目覚めよ!

文明批判と心の探求と

石と🍛ファンとしての認識論

さて本日我は相生山へ行って来た。

我がかうして山が好きなのは其の山では人間の社會を忘れることが出来るからである。

 

私は人間の社會のことなど好きでは無いのでかうして自然と戯れて居ること自體がむしろ至福としての癒しの時なのだ。

 

私は人間の認識が此の侭に続くとむしろ宇宙に取り良く無いことであるとさう捉えて来ても居る。

嗚呼、罪深き其の人間共の生き様。

 

其のやうな意識の状態にて眺める自然の営為は悉く美しい。

尤も自然にはウンコもありまた死體もある訳なのだが其れが其の美しさをスポイルするものでは無い点こそがほぼ完璧である。

 

対して人間のウンコは汚い。

さらに人間の死體はグロい。

 

 

おおー、神よ。

何故自然の懐に抱かれし侭に我を此の世に生み落としては下さらなんだのだ。

 

さてもお前は足が痛いのだらう?

其れが12月の中頃より回復傾向にあるのです。

 

其の頃に僕はサントリーの足腰に効くサプリメントのモニターに当選し其れで壱ヵ月其れを無料で飲んで居たところ効いて来たのやもしれません。

ですがサントリーの足腰に効くサプリメントは種類が沢山ありほんたうに僕が飲むべきものは「ロコモア」であり實は其れとは違って居りましたのです。

 

また12月の初めに我は楠の薬師如来様のところへ體の不調の快癒を祈りに行きました。

でも其れが其れこそがお前自身が否定して居る現世利益成就の為のお参りであらう。

 

さうです、まさに其の現世利益成就の為の祈りで御座りました。

ですがまさに命と云うものはさうしたものなので御座ります。

 

 

まさに其の点で馬鹿も利口もまた動物も人間も何も無く其の苦しみの因を消し去らんが為に嗚呼まさに藁をも縋る気持ちにてさうして只神に佛に祈りを捧げるものなのです。

さうか、すると其れがお前の只ひとつの願いでもまたあった訳だ。

 

此の侭自分も要介護状態となり其れも最終的には寝たきりとなるのか、其れともまた元気に山歩きが出来るやうになるのかと云う其の瀬戸際だったのだな。

まさにさうです。

 

そんな時には誰しも「理性的に生きる」ことなどどーでも宜しくなるものなのです。

理性もクソも無くタダ治して欲しい、其の壱心なので御座りますが故に。

 

 

すると、もしや其れが効いたのか?

もしや其の祈りが天に届いたのか?

 

いや天では無く薬師如来様へと通じたので御座ります。

薬師如来様はさうして確かにわたくしの守護神だったのです。

 

薬師如来=守護神

でも如来と神は違うのではないですか?

 

より正確にはさうですが此の世のことはほとんどがむしろいい加減なことですのでソコは追求しない方が良いですよ。

つまりはまた人間と云うものもケモノと神佛の中間を生きる者のことですので。

ですのでドチラ側へも転ぶものとさう思って置いて下され。

 

 

さうして股関節の調子が良くなりますと兎に角山へ出向きたくなる。

山へ出向くと其処は静かである。

 

筈であったが、コロナ禍以降何故か山が騒がしくなって居る。

しかも山道の入り口に自転車が六、七台置いてありコレはおそらくは中高生の横着者共の仕業であらう。

 

案の定奴等が山の中でギャアギャア騒いでおる。

こんな山まで壱體何をしに来ているのだ、奴等は?

 

つまり其の種の馬鹿共は以前なら街中で騒いで居た訳である。

其れが何でか分からぬのだが此の弐年程山へ来て騒いでおるのである。

 

 

まずは其れが僕には理解し難い。

だがさうか、其の馬鹿が街中で其れをやるとコロナに感染するので感染しない山の中で其れをやりたい訳だ。

 

だがさうした理性無き相手でもまさかゆっくりと歩いて居る年寄りを攻撃したりはしないだらうから其処はまず大丈夫だ。

ではソロリソロリと参らう。

 

おや、こんなところに石が。

あれ、またこちらにも。

 

 

さうかうしつつ山を登ると奇声を発しつつ山を駆け巡るまさに理性無き中高生の集団に出食わしたが思った通り攻撃されることなどは無かった。

 

兎に角結構あちらこちらに石の良いのが何故か落ちて居る。

 

時折山歩きの爺さんや初老の夫婦などとすれ違う。

五年程前と比べると明らかに其の山歩きをする人の数が増えた。

 

以前は山に来る奴は我のやうな変わり者だけだったのだが最近はむしろさうでも無いやうだ。

 

山を登り切ると竹林があり其の奥へ進むと市内が展望出来る所へ至る。

本日は其処に変人のオッサンが来て何やら市内を拝むポーズを取りまた其処から何かエネルギーを吸収して居るかのやうでもあった。

 

逃げるやうにして其処から離れ足の具合を確かめつつ黙黙と歩く。

西日が辺りを茜色に染め上げ其れが強風に吹き払われた靑い空と鮮やかな対比を形作る。

 

 

ああー、ヤッパリ良いな、山は。

 

山を歩きながら考える。

今思えば昨年の石の採集はなかなかのものであった。

 

昨年、弐月、参月、さうして四月、五月と兎に角相生山や東山へ入り浸り我は石英を採集して居たのであった。

だが今年はもはや其れが出来ぬものかとさう思って居りしがどうやらまた其れが可能となるやうだ。

 

まさに其れだけのことなのだがあくまで我に取り其れが重要なことなのだ。

 

 

さても人間の認識の誤りの部分とは壱體何処にあるのだらうか。

社會的に齎される其の欲の檻の中で彼等は壱體何を求め続けて居るのだらうか。

 

僕のやうに石のみを求めるやうになるにはおそらく壱億年位はかかるのであらう。

僕のやうに小欲知足でもっておまけに學識は凄いわ、話は面白いわ、さらに色んなものは食うわで、また講義も出来るわでもう完全な人、ほぼ完璧な知識人としての我。

 

うーむ、どうも其の社會的自我こそが病気なのではないか?

だが其の社會的自我から見ればこんな石変人の価値観こそが狂って見えることであらう。

 

 

さうかうするうちに駐車場ー相生山緑地の公営駐車場ーの自転車のところへと戻って来た。

サア、帰らう。

 

其れもココ壱番屋へ寄り野菜カレーを買って帰るのだ。やさいカレー | ココイチのメニュー | カレーハウスCoCo壱番屋 (ichibanya.co.jp)

 

尚わたくしは至極頑固な人間なのでコレと決めたものしか食わぬのだ。

従ってココ壱番屋でもって食っても良いのは其の野菜カレーだけなのである。

 

其れも弐辛で四百グラムの御飯のものでなければならない。

 

 

思えば昨年の春はすき家の牛丼が採集の時の御伴だったのだが其れが昨秋よりココ壱番屋の野菜カレーへと変わったのである。

但しココ壱番屋の野菜カレーは何せカサがあるので帰宅してから其れを食うのだ。

 

ココ壱番屋の野菜カレーは今の我に取り高級な食事であり何故なら其れが千円弱もするからなのだ。

従って採集の帰りに此の野菜カレーを買って帰る時程今の我に取り贅沢な時は無い。

 

あな嬉しや。

 

ココ壱番屋の野菜カレーは別に最高に美味いカレーでも何でもないのだが兎に角悪くは無い。

 

ちなみにカレーのファンである我は最近弐種のレトルトカレーを食ってみたところだ。

1.チャンピオンカレー オンラインショップ │ 元祖金沢カレーの通販 (championscurry.com)

2.神田カレーグランプリ 100時間カレーB&R 欧風ビーフカレー お店の中辛|神田カレーグランプリ|S&B エスビー食品株式会社 (sbfoods.co.jp)

 

實はどちらも左程美味いとは思わなかった。

 

神田カレーグランプリ|商品情報|S&B エスビー食品株式会社 (sbfoods.co.jp)

 

神田カレーグランプリ マンダラ ビーフマサラカレー お店の中辛|神田カレーグランプリ|S&B エスビー食品株式会社 (sbfoods.co.jp)

中でも此のビーフマサラカレーをまだ食って居らぬ故是非食ってみたい。

其れに曼荼羅と云う其の宗教色豊かな店名がまたわたくしにはピッタリではなからうか。

 

 

エチオピアという名のカリーライス専門店 ビーフカレー - レトルトカレーマニア (chabosuke.net)

東京のレトルトカレーで好きなのがコレだ。コレぞまさに壱級品であらう。

 

大阪・本町『白銀亭』 | S&Bカレー名鑑 | S&Bカレー.com (sbcurry.com)

大阪のレトルトカレーで好きなのがコレだ。コレぞまさに壱級品であらう。

 

 

だが我が是非食いたいのは地元瑞穂区産のビーフカレーである。レストラン シェ・コーベ | おうちグルメ (ouchigourmet.com)

店舗情報|Patisserie Chez KOBE|パテスリ シェ・コーべ|本格的なデセールの楽しめるフランス菓子店 (chezkobe-pati.jp)

 

其のシェ・コーベは元元高級志向の強い瑞穂区北東部の人人にとっても明らかに壱流店である。

何と其処で🍛のお持ち帰りが出来るのだと云う。

 

其の代わりに電話でもって予約して置かねばならない。

まあ其のやうなことはたやすいことながら實は今こんな高級店へ着て行く服が無いと来てる。

 

分厚い黑い皮のコートを冬の間僕は着て居るのだけれど其れはところどころ皮が破れたり色が剝げたりもして居るのでまさか其処へは着て行けないのである。

で、僕はジャケットが好きなのだが其れを干して置いたところ長い間干し過ぎて陽に灼け変色して仕舞ったのである。

 

よって昔の背広などを探してみたが何と其れも虫が食って居りまさか其処へは着て行けないのである。

さても困ったな。

 

 

尚、レトルトカレーは値段的に大きく幅がある。

 

然し五百円以上するものは考えものだと思う。

特に千円以上のものはレトルトカレーとしては認めたくは無い。

 

千円以上も出すのであれば🍛の専門店へ食いに行けば良いだけの話である。

但し其れもシェ・コーベのビーフカレーを除いての話である。

 

左様にシェ・コーベのビーフカレーを食うことだけが今の我にとっての夢の全てなのだ。

其れも余りにも現實的で且つ小さい夢なのだけれども…。

 

 

シェ・コーベのビーフカレーは東京や大阪の奴等にはまさか売って居ないことだらうな、はーはっはっはっはーのはー。

いや其れとも先の処で売って居たのかな。

あれ、発送もして居ました、どうも申し訳御座りませんでした。

 

そんな訳で我は🍛が大好きなので其のカレーを生み出す為の社會活動だけはごく素直に認めてもおる。

だからカレーを生み出せぬ社會にして居ては金輪際ならぬ。

 

其れに🍛を食えば多分コロナにもかからぬ筈だ。

第壱ココ壱番屋の野菜カレーの弐辛は結構辛くてもう参時間程前に食ったと云うのに今でも僕は汗だくとなって御座る。

 

 

其の體の燃焼によりおそらくコロナは死ぬることであらう。

故に🍛を食って元気に石を拾う、まさに其こそが今年の我が目標である。

 

だがコロナが悪いのでは無くおそらくは人間の認識の方こそが悪いのだらう。

人間の認識の方が悪くとも🍛だけはまるで悪くは無い。

 

またカレーパンなどもまるで悪くは無いのだ。

うーむ、今度はまたカレーパンも出て来たのか。

 

カレーパンの方はとりあえず凝っては居ませんのですが其のカレーパンが最高に美味いことだけは此の際是非認めさせて頂きます。

かって工学者が述べたところでの人間にとっての本質的な価値ー市川 惇信『暴走する科学技術文明』より読み解く人間にとっての本質的な価値ー

10.市川 惇信『暴走する科学技術文明』より読み解く人間にとっての本質的な価値

 

