることだらう。

 

 

さうして其の「破壊に対する破壊」はおそらく止むことが無い。

 

まさに其の「破壊に対する破壊」を釈迦やキリストは其の優れた心の感度にて分かって居られた可能性がまた高いことだらう。

 

だから釈迦は人間なんて此の世から消えた方が為になるとさう思われキリストは神の國へ入らぬ限り人間の幸せなど無いとさう見做された訳だが實はどちらでも其れは正解である。

 

正解じゃないのはむしろ社會の方だけなのだ。

 

 

でもソコまで言われると何だか気分が悪くなって参ります。

何故社會つまりはみんなをもっとあたたかく抱き締め、サアもう大丈夫だ、もうコレで人類は文明は安泰だ、などとは言って下さらぬのですか?

 

だから其れはな、優しさとは愛じゃないー谷川 俊太郎氏によるーからなのだよ。

 

優しさとはな、鞭のことだまさに此の言葉の鞭のことだよ。

 

 

かうしてどうも釈迦とキリストは文明の自爆の様を予知されて居たかのやうだ。

 

「わが齢は熟した。わが余命はいくばくもない。汝らを捨てて、わたしは行くだろう。わたしは自己に帰依することをなし遂げた。汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒めをたもて。その思いをよく定め、おのが心をしっかりと守れ。この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみを終滅するであろう」ブッダの遺言:自帰依と法帰依より

 

それにしてもこちらの方はまさに鋭い指摘をして居られる。

ちなみに私も「わたしは自己に帰依することをなし遂げた」と云う部分に全ての鍵があると今感じて居るのである。

 

まさに其の自己と法とに帰依せよとの部分にである。

 

其の自己と法とに二元分裂するのは概念にて規定される認識としての常なので其処は仕方の無いことである。

 

 

さてでは何故自己を無くす=無我を説いた筈の釈尊が逆に自己に帰依せよなどとさう述べられたのだらうか。

 

其れが實は「無我」では無く「非我」だからなのではないかと私は考えて居る。

 

其の非我としての我を生きる限り人間に解脱ー悟りーは無い。

 

つまりは非我では無い眞我としての我を其処に見出さねばならぬのであらう。

 

眞我としての我に利己心は無くまた下らぬ欲望なども無い。

 

其の自己にこそつき従い同時に法と云う眞理に従い生きることでようやくのこと修行は完成する。

とさう述べられて居るのではなからうか。

 

 

対して現代文明と云うか兎に角文明の壱員で居るより他無い我我個はむしろ非我の方に雁字搦めとなりまるで価値観が狂って仕舞って居る。=文明による洗脳状態にある

 

また👪が居れば其の👪に縛られ動物が居れば其の動物に縛られまた会社に縛られ学校に縛られおまけに金にも縛られおおまるでマゾヒストプレイのさ中のやうなものではないか。

 

だから私は昔からさういうのが嫌いだ。

そんな主体性に欠ける生き方が一番癪に障るのである。

 

其のマゾプレイの好きな奴等が沢山集まりおお、あんな風に赤信号を渡って行くぞ。

 

と云うやうな認識でもう長いこと居りましたのですがどうですか、其処こそが如何にも憎たらしいことだらうか?

 

そんな私ではあっても根が純粋且つ過敏でまるでガラス製のやうな詩人ですので此処弐箇月ばかりは其のマゾヒストプレイ共の圧力にやられもはや立ち直れぬやうなまでの精神的打撃を受けておったのです。

 

 

尚其の唯一神への絶対的帰依に就いてですが個人的には其れは否定すべきものでは無いとさう考えて来て居る。

 

何度も申して来ておりますが自力救済と他力救済は二元分裂での救済の概念設定だと云う事なのです。

 

故にあえて言えばどちらも正しいとさう申せませう。

 

其の概念設定に対する哲學的考察もまた近くする予定で居ます。

 

概念設定と際限無き抽象的欲望とがリンクして居るが故にそも文明がこんなんなって仕舞って居る事かと思われますので。

 

逆に申せば究極的には概念設定を解除せずば解脱は無くよって他力救済にて人間が本質的に救われる訳では無いのだとも思われる。

 

 

なのですが唯一の絶対的存在としての其の神により現實としての心が救われるのであれば其れは其れで素晴らしいことではありませんか。

 

では最後に今私が目論んで居る概念的な企みに就いて少しだけ述べておきませう。

 

 

私はさうして意図的に社會での価値観から己を護り藝術的に形成される創造的自我の方をこそ生きようとして居る訳だ。

 

こんな腐り切った社會に対してはもはや何を言っても無駄と其れを意図的に無視することでお家時間を充實させ其れこそじぶんなりでの具象的限定を行って居る訳だ。

 

具象的限定?

 

一体何のことだ其れは?

 

いや其れも何も、全部が眞我を形成せんが為の方策ですよ。

 

すると其の創造的自我こそが眞我なのか?

 

 

其れも社會がこんな時に創造的も何もあったものじゃ無くみんなが飯を食うだけで精一杯だと云うのに全く呑気なものよのう。

 

だからまさに其れが脱社會より得られるもののことじゃありませぬか。

 

つまるところ社會は社會でじぶんはじぶんなのですから勿論誰にも迷惑など掛けて居りません。

 

じゃあ此の侭に政府の甘い対応が仇となり日本の社會が滅びたら一体おまえはどうするのだ?

