目覚めよ!

文明批判と美の探求と

「持続可能な開発」とは、其のみんなの頭の中の洗脳を解くことのことだ

 

サステイナビリティに関して論ずるにあたり、まずは其処でもってわたくしが取る立場が特殊なものであることをまずはお伝へしてして置く必要があらう。

 

先に述べたやうにわたくしは其の社會的危機に関してもう長く學び且つ其れに関して思考を進めて来た者である。

勿論其れは人文、社会科学の領域からの追求だったのではあれ其れを長くやって来た訳だ。

 

だから其の持続可能性への様々な論点に就き様々な方法にてすでに検討済みなのである。

 

其のやうな観点から、わたくしはまず自然科学者による結論とはまるで違ふことを述べることだらう。

 

だが貴方方には其のわたくしの結論を否定する根拠などは何処にも無ひ。

 

何故ならわたくしはもう長く此の問題と向き合ひ其れに対する自らの意見を表明して来て居るからなのだ。

 

1.環境問題の解決が難しひことの最大因とは大多数の人間による其れへの無関心にこそある

2.其の無関心とは文明による洗脳によりさう引き起こされて居る

3.環境問題の犯人とはまさに科学技術によるものなのだが眞犯人の方はまた別に居る

4.結局無知や常識ーによる洗脳ーが其れを加速させて居るのだと言へやう

 

無論のことわたくしはいつも環境問題と向き合って来た訳では無ひ。-第一わたくしは環境學者でも無く自然科学者でも無く、只の自称文人だ。-

だが長年に亘り其れと向き合ふことでひとつの結論を得るに至った。

 

また其れがひとつの悲観論であることは論を俟たぬことであらう。

だが其処に全てが悲観的に結實されるものでもまた無ひのである。

 

最終的にわたくしは其れを心の問題であるとさう捉へるに至った。

 

さう人類の心の問題なのだが最終的には其れは個としての心のあり方に収斂して行くであらうものだ。

 

心のあり方なのだからほとんど其れは宗教の課題に重なって行く。

 

ところが宗教の課題では無く科学の課題だと一般の方々はさう考へがちなのだ。

 

なのでわたくしがかう述べると何だか胡散臭く思はれ信じて貰へぬ筈だ。

 

 

だが其処をあへて言はせて頂かう。

 

ズバリ其れは我我自身の心の持ち方の問題なのだと。

 

尚わたくしがかうして本音でもって環境問題を論ずるのはおそらくは此れが最後となることだらう。

 

其れと云ふのもわたくしは此れ迄ずっと人間の内なる獣と闘って来たが其の獣と闘ひ続けることの無意味さを今悟ったのだ。ー獣=邪なる欲望としての者ー

 

わたくしはかの宮澤 賢治と同じやうに闘ひ続けて行く積もりだったのだがすでに刀は折れ矢は尽き満身創痍である。

 

其の獣と闘ふのは是非宗教に御任せしたひ。

いや元々宗教が其れを担ふべきものであり修羅だなどと申しつつ其れをやること自体が不遜なことだったのだ。

 

 

君等はまたわたくしが逃げたとさう嗤ふことであらう。

 

だが君等はまさにわたくしのやうに修羅と化するまで此の問題と正しく向き合ふことが果たして此れまでに一度でもあったことだらうか?

即ちわたくしは長きに亘りさうして決して逃げなかったのだ。

 

さうしてボロボロの身になりいやヘロヘロの身と心になり其の問題其れ自体から離れやうとして居るのだ。

 

 

持続可能な開発目標 SDGs

SDGs 独創研究ユニット

 

○持続可能な開発(Sustainable Development)に就ひて


人類の進歩と調和ー大阪万博のメインテーマー


かの「爆発」する藝術家としての岡本 太郎氏は人類の進歩は調和など生み出さぬとかってさう述べた。

つまるところ、まさに其処にこそものが「分かって居る」人間と「分かって居なひ」人間との相違が存して居る訳だ。


無論のこと「分かって居なひ」人間の側こそが其の「進歩と調和」と云ふお気楽でもって且つバカバカしひテーマを掲げ其処でむしろ進歩は偉ひ、偉ひのだ!とでも言ひたげなのであった。


だが其処でもってほんたうに頭の良ひ人か又は感度が良く意識が高くある人々はまず考へる。


さうだ、其の「進歩と調和」こそがあり得ぬ話である訳だ。

文明の進歩とは元より自然の攪乱であり加工である。


元より自然はさうして攪乱され加工されることで大きく損傷を受ける。


だが全体論を理解する知性ならば其のことはむしろ最初から分かって居る。

或は宗教的に表現すれば、大自然の法則ー自然の摂理ーに反したことを其処でやる訳だから其れが壊れて来るのはむしろ当たり前のことだらう。



問題は、其の「進歩と調和」と云ふ其のお気楽でもって且つバカバカしひテーマが何故掲げられるに至ったかと云ふことである。


わたくしは其れを「洗脳」として今捉へる。


其の「洗脳」とは「全体主義」と云ふことに近ひ概念だ。


たとへば戦時中に「戦争反対!」とは誰も言へぬ訳だがー尤も弐、参人のアナーキストなどはむしろ其れを声高に叫び投獄され或は獄死したのやもしれぬー其れと全く同じことだ。



かうして心でもって感じると戦争は至極悪ひことだー個の論理ー=戦争は悪⇔御國の為に歯を食ひ縛って特攻して来ひ!ー御國の論理ー=戦争は善


さてでは戦争ー大量殺戮ーとは善悪で云ふ一体どちらでせうか?


其の答へ

個にとっては悪、でも所詮全体主義なので善としてやって来ます。-個としての立場-=悪魔化する個

御國にとっては善、だから個が「戦争反対!」を叫ぶのは悪の行ひだ。-社會全体としての立場-=悪魔化する社會


なのでいずれにせよ其れはさうして悪魔化して行くので✖の行ひです。


で、其処に「戦争」の代はりに「進歩」を入れてみて下され。


さうして實は共に全体主義なのだ。


言ってみれば其の近代化其のものが全体主義なのだ。



でも「進歩」は其処で大量殺戮を行ふ訳では無く人類の幸福の達成の為にむしろ行ふものだ。

でも進歩は最終的には自然を殺して仕舞ふ。


其れは自然と連なった神々を殺すのだと考へても良ひことだらう。


で、個にとっては悪である戦争でも社會が其れを欲するのだから其れは悪であっても善だ。

だからまずは従はねばならぬ。


其の全体主義に洗脳されることこそが個としての悪魔化なのである。



其れをわたくしは獣とさう名付けた。

即ち現代人のほとんどが其の獣なのだった。


以前わたくしは其れを「悪なる善者」と名付け「善なる悪者」と区別して居たものである。


即ち「悪なる善者」であるよりは「善なる悪者」である方がむしろ善=神佛の徳に近ひ訳だ。


たとへば修羅や堕天使は其の善をも知った👿でもある訳だ。



要するに其の「悪なる善者」の群れが全体主義を成り立たせるひとつひとつの細胞のやうなもので其の正体とは洗脳を受けた大衆の脳細胞のことである。


此処で勘違ひして頂きたくなひのは、わたくしは大衆を自分の考への無ひ馬鹿の群れで其の群れは悪魔であるとさう決め付けて居るのでは無ひのである。


わたくしもまた其の大衆の一人であると云ふ自覚があるのだしまた多くの考へられる力を持つ方々もさう従って行かざるを得なひ。



結果として我我大衆がさう支持するが故に其の全体主義の構造ー社會のあり方としてのひとつの構造ーが成立する。

さうして其処には大量殺戮や自然破壊が實際に引き起こされて行く訳だ。



我我はさうして逆に事の本質に無関心である侭に其の大量殺戮や自然破壊に大きく加担して行くのだ。


しかも自分のことをむしろ社會の為になる善人であり其れも可成に役立つ人だとさう思って居る始末である。


で、其のおバカさの集積こそが結局其の全体主義を成立させて行くのだ。

其れは



つまるところ、人間は社會的な欲望を推進力とする限り「悪なる善者」=結果的な👿であるより他は無くもしも自分が善人だとさう思ひ込んで居るのであればそんなものはむしろ洗脳であらう。

なので人間に対し性善説は成立せず成立し得るのはむしろ性悪説のみである。


尤も優秀な個は其の悪の匂ひ=偽善なる様を見抜きそれぞれに独自の精神の道を御歩きになって居ることだらう。


わたくしは其の優秀なる個に対しては全体主義を離れた者であると見做し且つ彼等を常に尊敬して居る。


但し其処では常に「最大多数の最大幸福」の原理が社會的に働き其の個の努力は其のパワーに粉砕されて行き易ひ。


つまりはまた其処でもさうして社會が邪魔をして全体主義を強ひて来る訳だ。


今月の初めに社會的なリーダーシップのことに就き少し述べたが、また其処にも其のやうな全体主義性が生じ其処に個が圧殺されて行くと言った面が否めぬ訳だ。



だとするとおまへは社會ー現体制ーに従はぬアナキストでしかも👿のやうな奴だなと皆様はさう仰りますが其れはさうでは無ひ。

わたくしは只全体主義をやり自然の破壊者になりたくは無ひばかりなのだ。


みんながさうして戦争にさうして進歩に従ふのとは違ひかうして価値観がシフトして居るので大自然の摂理の方をより重視すると云ふまさに其の事ばかりでのことなのだ。



で、「持続可能な開発」とは一体何のことでせうか?


「持続可能な開発」とは、ズバリ其のみんなの頭の中の洗脳を解くことだ。



もしや宗教もまた其の洗脳のことなのではありませぬか?


確かに宗教もまた其の洗脳を生じる可能性が常にある。


だから教祖様を崇めるやうな宗教よりもさうでは無ひ宗教の方がより望ましくある訳だ。


教祖様よりも何よりもまずは大宇宙の摂理こそが大事、たとへば釈迦の佛法で云へば法こそが大事でまさに其のことが法灯明なのだ。


其れは釈迦と云ふリーダーが必ずしも大事なのでは無ひと云ふことを指し示して居る。


だがどちらかと言へば他力救済の宗教に於ひては教祖様が崇拝されることが事實として多ひことだらう。


但し其の場合にも過ちの多ひ人間を崇拝するよりはまさに神の子であるとか、また佛ー佛は人間には非ずーであるとか神佛の方へと擦り寄って行くことの方が過ちを繰り返すことが無くなることだらう。



個人的な捉へ方としては個人崇拝をする宗教や政治体制は邪教であり全体主義であるとさう見て居る。

其の点では自力救済を目指す釈迦の佛法や禅宗に於ける脱観念性=非個人崇拝性は徹底されたものだらうとさうも見て居る。


無論のこと「持続可能な開発」とは政策上のことであり環境技術によるものであることが現實の上でのことであらう。

もしも今後科学技術が其れを成し遂げることが可能なのであれば文明の崩壊をソフト・ランディング化して行くことさへもが可能であらう。


但し其の「持続可能な開発」とは畢竟矛盾的概念なのである。


正しくは「開発の中止」でこそ其の持続可能性は達成されることであらう。


文明はまた科学技術は何かを「やる」ことで常に利益を最大化しやうとして躍起である。


だがほんたうはもっともっと単純に「やらぬ」ことでこそむしろみんなが幸せになれるのだとしたらどうする?


其の「やらぬ」ことの価値、又は役立たずの価値と云ふことを文學より學びし我はまさに其の事を文明に伝へたかった。

 

「やらぬ」ことは怠けることとは違ひ「やる」部分の位置を変へ或は価値観を変へて生きることである。

 

其の積極的な「やらぬ」ことの価値、又は役立たずの価値こそが世界を変へる契機となることを今は心より願ふばかりである。

 



其の個人崇拝をする宗教は結局身分的なヒエラルキーを生み出し全体主義ー軍國主義ーを生み出して行くのだ。

しかしながら多くの新興宗教が其の轍を踏んで仕舞って居る。


でもそんなのではあくまで邪教となるに止まることだらう。

其の逆に聖教となり得るのがまさに個人崇拝を捨て去った宗教のことなのだ。

矛盾した科学にて文明を収束させて行かねばならぬと云ふことのディレンマ

  • ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態。葛藤
  • 哲学や議論、修辞学の分野において前提を受け入れると2つの選択肢の導く結論がともに受け入れがたいものになることを示す論法。日本語では両刀論法[1]ともいう。ージレンマより

 

此の世は複雑だと云ふ其の複雑さとは或る厄介さのことである。

 

要するに其れはまさに矛盾であり二律背反のやうなものが常に生には用意されて居ると云ふ其のことなのだ。

謂はば論理的にはー理窟的にはーどうしやうも無くなるであらう観念に於ける段階が其処にはしかと横たはって居る。

 

だから人間は何とか其の矛盾なり二律背反の状態を克服しやうとするのだが恐ろしひことに其れを合理化しやうとすればする程に其の合理化としての罠に捕らへられて仕舞ふ。

つまるところは其れが科学の自己矛盾であり嗚呼まさに恐怖の現實として確認されることなのだ。

 

尚わたくしは科学に挑むことの可能な稀なるラヒターだからこんなことは何処を見たって書ひてありはしなひのだ。

 

何故科学を批判出来るかと云ふに我は其の反対の文學の世界を知って居るからなのだ。

要するにもう長く合理主義とは反対のものを見詰めても来た。

 

 

さても其の合理主義、合理化の怖さとは何か?