 

 

 

 

ひきこもり当事者たちが作った「人権宣言」って何? 七つの条文、社会の価値観変える一歩に (msn.com)

 

「『かごに乗る人 担ぐ人 そのまたわらじを作る人』ということわざがある。いいかげん、分をわきまえて諦めろ」ー以上よりー

左様人間には其其に役割がある。

其れもまた確かなことだ。

 

 結びの第7条・頼る権利は、こう記している。

〈自己責任論によって孤立し、ひきこもり状態を自分の力で抜け出せなくなった人は、人や社会に頼ることを否定されない〉ー以上よりー

社會批判や社會否定もまた様様な形やレヴェルがある。

但し自己否定的なものに陥らないことが大事なことではないかと個人的には思う。

自己へのプライドや信念を失う形での社會批判や社會否定は結局其の社會に負ける形での自己否定へと繋がらざるを得ないのだから。

 

例えば學者や藝術家また宗教家はどんなに異端だとされて居ても自己のプライドや信念に対しては至極忠實である。

學者や藝術家また宗教家がたとえ其の自己への信念の為に身を滅ぼさうとも其れは社會に負けたのでは無く単に己の力の至らなさに負けただけのことなのだ。

 

廿代の頃私は小学生と中学生の登校拒否児の家庭教師をして学校に復帰させた経験を持つ。

だが私自身がすでに其の頃より大きく社會に対し疑問を抱いて居たものだった。

其の大元にある疑問がまずは此の社會は欲望を煽り其れこそ『かごに乗る人 担ぐ人 そのまたわらじを作る人』なる内部規範にて全ての価値を成立させて居ることである。


逆に其の価値に対し疑問を抱けば抱く程に此の世は生きにくくもなって来やう。

然し其の自己の内部が欲するところでの御勉強を重ねるうちに、其れも参拾年、四拾年と其れを積み重ねるうちにむしろ世の中のことが須らく分かって来る。

 


さて其の社會が悪いこと、社會こそが暴走するものであることを理性の力にて捉えた著作が此の世には存在する。

其れ等が所謂文明の暴走を扱う著作群であり人類の社會的滅亡を論ずる本の数々だ。

元元我はひねくれて居るのか、まさに此の種の本が嫌いでは無い。

 

だが其れは其の種の著作が「内部規定」を離れ常に外側より文明を見詰めるものであるが故に基本的にさうした心のスタンスを取る我には至極読み易いからなのだ。

逆に言えばさうした心のスタンスを築き上げて居ない者に取り其れはむしろ害毒を振り撒く本なのでありまさに縁を持たない方が良い本となるのであらう。

 

其の例

1.『愚民文明の暴走』『愚民文明の暴走』(呉 智英,適菜 収)|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)

2.『暴走する文明』暴走する文明 「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ | NHK出版 (nhk-book.co.jp)

3.『暴走する科学技術文明』市川 惇信『暴走する科学技術文明――知識拡大競争は制御できるか』 (arsvi.com)

 

1.に就いて

まさに此れを今年になり再読して居る。ー参度目の読み返しとなるー

此の本の要諦は大衆社會批判=反知性主義への批判となる。

其の呉 智英と云う評論家がまさに愛知県ー名古屋ーを代表する知識人の壱人で件の東海高校から早稲田大學を出かっては學生運動などにも身を投じて居られた方である。

此の人は兎に角物知りでもってとても頭の良い方である。

 

つまりは自ら學ぶことを志す愛知県人にとってのまるで教祖様のやうな方だ。

其れと対談して居るのが壱種過激な哲學者であり作家であるかの適菜 収氏だ。

ちなみにどうでも良いことながら適菜 収氏は江戸前の高級な寿司を食うことに限りない喜びを感じて居られるやうだ。

 

呉智英 × 適菜収 【第1回】「バカが好む民主主義というイデオロギーについて」() | 現代ビジネス | 講談社(1/6) (ismedia.jp)

こちらにも此の本の要約となり得るやうなことが述べられて居るのだが要するに「バカ」が社會を駆動するに至った其の近代大衆社會のあり方其のものに対する根本的な批判が展開されて居る。

流石に其処は早大にて哲學を學ばれた適菜氏ならではの視点なのであらう。

尤も近代大衆社會其れ自體が社會をブチ壊す元凶だとの視点は今に始まったことでは無くむしろ古くよりある訳なのだが。

 

2.に就いて

以前此の本をまともに読んで居ないのにあえて取り上げ何かを書いて仕舞った覚えがある。

「本を読んで無いのに其れに就き書くバカ」とは實はわたくしのことなのだ。

だがかう本ばかりを毎日読んで居るとたまには読む前に其れに就き何かを言いたくなるものなのだ。

 

で、實は此の本をいまだ読めて居ない。

だからまた読んでみてから何かを語らうかとは思います。

 

3.に就いて

本日是非語りたいのはまさに此の著作のことだ。

實は今まさに此の著作と格闘中なのだ。

 

此の本は弐年程前にアマゾンで買った。

だが簡単に読める本では無い。

つまりは書いてあることの内容が高度でありまさに専門的ですらある。

なのでまだ半分位しか読めては居らぬ。

 

だが本が読み切れて居ないことを決して恥ずかしく思ってはならない。

何故なら我我壱般の學徒が學者より頭が悪いことは其れこそ当たり前のことなのだから。

兎に角本に挑む姿勢、其の難解なものに理性として挑んで行く姿勢こそが我我大衆に取り壱番大事なものなのだ。

 

まさに其れをやるのが眞の意味での知性的な生き方なのだ。

其れから逃げるのがつまりは馬鹿のことであらう。

 

僕はこんなにバカですぅ。

確かに君は馬鹿だ。

何故なら君は知的になどよもや生活出来て居ないからだ。

 

知的に生活するとはまさに脇目もふらずに御勉強に勤しむことだ。

しかも其れを何歳になってもやらねばならぬ。

たとえ八拾八歳でも其れをやり遂げなされ。

 

ああー、何やら足が痛いな。

だったら閉じ籠って読書に邁進せよ。

 

ああー、何やら腹が減ったな。

いやむしろ其の空腹こそが全き知を完成させやう。

其のひもじさを知の為のバネと化し壱日拾時間は本を読みなされ。

 

 

市川惇信 - Wikipedia

ところで此の方はてっきり社会學者さんなのかと思いましたらかうして工学者さんなのでした。

市川 惇信『暴走する科学技術文明――知識拡大競争は制御できるか』 (arsvi.com)よりまずは感銘を受けた点があります。

其れは終章「日本社会の選択」として纏められた部分です。

 

其処でまず市川先生は「日本社会は内部規範社会の行動様式に依拠して居る」ことを述べられて居る。

まさに其れは正しい指摘なのであらう。

要するに其れは内向きの社會であり社會としての価値基準を其の體制の枠組みの中でのみ完結させて居る社會なのではないか。

 

其の内部規範社會では、

1.科学技術との馴染が審判社会に比し悪い

2.社会的に先験的規範が無いので他の社会に対する主義、主張に欠ける

ーわたくしの纏めー

 

此のやうに日本社會の問題点が述べられて居るが此の本が出されたのは今から22年も前のことです。

故に私が指摘したいこととは当時よりすでに壱部の知性には語るべきことは見えて居たと云う事實なのです。

市川先生はさらに「日本社會は経験審判社會への移行を目標として設定すべき」だと述べて居られる。

 

また其の理由が三つあるともされ、

壱 科学技術文明の知拡競争による特定の国や企業による知の独占を阻止する為により高い見地に立ち人類に対し健康で平和的且つ知的刺激に満ちた知の文明を齎すリーダーたらんと欲すること。また行動様式、経済活動に於いても同様で経験審判社会への移行を目標として設定すべきーわたくしの纏めー

弐 社会全体として共通な経験規範として内部規範を定めること(其の社会の移行に伴い発生した対立は審判により裁定して行くべき)ーわたくしの纏めー

参 世界全体として今後世界は経験規範としての統合原理に以降して行かざるを得ないのでむしろ其れを先取りし世界に範を示すべきーわたくしの纏めー

 

そも日本は何故「顔」を持たず「主張や個性に欠ける」社會を戦後築き上げて来たのか?

其れは内部規範原理の下で主張すべき正義が無くまた対立の回避にばかり努め、さらに「利益」を社會の統合の手段と為して来たからなのだ。

つまりは審判規範としての理念などは何処にも無いこととなる。

 

尚此のことは文學者としての三島 由紀夫先生が日本社會に対し危惧されて居たことにも連なることだらう。

戦後日本は主義主張による公正さや正義を失い「利益」つまりは資本主義による高度成長による金集めばかりを追い求め要するに「豊かになれば國は榮える」とさう目論んで来て居た。

 

ですが其の「利益」程不確かなものはまたありません。

事實金融経済の破綻や新興國の経済的発展また今回の疫病の蔓延などによりむしろ其の経済的優位性は容易に崩れ去って行くものです。

 

対して市川先生は日本社會が取り得る意義の大きい正義の形として「知的独占の排除」であり「非核三原則」などの価値を挙げられて居る。

また日本の科学界の統合原理もまた経験審判原理に変えて行かねばならぬことを以降具體的にこと細かく述べて居られる。

 

しかしながらわたくしが感銘を受けましたのはむしろ其の部分では無く其の後に書かれた3.社会全体として、と云う部分なのです。

其処でまず述べられて居るのがまずは経験的形式規範としての哲學の復権である。

其れも工学者である先生が何故そんなもはや死んだも同然のやうな人文科学の領域を持ち出されて居るのであらうか。

 

1.利益の追求のみでは科学技術文明と云うー抽象的ー進化システムの爆発ー暴走ーを阻止することが出来ない。よって経済システムと共に共進化する科学技術の爆発を回避する為にはむしろ人の生き方に関する何らかの目的が必要であり其の目的を考えることこそが即ち目的を其処に見出して行くものこそが宗教と哲學の役割である。ーわたくしの纏めー

2.多文化社会である世界を平和と安泰のうちに維持して行く為には世界に通じる人の生きる目的が必要であり其れを實現に導き世界に対し社会的に貢献する為には日本社会其のものが何らかの宗教か哲學を持つ必要がある。ーわたくしの纏めー

 

何て筋の通った、まさに仰る通りでの指摘なのであらう。

今から廿弐年も前に其の工学者の市川先生はむしろ宗教か哲學こそが大事だとさう日本社會に対し真摯な提言を為されて居たのであった。

 

だが其の提言を心より聞いて居た人が果たして何人居たのであらう?

『暴走する科学技術文明―知識拡大競争は制御できるか』|感想・レビュー - 読書メーター (bookmeter.com)

ぎゃーーん、むしろ誰も読んでは居らなんだのだった。

 

其れも当たり前で、バカは壱般に小難しいことの書いてある本を生理的に嫌うものと相場が決まっておる。

つまり世の中に馬鹿が蔓延するに及び観念的に樂な方へと走り要するにもう難しい本などはまさか読みたくは無い。

かうして読むのはマンガでやるのはゲームばかりだ。

 

しかもエロいことばかりを考えアノ戦前戦後の純文學の苦しさなどはまるで他世界での出来事のやうだ。

要するにもはやみんながパッパラパーなのか?

要するにすでにみんなはパッパラパーなのだ。

 

ではまずはお前が其処に何ぞ書き込んでみてはどうなのだ?

いや僕は僕で色々と他に予定が御座りましてそんなところへ出て行くのは恥ずかしいと申すか何と申すか兎に角気乗りがまるで致しません。

 

では聞くがさても宗教か哲學こそが何故大事なのだ?