 

おまえも社會科を人に教えたことのある人間の一人として其れに殉ずるのか、つまりは腹を切るのか?

 

 

いえ逃げます。

 

何処までも何処までも逃げて参る所存です。

 

何処までも何処までも逃げて行き其処でもってかの鴨 長明でも是非読んでみたい。

 

 

偉い!

 

この期に及んでまだまだ御勉強をして行く意欲がさうしてあるのだな。

 

まあ其れも御飯が食べられて居る間のことでせうがね。

 

 

尚其の「自己に帰依すること」即ち自帰依、自灯明の教えに就いてですが、以下での五木 寛之先生の番組中にも其の場面がしかと出て参ります。

 

 

【21世紀仏教への旅】第一集 ブッダ最期の旅 インド

 

ー色はこれ無我、受想行識もこれ無我なり。
この色はまさに有るに非ず、受想行識もまさに有るに非ず。
この色は壊あり、受想行識も壊あり。
故に我に非ず。

 

 

此処にも非ず、非ず、とさう述べられて居ます。

 

即ち我は無いのでは無く有るが其れが眞の我には非ず、と云うのがより正確な佛法解釈なのではないかと拾年程前から私は考えて来て居ます。

 

謂わば見えるものに拘るのが嘘の我、偽りの我であり俗世間での価値観はむしろ其の我により組み立てられて居る、即ち価値ヒエラルキー化をされて居る訳です。

 

但し大衆レヴェルでの感度での此処からの脱出はほぼ無理でせう。

 

 

さらに大衆は哲學することなども大層苦手である。

 

そんなものがアナタそも解脱などしやうが無い筈ではありませぬか。

 

 

さうして此の「無我」と云う訳語こそが曲者であり只でさえ難解な佛法を余計に分かりにくくして居るのではないか。

 

なので諸法無我→諸法非我、諸行無常→諸行非常、と云うやうに私の場合は努めてさう言い換えても来て居る筈です。

 

 

ー「真実は無我なのに、もし我ありと答えたら、固定不変の自己が永久に続くという常見じょうけんという迷いに陥るであろう。
しかしもし無我と答えたら、彼は死ねば無になると誤解して断見だんけんの迷いを深めるのだ
」ー無我とは?より

 

其の我の有無に就き實際には釈尊は無記にて答えられた。

我の有無に就き其れを二項対立の概念の選択として取り扱わないと云うことなのだらう。

 

だったらむしろ無我ではイカンのではないでせうか。

 

なので其れを非我の問題として取り扱い、非我と云うからには眞我が何処かに有る訳なので其の眞我こそが佛だと云う事になりませう。

 

 

さうして佛陀の説く眞理としての不常不断の中道とはまた難しい概念でありよって其れを理解することもまた難しい。

 

なので眞我が何処かに有る、其れは修行することにより自らが見つけるものだ、さうだ「わたしは自己に帰依することをなし遂げた」と云う其の自己とは非我としての常識のことでは無く個としての眞我のことだ。

 

とさう理解致しますと概念的には至極スッキリ致します。

 

所謂輪廻転生と佛法との関係性に就いては此れもまた難しい問題を孕んで居りませうが其処でもまた眞我が有るので輪廻転生するのだとさう考えても良いやうに思う。

 

 

但し個人的には輪廻転生はしていてもまたしていなくてもまるで良いやうなことだと思います。

ですが、個々の魂と申しますか個としての生命には必ずや其の気性と云うものが御座ります。

 

丁度先程も述べましたやうに哲學的な思考が出来る人と出来ぬ人とがあり、また👩が好きな人が居れば逆に嫌いな人もまた居る訳でして其れは皆それぞれにさうした気質を持ち實際にかうして此の世を生きて居るのです。

どうも其の気性は生まれついてでのものであるやうに思えてなりません。

 

と申しますのも、私自身は其れこそ幼稚園児位の頃から全くの私自身にて今でも其の頃より微塵も変わって居ないからなのです。

 

かうした不思議さを考えますと或は其の我的な気性、性格の違いのやうなものは時空を超越する形で継承されて行くのかもしれません。

 

また頭脳の優秀さの程度とはまた別に悲観的な考え方をする人と樂観的な考え方をする人とがありますが其れなどもまた全く不思議なことです。

 

 

悲観的⇔樂観的

 

其処は所詮相対分別による世界観である他は無い人間の認識ですので其れを一つに纏めることなどは出来ず従ってどちらも有ってしかるべきなのだらうと個人的にはさう思います。

 

ですが観念的な人程悲観に傾き易い傾向があるが故に其処は是非注意が必要です。

 

事實として釈尊は断見の方へと傾き易い知識層に対しては此の世が常見であることを説き、逆に常見に捉われた俗人には断見的な世界の見方を説かれても居たやうだ。

 

なのですが文明に対しては今こそ是非断見の方こそが説かれるべきなのではなからうか。

いやコロナ禍がすでに其れを文明に対し説いて来て呉れて居る筈なのです。