目覚めよ!

文明批判と美の探求と

極楽浄土と地獄へ同時に行くのは金輪際イヤだが…

さてわたくしにとっての生とはまさに闘争の過程です。

 

其れも何やらまるで分からぬ闘争の過程其のものだ。

ですがわたくしは幼き頃より其のゴタゴタと云ふか悲惨と云ふかそんな情けなひ自分の様を俯瞰しつつ眺めることが出来た。

 

さうした理性の眼を何処かに宿して居たことでせう。

 

其の理性の眼とは所謂合理的解釈では無く謂はば直観的な把握でした。

どちらかと申せば其れは藝術の方に近ひもので従って其れは学校での御勉強により教へられるものでは無かった。

 

 

其れは言はば御勉強にては分からぬものなのでより正確には其れは言外ー抽象的な思考以前ーのものによる規定なのだ。

まあ其処は宗教的な気付きや御導きのやうなものなのでもまたあらう。

 

よって其処を周りに伝へることこそが最も困難なことでした。

其の困難さこそがまさに自分の中にあり世の中の大問題はむしろ大問題なのではありませんでした。

 

さうしてわたくしは自身として完結した形でもってすでに六拾年もの期間を生きて参りました。

 

 

ではアナタ御自身が完全であり周りは皆不完全なのでせうか?

其れもアナタ御自身のみが全能でもって周りは皆馬鹿なのでせうか?

 

まあ正直さう思へることさへもが屡ありました。

まさに其れがわたくしの病気かとも思はれますが元々さう云ふ人間なので其れを全否定して仕舞っては如何にも可哀想です。

 

どだひ作家タヒプの人間はおそらくは皆が自分こそが神であり佛だとさう信じ込んで居ることでせう。

 

ズバリ其れは頭が半分オカシヒと云ふことなのですね?

 

いや、其の半壊した頭でもってして創造性をば発揮して行くのが謂はば文人なのですよ。

 

逆に言へば頭が半壊する程でなければー苦悩が其処まで行かなければー實は何も見へては参りませぬ。

 

 

さうして詩人さんには何でも見へて仕舞ふんだ!

するともしや👩の裸なども見放題ですか?

 

まあ心の内側までもが見へるとでも申しますか単なるヌードのことでは無ひですね。

 

其れは凄ひ。

 

ではたとへば宇宙の果てなども見へるのですか?

 

いや宇宙は自分の内側がすでに其の宇宙なので其処をいつも宇宙遊泳して居る感じでもって生きて居りますがね。

 

 

ひゃあー、まさにとんでもなひ人ですね。

 

貴方はもしや神ですか、其れとも佛ですか?

 

いや、おそらくは誰もが其の神であり佛でせう。

 

只其れに気付けぬだけなのだとさう思はれます。

 

 

さてもさうして見へ過ぎちゃって困るのですか?

さうです、見へ過ぎちゃって困るのです。マスプロアンテナ CM 昭和

 

かうして此の歌を歌ふ👩の下着が透けて見へても居ります。

 

其の👩の下着が透けて見へて居ることが嬉しひのですか?

 

いやまるで嬉しくはありません。

 

タダ何故獣は👩の下着が透けて見へて居ることがそんなに嬉しひのだらうかとさう思ふばかりでのことだ。

 

 

すると貴方にとっては周りは皆其の獣なのですね?

 

うーむ、まあ、ズバリ其の獣ですが其の獣振りが可愛くも無ひ訳では無ひ。

 

其れは猫とか犬とかまさにそんなものと同じだと云ふことなのですね?

 

まあさうではありません。

 

 

人間は人間なのでまさか🐶や😸並だと云ふことでは無ひだらう。

 

何故なら先にも述べましたが如くに佛教にせよキリスト教にせよ佛性や神の属性としての人間の価値をしかと認めて居りませう。

 

但し心の持ち様の方向性が悪ひが為に獣化して仕舞って居るのだとさうも申せませう。

 

さうか、貴方様にとり其の獣との闘ひこそがまさに熾烈であった訳ですね?

 

 

いや其れはわたくしだけのことでは無くあらゆる藝術家、また知識人、宗教家による精神的闘争がまさに熾烈を極めて居たのだとさうも申されませう。

 

幸か不幸かわたくしは其の系譜の末端に連なる者であったと云ふだけのことです。

 

すると詩人さんには其の精神的闘争のより上位を究めたひと云ふ欲望はありませんのでせうか?

 

世に認められし偉ひ文人となり死後に堂々と文士の園へ入ることを望まれては居らぬのでせうか?

 

 

まるで望んでなど居ません。

 

わたくしは先人の文士の先生方の婢として生きることを決意した者でありすでに大きな欲の其の全てを捨て去っております。

 

 

其れは偉ひ!まさに偉ひぞ。

 

其れも宗教団体の幹部の人達に是非聞ひて貰ひたひやうな無欲な御言葉だな。

 

もしや其れでもって見へ過ぎちゃって困るのですか?

 

さうなの、見へ過ぎちゃってー困るのー。

 

 

ところでもしや最近書きながら遊んで居ませんか?

 

いや實は書きながらかうして遊んで居ります。

 

 

さても👩の裸に飛び付くことは罪ですか?

まあ根本的と申しますか根源的な命題でせうね、まさに其れが。

 

👩の裸に飛び付かぬ👨はまず居なひ訳ででも其処を理性的に制御して居る男性もまた少なからず居られることでせう。

又は其れどころでは無く生きるか死ぬかでもってやって居る人々は其処までの余裕が無ひと申しませうか、まさに自分の生を維持するのがやっとですが結果的にはわたくしの場合も其処に入ることでせう。

 

 

だが世間にはかうして余裕があり過ぎの👨が居るものですね。2度目不倫の宮崎謙介氏「ボランティア活動したい」

 

ところで何故コヒツはこんなにモテるのですか?

 

いやだから其れはそも👩とは馬鹿な👨にむしろ擦り寄って行くものなのだ。

逆に眞に理性的な🚹を🚺共は嫌ふものです。

 

 

さうか、では詩人さんもこれまでに随分嫌はれて来たのですね、可哀想に。

 

おまへに可哀想などとは言はれたくは無ひのだがさうだよ。

 

ところで詩人さん、其の🚹の女癖の悪ひのは果たして治りませうや?

 

まあ其れは無理でせう。

 

 

👩好きの奴は其れこそ中学生の頃位からすでに👩たらしです。

逆に文學フェチの奴も其れこそ中学生の頃位からすでに文學フェチです。

 

でも其処は其れこそ人其々なので、まさに仕方の無ひ部分でもまたあらう筈です。

 

人間の精神の傾向性は此のやうに変はり様が無ひものです。

 

ですが信仰を得れば其の変はり様の無ひ部分も或は変はって行くのやもしれません。

 

 

重要なことは世間の人々には其のやうな認識が概ね無ひと云ふことです。

ごく一部の見識の高ひ人々を除き世間の人々は自分と社会を疑ふことなく漠然と生活を繰り返して居ます。

 

故に其処では何も変はり様がありません。

 

変はらなくても良ひではなひか、そも何で変はる必要があるのか?

 

もしやおまへは革新主義のリベラル派なのか?

又は共産主義者なのか?

 

 

いや、そも変はりませんと近現代の社会は維持出来ぬこととなって居ります。

 

問題は日本が精神的には封建制をやりつつ現代の先進国となって御座ると云ふ其の矛盾だ、まさに其の矛盾。

 

いや別に社会は何主義でも良ひのです。

 

ですが日本の社会に限れば其れが常に矛盾的推進に陥って居る訳だ。

 

イキナリまた社会學者のやうなことを言ひ始めたな。

 

 

いやずっと前からさう言ってますよ。

 

そも日本の社会では常に矛盾が大きくあるので相当に危険だとさう述べて来ても居る。

 

まさに其れは社会的に危険だと云ふことでせう。

 

おそらく日本の文學者達は鋭ひ嗅覚にて其の危機を予知して居たことだったらう。

 

 

ではたとへば皇室に於ける結婚話などでワヒワヒ、ガヤガヤやってる場合では無ひとさう申されて居るのですか?

 

だってそんな話はバカバカしひ話以外のなにものでも無ひ筈ですよ。

 

全く馬鹿にもほどがありませう、其の程と云ふものが。

 

 

何でそんな馬鹿話に日本のみんなは群れたがるのですか?

 

もしや日本のみんなはすでに大馬鹿者なのでせうか?

 

ま、其れを言ってはお仕舞ひなのであへて其処は申しませんがね。

 

 

要するに全ては幼稚化し即ち低次元化して居ると云ふお話をして居ります。

 

其れはたとへば観念のあり方が非本質化して居ると云ふことなのでせうか?

 

おっ、鋭ひですね、まさに其の通りでのことでせう。

 

 

其の観念が観念として非本質化すること其れ自体がー日本又は社会がーおバカ化することの正体なのではなからうか。

 

本質主義相対主義

 

現代は其の相対主義に則り社会での価値観が組み立てられつつあります。

 

ですので、其の相対主義によりたとへばジェンダーフリーだの人種差別の撤廃などが声高に叫ばりたりもして居る訳だ。

 

 

ですが、相対主義ばかりをやるとたとへば伝統的秩序は守れなくもなりませう。

また本質主義ばかりをやるとたとへば変化することが出来なくなります。

 

~主義と云ふのは、實は左様に矛盾其れ自体を抱へ込むことなのです。

即ち右の思想の主義も左の思想の主義も共に矛盾を抱へ込んで居るのです。

 

 

本質主義の方が良ひのだとわたくしがさう述べて来ましたのは、廿壱世紀に入った後に相対主義的な見方が大きく勢力を持ち過ぎまさに何でもありの世界となって仕舞ったことへの反省を踏まへたことでもあった訳です。

ですが、本質主義本質主義でもって融通が利かぬ面、変はりたくは無ひ面をまた多分に持って居る訳だ。

 

だから其の本質主義でもってあへて行くのであれば我が國はもはや鎖國するより他は無くなる。

 

其の鎖國も一つの手ではあるが現代社会に於ひてはもはや不可能な理想論であるに過ぎぬ。

 

ですが、今回のパンデミックでもって相対主義の危うさもまた浮き彫りになって来ました。

 

具体的に述べればグローバル資本主義が其の相対主義のまさに具現化でもあった訳だが其れは次第に限定されて行かざるを得ぬことだらう。

 

 

ちなみに社会に於ける営為の全てが幼稚化し即ち低次元化して居る面もまた相対主義のひとつの側面なのだと思はれる。

其れは言はば事の本質を問はぬ世界が欲望に流され欲望に流された分思考と行動が幼稚化、低次元化して行く訳だ。

 

なのではありますが、最も深部に横たはる根本での問題はさうした幼稚化、低次元化=おバカ化することに不感症となって仕舞って居る現代の大衆の認識能力の低さにこそあらう筈だ。

 

つまるところは其処こそがまさに馬鹿なんです。

 

其の馬鹿はでもわたくし自身も持って居ます。

 

わたくしは別に何処かの教祖様のやうに自分が神の使徒だとか佛の生まれ変はりだとかさう云ふことを言ふつもりなどは一切無ひ。

 

 

無ひのではあるが、實際現代の大衆の認識能力には可成の危機感を抱ひて居ます。

 

で、わたくしが問題として認識して居ることはかうして常に社会的な問題であり其れはすでに個の能力を超へて仕舞って居るのです。

 

だからどんなに個が其処でもって自分の正義を振りかざさうともはやどうにもならぬ問題であることさへもが分かって居るのだ。

 

 

其れでも猶こうして世に対し何かをもの申して居るのはひとへにみんなの中の神や佛に祈りたひ一心からなのだ。

 

ところが社会を信じて生きて行くのがごく当たり前としての人間の生き方です。

 

さうして皆が社会を信じ日々を頑張るのでかうして社会は成り立って居るのだ。

 

確かに其れは当たり前のことです。

 

当たり前のことですが、其処には矛盾としての大きな盲点もまたあることでせう。

 

 

つまるところは其の社会に順じて低次元化する意識の流れを根絶せしめ自らの魂としての階梯を上げて行く=目覚めることを目指した場こそが此のブログの内容其のものなのだ。

 

 

左様に相対主義に陥れば事の本質からは遠ざかり逆に本質主義に拘れば変化に対し意固地となり融通が利かなくもなるものです。

 

男性原理⇔女性原理

 

老人⇔若者

 

大學生ー利口ー⇔文盲ー馬鹿ー

 

と云ふやうに此の世での概念は必ずや相対分離されたものとならざるを得ぬ。

 

ですが其の立ち場に固執すべき根拠自体が概念的にそも成立して居なひ訳だ。

 

其れでも概念的に成立する場は宗教的な信仰や藝術、學問による主義、主張しか無ひ訳ですがより正確には其れは宗教的な信仰より他に得られやうが無ひものです。

 

 

ところが其処で邪教を信じて仕舞へばまた其れは別の無知蒙昧さを自らの内側に抱へ込むことともならう。

 

二元分離した価値としての概念をどうバランス化させて行くかと云ふことだけがー本質的にはー人類にとっての喫緊の課題です。

 

ですが世俗での喫緊の課題とはさうしたことでは無くあくまで非本質的にどう生き延びて行くかと云ふことなのだ。

 

生き延びるー非本質化ー⇔滅ぶー本質化ー

 

なのでもまたあることだらう。

 

 

簡単に申せば非本質的に生きれば生きる程に此の世は生き易くもなって参りませう。

 

逆にかっての文士達のやうに本質を問へば問ふ程に夭折したり自決したりする他は無くならう。

 

だからこそ自らバランスを取って生きることが其処に求められて居る。

 

 

自らバランスを取り毎日其の社畜となり頑張りました。

 

どうですか、一点の曇りも無ひ奉仕にてまさに偉ひ行動でせう?

 

其れも特に偉くは無ひことでせう。

 

さうでは無く、其れはまたわたくしのやうに社会に対し文句を垂れる=提言する訳でも勿論良ひ訳なのでせう。

 

 

此の世はね、まさにさうした二元対立ー二項対立ーとしての世界なのだ。

 

まさに其の部分こそが不変且つ普遍としての眞理です。

 

理性の役目とは其の二元対立ー二項対立ーを乗り越へるところにこそ生ずる。

 

理性とは其の矛盾に挑む力でこそあるべきだ。

 

理性を快適さだの延命だのそんなところには金輪際使ふな。

 

また理性でもって宇宙へ行きました、なんてことはまるでもって茶番だぞ。

 

其の理性を二元分離した価値としての概念をどうバランス化させて行くかと云ふことだけに使へ。

 

 

其の茶番としての文明が今のアナタの現代社会への認識なのですね?

 

まあ茶番でせう。

 

ですが何せ馬鹿は治りませんのですし根絶することも不可能です。

 

 

エッ?

言葉の力にて是が非でも馬鹿を根絶させてやるとつひ先日さう仰って居た筈ですが…。

 

馬鹿もウヒルスも結局は共存すると申しますかイヤイヤながらも受け容れて行く他は無ひことだらう。

 

 

さうして生き延びる為には非本質化して行かざるを得ぬのが世の常でのことですので。

 

さても其の見へ過ぎた👩の裸は非本質化なのですか?

 

まあさうでせうね。

 

尚最近わたくしはたとへば👩の人が何かを喋るのですが其の意味がまるで分からなくなっても来ました。

 

エッ?

 

まさかどんな病気なのでせうか、其れは?

 

いや病気では無くおそらくは本質化が過ぎて居るばかりにでせう。

 

左様に本質化の度が過ぎますと次第にかの藤村 操みたくにもなり下々の👩共とはもはや意思が通じなくなっても来るものだ。

 

 

ゲエッ、詩人さん大丈夫ですか、其れ?

 

大丈夫です。

 

其れも適当に石や万年筆でもっていつも遊んで居るので大丈夫ですよ。

 

其れに🐈や銀化ガラスがかうして心を癒して呉れて居ます。

 

 

非本質化と本質化としての概念の流れもまた相剋し且つ相即する関係にある為矢張りと云ふべきか其のどちらをも見詰めて行かねばなりません。

 

男性原理⇔女性原理

 

老人⇔若者

 

大學生ー利口ー⇔文盲ー馬鹿ー

 

などと言ふ概念規定も所詮は概念の流れのものなので相剋し且つ相即する関係にある為其のどちらをも見詰めて行かねばなりません。

 

 

まさに其れが詩人さんが得たところでの直観的な把握なのですか?

まあさうしたことです。

 

でも其れは釈迦による眞理規定とは異なって居たのです。

 

釈迦は二重否定により対概念を滅して行きますがわたくしの直観はさうして対概念を滅し切れませんでした。

 

 

なる程、貴方の気付きー悟りーはだからこそ声聞、縁覚止まりなのだね。

さうなんです、要するに佛陀にはとてもなり切れぬと云ふことだけを其処に悟ったやうなものです。

 

でも其れこそ浄土眞宗が言ってることこそがアナタの考へにも何だか似て居るやうですが。

其処を勝手に決め付けなひで頂きたひ!

 

 

第一常に禅をやってるとかうして言ひ放しつつまんま浄土眞宗ではまるで恰好が付きません。

 

ま、エエではなひですか、其処は所詮は大乗の佛教なので何でも🐜じゃあーりませんか、いやありじゃありませぬか。

 

でも其れじゃ酷ひ非本質主義ですよ。

 

いや、違った。

 

さうか、佛法とは其の本質と非本質との相剋し且つ相即する関係にこそあったのだ!

 

いやあ、おめでたう御座ります、またもや重要なお気付きがあったやうで。

 

其れもまあタダの言葉遊びでのことですがね。

 

 

其れにつけても浄土眞宗への汝の接近度はもはや消し難ひことだらう!

 

さうして決め付けるな!

嗚呼極楽浄土と地獄へ同時に行くのは金輪際イヤだは。

 

いや、待てよ、極楽浄土と地獄、地獄と極楽?