わたくしはむしろ其れが生のあり方を狭めるものであるやうな気がしてならぬ。

 

尚わたくしは科学的で明快な論理をむしろ誰よりも好む人間なのだ。

わたくしは科学的な主題に対しあれこれと思考する癖があるのだが其れは哲學的な洞察を主とするもので数式のやうな還元性により導かれる結論なのでは元より無ひ。

 

其れでも結論はかうしてわたくしなりに導かれて行くのである。

 

尚最近わたくしが考へて居たこととは科学が陥るディレンマのやうなものに就ひてである。

 

 

  • ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態。葛藤
  • 哲学や議論、修辞学の分野において前提を受け入れると2つの選択肢の導く結論がともに受け入れがたいものになることを示す論法。日本語では両刀論法[1]ともいう。ージレンマより

 

「科学が進むとより生きにくくなるにも関はらず文明は科学により幸せにならうとして躍起である。」

 

何故科学が進むとより人間が生きにくくなるのかと言へば、其れは要するに科学には心が無ひが故に合理化にてみんなが幸せになるとさう信じ込んで仕舞って居るからなのだ。

 

 

例1.ー原子力をやるとエネルギーが物凄く得られ其れによりみんながより幸せとなる

 

例2.ーゲノム編集をやると悪ひ病気も治せまた悪ひ出来の子なども良ひ出来の方へと変へられる

 

例3.-月や火星に宇宙基地を創りたひ。何故ならもはや地球が壊れ始めて居る。このままでは危なひ。早う宇宙へとみんなでもって逃げて行かう。

 

 

全くお話にも何にもならぬ幼稚な考へばかりで呆れて仕舞ふ。

 

 

なのだけれども、科学が言ってることこそはむしろほんたうのことなのだ。

其れもほんたうに科学が仕出かしたことの顛末を述べて御座る。

 

でも文學者達は此の狂った文明のおかしさを其の鋭ひ感度でもって見破り自決して行った可能性が高くあることだらう。ーまさに世捨ての境地にてー

 

 

要するにわたくしは何を言ひたひのか?

 

まさに其れは科学の自己矛盾性に就き論じて居るのだ。

 

 

「科学が進むとより生きにくくなるにも関はらず文明は科学により幸せにならうとして躍起である。」=かうしてほぼキチガヒでの盲信振り、つまるところはいつしかマッド・サイエンティスト状態へと陥って行くのだらう。

さて以前に笹井 芳樹氏と云ふ超秀才の科学者が自殺して居るのだが此の方は愛知県立旭丘高等学校ー超秀才高ーの出身者の方であった。

 

例のSTAP細胞の事件の折に全ての責任を被るやうな形にて死んで仕舞ったのだった。

 

当時わたくしは🏥に勤めて居て、色々と目の当たりにする職員の不祥事の数々に呆れ返り次第に人間不信に陥って行くかのやうであった。

バカ上司が小保方晴子はどうも色っぽひとか言ふのでわたくしはただ一言、こんなバカ👩に振り回されて居てはイケナヒ、とさう言ったのだったが事實其の後其の通りにバカ事件勃発となって行ったのだった。

 

 

まず皆様に知って頂きたひのが、科学は案外馬鹿である、と云った部分なのだ。

かってわたくしは電力会社の研究所に13年勤め其の科学の馬鹿さにちゃんと付き合って来ても居た。

 

さう云ふ部分はまさに内部告発でもせぬ限り分からぬ訳だ。

 

さうしていつも科学的な成果に振り回されて居てはいけなひ。

 

其れはわたくしが其処で最終的に學んだことであった。

 

でも、である。

でも現在地球を救へる可能性のある力があるのは其の科学技術によるもののみなのだ。

 

即ち還元的知性こそが文明の實質的な力を握って御座る。

 

だが文系の知性はまた其れとは違ふ領域から科学を見詰めて居る訳だ。

其の外部からの見方こそが科学にとっては其れこそ大事な視点であらう。

 

かうして科学は正しひ。

正しひのだが外側から見る限りはあくまで間違って居るのである。

 

でも宗教よりもずっと其れは確かだ。

ともしさう仰るのであれば其の認識こそがおそらく誤りだらう。

 

何故なら宗教はたとへ邪教であれ地球を破壊に至らしめるやうなことはしなひからなのだ。

逆に宗教は良しにつけ悪しきにつけ心の制御の仕方を我我に教へる。

 

 

即ち科学は心の面を欠くが故に極めて強ひ増幅力、拡張力のやうなものがある。

 

合理的理性⇔非合理的理性

 

合理的理性は謂はば+思考の塊であり進歩への強ひ力を生むものだ。

対する非合理的な理性ー人文、社会科学的な理性ーは其の種の推進力には欠けて御座る。

 

推進力には欠けるのだから近代以降は理解がしにくく人気が無ひ。

 

人気があるもの=正しひものとするのが最大多数の最大幸福なので要するに其れは功利主義が選び取る還元的思考なのだ。

 

ところが、最大多数の最大幸福と云ふ考へ方は赤信号をみんなでもって渡り易くして行くものであるに過ぎぬ。

 

 

尚、科学と🚺との相性は案外良ひ。

要するに科学技術こそが其の現實主義を進めて行くからなのだ。

 

以前からわたくしは現實主義ー現世利益的な思考ーは♀的なものだとさう考へて来て居る。

さうしていつの間にか其の現實主義こそが此の世界の価値を規定する中心原理ともなって仕舞った。

 

無論のこと其処には🚹による思考力が大きく関わって居る。

其の♂としての論理的に物事を考へる力が其の現實主義に於ける期待と結託した上で現在を成り立たせて居る訳だ。

 

現實的に役に立つ考へ⇔現實的には役立たぬ考へ

 

此の二元対立に於ひてどちらがより良ひか、又は正しかと問はれ役に立つ考への方を選ぶのが功利主義であり現實主義だと云ふことなのだ。

逆に現實的には役立たぬ考へを選ぶのが藝術や宗教であるかまた哲學の領域でもあることだらう。

 

で、結論的には他方に偏り選び取ると共に誤謬に陥り易ひと云ふことともなる。

 

たとへば科学者の中には本気で人類を宇宙生命に仕立て上げやうとする向きがまたあるのだけれど文系の妄想にていつも宇宙へ思ひを馳せて居れば實際に宇宙へ行かずとも其れだけで満足され得る筈だ。=想像力の涵養によりさうなる

 

さて其れでは其処にて果たしてどちらが馬鹿でどちらが利口なのでせうか?

 

其れは宇宙生命にならうとして居る方がむしろとんでも無ひ馬鹿科学者で只机上にて想像を愉しむ文系の役立たずの方がずっとお利口さんだと云ふことと必然的にならう。

 

 

要するに此の世の問題、即ち文明の問題、人類の課題とは須らく其の価値観のあり方ー観念としての立ち位置ーの問題なのだ。

観念に於ける制御ー抽象性に対する抑制ーが甘ひと合理主義に傾き易く逆の立場だと己の中での非合理領域が増し神秘主義的な結論へと傾き易ひ=悲観し自決へと傾き易ひ。

 

 

で、一般人は幽霊を信じて居るよりは科学を信じた方がマシだとさう思って居る筈だ。

ー但し一流大を出て居る位ではまず其の一般化は卒業出来ぬ。偏差値教育の勝者では無く考へる力の勝者こそが脱一般の精神の域へ達するものと相場が決まって居やう。ー

 

なのだがどうも残念でした。

 

可能性としては幽霊や超能力を信じて居ることの方がより安全で且つ安心である。

 

 

では何故非合理的知性は衰退して行って仕舞ったのでせうか?

 

其れは非合理的知性が結局役立たずだったからなのです。

元より其れではダメで、父ちゃんは兎に角一円でも多く稼ひで来ねばならずのみならず科学者様は夢想家の文人などよりは遥かに知的且つ高尚な知性の持ち主でもって偉ひ人ばかりだとされたばかりに。

 

でもそんな偉ひ人人がまた何でまたSTAP細胞事件のやうなバカ事件を起こしたりするのでせうか?

 

 

ちなみにかって宮澤 賢治は申しました。

其の「役立たずこそが一番偉ひ」と云ふやうなことを彼は正面切ってさう述べて居たのであります。

 

でも其れはもはや現代社會には通用せぬ価値観のことです。

 

要するに功利性ー現實性、現世利益化ーに毒され其の役立たずの眞の偉さを見失ひつつある。

 

さう申しますと何だか誰もが思ひ返したりもする筈です。

 

さう言へば中学や高校の頃に国語の授業でもってそんなことを學んだやうな気もする。

 

色んな詩人や作家が其処で変なことを言って居たやうにも思ふ。

 

 

でも結局は科学だな。

 

大事なのはかうしてちゃんと月給が貰へて👪を養って行くことだな。

 

だがおそらくは其の月給の多くの部分を今科学技術の力が成り立たせて居るのだぞ。

 

 

そんな訳の分からぬ魔道に落ちて其れでも君は其の現實主義を貫ひて行く御積もりか。

 

洗脳だ、そんなものはまさに洗脳の産物なのだ。

 

君は其の洗脳と心中する御積もりか?

 

さうして地球を破壊し尽くし宇宙へと逃げて行く御積もりなのか?

 

 

元より空想ー想像力ーと現實は違ひますが、概して自然科学は其れをごちゃ混ぜにしても居ります。

 

要するに観念領域ー抽象領域ーへと現實を引き込み突き進んで行くのである。

 

 

でも文學による空想もまた其の観念領域ー抽象領域ーへの接近其のものではなひか。

 

いへ其れは違ふのです。

 

文學は空想を現實化など決してしやあしません。

まるで一篇の詩のやうに甘美な夢として其れは終はるものなのだから。

 

一篇の詩とはさうした甘美なる夢のこと。

でも夢であるからこそ其れは救はれて居るのです。

 

 

かうして自然科学に身を委ねて居ると文明は滅ぶとさう仰りたひので?

いやさうでは無ひ。

 

先にも述べて居るが如きにもはや文明は其の科学技術にて救ふ他は無ひ。

 

だが少なくとも科学を信仰すべきでは無ひ。

 

では何故宗教は信仰しても良くまた何故科学技術を信仰してはイケナヒのか?

 

 

結局宗教は非合理領域へも分裂して行く。

即ち、

自力救済ー合理的宗教ー⇔他力救済ー非合理的宗教ー

 

とのことだ。

たとへば同じ大乗佛教でも禅宗は根本のところが観念的なのだが最終的には合理的に解脱することをこそ目指して行くのであらう。

逆に他力救済に合理性が無ひと云ふ訳でも無くよって其処には分離としての相剋し相即する関係が成立する。

 

信仰とは元来其の分裂を前提として営まれる一元的作用のことである。

ただあくまで其れは分裂されて居る。

 

だが自然科学及び科学技術は其の分裂を免れて居る。ー一元的分裂ー

抽象領域としてすでに一元化されて居るが故に純粋に目的論的ー合目的的ーなのだ。

要するに自然の有様と其はかけ離れて居るものだ。

 

確かに自然科学は自然を対象とするが其処で見詰めて居るものとはあくまで自然の部分である。

故に自然科学は自然の美しさを謳ひ詩を成立させたりすることが出来なひ。

 

たとへAIでも其れは不可能か?

 

最終的には言葉の羅列は可能だが其処には心がこもって居なひ。

 

 

科学技術を一言にて評すれば其れは如何にも一方通行であり其の癖分離度は大きひ。

 

現實⇔夢

 

其処ではまるで夢を現實化して居るかのやうだ。

 

でも宗教もまた解脱だの神の國だの何だので其れこそ夢の現實化なのではあるまひか。

 

だが宗教の目的は夢の現實化では無く此の世からの個の救済である。

 

なのでもしも現世にて夢が現實化したとすれば其の救済も何も無くなる訳だ。

 

 

そんな世界が果たして訪れるのでせうか?

 

いや、其れは無ひ。

 

無ひからこそ宗教の意義がまたある訳だ。

 

何故其れが成らなひのか?

 

結局は世界が限定されたものであるからだ。

 

対して人間の欲望ー観念的欲望ーはまさに限りが無ひ。

 

 

たとへばより高くて美味ひものが食ひたくなる。

より美女とねんごろになりたくもなる。

また幾らでも金が欲しくなる。

 

より良ひもの、高級なものにさうして惹かれ続ける。

 

其ればかりー世間的な欲ーに限らずより長生きしより繁栄を続けたくも社會は望む。

 

 

なる程、其の社會の欲望とは個の欲望とまるで相似形なのですね。

 

相似形なのだがまるで規模が違ふので社會の欲望は結局世界を破壊して止まぬこととなる。

 

なる程、すると自然科学ー科学技術ーとは人類にとりよりデカひ欲望を成就させる為の諸刃の剣なのですね。

 

まさに其の通り。

 

凄ひ進歩の裏側にはドロドロの破壊が起きて居るとさうしたことなのだ。

 

でも科学技術の内側からは其のことが見へて来なひか極めて見へにくくなる。

何故なら其れが文明の推進力其のものだからなのだ。

 

 

では其の文明の推進力を否定しまさに山にでも籠り座禅やら山行だのを繰り返しやり解脱、とまでは行かぬにせよ兎に角さうして修行しまくりでやって居れば個として救はれるとでもさう仰るのですか?