宗教や哲學はまさに抽象的に人間の存在意義を問い糺して行くものだ。

 

まさに其のことこそが人間存在としての本質的意義を問うことに重なる。

人間存在としての本質的意義は功利主義や現世利益主義などからはまさか問われることが無い。

だが本質的価値とは常にさうした利害関係の絡まぬ世界でのものなのだ。

 

要するに金でも無く今日食う食い物のことでも無い、また綺麗に見える姉ちゃんの魅力や石だの万年筆だのさうした美的な物質的価値を離れた人間の精神的な価値其のもののことなのだ。

じゃあ其の宗教と哲學にむしろ狂いまくってるお前は世間の馬鹿共とは違い物凄く偉い人だとさう言いたいのだな?

 

いや其れはあくまで僕が偉いのでは無く宗教や哲學こそが偉いのだ。

よって文明の存続の意義を問うこととは宗教的なまた哲學的な領域でのみ完遂される抽象的価値である他は無い。

 

科学はさうして技術は其れ自體で其の種の人間の生の目的、其の存在意義を問うことが出来ぬ。

其れは功利主義ー現世利益主義ーが本質的要件を規定し得ぬこととまるで同じことなのだ。

 

だがわたくしの場合は其の知恵の世界だけを重視して居るのでは無い。

言うまでも無くわたくしの場合は智恵と現象を等価に捉え同時に其処に遊んで居る訳だ。

 

まるで仙境ですね…。

もはやスッカリ仙境でせうね。

 

但し物質的に流されぬ為には大きな欲を捨てねばならぬので無論のこと其処には強靭な知性の力が要る訳です。

で、僕はかうして學問の世界でもって正しい意見なり主張なりを発見することこそがむしろ壱番樂しい。

まさに其れが酒を飲んだり姉ちゃんの尻を触ったりすることよりも純粋に樂しい。

 

うーむ、アンタの學的な意味でのカルト度も流石に年季が入りもはやほとんどイッちゃってますよね。

さうしてイッちゃって居ながらまだまだイクのですか?

 

勿論まだまだイクのであります。

學のゲージツ家は何処までもさうしてイクのです。

兎に角かうして世には良書の類が満ち溢れて居りませう。

其れを全部読み己が血肉と化して行かねばなりません。

 

學のゲージツ家?何ですか、其れは?

其れは僕が今心理的に入り込んだ世界のことをさう形容して居るのです。

僕はさうして學の壱ゲージツ家として此の今を生きて居るのです!

 

ハイハイ、分かりました。

アナタは偉い、おお!世にも稀なる眞面目な人だ。

 

さうですか?其のことがヤッパリ伝わった?

うーん。何だかとっても嬉しいなあ。

そんな訳で市川先生のお蔭で何だかとても幸せな気分を味わって居ります今日の僕です。

認識論の上での現代文明のリスクに就いてーみんなでもって渡る赤信号のリスクとは?ー

9.みんなでもって渡る赤信号のリスクとは?

 

 

 

 

前澤友作氏 死ぬまでにやりたいこと「地球上からお金をなくしたい」ワケ (msn.com)

全く仰る通りで、其のあくまで抽象的に規定される価値其れ自體が生じさせる矛盾にて諸の破壊が促進されて行く訳です。

故に最終的には社會的価値と云うこと其れ自體がむしろ矛盾を最大限に加速させて行くことだらう危険極まりない価値とならざるを得ない。

よって其処からはむしろ努めて距離を取るべきです。

 

ところが壱般的な認識に於いてはむしろ其れとは別に社會の価値観こそが大事であるとさう捉えられて居る。

従ってまさに其れこそが精神の自立性が失われた状態即ち洗脳され切った状況でもある訳だ。

 

社會がどんな状態であれ大衆的思考ー凡夫による価値判断ーとは常にそんなものです。

謂わば其れが🐵山のボス🐵には従わねばならぬとさう本能的に規定するところでのお🐒サン並の思考なのだ。

 

 

ですが僕に限りそんなケモノで居ることにはガマンがならない。

何故なら僕はかうして文人なのだしどうしてもみんなとは違う。

 

兎に角僕はそんなケモノじゃ無い。

そんな本能モロダシには絶対になりたくない。

 

ところがもはやみんなはむしろ自分等の方こそが高級な人間でありあんな自己中心詩人こそがウソ野郎だとさう思って居るのです。

 

でも其れでも良いのですかねえ?

其れではイケナイのではないですかねえ。

 

 

さて本日久し振りにサンデーモーニングを視て居たところ寺島 実郎 - Wikipedia氏が現状で社會又は人間に危機感が薄いこと其れ自體が問題だとの鋭い意見を展開されて居ましたがまさに其の通りでせう。

此の方が矢張り早稲田大を出て居られ常に筋の通ったことを述べられる非常に頭の良い方なのだと拝察致します。

 

ぢちらかと申せばわたくしもまた現代社會が抱えるリスクの最大のものは其の大衆社會が生み出す本能モロダシでの反知性主義の部分にこそあるとさう考えて来て居ります。

故にこそかうして其の大衆の意識改革の壱環としての認識上の転換を訴え其れを實行すべくかうして書き綴って来て居る訳だ。

 

また生命學者の中村 圭子氏がリアルな世界と架空の世界との間に横たわるケジメの無さのやうなものに就き述べられて居り此の部分もまた大いに参考となりました。中村桂子プロフィール | JT生命誌研究館 (brh.co.jp)

まさに謂わば其れが具象的に齎される価値と抽象的に規定される価値との齟齬であり剥離の問題なのやもしれません。

 

 

以前にも申しましたが人間は世界を抽象的に見詰めることの出来る唯壱の現象です。

まさに其の能力こそが🐵などとは違う知性的価値なのです。

 

ですが其の知性的価値には正と負の側面が必然として生ずる。

また具象的自然的な価値の方にもまた正と負の側面が必然として生ずる。

 

ところが具象的自然的な価値の方では其の負の価値即ちリスク其れ自體が自然界の内側でのリスクであるに他ならない。

だが人間界でのリスクは元元自然と対立したものであるより他は無い。

 

何故かと申せば其れは人間の欲望はたとえ其れが正当なものであれ抽象的に構築される社會システムに従う限り其れが無制限なものー自然と云う限界を超えるものーと成らざるを得ないからなのだ。

つまりは其の抽象性其れ自體ー人間の大脳新皮質が可能ならしめた進歩と発展と云う抽象的価値ーにより逆に具象性ー自然が齎す現象ーは破壊されて行かざるを得ない。

 

ですので文明が進めば進む程につまりは此の歴史過程が過ぎ去れば過ぎ去る程に其の抽象性の齎す自己矛盾はより増幅され最終的には全的破壊を生じ文明は自滅に至りませう。

其れを具体的に申せば、

 

1.環境破壊=物理的な人為的破壊

2.ー核ー戦争=抽象的な人為的破壊

3.人類の阿呆化、馬鹿化=精神の人為的破壊

 

の参点に絞ることが出来る。

 

 

ところが今まさに此の参要件が共に危ない段階へと進みつつあることを知る者はおそらくは全人類の壱割にも満たぬことでせう。

 

でもって1.及び2.は結局社會ー文明ーが仕出かすことですので我我個は究極的には何も出来ないこととなる。

故に3.の人類の阿呆化、馬鹿化つまりは精神の崩壊を何とか食い止めませうと云うのがまさにわたくしの論理であり提言の内容です。

 

また要するに其れが人類にとっての認識論的な転換を迫られて居ると云うまさに其の切迫した状況なのだ。

 

 

但しむしろ此処から私の言うことを良く聞いて下され。

確かにかうしてわたくしはたった今世界が危ないことをかうして声高に叫んで居ります。

 

でも其れは社會のあり方が悪いからさうなって居ることに過ぎません。

では常に其れにかかりきり悩んで居る必要があるのでせうか?

 

實はむしろ其れは其の必要の無いことです。

何故なら其れはあくまで社會が悪いが為のことなのであり我我自身が悪いのでは無いのだから。

 

でも人間はあくまで社會的動物です。

ですので其の社會と完全に縁を切り生きて行く訳には行かぬ。

 

 

まあ尤も其れは田舎の壱軒家の生活者や仙人画家や隠棲詩人などにはある程度可能なのやもしれない。

ですが其れはまさに夢みたいなことであるに過ぎません。

 

我我はさうしてむしろ社會的に規定されざるを得ないまさに🐜の如き現象である。

なのだが我我は🐜である前にまた🐒である前に人間である。

 

人間とは何かと申せば其れは「考える現象」のことだ。

其の考える能力だけがむしろ突出した現象である。

 

 

其れが何で🐜の群れになどなって居ますか?

何でまた🐵の群れになどなって居ますか?

 

アンタら其れでも人間の積もりなのかい?

アンタら其れでもちゃんとした理性の持ち主なのかい?

 

だから其の理性と云うものはまさに僕が此処にて示して居るやうな其の御勉強に対する態度、其の學びへの不屈の闘志其のもののことですよ。

つまりはさうして何度倒されても立ち上がるまるで「明日のジョー」の如き闘魂のことだ。

 

或は「巨人の★」の★飛雄馬の如き不屈の闘志のことだ。

 

イキナリまたそんなアニメの話になど振って仕舞って良いのですか?

其れも眞面目な文明の御話でせう?

 

いやだから其処は至極眞面目なのだ、僕自身はかうしてもうぶっ倒れさうになる程兎に角眞面目だ。

 

 

むしろ不眞面目なのは君等の方だ。

君等は「社會は偉い」と常にさう信じ込んで居やう。

 

だからまずは其れが間違いだ。

 

故にまずは利口になる為に認識上の価値転換を為して行かねばならぬ。

なので其の社會より与えられて居るであらう価値を須らく疑わねばならぬ。

 

もしや其れが眞の意味での「考える」と云うことなのですか?

さうだ、「考える」と云うことはそも疑うことで、疑うことこそが其の「考える」ことだ。

 

 

するともはや現代人に其の自立的な思考其のものが欠けて居るとさう仰るので?

さうだ、自立的な思考其のものが欠けて居るのでさうして社會の出来事に壱喜壱憂し振り回されておる。

 

其の洗脳状態から★ 飛雄馬かまた矢吹 丈の如き根性にて其れを解き其れこそ自分の考えでもって立ち上がれとさう言って居るのですね?

…良くぞ我が言わんとするところを理解したな。

 

つまりは3.の状態からは早う脱せよとさう述べて居るのである。

さすれば己自身の価値観を其処に築くことが出来其の地点より社會現象を包括的に捉えられるやうにもならう。

 

 

其れが出来るやうになればむしろシメたものよ。

つまりは其処にこそ我我にとっての認識上の転換が図られるのだ。

 

うーん、でも何だか抽象的な御話ですね。

だから何度も言って居るやうにまさに其の抽象的な能力を持て余すが故に人類ー文明ーは次第に苦境へと陥って行く訳だ。

 

其の抽象的に齎される苦境を打開するには弐つの方法しか無いこととならう。

 

1.抽象に抽象を重ね自己矛盾を圧し切る=より人間らしく解決を図る

2.自己矛盾する抽象性其れ自體を放逐する=人間であることを辞める

 

 

わたくしが述べて居るのはあくまで其の1.のやり方の方である。

対して2.のやり方の方こそがお釈迦様やキリスト様が説かれて居たことの方である。

 

 

さうして其の自立的な思考能力を確立することこそが1.での解決法のことである。

より具體的には、

 

a.科学技術の進歩をさらに加速させ社會的に社會的自己矛盾領域を圧し切る

b.人文、社會科学の知を総動員し個として社會的自己矛盾領域を圧し切る

 

となるであらう。

 

無論のこと自然科学の立場はa.であり対するわたくしの立場はb.である

また言うまでも無くb.の立場とは認識論上の転換を自律的に行うと云うことだ。

 

a.の場合は文明の継続の為のより抜本的な対策であるが成功の可能性は今ですら五拾パーセント以下である。

其れが拾年経過すれば四拾パーセント、弐拾年経てば参拾パーセント位と次第次第に落ちて来やう。

 

大體半世紀後で可能性は零つまりは文明の全的崩壊へと至ることであらう。

 

 

b.の場合むしろ文明の継続は前提としないまさに知的な意味でのカタストロフィの乗り切り方のことだ。

つまりは「社會は治しやうが無いので其れを自分で見切り自分の知を完成させるべく生きて行く」為の認識の仕方のことである。

 

「たとえ社會が滅ぼうがどうしやうが認識としての我が道を行く」

 

とのことである。

なのでコチラの方では必然的に御勉強が中心の生き方となる。

 

従ってまずは本代がかさみさらに独善的になり易いので融通が利かずで結局社會からは見放されやう。

だが場合により其処には作家や大學教授となる可能性が常に残されることであらう。

 

が、コノ道こそが例えば宗教に入り全財産をお布施したりすること無く至極理性的に生きて行かれるほとんど唯壱の道なのだ。

だが無論のこと其処には知の∞地獄へと堕ちる可能性が無いでも無い。

 

其の場合はヒラリと身をかわしむしろ宗教へと救いを求めて行くべきことだらう。

まさにわたくし自身の精神的スタンスがさうしたところにこそある訳だ。

 

 

要するにa.の状況を壱種冷ややかに眺めつつb.の方向性をこそ突き進めて行くのである。

其れがやれて居れば、其の3.人類の阿呆化、馬鹿化=精神の破壊からは逃れられやうから今度また生まれなおす時には🐵や🐜にはならずに済む可能性さえもが高くあらう。

 

なる程、まさに其れがアナタのリスク管理だと云うことなのですね?