さう言へばそんなのを前に書ひても居たな。

 

 

じゃ、早速今夜読んでみやうか。

 

さうして今夜はじぶんの作品の読者になるのか?

 

さうだよ、何故ならわたくしの場合はかって書ひたものの其のほとんど全てを忘れて仕舞ふのだよ。

 

エッ?まるで記憶して居なひの、ほんたうのはんたうにさうなの?

 

ほんたうにさうだよ。

 

 

 

サアサ愉しみだなあ、面白ひのかなあ。

 

かうしてコロナ禍の丁度一年程前にヤフーブログにて書ひたものです。

 

 

地獄と極楽ー2019-02-01
地獄と極楽ー般若(大乗)の智慧ー2019-02-03

地獄と極楽ー直観による無分別智の構築ー2019-02-04

地獄と極楽ー社会(内面)の地獄から逃れる法ー2019-02-09

地獄と極楽ー無常と云ふ地獄ー2019-02-11

 

 

全部を読みなかなか面白かったのですが仮名遣ひとか言ひ回しのところで違和感があったのでとりあへず修正して置きました。

 

此の作品「地獄と極楽」の基本的なスタンスとしては法華経→原始佛教→法華経以外の大乗佛教と學んで参りましたわたくしの大乗佛法への返り咲きの歓びのやうなものを述べたものです。

一時期わたくしは禅宗以外の大乗佛法をほぼ否定して居ましたのです。

 

要するに其の不純性に我慢がならずまさに生臭ひ似非佛法のやうなもの其のものだとさう考へても居ました。

でも現實に様々なことを体験し此の世の中には理屈では割り切れぬまさにどうしやうも無ひ悲惨な世界が現實として拡がることにはたと気付きました。

 

そんな折にそんな理不尽でもって矛盾だらけの社会の様に対し慰めて呉れたのが大乗佛法でありキリスト教だったのです。

 

 

でも釈迦御自身による佛法は謂はば完璧です。

完璧である分此のまさにどーにもならぬやうな情けなひ世界の様にとってはハードルが高過ぎるのです。

 

で、今思へば何故コレを書ひたのか今ならば妙に合点がいく部分がまたある訳です。

其れも佛法に於けるわたくしの遍歴の総決算のやうなものとして如何にもヤバひ社会の状況に対し是非一石を投じて置きたかったのだらうと思ふ。

 

また實は此の頃から少しはアホも入り初めておりまして自分でもソコが嫌ひでは無ひ訳だ。

アホとは要するに遊びですので言ふなれば関西でのボケのやうなものでせうか。

 

何かと理論化が好きなわたくしは元々ガチガチの関東的人間なのやもしれませんがさうして實体験上でのどうしやうも無ひものを具に見たわたくしにはいつの間にかさうした秀吉主義のやうなものが混じって行ったのです。

 

 

信長+家康+秀吉。

 

嗚呼まさにコレぞ郷土の三英傑の揃ひ踏みだあ。

 

さてもコレの続編などは書けぬものですか?

 

こんなものは書かうと思へば幾らでも書けませうがさうは言っても実際にはなかなか時間的な余裕が無ひものだよ。

犀の角のようにただ独り歩めー『コロナの時代をよむ』の書評ー

さても詩人さんは今何をしておひでなのか?

詩人さんは今銀化ガラス片に光を当て其処より発せられる光彩にこそ酔ひ痴れて居りました。

 

其れも何と其の銀化ガラス片用の容器を入手致しましたのです。

エッ?さうだったのですか。

其れは一体どんな容器ですか?

 

實は其れが非常にマニアックな容器なのです。

それではズバリ申しませう。

其の容器とはコレです。

 

【Amazon.co.jp限定】 明治 ジャンボアソートパック 4種

 

此の中でのジャンボチョコベビーのポリ容器、まさにコレが銀化ガラス片用に特化した容器なのだ。

尚、チョコベビー(1965~)、マーブルチョコレート(1961~)、アポロ(1969~)、コーヒービート(1971~)などと云った明治のチョコレート菓子群は我我還暦世代が小学生の頃にむしろ其ればっかりを食って居たものだ。

 

其れが左様に何故かデカくなり復刻されスギ薬局でもって売られて居たのでチョコベビーとマーブルチョコレートしか無かったが其れ等を買って来て食ってみたのだった。

すると共になかなか美味くまさにヤミツキになりさうなのだが實は共に値段が高めだった。

 

其の復刻菓子を思ひ付ひた明治製菓を批判する訳では無ひのだが此の手の商法に対し我我還暦世代は飛び付かざるを得ぬ部分がある。

其れも若ひ人々にはどーでも宜しひ菓子なのだらうが我我にとって其れはまさに菓子としての神様であり佛様なのだ。

 

だから多少高からうがどうしやうがかうして此れ等を買ふ。

つまりは小学生の頃に其の味わひが刷り込まれて仕舞って居るが故に。

 

だから近年のチョコ菓子などよりもこちらの方が美味くも感じられやう。

 

 

で、チョコベビーのポリビニール容器がデカくて何せ立派なのにはたと気付き其処に銀化ガラス片数片を入れてみたところが其れがまさに極楽世界の如き七色の光を醸し出しもう其れだけで満足、まさに其処ではもはやガレもドームも要らぬ程だ。

 

つまりは三越松坂屋も皆不要だよ。

 

いやまさか不要では無ひのだがそんな高級品にも匹敵する極美の世界をこんな工事現場から拾ひ集めて来たタダのガラス片が今まさに此処へ現出させて居るのだ!

 

 

わたくしの探究する美の世界はもはや此のやうな達人の域にまで達し實は其れは一見するとほとんどルンペンさん並の拾ひ癖だ。

だが其処にこそむしろかうして無限の美を構築して居るのであった。

 

もはや其れは一般常識人による美への追求などを遥かに超越しておりほとんど其れは神仙の類の域にこそあらう。

要するにかうして拾ひ物にて構築されし美の世界なのだ。ー其れも全部では無く一部がー

 

 

詩人さん、詩人さんはかってそれこそ世界中から鉱物標本だの万年筆だのを集めておひでになられたが今はそんな貧しひもので満足されて居るのですか?

 

まるで貧しくなど無ひぞ。

 

むしろ天に屹立するかの如き大藝術であり世の神秘としての体現のことぞ。

 

 

むしろ其れが分からぬおまへの其の感性こそが貧しひのだ。

 

詩人さん、ではグローバル資本主義にてグローバルに百億円を儲けたとしてもそんな美は手に入らぬともしやさう申されて居るのでせうか?

 

 

まさに其の通りだ。

金に目の眩んだ人間の心の中にはかうして眞の美を鑑賞する審美眼其のものが欠けておる。

なのでたとへ何億使おうとも此の詩人による美意識を得ることなど叶はぬのじゃ。

 

逆に審美眼がもう金まみれ、👩まみれ、酒まみれにて破壊されても居る。

 

だから人間はそんな風になってはお仕舞ひだよ。

 

逆に清貧こそが眞の美を鑑賞する審美眼其のものを磨き込むことぞ。

 

詩人さん、でも、みんなはさうした価値にはまるで生きてはいません。

 

みんなは逆に豪華なものばかりをかうして熾烈に奪ひ合ひ金儲けばかりを目論み生きて居ます。

 

 

だからこそかうなったのだ。

かうしてみんながコロナちゃんにやられているのだ。

 

ではコロナちゃんにやられているのはさうして自業自得なので?

さうだよ、全てが自業自得のことだよ。

 

それでもって、ね、其の縁起の理からしても佛法は正しかっただらう。

其れにイエス様も金儲けを目指すなとあれほどくどく仰られ市場を破壊されても居たではなかったか。

 

嗚呼、仕舞った。

もしや文明はそんな聖人様に背くやうなことをやっちゃったのですか?

 

さうだ、やっちゃったね。

 

其れでも文明は助かりませうか?

 

おそらく助からなひでせう。

其の文明が助からぬことをニヤニヤしながら見詰め其れをやる人間を馬鹿だとかアホだとかウンコたれだとか核攻撃して居るのがまさに此の尾張の詩人さんなのだよね。

 

 

核攻撃?

もしや此処での此れまでの批判の全てが其の核攻撃だったのですか?

 

さうです、其れはまさに精神的な核攻撃でした。

 

どうも物騒ですね。

 

どうも物騒です。

 

でも其れは人間共の営為=文明を目覚めさせる為の一文人としての特攻作戦でした。

 

 

ですが今はコロナちゃんが其れをして呉れて居ます。

 

でもコロナちゃんなどと可愛く書くとみんなが怒りますよ。

 

怒らうがどうしやうがコロナちゃんはコロナちゃんですよー。

 

 

壱自称詩人、まさかおまへは此のコロナ野郎の味方なのか?

 

まあ味方なのやもしれません。

 

何せわたくしはかうして精神が常に人とは逆方向に向ひて行くのでね。

 

 

詩人さんはさうして日がな一日ジャンボチョコベビーのポリ容器入りの銀化ガラスの切片と戯れ其れでもって高度な藝術を完成させたとさう信じ込んで居られるのですか?

 

でも其れってほとんどビョーキの世界のことではありませんか?

 

さても詩人さんの頭の中は大丈夫ですか?

一遍🏥へでも是非行くべきなのではありませぬか?

 

いや全てが全然健全な美の世界ですよ。

人形フェチだとか暗黒劇だとかそんなものよりはむしろずっと健全なる感性の世界だ。

 

其れに生ものではありませんのですしね。

 

嗚呼、さう云へば石も生ものでは無ひですね。

 

でせう?

 

でも野良猫は生ものでせう?

 

實はさうなんです。

 

實は其処が今まさに悩みなのです。

 

 

丁度君等が今👪の将来につき極めて不安なのとまるで同じだと云ふことだな。

 

 

さて、本日は先日七五書店にて買った『コロナの時代をよむ』を読んでみました。別冊NHKこころの時代 宗教・人生 『 コロナの時代をよむ』

 

結論から申せば素晴らしひ内容の本でした。

百十頁しか無く活字も大きめなので極めて読み易く六十歳以上の方々には特に御奨めです。

 

最初は立ち読みしやうと思ったのでしたが、歌人ー科学者でありしかも歌人の方ーと僧侶との対談の本ですので是非じっくり読んでみたく購入した次第である。

 

 

其の内容として気になったところ、又は勉強になったところにつき以下のやうに論じさせて頂く。

 

 

釈 徹宗氏ーTVでもお馴染の浄土真宗如来寺の御住職ー

永田 和宏氏ー歌人でもって細胞生物学者の方ー

 

 

まずは釈氏により二律背反ー矛盾した二項対立ーの命題が述べられて居るところがある。

 

さうして我我が日常を取り戻すには矛盾した二項対立を簡単に手放さなひ心と體の態度が大事だとさう仰る。

コロナ禍にて「ケ」と云ふ日常性の大切さが立ち上がって来たともさう仰る。

 

「ハレ」-近現代の文明による進歩-⇔「ケ」ー日常性ー

 

 

元より近現代の文明の速度は人間の日常性をも追ひ越して仕舞ふものだ。

 

まさに其の「ハレ」ばかりを追い求める文明のあり方其のものがビョーキであらう。

 

其のどっちをも見て置かなひとまさに其れはビョーキだよ。

 

まあ当たり前のことなのだが、ビョーキの文明は所詮ビョーキなので結局ビョーキにもならざるを得ぬ。

 

 

其の二項対立を引き起こすのは認識の誤りによるものだが、もっと簡単に申せば其れは欲望の持ち様の過ちによるものだらう。

 

欲望の持ち様をこんな自称の詩人さんみたく数片の銀化ガラスでもって充たされる位にして置けば世界への破壊など其れは生じやうが無ひ。

 

人間の営為=文明が世界を破壊するに及んで行ったのはズバリ生ものへの欲望を持ち過ぎるが故にだ。

 

 

生ものへの欲望ー執着ーの例(酒色に溺れ大金に目が眩みまた自分や👪ばかりを大事にすること)

生もの以外への欲望ーより安全度は高くあるが其れもなるべく小規模なものとしておくべきー

 

で、其の生ものへの欲望が自然と文明のバランスを崩し今まさにコロナ苦を現出させつつある。

 

 

また釈氏の御意見から。

 

佛教には個人の見解が通用せず我見は智恵の蓄積を反故にする、と云ふやうなことを述べられる。

 

宗教⇔藝術

宗教は個による智恵を超へた普遍としての眞理を説くが藝術は個に纏はる不変の眞實を指し示す。

 

まさに其処で立場は異なるがー普遍と個としてのー其処に本質的なものを扱ふ点に於ひて方向性は同じだ。

 

 

同じく釈氏の御意見から。

 

エビデンスー情報ーベース」⇔「ナラティブー物語ーベース」

 

科学ーエビデンスベースー⇔宗教ーナラティブベースー

 

個別の物語⇔大きな物語

 

 

佛教は大きな物語を本質として其処に抱へる。

だが現代社会ー科学技術文明ーはナラティブベースにはなれずで、つまるところは宗教にはもはや共感出来ずだ。

 

 

其処へのわたくしの理解

 

エビデンスベース=合理化ー数値化ー⇔ナラティブベース=感性化ー物語化ー

 

情報化とは何より合理化の極致のことだらう。

 

だが情報としての利益や情報としての愛や死に人間の感性領域ー肉体領域ーはむしろ破壊されて行かざるを得ぬ。

さうして其の合理化により人間のあり方にアンバランスが生じるので感性的、肉体的に現代人はむしろ貶められても行く。

 

即ち合理化が人間の具象性ー感性的、肉体的なまともさーを破壊するに及んで行くのだ。

科学とは無論のこと其の合理化を完遂させるが為の道具である。

 

 

永田氏の御意見

 

歌=ナラティブベース

コロナ禍とは、情報化ーエビデンス化ーされた社会へのナラティブの側からの逆襲である。

 

 

釈氏の御意見

 

だがエビデンスとナラティブは両方を抱へて行くべきもの。

どちらかを手放すのでは無く決して弐者択壱のものには非ず。

 

其処へのわたくしの理解

 

エッ?浄土眞宗って結局さうだったんだ。

 

いやあおみそれ致しました。

其れはまるでわたくしが辿り着ひた思想と瓜二つですよ。

 

 

釈氏の御意見

 

エビデンスを担保しつつナラティブにより救はれて行くべきだらう。

ナラティブが無ければ我我は生きて行くのが辛くなって行くのだから。

つまるところは両方が必要なのだ。

 

其処へのわたくしの理解

 

わたくしは基本的に合理化が次第に人類ー文明ーを追ひ詰めて行く筈だとさう述べて参りました。

 

されどさらに合理化しなければ解決が不能となる事態にすでに文明は追ひ込まれて来て居ることだらう。

 

故に其の両方が必要だと云ふ視点こそが最も大事なものだ。

 

思へば悪人正機を唱へる浄土眞宗は人間の両面を常に見詰める宗派なのやもしれぬ。

 

また貧乏人や無学な人等のことなどもしかとさうして見詰めて来て居られる。

 

さらに言へば世界のあり方が地獄と極楽にしかと分れてるのも浄土教の特徴だらう。

 

ま、其れはキリスト教の場合にもまるで同じなのだけれども。

 

 

其れにつけても浄土眞宗、恐るべし。

 

恐るべし、浄土眞宗

 

 

永田氏の御意見

 

感染者数の数字に表情や人格は無ひので其れは他人事にしかならぬもの。

だから其処にコロナの死者への悲しみが抜け落ちて仕舞ふ。

 

 

釈氏の御意見

 

死者儀礼が大幅に省略されて仕舞へば、後々になり残された人へのダメージが懸念されても来る。

 

永田氏の御意見

 

大昔から人間は死の苦しみや別離の悲しみを詠って来た。

だからさうした状況を歌に詠むのは大事なことだ。

 

愛している人を失ふ悲しみとは其の人の前で輝ひて居ることが出来た自己の喪失なのでもまたある。

 

 

 

わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんとうに死ぬ      永田 和宏

 

笑ふより外はえ知らぬをさな子のあな笑ふぞよ死なんとしつつ       窪田 空穂

 

 

 

かくして自分はあくまで相対的なものだ。

 

故にコロナ禍により人と人の関係性や距離感が問はれて居ることだらう。

 

 

釈氏の御意見

 

佛教…人間の本質=孤独であり、繋がる=虚構状態のことだ。

 

「独生独死独去独来」

生老病死のことはつまりは全部が独りだけのもの。

 

 

此の点に関するわたくしの理解

 

独りー個ー⇔社会ー集団ー

 

生としての軸足を社会に合はせると結局社会に引っ張られるが侭に生を終へることとなるが其れでは如何にも危険だ。

 

人間は集団化すればする程に欲望を絶対化して捉へるやうになり其処こそが極めて危険なのだ。

 

故になるべく個での侭に欲望を相対化ー欲望される価値としての二極分化の双方を見詰めることでーし兎に角理性的にこそ生きるべし。

 

 

また釈氏の御意見

 

「犀の角のようにただ独り歩め」ー初期の経典に於ける釈尊御自身によるものとされる説法の内容でもって「人間は孤独であるのが本来の姿である」との意。

 

此の点に関するわたくしの理解

 

逆に言へば其の孤独に耐へられぬ現代人の心のあり方其れ自体が狂って来て居ます。

また眞の意味での繋がり又は共感とは幸せから得られるものでは無く苦しみからこそ得られるものだ。

 

逆に言へば快適さや幸福な状態ばかりを追ひ求めて行けば何より其の他の苦ー異の苦ーに対する共感力が失はれて行く。

また其れが失くなるばかりに不安になり逆に繋がらうとばかりすることだらう。

 

でもそんな表面でもって形の上でだけ繋がってもあくまで生の苦と向き合ふ者は己独りだけだ。

 

「独生独死独去独来」

 

此のやうに道理の分かって居なひ現代社会をわたくしは批判し続け且つまた無視し続けても来たのだった。

 

分かって居なひ=馬鹿、である。

 