 

まあ其れもまさにマニアックな生の追求だが合理化洗脳され都会でくすぶって居るよりは其の方が合って居る人もまた居るのであらう。

 

重要なことはまさに其の文明の推進には暗黙の了解があり我我は意思表示をして居らぬにも関はらず其の破壊者の一員として生まれつき現代社會に組み込まれて仕舞って居ることだ。

 

 

其の抽象的進歩にこそ問題が存して居やう筈なので其処に具象的限定を行ふことで其の近代の呪ひのやうなもの、最初に述べたところでの文明のディレンマに対抗する術が得られやう筈なのだが結局は其れが成らぬのでむしろ抽象的により進めてみる。

 

すると様々に新しひ領域での考へ方が出て来るので最終的にはむしろ其れにて抽象的限定を行って行く他は無ひことだらう。

 

其の「破壊者の一員として生まれつき現代社會に組み込まれて仕舞って居る」個を理解するにはおそらく強靭な文系力ー気付きの力ーが必要なのでせうね。

 

 

いや其の位のことは文人レヴェルの方々なら誰しもお持ちになられて居ることかと思ふ。

 

其れに宗教家の方々などにも分かって居られることだらう。

 

問題は結局其の域へはなかなか到達し得ぬ大多数の人々が信仰を変な処へ刷り込まれて居ることにこそ存して居る。

 

だがあくまで合理化することでしか此の病んだ地球を救ふことなど出来ぬのだ。

 

だとすればみんなでもって此の侭に赤信号を渡って行く他は無ひ。

 

ヘッ、では皆でもって赤信号を渡って行く他文明の未来は築けぬと云ふ訳だ。

 

 

さうだ、まさに人間ー人類ーとは世界の必要悪であると言えるのやもしれぬ。

其れもさうして数々の煌びやかな価値を創出した挙句に持続可能性を放棄し自決して行く。

 

結局科学に為し得たこととは其の自決の道を引いたことと同時に最大限の力で其の自決を阻止すると云ふ相反する要素のことだ。

 

要するに自分等でもって地球の諸を破壊し最後に自らが破壊されぬやうに必死の思ひで文明を防衛する、と云ふやうな極端な作業に勤しみつつ科学は其の使命を終へて行くのやもしれぬ。

 

 

東京大学などがグローバル・コモンズをテーマに世界中の有識者たちと議論「持続可能な人類社会の実現へタイムリミットは10年」Tokyo Forum 2020 Online

 

尚地球が破壊されつつあると云ふ實感が一般人にはまず無く學者や其れに準ずる學びをする人々に限り其れがあることとなる。

 

一般人はさうして文明に洗脳されればされる程に眞實ー事の眞相ーへの感度は鈍くなるやうにさう飼育されて仕舞ふ。

 

だが地球の破壊への危機感を抱くことが可能な一部の読者の方々などは幸ひである。

 

其の文明の破滅を前提として現在を組み立てられて居るのだがらつまるところは其の危機感が齎す新たな認識でもってようやく人類のー文明のー価値観は正されることとならう。

 

よって次回は此の「グローバル・コモンズ」と云ふ新たな指標に対し意見を述べてみるつもりである。

藝術家とされる分からず屋の世の中に對する不屈の闘ひ

 

美しひものが好きな我は美しひものと心中するなら其れも本望だと日頃からさう思はぬでも無ひのだけれど、だが美しひものには大抵の場合毒が潜み其れも良く良く観察してみるに美しひものが其の侭に美しひのは其れは自然界に於ける美だけなのであり、対して所謂人間の感覚でもって捉へられし美と云ふものに限りむしろ汚ひか或は悲惨なところまで見詰め切った文物の方が眞に迫ると云ふか本物だと云ふか少なくともわたくしの好みのものなので大抵はそんな毒までをも含んだ藝術と云ふものがわたくしにとっての眞の藝術の場なのだ。

 

従ってわたくしにとり快ひもの、或は心地良く感ぜられるタヒプでの藝術作品は眞の意味での藝術作品なのでは無ひ。

 

たとへば美しひものに限れば世に幾らでも美しひものはあり、第一自然は美しく中でも空や海、また木立や山々の様などはもう全くに美しひものでしかも其れは元々人の手を離れて居る。

さうした部分から出て来る石や動植物達などもまた決まって美しひ。

 

其れも無垢なる美しさ、言語による形容以前での美しさに溢れて居り宗教的に表現すればまさに其れは神の被造物であり其れ以上付け加へるべき部分が何も無い完全なる美を有して居る。

 

対して人間界にもまた美は存して居るが其れは謂はば毒の無ひ美と毒のある美に二元分裂して居るのだと思ふ。

 

屡都會での美、其れも建築物に於ける美だのまた芸能に於ける美だのまた🚙だの✈だの刀剣類や萬年筆や時計だのーさうした工芸品や工業製品をも含めーが持つ形式美だの機能美だのの場合は大抵の場合は毒を抜かれた美でありむしろ見て居て心地良ひものであることが多ひ。

 

だが藝術の其れも一級の藝術作品が対象とする美はそんな心地良ひものばかりなのでは元より無ひ。

 

藝術家と一般人の感覚の違ひを決めるのはまさに其の毒のある美に対する感受性の違ひなのでもあらう。

 

藝術家は多かれ少なかれ其の毒を持って居るが其の毒が噴き出る時期などにもサヒクルがあるので彼がいつもさうした頭のおかしひ人なのでは無く藝術上希求するコンセプトの違ひなどから或る藝術家からはむしろ其の毒が垂れ流しとなるがまた或る藝術家からは心地良ひ音色や文が紡ぎ出されても来る、と云った具合に表面的な毒の噴出の上での差異が生じて来る訳だ。

 

尚わたくし自身は藝術家と云ふよりはむしろ學者ー人文科学としてのーや思想家に近ひ側面を元々多分に持って居る。

 

なのだが他方では感受性が豊かだと云ふか實質的にも神経過敏な方である。

まさに其処が藝術家的な感度の持ち主でもあると云ふことなのだらう。

 

と云ふことはつまるところ其の毒に対する感受性もまた常に高く保って居る訳だ。

 

 

先に述べたやうに藝術家にも弐タヒプがあり其れは毒まで見通すかむしろ毒を撒き散らすことを藝術の主題に据へて居るタヒプとあへて其れを封印しまた違った意味での社會的に意義のあるものを構築して行くタヒプとであらう。

毒を撒き散らす藝術家のタヒプは逆にあへて自己中心に生きて居る訳でありだからなのか生きて居るうちには周囲にまるで其の作品の価値が理解されずむしろ周りから酷評されたりもし故にまるでもって貧乏でしかも悲惨な藝術家としての人生を辿り易ひものと大抵はさう決まって居る。

 

たとへば画家のゴッホなどが其の典型例で彼は藝術としての毒をしかと把握して居たことだらうが其の作品は周囲にはまるで理解されず挙句につひに気が狂ったのか拳銃にて自決するに及んで居る。

ー部屋を掃除して居たら「ゴッホ―魂の日記 大型本 – 1990/12/1」と云ふ立派な画集の本が出て来た。其れも此れ迄ほとんど読めなかった本である。 ー

 

また此の種の悲惨な藝術家が實は多く、いや悲惨と云ふか過激な藝術家が結構居て中には懊悩の果てに自ら灯油をかぶり焼死した人なども居た程だ。

 

わたくしはさうした藝術の世界認識の激しさのやうなものに深く興味があり、と云ふことはまさに激しさを持った藝術家、謂はば酷く自我が分裂して居てやることなすことが極端な藝術家こそがむしろ好みなのだ。

 

いや極端と云ふか兎に角毒をあへて撒き散らしあへて死んで行った藝術家こそが好きなのだ。

 

 

ー其の毒とは實は薬なのだ。

其のことを世間の人々は普通知らなひ。

 

いや其のことには気付けなひ。

逆に世間的な常識の方こそが毒であらうかと云ふのに。

 

藝術とは、其れに根差した価値観とは眞の毒としての所謂常識の正体を見破ることにこそある。

眞の藝術とは其の毒の素肌に接し其れに傷付き且つ破壊されて行く自己の様を只其の侭に表現することにこそ尽きて居やう。ー

 

 

さて其の毒々しひ藝術家にも厳密には弐タヒプがある。

 

其れは其の過激さが世ー社會ーに認められたか否かと云ふことだ。

 

たとへば岡本 太郎氏などは矢張りどう見ても其の藝術乃至は思想が過激だが實際には世に認められた著名な藝術家だった訳だ。

 

だが其れとは異なり社會とは関はりを持たずにさうして埋もれた侭に死んでいった鋭ひ感度の持ち主などもまた多く居たことだらう。

 

 

藝術とは其の世の毒としての深度を測るものでもまたあるのだ。

 

美ー讃美ー⇔醜ー毒ー

 

まさに美とは世界ー事象ーへの讃美である。

藝術家の内面に於ひて其れは激しく感じ取られるものだ。

 

なのだが其の強く感ぜられるか或は希求されるべき美があるからこそまた醜ひものー毒々しひものーへの目が開ける訳だ。

 

其のやうにより深く幅広く世界ー事象ーを彼等は見詰めて居る。

いや我もまた其の一人としてさう見詰めて来ても居る。

 

だが其の激しひ内面の分裂による世界との関はりは世に認められぬ限り周囲と和解することが出来ぬ。

 

よって多くの場合和解すること無くさうして自決に及ぶか病に罹り早逝する他は無ひ。

 

さうして多くの藝術家がまさに其の道を選び其の生を終へて来たのだ。

 

結局眞の美とはさうした認識の次元に於ひてのみ垣間見へて来るもののことだ。

 

 

ー尤も我は適度に俗化されても居た。我を此処まで生かした力とは畢竟其の常識としての社會の力だ。イヤイヤながらも其の社會の従僕であったことが我をして此処まで生き永らへさせて来た。だが其のひとつの歴史としての社會の時間を得ることは本質的には藝術としての死を意味して居る。謂はば我我は死ぬることでしか此の世界を生きられぬのだ。ー

 

ー故にほんたうに生きやうとしたのはむしろ病を得て早逝し或は自決に至った藝術家ーより感度の高ひ人々ーの方だ。まさに其れは社會化することのならなかったより純粋なる魂の持ち主達の故であった。だが古より存して居た其の構図を社會のあり方が変へた。さうして藝術家は近代医學の力でもってむしろ生の方へと縛り付けられて行くこととなる。ー

 

ー宗教もまた次第次第に合理化され生の方へと縛り付けられて行くこととなった。=現世利益化されたー

 

解脱⇔無明

救済⇔迷ひ

 

だが生の方へと縛り付けられて行くことはむしろ「無明」=「迷ひ」を増大させて行くことだらう。

 

其れも無制限に「無明」=「迷ひ」を増大させて行くことなのだらう。

 

「無明」=「迷ひ」の領域が増へれば増へる分だけ我我は余計に生き延びむしろ其の毒の効力を再確認して行くことさへもが不可能となることだらう。

 

 

 

ところで、

 

藝術は美的洗練の為の一手段である。

 

と云ふやうな価値観を振り翳す人々は實際に多ひことだらう。

 

 

其の美的洗練を価値ヒエラルキー化し其処でまるで建築物に於ける美だのまた芸能に於ける美だのまた🚙だの✈だの刀剣類や萬年筆や時計だのー工芸品も含めーが持つ美の最上位の価値であるかのやうに思って居る訳だが其れは誤りであらう。

むしろさうした価値ヒエラルキーを粉砕しマイナスの要素即ち毒をも見据へた上で創造されていくものこそが眞の意味での藝術のあり方なのだらう。

 

 

即ち藝術は工芸作品とは異なり心地良ひやうなものであってはならなひ。

心地良ひやうなものをむしろ破壊する、いや其れも意図してさうするのでは無くより本質的な美の探究より生ずる二元分裂を意図的に受け止めむしろ其れに身と心を委ねることこそが其れに該当する。

 

すると己の周りの世界は軋み始め突如として不協和音を奏で出す。

 

其の苦行に耐へることこそが藝術家としての過激さに与へられし使命であり天命なのだらう。

 

さうだ、藝術家はさうして常に毒々しくあらねばならぬ。

 

其れもかのベートーヴェンのやうに深く激しく燃え尽きるべきなのだ。

 

 

さうした社會に認められた過激な藝術家と云ったタヒプがまさに存して居やう。

 

たとへば恵那の出の人で熊谷  守一などがさうだ。

また中村  正義 (日本画家)が居て彼は豊橋の出の人だ。

 

まさに共に過激な程に藝術の毒に対し純粋でまた天才と呼ぶに相応しひ画家である。

 

ちなみにわたくしはかうした天才画家や作家のことにつき前々より是非書ひてみたかった。

 

熊谷 守一は過激ではあれ所謂仙人画家なのだが中村 正義の場合はより反体制的で異端的な要素が色濃く感じられる内容を持つ。

ー以前にわたくしは某掲示板に於ひて其の熊谷 守一の画業に就き論じて居るー

 

 

反逆の天才画家 中村 正義

 

創るとは、対立すること ー異端と呼ばれた日本画家ー

 

さうして元々天才日本画家であったと云ふのに何故彼は異端の道を歩んで行ったのだらう?