まさにさうなのだ、だから僕にとって文明が生じさせて居る大リスクの数数などむしろ屁でも無いのだ。

 

逆に苦しいのは「人類の阿呆化、馬鹿化=精神の破壊」の體制其のものに自身が組み込まれて仕舞うことなのだから。

以上にてわたくし自身が考えるところでのリスク管理としての認識上の立場に就き述べさせて頂きました。

 

 

さて昨日我はかかりつけのクリニックへ行きましたが今はお医者さん方も大変で私が診察を待つ間にもコロナ感染の疑いのある患者が来て其の人はクリニックの駐車場に造られたビニール貼りの救急診察室に入るのですが先生ー中学の先輩ーもまた完全防備の姿に変わり其の都度診察を行う訳です。

其の後スーパーへも行き「スペースアポロ」を早速買い占めて来たのだったがスーパーへ行くと兎に角体調が悪くなります。

 

そんな折に効くのはマスク内にアルコールでベトベトにしたキッチンペーパーを仕込み壱時間程其の侭で呼吸して居ることです。

さらに柑橘類も良いやうで、わたくしの場合は檸檬を丸ごと水や炭酸水に浸け込み其れを常に飲んで居ります。

 

其の檸檬水を飲みつつ「スペースアポロ」を食ってみたら其れがまた異常に美味かったものです。

 

さうした具體的な話とはまた別に現代文明に今突き付けられて居ることが抽象的にもありまさに其れが個としての認識上の転換であらうとわたくしは考えます。

初めに述べましたやうに「抽象的に規定される価値其れ自體が生じさせる矛盾にて諸の破壊が促進されて行く」状況とは結局認識上の問題であるとしか申せません。

 

 

ですので壱見具象的被害其のものであるやうに見えるコロナ禍であるにせよまさに本質的には其の認識上の狂いが引き金となり引き起こされて居るものと見て置くべきだらう。

まさに其れが行き過ぎた資本の論理の蔓延でありまさに社會的な価値の洗脳なのではなからうか。

 

其の社會的洗脳とは要らないものばかりをむしろ最大限に追い求めて行かうとする誤った進歩思想による社會の破壊であり人間の破壊のことです。

其の社會の破壊であり人間の破壊をたった今も押し進めて行くであらう理性的誤謬に対する宣戦布告としてわたくしはかうして己が認識を語り続けて行く他は無い。

 

まさに其れがわたくしにとっての理性的闘争其のものなのだ。

其れも人文、社會科学の知を総動員した上での個としての理性的闘争です。

 

ですが我が肉體がもしもコロナにやられればまた其れも成り立たたなくなる訳ですのでかうして檸檬水を飲み「スペースアポロ」を食いつつ闘うのですが實はあくまで社會に対し観念的に闘って居るのです、其れもわたくしの場合はどうしてもさうなる。

 

文明の倒錯度は今最大限に加速されより罪深いものとなりつつある。

そんな認識論の上で大きくリスクを抱える文明を扱うのは此の世でもって最も辛いことなのやもしれません。

認識上の四方山話ー1.フジパンの「スペースアポロ」とでん六のピーナッツチョコをどう認識するかー

8.フジパンの「スペースアポロ」とでん六のピーナッツチョコをどう認識するか

 

 

 

 

さても今の六拾代の人人がおバカなところは其れ即ち頭の中がどうしてもマンガチックなことでせう。

其れもいまだ子供心が抜け切って居らずいまだにウルトラマンだの怪獣だのが大好きなところでせう。

 

其れはわたくしのやうな知性派でもまた同じやうなことでいや知性派だからこそ余計に現實逃避を重ねて来ても居り要するに其の現實逃避の世界の方がむしろ現實世界より上に位置して居るのです。

個人的には其のことは所謂団塊の世代の後の世代即ち我我六拾代から始まって居ることだらうと思う。

 

問題は其の六拾代がまさに御爺ちゃん、御婆ちゃんとなりつつあることで、實際其の六拾代の人人には孫が何人も居たりもする訳だ。

ですがわたくしに限り其れは可成に気持ちの悪い現象に見えるのです。

 

何故なら其の妄想的現實を生きる六拾代の人人の孫とは壱體どんな化け物となって居るのだらうか。

 

さて本日は簡単に面白い話を述べて置きます。

ちなみに僕は難しい話をするのが得意ですが實は面白い話の方により興味があるのです。

 

かうしてまるで子供のやうに好奇心が旺盛で幾つになっても大人の枠の中には嵌り切らないタイプですので。ー其れは頭の中が如何にもマンガチックなバカであると云うことに等しいー

 

 

 

"幻"!?のパンが期間限定で復活!その名も「スペースアポロ」!|お知らせ|フジパン (fujipan.co.jp)

フジパン ウルトラマンコラボシリーズ (fujipan.co.jp)

 

さて久々での食い物の話題ですが昨日コノミヤでこんなものを買って来ました。

で、此の「スペースアポロ」なる菓子パンに勿論わたくしの目は釘付けとなった。

 

我は物質のコレクターでもまたあり美しいものや変わった価値のあるものに非常に鋭敏な嗅覚を有して居る。

其れが何と「スペースアポロ」なのですぞ!スペースアポロ、定番のレギュラー商品へ!全国で販売 (tabetainjya.com)

 

さて家へ帰りうがいをしさらに食料品を冷蔵庫に仕舞ってから我はまず此の「スペースアポロ」を食ってみた。

 

ジャリジャリ。

實は此のスポンジ状の菓子パンを食うとそんな音までもがするのです。

 

さて其れは何故か?

生地と生地の間にはさんであるバタークリームにザラメがまぶしてあるからなのだ。

 

 

尚、其のバタークリームですが我我が小学生だった昭和四十年代前半ー1965~1970年ー頃にはむしろ此のバタークリームが菓子の主流だったのです。

其れが其れ以降は生クリームばかりとなり逆にバタークリームは貧乏臭い菓子にのみ使われることとなって行った。

 

なのですが、最近我は其のバタークリームを使った菓子の方が美味くも感ぜられるのだ。

要するにかうして還暦を過ぎ次第にまた小学生へと感覚や嗜好が戻って行くかのやうだ。

 

其の「スペースアポロ」は我にとりまさにウルトラマン級に美味い菓子パンでした。

 

確かに今年になって明らかに壱番美味い物質であった。有吉さん思い出のパン「スペースアポロ」をやっと食べてみました! | ダメもとブログ (damemot.com)

尚コレにはイチゴクリーム・ヴァージョンがあるやうで其れを何とか探し出し是非食ってみたいところです。

 

 

かうして僕の場合は所詮物質マニアですので解脱なんぞが出来る筈もありません。

どだい僕が目指して居るのはあくまで観念的放棄であり物質的放棄などでは無いのです。

 

逆に申せば観念的に社會及び社會関係での価値観から距離を取りむしろ物質界でもって遊び回ることこそがむしろわたくしの望むところなのだ。

だからかうしたものを見つけ其れを堪能致しますとまさに我は幸せ♡であることを實感させられる。

 

 

此処で少し難しいことを申しますと味覚などもまた時や場所の記憶に大きく影響を受ける相対的感覚でありよって必ずしも壱流ホテルでのフルコースの料理が美味く感じられる訳では無い。

特に我の如き還暦少年としての馬鹿に取り其れがむしろサイコーに美味かったと云う御話です。

 

仕舞った!

「スペースアポロ」を買い占めて来ることをつい忘れて仕舞って居た。

早速今日買い占めて来ることとしてみやう。

 

尚其のフジパンの本社は家から自転車で拾分のところにある。

パン🏭もまた其の本社のすぐ近くにある。

 

また其のフジパンの本社の北隣の家が我が知り合いの💎の行商人の家となります。

 

 

さて以前「牛乳パン」のことに就いて以前に此処でも書いて居ます。

【パンまとめ】信州といえば「牛乳パン」パスコ&ヤマザキが作ったパンをまとめたぞ【2020年2月更新】 - 珈琲とけだま (kedamatoriko.com)

 

「牛乳パン」は長野の御当地パンですが其の「牛乳パン」を模した菓子パンが都市部では売られて居ります。

其れでもって其の「牛乳パン」を模した菓子パンも概ね美味いものが多い。

 

要するに其れはシンプルなものの美味さと云うことに繋がることかと思う。

「スペースアポロ」もまたさうなのだが要するに其れは昔風の菓子パンです。

 

対して今ではまさに様々なメーカーが様々に趣向を凝らし沢山の菓子パンを出して来て居る訳だ。

 

ですが其れ等よりもかうして田舎の駄菓子や「牛乳パン」や「スペースアポロ」の方がより美味しく感じられることもままある訳だ。

要するに味覚や嗅覚と云った人間の原始的な感覚は所謂技術、技巧的進歩だけでは納得され得ない部分をまた持って居る。

 

また其れは筆記具や他のアナログ的な道具に於いても成り立つ現象なのだらう。

其の進歩により優位性を保つのは所謂デジタル物だけに於いてのことなのだらう。

 

ちなみに僕は其のデジタル物には元元弱くて其れ以前に機械物にも至極弱いのですがね。

 

 

他方で御買い物や御料理などがまるで苦にはなりません、いやむしろかうして樂しくもある。

但し其れ等の家事にかかりきりとなると本を読み御勉強する時間が無くなりますので其れもまた我慢がならぬことなのだが。

 

いずれにせよ現代の良いところが其の感覚的充足に於いて多様でありまさに個として何でも選んで行けることでせう。

 

左様に過去を見詰めると云うか地方の価値を再発見すると云うかそんな意味では其れが選べるだけむしろ文明は豊かであると言えるのやもしれぬ。

但し其れもまさに薄氷を踏むが如くに危うい均衡の上に成り立つであらう文明のあり方なのです。

 

「牛乳パン」=地方の価値の象徴としての、や「スペースアポロ」=古き良き価値としての、は都市文明壱極集中での価値ヒエラルキーに対しものも言わずに明らかに疑問を投げかけて居る。

つまりは其処に組み込まれずとも良いものは確かにありますと云った御話でした。

 

 

ピーナッツチョコ(ブロック) | 商品 | でん六 (denroku.co.jp)