また馬鹿は死んでも治りません。

よって馬鹿はそんな表面化からこそ生じませう。

 

馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。

現代文明の此のお馬鹿。

 

尚近く其の釈迦による説法を全文引用し注釈を加へさせて頂く所存です。

 

 

加へての釈氏の御意見

 

「人は仏と共にある」ー人間には元々佛性があるー

「同行二人」ー独りで歩いていてもお大師さんは常に傍らに居られるー

 

「今苦しんでいるもの、今泣いているもの、あなたこそが幸せである。今孤独なもの、あなたこそが幸せである。神はあなたと共に居る。」ー此のやうにキリスト教でもさう述べられて居ると釈氏はさう仰るー

 

此の点に関するわたくしの理解

 

此のやうに人間の苦しみと向き合ふ宗教こそが本物の宗教です。

「独生独死独去独来」としての人間は元々手に余る運命をば担はされて居る。

 

ですが其れをまさに其の苦悩を人間の社会の中で紛らはさうとしても其れは無理なのです。

ー其れでも表面的には金や名誉、また世俗的な愛の段階で紛らはすことは可能であらう、だが本質的にはあくまで其れは無理なのだ。ー

 

なので其処に必然的に神佛による御力が是非必要となるのです。

ー其れも合理主義者は合理的には決して救はれぬことでせうー

 

 

ー「犀の角のようにただ独り歩め。」
『スッタニパータ』(『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫 17頁)

 標題のことばは「サイの頭部にそそり立つ太い一本角のように、独りで自らの歩みを進めなさい」という意味です。インドサイは群れではなく単独で行動することが知られていますので、「犀の(一本)角」という比喩表現は「孤独」を意味します。このように仏教が孤独を勧める背景には「私たちの悩みは人間関係から起こる」との分析があります。つまり、悩みを生み出す原因が「人のつながり」にあるのなら、そこから一時的に離れてみることが心の成長に必要ということです。

 現在のようにつながりが強化された社会では、つながりからこぼれ落ちた存在が際立って見えます。人々は他者とのつながりを求め、それが断たれた状態を不安や不快として感受します。ですが、実際のところ私たちが孤独を感じるのは、周りの人に囲まれながらも「誰も私のことを見ていない」「誰も私に関心を持っていない」と実感するときです。一人でいることが孤独感の原因なのではなく、周囲とのつながりを実感できないからこそ孤独を痛みとして感じます。にもかかわらず、私たちは一人になることを怖れ、なるべく他者とつながろうとする結果、毎回同じ痛みを感受することになります。そのような私たちに、標題のことばは、孤独を怖れる必要はないと教えます。

 さらに、同じ『スッタニパータ』の58番目の韻文では次のようにうたわれています。

学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

 仏教では「悩みの原因となる対人関係から距離をとる」という意味での孤独を勧めると共に「優れた友との交流」を勧めます。一見して矛盾するように思われますが、そのねらいは真に独立した人格を形成するためにはどちらも必要ということです。そして、ここでの「友」は対人関係における友人に限定されません。例えば、大学生であれば自身がひたむきに学ぶ学問が「友」になり、社会人であれば自身が責任をもって勤しむ仕事が「友」になります。つまり、自身を成熟へと導くものが総じて「友」と呼ばれるのです。

 様々なつながりを自覚した上で、孤独と向き合う時間は貴重です。なぜ孤独が必要なのか。それは自分が本当は何を求めているのかを知るためです。そのとき、学びや仕事は孤独を支えてくれるでしょう。そしてその道程において、あなたは真の友とであうのかも知れません。ー犀の角のようにただ独り歩め。大谷大學より
 

 

「私たちの悩みは人間関係から起こる」

實はさう云ふことなのです。

 

人と繋がることは本質的には逆に良ひことだとは言へぬ。

特に過度に其の人と繋がることが強要される現代の文明世界はまさに異常でありつまるところはまさに其れこそがビョーキの様です。

 

「悩みの原因となる対人関係から距離をとる」

かうして対人関係から距離をとることが必ずしも悪ひことだとは言へぬ訳です。

 

「優れた友との交流」

かうして優れた友は居るものです。

 

わたくしも齢五十を過ぎてから其の優れた友の一人と巡り合ひましたが彼はまさしく優れて居ることでせう。

さうして優れた友の一人は壱億人の「みんな」などよりもずっと大事な存在です。

 

其の眞の意味での孤独と向き合はなければ苦しみを齎すものの本質からは逆に遠ざかって行きませう。

日本人の抱へる問題は何でもみんなでやり過ぎてさうした事の道理がまるで分かって居なひ点にこそある。

 

さうして日本のみんなは馬鹿ですか?

 

今さう言おふと思ひましたが何故か言へなくなって仕舞ひました。

あらまたお優しひことで。

 

 

其の代はりに日本の社会が馬鹿だと云ふことをもうハッキリと今此処に喧伝して置きます。

日本の社会、まさにおまへこそは馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿だ。

 

うはあ、また凄ひ数の馬鹿がつひたぞ。

詩人さん、今日はもう後は寝るだけなのですか?

 

さうですね、嗚呼何か宗教物の映画でも視つつ今日は寝たひ気分ですかねへ。

其れも相変はらず精神の孤高者としての色合ひが濃厚ですね。

 

いへわたくしは元々こんなんですので一向に苦にはなりません。

つまるところは、釈尊がかって述べられた如くに「犀の角のようにただ独り歩め。」なんですね。

つひに分かった我の正体ー繊細さんのことと七五書店のことー

さて、数箇月振りに七五書店へ行って参りました。

所用時間は自転車にての行き帰りでもって約十分です。

 

でも本屋には結局一時間ばかり居ました。

客は少なひがー他にオバサンが一人ー其れがよりによりわたくしが読む難解な本の棚に何故か擦り寄って来るので此の馬鹿野郎めが!とも思ひました。

 

でも其の後に👪連れなどが来たので矢張りと言ふべきか家に帰ってから鼻や喉の調子がおかしひです。

 

かうして人間及びコロナウヒルスの類には常に超敏感に反応して仕舞ふわたくしは普通の人間だとはまるで思へなひ。

或は精神病患者なのでは?とも正直思ひますがかってカウンセリングを受けたことはあっても精神病質者だと言はれたことなどは無ひ。

 

でも催眠薬はまた此処の処五年ばかりは常用して居るので矢張りまともでは無ひ訳だ。

 

まるでかの坂口 安吾だの田中 英光だの太宰だの芥川だのと其処はまるで同じですので矢張りと言ふべきか神経過敏な神経症タヒプなのだらう。

 

つまりはまんま文士であり詩人なのだ。

 

 

で、其処で何を読んで来たかと申せば所謂「繊細さん」に関する本です。「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる 「繊細さん」の本 (日本語) 単行本

 

此れともう一冊此の著者による「繊細さん」に関する本とを参拾分程にてほとんど読み切って来た。

 

それでもってわたくしは齢六拾壱にして初めて自分の正体を知りました。

 

つまりはわたくしは「繊細さん」人間だったのです。

 

本によれば、「繊細さん」とは精神病や気の病ー鬱病ーなどでは無く一部の人間が持つパーソナリティーの一種なのださうです。

 

全く其の通りでせう。

何故ならわたくしはこれまで心の病を抱へて居るからではなかったからです。

 

 

要するに其の認識力が敏感過ぎる人間なのだ。

でも逆に鈍感過ぎる人間もまた世の中には居ます。

 

但しより正確にはわたくしは両極人間なので敏感であると共にむしろ鈍感なところもあるのです。

ですがまず八割方は超敏感でせう。

 

以前にも申しましたがわたくしには風邪のウヒルスの匂ひが分かるのです。

 

其れは玉葱系の臭ひ匂ひです。

が、コロナウヒルスに限れば匂ひを感じたことは無く今のところは要するにまるで分かりません。

 

 

ー七五書店は、瑞穂区の閑静な住宅街に建つ「町の本屋さん」。店名は、創業時のお店の広さが75坪だったことから来ているそうです。現在の売場は約50坪。ー『名古屋16話』の「瑞穂区の書店」のモデルはここ。作家からも町の人々からも愛される「七五書店」より

 

昔は此処の近くに非常に個性的な古本屋がありわたくしは屡其処へ通って居たものだった。ー確か拾五年程前に廃業したー

 

ー「このくらいの大きさの町の本屋さんなら、たぶんこういう品揃えだろうな、と予想してお店に入ったとします。すると、その予想がことごとく裏切られてしまう! そんなおもしろいお店なんです。置けるスペースは限られているのに、え!?こんなのも置いてある!みたいな驚きがあって。全部の棚の隅から隅まで店長が目を配って、1冊1冊選んで置いているんだなというのがわかります。すごく個性的なお店だと思います」ー『名古屋16話』の「瑞穂区の書店」のモデルはここ。作家からも町の人々からも愛される「七五書店」より

 

ーお店に入ってすぐ、左手の壁面棚に新刊、続いて文芸書コーナーです。
確かに、この規模のお店でこの文芸書の数はすごいですよね。短歌・俳句・詩の本も結構な品揃えです。ー『名古屋16話』の「瑞穂区の書店」のモデルはここ。作家からも町の人々からも愛される「七五書店」より

 

 

ズバリ申しませう。

七五書店は人文科学系に極めて強ひ書店なのです。

 

が、普通人文、社会科学系の本はここまで街の本屋には置ひてありません。

だが無論のこと専門的なレヴェルまで踏み込んで居る訳では無ひ。

 

専門的なレヴェルまでの本を探すのであれば矢張り丸善だの正文館、其れから紀伊国屋書店でしたか、そんなところへ行くか其れともネットーアマゾンーにて検索してみれば其れで済む話です。

但し此処は家からすぐ近くにあり、且つ気兼ねなく立ち読みが出来るんです。

 

 

ー入口正面の平台では、大島真寿美さんの『空に牡丹』と『あなたの本当の人生は』を大きく展開。七五書店はTwitterのプロフィールに「地元作家・大島真寿美さん応援中」と記しているほど、“大島真寿美さん推し”なんです。もちろん、ご本人もよく来店されるそうです。ー『名古屋16話』の「瑞穂区の書店」のモデルはここ。作家からも町の人々からも愛される「七五書店」より

 

直木賞作家の大島 真寿美氏は萩山中学校の後輩で弟や明治大学准教授としての社会學者内藤 朝雄氏と同学年の筈です。

 

かうして直木賞作家も応援する位ならネット自称詩人もかうして応援してしかるべきでせう。

ちなみに弟によれば大島 真寿美氏は中学時代さして目立たぬ生徒さんだったさうです。

 

ー店内の奥に進むと、文庫とコミックのコーナーにはたくさんのサイン色紙。棚には、名作の誉れ高い作品がずらっと並んでいます。ー『名古屋16話』の「瑞穂区の書店」のモデルはここ。作家からも町の人々からも愛される「七五書店」より

 

確かに色んな漫画家やら作家やらの色紙があるやうですが其処にわたくしの色紙が無ひことだけが不満だと言へば大不満です。

 

ー「とある書店の一日」には、こんな一節があります。

この店には、近郊に住む書店員や作家などがちょくちょく顔を出しにやってきます。わざわざ遠方から足を運んでくる方もおられるほどです。(中略)一見するとごくごく普通の「町の本屋さん」なのですが、ゆっくり店内を眺めているうちにずぼっと足を取られる瞬間があるようで、気づくとみなさん何冊も本を抱えてレジに並んでいます。

この日のトリコさんも、どっさりお買い物をされたのでした。

こんな七五書店の売り場を作っているのは、店長の熊谷隆章さん。通称「ゴロウさん」。「とある書店の一日」に登場する店長は「ジロさん」です。小説を読んでからお会いすると、描かれているとおりの雰囲気の方で感動しますよ。ー『名古屋16話』の「瑞穂区の書店」のモデルはここ。作家からも町の人々からも愛される「七五書店」より

 

其のトリコと云ふ人は知りませんが、作品中で此の書店を取り上げられられたことだけは偉ひとさう思ひます。

 

尚此の店長さんですが、結局コロナ苦も加はり書店の経営も苦しひのか、近頃白髪交じりとなられ此処に載って居る写真よりも現在は老けて見へます。

 

でもまあわたくしのやうにハゲることよりは其の方が良ひですよ。

何せハゲはサヒコーに情けなくてイヤですよー。

 

 

ー作家、業界関係者を大いに惹きつける書店。一方で、「とある書店の一日」に描かれているとおり、町の人々からも深く愛されている七五書店です。名古屋にお住まいの方はぜひ、トリコさんみたいにお気に入り書店の一つにしてみてください。また、名古屋以外の方でも、旅行や出張の折にはどうぞお立ち寄りを。ー『名古屋16話』の「瑞穂区の書店」のモデルはここ。作家からも町の人々からも愛される「七五書店」より

 

で、其の店長の兄ちゃんに「實はじぶんはネット作家なので作品を是非紹介させて頂きたひ。」などと売り込んでも来ました。

でもこんなウンコたれブログでは知ってる人には視せやうも無ひので来年からはもっと眞面目に書くんですう。

 

でもわたくしの此の不眞面目さはもはや治らぬ可能性があります。

無論のこと其の場合には作家や業界関係者も皆うんこまみれにしてやると云ふことだな。

 

で、結局本を三冊買ひ込んで来ました。

 

其れもエロ本では無く要するに人文科学に関する眞面目な本ばかりです。

 

まあ、本とは常に格闘ですので読書とは實は精神の格闘技なのでもある。

 

エッ?

其の本を一万冊は読んだことだらう詩人さんでもなをも格闘技なのですか?

 

いや、わたくしは常に精神の格闘家です。

 

何ですが最近はちと目がしょぼくれつつもあります。

 

其れも此れもこんなネットラヒターをやる分目が電磁気にやられたのだと思ひますよ。

 

 

其れではまさに気になって居る其の「繊細さん」につき調べてみませう。

 

ー◇(1)他人の感情の動きに敏感-表情のちょっとした変化や言い方、雰囲気などから、相手の感情を読み取るのが上手です。共感能力が高いので、不機嫌な人が近くにいると、怒りを感じ取り過ぎて苦しくなってしまうことも。-

◇(2)感受性が豊か-感じ取る能力が高く、多くの情報を受け取ることができます。想像力も豊かなので、得た情報を元に、ポジティブにもネガティブにもさまざまなイメージを描くことに長けています。-

◇(3)自分より他人を優先しがち -繊細な人は穏やかな性格で争い事を好みません。「相手の気分を害さないようにしたい」という思いが強いので、自分の気持ちより相手を優先しがちです。-

◇(4)傷つきやすい-何気ない言葉にひどく落ち込んでしまうなど、他人からの評価で自分の価値を測ってしまうところがあります。-

◇(5)「気にしなくてもいいのに」とよく言われる-心のヒダが細かいので、ちょっとしたことでもよく気付きます。また、細かいところにこだわりがちです。-

◇(6)自分に高い目標を課している-こうでありたい」という目標を高く設定しているため、達成できなかった時に「自分はなんてダメなんだ」と失望しがちです。

結果を出さないと自分には価値がないと思っているところがあります。ー繊細さんが幸せを増やすコツより

 

 

此処より

1.共感能力の高さ

2.感受性が豊か

3.穏やかさ

4.傷つき易さ

5.細かさ

6.高ひ目標設定ー完全主義ー

 

と云ふことがまさに導き出されて来る。

で、實はわたくしの場合全部が其れに該当して仕舞ふのだった。

 

わたくしは「人嫌ひ」だと常々さう述べて居るのだけれど、其れは自分勝手なのでさうなのでは無く人に気を遣ひ過ぎると自分のペースを保てなくなるので其れを避けたひ訳だ。

逆に人は常に尊重して居る訳だ。また人が常に幸せで居て欲しひと云ふ思ひすらもがある。

 

尚意外に思へるのかやもしれぬがわたくしは男女を問はずに何かをプレゼントするのが大好きなのだ。

其れは自分が多くを持ち偉ひから何かを人に呉れてやるのでは無く逆に持って居なひ時でもみんなー気に入った人ーに何でもあげて仕舞ふのだ。

 

 

また其の想像力はとりあへずはラヒターの端くれなのであるから並外れたものが元々ある。

其れが+にも-にも行く訳だがわたくしの場合其の基調は概ね-の部分に置くやうにして居る。

 

さうして-の部分に置くからこそ+の部分の有難味が倍増され感じ取れるのであらうから。

 

またわたくしは周りから見てまずは大人しく穏やかに見られることが多ひ。

が、ラヒターの端くれなので實は激しひものを心の底にいつも抱ひて居る。

 

ところが基本的には争うことが嫌ひで、故に争ひを避ける為に常に人には気を遣ふ方なのだ。

 

 

でもみんなのことをうんこたれだの馬鹿だの阿呆だのといつも仰っていますが。

 

あくまで其れは文學の中でのお話です。

 

またわたくしは被害妄想が或は強ひのか、常に自分がバカにされて居るとさう感じ取り易ひ。

 

また兎に角やることが一から拾まで細かひので他人は其処にはつひて来れぬことが多ひ。

 

で、死んでからは「文人の園」へこそ再生されたひとさういつも願ってる。

 

なので目標が高ひ、其れも高過ぎる。

 

 

何故なら其の「文人の園」は一流の文學者しか死後に入れぬところなのだ。

 

でも三文ラヒターはもしも其処に入れたにせよゴミ掃除とか、或は便所の汲み取りとか、また文士様方の下の御世話とかさうした仕事しか与へられぬことに元々なっておるのだ。

 

其れでも猶わたくしは其の「文人の園」へ是非行きたひ。

 

其処でもって是非芥川や漱石や太宰や安吾や三島と云った先生方とお話がしてみたひものだ。

 

 

とのことで、ほぼわたくしは確実に其の「繊細さん」なのだった。

 

また其の「繊細さん」は子供の頃からさうで、しかもたとへ還暦を過ぎても変はることの無ひ人間の心としてのひとつの性質であった。

 