元より藝術家は天才的であればある程其の二元分裂の様を激しく抱へて居る訳だ。

 

だからより高ひ認識に於ひて美を見詰めることが可能となるのだが他面ではより深く迷ひ即ちより深く苦悩し魔的なものをも見詰めて行かねばならぬものだ。

ーさうしてより罪深くありより業の深さに苛まれる訳だー

 

 

さて中村 正義の絵の方は元々知って居りましたが其の人生の経緯に就ひてはまるで知らなかったが故にネット上で調べてみて愕然と致しました。

要するに彼は反権威主義としての己の藝術を貫き其の病の身を持ってして藝術が持つ毒のさ中へと殉じて行ったのです。

 

果たして此れ以上に過激な藝術家としての生を貫ひた人が居たことでせうか?

 

いや、勿論我が國には古より物凄ひ画家の面々が居た訳です。

たとへば村山  槐多だの関根  正二だのと云ったまさに天才の名に相応しひ画家がかって居たこともまた確かなことです。ーちなみに村山 槐多もまた豊橋の出の人ですー

 

正義の生涯は病との闘いでもまたあり、其れも二十代で結核を患ひ挙句に後年癌を発症し52歳という若さで世を去って居る。

要するにまんま體が弱く感度のみが高くある藝術家なのだらう。

 

 

尚わたくしもまた最近は体調がすぐれずよって弐、参ヵ月程休養させて頂こうかとも考へて居る。

其れも春になり気温が上がればまた元気にならうから此のブログは其れ迄閉鎖し再出発してからは社會批判は止めて藝術や自然を論ずる場へとコンセプトを変更して行く予定である。ー其れこそより文化的に再構築する予定であるー

 

但し宗教のことは続けて書ひて行くつもりである。

實際には休養以上に家のことでやることが山積みなのでまずは其れを片付けてからまたゆっくりと復帰したひともさう思って居る。ーおそらくは六月以降での再開となることだらうー

 

 

其れにしてもだ、結核を患ひまた癌を患ひ其れでも猶権威に屈しなかった彼の生き様其のものが生粋の藝術家魂でなくて一体何なのだらう?

 

藝術はさうして権威でも権勢を求めるものでも無く、また工芸品や工業製品のやうに心地良く見へ社會や人生にとり快楽を与へるものなのでも無ひ。

 

煎じ詰めれば藝術とは其の生死との闘ひの様を写し取ったもののことだ。

 

だが其れは現代に於ける宗教のやうに社會化されたー権威化、現世利益化ーものでは無くまさに内面でのより限定され純化された個としての闘ひの記録である。

 

さう其の個としての闘ひは信仰のやうには普遍化され得ぬことだらう。

 

 

だがまた其れも結局は普遍化され得る。

即ち世に認められし藝術こそがさうして其の普遍性を獲得して行くのだ。

 

 

だが世に認められぬ藝術に意味が無ひ訳では無くむしろ其れは普遍化することが無ひ分より純粋であり個別の精神性に彩られても居るものなのだらう。

 

かうして苛烈に生きた画家は如何なる外部からの圧力にも屈せず己の道を進み其の藝術を全うしたのであった。

其れでも彼の藝術は周りから認められて居たのだった。

 

そんな分からず屋の世の中に對する不屈の闘ひをこそまた是非書き描ひてみたひものだ。

梅原 猛先生の文明に対する悲しみ ー思うままに 人類が存続する道はーより

 

最終的にわたくしが此処にてやりたかったのは文明に対する全的で且つ根本的な批判である。

何故文明を批判するのかと言へば、結局大元での社会システムの方が悪ければ其の体制の枠内の中で何を言ってもまた何をやっても徒労に終はって仕舞ふからなのだ。

 

まあさう云ふのは随分と青年っぽひ考へ方つまりは青臭ひ考へだなとさう思はれるのやもしれぬが其れはさうでは無ひ。

わたくしは其の青臭さもとうの昔に卒業しかっては物欲まみれ、👩まみれになって居たことさへもがありしが還暦を過ぎて逆にまた昔へと戻った。

 

結局悪ひのは其の誤魔化し、現世利益と云ふ甘露に群がるまさに蝿の如き「大人の群れ」である。

さうしてとどのつまりは生活すると云ふ其の根本での部分が其の誤魔化しの世界に直結されて居るものだから其れにはまさか文句は言へやしなひ。

 

あへて其処で文句を言へば会社は首になるは、おまけに共同体より村八分にされるはで其れではまるで生きた心地がしなひことだらう。

 

 

嗚呼其の同調圧力の物凄ひことよ。

 

なので其れはむしろ引退してから言ふべきことなのである。

 

さう思想的に過激な壱老人としてかうして吠へて居れば良ひことなのだ。

 

さう云ふのを文學的に表現すれば老年修羅と云ふことにならうかと思ふ。

 

かの宮澤 賢治は自らの立場を「修羅」だと捉へて居た訳だが其の修羅とは今の幸せに満足する者のことでは無くほんたうの幸ひを追ひ求めて行く者のことを言ふ。

 

 

だが修羅とは所詮馬鹿のことだ。

晩年賢治は自らの生涯を振り返りまるで後悔したかのやうな言葉を並べて居る。

 

馬鹿はさうして社會と闘ひ其れでもって傷付き深手を負ひ倒れる他は無ひのだ。

賢治もまたほんたうの幸ひの為に闘ひ元々弱ひ體を酷使したが故に不治の病を得て若死にをした。

 

尤も賢治は熱心な法華経の信徒であったが故に其の宗教の立場が社會と闘ふものでは無ひこと位は分かっても居た訳だ。

宗教は主に内面と闘ひ其のあり方を正して行く手段のこと故實は社會を批判したり其れと闘ふものでは無ひのである。-本質的には-

 

されどキリスト教や大乗佛教のやうな他力救済を旨とする宗教ー禅宗を除くーに於ひては其れは必ずしもしもさうでは無ひことであらう。

 

大乗佛教は結構現代社会のあり方を批判したりもするのだしキリスト教の場合には余計に科学的なものや進歩主義への批判をなして居ることだらう。

 

だが佛教での根本での目的とは所謂自らの無明による相対分離世界への執着の抹消にこそあらう訳で故に世直しをするだの何だのとはまるで関係無く自らの心のあり方を正すことにこそある。

 

だからまさに其れを目指すのが聖者なのだ。

逆に修羅は聖者などでは無ひ。

 

 

修羅⇔菩薩

 

しかしながら、修羅の他面にはまた菩薩も含まれて居ることかとさう存ずる。

尚批判が少しでも入ると必ずや修羅化するのだとわたくしはさう考へて居る。

 

 

で、修羅でも無く菩薩でも無ひ現代の一般大衆とはタダの獣のことだらう。

其の獣は修羅ーキリスト教で云ふ👿ーよりもよりタチが悪ひと来てる。

 

 

さてわたくしは此のところ我が家の合理化に着手し始めた。

まさに此れは大仕事でおそらくは弐、参ヵ月の期間を要することであらう。

 

其れでまず手始めに自分の部屋を掃除して居たところ重要な壱枚のコピーが出て来た。

 

自分の部屋を掃除すると言っても完全にやらうとするとまさに大仕事である。

たとへば重ひ本がぎっしりと詰まった書棚ー本棚にして居るが實は只の家具ーの本をどけると其処には大量の埃とゴミが溜まっておる。

 

要するにそんな本の裏側までは廿年位は掃除して居なひものだから兎に角酷ひ状態にある。

其れを取り除くだけで何やらせひせひするものでまさにこんな風に欲望の方も掃き清めて置きたひものだと其の時にさう思った。

 

 

其のコピーとは地元の中日新聞のコピーであり2016年11月28日付けでの梅原 猛先生が書かれた記事である。

 

「思うままに ニヒリズムの時代」ー人類が存続する道はー 梅原 猛

 

かってわたくしは梅原 猛先生との縁が深くー其れもあくまで思想的にー一時期さうして「思うままに」の連載記事をほとんどコピーして居たのだった。

さうは言へ手が回らずコピー出来なかった部分もあり、其処は区の図書館へ出向き其処を閲覧して来て居る。

 

梅原 猛先生の思想は梅原日本學などとも言はれて居り一見右の思想にも見へまた實際に日本の文化文物をも含めた東洋文明を高く評価して居られるが故に亜細亜主義的なものでもあるのだらう。

だが西欧近代思想を手厳しく批判されて居る点から鑑みた場合には必ずしも右だとは決め付けられぬ。

 

 

どだひ梅原 猛先生の思想は所謂京都學派の流れを汲むものなのだらう。#京都学派(京大人文研)

梅原 猛先生も京都大學で学ばれかの大哲學者西田幾多郎の影響を多かれ少なかれ受けて居られたのだ。

 

で、梅原 猛先生の思想、其れも哲學の方に関しては相当にブッ飛んで居り西欧の近代哲學に対して可成に批判的で且つ挑戦的だ。

梅原先生はアノ三島 由紀夫先生とは同ひ年だったのださうだが三島 由紀夫先生が過激な思想の持ち主であったのと同じくして梅原 猛先生の哲學も結構過激なのだった。

 

勿論わたくしは其処からも影響を受けて居るのだけれど、わたくしが西欧近代と云ふ時代又は文明を批判するやうになったのはむしろかって塾でもって社会科を教へて居たと云ふ経緯の方がより大きく影響して居りむしろ其れは哲學以前での近代社会のあり方其のものに素朴に疑問を抱ひたからなのであった。

 

見方にもよるが梅原 猛先生の哲學は西欧近代をほとんど全否定して居り其処は物凄く東洋びいきであり日本びいきでもまたある訳だ。

だから右の思想の立場の方々には喜ばれ易ひ哲學者なのだ。

 

たとへばかってわたくしは元警察官の其れも幹部だった方と梅原 猛先生の哲學に就ひて論議したことがあった。

此の方は一流高校卒で兎に角見識の高ひまさに尊敬出来る理性をお持ちの方だった。

 

 

其のN氏が梅原 猛先生の思想は好きで「思うままに」を毎回欠かさず読んで居るとさう仰るのでわたくしは梅原 猛先生の思想の核心部は西欧起源の哲學其のものへの批判にあるとさう長々と講釈を始めるのであった。

尚、わたくしに此の種の講釈をやらせたら弐時間だらうが参時間だらうが實際何処までもやっていくことであらう。

 

先生の思想は宗教との相性では佛教との相性が良くまた実践倫理宏正会などとも相性は悪くは無ひことだらう。

 

個人的に梅原 猛先生の思想から學んだこととはまさに其の西欧起源の哲學其のものへの批判の部分である。

だが西欧起源の哲學を全否定されて居るのでは無くあくまで西欧近代と云ふ文明のシステム其れ自体をほとんど全否定して居られたのではなかったか。

 

 

哲学たいけん村「無我苑」

碧南市哲学たいけん村無我苑

 

此処に名誉村長:梅原猛とあるやうに梅原先生は此処の村長を長年に亘り務められ毎年のやうに哲學としての講演会を開かれて居たものだった。

わたくしは其の講演会に弐度程訪れて居る。

 

またわたくしは無我苑の会員である。-年会費を払ひさうして会員になって居る-

 

元よりわたくしが出来ることとは生活することでは無く思考することなのだ。

其の思考することが得意であるばかりにむしろ此れ迄随分と悩んで来ても居る訳だ。

 

何故なら一般社會はむしろ其の思考を嫌ふことの方が多ひやうに見受けられてならなひからだ。

一般社會ではあへて思考せず酒でも飲んでどんちゃん騒ぎをやり👩の尻を追ひかけることこそが正常なのでソコがまさにわたくしの性分にはまるで合はぬ訳だ。

 

 

拾年程前のことだったがわたくしは其の梅原 猛先生の講演会へと意気揚々として出向ひてみた。

講演の内容は主に西洋近代哲學への手厳しひ批判であった。

 

だが細かくは其の内容を覚へて居なひ。

良く覚へて居るのはわたくしの前の席に何処ぞの御坊様が居られ其の坊主頭が常にわたくしの目の前にあり其れが妙に印象的なことだった。

 

最後に行った講演の折に覚へて居るのは講演が終はり移動されやうとした梅原先生の足がもつれて危うく転ばれるところだったが脇に居た人が咄嗟に體を受け止め事無きを得たこと位である。

まさに其処がたとへ哲學者であっても年齢には勝てなひと云った部分なのだらう。

 

ちなみにわたくしのものを考へる為の感度は近年また研ぎ澄まされて来て居る。

即ち観念の感度に限り實は老化することが無ひのだ。

 

観念は年を取っても衰へるどころか益々活性化して来る。

つまるところどうも不老不死であるのは観念の力だけなのではなからうか。

 

だから人間は観念の力をこそ是非磨き込んで行くべきなのだ。

 

さすればたとへ肉体は滅びても其の観念の力だけは何処かに残らなひでもなひことだらう。

 

わたくしはかうして此れ迄に随分と観念力を鍛へて来た。

 

だから哲學だの宗教だのと云った分野に対し元々強ひ訳なのだ。

 

 

で、此処からがようやく其の「思うままに ニヒリズムの時代」梅原 猛の内容に対する感想である。

 

まず梅原先生はポピュリズムニヒリズムに繋がるとしてトランプ政権の発足当時のことを捉へ述べて居られる。

 

但しわたくしはむしろトランプ政権を支持して居たのだし同時にトランプ政権はポピュリズムによるものでは無かったとさう捉へて居る。

トランプ政権は反グローバリズムとしての保守としての自衛の流れが成立させたもので要するに其れは至極当たり前のことだったのだ。

 

どだひ日本人であれ、経済や労働がもしも完全に自由化され其の結果として外国人労働者ばかりが街に溢れ日本人の多くの父ちゃんが職を失ったりじぶんの娘が訳の分からぬ外人とケッコンしたりしたら果たしてアンタは我慢が出来ますか?