コノミヤでは先日コレも見つけ其れを買い求め家で母と壱緒に食いましたところ其れがまた素晴らしく田舎臭いピーナッツチョコで其の垢抜けない味自體がむしろサイコーに美味かったのです。

つまりは山形産の御当地チョコレートなので御座ります。

 

何と申しますかもうなかなか壱言では言い表せぬ其のものズバリのストレートな落花生入りのチョコレートです。

 

ですので、東京の産物は矢張り東京の味がしまた大阪の飯は大阪の味が必ずや致しますものです。

名古屋もまた個性の点ではむしろ日本壱の食文化圏なのやもしれません、特に今御勧め致しますのがかの味噌煮込みうどんです。味噌煮込みうどん 愛知県 | うちの郷土料理:農林水産省 (maff.go.jp)

 

けれどもこのピーナッツチョコはまさに山形の味が致しました。

しかも安くてしかも量もあったのです。

 

ですのでさうした地方性と云うものこそが本当はより大事です。

ですが美味いものは都市部に集中することなどもまた確かなことだ。

 

だがあくまでわたくしの場合は此の山形産の御当地チョコレートの方がかうして舌に合うのです。

尤もたまたま其の日に売られて居ただけのことでよってネットにて纏めて買って置く方が話が早さうなのだが。

 

其れと半月位前にTVでケンミンショーの特集番組をやって居り其れを視て居りましたところ東京には「かにすき」が無いことを知り愕然と致しました。

 

 

大阪には近いからなのか此処名古屋でも壱番の御馳走と言えば握り寿司などよりもむしろ「かにすき」や「ふぐ」料理です。

但し寿司は江戸前寿司と押し寿司の両方がありまた饂飩のつゆなども関東風と関西風の両方がある。

 

また其の上に所謂名古屋メシがある訳なのでして要するに其処ではどんなものでも選べる訳だ。

但したこ焼きは普通に昔からあるので元元関西の食文化とは縁が深いのやもしれません。

 

ちなみに今壱番私がしたいのはアノ宮きしめん熱田神宮へ食いに行くことだ。

名古屋めし、名古屋グルメは名古屋名物の宮きしめん (miyakishimen.co.jp)

 

きしめんは元元さう上品な食い物でも無いので屋外で食った方がより美味いものです。宮きしめん 神宮店|熱田神宮の名古屋めし、名古屋グルメは宮きしめん (miyakishimen.co.jp)

それも今のやうにクソ寒い日に行けば客も少なくよりゆったりときしめんを味わえると云うものだ。

 

「かにすき」や「ふぐ」料理はグルメ=食い倒れとしての価値観に基づくものなのだらうが名古屋の場合はもう少し庶民的で地方色の強いものです。

 

其の地方色の強いものの方が今の私には味の独自性として感じられ好みであると云うことです。

さて毎年正月には富山のぶりの寿司ぶりのすし « ますのすし本舗 源 (minamoto.co.jp)を買いに行くのですが今年はまだ其れをやれて居ません。

 

其れがやれて居ないと云うことこそが高級ディナーを食うことなどよりも我に取りずっと気になって居ることだ。

 

 

「味覚などもまた時や場所の記憶に大きく影響を受ける相対的感覚でありよって必ずしも壱流ホテルでのフルコースの料理が美味く感じられる訳では無い。」

 

よって相対的感覚でしかあり得ないものを権威化などする必要は無くむしろ自分が美味いと判断するものをまた此の価格なら値打ちだとさう判断するものを個人的には選ぶことにして来て居る。

 

かってはもう少し食の高級志向だったのですが其の高級さには意外と根拠が無いことに気付き現在はかうして安くて美味い郷土の味のやうなものをむしろ追求して行きたいと思う今日此の頃です。

むしろ非常識なお釈迦様の教えー『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?1ー

7.『1日1話 マンガでわかるブッダの教え』より學ぶ聖なる認識とは?1

 

 

 

 

さてかう毎回悲観主義哲學では飽きも来ませうから他の本からも學んで行くことと致してみやう。

尤も僕に限りまるで飽きては居りませんのですが…。

 

で、現在此のやうにして眞理に関する認識論を展開中ですが春からはーおそらくは新学期となる頃からー此処を生まれ変わらせる積もりで居ります。

其れ即ちいま少し内容的に普遍性即ち永遠性を持たせたものにしたいとさう目論んで居ります。

普遍化する為には壱般的な視点も盛り込む必要がまたある。

 

要するにもっと幅広く話題を捉えしかも独特にテーマが高尚なところは失わずにイケたらとさう思いますのです。

 

ですがあくまで其れは先のことですので今は今やるべきことをやらせて頂きます。

 

其れを一言で申せば認識上の転換のことです。

 

 

さて其の認識上の転換はかって西洋哲學に於いてまずはカントが、さうしてショーペンハウアーが成し遂げたものであるとわたくしは見て居ります。

中でもショーペンハウアーが成し遂げた認識上の転換とは西洋思想に東洋思想である佛法の観点を盛り込んだところにこそある。

 

ショーペンハウアーは盲目的なる表象としての意志ーつまりは本能ーを理性的に克服し最終的には其れを否定し完全なる心の平衝即ち理性的勝利を勝ち取ろうとしたのではなかったか。

わたくし自身の解釈では其れは佛陀による解脱思想とまさに近しいものですが其れ自體では無い。

 

ショーペンハウアーが目指したのはあくまで理性的平衝であり解脱其のものでは無いと云うのがあくまで私の解釈です。

故にカントやショーペンハウアーは解脱し佛になったのでは無くおそらくは哲學の苑にでも生まれ変わり其処にてあーだかうだと今でも日日論じ合って居る筈です。

 

いやーしかし其処ではカントとショーペンハウアーがさうして顔を突き合わせ壱體何を論じて居るのでせうか?

しかしながらまあ其れは凡人には分からぬ内容のことばかりなのだらう。

 

 

さて其の認識論としての転換は何も西洋哲學、また希臘哲學ープラトーンによるーに限ったことでは無く東洋でも深く且つ長く目指されて来たことです。

黄河文明の方ではかの老荘思想が其れを担いインダス文明の方ではウパニシャッド - Wikipedia並びにバラモン教 - Wikipediaに代表される解脱思想が其の任を担って来たことだらう。

 

つまるところ印度では古くから其の解脱の實践こそが人間にとっての最高位の価値として認識されて居た訳だ。

此処からしてもまずは此の現世利益を只ひたすらに追い求める現代文明に於ける価値観とは大きな隔たりがあることが其処に了解されやう。

 

でもって此の現代日本でもって其れこそ裸になり「解脱しやう!」などと街中を歩き回れば其れは即逮捕され逆にキチガイと云うことにされて仕舞いませう。

まあでも少しは其れもやってみたくも思いますのですが…。

 

お釈迦様の解脱思想もまた其のやうな文化的背景の中より生まれたものであり完全にオリジナルとしてのものなのでは無い。

だからお釈迦様がさうして國を捨て修行の世界に入られ森の中で裸になり「解脱しやう!」などと叫ばれたのだとしても其れは当時の印度では至極当たり前のことでむしろ尊敬されるべきことだったのだ。

 

だから時代と土地が変わればまた価値観の方も大きく変わると言わざるを得ません。

人間の価値観とは左様に抽象的に齎されるものであると同時に具象的な場や時の記憶を含んで居るものだ。

 

 

ところでお釈迦様は当時其の印度の解脱思想に反旗を翻した新宗教としての教祖様でした。

まさに其処では解脱思想其のものを説かれたのでは無く「そんなことをして居るやうでは何時まで経っても解脱は出来ぬ」とさう説かれ謂わば本気での解脱への道を模索された方だったのです。

 

さてもキリスト様などもまたさうなのですがさうしてむしろ滅茶苦茶に当時の思想的體制を批判なさる訳です。

宗教では屡「穏やかに丸い心で」だとか「愛」であるだとか「眞面目さ」であるとかまた日日是無事が大事である、などとも言われて居りますが實は其の本質はそんなものではまるで無い。

 

 

宗教の本質とはむしろ闘いです。

其れも外側での認識上の間違いと内側での認識上の間違いに対する永遠の闘争なのでせう。

 

だから眞理に対し間違って居るのであればまずは其の間違いを正して行かねばなりません。

 

さうだ、間違ってる。

さうか、では地下鉄でもってサリンでも撒くか。

 

核弾頭を造り日本の大都市の全てにミサイルにて発射してやらう。

 

 

ですから其のやり方自體が誤りなのだ。

正しくは批判をせねばならない。

 

何度も申して居るやうに理性とは批判であり批判とは理性です。

 

其の批判にもカントやショーペンハウアーの如き哲學としての批判やお釈迦様やキリスト様の如き教義、教學の上での批判の違いがまたありませう。

ですが共に其れは理性的態度から生まれるものであることを皆様は今此処でしかと學んで置かねばなりません。

 

 

他方で學問や宗教はむしろ必要無いと考えて居られる天才級の知性の方方もまた居られるのやもしれぬ。

まさに其れは眞理レヴェルではさうなのやもしれぬのだが天才以下の知性に取り必要なのは常に學問であり宗教であると逆に僕は考える。

 

では早速以下より其のお釈迦様による認識上の転換として説かれた言葉に就き解説して行きたいと思う。

 

 

テキストはコレであり難しい御経でも何でもありません。1日1話 マンガでわかるブッダの教え│宝島社の公式WEBサイト 宝島チャンネル (tkj.jp)

 

尚昨年の元日より参日に亘りわたくしは名鉄パレと云う熱田神宮の横にある小規模な百貨店の書籍売り場へ通い立ち読みにて此の本を読み終えました。

感想としては可成の良書であるとさう思った。

其れでもって後にアマゾンにて此の本を買いました。

 

さて先回も述べましたが聖なる世界の認識即ちお釈迦様やキリスト様の認識とは我我凡夫ー認識が本能方面に傾いて居る者ーにとり理解し難いものがあります。

より正確にはカントやショーペンハウアーの如き哲學ですらなかなか理解が叶わぬと云うのが實情なのでせう。

 

ま、其れもわたくしの場合にはかうして生まれ付きに変わって居るので至極良く分かるのではあるが…。

またお釈迦様やキリスト様の認識に就いてもまた同様に良く分かります。

 

ですが其のことを自慢して居るのでは無くそんな自分がわたくしはむしろ昔からイヤでした。

つまりは自分が所謂普通では無いことがイヤだったのです。

 

なのですがイヤだらうが何だらうが自分は自分であり他の誰も代わっては呉れぬ訳です。

だから仕方が無くこんなことをして来ましたのですが實は其れが次第に快感になって仕舞ったりもまた致しますものです。

 

其の意味でわたくしは幸せ♡者だとさう述べて居るのです。

 

 

では講義へと入らせて頂きます。

 

 

12日目 ブッダの言葉 (他の人たちが「安楽だ」と言うものを、聖者たちは「苦しみである」と言う)1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

 

まずは其の聖俗に於ける認識上の違いに就き語らさせて頂く。

 

ちなみに此の教えは経典である『スッタニパータ』の中の言葉です。

人間界でもって世俗の人人は抽象的な本能を生きやうとする。

 

対して具象的な本能を生きるのが畜生界です。

ところが形は違えど質的には同じ本能の履行であるに過ぎない。

 

 

富や地位や名誉、さらにデカい立派な家や豪華な墓、其れに👪愛、高学歴、金其れも大金、兎に角其れ等がどうしても欲しいのが人間的動物としての生きる目的です。

ですが理性に限り其れとは違う道を歩むものです。

 

何故なら其の「豊かでより豪華でデカいこと」は所詮虚の欲望であり理性にとっての糧でも何でも無いからなのだ。

逆に申せば金の無いことや👪が居ないことやボロアパート住まいであることや地位無く名誉無く今にも野垂れ死にさうなことは理性に取りむしろ歓迎すべきことなのやもしれません。

 