 

HSPの研究者であるアーロン博士によると、HSPとは、感受性が極めて強い、繊細な人のこと。HSP気質は、人口の15~20%もの割合に当てはまる生まれつきの特性であり、障害や病気ではないそうです。

HSPは、細かいことに気がつくため、生活において精神的なストレスを抱えやすい傾向にあります。ー

ーアーロン博士によると、いわゆる「内向型」とHSPは別物だそう。もちろん、内向的な性格のHSPもいますが、HSPの30%は外向的なタイプとのことです。ー

HSPに特化した心理カウンセラー・時田ひさ子氏によると、HSS型HSPは、刺激を求めて外界に向かうけれども、外界で得た刺激によって疲れてしまう……という「矛盾した特性」をもっているのだそう。HSPにはふたつの種類があるのですね。ー

HSP専門カウンセラーである武田友紀氏によると、HSPが刺激を感じやすい原因は、脳の「扁桃体(へんとうたい)」の働きが生まれつき強いから。扁桃体は、不安や恐怖を感じたときに活動する部位です。ー

 

独立行政法人放射線医学総合研究所が2010年に発表した研究によると、扁桃体の活動には個人差があるのだそう。そのため、扁桃体が活発に働くHSPは、刺激に対して非HSPよりストレスを感じやすいのです。

さらに、HSPの過敏さには、神経伝達物質セロトニン」も関係している模様。精神科医岡田尊司氏によると、セロトニンには扁桃体の興奮を鎮める役割があります。しかし、セロトニンを運ぶポンプの働き」が生まれつき弱い人がいるため、結果として扁桃体が過敏な状態になってしまうのだそう。ー以上HSP気質とは? 特徴と付き合い方まとめより

 

HSPの特徴

 

共感しやすいー◎ー

人混みが苦手 ー🌸ー

ひとりの時間が必要ー🌸ー

騒音が苦手 ー○ー

眩しい光が苦手ー✖ー

ニュース番組が苦手ー✖ー

 

心が傷つきやすい ー🌸ー

コーヒーが苦手ー✖ー

自己肯定感が低いー✖ー

 

さて此処での此のHSPの特徴とされるものからすればむしろ意外と該当して居なかった。

尚わたくしの自己肯定はむしろ並外れたものでたとへ弐百回、又は参百回生まれ変はるにせよ此のじぶんでなければならぬと常にさう思って居る程だ。

 

 

HSPの長所

 

優しいー🌸ー

遅刻しにくいー◎ー

細かいことに気がつくー🌸ー

 

である。

 

なので矢張りと言ふべきかわたくしが其のHSPである可能性はますます高まって来た。

 

 

「他人の言動や感情への共感性が高い、音や光などの環境からの刺激に対して敏感などの特徴が挙げられます。

人口の2割ほどがHSPといわれるほか、人間以外の動物にもHSPの傾向が見られることがあります。HSPだと集団生活がしんどくなったり、生きづらさを感じたりすることもあります。」

 

HSPハイリー・センシティブ・パーソン)の意味:繊細な性格特性(気質)を持つ人ーより


動物にもHSP傾向があるとのことですが、元々わたくしの場合には動物に対する共感力が高くある訳です。

また昔はかの聖フランチェスコやお釈迦様のやうに動物にも説法出来る方々が居られた訳だ。


でもわたくしは動物に説法することなど出来ません。

人間でもまさに獣のやうな悪人に対し説法することなど出来ぬのです。



HSP傾向の人はさうして兎に角集団生活が苦手です。

まさに其れは苦痛でしか無ひ訳だ。


だからはじめっからこんな人間の社会が兎に角嫌ひなんですう。


まあわたくしはかうして文人でもまたある訳なので後はもう其の文の道を突き進むだけです。

たとへ社会が壊れやうがどうしやうが其の文の道を突き進むだけのことです。



HSPの特徴は、空気を読み過ぎて疲れてしまうことや、刺激に対して敏感となりやすい傾向があります。また、先ほど触れた音や光のほか、臭いや身体感覚、気候など、五感で体感する刺激に敏感だとされています。」

HSPハイリー・センシティブ・パーソン)の特徴:刺激に対する敏感さ・繊細さーより


さうしていつも敏感ちゃんでーす。

またわたくしの場合は五感だけでは無くまさに観念的にも敏感です。


其れに例の直観の能力があるので其れこそ並大抵の苦労では御座りませぬ。

其処は偉人の生涯と比べてもさう違ふものでは無く実際にこれまでがもう二度とやりたくなひやうな精神上のハードワークばかりでした。



HSPは一見すると病名のようですが、HSPはあくまでも性格特性(気質)であり、精神医学上の概念ではありません。一般的に、「精神疾患」として診断名が付く場合、「DSM-5」という精神疾患の国際的な診断基準に基づいて判断されます。HSPの場合は、この「DSM-5」に現在のところ記載がなく、「精神医学上の概念」というよりは「心理学上の概念」であると考えられます。」

 

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という病気はなく、あくまでも「気質」であり、治療法はないーより

以上HSP(繊細さん)とは?特徴や対処法を解説!4つの質問でわかる簡単HSP診断もより



HSPはさうしたタチに元々生まれつひておると云ふことだ。

だからわたくしは元々詩人で、他の何者でも無ひのであります。


なので受賞歴云々などは関係無く、また其処に彼の詩集があるか無ひかは関係無く元々かうして裸の詩人だ。


裸の詩人?

もしや其れはまるで動物のやうな詩人だと云ふことなのでせうか。

裸でもってすぐに♀に飛び付くやうな詩人のことですか?


いへさうではありません。


其のセンシティヴ即ち敏感さが元々裸だと云ふことだ。


其れもな、原始的でしかも無垢。

純粋無垢な其の生一本の光の束のやうなものだよ。



光の束?

肉の塊ではありませんのでしたか?


さう其の肉球のやうな光の束だよ。

まるで🐈の肉球のやうな光の集まりだな。




簡単なセルフチェック


HSPチェックポイント①:思考が複雑で、深慮の上で行動するー🌸ー

HSPチェックポイント②:刺激に対して疲れやすいー🌸ー

HSPチェックポイント③:相手の気持ちに影響されやすいー○、でも✖ー

HSPチェックポイント④:あらゆることに対して感受性が強いー🌸ー

HSP(繊細さん)とは?特徴や対処法を解説!4つの質問でわかる簡単HSP診断もより


 

わたくしの思考が深くしかも複雑なのは此処をご覧の方々ならば誰しもさう気付くことでせう。

またわたくしはあらゆることに対し感受性が強く働きしかも年を取ってもまるで其のことは変はりませんでした。


但しわたくしは文人としての強ひ自我と自負を常に持ち合はせて居ります。

なので基本的には周りのことを常に観察して居るばかりでのことです。ー✖ー


ですが周りが皆同じやうに自分に対し反応すれば流石のわたくしでもへこたれると申しますが其処に傷つひても仕舞ふ訳だ。ー○ー



HSPとは?

 

此処でHSP鬱の自己診断をしてみましたが可成に設問のはいの側を選んで居り結局ヤバひことー鬱傾向があることーには変はりは無ひやうです。

でも元々ヤバひのですから其れは何も今に始まったことでは無くすでにもう半世紀も前からのことです。


わたくしはかうして開き直って居る部分が何処かにあるので、其れに文明などは全部が馬鹿じゃなひかとさう思って居るので意外とあっけらかんとして居り要するに其処にすでに達観しては居りませう。

でもみんなが苦しがるのは其れはイケナヒことだらうとさう思ひましたので今日までかうして文明の愚かさ、其の阿呆さ加減を糾弾して参った。


ほんたうはもう少し眞面目に文明批判の方をやりたひのですが次第次第に此のやうに面白ひブログの内容となって仕舞ったのです。


何面白くは無ひ?

其れは君等の其のまさに鈍感さが此処を面白く無ひ場だとさう判断して居るに過ぎぬことだらう。


ちなみに書き方の方を面白くしたらアクセス数が以前の4~5倍程にもなりました。

どうもうんこたれだとかエロだとかまた喰はれる話題だとかさうしたものがみんなには良く効くもののやうだ。

尾張の神社・仏閣巡りー壱 八事神社→塩竈神社→八事山興正寺ー

文學とは左様にとても観念的な世界でもってして一種苦しひものなのです。

ですがわたくしのやうに文學に捉へられて仕舞って居る人もまた居ます。

 

其れに捉へられて居なひ人々はおそらくはガサツでもって鈍感なのでせう。

其れはさうした心の性質に生まれつひて仕舞って居るが故にです。

 

また音樂をやらざるを得ぬ人々や繪画でもって表現をして行かざるを得ぬ人々がまた居る。

ベートーヴェンゴッホやルドンがまさにさうした人々であった訳だ。

 

でも世間の人々はさう云ふのが本質的には分かって居なひ。

さう云ふのは藝術の世界の話なのでみんなが居る世界とは本質的には場違ひなものでしか無ひ。

 

 

みんなはさうしてむしろ👩が好きでせう。

其れと何かを食ってウンコ垂れて寝て其の👩を触って其れでもって人生は終はりだ。

 

ああー、羨ましひ。

そんな鈍感さがまさに羨ましひ。

其処まで動物だと観念もクソも無くまたデリカシヒもクソもまるで無ひですね。

 

 

でも此処の読者の方々に限ればもう少しだけ高等動物でせう。

何故なら獣にはわたくしの書ひてることの意味など分かる筈が無ひからです。

 

つまり獣共には決して分からぬことだらう人間の智慧の部分につきわたくしは常に述べて居るのです。

だから獣共は此処の何処かをたとへ読んだにせよ常に嫌な気分が生じもう此処へは来なくもなりませう。

 

故に此処でわたくしは人間の理性にのみ語りかけて居るのだ。

 

其れは獣=馬鹿とは話をしたくは無ひと云ふことなのだ。

 

じゃあ鳥や🐗や🐅や🐻や🐊やオオサンショウウオなどは馬鹿ですか?

 

いやわたくしは彼等とはいつもお話をして居ります。

逆に心の醜ひ獣=悪ひ人間にだけかうして言葉での攻撃を仕掛けて居ります。

 

 

即ち馬鹿とは人間の持つ特性なのです。

 

中でも馬鹿田大學を出て居るやうな馬鹿はまさに一番救はれぬ馬鹿です。

 

ところで貴方も馬鹿田大學を出て居るやうですが?

 

 

此の馬鹿者めが!

たとへ馬鹿田大學を出て居やうが何だらうがかうして作家は作家で詩人は詩人ぞ。

 

作家様、詩人様はたとへ死んでも其の名と作品を遺すのだ。

だから作家様、詩人様はな、おまへらなどよりはずっと偉ひのだ。

 

其れも精神の貴族だ、精神の貴族。

だからおまへ如きアンポンタンがどうのかうのと言ふべきことでは無ひ。

 

 

では何故文學者は自決するに及ぶのでせうか?

 

其処はまあ感受性の問題でもあることでせう。

文學者にせよ画家にせよ音樂家にせよ皆其の感性の権化、高く聳へ立つ感受性の樹冠でもって震へて居る葉っぱのやうなものなので自ら舞ひ落ちることさへもが其処では屡あり得るのです。

 

対してみんなは感性の雑草なのでみんなが風にも雨にも打たれ強ひ訳だ。

みんなはさうして感性の馬鹿なので常に強く逞しく生きていかれる。

 

あ、馬鹿と言ひましたね、今日本のみんなのことを。

事實さうじゃあーりませんか。

 

 

でも何だか気分が悪ひなあ。

知性が動物並だの馬鹿だの阿呆だの、其処まで大衆を攻撃する文人は世界中を探してもおそらく見当たらぬことでせう。

其れもアナタ以外にはね。

 

貴方はプロの作家じゃなく此処で金を稼ごうとは思って居なひのでさうして意地悪なことばかりをみんなに対して言ひ放つのですね。

 

其の通りです。

むしろみんなをイジメることこそが此のブログでの最大の目的です。

さうして人間其のものを批判する場がまさに此処なのだ。

 

 

さて本日は御日柄も良く且つ晴天に恵まれましたので神社仏閣巡りをまたして参りました。

 

其れにつけても本日はなかなか暑かった。

此の暑さ寒さが極端化、不安定化して居る部分が今地球が抱へる気候変動の証拠の部分なのだらう。

 

 

八事神社→塩竈神社八事山興正寺

 

とのいつもの定番ルートにて行って参りました。

 

一言で申しますれば其れはずっと高級住宅街を移動して行くルートとなります。

 

つまりは非常に環境が良く杜の中にあり、また高台にあり眺望が効くところが多ひ訳だ。

 

 

八事神社

 

此処は小学生の頃わたくしが夏にカブトムシを捕りに行った其の森の際にあります。

猶此処は天白区となりますが瑞穂区昭和区との境にあるところで今では中の上から上の中位までの住宅街のひとつだと考へても良ひことでせう。

 

八事神社の良ひところは都市部の神社としての穴場としての雰囲気が濃厚に漂ふ部分にあります。

要するに参拝者がごく少なく此の辺りの近辺の人だけに限られるが故に何時訪れてもまさに杜の中の静寂を感ずることが出来る。

 

ズバリ言へばまさに此処こそがサヒコーの神社でありませう。

此処ではもう思ふ存分お参りが出来ませう。

 

ですが、現世利益を得る為にお参りするよりは其の杜の中の静寂をこそ感じて頂きたひ。

 

わたくしも神社に祀られて居る神に祈る場合がたまにありますがたとへば縁結びだの学業の成就などを祈った試しなどは無く只上手く泳ぎ切れますやうに、此の濁世を此の先一箇月位は何とか乗り切らせて下されとさう願ふばかりですが實は其れもまた立派な現世利益主義のことだらう。

 

 

ちなみに五拾年前此の辺りはまさに山林ばかりで其処へ小学生のわたくし共が探検に入りますと何やら変な虫は居るは、また野犬がイキナリ飛び出て来て我我の足に噛み付かうとするのです。

其れも真夏のことにて必死に走って逃げつつまさにホウホウの体にて山から逃げ帰りますと此処から家へ帰るにはまた参拾分以上歩かねばなりません。-其の時はまだ小学弐年生位で自転車には乗っては居なかった-

 

其れでもって暑さで死にさうになりながら丘にさしかかりますと一軒の立派な邸宅が見へました。

 

其処へ駈け込んでジュースを貰おう!とさう判断したわたくしはピンポーンと其の家の呼び鈴を押したのです。

すると優しさうな奥様が出て来られ、其処で間髪を入れずに「喉が渇ひて死にさうです。」とさう申しましたのです。

 

すると其れから出て来るは、出て来るは。

 

其れもジュースやら麦茶やら二種か又は三種の冷たひ飲料がデカひ盆に用意されわたくしの目の前に突き出されました。

 

其の時にわたくしは人間界での極楽世界と云ふものを初めて体験したのでした。

 

 

かうして金持ちの方々にもまた良ひ方々は居るのです。

また貧乏人にも根性の悪ひ奴等が居ます。

 

かうして八事神社はわたくしが訪れる名古屋市の神社の中ではサヒコーの環境にあります。

ある意味ではまさに其処が伊勢神宮熱田神宮などよりもずっと好ましく感ぜられる。

 

わたくしは兎に角こんな静けさに満ちた神社こそが一番好きなのだ。

 

 

ー八事(やごと)の地名の由来について津田正生は『尾張国地名考』の中で、「岩之田(やがた)」が鎌倉から室町時代にかけて変化したものと書いている。南北朝時代土岐氏の記録に八事村が出てくることからすると、その頃すでに八事村と称していたようだ。
 石田里(いしだのさと)ともいったというから、石や岩の多い土地だったのだろう。
「やがた」の「や」は岩を指し、「ごと」は古語で凝り固まっているという意味の「こごし」から転じたもので、岩のごつごつしている土地のことという説もある。
 御幸山一帯は今でこそすっかり住宅地となっているけれど、江戸時代は尾張を代表する景勝地で、明治から昭和にかけては一大観光地だった。名古屋の人が「山」といえば「八事山」のことで、「山へ行く」といったらそれは八事の山に行楽に行くことを意味した。
 1686年に八事山興正寺web)が建ち、お参りもしつつ、山に登って景色を眺めるということを江戸時代の人々はしていたのだろう。熱田宿の向こうはすぐ海だったから、実際ここからよく海が見えたはずだ。
 明治になると八事に馬車鉄道が開通し、やがて路面電車になった。
 山には遊園地ができたり、野球場が建てられたりもした。
 かつての八事はものすごい賑わいだったようだけど、今の八事を知っているとその頃の様子を想像するのは難しい。歓楽地の面影はなく、今は大学などの学校が集まる文教地区というイメージが強い。ー
八事神社より

 

御幸山一帯は今でこそすっかり住宅地となっているけれど、江戸時代は尾張を代表する景勝地で、明治から昭和にかけては一大観光地だった。名古屋の人が「山」といえば「八事山」のことで、「山へ行く」といったらそれは八事の山に行楽に行くことを意味した。ー八事神社より


なる程、当時山と云ふのは相生山では無く八事山だったのですね。


で、金持ちは何故か山に住みたがるので自然に其処が高級住宅街化して行く訳だ。

但し此の八事神社の辺りは完全に住宅地であり一キロ程は行きませんと店などはまずありません。


逆に言へば同じ高級住宅街でも南山や覚王山また石川橋近辺の便利さとはまるで異なるものでせう。

兎に角昔は低山其のものでしたので此の周りには何もありませんでした。



塩竈社(御幸山)

 

其の八事神社のすぐ東隣の山の上に其の塩竈神社がある。

此処はまさに眺望が素晴らしひところで、天白区から緑区、また猿投山の辺りまでが見渡せる凄ひところだ。

 

ですが安産祈願専門とのことですのでむしろわたくしには一番縁の無ひ神社なのだが兎に角其のロケーションの素晴らしさに惹かれつひ訪れて仕舞ふ神社である。

だが無論のことお参りはしなひ。

 

ちなみに此の御幸山の辺りは可成にハヒクラスな邸宅があり一番凄ひのは家の門のところに防犯カメラが拾台程設置されて居て森の中に多分家があるのではあらうがなかなか良くは見えずでも確かにデカひ家は其処にあるのだ。

さうして此の家には昔から参って居たものだった。

 

御幸山も矢張りと言ふべきか昔からハヒクラスであることで有名であり、ところが塩竈神社にも程近ひ御幸山中から出て中日ドラゴンズの抑へとして大活躍したのがかの田島 慎二であった。

 

田島 慎二 年俸・年収データ

 

だが今はこんなにダメだ。

 

何故か?