 

其れは何処の國の人でも我慢がならぬことなのです。

なのでトランプ政権が必然的に組み上がり自由主義と国際協調への限定をまさに行ったのです。

 

其れでもってどちらかと言へば保護主義鎖国的な政策を断行したのだった。

 

 

尚其の「自由」だの「平等」だのと云ふ概念はあくまで理想論でありズバリ申しまして限定された地球と云ふ資源環境の中では元々實現が無理なことなのです。

でもあへて其れを押し通せばまるで此の戦後世界のやうにあちこちに矛盾が生じ其の中でも一番の矛盾点とはまさに自然の大破壊でせう。

 

つまりは右の政党であるかまた左の政党であるかに関はらず「限定」して置く政策の流れこそが「ぜんたひの幸ひ」を見詰めた政治のあり方なのであり其れぞおおまさに正しく選択された文明のあり方なのだ。

 

であるからこそグローバルに一億総活躍するなどと云ふ考へは時代錯誤もエエところで、其の遥か以前に西欧近代思想による経済成長と進歩を旨とする其の思想其れ自体にこそ大矛盾ー破壊の根ーが存して居るのです。

其れが何故貴方方には分からぬのだらうか?

 

 

其の立場から致しますればグローバルな近代的価値の展開はまさに思想的に✖なのであり、また世間で喧伝されて居る如くに兎に角女性が頑張って管理職をやるなんて云ふのもまるで✖でせう。

 

なので🚺は良妻賢母をやっていることこそがおそらくは一番幸せな筈です。

 

ですが、近代社会は此れ迄男性をこき使って来たので次第次第に🚹が弱体化して来て居ります。

 

さうか、では此の際余計にへこたれてみませう。

かの太宰の如くに全部ヘコタレ仕事を🚺に丸投げし全ての🚹は寝て食って哲學でもして行くのが宜しからう。

 

 

ポピュリズムはたとへばタレント議員か若しくはタレント的な議員の活躍などでむしろ日本で起きつつある現象なのだらう。

 

また梅原先生は今ニヒリズムの時代が到来して居ると其のポピュリズムを通じて論じて居られる。

ニーチェは現代に於ける理想の崩壊を的確に予言しつまるところ其れは現代社會に於ける理念的低次元化、考へる力の喪失による大衆の意思決定の幼稚化、原始的退行化の有様、要するに非観念化、非精神化の流れ其のものだったことでせう。

 

ニーチェはそんな精神的退廃の様がデカダンスー道徳的価値の喪失ーとして表れて来るともまた述べて居る。

道徳的価値が喪失することはキリスト教的道徳の死、つまりは神の死でもまたある訳です。

 

梅原先生はそんなニヒリズムの時代の到来を縄文文化の滅亡に結び付けて論じて居られます。

されどわたくしは必ずしもさうは思はずニヒリズムは科学技術が必然として齎すものだとさう結論付けても居る。

 

 

其のニーチェの予見の次にカントの批判哲學に就ひても先生はまた論じて居られる。

 

まずはカントの論じた実践理性ー定言命法ーがあくまで理想論としてしか機能しなかったことに就き述べられて居る。

「全ての人格の中にある人間性を常に同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように行為せよ。」

 

即ち人間性を手段化して仕舞ったが故に戦争は引き起こされ其処で大量殺害が連続して行はれても来たのだった。

 

さらにカントは人類にとっての永遠の平和を他の誰よりも望み続けて居た。

 

だが現實は厳しく、其の好戦的な人類に対し聊か失望した彼は「永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることとなろう」と結局はさう述べたのだった。

 

さらに皮肉な言い方をすれば、

人類の墓地、其の文明の墓標の上に築かれるであらう永遠の静寂にこそ幸あれ、だ。

 

 

梅原先生は然しまさに此のやうな時代の流れを深く悲しんで居るとさう書かれても居る。

デカダンスを克服し何とか人類を生き永らへさせることが出来るやうな哲學を創造し生を終へたひとさう締め括られて居る。

 

其の哲學の創造はどうやら間に合はなかったやうだ。

 

つまるところ此の記事こそがまさに人類が存続する道を問うて行くものだった訳だ。

 

文明にとっての持続可能な道、まさに其の道を見出すこと程人類にとり難しひ事業は無ひ。

 

さうなのだ、事業とはまた会社とは只単に儲ける為にあるべきものでは無ひ。

 

でもそんなことは哲學する人にはおそらく誰でも分かって居る筈だ。

 

だが自分の頭で考へぬ輩には永遠に其れが分からなひことだらう。

 

 

個人的には迫り来る破滅の危機に対し文明をソフトランディングさせることは可能だとは思ふのであるが其れも此の侭の意識では変はりやうが無ひ筈だとまたさうも思ふ。

さう重要なことは意識の変革である。

 

其れも社會的な意識の変革がまずは必要なのだが結局社會は個が変はらねば変はりやうが無ひ。

個が変はることとは今持って居る意識をより高めると云ふことなのだと思ふ。

 

意識を高めると云ふことは、より成功を望みより多くを欲することでは無ひ。

 

さうして見識が高みに登れば登る程にむしろ万事に抑へが効ひて来るのである。

其の抑へこそがカントがかって論じた実践理性のことであらう。

 

またわたくしが常に述べて居るところでの理性による「限定」と云ふことなのだ。

生命の秘密としての対義性ー生命の本質に居座る弐元的構造ー

 

ー遺伝子は親から子に受け継がれ、生物の形質(性質)を決定するものだが、遺伝子はDNA上にある

イメージとしては、DNA上にちらほらと点在している

 

遺伝子の正体(本体)がDNAと言われるのもこれが理由である。

全ての生物はこの遺伝子を元に、タンパク質を作る

そしてこのタンパク質が酵素を作り、生物の細胞を作り、具体的な体を作っていく。ー二重らせん構造より

 

分析的では無ひ理性に此のDNAの存在は知られませんが、細胞の合理的分析により今はかうしてDNAが存在することが分かって居ます。

即ち知性が合理化するとまた新たな領域が見へても来る。

 

けだし其の新たな領域には懐疑的なのがわたくしの思考の基本スタンスです。

要するにさうして現象の詳細が見へれば見へる程にさうした分離度の高ひ現象を選択して生きて行くと云った捉へ方です。

 

逆にDNAが見へぬ方が素朴な認識でもってより安全で好ましひと云ふやうなまさに一種後ろ向きでの考へが無ひでもありません。

何故DNAが見へぬ方がよりベターだと考へるかと言へば分離度の高ひ現象を選択して生きて行く時に限りリスクが増大すると云ふ宇宙の摂理みたひなものにすでに気付かされて居るからです。

 

わたくしの認識論又は社会システム論はあくまで限定的に規定されるバランス論ですので、分離度の高ひ現象を選択して生きて行けばー其のやうな認識に至ればーリスクが高く存するより大規模な発展が可能だがあへて其れをせず一種の抑へた認識をして置けば発展はしなひ代はりにより安心で安全だと云ふものです。

 

尚わたくしは当たり前のことを言って居る訳で實のところ現代社会があへて其れとは逆方向の認識を選んで来たが故にリスクコントロールが立ち行かなくなって来て居るばかりでのことでせう。

 

 

但し今更さうして自然科学を全否定しても意味は無ひとさうもまた思ふ。

 

また個人的には自然科学がむしろ好きで特に古生物學の本などは三十代の頃に良く読んで居ました。

 

また宇宙論には大きく興味があり廿代の頃は主にそんな本を良く読んで居ました。

ー其れもとりあへず数式は抜きで其れを考へる訳ですー

 

重要なのはわたくしの観念的立場は自然科学至上主義などではまるで無ひと云ふことです。

ですが何せ自然が大好きですので自然科学による宇宙の理解、世界の把握の方も大ひに参考にして来たと云ふところでせうか。

 

どだひ遺伝子のことが分からずとも歴史は形作られて来て居るのだし其れが分かったからと言って其のことにより人間が本質的に幸せになれる訳では無ひ。

 

其れに遺伝子のことが分からずとも藝術の分野、また宗教の分野は人間にとっての其の本質的探究を異なる領域で続けて来て居た訳でせう。

 

だからどちらが上だと云ふことでは無くむしろ両方が無ければ其の目指すところでの幸福とやらが見へては来ぬのではなからうか。

 

分析的理性⇔非分析的理性

でもってして、おそらくは互ひに密接に関連し合って居る筈なのだ。

 

 

ですが「進歩」と云ふ概念に対しては科学技術との相性が良く其れにより功利的、効率的に社會を組み上げることが可能なので特に戦後はさうした分析的理性を基とする文明が組み上がって来たのだと思ふ。

 

だがわたくしの認識論では其の分析的理性の分離度が常に高ひ訳です。

より具体的に申せば天動説と地動説とでは天動説の方が分離度が低くより安全である訳です。

 

また相対論とニュートン力学とではのニュートン力学の方が分離度が低くより安全でもある訳です。

 

勿論そんなことを言ふ奴は現代の自然科学者の中には一人も居なひことでせう。

でもわたくしは所詮自然科学者では無ひのでさう云ふことを述べる自由などもまたあることかと思はれる。

 

但し何度も述べて居りますやうにわたくしは分析的理性の力を否定して居る訳では無くむしろ其れに接するのが好きな方なのです。

 

けれども實感として自然科学の還元処理には遊びと云ふか隙と云ふかそんなものには欠けて居るのではなひかとさうも思ひます。

 

丁度藝術方面に強ひ人が数式的には割り切れやうが無ひことと同じくしてまた宗教への信仰が数式などでは表しやうが無ひことと同じくして其れ等がまるで違ふものであることもまた確かなことなのでせう。

 

正直わたくしは現代の文明をリスク管理の面に於ひて追ひ込んで居るのは科学技術だとさう考へて居ります。

 

科学技術がもしも無くなれば或は地球はまた人類は助かるのやもしれませぬ。

 

 

自然科学を全否定はしなひとさっき言ったばかりではなひか?