理性に取りむしろ大事なのは逆に其れ等の贅沢に対する欲望をどう抑え切れるのかと云うことです。

理性の本性とは其の抑制であり同時に批判力です。

 

即ち理性的に成就される認識に近づく程に其の本能的獣性はむしろ抑えられ其れに拘らなくなる。

まさに其れこそが聖なる認識にも連なると云うことなのだ。

 

 

煩悩の原因となる三毒ー貪 瞋 痴

 

三毒は人間が持つ煩悩の中でも特別に大きくものへの執着や怒り、無知な心はやがて自分の心を焼き尽くすとも此の本にはある。1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

但し私の考えとは解脱を前提としたものではむしろ無い。

其れはもはや現代人は解脱することが出来ないとさう事實として世界を捉えるからのことだ。

 

1.貪りー物質的欲望ーは最小限に抑える

2.義憤の類はむしろ必要であり且つ批判もまた同様に必要だ

3.無知をまずは治すことが大事だ

 

とさうわたくしは捉える。

また欲望の対象の分類を行いデカい欲と小さい欲とに分ける。

 

デカい欲を捨て小欲に生きること。

まずは其れが大事だ。

 

 

尚わたくしにとり家族を持ったり地位や名誉を求めあくせく働くことなどはむしろ大罪の部類に入る。

だが御勉強の方を頑張り其処で負けた者に対してわたくしは常に優しいつもりでもある。

 

 

3.無知をまずは治すことが大事だ

現代人は今壱般に自分は知識があり利口だとさう思いがちである。

だがむしろ心の知識と云うか知恵と申すかそちらの方面ではほぼ無知の状態を曝け出して居ることが多い。

 

ところがかうして心の智者によりまさに其の点を指摘されると自身の無知が初めて其処に自覚される訳だ。

尚其の3.に関してわたくしは無知なのでは無い。

 

但し1.と2.に関しては無知でよってさう自己規定した上で欲望を履行して来て居る者である。

 

 

 

14日目 ブッダの言葉 (愚近非法 久自焼没)1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

本には「苦しいときは過去を振り返って」ともある。1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

尚(愚近非法 久自焼没)は『法句経』に出て来る教えである。

 

愚かな侭で居ると法つまり眞理からは隔たった生を歩むこととなりやがては永久に自身を苦しみの業火で焼き滅ぼして仕舞う、の意。

 

さて問題は其の愚かさとは何かと云うことである。

其の愚かだの無知だのと云うことは、世間的な意味での価値判断に従うものでは無いと先にわたくしは述べた。

 

つまりは其の「豊かでより豪華でデカいこと」で世を満たしたいと云う世間的な欲望其のものが其の愚かさ其のものなのだ。

では何故其れがイケナイことなのかと申せば、まさに其れをやると不足が生じ此の世界其れ自體が破壊されて仕舞うからなのだ。

 

 

またつまりは其れが現代文明に於ける現状だと捉えて置く方が良い。

では文明はむしろイケナイことなの?ともしも小中学生にでも問われれば、まさに其はイケナイことだが僕は君の理性だけは信じたいとさう答えることであらう。

 

尤も其の「愚かさ」が社會レヴェルにまで拡大したことこそが近現代社會に対する本質的解釈であり得るのやもしれぬ。

 

其の「過去」の行為の積み重ねがむしろ「現在」を形作り同時に「現在」が「未来」を形作って行く。

故に「現在」に立ち止まり「過去」を振り返ることはむしろ反省を生み出す為の大切な要件だ。

 

 

愚かさ=本質的無知

左様に文明は知識や技術、技能には長けて居るがむしろ本質的暗愚さを抱え持つ。

 

故に理性は常に其れを外側から眺め其の内側には取り込まれぬやうにして置かねばならぬ。

理性はさうして常に其の本質的暗愚さを見詰めかうして只生きてさうして考えることだけに生の喜びを見出すものだ。

 

重要なことは其の「豊かでより豪華でデカいこと」を目指すことでは人間の幸福は決して成就されずむしろ逆効果となることを理性としての目覚めの力にてしかと知ることである。

 

「今の行動もまた未来につながる。未来で後悔しないために生き方を改める」1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

とも本にある。

 

未来は人間の意識にて創り上げられるものなのだ。

人間の意識とは価値観であり分別を行う認識上の価値のことである。

 

其の価値観がそも愚かであり間違って居るのであれば是非其れを正して行かずばなるまい。

つまりはまさに其れが人間の持つ本質的無知を理性的に放逐すると云うことなのだ。

 

 

 

13日目 ブッダの言葉 (怨みは怨みをもってやむことなし)1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

 

佛陀は「怨みを捨ててこそ息む」とかってさう説かれたさうである。1日1話 マンガでわかるブッダの教えより

まさに其れがかってキリスト様が説かれた「汝の敵を愛せよ」と云う言葉と重なる部分ではないか。

 

だから其処でもって何故其の聖なる認識は我我凡夫=ケモノ人間と逆の価値観となるのかと云うことをまずは考えて置かねばなるまい。

普通我我は殴られたら殴り返ししかも倍返しにでもしたらうかとさう思う筈だ。

 

だが君の其の恨みに満ちた心はもはや理性的な認識には非ず。

 

理性的な人はさうして逆に右の頬を殴られたら左の頬を突き出し殴られ放題、つまりはしばかれ放題にされ何時死んでも良いとさう判断するものだ。

でもそんなんではむしろダメでせう?

 

いや其れは其れでひとつの正しい認識なのだ。

だがお釈迦様は其の怨み其れ自體を消せとの仰せである。

 

つまりは理性の力により先に述べたやうな余分な欲望がすでに消されておる。

余分な欲望を持たぬ者はすでに守るべきものが少ない。

 

 

むしろ守るべきものは神佛による教えだけなのだから其れもまた当たり前のことだ。

もう何も持って居らず持って居るものと言えば此の托鉢の鉢ひとつと万年筆が壱本と石が壱つだけだ。

 

ウソだらう?

むしろ沢山其れ等を持って居るではないか!

 

はい、持って居ました。

今後全部売りますので是非御赦し下され。

 

でも他のものはもう全て捨てた。

わたくしはもうケモノ人間にだけはならぬ積もりなのだ。

 

 

さても其の怨みの応酬とはまた生臭い話である。

だが現實に此の世では其の怨みの応酬、やられたらやり返す、まさに自分等を守る為に何処までも闘争すると云うのが普通は当たり前のこととなる訳だ。

 

其処からしても此の社會と云うか世界の価値観が其の宗教だの哲學だのと云った抽象的理性力には従わぬものであることがしかと分からう筈だ。

であるからして其れはまさに獣の世界の論理と同じこととなる訳だ。

 

まさに獣の世界の論理で生きるからこそ「豊かでより豪華でデカいこと」を求めて行って仕舞う。

でも其れでは如何にもはしたない。

 

其れでは理性的にはまるで生きられて居ない。

社會科がさうして國語が零点だ。

 

 

さても其の「捨て去る」と云うこと。

まさに其れが東洋としての放棄の思想でもまたある訳だ。

 

また其れがかの加島 祥造先生の言葉で言うところでの「求めない」ことでもある。

さうしてお釈迦様はまた加島 祥造先生はもはや求められては居ない。

 

矢張り偉い方方の言われることは違う。

加島 祥造先生はかって「求めない」詩集をベストセラーにされたことこそが兎に角偉い。

 

 

求めない

するとより身軽となる

 

求めない

すると自分が持って居ることに気付く

 

求めない

すると「捨て去る」ことの自由さにようやく気付く

 

求めない

するとむしろ豊かになる、デカくもなる、さらに知の核へと至る

 

 

尚以上は加島先生の詩では無く今わたくしが勝手に創作致しましたニセの「求めない」詩です。

とは言え現實的に其の怨みを放逐することは極めて難しいことだらう。

 

ですが多くを望まなければ其の怨みつらみを小さくして行くことは可能であることだらう。

僕の認識論はかうして哲學や宗教、さらに文學などから総合的に良いトコ採りをしたものであり其処はむしろ他力救済のやうなものとなる訳です。

 

故に半分は自分の考えではむしろ無いので決して独善としての認識に陥るやうなものでは無い。

以上聖なる認識はむしろ世間的価値観ー常識として認知される価値観ーとは逆の立場を歩むものであると云うことに就き述べさせて頂きました。

 

現代人に取りおそらくは其の価値観の違いの部分が納得出来ぬことかとは思われますが最終的に理性は全的放棄即ち全消去にまで至るものでありまさに其れが古来より世に伝わる印度の解脱思想の内容でもあった訳だ。

悲観的哲學者による「人間の幸福」の捉え方ーショーペンハウアー自分を救う幸福論より學ぶ 3ー

6.ショーペンハウアー自分を救う幸福論より學ぶ 3

 

 

 

 

価値認識に於ける壱種の思い込みが破壊を呼び込みむしろ世界を崩壊へと導いて行くことでせう。

わたくしの場合は其の崩壊を何とか食い止めやうとして居る訳ですが社會的自我の範囲では其れはもはや無理ですので個個人に於ける認識上の転換を促す為に且つまさに自分を救うべく認識上の誤謬に就き語り出したところです。

 

例えば此の世の中には右翼と左翼と云う政治的イデオロギーの上での立場の違いがありますが僕が其れを此れ迄に學んで来た限りに於いてはどちらがどう正しいとは理性的にむしろ規定出来ぬものです。

要するに其の右だの左だのと云う抽象的な立場に拘って居るうちはむしろ妄想して居ると云うことに等しいことだらう理性的段階にある。

 

 

右⇔左

とのことですので本来ならば自己に於ける認識を最大限に拡張し實は双方を認められるやうにならなければならない。

 

理性とは元来観念のことですので具象性、具體性は放棄出来るが故に少なくとも其れを成り立たせるべくさう努力すべきなのだらう。

ですがいざ其れをやりますともう何が何だか分からなくもなって参りませう。

 

要するに其れは以下でのやうな論理によるものです。

 

 

観念的完全性→具象的領域ー行為ーの喪失

観念的不完全性→具象的領域ー行為ーの拡大

 

さうして考える方が完璧に近くなればなる程に行動力や具象的體験に欠けて来るものと相場は決まって居る。

逆に考えない即ちおバカでもって何でもやっちまいますと無思慮な行動や犯罪へと引き寄せられたりも致しませう。

 

で、前者はインテリさん方の典型的な資質となります。

また後者は凡人の典型的な資質でせう。

 

 

前者の場合が悪い訳では無いのだがイザソコに嵌り込むとイキナリ後者へと突っ込みすぐに滝から飛び降りたり火を点けたり人を刺したりする虞が多分にあると云うことなのだ。

逆に後者の場合はまさに衆愚政治を成立させたりまたスマフォ病となり其れを視ながら歩き地下鉄のホームから落ち電車に轢かれて死んだりもまた致しませう。

 

故にむしろ救われ難いのは後者のおバカさなのですが其処でひとつだけ彼等が優位なのは洗脳状態にてまるで夢遊病者の如くに考えずに生きて居るものですからそも悩みが無い=考えずとも良い、と云うこととなりませう。

即ち彼にとってはむしろ其の「洗脳された状態で居ること」自體がひとつの信仰であり生の目的なんです。

 

さて其の「洗脳」と云うのは自ら考えず周りにばかり思考の軸足を置いて居れば必然としてさうなります。

典型的な例がかのナチス・ドイツや我が國のファッショ政権に於ける「洗脳」であったことでせう。

 

さらに言えば戦後民主主義其れ自體が其の「洗脳」でありまた天皇制にせよ共産主義革命にせよ全てが其の社會的洗脳です。

対するアナキズム又は「放棄の思想」と云うのはまさに其の社會的洗脳の部分を個人的にカットして仕舞うと云う立場であり究極的には其れは「僕は個としての理性」をのみ生きて行きたいのです、と云うある意味では超近代的な、且つ究極的に身勝手な立場を標榜するものとなるのです。