結局其れは田島がエエトコの子だからなのだ。

 

結局エエトコの子は生涯に亘りエエトコの子だ。

だからエエトコの子はすぐ腹も出るしまるで城のやうな家に住んで御座るので何でもお手伝いさんにやって貰ひじぶんでは手が動かぬものだ。ー田島がさうであったかどうかは知らぬのだがー

 

 

此の塩竈神社は散歩するだけでもまさにサヒコーなのだ。

 

まさに此処なども熱田神宮よりも環境は上だとわたくしは見て居る。

 

で、塩竈神社だけでは無く其の周りも散歩するには最適だ。

 

一箇所素晴らしひ景色の坂がありわたくしは其処で道の真ん中にて五分位景色を見て居たが誰も道を通らなかった。

 

高級な住宅街は、其れも眞に閑静な住宅街はかうして極めて人通りが少なひものだ。

 

 

何故なら金持ちは皆外車にてお買ひ物に出向くからなのだ。

自転車でもってさうして山登りして居る馬鹿などはわたくし一人位なもので、普通はお金持ちの方々は自転車には乗らぬものだぞよ。

 

其れもな、🚙が違ふぞ其の🚙が。

 

ジャガーアストンマーチンマセラティなどみんなが聞ひたことも無ひやうな高級車ばかりだぞ。

 

みんなはそんなもの見たことも無ひ筈だらう、はーはっはっはーのはー。

 

 

で、最終的にはまた興正寺へ行った。八事山 興正寺

 

興正寺をめぐる問題[編集]

2013年平成25年)2月5日2012年平成24年)に通夜などの弔事ハローワークなどで募った見習いに行わせていた事が発覚。「だまされた」と憤りを表す家族側に対し、興正寺側は、僧籍がない者に任せたことについて「修行の一環で問題ない」と反論している。寺では修行期間が2年未満の見習い3人に、1人だけで通夜をさせていた[1]朝日新聞社が入手した内部資料では、元・見習い経験者は2012年(平成24年)1月から9月にかけて少なくとも計11回の通夜を任され、「わからない作法は省略した」「興正寺から、見習いと言うなと釘を刺された。遺体の枕元で経をあげる枕経(まくらぎょう)や通夜を1人で担当した」と打ち明けている[4]

2014年平成26年1月高野山真言宗総本山・金剛峯寺が当寺の住職を罷免したことが発覚。宗派内の懲罰などを決める審査委員会が開かれ、住職の罷免を決定した。金剛峯寺総務課は「住職は興正寺の財産である土地を勝手に売却し、宗規や宗教法人法に違反した」と説明している。両寺院は、興正寺が所有していた土地の売却をめぐり関係が悪化していた。それに伴い、興正寺は2013年(平成25年)12月2日、「本山からいわれのない事に対して処分を下されることと、非常に多額の礼録と呼ばれる金員を納めなければいけないとの通告を受けた」ことを理由に、「包括団体である高野山との関係を解消する」との公告を境内に掲示していた[5]。しかし、同17日に一転して宗派離脱を撤回し、礼録を支払うとの「特免願い」を本山に提出したものの、同年2月18日には、「宗派離脱の撤回の撤回」を高野山真言宗に対して通知するなど、その方針をめぐって寺内の混乱が伺える。なお、罷免処分を受けたにも関わらず元住職は未だ住職だと名乗っており、それに対して、「八事山興正寺の浄化を求める有志の会」「尾張高野を守る檀信徒の会」など4団体は新住職の速やかな任命を求める4千人超の署名を本山に提出しており、寺院と檀家の確執も伺える。[6]興正寺より

 

うはあ、かうして何やらどろどろの寺だ。

 

だが其のイザコザなどは我我拝観者にはまるで関係が無ひ訳だ。

 

むしろ興正寺は我我にとりサヒコーに素晴らしひ寺なのだ。

其れは何故か?

 

何故なら興正寺は遊べる寺なのだからこそ。

 

つまるところまるでテーマパーク並に見どころが沢山ある寺なのだ。

 

だから此の寺ではまず弐時間は楽しく過ごせることだらう。

 

 

本日はまず晴天が素晴らしかった。

 

其処でエスカレーターにて境内の上の方へ登るとー實はエスカレーターが寺の境内にあるーかの五重の塔や本堂を俯瞰して観ることが出来る。

しかも其の周りは紅葉の山の景色となって居る。

 

あれ、まるで京都のお寺のやうではなひか。

 

でも京都へ行くには金と時間がかからう。

だが興正寺ならば自転車でもって20分で来られる。

 

 

八事山 興正寺 境内案内

 

特に素晴らしひのが能満堂から竹翠亭、さらに奥へと歩を進め大日堂、不動護摩堂へと至るまさに高台でのロケーションだらう。


竹翠亭は文化施設にて此処にて屡茶華道の催しなどが開かれて居るやうなのだが詳しくは其の内容を知らなひ。


尚今回初めて知ったのだが此の竹翠亭の中に吐月宮なるものがあり其れは吐月大権現を祀る小さな社である。


吐月峯の神社より分社されたものだと云ふことだが要するに何か月に関連したところでの社なのであらう。


わたくしはかうしたものが何よりも好きなのでまさに此処にこそ感動して仕舞った。


但し月は👩に関連するものでもまたあるので或はまた安産だとか縁結びだとかに関連したものであるとすればそんな詩的な感慨も全てがブチ壊しだ。


また此の竹翠亭の裏手の竹林は大層美しひものだった。


竹林も美しひものとさうでは無ひものがまたあるものだが此の竹林の場合は或は手入れが行き届いて居るのか兎に角其の竹自体が余りにも美しく見へる。



大日堂もまたわたくしが手を合はせ祈って来る数少なひ御堂のうちの一つである。


此の大日堂の下の広場の大護摩壇にて護摩が焚かれ毎年十月に千燈供養会が挙行される。


が、今年は中止だったのではなかったらうか?


ほとんどの寺でもさうだったのでおそらくさうだったこととは思ふのですが…。



尚本日興正寺は大層混み合って居た。


最近身近なところに人が集まる傾向が強くなりみんなの地元のスーパーや寺や神社が大賑わひなのだ。


コロナはかうしてむしろ人の流れを縮小させて居る。


其れは其れで良ひことだとは思ふのだが、實はわたくしにとってはやりにくくもなって居る。


要するに何処でも人が多くなり鬱陶しひ訳だ。


これまで孤高の行脚で行けたものが、全部が俗調を帯びウルサクてかなはぬ。


要するにこれまで来て居なかったところへ人が来るやうになりハッキリ申せば大迷惑だ。


何せわたくしは人が居ると其れだけでイヤなのだ。


が、動物や植物に限れば其れが其処に居るだけで大層楽しくもなる。



さても石をまた盗んで来たのか?


如何にも嫌らしひ言ひ方だな。



お借りして来たものが無ひでは無ひ。

實はとても不思議な石があった。


真黒なまさに那智黑のやうな石が沢山落ちて居たのだ。


何処に?


境内内だが奥の方の道のところに。


一般人や中京大學の學生が通る普通の未舗装の道のところに。


其れがまるで宇宙のやうな漆黑の石なのだ。



さうか、其れは不思議だな。


では其れを盗んで来たのか?


いやだからお借りして来ては居る。


でも其れはほんたうにタダの石だよ。


只不思議なのは其の石が磨かれてまるで碁の黑ひ方の石のやうに丸く平べったくしかも艶があるのだ。


或は道路なのでみんなに踏まれてまた🚙などにも轢かれさうなって仕舞ったのやもしれぬ。



ところが、たまたま竹翠亭の裏手の駐車場に撒かれた砂利を調べてみたら何と砂利の下に其の黑ひ石が沢山埋まって居るではなひか。


おまへは一体何処まで石を調べて居るのだ?



おまへはズバリ石の変質者か?


まあさうでせう。


だから兎に角其の黑ひ石はね、天然のものでしかも興正寺の境内に大量に埋まって居るものなのだ。


うーむ、流石は密教だね。

つまりは宇宙的だね。



さう吐月宮ー但しこちらは神社ーにせよ宇宙の黑石にせよまるで曼荼羅の世界だな。


曼荼羅と言へば大日堂は胎蔵界を表して居ると大日堂の幟にさう書ひてあった。


すると其れは👩の腹の中のことだね?


いや其のものずばりなのかどうかは知らぬのだが👩の腹の中と胎蔵界が関連し合って居ることもまた確かなのではなからうか。


つまるところ今回の興正寺では月の光と宇宙の黑をイヤと云ふ程に感じさせられた訳だ。


なのでコレはもうほぼ詩の世界だね。



と云ふかみんなにはまるでそんな詩などは見へぬことだらう。

詩人のみが其の詩に気付きかうして自己満足して居るのだよ。


其れも道に撒かれた黑ひ石と誰も行かぬやうな小さな社にかうして宇宙の大浪漫を発見して仕舞ったのだった。

社会への倒錯者としての文學者三島 由紀夫ー壱 金閣寺に放火して猶生きやうとは思ふなー

「困窮支援相談員」の呆れるほどに悲惨な待遇 「ハローワークの内側」も貧困の巣窟だった

 

かうして日本の社会がもはやどうしやうも無く悪くなってることだけは確かなことだ。

其の社会を悪くしたのは、ズバリ言って自民党の矛盾政策によるものだ。

 

つまりはかうして馬鹿が日本の社会をブチ壊して行くのである。

但しわたくしは保守としての考へ方を否定する者には非ず。

 

むしろ保守としての幕藩体制が矢張りと云ふべきか平和で良ひのである。

でも其れが不可能なので、

逆に共産党一党支配にして労働や環境を守って行く考へ方ーある意味ではより理性的な考へ方=マルクスの考へーがむしろ世界を規定して行くべきだと云ふ思ひもまたある。

 

いずれにせよ右でも左でも此の際ドッチでも良ひのだ。

 

なのだけれども、今の侭で居ることが實は一番危なひ。

 

かの公明党も現在上手くやって居るかのやうにも見へるのだが結局は自民党の手先となり下がり其のうちに大矛盾に陥る虞などもまた多分にあらう。

 

 

尚わたくしが憎んで居るのは、さうして此の「馬鹿野郎!」といつも大声にて叫んで居るが如くに其の「馬鹿」なのだ。

 

「馬鹿」、其れは人類に突き付けられし最後の大問題だらう。

 

 

よーのなーかばかなのよー

 

大昔にかの日吉 ミミがそんな歌をまさに歌って居たぞ。日吉ミミが「ヨノナカバカナノヨ」と歌った回文による歌謡曲~世迷い言

 

そんな日吉 ミミもすでに拾年近く前に64で死んだぞ。

世の中でかうして馬鹿は生き延びやうが馬鹿で無ひ人は大抵は70までに死ぬのだよ。

 

 世迷い言 日吉ミミ

かうして今でも耳に残る良ひ歌謡曲だ。

 

世迷い言(よまいごと)

こちらはカヴァー版の方だ。

 

 

さても馬鹿はどうしていつまでもさうして馬鹿なのでせうか?

其れも馬鹿大出ー早稲田大學以外の大學の出身者ーの奴等が一番タチが悪ひのでせうか?

 

さうさな、オレもまさに其の馬鹿大出だがかうして頭の出来はむしろ良ひ方だ。

 

其れは君等ー読者とみんなーも認めざるを得ぬことだらう。

 

 

「よーのなーかばかなのよー」♪

おおまさに其れぞ眞實だ。

 

あれ何と中島 みゆきが此の曲の作曲者であった!

 

ところで中島 みゆきなどはお好きですか?

 

エエ、昔は好きでしたが意外と癖が強ひ👩なので最近はさうでもありません。

 

ごく最近は癖の強ひ👩よりもまさにおし黙って家事をこなすやうな働き者の女性を好みますので。

 

 

ではズバリ此の世の中はバカですか?

 

逆にお尋ねしたひのだが、馬鹿で無ひ世の中ならばまさかこんなことにはならぬ筈でせう。

 

でもって、すでに社会には寸毫も興味が御座らぬ。

 

 

興味が無ひなら無ひで何故社会がバカになるのかと云ふことをどうか理性的に我我に対し説明して下さひ。

 

分かりました。

では説明させて頂きます。

 

ですが、其の説明は此処でほぼ百パーセント済んで居りますのでまずは其処を論じた過去の記事を多く読んで頂きたひ。

 

で、蛇足とはなりますが其れに加へ若干述べておきます。

 

其れも一言で申せば、「人間の心理的愚かさ」こそが其の馬鹿の内容物です。

 

「人間の心理的愚かさ」=所謂「バカの壁」と云ふことでせう。

 

 

つまるところ、其れは理性を離れた部分での愚かさ=獣性のことです。

ですが、一番問題であり厄介なのは理性がありながら常に人間は其の「バカの壁」に捉へられ大馬鹿者となって仕舞ふ点です。

 

さう仰る貴方はもしや大馬鹿者なのですか?

いや、言ふなれば我は小馬鹿者です。

 

わたくしは全てを理性と共に心でも捉へて居る。

わたくしの持つ特殊能力とは常にさうして事の両面を見詰められ尚且つ其のやうに行動出来ることだ。

 

要するに其の「馬鹿」へ陥らぬ人間は世界中何処にも居りません。

わたくしの奉ずるものとは其の「馬鹿」をなるべく小さくする考へ方のことだ。

 

「馬鹿」は何処から生じませうや?

 

誤った価値観に捉へられし時に其処にしかと生ずることでせう。

重要なのは其の誤りが往々にして世間ー社会ーではむしろ善なる価値として確立されて仕舞って居ることだ。

 

 

だけど此の社会は正しひですよ。

其れもこんなに利口なホモ・サピエンスが築き上げし諸価値こそがサヒコーなのです。

 

確かにサヒコーです。

其れもサヒコーにバカですね。

 

だから君の其の価値観、其れがそも社会に洗脳されたものなのだ。

 

でもアンタのそんな邪教みたひな価値観に洗脳されるよりも此の方がずっと信頼出来ます。

 

さうですか、其れではさやうなら。

 

君はもはや救ふことなど不可能だ。

 

さうして赤信号をみんなでもって渡ってろ、此のボケが。

 

 

さても今君はサヒコーか?

今がサヒコーですか?

 

いへ、サヒコーでは無く逆にサヒテーです。

 

何故ならみんながコロナに罹り苦しんで居るからです。

 

ではネット作家さんは今サヒコーなのですか?

 

サヒコーです。

事實としていまだかって無ひ心の充實を感じてもおる。

 

 

其れはタダアナタの予言が当たっただけのことでせう。

そんなのは社会が壊れて喜んでるだけなのでまさにおまへこそがサヒテーの人間だ。

 

ああ、すみませんでした、其処は確かにサヒテーでした。

 

 

誤った価値観とは何ですか?

 

其のヨノナカバカナノヨと云った部分に気付けぬことだ。

 

 

「よーのなーかばかなのよー」♪、コレだ!!!

 

まさにコレに気付け。

つまりは目覚めよ!

 

其の世の中の馬鹿にしかと気付くのだ。

 

 

ところで世の中の馬鹿を糾弾して居やうとして居たのがかっての全共闘だったのですか?

 

其の通りです。

かってのインテリ學生達は本気で日本の社会を革命に導かうとして居ました。

 

うはあ、凄ひですね。

何だか怖ひ。

 

いや怖くは無ひ。

何故なら本気で社会と向き合って居た訳なのだからこそ今よりは遥かにまともでした。

 

当時から日本の社会はそんなにダメだったのですか?

まだ小学生にてわたくしは知りませんでしたのですけれどダメだった筈です。

 

何故ダメだったのでせう。

結局は自虐史観を受け容れ米國の🐕に成り下がったのがアノ経済成長を成立させた訳ですが其れではまさに自律的な國家とは言へなくなって仕舞ひます。

 

三島 由紀夫先生が其処に立ち上がられたのは其の🐕としての日本の将来には國家としての崩壊か又は沈没しか無ひとさう見て取られて居たからだった。

 

 

貴殿は三島信奉者なのか?

 

と申しますよりもわたくしの場合には「文學者のやることは常に正しひ」と云ふ信念又は信仰がすでに刷り込まれて居るのです。

 

わたくしの文學上の立場が其の一流作家礼賛でもってして藝術万歳!です。

 

そんな文化的特攻がまさにわたくしの精神の基幹をなすものですので一種過激に文學者を祀り上げてもおる訳だ。

 

では大江 健三郎氏などはどうなのですか?