さうでした、どうもすみませんでした。

 

自然科学並びに科学技術は否定されるべきものでは無くされど是非ほどほどに探究されるべきものであり其れ等に全的に頼ってはならぬと云ふのがわたくし個人の分析的理性に対する見方です。

 

逆に言へば宗教や藝術に全的に嵌るべきでは無ひのやもしれぬが實際にはさうしたアナログ的な行き方の方が遥かにリスクは小さくならう筈だ。

ー人文系のものが齎すリスクは自然科学による環境破壊によるリスクよりも常に小さくなりますー

 

 

ー塩基にはいくつかの種類があり、DNAには4種類の塩基が含まれる。

それはアデニン、チミン、グアニン、シトシンの4つで、それぞれの頭文字をとってA、T、G、Cと省略して呼び、この塩基の並びを塩基配列という。

DNAでは、この4種の塩基がバラバラに並んでいるのである。

 

1本の鎖状となったヌクレオチドは、塩基部分で別のヌクレオチドの鎖とまた結合し、対になる

そしてこの結合の仕方には法則があり、AはT、GはCと必ず結合する

ちなみに結合するときには、お互いの向きは逆方向になっている。

 

この塩基同士で対になったものを塩基対と言い、1塩基対、2塩基対・・・と数える。

だから例えば上図の塩基対数は4つである。

 

さらに最後に、この対になって結合したものがねじれてらせん状になり、私たちにおなじみの二重らせん構造のDNAの形になる。ー二重らせん構造より

 

 

重要なことは此の生命現象を司るDNAには塩基対と云ふ形での対義的に形成される相関関係があることです。

おまけに逆方向になって結合するのだとも此処に書かれて居る。

 

其の対義性と云ふことがどうも鍵を握って居るやうにも思はれる。

文系的に言へばまさに其れは二元的結合なのでせう。

いや二元的結合であると同時に二元的分離なのです。

 

まさに其処の処を分子生物学者である福岡 伸一先生が「生物と無生物のあいだ」と云ふ著書の中で述べられて居ます。

 

其れもDNAの構造を解き明かしたワトソン本人が「其れはちょっと考へてみれば誰でも分かることであり、何故なら自然界で重要なものは皆対になって居るのだから。」と云ふやうなことを述べたのだそうな。

 

わたくしは生命工学だのゲノム編集だのさうした訳の分からぬ生命への人為的改変に対しては日頃から拒否感を強く抱ひても居ります。

従って其れ等にはまるで興味が無ひのですが此の対義性ー対構造ーと云ふことには大きく心を揺さぶられる訳だ。

 

で、其の対義的に形成されたDNA鎖がさらにペアリングされ螺旋構造を取って居る訳だ。

此の螺旋構造と云ふのはまさに神社へ行くと注連縄がある訳だが全く其れと同じである。

ー一説には蛇の交尾の様だとも言はれて居るー

 

かうしてDNAは互ひに他を写した対構造をなして居るのだ。

 

確かに生命はかうして対義的に生まれ出て来るものなのだらう。

 

尚わたくしは其れをより分離度が高ひものとして直観して居る訳だ。

 

さう石だの川だの土だのと云った無機的なものに対しより分離度が高ひと見る。

 

なので無機的分離と有機的分離の対概念であるか又は非生命と生命の違ひとはわたくしにとっては畢竟其の分離度の違ひなのだ。

 

 

だが生物學の場合にはDNAにより「自己複製」し得る生命現象は常に無機的存在つまりは生きて居なひものに対し優位性を保つやうに考へて居られがちである。

つまりは生命現象は偉ひとさう捉へられて居ることだらう。

 

でもわたくしの考へでは、其れはより分離されて居るので要するにより「物自体」から分裂が酷ひ訳なのでむしろ下等である。

 

などとも實は考へて居りいや下等上等の価値では無くむしろより「厄介なもの」と云ふ認識が以前から成立してもおる。

 

なのでより成佛しにくひものかと言へば其れはさうなのでは無く何故なら石だの川の水だのは元々成佛する必要などは無くなんとなればまさに其こそが神の被造物であるのだから。

 

成佛するか又は神に救はれるかせねばならぬのは罪深き人間共ばかりなのだ。

 

其の厄介な人間だが其の人間に限りかうして生命の秘密を解き明かすところまで来ても居やう。

 

 

だが其の生命とは果たしてほんたうの生命なのだらうか?

 

ほんたうの生命とは数的記号的還元など出来ぬ厄介な、即ち何でも食ひ且つ食はれてばかり居る獣共の如き奴等なのではなひかひな。

 

ほんたうの生命とはほんたうはそんな情けなひものだがでも同時に其れは美しくもあらう。

 

其の美しさはな、謂はばかけがへの無ひ命の美しさなのだ。

 

 

かけがへの無ひ命とは嗚呼まさに實存的に其処に展開されて居るであらう唯一としての命のことだ。

また其れは人間の命には限らぬことなのだ。

 

かうして宇宙の中で限定的に生きるあらゆる命が其の美しさを身に纏って居る。

 

人間の社會はでもそんな命の煌めきのやうなものに対し余りにも無頓着だ。

 

まさに其の不感症を功利的、打算的に構築された利潤や進歩を追求する人間の社會システムこそが生み出して御座る

 

尚わたくしは命は再現出来ぬものとさう考へる。

 

何故か?

 

何故なら自然界の生命は自然界にあってこそ其の命の輝きを放つからだ。

 

よって人為的に自然界其れ自体を生み出せぬ限り人為的につくられた命は結局其の命の輝きを得ることなどは出来ぬことだらう。

 

 

DNAの構造を解き明かした人類は今其れを基に様々に人体への応用の道を模索し始めた。

生物工学は今後様々な生命を生み出し要するに自然の枠には縛られぬ領域で地球上には存在しなかった新たな生命が生み出されて行くのやもしれぬ。

 

ー最近わたくしは其の事をも許容し始めて居る。其れも無理なこと、罪なことをやらぬ限りはあくまでさうだ。-

 

 

最終的には2050年以降夏の高温に耐へられる人間へと我我は改変させられていくのやもしれぬ。

 

いや、2050年に我はもう死んでるのでお若ひ々がさうなって行くのだろう。

なのでかうした科学技術でもって命が助かるものならばまた其れも良しとしなければならぬのだらう。

文明の「破滅」を描く『2030 未来への分岐点』より

2030 未来への分岐点 (1)「暴走する温暖化 “脱炭素”への挑戦」

2030 未来への分岐点 (2)「飽食の悪夢〜水・食料クライシス〜」

 

まずは此れ等の番組こそが事の眞相、人類の未来に於ける眞實の姿を描くものであることをこそ述べておきたひ。

此の番組から現在の文明のシステムが如何に脆弱で矛盾に充ちたものであるかと云ふことが一目瞭然に分かることだらう。

 

流石は見識を有するNHKだ。

ほんたうのことを言はねばならぬ時に言ふのは勇気も居るのだし何せ世間からの風当たりが強くなりむしろ自分がやられて仕舞ふ可能性すらもがある。

 

わたくしもまたこんなに潔癖に社會を捉へずに何処かでもって👩の尻でも撫でて居れば或はもっと樂しく充實した人生が送れたのやもしれぬ。

だがわたくしは社会科詩人としての使命を全うする為にかうして飽きもせず何度も何度も此の文明は危なひとさう述べ続けて来たのだった。

 

そんなことをやったのは何でかと申しますとわたくしは中学三年の折に京大出の社会科の担任の指導を受けつつ一つの論文ー實はタダの研究発表なのだがーを書ひて居たのだ。

其れは世界の食糧問題と人口問題を同時に扱ったものであった。

 

研究発表は其の担任から特Aの評価が与へられた。

 

まさに其の拾年後にわたくしが塾で社会科を教へたのはむしろさうした必然としての運命の糸に導かれたものだったらう。

 

従ってわたくしは其の詩人であること云々ー感度の良さがあることーは別として兎に角社會の動きー文明のあり方ーに昔から極めて敏感であった訳だ。

 

だからさう云ふ人がワオワオと吠へるとみんなはむしろキョトンとして一体何を言ってるのだ、此の🐺オヤジめが!

いやコヒツは狂ってるよ、きっと頭が悪ひのに勉強ばかりして来たせひで頭が狂ったのだ。

アア可哀想だねえ。

 

 

ばか。

おまへの方がむしろ狂ってるじゃなひか。

そんなおまへらの信じて居るやうな希望だの夢だの未来都市だの何だの、そんなものは全てが幻想でもって其れ以前にまずもって洗脳其のもののことだらう。

 

と申しますとみんなはむしろ其処に多かれ少なかれ反発を感じますのでせう?

でもまさにソコこそが洗脳された価値観に毒されて居る証拠なのです。

 

さて所謂見識の高ひ読者の方々などはすでに此の番組を視られて居ることかと思ふ。

まだ視られて居なひのであれば是非視て置ひて頂きたひ。

 

何故なら今世間で問題とされて居るコロナ感染だのオリムピックの諸問題などよりもずっとこちらの問題の方が重要なものだからなのだ。

左様に世間ー社會ーと云ふものは概ね其の気付きの感度が悪く問題の捉へ方其れ自体に見当違ひな部分を抱へて居るものなのだから。

 

 

NHKは此の種のカタストロフを扱った番組を此れ迄にも多く制作して来て居るが個人的には此の「2030 未来への分岐点」と云ふ番組が此れ迄では一番眞に迫りしかも怖ひ内容の番組だった。

 

で、凄ひと思ふのは此れを全國放送で流して仕舞って居る点にこそあらう。

だから此の番組を視て日頃持って居る自分の文明に対する意識と此の番組で描写される未来ー2050年のーの文明のあり方との乖離に驚き本気で恐怖して仕舞ふ方々などが或は居たのやもしれぬ。

 

さうなのだ、其の大衆の意識の持ち方と眞實との間に深ひ溝が横たはって居ることこそがまずは問題なのだ。

 

其れでも此処を好んで視られて来たやうな意識の高ひ方々ならばまた其れとは違ふ次元に生きて居られる筈だ。

 

でもわたくしが是非治したひと思って居るのは其の大衆の方の意識の持ち方なのだ。

 

わたくしは正直其れが近代的洗脳の産物だとさう考へるに至った。

 

其の洗脳が存するのでまずは社會のあり方を変へやうが無ひ訳なのでもまたある。

 

でもわたくしは別にかのニーチェの如くに是非超人にならう!などと申して居る訳では無く只ありの侭に事實を認めること即ち近代的破壊が存することをしかと見詰めて行かうとさう述べて居るに過ぎぬのだ。

 

 

なのでわたくしは其の正しひNHKと共に何処までも此の眞實をこそ追求して行くのだ!

 

 

1.近代的洗脳

2.社會の無能

3.欲望の危険性

 

1.まずは自分にとっての近代的洗脳を解く必要がある。但し近代的洗脳は容易には解けぬ。近代を推進する側の政治家や學者連中であれば余計に其の洗脳を解くことなどは難しひ。わたくしにとっても其の洗脳はタダの學問好きな元塾の社会科の先生と云ふ立場に於ひて解くことなどは出来やしなひ。只壱詩人の立場でのみ観念的にぶっ飛び其れを否定することが可能となるのだ。

 

2.近代的社會は近代的課題に関しては概して無能であると考へて置ひた方が良ひ。構造的に入り組んだ近代的価値観が其処には堅固に組み上がって居るが故他の価値ヒエラルキーーたとへば脱近代としての価値観ーを其処に組み込むこと自体が極めて難しくなる。

 

3.欲望は無ひと逆に生きて行けぬ訳だがイザ其れがデカくなると破滅を齎すものだとさう考へて置く方が良ひ。近代的な破壊の特徴は其の規模が大きくなることである。たとへば鉄砲位では地球はまさか破壊出来ぬ訳だが核兵器を拾発位爆発させれば矢張りと云ふべきか地球は破壊され尽くして仕舞ふことだらう。温暖化や感染症などもまた同様に世界規模にて進行する問題だ。まさに其の問題がデカくなること自体が文明のあり方として望ましくは無ひものなのだ。

 

で、イザデカひ欲望が暴発すれば地球はさうして破壊されて行かざるを得ぬ。

 

もしも地球が破壊されるのであれば、其れこそ若人にとっての結婚も家の新築も入試も就職も何も無ひことだらう。

だから其れは一体ドッチがより大事な問題なのだ?

 

かうしたことを述べると大抵の場合子宮思考的な価値の側ー一種のバイアス思考のやうなものーから激しく非難されたりもする。

だがそんな現實主義ばかりでは事實として迫り来るカタストロフィにはまるで対処など出来ぬものだ。

 

 

尚相変らず悲観的なことをかうして述べて居りますが2.に関してはまるで希望が持てぬ訳でも無ひ。

 

但し先にも述べたやうに近代性が齎すカタストロフは広範囲に大きく来る、つまるところはドドーンと来る。

 

なので其のカタストロフ其れ自体を免れることは極めて難しひとさう考へて置くべきだらう。

 

だが此れもまた先に述べたやうに其のカタストロフまでの時間を稼ぐか其れともカタストロフへの着地をより緩やかにして行くことなどはおそらく可能であらう。

 

なのでまさに今我我は其処をこそ論じ且つ打開策を實行して行かねばならぬ訳だ。

 

 

また其れは、

 

今更オリムピックをやって居る場合などでは無く、

🚺の地位向上ばかりを目指すものでも無く、

また自民党を支持して居る場合なのでも無く、

誰ぞのやうに石を採って喜んで居る場合なのでも無ひ。

 

すみませんが其の石の採集ばかりは是非限定的に認めて頂けませんか?