 

アナキズムは國を破壊する悪い思想だとさう思われて居るのやもしれぬのだがこと理性的には明らかに整って居り逆に個と云う實存にとっての至極潔癖な思想です。

ですがアナキズムもまた可成に観念的理想に傾いた考え方であり其れが正しいのかどうかを現時点で決め付けることなどは無論のこと出来ない。

 

 

では壱體何を信仰すれば良いのですか?と云う御話となる訳ですが最終的にはむしろ其の観念的な拘り、観念的な信仰の対象としてのイデオロギーにソコまでの信を寄せるなと云うのが僕の結論です。

だからむしろ其れは信じるやうなことでは無い。

 

要するにデカい問題や課題には煩わされぬ自我を生きて行くことの方がより建設的な生き方でせう。

 

と申しますのもわたくしは長年に亘りむしろデカい問題や課題ばかりに観念的に振り回されて来た。

但しデカい問題や課題ばかりに観念的に振り回されること即ち洗脳を解き自ら考えることで必然的にさうなって仕舞った訳だ。

 

 

ですが其のことにより個としての實存的価値が増す訳では無くむしろ其れが消耗して行く訳だ。

其の状態を長く続けて居れば居る程にわたくしの精神の安定は損なわれむしろ疲弊して行く訳だ。

 

ですのでバランスを取る為にわたくしは先人の智恵に學ぶことを選びましたのです。

つまりは大問題をむしろ過去へと飛ばしてやることで其の破壊としての未来の重圧から逃げやうとして居るのです。

 

元より其れは科学的な立場ではありません。

ですが人文の世界にかうして生きて来た我に取り其れ以外の方法など見出せなかった。

 

 

つまるところはまさに其れがわたくしにとってのタイムマシンでした。

我我は其のタイムマシンに乗り過去へと遡り其処にて其の事實としての歴史を是非學ぶべきだ。

 

ところがかのショーペンハウアーは過去を振りむく奴は馬鹿で未来を見据える奴こそが利口だ、位のことを實は述べて居ります。

ですが其れはオカシイのではないかとさう思いますのです。

 

尤もショーペンハウアーもまた完全なる知性では無くよっておそらくは解脱出来ずいまだ霊として何処かを彷徨って居るのやもしれません。

だが他のところでは95点位に其の認識は正しいので僕はかうしてショーペンハウアーを信じるやうになったと云う訳です。

 

さうしていつも95点も取れれば東大以上の認識力なのだと個人的にはさう思いますね。

 

 

 

001 幸福は、自己に満足する人のものであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

まずは其の「幸福」とは何か?と云うことですがショーペンハウアーは其れがあくまで「自己に満足する人のもの」だとさうハッキリと述べて居る。

つまるところ其れは外面的評価では無く内面的評価によるもののことだ。

 

で、我は今自己満足することだけは人には負けないつもりです。

なので僕は至って幸福者なのだ。

 

尤も外面的には薄氷を踏むが如くに極めて危ない幸せなのですがね。

 

「幸福は、自己に満足する人のものである。」

 

尚實はコレがかのアリストテレスの言葉ださうです。

ですので其の考えを彼ショーペンハウアーもまた支持すると云うことなのだらう。

 

 

002 幸福とは、自分の特技や好きな仕事がやれることであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

と云うことは結局自己が自己の特性を発揮出来て居るかと云うことが問題なのです。

つまりはあくまで自分をやれるか否かと云った問題なのだ。

 

また其れは仕事に限らず例えば趣味でもまた良いのだと思われる。

何故なら好きなことは樂しくイヤなことは辛い、其れはまさに当たり前のことなのだから。

 

 

003 自分が今持っている以上のものを望むなーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

また其れも当たり前のことです。

何故なら持っている以上のものは常に外部にしか無い。

 

ですが確實に持って居るものはむしろ内部にしか無い。

 

 

004 人生で価値のあるものは人としてのあり方であるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

1.人のあり方

2.人の所有するもの

3.他人の思惑

 

此処でショーペンハウアーは1.が最も重要だと述べて居ます。

其れは気質また知性のあり方などから醸し出される人格としての實存的価値のことなのだらう。

 

また世間では2.及び3.ばかりを求めがちだが其れは誤りだとも述べて居る。

實際に世間では何時まで経っても2.及び3.が重視されがちですがたとえ2.及び3.が低評価であれ1.を確立出来れば其の人こそがまさに幸せ者でせう。

 

 

005 健康や心の朗らかさこそが一番価値があるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

即ち其の1.に属する健康や明朗さによる価値の方が財産や地位や名誉即ち社會的に与えられる価値よりもより大事である。

意外なことにかうして悲観的哲學者であるショーペンハウアーは如何にも御尤もなことを述べて居ります。

 

 

006 他人の思惑に重きを置くのは間違いであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

他人の思惑を目標として生きるのは虚栄心のなせる業で其れは生まれ付きの病気のやうなものだとも述べて居る。

また理性的に考えれば虚栄心は現在の五拾分の壱しか必要が無いのださうな。

 

其の虚栄心が齎す価値の愚かさから脱する為にまずは其れを愚かなことであると認識せよとも。

 

 

007 社会的地位や名誉に対する要求は最小限に下げよーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

ちなみに僕にはさう仰ることが良く分かる。

 

どだい成功だの金だの地位だのそんなものを求めて幸福になどなれる筈が無い、

むしろ其の線を最小限に下げてこそ内面的充實はしかと図られやう。

 

また価値の有る無しをさうした外面的思惑に向けた生き方こそが惨めな生き方だとも述べて居る。

 

要するに彼ショーペンハウアーは所謂世間的に構築される前向きな価値ヒエラルキー其れ自體をむしろ否定して居ます。

だとすれば有名進学校から東大医学部へ入り偉い医者になるなんてのも別に本人さんにとってはどーでも良いことなのだが…。

 

 

008 一番大事なものは、自分自身の人柄・人格だーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

其の人柄・人格は神が与えて呉れるもので生涯不変なのださうです。

其の人柄・人格をこそ最大限に活用せよとも。

 

と云うことはもしもおバカに生まれたにせよ其のおバカなりに頑張った人はまさに偉い人なのでせう。

また自分に合った生き方を選べば良いとも述べて居る。

 

で、僕はどうもショーペンハウアーの考え方とは壱致することが多いのでかうした言葉がまさに素直に了解されるのだ。

 

 

009 自分に起こる出来事を面白がる賢さを持てーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

でも僕には此のことが出来ない。

自分に起こる出来事はむしろ悲惨なことばかりだと今でもさう思うのだ。

 

だが賢い人は凡人にとり面白く無いことを面白がると云った件は理解することが出来る。

まさに僕自身がさうなのだから。

 

 

012 幸福は、苦痛と退屈がなければ達成されるものであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

其の苦痛と退屈の無いことにより達成される幸福こそが本物の幸福であり其れ以外から齎される幸福は幻想だともまた述べて居る。

 

貧乏は其の苦痛を増幅させ逆に金持ちで且つ知性を欠くことは其の退屈を増大させて行くことだらう。

また精神的に得る激しい喜びや大きな快楽は苦痛と退屈が無いことに勝るところが無いさうである。

 

尚僕はまさに其の考え方より精神のアタラクシアを求めやうとしたのであったが概ね其れは無理なことでもあったやうだ。

 

 

013 幸福とは、障害と闘って勝つことであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

其の障碍と云うものにはマイナスの面とプラスの面の双方とが考えられやう。

但し幸福の価値基準を何処に置くかにより其の+と-は正反対の意味を持つこととなる。

 

世俗的な意味で成就される幸福=主に物質的な面で恵まれること⇔精神的に成就される幸福=自己の価値を確立させ其れを生きること

とのことで、概ね世間に於ける価値観とはまさに物質的な充足でありつまりは其の虚栄心や感覚上の満足のことだ。

 

だが精神の階梯を歩む者に取り其のやうな幸福は虚の価値でありむしろ眞の幸福へ至る為の道を閉ざす価値其のもののことだ。

 

故に其の世間での幸福の価値観即ち幸福の定義其のものがより潔癖な人人にとっては障碍其のものとなる。

逆に世俗的な価値観に逆らい構築されるある種の聖なる価値観こそが世間にとっての障碍其のものとなる。

 

だから何に対し闘いを挑みまた何に対して勝利するのかと云うことが個が寄って立つ立場の違いによりまるで正反対のものとなる。

世間ー社會ーに於ける認識上の誤りとはまさに其の違いがまるで分かって居ないと云う面にこそ存して居らう。

 

 

即ちみんなが東大へ行き且つ高給取りとなり揚句に脳減る賞でも取れば其れがサイコーの幸せだとさう思っても居やうが其れは誤りだ。

だから僕などは今の侭で充分である。

 

第壱こんなに知性にも恵まれ且つ教養はもうはちきれんばかりなものだから此れ以上を精神的にもはや何も望み得ない。

但し周りの認識のあり方に就いては其れを認めては居ない。

 

要するに世間の認識がどうもオカシイ、変だとさう幼稚園児の頃より思って来た。

だから今まさに其れに就き述べて居るわたくしは世界壱の幸せ者である。

 

可能性としては世界壱の阿呆なのやもしれぬがそんな阿呆の侭死ねれば其れ以上に有難いこともまた無い。

 

 

015 自分の力でどうにもできないことは当てにするなショーペンハウアー自分を救う幸福論より

 

ストア派の哲學者であるエピクテトスは人間が個として出来ることと出来ないことを区別したさうだ。

さうして個の力として左右出来ぬ問題に対し当てにしないこととしたさうである。ーまた其れに対しショーペンハウアーも同調して居るかのやうだー

 

故に究極的にはコロナ禍も東南海地震もまた富士山の大噴火もさらに地球温暖化も我我個に取りどうにか出来る問題なのでは無い。

要するに大問題にて心が搔き乱されて居ては己が認識を正すと云う大事な作業の前に其の種の社會問題に飲み込まれて仕舞う。

 

だから其れはまた別。

其れは人間の社會の問題であり我我壱人壱人の重要な心の課題には非ず。

 

我我壱人壱人の重要な心の課題とは其の種の社會の認識上の課題と自己の認識上の課題を分けて捉えまずは自己の認識上の課題に就き學びまさに認識を正して行くことだらう。

 

 

其の認識上の誤りとは世間と密に繋がった上で其れがまさに自己の認識其のものであるかのやうに其れを受け容れて仕舞うことだ。

ショーペンハウアーはそんな常識的なものの見方に対し其れが「誤りだ」とさうハッキリ述べて居る。

 

故に人間が個として富や家や國家の存続、さらなる文明の発展を乞い願うことなどは其の人間の幸福とは全く関係の無いまさに抽象的な社會の欲望の追求としての所産であることはほぼ確かなことなのだ。

逆に其の種の倒錯せし価値観よりどう人間を解放して行くかと云うことこそが彼ショーペンハウアーがかって述べたところでの認識論上の救いなのではなからうか。

 

さうして認識を違え歩む道を間違えれば早晩文明は火の玉と化し煩悩と罪とが織り成す地獄の底へと堕ちて行く筈だ。

だからさうはならんが為にショーペンハウアーは世間に対し認識上の誤りを教えてあげたのであり従って彼程人類に取り偉大なる教師は他に居らぬ。

 

まあカントもまた其の偉大なる人類の教師ではある。

だから先生方の言われることは此の際素直に聞いて置きませう。

其のインテリジェンスとしての彼の過失とは?-東大前での通り魔事件に思う事-

5.東大前での通り魔事件に思う事

 

 

 

 

さても彼の如きインテリ靑年が今回此のやうな愚挙に至りしことはまさに我我教師の責任でありまたPTAや日教祖ひいては文部科学省の指導の至らぬところでありよって其れに関わる全ての人人がまずは床屋へ行き丸坊主にして来ることこそが大事だ。