 

結局読んでは居りませんのですしアノ障碍者の息子さんが實は好きではありません。ーノーベル賞作家大江の息子として今も食ってることだらう部分が何よりもイヤー

 

ですが、大江様は凄ひ作家様であることだけは認めざるを得ません。

 

 

芥川龍之介賞(1958年)
新潮社文学賞(1964年)
谷崎潤一郎賞(1967年)
野間文芸賞(1973年)
読売文学賞(1983年)
大佛次郎賞(1983年)
川端康成文学賞1984年)
伊藤整文学賞(1990年)
ノーベル文学賞(1994年)
朝日賞(1994年)
レジオンドヌール勲章コマンドゥール)(2002年)ー大江健三郎より

 

ぎゃあ、こんなに受賞だらけだ。

でも老子はこんなの認めては居なひ筈なんですがね。

 

 

ー大酒家

大酒家である。中年期にそれで痛風になって断酒したりもした[113]。2007年に出版されたインタビューでは、毎夜シングルモルト、タンブラー1杯を350mlのビール4缶をチェイサーにして飲むと答えている[114]

水泳

80年代から、週6日プールに通い、1日1000m泳ぐことを習慣としている[115]。『「雨の木」を聴く女たち』や『新しい人よ眼ざめよ』では題材として小説に取り入れられている。ー大江健三郎#趣味などより

 

多分酒飲みはわたくしの性根とは合はぬことでせう。

また水泳もわたくしは嫌ひだ。-昔カナヅチなのを直す為に瑞穂プールへ通はされて居たが為にー

 

 

ー敬愛する先行文学者

ノーベル賞の受賞の第一報を受けて自宅前で記者に囲まれて「日本文学の水準は高い。安部公房大岡昇平井伏鱒二が生きていれば、その人たちがもらって当然でした。日本の現代作家たちが積み上げてきた仕事のお陰で、生きている私が受賞したのです」とコメントした[104]。熱心に読んでいた日本の作家は石川淳中野重治であるという[105]。安部、大岡とはプライベートな交際もあった[106]

三島由紀夫

三島由紀夫の自決を受けて直ぐに、天皇制を批判的に問い直す「みずから我が涙をぬぐいたまう日」を書いている。その後も三島事件は『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)連作の「落ちる、落ちる、叫びながら…」「蚤の幽霊」、『さようなら、私の本よ!』(2005年)と繰り返し取り上げられる。大江がかつて天皇崇拝のテロリストの少年を描いた「セヴンティーン」を発表した際、それを読んだ三島は、大江は国家主義に情念的に引きつけられるところがある人間なのではないか、と考えて『新潮』の編集者を介して大江に手紙をよこしたという。2007年のインタビューで大江は、三島の読み取りは正しく、自分の中にアンビバレントなものがあることを認めている[107]。 ー大江健三郎より

 

 

天皇制は批判されるに足る根拠をまた持つものかとも思はれるのだが表立って我は其れを批判するものでは無ひ。

現在わたくしは右も左も政治思想はダメだとさう考へて居り、故に其処に必然としてのアナキズムの領域が誕生する訳でむしろ其れは此処拾年来の保守派としての立場から昔ー青年期ーの立場に戻ったのだとも言へやう。

 

ー2007年のインタビューで大江は、三島の読み取りは正しく、自分の中にアンビバレントなものがあることを認めているー

基本的に文學者の内面はかやうにアムビバレントなもので、よってわたくしの場合も其れに違はず其れもいつの間にかどっちつかずとなって居るのだが只一つだけ其処に標的を定めて居るものがあり其れがまさに馬鹿の根絶である。

 

無論のこと其の馬鹿には右の馬鹿も居れば左の馬鹿も居りのみならず民主主義の馬鹿、其れ即ち正しく歩を進めるみんなの馬鹿=赤信号をみんなでもって渡ると云ふ馬鹿が其処にまた一人おる。

 

かうしたわたくしの立場は自分でもって言ふのも何だが文人としては相当に過激であり或は日本一ー信長級ーなのやもしれぬとさう自負してさへもおる。

 

 

戦後民主主義者を自認し、国家主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また、平和主義者として[162][163]護憲派の立場から、日本国憲法第9条についてエッセイや講演で積極的に言及している。核兵器についても反対の立場を明確にしている。ー 大江健三郎より

 

其の戦後民主主義を左翼が護り抜くと云ふことの茶番をかってわたくしは此処にて笑ひ飛ばしつつ述べて居る。

 

尚わたくしは護憲派では無く改憲派である。

だが核兵器は廃絶すべきだとも思ふのだし戦争だって大嫌ひなのだ。

 

いや戦争はするなら仕方なくやって欲しひ訳だがわたくし個人はもはや事實上役には立たぬのでどんな戦闘も出来ぬ。

 

では何をやれば良ひのか?

 

宗教テロか又は武力テロか、其れとも何でも反対!のデモ行進か。

 

いや、違ふ。

わたくしがやるのはおおまさに人類の馬鹿の根絶だ。

 

其の全ての馬鹿をかうして言葉にていつか追ひ詰めてやる。

 

 

さてわたくしは昨夜NHKスペシャルでもって三島 由紀夫を取り上げた番組を視た。

其の番組の評価云々では無く、常にわたくしが関心を持ち続けて居る三島先生のことにつき少しく述べてみやうかとも思ふ。

ちなみにこれまでにわたくしは様々な折に三島先生のことを述べて来た。

 

實は今年の夏の頃にも東大全共闘と三島先生の対話のことを詳細に語りたひとさう思って居たのであったが結局は其れが果たせなかった。

其の部分はまた来年にでもわたくしが何かを書ける状態にあれば書ひてみるつもりである。

 

 

 

「大人びていて、異質で、語彙力があり、文章力もある。学校の中でも群を抜いていたと思います。われわれは後年の三島由紀夫を知っていますが、そういうフィルターをなくして読んでも、大変な勉強家で読書家であることがわかります」三島由紀夫没後50年 研究者が語る新たな実像より

 

三島 由紀夫はさうして元々特別な人である。

特別な人とは文の力が図抜けてあったと云ふことである。

 

但し文の力は御勉強しなければ決してつきはせぬ。

文人と一般人の違ひとはまずは読書をトコトンやったか其れともやって居なひかと云ふことの差なのであらう。

 

アンタもさうして読んだのか?

いやプロの作家程には読んで無ひよ。

 

其処をやって無ひからこそこんなブログラヒターにとどまるのみなのさ。

 

文学少女だった母の影響も大きかったでしょうし、『サロメ』(オスカー・ワイルドの戯曲)を本屋さんで見つけてみずから買ったように、早熟な少年でした。また、祖母は芝居好きで、三島も小さいころから歌舞伎を見たいと思っていたけど連れて行ってはもらえず、演劇に対する興味が強くなった。三島が歌舞伎を見に行くようになったのは中学1年生で、そのころから独自性が開花した。家には泉鏡花(明治後期~昭和初期の作家)などの本もあり、それらをのぞき見ることで“早熟な文学少年”が育ったのだと思います」三島由紀夫没後50年 研究者が語る新たな実像より

 

さうして其の祖母による一種の英才教育が三島 由紀夫と云ふひとつの自我を形成したことだったらう。

 

対してわたくしは小学生の頃から江戸川 乱歩の「少年探偵団」モノや少年少女世界SF文学全集などを学校の図書館から借り出して其れ等に読み耽っておった。

従ってそも可成にレヴェルが違ひ、言はばわたくしのは通俗趣味で三島先生の御趣味はあくまで貴族趣味だ。

 

但しわたくしが三島先生並にやったかもしれぬのは宗教的な分野に限られやう。

其れと政治的思想的闘争の方は其の悩みに於ひてだけは或は同じ位に悩んだのやもしれぬ。

 

と今自分で決めつけてさう思ってみたところだ。

 

 

「戦時中は、健康でたくましい身体を持つことこそが国のためになるという背景がありました。兵役につけなかったことは、男子としていわば“失格”の烙印を押されたようなものです。戦争に行かずに命を失わずに済んだことによる安心と、肉体的なコンプレックスをさらに強めてしまったこと、軍隊に入って国家に貢献できなかったことの無念さなどがおそらく複雑に混ざり合っていたはずです」三島由紀夫没後50年 研究者が語る新たな実像より

 

さうして病弱の體でもってして運動が不得意な三島先生は操行の時間のみならず遠足までをも見学に回って居たのだと云ふ。

體が弱めの此のわたくしでも遠足は全部行った筈だったが流石は精神の貴族だな。

 

かうして三島先生は戦争へ行き特攻して體がバラバラになることをこそ望んで居られたのだ!

 

即ちまさに其れこそが日本國と云ふ國家に対する貢献であった。

 

ちなみにわたくしはさう云ふ社会に対する奉仕の気分がまるで無ひ。

 

何故ならわたくしには今太宰としての血が一番多く流れて居るが故に。

 

ちなみに三島先生は太宰 治のことを根っから嫌はれて居たやうだ。

 

 

「『金閣寺』の物語の最後は、寺に火をつけた主人公による『生きようと私は思った』ということばで結ばれています。これは自分に対する宣言でもあって、“積極的に人生を生きよう”という姿勢に『仮面の告白』との違いが出ています」三島由紀夫没後50年 研究者が語る新たな実像より

 

金閣寺』を愛するが余りに放火する主人公は其のアムビバレントを地で行って居る訳です。

其のアムビバレントは然しあくまで文學なり空想なりでのフィクションとしての世界のものでなければなりません。

 

ですが今まさに其れをやり『生きようと私は思った』のはコレはもはや其の文學なり空想なりを具象化して仕舞って居るので非常に危なひ心理状態に至ってもおりませう。

 

例の京都でのアニメーターの焼殺にせよもっと前の障碍者の虐殺にせよどうも實行者の心理としての根の部分は同じなのではなからうか。

で、其れは文學的に即ちわたくしの如くに言葉でもって恨みのある対象を攻撃ー批判ーして居るうちはまだ正常なんです。

 

ですが心理としての一線を越へて仕舞ふともうどこまでもヤバくなって仕舞ひませう。

 

で、むしろ正常なのは金閣寺を全焼させた後にじぶんも死ぬーたとへばガソリンをかぶり焼け死ぬーと云ふことではなひでせうか。

 

加へて少しく残念に思ひますのは、三島先生御自身がもしや其のアムビバレントな侭に『生きようと私は思った』と云ふ境地に達して居られた虞があったことだ。

 

自衛隊にて腹を切り其処にて日本國の覚醒を促し永遠に『生きようと私は思った』のが三島文學としての帰結であったのだとしたら何とも皮肉なことです。

 

 

「知性には、どうしても、それとバランスをとるだけの量の肉が必要であるらしい。/精神と肉体は男と女のやうに、美しく和合しなければならないらしい。/海岸では絶対に裸にならないなどと言つてゐる人を見るとボディ・ビルをどうしてやらないのか気が知れない。/だまされたと思つてボディ・ビルをやつてごらんなさい。」 三島由紀夫没後50年 研究者が語る新たな実像より

 

三島先生、でも、知性には肉の量はタップリとは要らぬのではなひでせうか。

仰るやうに確かに「精神と肉体は男と女のやうに美しく和合しなければならない」のです。

 

たとへばわたくしのやうに🍱の好みはまるで👩で、でも政治的闘争はあくまで👨らしく理性的に何処までも観念的に闘ふ。

またシスター人形がどうしても欲しひのだが、他方でもって戦闘機のダイキャストモデルがどうしても欲しひ。

 

でなければならなひのだ、どうだ、詩人の内面こそがまさに凄ひものだらう。

 

 

アア、其れにつけても胸毛、三島先生の其の胸毛の美しさよ。

いや小汚ひ其の貧弱な胸毛の様よ。

 

三島先生、先生の胸毛はかのショーン・コネリーのものには完全に負けて仕舞って居ます!

 

さうしてやっぱり日本人の胸毛は西洋人のものにはまるで勝てなかったのでした。

 

 

「三島の中には、生きていくうえでみずから自分を苦しめてしまう、自身で『巨大な感受性』あるいは『感受性の病』と呼ぶほどの感じやすい心があった。三島はそれを金閣寺の“美”というものに投影して、それを燃やしてしまいたいという気持ちがあって、この作品を書いたのでしょう。三島の中にも、みんなが送っているような普通の日常生活を自分も送りたいという気持ちが、やっぱりあったんだろうと思います」三島由紀夫没後50年 研究者が語る新たな実像より

 

元よりわたくしは三島先生程の頭脳の良さもまた文才も持ち合わせては居ません。

でも高校時代には文系クラスで現代國語のテストで一番の成績だったことが何度もありました。

 

だからどうかバカにしなひで下さひ。

わたくしもかうしてブログラヒターとして日々死ぬ気で書ひて居ます。

 

ーみんなが送っているような普通の日常生活を自分も送りたいという気持ちー

 

あら、でもコレなんかマズくなひですか?

其れと同じやうなことをわたくしもいつも言っていませんでしたか?

 

『感受性の病』

 

あら、でもコレなんかマズくなひですか?

其れと同じやうなことをわたくしもいつも言っていませんでしたか?

 

「三島はおそらく、戦後の時代が間違っていると考えたんだろうと思います。経済成長によって人々が、とりわけ若い人がどんどん“生活”に重心を置くようになって、“自分はいかに生きるか”とか“この国はどうあるべきか”“世界はどこへ向かうべきか”ということから関心が外れてしまった。三島は最初はそれに違和感を抱き、そのうちに落胆し、次第にこの国のあり方に対するふんまんのような心情へと変わっていったのではないかと考えます。『じゃあ自分がもの申すべきは何か』と考えたときに、日本文化の独自性が失われていくことへの危惧を表現するようになっていったのではないかと思います」 三島由紀夫没後50年 研究者が語る新たな実像より

 

さうです、戦後の時代が間違って居るのでかうしてみんなが今苦しひのです。

でもわたくしは其れ以上のことをいつも言って来ました。

 

即ち近現代の文明其れ自体が間違って居ます。

 

ー経済成長によって人々が、とりわけ若い人がどんどん“生活”に重心を置くようになって、“自分はいかに生きるか”とか“この国はどうあるべきか”“世界はどこへ向かうべきか”ということから関心が外れてしまったー

 

エッ?

 

今やわたくしもそんなことばかりを述べて居なひですか?

要するに現世利益主義がかうして蔓延し事の本質を問うて居なひ世相だと其ればかりを批判して来て居ますね。

 

ああ、すると(三島+太宰+芥川)÷参=我

と云った頭の中身にいつの間にかなって居るのではなひか?

 

いや、マズひですねー、コレは。ー其れも皆自決に及んだ文士ばかりでー

 

でもひとつだけ救はれてるのは其処まで才能がそも無ひのと其処までの書き気ーやる気ーが出て来なひことですねー。

 

「小説を書くことは“弱さ”も含めて自分を見つめ直すことで、今から思えば、三島の“弱さ”は小説の中にも現れてしまっているものでした。物語の主人公たちもみんな生きづらさを抱え込んでいて、その生きづらさの中でなんとかやっていこうと、逆転を図ろうと生きる人がいて、一生懸命に現実に適応しようとする人もいました。そして三島自身も、時には現実に適応しようとしたり、時には逆転を図ろうとしたりしてきたのではないかと思います。私は、三島由紀夫は正直な人だったと思うんです。正直に生きるというのは、小さなうそをつかないということと同時に、自分自身が本当に望むものは何なのかを見つめることでもあるし、社会がどうあるべきか、自分はどう考えるべきかを見つめることでもある。そうしたことに正直であろうと努力した人だったと思います」 三島由紀夫没後50年 研究者が語る新たな実像より

 

 

「弱さ」⇔「強さ」

自分が強ひとさうカン違ひして居る人間は多ひのですがまさに其れが馬鹿の認識の特徴なのです。

 

また馬鹿の認識からは右翼的発言だの左翼的発言だのがポンポン飛び出して来るものです。

 

でもほんたうのお利口はまさにかの芥川 龍之介のやうに政治的発言などからは超然として居なければなりません。

 

故に左翼思想に走った太宰もまた其の正反対となられた三島先生も共に芥川 龍之介の文學力にはまるで及んで居ません。

 

芥川 龍之介の作品の場合はもっともっと人間の内面のあり方を社会関係抜きにつまりはより純粋に語って居るのではなひでせうか。

 

なので芥川 龍之介の作品には歴史に題材を取ったものが多くなる訳だ。

 

今の社会では無ひ歴史の世界とは其れはフィクショナルなものであるに過ぎなひ訳だ。

 

わたくしが社会を嫌ふのはさうした意味からの文學的立場なのでもまたある。

 

 

 

「わたくしは夕な夕な
 窓に立ち椿事(ちんじ)を待つた、
 凶変のだう悪な砂塵が
 夜の虹のやうに町並の
 むかうからおしよせてくるのを。(後略)」
これは三島由紀夫が15歳の時に書いた「凶ごと(まがごと)」という詩の一節だ。 三島由紀夫没後50年 研究者が語る新たな実像より
 
 
 
まさに此の詩が時折わたくしの頭にふひに浮かぶ。
 
其の椿事をこそ幼ひ頃のわたくしも望んで居たやうな気がして居る。
 
今に何かが起きる、其れは必ずや来るのだ。
 
とさう常に待ち構へて居た。
 
 
だが現實には「凶ごと」など起き得やう筈も無ひものだ。
 
尤もたまに怪我をしたりまた👪や親類が病気になり倒れたりはした。
 
 
だから其の常に待ち構へて居る自分にこそ何か足りなひものかまた過剰なものがあるのやもしれなかった。
 
 
其の部分が逆に世間からは疎ましく思はれがちで其の社会との軋轢に常に苦しまされても来た。
 
わたくしの文學とは其の世間への復讐以外の何ものでも無ひ。
 
 
だが多かれ少なかれ文學とは其の個よりの社会への復讐なのだ。

あくがれとしての西行の歌と慈照寺銀閣

 

政府のGoTo対応「呑気な感じがして腹立たしい」山路氏が怒り「恩恵はほんの一部の人」とも

 

政府による其のGOTO地獄の様はまさに今始まったばかりである。

 

東京で最多534人、新型コロナ「急速な感染拡大局面」 全国2200人超

 

でも問題は其の感染地獄では無く人間の認識のあり方其のものにそも存して居る。

わたくしが一貫して問うて来て居るものとは其の認識の低級さ=馬鹿さ加減、なのだ。

 

さてわたくしは今年一杯にてパート仕事からは退くつもりである。

と言ってもすぐに隠居出来る訳では實は無く年老ひた親の面倒をみることや家の抱へる様々な問題をまさに来年から解決して行かねばならなひ。

 

 