でなひとまるで生き甲斐が無くなって仕舞ひますので。

 

 

其の資源の枯渇、まさに其の問題に対し2030 未来への分岐点 (2)「飽食の悪夢〜水・食料クライシス〜」で示されたサファ・モーテ博士ー理論環境学者 メリーランド大学応用数学・システム科学)ーによるグラフには衝撃を受けた。

Human and nature dynamics (HANDY): Modeling inequality and use of resources in the collapse or sustainability of societies

此処でGraphical abstracと題された其のグラフである。

 

「人類は自然が生み出す資源を利用し富を最大化させようとする為資源は減少していく。
富の増大に伴って人口は資源の限界を超へて増加しこの時急増するのは一般の人々だ。

先進国に暮らすような人々の増加は僅かだが富の多くは彼らが独占する。
その後社会は食料などの資源の枯渇に至り一般の人々は人口減少を始めるが豊かな人々はこの危機に気付かぬまま浪費を続ける。

その結果、豊かな人々の富も枯渇し社会の機能が崩壊する。
サファ博士は現在の世界はシミュレーションが示す限界点に近づいていると分析して居る。」

 

此れ迄にも何度も述べて来て居るやうに、富こそはむしろ限定すべきなのだ。

限定した上で、むしろ其の枠の中でのみ最大限の欲望の追求を行ふべきなのだ。

 

つまるところは欲望の追求が全て悪ひのでは無く無制限に行ふ資源の収奪による富の追求ー資本主義による利潤の追求システムーにこそ大問題が存して居るのだ。

さうしてとどのつまりは、此のサファ・モーテ博士のグラフこそが社會崩壊ー文明崩壊ーの過程を如實に指し示して居ることとなる。

 

さらに水資源の枯渇の問題が其の社會崩壊ー文明崩壊ーに追ひ討ちをかける。

實際に効率的な収量を誇る合衆國の大規模な農場では水が枯渇して居るとさう番組中では語られて居た。

 

左様に世界規模での食料の生産には根本のところに大きな矛盾が潜んで居るのだ。

ところが、限定的な食料生産ー我が國での里山での食料自給のやうにーには大問題など何処にも潜んで居やしなひ。

 

其れはかっての日本の食料生産はあくまで自給型ー地産地消型ーのものであり従って大規模に海外から食料を輸入する必要など無かったからなのだ。

また昔は世界中がさうだったのである。

 

特に近代以前は世界的にもほぼさうだったのであらう。

 

 

其れが何でこんなんなった?

其れは特に戦後の國際的で且つ大規模な食料の調達システムの構築が現在の食料供給の様を形作って居ることだらう。

 

其れを一言で言へばまさに功利主義ー資本主義的なーによる合理的食料供給がさうした世界的な食料の供給システムを創り上げて来たのだった。

 

でも實は其れは人類にとってまた文明にとっての夢であり希望でもあったのだった。

 

そりゃさうだ、我が國にせよ江戸時代までは各地で飢饉が起こり要するに飢餓があちこちで蔓延して居たのだからまさに其れでは生きた心地がしなひ。-田舎の方は特にいけなかった訳だ-

 

だから人間としての当たり前の夢でせう、希望でせう、米の飯が腹一杯食へるものならもう死んでもエエと云ふことが。

 

 

なのだが、結果として其の夢であり希望であるものの達成が近代的な大規模で且つより根本的な破壊を生じさせるのだとしたら一体どうするのだ?

つまるところはもう誰も其れには答へが出せなくなって仕舞ふ。

 

でも其処をあへてわたくしは言ふたりますわ。

 

所詮其の夢や希望を持つ事は良ひことでは無ひのだと。

いや持つにせよあくまで自給自足としての枠内で其れを済ませて置くべきだったのだ。

 

 

夢、希望⇔破壊

 

との対概念が生じる訳なので過分なー分裂度の高ひー概念を元々持ってはイケナヒのであります。

 

 

其の夢であり希望である近代的な食料の収量を科学技術が後押しまさに農薬を使ひ地下水を汲み上げることで達成したのだった。

 

ところが其の効率的な食料生産ー食料生産の合理化ーの結果我我人類に残されたものとは土壌の流失であり地下水の枯渇であり地産地消型でのー自給自足のー食料生産方式の崩壊です。

 

 

此処で是非一言。

ー過ぎたるは猶及ばざるが如しー

 

つまるところ、近代的なものの眞の姿とは其の行き過ぎた合理化によるところでの洗脳であり幻想なのです。ー其れも本質的にはさうだと言ふことだー

 

ところが、我我はもはや其の本質的意味を其処に問おうなどとはして居なひ。

 

何故か?

 

1.我我は近代的思想ー合理化思想ーに洗脳されて居る

2.かうして現代人として生き辛ひところに置かれた我我は難しひことを考へることよりもなるべく今の欲望を成就させて居たひ

3.諸問題が絡み合ふことで織りなされる近現代社會に於ける矛盾点はすでに個の範囲では如何ともし難ひ大問題へと発展して仕舞っている

 

要するに現代人、嗚呼まさにアナタ方は時代と云ふ檻の中に捕らえへられし獣の群れのやうなものだ。

 

 

でもおまへもまた其の獣の一員だらうが。

其れにいつも牛丼を食ってるしな。

 

確かに牛肉は水資源の枯渇を招く地球破壊の要因の一番手なのだらう。

だがあんなペラペラの牛丼の肉などまるで大したことは無ひぞ。

欧米人がいつも食ってる分厚ひステーキ肉と比べればまるで和風のものだ。

 

其れにつけても夢や希望を叶へる為によかれと思ってすることが全部裏目に出るのが其の近代的な価値の履行に於ける特徴でせう。

なので夢だの希望だのは基本的には持たぬ方が宜しひことだらう。

 

其れでも其れが欲しひのであればなるべく小さくー限定した上でー其れを持つべきなのだ。

たとへばAAAクラスの石ー石英ーが採りたひと云ふ夢と希望を常に持つ。

 

すると、また採れた。

何だ結構採れるものだな。

 

此の際全部採ったれ。

と自称詩人が日に弐参個の石英を拾って来ても地球は何ら影響を受けなひ。

第一そんな道端の石拾ひ位では元より影響を受ける筈も無ひ。

 

 

でも近代社會がさうして其の夢と希望を抱きつつ地球の合理化に邁進するとなるとまさに其の合理化でもって段々地球がボロボロになって行くのだ。

 

此処からもデカくやる合理化などは須らく✖なのです。

 

農業の大規模化、効率化→✖

宇宙開発→✖

発展途上國支援→✖

地元での石採り→○

社会批判→○

夢と希望の否定→○

自給自足での農業→○

 

合理主義→✖

グローバル資本主義→✖

神佛への帰依→○

理性的限定→○

 

要するに人間はより小さく限定的に価値を構築しつつ生きるべきです。

其れは何故かと申しますとまさに破壊を生じさせぬ為にさうした価値観を選び取るのが信仰のあり方であり且つ眞の意味での理性のあり方であるとさう申して居るのです。

創発ー複雑系ーとしての秩序による文明のリスク・コントロールー世界は元々複雑なものであるー

 

NHK大河「麒麟がくる」架空キャラ批判を一蹴した「本能寺の変」の新解釈

元より過去を取り扱ふ歴史物語とはフィクションの世界のものであることを免れ得ず、よって基本的に其れは想像上の物語なのですが此の「麒麟がくる」はまさに良く出来た大河ドラマだったやうに思はれる。

現代でもかうした作品を作り得ると云ふことが一種の驚きであり新鮮な感想を齎すものであった。

 

現代の文明はまた文化は何処へ行かうとして居るのかと云ふ点につき或は此のドラマが答へを指し示して居るのやもしれぬ。

畢竟其れは現代の価値観は概ね狂って居るのだけれど文化的に良ひものはかうして創り得ると云ふことなのではなからうか。

 

とは言へコロナ禍による具象的限定を受け文化の領域が著しく損傷を受けて居るだらうことは想像に難く無ひ。

 

文化領域もまたさうして限定されて行かざるを得ぬが其れでも猶文化は死せずしてまさにかうして人間が織り為す虚としてのドラマを紡ひで行くのである。

 

文化にはさうした意味での諦めの悪さ、其の文としての不屈のあがきのやうなものがあり個人的には其の非合理性こそが合理主義を超へる何ものかであるとさう信じたひ訳だ。

 

より正確には非合理領域での其のあがきこそが合理主義を諫め変質させて行くことだらう何らかの力又は作用ともならう。

 

かって我が國の文壇に属した大作家の面々が指し示して居たことだらう其の「あがきの力」をこそ我は重視したひ。

 

 

公共放送を司るNHKに対しては様々に批判的な意見もまたあらうかと思ふが此のやうな文化的発信を行ふことが可能である点に於ひて其れは矢張り要るのである。

要るのだが、まさに税金の如くに視聴料を徴収する限りは文化的にクオリティの高ひ番組を生み出し続けて行く責務がまた其処にある訳だ。

 

だから其の恵まれた立場に胡坐をかくこと無く今後も良質な番組を是非提供し続けて行って頂きたひものだ。

其れから個人的には人文理性としての立場を此れ迄以上に重視して頂きたひ。

 

より具体的には科学偏重主義に陥るのでは無しにより包括的に人間の置かれた立場と意義を見詰めて行って頂きたひものだ。

 

 

尚わたくしは最近Eテレなどもまた良く視て居るのですが非常に面白ひと云ふのが其の實感である。

1.鬱陶しひアノCMが無ひ

2.何かと勉強になる

3.何故か気が休まる

 

Eテレを流して視て居て3.を感じる人は元々さう云ふ人なのである。

逆にEテレを流して視て居るとストレスが溜まるやうな人などもまた居ることかと思はれる。

 

どだひわたくしは民放のCMがまさに拷問の如くに感ぜられるのだけれどーとは言へ気にならぬ場合もあるのだがー全く気にならぬ人などもまた居るのやもしれぬ。

で、實は其の2.と3.の要素が民放の番組から感じ取れぬ訳でも無ひ訳だ。

 

民放の番組にも良ひ番組がある訳なのでさうした番組を視て居る時はまさに気が休まるのだし何かと勉強にもまたなる訳だ。

 

NHK⇔民放

 

要するにかうした二元対立にては括れぬ部分が其処には存して居るのだ。

さうして二元対立は確かにして居ることだらうが全てをさうは断じ切れぬ訳である。

 

 

即ち、

お堅ひもの⇔軟らかひもの

と云ふ部分も確かにあることだらうが、

 

其れは相補的に成り立つものなのでどちらかに偏り価値を組み上げると即誤謬に陥ることとなる。

 

また其の男女の問題、即ち近代的な平等観の確立の問題に就ひても其のことが言へる。

 

👨⇔👩

 

此の関係自体がまさに其の相補的なものであるが故に本来ならばどちらが上であるとかどちらがコレをやれと云ふことでは無くまさに互ひに補完し合ふべきものなのだらう。

但し先にも述べたやうに持って生まれし生命エネルギーの点で👩は優れて居るから逆に👩が威張り過ぎるとむしろ根本での性のバランスが悪くなるのだ。

 

所謂かっての良妻賢母思想は其の点まで鑑みたところでのバランスの良ひ考へ方なのだらうとわたくしは思ふ。

よって現在の如くに女性が平等意識に凝り固まって行くとすると其処でもっておそらくは男性の意識がへこたれ易くなり端的に申せば次第に女性化しても行くことであらう。

 

結局其れは常に強ひ👨を望む👩の願ひとはまるで裏腹のこととなるのである。

 

優しひ、しかも感性的に洗練された🚹は次第に女性化して行かざるを得なくなりすると最終的には🚺が要らなくなるのである。

 

 

尚平等だの自由だのと云った近代的な価値観にも盲点があり即其れが至上の価値となり得るものでは無ひことをむしろ我我は是非學んで置くべきなのだ。

 

一言で言へば「平等」や「自由」と云った一括りでもって言ひ表された抽象的概念は極端化し易ひのだ。

 

謂はば無制限での「平等」や「自由」に陥って仕舞ひ易ひ訳だ。

 

だが無制限での「平等」はむしろ「不平等」に繋がり易く、また且つ無制限での「自由」はむしろ「不自由」に繋がり易ひ。

 

また其のことは實体験を踏まへ學びを重ねることでさう感得されて来ることだ。

 

此の世のことはかうして複雑で且つ天邪鬼なのでまさに一筋縄ではいかぬものであることがほとんどだ。

 

 

何で一筋縄ではいかぬのかと云ふと、おそらくは問題にスパッと答へを出したひと云ふ合理化の部分が事實としては複雑でもって不可分なものを一発でもって解かうとするが故にさうなるのだ。

つまるところは其の合理化こそが悪ひのだらう。

 

故にわたくしの文明批判、また人間批判の核心とは其の合理化批判にこそ存して居る訳だ。

 

但し合理化することを全否定して居る訳では無く其の合理化を適用する範囲に誤謬があるとさう述べて居るのである。

 

實際にわたくしは今自分の家の合理化に着手して居るところなのだ。

 

 

其れも平たく言へば断捨離と云ふことである。

其のやうな合理的視点こそが長年の間に溜まりに溜まったゴミー不要物、無秩序な状態ーを掻き出し其れを一掃することに役立つ訳だ。

 

かうして合理化せぬとどうも人間は獣の領域に安住しやうとして仕舞ふやうだ。

 

だから禅宗などは無論のこと其のお掃除をこそ大変重視する訳だ。

 

さても合理化と申せば最終的には佛陀による合理化とならうが、其れは人間を此の世から消しちゃふことなので元より人間に出来ることでは無ひ=不可能なこととなるので其の合理化はまるで出来ませんので何とか救って下されとさう祈りつつ神や大乗佛教に身を捧げる他は無ひ。

 

でもボクはかうして利口な人なので神や大乗佛教に身を捧げることなどまるで出来ません。

 

さうか、では其の利口とやらと是非心中してみるが宜しからう。

 

 

さうなればでも辛ひぞよ。

 

其れもあんな華厳の滝から飛び降りたりかの太宰や芥川のやうにもう三十代でもってして命が無くなったりもするのだぞよ。

 

もしやまた其れもひとつの合理化だったのでせうか?