まずは其れこそが教育を担う側の反省たる部分の實質面であらう。

 

で、医学部へ其れも東大の医学部を受験しやうとして居た其の有名進学校の彼に対し本日は是非わたくしが指導することとしてみたい。

わたくしはかって其の私立の有名進学校にかって通い結局頭が狂って六拾位で死んだ人のことを實は知っておる。

 

なので別に頭が良過ぎて頭が狂うことを非難して居るのでは無く彼が理性と云うものに就き完全なる勘違いをして居ることに対し指導をさせて頂くのである。

さて元元頭の良い人程さうして狂気へと傾いて行き易い訳だ。

 

 

頭の良い人もさうだが感度の高い人人などもまた其の狂気へと傾いて行き易い。

だから僕なども結構危ないのでなるべく下らぬことなどにも頭を突っ込むやうにし且つヘラヘラと笑って生きるやうにも實は心掛けておる。

 

尤も僕の場合はソコまで高偏差値なのでは無く要するに藝術家並に感度が高くまさに其のことにより拾代の頃よりずっと苦しめられて来たのだった。

だが彼の場合は何せ東大の医学部を受験しやうとして居た訳なので其のインテリ度故の悩み方はほとんど日本壱だったのであらう。

 

でも僕に言わせると彼の理性の使い方其のものがまさに理性的では無い。

人類の理性に対する教師であるカントやショーペンハウアーにせよもしも今生きて居るならばまずは其のことを指摘することであらう。

 

では理性とは何であるかと云うことであるが、畢竟理性とは其の理性其のものに対する信仰のことである。

さうして其の信仰とはあくまで抽象的に成就されるべきものでありまさか行動に移されるやうなものであっては決してならない。

 

 

即ち理性とはあくまで観念的態度のことなのであり故に人を包丁で刺したりまた何処かに火を点けることなどとはむしろ正反対の次元でのことなのだ。

故にすでに彼は其の理性への信仰其のものを欠いて居る。

 

また其れが或いは狂気により破壊されたのやもしれぬ。

 

であれば是非追求されねばならぬのは其の彼の陥りし狂気の部分なのであらう。

但し狂気もまた理性的な弱さから生ずることをインテリさん方はしかと知って置かねばならない。

 

其のやうに理性とは常に強靭なものでなくてはならない。

では強靭とは何か、たとえ拾年かからうが東大の医学部へ入ることかと言えば其れはさうでは無い。

 

理性とは多様な考え方の方向性を同時に頭の中に浮かべて置くやうにして行くことだ。

どだい学校での御勉強と眞の意味での御勉強とはむしろ正反対なことなのだ。

 

偏差値教育⇔自ら行う學び

 

 

實はコレがそも価値観として正反対となり対立して居る。

さうして本来の意味ではむしろ其の両方をやらねばほんたうのお利口さんにはなれない。

 

其の自ら學ぶ御勉強にも色んなやり方があるのだが例えば藝術家や宗教家の方方は別に試験問題がスラスラと解ける訳では無いのだが眞理に対しては常に高偏差値を維持しても居られやう。

また其れは要するに知識と知恵はまた別物だと云うことなのでもあらう。

 

だが知識は役立つこともまた多い。

幼児の如くに知識が無いと其処に藝術や宗教を成り立たせることなどは無論のこと不可能なのだ。

 

ズバリ言って其の名古屋の有名進学校の弐年生の彼は其の自らの學びへの契機をまさに理性的に閉ざして仕舞った。

なのでまずは其れが理性にとり許されざる反逆其のものなのだ。

 

 

故にわたくしは彼の其の獣性に対し苦言を呈して居るのであり彼が犯罪としての構成要件に該当するやうなことを為したことに対しどうかう言う積もりは無いのである。

其のやうに恵まれた知性を生きる彼が何故己が理性を信じ自ら行動を抑制しなかったのか?

 

だから其れは最終的には彼の狂気がさうさせた業なのだ。

でもって彼の行為が法的には問えなくなる可能性すらもがまたあらう。

 

だが理性への罪は其処に消え去ることが無い。

理性を生きることとはさうした壱種厳しい荊の道を自ら選んで生きることに他ならぬ訳だ。

 

 

故に彼は東大医学部と云う偏差値ヒエラルキーのトップから齎されるプレッシャーに負けたことのみならず自らが理性的に人間を生きること自體に負けて仕舞った訳だ。

 

【東大前3人刺傷】17歳容疑者少年を駆り立てたエリートの重圧「生徒会選挙に立候補、成績上位で期待も」(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース

其れ見よ、まさに典型的な高偏差値の子の犯罪である。

 

「すごく頭が良いと」東大前刺傷事件で逮捕の少年 (msn.com)

 

要するに華厳の滝から飛び降りるのとまさに同じやうに利口が仕出かした狂気の沙汰だったと云う訳だ。

 

だから利口は元元利口なので誤魔化しが効かぬ訳だらう。

利口はテストでみんなが六拾点のところを八拾点、九拾点と取る奴等のことだ。

 

 

僕もまた昔社会科や國語のテストで九拾点位は取ったことがあったがほんたうの御勉強はむしろ学校を出てから始まったのだとさう思って居る。

左様にテストで高得点を取るのと「人間とは何か」と云うことを考えることとはまた別次元での御勉強となるのだ。

 

「人間とは何か」と云うことを考えることはむしろ其の偏差値教育とは正反対の道を歩んで行くことなのでもまたある。

だから其れをあえて放棄して仕舞った君は理性に対する罪を背負う謂わば高偏差値馬鹿であるに過ぎぬ。

 

 

尚此れは僕自身に対する諫めの言葉でもまたあるのだけれど壱般に頭の良い人は兎に角融通が利かず「コレしか無い」とさう思いがちである。

しかしながらむしろ現實としての世界ではさうして理性的に眞實が規定されるやうな構造にそもなっては居ないのである。

 

だから「コレしか無い」とさう思いつつ華厳の滝から飛び降りたり人を刺したり火を点ける前にまずはもっともっと幅広く學びエエ加減即ち「適当に」生きて行くことをこそ其のインテリ層こそが學ばねばならぬ。

 

確かに僕もかうして随分とキレ易い訳です。

そんな時はむしろおバカにこそなってみませう。

 

 

おバカになってかうしてカントだ、さらにショーペンハウアーだ、と、さらにセザンヌゴーギャンだ、などとあちらこちらの御花に引き寄せられ其処でもってチュウチュウと蜜を吸いますのです。

するとあらあら不思議、いつの間にやら其の社會への憤懣や恨みが消え去りさうして其れ等先哲を讃えむしろ進んで彼等の奴隷となることで自身の精神的な苦しみが減ぜられて行くのであります。

 

ですのでわたくしはまさに其の様こそが學的救い、御勉強による壱つの救いであるとさう申して居るのです。

 

また無論のこと宗教を深く學んで行くことなども是非御勧めして置きたい。

眞の意味での御勉強とはさうして幅広く理性に就き學ぶことだ。

 

 

だから沢山の本も読まねばならず不純なる異性交遊や飲酒や博打に興じておるやうな時間は何処にも無い。

眞の理性はさうして獣を生きることを嫌いむしろ御勉強にのみ生きることだけを選ぶ。

 

だが学校の御勉強だけに偏ることはむしろ理性に取っての背任行為ですらある。

其の偏差値ヒエラルキー其れ自體を批判することが出来る位にむしろ御勉強を進めて行かずしてどうする?

 

さて以前に書いたのだったがかの舘ひろし氏は何度受けても医学部が受からぬので医者になることは諦めアノ暴走グループに入ったのである。

 

だが俳優としては其の後大成功を収めた。

また我が中学の後輩の内藤  朝雄ー現明治大学準教授ーはとある高校の管理教育に反対し其れを糾弾するビラまで撒き挙句には退学したが後に東大の大学院まで進み今やいじめ問題の第壱人者となって居る。

 

だからさうした反抗の末の大成功を見逃してはならない。

むしろ眞の御勉強による理性とは其の種の大反抗を決して見逃さぬものなのだ。

受験生・学生へのメッセージ

ー優秀な人は,自分で勉強し,自分で進化できる人。そのためには優秀な欲望と優秀なエゴイズムが必要。学校頭を自分頭に切りかえろ。頭がよくなるぞ。 たとえ日本が亡びてもあっけらかんとわが道を行こう。ー内藤 朝雄 | 明治大学 (meiji.ac.jp)より

 

  • ー昔からさまざまなニートが世に棲んでいた。金持ちの馬鹿息子とか、道楽者の父さんとか、いい年をしてぶらぶらしている「ろくでなし」は、悪口を言われながらも、世の風景にとけ込んでいた。(中略)考えてみれば仏陀イエスニートのガキたれではなかったか。仏陀は労働を厭い乞食の生活を勧めていたし、イエスにいたっては神殿で露天商に暴力をふるって屋台を破壊する「キレやすい」ニートでなかったか[2]。ー内藤朝雄 - Wikipediaより

 

彼内藤氏の生き様より私が學んだことはまさに「負けて勝つ」ことであり其れ即ち自らの理性を信じて生きて行くことであった。

学校が何を望んで居やうが其れには組み込まれることの無い自己としての考えを確立させることこそが眞の意味での頭の良さである。

 

また佛陀にせよイエスにせよ体制には組み込まれぬ形で眞の意味での自己の価値観を生きたのだった。

尤も其れは長年に亘り苦労しつつ御勉強を進めた上でようやく分かって来ることであり高校生や大學生のうちはまるで分からないことなのでもまたある。

 

 

尚御勉強は生涯に亘り継続されるものだ。

故に偏差値ヒエラルキーの勝ち負けなどに拘る理由などはむしろ何処にも無い。

 

偏差値ヒエラルキーに負けると確かに生き辛くはならうが其れも結局は自らの心の捉えやうなのだ。

例え東大を出て居るにせよ自分でもって學び進化出来ぬ人は眞の意味で利発な人なのでは無い。

 

例え中学しか出て居なくとも自分でもって學び進化出来る人は眞の意味で利発なのである。

 

何より「理性に対し誠實に生きること」こそがおそらくは大事なのである。

また其れは偏差値ヒエラルキーに勝つことを必ずしも意味するものでは無く例えば藝術家や宗教家になったりすることさえもがまさに其の理性的な生き方なのだ。

 

さても其の名古屋の優等生さんは理性的な生き方を何故自ら放棄したのだ?

むしろ其の意味での理性を完遂させることの方が東大の医学部へ入ることなどよりもずっと大事である。

 

但しくれぐれも以下を間違えること無きやう。

 

 

偏差値教育⇔自ら行う學び

 

結論的には其の双方が大事である。

但し医師や弁護士、また教師や學者を目指すのであれば偏差値教育の比重もまた高めねばならず、逆に藝術家や宗教家となるのであれば自ら行う學びの方をより重視して行くべきだ。

 

では家庭人となるにはさても何を重視するのですか?

家庭人は決まって獣なのであえて御勉強をする必要などありません。

 

御勉強とはまさに理性を磨くことであり家庭人は逆に行為にて生活を磨き込むものだ。

従ってインテリ層に限り是非其の両方を學んで行って下され。

 

其れも両方をやるのだからもはや其処には遊んで居る暇等は微塵も無い。

しかも其れを生涯に亘り続けよ。

 

 

つまりは御勉強が忙しくて人を包丁で刺したり火を点けたりするヒマがそも何処にも無い。

全く空恐ろしいやうな御勉強三昧での人生ですが確かに其れをやってれば犯罪者にはまさかならずに済む。

 

いや其ればかりには非ず。

彼の致命的な欠点はまさに類稀なる教えの場としてのココを読んで居なかったことである。

 

逆にココさえ読んで居れば彼は救われて居た筈であらうに今思えば其こそが如何にも惜しいところよ。