が、少なくとも現在よりはマイペースでもってやって行けるのやもしれぬ。

實は其処のところが問題で、労働は其の個としての時間を何より奪ひ去るものでもある訳だ。

 

労働とはつまりは社会による人間其れ自体の搾取としての全体主義なのだ。

其れと価値観としての多様性を奪ひ去ることなのでもある。

 

即ち其処に洗脳が行はれて居ることはまず疑ひ得ぬことだらう。

其処でもって社会の奉ずる価値観に染め上げられて仕舞ふ訳だ。

 

 

で、文人系の人々はどちらかと言へば其の縛られるのが何より嫌ひで逆に社会に対し文句を垂れることこそが或は人と美を語ることこそが仕事なのでハッキリ言って社会的な意味での労働はむしろ初めからしたくは無ひ訳だ。

 

ま、わたくしの場合も何せこれだけ吠へる人なのでハッキリ言って社会的な意味での労働はまるで向ひて居なひ。

 

だが日銭稼ぎの為に仕方なくやって来たが此処のところ社会情勢が変はって来ても居る。

 

無論のこと都市圏ではコロナ感染が大爆発する可能性もまたあらう。

 

 

だが現役世代は仕方が無ひので何せ其の社会をやる他は無ひ。

さうしてコロナまみれになりつつ日銭稼ぎに精を出す他は無ひ。

 

其れも如何にも可哀想だがまた其れも仕方が無ひ。

 

だがどうしても此の社会が嫌な人は、たとへば其の嫌な人同士でもってパートナーシップを結び山奥の森などを購入し其処でもって原始の生活などをすることを夢見て生きて行くべきだらう。

 

但し其れが上手く行くものかどうかはまるで知りません。

また其れが實現するかどうかも知りません。

 

ですが其れを希望となし生きて行く手は常にあらう。

 

わたくしも出来得れば其れがしたひ。

でも今はまだ其の時では無ひ。

 

 

無論のこと独居と云ふ手もあらうが其れは出来ぬ訳ではなからうがおそらくハードルが高くならう。

要するにルンペンさん方並に精神力が要るので大変な訳だ。

 

だがわたくしの捉へ方とはさうしたリタイアすることを悪くは捉へて居なひ認識だと云ふことなのだ。

 

まさに其処が子宮思考によるより快適な現世利益を求める思考法とは逆方向となる訳だ。

 

勿論女性でもさうした思考法の人々は居られさうした方々に限り腐った👩にはなって居なひことかと思ふ。

 

👩でもほんたうにつひ飛び付きたくなるやうな眞面目な良ひ女性がごくたまに居るのである。

でも大抵は悪の価値ヒエラルキーを世に撒き散らして御座るパンドーラ―ばかりなのさ。

 

 

わたくしも飛び付かうと思ってる年下の👩が實は今も二人ばかり居るなのだけれどもこんなにハゲジジヒでは其れを妊娠させることなどはまさか出来ぬのでキッカケの方がそもつくれぬ訳だ。ー歯科衛生士と介護士の女共だー

 

昨夜わたくしはつくづく思ったが人間は兎に角群れたがる。

 

わたくしは昨夜かの野村 萬斎の狂言を職場のカメラにて見て居た。

 

さうして十一時まで働かされ家に帰ると喉と頭が痛くまさに死にそうになって床へ倒れ込んだ。

 

と言ってももはやたまにしか行って居なひのでさう大袈裟なものでは無ひ。

 

 

でも其処でもって感じたのは人間は結局「変はれぬ」と云ふことであった。

 

変はれずにさうして常に何かに群がりたがる。

 

其の群がった後にはまさにコロナウヒルス菌だらけだ。

 

 

だが其処へ行き色々しなくちゃイケナヒ。

 

結局労働とはさうしたことなのだ。

 

即ち労働とは其の群がりたがるおバカな人間としての性質に奉仕することなのだった。

 

 

あー、ばからし

でもようやく引退出来て良かったな。

 

 

でも靑ウナギをもう食へなくなるぞ。

たまには食へぬものでもなからう。

また労働する機会が今後無ひとも限らぬことだらう。

 

 

だが今はコロナ大感染の前に引退する、兎に角是が肝要なことだ。

でもまだ一箇月以上もある。

 

困ったな。

もしやもう感染してるのではなひかな?

 

其れもまあ熱が出ぬ限りは大丈夫だらうが。

 

 

折角だから此の際野村 萬斎氏のことを書けよ。

いや、其れは来年以降に此処を文化化して以降に詳しく書ひて行くつもりだ。

 

だが来年の春まで社会が持つかどうかがまるで分からなひ。

 

さうか、因果なものですね。

まさに因果なものよのう。

 

政府によるGOTO地獄は此の先どうなるんですかね?

まあおそらく其れはGOTO地獄其のものであることだらう。

 

 

でももう其の馬鹿共には付き合ひたくは無ひのでまさに自ら一線を引きわたくしは此処にて一作家となる。

其れも宗教、哲學、さうして藝術までをも語る純なる文人としての力を其処に指し示す。

 

では社会科作家はもう止めるのですか?

 

ーたとえ日本が亡びてもあっけらかんとわが道を行こうー

まさに内藤 朝雄の此の言葉が此のところ脳裏を離れぬのだ。

 

或は日本は滅びるのやもしれぬ、でもかうして作家さんは生き残るのだ。

 

日本の社会の馬鹿は死んでも治らんのでせうか?

 

 

然り、社会の馬鹿はたとへ死んでも治らん。

 

いや、日本だけでは無ひ。

 

近現代の社会其れ自体がたとへ死んでも治らん。

 

其れ即ち人間其れ自体がたとへ死んでも治らん。

 

 

もっとちゃんとみんなに対し希望を述べて下され。

 

其れでも文人か?

 

まるでもって文人じゃ。

其れも可成にくどひ文人だぞ。

 

くどひ?

 

では恋愛の仕方などもくどひ?

 

至極くどひ。

 

どの位くどひかと云ふともう其の👩のハイヒールとかを舐め回す程にクドヒ。

 

どだひゲージツ家の恋愛と云ふか愛のあり方は一般のあり方とはまるで違ひ深くて激しひものだぞ。

 

 

たとへばベートーヴェンの愛、コレなどはまさに其のゲージツとしての愛である。

 

ベートーヴェンはまさか👩のハイヒールを舐め回すことなどなかったかと思はれますが。

 

いや、人が見て居なひところでは何をして居たものやらまるで分からなひものだ。

 

ゲージツ家は多かれ少なかれ変態チックなので其処で何が行はれて居るものやら分からぬところが元々あらう。

 

 

ところで人間は何故権威権力だの金だのに群がりたがるのですか?

 

結局其の権威権力だの金だのが「快適さ」を齎す社会をまさに築ひて居るからなのだ。

 

其の「快適さ」とはしかしながら虚の価値である。

 

事實としてイザ具象的な限定がかうして始まれば其の「快適さ」への便益は脆くも崩れ去ることだらう。

 

だが馬鹿程其の「快適さ」に対する信仰を根強く持って御座る。

 

故に其のままにして置けば社会関係は必然としておバカ化して行かざるを得ぬ。

 

 

でもおまへもまさに其の「快適さ」を追求して来て居る筈だ。

 

其の部分に就ひてはむしろ言ひ逃れすることなど出来ぬ筈ではなひか。

其れはでも「快適さ」の範囲がごく小さひ。

 

でもさうして社会全体で「快適さ」を過度に追求すれば必然として社会は壊れて行かざるを得ぬ。

人間の欲する「快適さ」は抽象的に過ぎるのでまさに其れは虚の価値なのだ。

 

 

だが人間にはもはや其のことが分からなひ。

 

全てはかうして人間が求むる虚の価値ー抽象的に過ぎる価値ーが生じせしめる幻想であり幻影なのだ。

 

幻想であり幻影?

 

では実際には無ひものなのでコロナなんて怖くは無ひ?

 

 

馬鹿者!

 

たとへ幻想であり幻影ではあっても地獄だけはしかとあるんだよ。

 

エッ?地獄だけが實現する?

 

其れではまるで地獄教ですが其れもいつの間にか邪教の域へと入って居ませんか?

 

其の宗教詩人さんの頭其のものが邪教化して居るのでは?

 

 

いいや、さうでは無ひ。

 

おまへたち人間の其の邪なる心、實は其れだけが問題なのだ。

 

じゃあ私たちは一体どうすれば良ひのですか?

 

まずは行動を慎み活動を控へよ。

 

まあこれだけ感染が増へて来れば事實上控へて行かざるを得なくもならうが。

 

では行動を慎み活動を控へパートナーを妊娠させることは可なのでせうか?

 

 

おおまさに三流週刊誌並の質問だな。

先にも述べた如くにもう此の世に自らのタネを撒くことなどは止めよ。

 

尤も其の分さみしひので何ぞ趣味をやり其処にて気を紛らはさう。

くれぐれも子宮の欲する願望に煩はされたりしてはならぬ。

 

 

其処にて家族愛♡を全否定なさるのですか?

其の愛を必ずしも否定する訳では無く、但し愛の持ち方の次元を上げて行くべきだと云ふ考へ方なのだ。

 

人間は理性的になるとようやくものが分かっても来る。

理性的になれば行動を自ら律せられるやうにもならう。

 

御勉強が役に立たぬと云ふのは其れは嘘で、其の御勉強により理性としての自我を目覚めさせて行くことさへもが可能だらう。

 

但しむしろ實利的な御勉強などはさうした目覚めへの役にはまるで立たぬものだ。

 

さうしてむしろ役立たぬ知恵を其の種の眞の意味での智慧を磨くことなくば精神を救ふことなどは叶はぬ筈だ。

 

 

だが無論のこと理性では解決出来ぬ問題もまたあらう。

 

まさに其の折にこそ宗教的次元が其れこそ発動されるのだ。

 

しかしながら世間での認識はまるでこんな風になど思っては居らぬ。

 

さう其れはほとんど獣の認識なので兎に角低次元な段階に全てが留まって居やう。

 

 

権威権力だの金だのに群がりたがる其の人間の性質こそがズバリ其の母の腹より生まれしものの定めであり宿業なのだ。

 

さうして此の世の中を眞面目に見詰めれば見詰める程にむしろ其のバカバカしさがクッキリと見へても参りませう。

 

だがわたくしはむしろそんな厭世の気分を大事に思ふ文人です。

 

其んな厭世の気分でこそ其処に詩が書けまた絵が成立するとさうもまた思ふのだ。

 

尤も厭世の気分其のものが一種の精神の高等遊民の為のもので庶民のものでは無ひとさうもまた思って居る。

 

 

其れではわたくしの好きな西行の歌につき少しく考へてみませう。

考へる?

 

歌は考へるものには非ずで、むしろ感ずるものでせう?

 

さうでせうが別に考へても宜しゅう御座りませう。

 

 

 

なにごとも 変はりのみゆく世の中に おなじかげにてすめる月かな

 

 

 

釈尊が示された眞理とはまずは諸行が非常であることである。

 

諸行が非常である為にまた価値はかうして移り変はって行く。

 

謂はば変はらざるを得ぬ非常で非情な世界であることが此の世での實相なのだ。

 

変はらぬのはいつもさうして自然の様ばかりなり。

 

でも其の自然も所詮また変はりゆくものなのだ。

 

但し人間や人間の社会とは其の劣化の速度が違ふ。

 

月はさうして相変らず秋の空に澄みつつ浮かんで居る。

 

其れもコロナには罹らぬのでさうしていつも同じやうにして居られるのだ。ー生きては居なひが故にさうなるのだー

 

 

世の中を 思へばなべて散る花の 我が身をさてもいづちかもせむ

 

 

 

世を捨て去る詩人の心のうちにはまさに其の世を疎ましく思ふ心持ちがしかと御座りませう。

 

もしも世が即浄土であり即天國であるのならばしかしながら其の文人も世を疎ましく思ふ心持ちを持たずに済んだ訳です。

 

なのですが、何故か此の世は其のなべてが散る🌸なのです。

 

🌸は綺麗でつまりは美しひものですが其の逆側にはむしろ醜さが隠れて居ります。

 

さうして美しひものまた同時に醜ひものは滅びる運命を担って居る。

 

 

ー権威権力だの金だのに群がりたがる其の人間の性質こそがズバリ其の母の腹より生まれしものの定めであり宿業ー

 

母の腹より生まれしものはさうして須らく宿業を背負って居る。

 

文人はまずは何よりも其の宿業の哀しみを知って居ります。

 

 

其のやうな世界にかうして生まれ、さてもじぶんはどうして行けば良ひものか?

 

其の世の欲望に上手く合はせて生きれば或はイチローのやうにもなれませう。

 

ですが、イチローは金を持ち過ぎることで結果的にみんなの金を奪っても居ます。

 

其れにイチローには子孫が居なかった筈です。

 

さてもイチローよ、此の際世捨てと同時に金のバラ撒きをやってみなひか?

 

世捨てのやり方を教へますから是非わたくしに一億円を御恵み下され。

 

 

まあ有名人攻撃は此れ位にしてもっと眞面目に述べますね。

 

其処では西行がさうして世捨ての歌人として生きたことこそが大事な部分です。

 

世捨ての歌人は一般的な人では無く永遠の文人です。

 

永遠の文人の作品はかうして世を超え時を超へ後世へと伝へられて行く。

 

其れ即ち其の作品こそが文人の精神の子孫なのだった。

 

 

だが一般的な人は現實的に子供を此の世にのこさうとする。

 

でも此の世は常に非常で且つ非情な世界なのだ。

 

其の非常で且つ非情な世界に遺される子の苦労もまずは其処で考へてみろよ。

 

嗚呼、まさに其れは悲哀であり悲嘆の様なのだ。

 

 

さうか、では我はむしろ世を捨て文の世界に生きやう。

 

文の世界は老ひず、死なず、さらに澄んだ月の如くにいつも光り輝くー滅びぬー。

 

まあさうした願望が世捨ての文人をさう規定して行くのです。

 

即ち西行西行で、其れはまさに半分死にながら見詰めた歌の世界其のものだったのです。

 

また世を捨て歌を詠まねば其の西行は無かったと云ふことだ。

 

なので文を志すとはまさに精神の創造なのです。

 

其れは誰にでも出来ることでは無くかうして世捨ての🌸として結實されしものだらう。

 

 

もろともに 我をも具して散りね花 うき世をいとふ心ある身ぞ

 

 

嗚呼、花よ、さうして鳥よ獣よ岩山よ。

花が散ると云ふのなら我の心も共に散らせてお呉れ。

 

かうして心ある身なのだからこそ。

 

一般人→むしろ🌸としてじぶんが咲きたひ

厭世の文人→一刻も早う🌸と共にじぶんも散りたひ

 

 

との違ひがまずは御座りますが故に其処をどうかご注意あれ。

 

まあ、一般人に壱番理解されぬものが此の厭世的文人指向であり仙人指向であることだらう。

 

實際どう言っても即ちどう伝へても其処は分からぬことでせう。

 

と申しますか文人にもまた色々とあり或は前向きな文人などもまた居られるのやもしれません。

 

其れもやる気一杯のムキムキマンでの文人が。ーまるで室伏長官のやうな?ー

 

 

でもわたくしに限れば何せやる気などゼロだ。

いや下手をすると超マイナス、マイナス273.15度程のやる気の無さとまさになって居りませう。ー極低温絶対零度(セ氏零下273.15度)に近い、極めて低い温度ー

 

文人とは左様にムキムキマンとは正反対の人間で体育の授業を屡見学に回って居た人々のことを言ふ。

 

 

西行の歌はそんなわたくしの心理としての本質の部分にまさにピッタリ来るのであります。

故にもう三十年程ですか、其れも折あらば其の歌に親しみ慰められても来ました。

 

さうですね、文學の解釈として研究した訳では無く兎に角慰められて来ました。

 

ー憂き世を厭ふー

 

此の部分は此処の読者には或は通ずる気持ちかとも思はれますが、まず世の中には通用しなひ思ひです。

 

さう云ふ感覚がそも俗人の間には無ひんですね。

 

哀しひ限りですね、そも其のことは。

 

なので、わたくしは其の「憂き世を厭ふ」詩人として今此の世を生きて居る訳だ。

 

 

もろともに 我をも具して散りね花

 

いやなかなか此処までは言へぬものですよ。

 

そんなじぶんに拘って居るとじぶんが何より咲きたひ訳でせう。

 

だからまさに其処が俗なんですよ。

 

其れも所謂俗臭芬々たる俗人のことですね。

 

 

でも詩人さんはかうして高ーひところから常にお話をしているのですよ。

 

なので詩人さんの心は常に西行の歌と一心同体なのですよ。

 

ヘンシーン、サイギョウ詩人壱号推参!

 

こんな最後にまたぞろオヤジギャグにつひ走って仕舞ひましたがね。

 

 

もろともに 我をも具して散りね花 うき世をいとふ心ある身ぞ

嗚呼西行と言へばさう云へば百人一首の札として其れは常に出ても来ませう。

 

 

いとといかに山を出てしとおもふらん心の月を独すまして

 

ちなみに個人的には西行がかうして詠ふ月の様が兎に角好きなのです。

月と云ふものはまた不思議なものでかの慈照寺銀閣では無ひですが月が似合ふお寺と云ふものが兎に角ある訳だ。

 

さう云ふのをまさに風流と申しますが兎に角慈照寺銀閣は夜訪れるべきでせう。

月夜の晩に訪れてこその東山文化ですよ。

 

詩人さんは北山文化よりも東山文化の方がお好きなやうですね?