 

確かに合理化だったのやもしれぬ。

 

だがみんなでもって赤信号を渡り全滅する方がまだしも樂では無ひのか?

 

 

アレ、何だかいつもとは違ふことを言ひ始めましたね。

いや、そんなことは金輪際言ってなど居りませんが。

 

でも今言ったじゃなひか。

 

さうでしたね、言ひました、上にしかと証拠が残って居ました。

 

では何を思って其れを言ったのだ?

 

何も思はずつひさう申して仕舞ひましたのです。

 

赤信号を渡り全滅する方がまだしも時間が稼げると是非さう言っても置きたかった。

 

 

時間?

 

其の時間とは一体何だ、所謂意識の流れのことか?

 

意識⇔無意識

おそらくは此処もかう分裂して居る筈だ。

 

なので意識のみに捉はれて居るのは其れでは如何にも片手落ちとなる。

 

非合理領域や無意識の領域をもさうしてあへて見詰めて行かねばならんのだ。

 

なんとなればもう壱方を見なひと實は意識としての範囲が確定しなひからなのだ。

 

 

創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。

この世界の大半のモノ・生物等は多層の階層構造を含んでいるものであり、その階層構造体においては、仮に決定論的かつ機械論的な世界観を許したとしても、下層の要素とその振る舞いの記述をしただけでは、上層の挙動は実際上予測困難だということ。下層にはもともとなかった性質が、上層に現れることがあるということ。あるいは下層にない性質が、上層の"実装"状態や、マクロ的な相互作用でも現れうる、ということ。ー創発より

 

此の「創発」と云ふ概念こそが全体論的なものの見方、かまたは複雑な系としてのものの見方を可能とするものである。

 

例へば科学技術は常に合理的に世界の諸要素を改変して行くシステムを形作って居る。

 

ところが、事實上科学技術は、

 

1.核兵器生物兵器による人類滅亡の危機

2.地球に対する物理的破壊

3.人間に対する物理的、精神的破壊

 

を齎すに及んで居る。

其ればかりか、

 

4.宇宙に対する人的蹂躙

5.神殺し

 

と云ふ部分すらもが考へられぬ訳では無ひ。

 

其の罪と云ふか破壊の度は常に凄まじひものがある訳だ。

 

其れ即ち合理化が其の抽象的に規定される進歩と云ふ概念こそが其れを初めて可能たらしめて居るのだ。

 

で、畢竟其れはデカひものの合理化により成り立たされて居る訳だ。

さうした合理化の領域にて価値形成される豊かさと幸福の尺度の一元化が其れをさう成らしめて要る訳だ。

 

 

よってわたくしは今其の一元化をこそ批判したひ。

あらゆる一元化の波がむしろ人類の営為をつまりは文明を崩落させる方向へと導ひて居るのだ。

 

またわたくしは今宗教に於ける一元化をも認めなひ。

 

但し其れは神佛との一元化を認めぬと云ふことでは無く地球上の宗教としての一元化を認めぬと云ふ立場である。

要するに壱宗教による広宣流布と云ふ概念其れ自体を否定的に見詰めて居るのだ。

 

一元化、結局はまさにコレこそが世界を破滅へと追ひ詰める為の原動力なのではなからうか。

で、其の一元化の流れは古来よりあり印度の解脱思想ー釈迦による佛法をも含むーにせよキリスト教にせよ最終的には其の一元化を目指すものなのだ。

 

但しキリスト教はあくまで神と悪魔、善と悪による対立としての二元論からの一元化論である。

 

其の現世を規定する上での二元論には誤りは無ひものとわたくしは見る訳だ。

 

他方で印度哲學での梵我一如の思想は結局現世に於ける一元化の思想なので抽象性に傾き過ぎて居ると現在わたくしは否定的に捉へて居る。

 

 

生物学における創発[編集]

生命は創発現象の塊である。動物の体表に現れる縞模様や、植物が描くタイガーブッシュフェアリー・サークルなどの現象を、一見相関がないような組織や個体の生命活動の結果が巨視的に現れたものとしたアラン・チューリングの仮説(チューリング・パターン)が知られている。また、脳は、ひとつひとつの神経細胞は比較的単純な振る舞いをしていることが分かってきているが、そのことからいまだに脳全体が持つ知能を理解するには至っていない。さらに進化論では、突然変異や交叉による遺伝子の組み合わせによって思いもよらぬ能力を獲得することがある。進化論においては個々の個体による相互作用のほかに、環境との相互作用という側面も加わっている。創発の定義において、このような非対称な要素を認める場合もある。ー創発より

 

 

ー進化論においては個々の個体による相互作用のほかに、環境との相互作用という側面も加わっている。ー

個は種であると同時に特に人間の場合には社会と密接に関はって居る。

 

個⇔社會

個にとり社會は否定し得ず、社會にとりまた個は否定し得ぬものだ。

 

たとへ社會が大嫌ひな詩人なのだとしても社會とは自分の一部でもまたあるが故に其れを全否定することなどは出来ぬ訳だ。

社會もまたプーチン氏や自民党の如くに國家権力の上に胡坐をかきつつやりたひ放題をやってると其処に何時革命が起き自分の首がちょん切られて仕舞ふかまるで分からぬ訳だ。

 

まさに其れと同じやうに、

 

個⇔環境

細胞ー肉体ー⇔知能ー精神ー

 

「一見相関がないような組織や個体の生命活動の結果が巨視的に現れたもの」

かうして関係が無ひと云ふことこそがむしろ関係深ひことなのであり、逆に関係が深ひやうで居て本質的には其れが無関係だと云ふこともまたあり得るのが世の常なのだ。

 

 

なので相手としての諸要素の立場を認め其の話ー主張、存在ーを聞く立場こそが創発と云ふ全体論的な価値観の構築の核心部を担ふものなのだらう。

其れを別の言葉で言へば、

 

まさに「汝の敵を愛せ」と云ふことではなからうか。

 

「局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。」

此処からしても生命現象は確かに「創発」される現象である。

 

部分的還元は可能だが其の還元を成したと同時に生命の煌めきのやうなものは失はれて仕舞ふ。

 

自然科学主導による科学技術文明に欠けて居るものとはまさに此の生命の煌めきのやうなものなのではなからうか。

立派な知性ー還元的知性ーが多く集ひ膨大な思考と努力の末にたとへばスマートフォンを生んで居る。

 

スマートフォンはこんな進んだ文明が生んだ神の機械のやうなものだから尊ひ機械であり自称詩人、まさにおまへのやうな原始人には決して扱へぬ神の道具である。

ヘッ、さうでしたかねえ。

 

わたくちはあんなもん要らなひとハナから相手にして無ひのでまるで近視にもなりませんのですよ。

わたくちは逆に老眼が進みもう遠くのものが良く見へて仕方がありません。

 

其のわたくちと云ふ言ひ方をもう止めよ!

みんなが眞面目に読んで居ると云ふのに不謹慎だぞ!

 

わたくちはかうしてスマフォ病でもまた花粉症でも無く至って健康なので今でもかうしてバリバリと読書することが出来る。

 

 

さても一体何を読んで居るのだ?

生物と無生物のあいだ」福岡 伸一著です。

 

所謂「動的平衝」と云ふ概念につき懸命に勉強して居ります。

 

科学技術文明に欠けて居るものが此の創発による命の煌めきであり動的に平衝されるところでの生命現象のダイナミズムであるのならばまさに其れは生命にとって命取りとなることです。

でもスマフォは目に悪ひから止めなさひとはもう教師も母親も誰も言はぬ訳だ。

 

だから彼等に代はりわたくしがかうして述べて居るのだ。

 

また🚅も✈も🚗も皆要りませんのでもはや捨て置くが宜しからう。

 

 

所謂「繋がり」と云ふことが暫く前から盛んに求められて来て居るやうですが、其れは逆に「繋がって居なひ」社會であるからこそさう求められて行く訳だ。

 

表面的なことでは其の連帯は得られず其のやうに連帯を軽視する合理的社會ー功利的社會ーを築き上げて来て居るが故に現代人の心が飢へ其のやうな叫びを発して居る訳だ。

 

詩人さんは孤高の立場を貫きさうして変人で居られるので良ひのでせうが何せ我我は所詮眞我には目覚められぬ凡人ですのでかうしていつもみんなで繋がって居たひのです。

 

だから其れをスマフォなんかとまたゲームなんかと繋がって一体どうするの?

 

詩人はみんなとは決して繋がらず、でもね、文士の園とはすでに繋がって居ますので全然怖くもまた寂しくもありません。

 

其の孤独であることさへもがね。

 

 

おそらく生命は数的還元などはとても出来ぬまさに「創発現象の塊」のやうなものだ。

或は全体論として把握されざるを得ぬ一種超越的な価値の場なのだらう。

 

生命現象の不可解さは文學に於ける不可解さなどとも或は符合して居るのやもしれぬ。

つまるところ其れは理性にて割り切れぬ部分を常に抱へ込んで居る訳だ。

 

さうしたところは野良猫や野鳥など自然現象に接して居ると次第に理解されても来る。

だがコンクリ製の都会のビル群に閉じ込められて居れば居る程に其れが分からなくなるのやもしれぬ。

 

 

ー複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。

近代になって科学哲学において還元主義の蔓延に対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム」または「全体論」などと呼ばれている。科学哲学の研究者達は、現在のいわゆる複雑系を、広義のホーリズムのひとつである、と位置づけることが多い。ー複雑系より

 

「全体とは、部分の総和以上のなにかである」=「全体論

福岡 伸一氏は生物學者としての其の全体論者であり、対してわたくしは自称文人としての其の全体論者である。

 

 

 

複雑系(ふくざつけい、: complex system)とは、相互に関連する複数の要因が合わさって全体としてなんらかの性質(あるいはそういった性質から導かれる振る舞い)を見せる系であって、しかしその全体としての挙動は個々の要因や部分からは明らかでないようなものをいう[1]

これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解する(還元主義)のは困難である。系の持つ複雑性には非組織的複雑性と組織的複雑性の二つの種類がある[2]。これらの区別は本質的に、要因の多さに起因するものを「組織化されていない」(disorganized) といい、対象とする系が(場合によってはきわめて限定的な要因しか持たないかもしれないが)創発性を示すことを「組織化された」(organized) と言っているものである。

複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、実際に人間にとって興味深く有用な多くの系が複雑系である。系の複雑性を研究するモデルとしての複雑系には、蟻の巣人間経済社会気象現象神経系細胞、人間を含む生物などや現代的なエネルギーインフラや通信インフラなどが挙げられる。複雑系よりー

 

 かのマルクス・ガブリエル氏は世界は複雑だとさう述べても居られる。

さう世界又は生命現象は複雑であり、要するにほとんど全てのものが還元処理などすることが出来ぬものに彩られてさへ居る。

 

価値を数的還元するやうな社會=都会の価値観は概ね危機管理に弱く要するにフレキシビリティには欠けたとへば大地震でも起これば大都市圏はほぼ壊滅して行かざるを得ぬことだらう。

重要なことは社會としてのリスク管理として其のフレキシビリティを大きく持たせておくーある面では合理化されぬ部分を大事にしておくーことなのだらう。

 

其のフレキシビリティは複雑系の思考を対象とする學問が或は担って行くのやもしれぬ。

特に今後起こるであらう大都市圏でのカタストロフに対し近代型の危機管理体制ではまるで対処し切れぬことだらう。

 

だから本来ならば公的な機関がまさに其れに携はり手を練って行かねばならぬのだ。

 

だからまるでバカみたひな大臣のポストをつくるよりも何よりもまずは壱番先に危機管理庁を新たに発足させ此処に河野氏みたひに利口さうな奴等を多く配属させ危機への対策の全部をやらせてみるが宜しからう。

其処に感染症対策も温暖化対策もまた脱炭素社會の推進ももう何から何までやらせ給料は拾倍程も出してやれば良ひ。

 

だからまるでバカみたひな自民党老害議員はそも現代社會が極めてハヒリスクな文明であることなどまるで分かって居らず其れよりも何よりもそんな銀座のクラブでもって👩の尻を触って来ることだけを夢見て生きて御座る。

左様な体たらくでは複雑系の此の世界の複雑に絡み合ふリスクに対しまるでマネージメントすることなど出来て居なひではなひか。

 

そんな複雑系の文明に対するひとつの対処の仕方が価値指向のミニマム化でありなるべく劣化の少なひインフラであり且つ原始的な循環性をも取り入れたシステムの構築なのではなからうか。

結局其れをもしやったとしてもカタストロフは回避出来ぬにせよ少なくとも破滅までの時間は稼げ其処から生き延びる為の確率を上げることさへもが出来さうだ。

 

時間と云ふもの、其れも人類に与へられし時間は有限だと常日頃より我は思って居りたとへば今考へて居ることとは其の有限であるところの与へられし時の密度を如何にして上げて行くかと云ふことだ。

 

平たく言へば其れは如何にして残りの時間を有意義にさうして少なくとも建設的に生きて行けるかと云ふ只其のことばかりなのである。