 

まあさうですねへ、慈照寺の周りは實はハイキングすることが出来るのです。

其れでもって山道を歩きつつ銀閣を眺めることも可能だ。

 

おおっ、妙に京都通だなー。

いやね、昔ー廿年前位までーは屡訪れて居ました。

 

母が茶華道の関係で始終訪れて居りましたので其れにお供する形で訪れて居たりも致しました。

 

特に大徳寺を何度も訪れて居ます。

 

東山文化は文人趣味と申しますか足利 義政の隠遁気質其のものでせう。足利 義政#晩年

 

ー文化面では功績を残している。庭師の善阿弥狩野派の絵師狩野正信土佐派土佐光信宗湛能楽者の音阿弥横川景三らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた(後に慈照寺となり、銀閣、東求堂が現在に残る)。この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。初花九十九髪茄子など現在に残る茶器も作られた。ー足利義政#人物・評価より

 

金閣の周りにはさほど自然が感じられず金閣自体も人工美の極致と云ふ感じが致しますが片や銀閣はまさに自然の中に溶け込むかのやうな感じで其処が素晴らしひのだと思ふ。

 

小学校の修学旅行でも此の銀閣を訪れましたがむしろ其の当時から好きでしたね。

 

ちなみに今や京都も観光どころでは無ひのでせうが今のわたくしの上司の方などは12月の上旬に祇園の辺りに宿を取られて居るやうです。

其れも祇園には可成に詳しひとのことだ。

 

祇園と言へば勿論舞妓さんで、其の舞妓さんなどはわたくしにはまるで縁の無ひ世界なんですね。

 

まあわたくしにはそんな花柳界よりも銀閣寺の方がずっと性に合って居りまさに夜中にでも行き月光に照らし出された銀閣の写真でも撮って来たひ程です。銀沙灘

 

 

 

ー京の都が焼け、政治も上手くいかない義政は、現実逃避するように隠居先として東山山荘を建てました。都に背を向けた銀閣の姿は、義政の「もう京の都を見たくない」という気持ちの表れではないでしょうか。ー東山慈照寺「銀閣寺」の魅力と歴史、わび・さびの世界観をわかりやすく解説より

 

室町幕府八代将軍足利 義政はかうしてまさに社会から逃げました。

でもコレぞ素晴らしひ逃げでしたね。

 

都などもうイヤだ。

人間共の社会なんぞ金輪際もうイヤだ。

 

其のお気持ちは今のわたくしにも痛ひほどに分かります。

つまりはサヒコーの逃げの山荘こそが其の東山山荘です。

 

義政公は然し可哀想でしたね。

元々体育の授業が嫌ひな文化人なのに将軍職を押し付けられ其れもやりたくなひ仕事を延々とやらされて居たのではなかったらうか。

 

ー上層の「潮音閣」は禅宗様仏殿で、花頭窓(かとうまど)が特徴的です。

金箔が贅沢に貼られている派手な金閣に対して、銀閣は豪華さという点では欠けているように思えるかもしれません。室町時代後期に栄え、東山文化を代表する建造物である銀閣の魅力は、子供にはなかな理解しがたいのですが、齢を重ねるにつれ実感できるといわれています。ー東山慈照寺「銀閣寺」の魅力と歴史、わび・さびの世界観をわかりやすく解説より

 

 

銀閣はどうも禅ですね。

禅は元々哲學ですので、矢張りと云ふべきか相当に観念的なものです。

 

ー月の光を反射させるように白砂で波紋や灘を表現したといわれる平面的でシャープな砂盛りは「銀沙灘(ぎんしゃだん)」。歴史ある寺院でありながら、一般的な枯山水とは一線を画した現代アートのような向月台や銀沙灘があるのも、銀閣寺の魅力のひとつですね。ー東山慈照寺「銀閣寺」の魅力と歴史、わび・さびの世界観をわかりやすく解説より

 

 

其れですね、其れ。

其れの写真を夜に撮りたひ訳だ。

其れもまるでベートーヴェンの「月光ソナタ」の世界でせうね。

 

ー散歩がてら少し上るだけで、銀閣や庭園など慈照寺全体を見渡せます。京都市街地も一部は見えますが、手前の吉田山が屏風のように都の景観を遮る役目を買っているのも興味深いところ。ロケーションにこだわって銀閣寺を造営した義政の思いを、ここでも伺い知ることができますね。

秋の紅葉シーズンには周りの山々が色づき、冬なら雪化粧して心が洗われるような凛とした景色を見ることができます。どの季節でも眺望がとても素晴らしいので、銀閣寺を訪れるなら足を延ばす価値アリです。ー東山慈照寺「銀閣寺」の魅力と歴史、わび・さびの世界観をわかりやすく解説より

 

 

さうです、まさに此れだ!

此の写真でのやうに山から銀閣や庭園など慈照寺全体を見渡せるのです。

まさに此れこそが高雅なる文人趣味の体現では無くて何でせうか!

 

そんな腐ったやうな👩共の着物姿にうつつを抜かすよりはよっぽど其の方が美しひ光景ですよ。

其れに弁当なども其処で食へると思ひますよ。

 

其れに京都の弁当などは流石に美味ひことかと思はれますよ。

 

3. 下鴨茶寮 「おやさい京弁当」

7. 伏見稲荷 千本いなり 「京風いなり寿司」

15. ジェイアール東海パッセンジャーズ 「京のおばんざい」

 

京都駅の駅弁ならコレ!京都駅でおすすめの人気駅弁15選 よりー

 

わたくしが此処から選ぶとすると此の三品です。

其れも京野菜が入って居るものなのか分かりませんが兎に角京都の野菜が好きなのです。

 

わたくしは案外女性的な感性の持ち主ーでもオカマには非ずーですのでかうした優し気な選択となるのです。

 

また此処では意外と牛肉系が多ひやうです。

 

俗に関西は牛肉で関東は豚肉だとも言はれたりして居るやうですがまさにさうしたことなのでせうか。

豚肉も然し下手な牛肉よりも美味ひものが實は幾らでも御座ります。

 

尚金持ちが良く食ふ霜降りのA5等級の牛肉、アレなどはまるでイタダケません。

あんなものを食ってる奴は要するに馬鹿ですね。

 

まさにアレは病気にした牛の患部を食ってるに過ぎぬのでそればっかをやりますと皆すぐに病気になり死にさへ至りませう。

 

まあ兎に角わたくしはかうして酷く文化人ですので京都のお野菜の弁当などを是非食ってみたひところなのだ。

要するにもうまるでみんなとは違ひ文化レヴェルが常に高ひのだ、いや其れも現實的には實に困ったことなのですがね。

尾張のお寺巡りー南区呼続のお寺ー

我と同ひ年のかの俳優がパパになるのださうだ。吉田鋼太郎 22歳下の妻が妊娠6カ月 来春出産

が、彼は一月生まれなので現在は一歳上だ。

 

でも来年の七月には我も其の六拾弐歳となる。吉田鋼太郎、62歳パパに!22歳年下夫人が来春出産予定「長生きしたいね」

 

 

さてもこんなコロナでも長生きがしたひのか?

 

逆に世から消へ去りたひとは思はぬのか?

 

其れにそんな娘みたひな齢の👩を妊娠させることなどは何より罪だぞ。

 

もしやおまへは馬鹿か?

 

 

 

さうだ、此の煩悩にまみれし俗世間を無視しまずは自転車を買ひに行かう。

 

何故自転車を買ふのか?

 

其れは🚙が無ひからだ。

 

其れも最盛期には我が家には🚙が四台もあった。

 

だが車庫には二台しか入らぬので後は駐車場を借りて居たのだった。

 

 

🚙に乗ると人間にとっての具象的感覚が麻痺し兎に角制限を受ける。

 

人間はいつも五拾キロ、百キロで🚙を走らせるがでも其れはキチガヒのやることだ。

 

わたくしも35年間🚙には乗ったがもはや突如として其れがバカバカしくなり五年程前に止めた。

 

 

そんな文明のキチガヒがやることにはもはや付き合ひたくは無ひ。

 

そんなキチガヒをやると生と死が交錯する此の世でのドラマツルギーに対し鈍感になって仕舞ふ。

 

わたくしはむしろ五十歳を過ぎてからかうして詩的なたましひを再生させた。

 

わたくしがようやく其の幼き頃に感じて居た詩を見詰められるやうになったのはさうしてごく最近のことなのだ。

 

 

さうだわたくしの文學、其の愛と死のドラマツルギーを何とか復活させるのだ。

 

第一其のことには還暦も何も無ひではなひか。

 

むしろ還暦だからこそかうして詩人として復活することが可能となったのだった。

 

 

文明のやることには総じてそんなデリカシヒには欠けて御座る。

 

其のデリカシヒをこそ是非取り戻さう。

 

 

わたくしが憎むのはまさにそんな生への鈍感さなのだ。

また其れは文明に限らずあらゆる人の心の中に潜む鈍感さであり無頼ー暴力ーなのだ。

 

今まさに政府が其の暴力です。

子宮思考がまさに其の暴力です。

 

嗚呼、實際わたくしは何て敏感なのだ?

 

普通は年を重ねると鈍感となり其れこそ人前でもって鼻クソを穿ったりもする筈なのであらうに。

 

其れがもう此の乙女のやうな感受性は一体何処より来たりしものなりや?

 

 

 

さうかうするうちにイオンの新瑞店に到着した。

 

嗚呼、まさにコレが良ひことだらう。

こんな一万七千円の安物の割には軽めでしかも買ひ物駕籠まで付ひて居るぞ。

 

其れにカラーがわたくしの好きなブラック●だ。

 

ー何せわたくしはアナーキストなので元々ブラックが好きなのだー

服などもブラック系ー其れもブラックのチェックのシャツと黑ズボンとが好きー

 

つまりはまるでかの中原 中也のやうに黑づくめなのだな。

 

特に最近はパソコンも万年筆も何もかもブラックが好きだ。

實は部屋もオールブラックに塗り替へたひ程だ。

 

で、髪型はいつもオールバックだ。

其処も流石は黑詩人だな。

 

 

但し頭頂部から後頭部へのハゲが酷く大きくなって仕舞った。

だから黑づくめのハゲオヤジにしか見へぬ。

つまりは吉田 鋼太郎のやうにはモテなひ。

 

其れにいつも陰鬱な顔をして居る。

其れも善人顔でもって實は仏像系の優しひ顔をして居るのだが案外陰鬱なのでもある。

 

 

おお、こんな顔にもほど近ひことだらう。阿修羅像(八部衆のうち)奈良時代

実際似て居る部分もあるが或はコレに少しだけ齢を加へた感じであらうか。

 

ちなみにわたくしは両性具有的なので元々お肌が綺麗でもって色が白ひのだ。

 

但し足は可成に臭ひ。

足が水虫とかでもって要するに病気なので靴が皆すぐに臭くなる。

 

だから靴はいつも水洗して居る。

つまりは洗濯機にかけて御座る。

 

 

嗚呼、其の美しひ詩人のお顔。

 

其の自転車をカードにて買ふ時に何やら情報を登録するやうにタブレット端末を差し出されたがまるで其れを操作することが出来ず若ひ女店員さんに全部やって貰った。

 

尤も其れ以降は爺扱ひをされて仕舞った。

 

サア、此の自転車でもって老後をハッピーに過ごさう。

 

おお意外と軽くて良ひではなひか。

 

なんだメイドインチャイナ、か。

 

 

最近は中国製の物も相当に良くなって居り此の間アマゾンにて買ったツールナイフーー限定割引販売されたーなどは安ひ割に凄ひ奴で瑞西生のツールナイフにもひけを取らぬ程のシロモノだった。

 

無論のことこれまで長く乗ったブリジストンのクロスタイプ自転車には感謝の念を捧げつつお別れの挨拶をして置ひた。

其れも前輪のスポークが四本取れ走らせるとタイヤがうねうねとまるで🐍のやうに動ひて見へるのだった。

 

さらに漕ぐ度にぎーこぎーこと音がして何処までもウルサヒ。

然しやう頑張ったのお。

 

おまへ程頑張った自転車は此れまで他には無かった。

アアありがたや、ありがたや、ありがたや。

 

なんまいだぶ、なんまいだぶ、なんまいだぶ。

 

 

 

サア、では折角此処まで来たのでお寺巡りでもして帰らうか。

 

南区呼続元町 安泰寺

 

でもってまずはこちらへ行ってみた。

 

この寺は新瑞のイオンの裏手の山の天辺にあり南区にしてはまさかと思ふやうな良ひ環境にある浄土宗の寺だ。

 

わたくしは四年前までこんな寺があらうとはまるで知らなかった。

 

 

では何故此の寺を知ったのか?

實は四年前に不祥事をしでかし🏥を去った大學の先輩が住むアパートを探すうちに此の寺へと辿り着ひたのだった。

 

わたくしは其の時大學の先輩に求人情報を知らせる為に此の呼続の辺りのアパートを探して居たのだった。

 

 

大學の先輩とはかって職場にて様々なことを話し合って居たものだった。

 

先輩は風采の上がらぬ👨でしかも頭も広範囲に禿げて居た。

 

さうして当時彼は離婚を経験ししかも娘からも無視されるに至って居たのだ。

 

そんな先輩ながらわたくしの話を眞剣な表情でもっていつも聞ひて下さったのだ。

 

 

一体どんな話を?

 

 

 

フランクルの「夜と霧」の話を。八月の名著 夜と霧

 

『夜と霧』のあらすじを紹介!人生の意味を考えさせる世界的名著

 

 

長年に亘り付き合ったー13年に亘りー👩と別れたわたくしは四十過ぎからさうして人生の意義を問うて行かざるを得なくなった。

 

まさに其のことがわたくしに対し人間を探求する機会を齎して呉れたのだった。

 

わたくしは今でも其の事が得難ひ機会だったとさう思って居る。

 

 

人生が順風満帆であればある程人間は其のことへの感謝の念をむしろ忘れて行って仕舞ひがちだ。

 

だから人間はむしろどんな時にも苦しみを忘れて居るべきでは無ひのだ。

 

さうして人間の苦しみの多くはむしろ社会的な事象より発生して居るものだ。

 

フランクルの体験も、また我我の体験も然り。

 

 

しかも一番身近な社会とは母親であり配偶者である。

 

さう其れは一見父親や兄弟のやうに見へて實はさうでは無ひのだ。

 

父親や兄弟は本質的には社会を欲してなどは居なひ。

 

故にこそ釈迦とキリストが二大宗教を此の世に築き上げたのだった。

 

 

女性が欲するもの、實は其れこそが社会を常にさう規定して居る。

 

でも女性は常に平和主義であり命の母としての役割を担って居るものなのでせう?

 

果たしてさうなのだらうか?

 

むしろ其れが偽善の名を借りた利己主義なのだと言へぬものだらうか?

 

 

まさに其の部分こそが離婚しさらに娘とも音信不通となった先輩にも通じた部分ではなかったらうか?

 

ーこのところ少し女性批判が過ぎて居るかのやうですがー

 

 

まーエエよ、此の際言ったるは。

 

其れもズバリ言ふよ。

 

甲斐性が無ひからと言って女共は何故さうして父ちゃんを平気で捨てるのだ?

 

第一父ちゃんは世界で独りだけの偉ひ人だよ。

 

何で女共はさうして経済的な尺度や社会的な地位やら成功度でのみ男性のことを判断して仕舞ふの?

 

 

 

わたくしにはまずはソコが理解不能だ。

 

そんな下らぬ価値の遥か以前に父ちゃんは世界で独りだけの偉ひ人だよ。

 

で、佛教と言ったって、そんなものはおまへらのそんな生臭さをむしろ消して行く為にこそあるのだよ。

 

もしや腐ってなひか、そんな👩共の訳の分からぬ欲望こそが。

 

 

だから甲斐性なんぞまるで無くてもエエんだよ。

 

甲斐性の無ひ奴の方が眞に優しひ🚹なのだ。

 

 

 

ワアー、お寺だあー。

 

とか言ひつつ中年女だのババアだのがさうして寺に群がるが果たして佛法の本質が其処に分かって居るのか。

 

分かってる訳が無ひはな、そんなもん。

 

 

 

其の安泰寺は小山の天辺にある故名古屋の南区や瑞穂区の辺りが一望出来る。

 

のみならずこんな晴天の元一体何の大木なのか、黄葉がまさに眩ひばかりに光り輝ひて居る。

 

さうしてあくまで寺は静かである。

 

だが女共が持つ欲望はあくまで何処までも根深く罪深ひ。

ー大學の先輩がかってさうなったことは創作では無く全て事實であるー

 

 

人間の苦しみとはかように深く嫌らしく存し且つ救はれぬ部分をも内包するものだ。

 

 

フランクルナチスの収容所での極限の体験から希望を抱くことの大切さをまさに教訓として導き出して居る。

 

だがわたくしの場合安易には希望などを抱きたくは無ひ。

 

 

👩の欲望まみれでもってして絶望的な此の世界に一筋の光明を見詰めつつかうして還暦詩人は歩を進めて行くのだった。

 

 

 

法泉寺(愛知県名古屋市南区)

 

お次に訪れた法泉寺はまさにこんなところにて寺が小さひ。

 

が、此の寺にも大きく美しひ木が数本纏まって立って居た。

 

 

尚わたくしは寺にて手を合はせ本堂なり仏像なりを拝んだりはしなひ。

 

わたくしが拝むのは二月の節分会の時とかの日泰寺にて釈尊の御眞骨に対し拝むばかりなのだ。

 

わたくしはかうして動き回りつつまさに禅をやって居るのであるから其処にそも拝むやうなものは何一つ無ひのだとも言へやう。

 

釈尊の御眞骨に対し奉り拝むことはまさに笑止千万のことながら正直なところ現場へ出向くとつひ其れをやって仕舞ふ。

 

 

なのでみんなはまた読者の方々はまだまだ修行が足らぬ、即ち佛教のことなどまだ何一つ分かっては居らぬのだ。

 

 

其れも佛教のことが分かると云ふのは、お経を読んだり意味を理解したりすることでは無く此の世での矛盾の様に悩み傷つきまた絶望し、其れでも猶其の人間の苦悩に寄り沿ひ生きて行くことを決意するところにこそ生じ得る理解でありつまるところは其の共感としての慈悲の心なのだ。

 

其れ即ち衆生の持つ苦しみへの共感としての慈悲の思ひにこそ其れは存して居やう筈だらう。