古舘 伊知郎氏による原始佛教論に就いてー+「縁起関係式」及び「スピリチュアル」系の認識に就いてー
不正に揺れるトヨタ、会長「今の日本は頑張ろうという気になれない」 (msn.com)
尚TOYOTAがダメになるか又は日本から撤退するやうではコノ🗾はもはや御仕舞いでせう。
個人的に大TOYOTAがナゼコノ自称詩人をアドヴァイザーとして年収壱億円で雇わないのかまさにソコが理解に苦しむ。ータッタの壱億円ー
どだい同じ愛知県人じゃないですかー。
尚こんな豊田 章男氏のメガネのフレームが個人的には大好きです。ー多分百萬位はするのだらうがー
江原啓之『この世が危ない!』著者メッセージ - YouTube
2025年7月 江原啓之 この世が危ない!を読んでみた😳 (youtube.com)
さう「この世が危ない」のは結局ニンゲンの心が昔とは變わって仕舞ったからなのではないか。
またソノニンゲンの心のあり方を變えたのはズバリ申して現代社會ソノモノです。
さてたった今アノ古舘 伊知郎氏が本気になり原始佛教のことを語って居られる。
個人的に古舘 伊知郎氏の理性力は人類の中でも上位に属すものではないかと考えて居る。
また自分もイヤだけれどもとりあえずはソノ理性力の上位者なのだらう。
さうイヤだけれども上位者なのでとりあえずはかうモノが言えるが古舘 伊知郎氏などもまたよう喋るわなあ。
【原始仏教①】混迷の世の中で心の免疫機能に。釈迦の教えを古舘節で解説。『諸行無常』とは【釈迦の推し活】 (youtube.com)
【原始仏教②】生きる上での苦しみを軽くするために…『諸法無我』とは?釈迦の教えを古舘節で解説。【釈迦の推し活】 (youtube.com)
【原始仏教③】人にどう見られているのか気になる…強くなりすぎた自我と向き合い続ける。【釈迦の推し活】 (youtube.com)
【原始仏教④】生きることは全て苦しみ。喜びの根っこと思い通りにならない苦しさ【釈迦の推し活】 (youtube.com)
【原始仏教⑤】釈迦の教えと大乗仏教の教えは違う。死んでも極楽へ行くわけではない。【釈迦の推し活】 (youtube.com)
これ等は至極真面目に様様なことを語って居られますので視聴して置いて損は無い動画となる。
語られて居ることの内容には概ね賛成致しますがわたくしの場合はもっともっと理詰めにて佛法やクリスト教のことを考えますのでまずはソノ思考過程に就き以下に示して置きませう。
無常(非常)⇔常
無我(非我)⇔有我(眞我)
苦⇔樂
現象(生存)⇔涅槃(非生存)
無常(非常)と常の縁起関係の同時否定
無我(非我)と我(眞我)の縁起関係の同時否定
苦と樂の縁起関係の同時否定
生存と非生存の縁起関係の同時否定
釈迦の論理は否定的哲學=「常見」と「断見」の縁起関係の同時否定
クリストの論理は肯定的哲學=常見である「神」の世界の構築
佛⇔神
消去⇔構築
無⇔有
クリスト教は「虚構の認識」を「善」化する精神的過程。
壱方原始佛法は「虚構の認識」を「無」化する精神的過程。
また原始佛法に「善」と「惡」の区別は無い。
善⇔惡
釈迦の佛法は「善」と「惡」との縁起関係の同時否定を行う。
逆にクリスト教は「👿」を前提とする宗教であり且つソノ惡を断じ善なる価値のみの世界観を確立する試み=神の認識の履行、とのこと。
無我(非我)⇔有我(眞我)
との認識は本質的に虚(空)。
同様に、
無常(非常)⇔常
苦⇔樂
現象(生存)⇔涅槃(非生存)
との認識もまた本質的に虚(空)。
よって涅槃(非生存)もまた本質的に虚(空)。
非有非無
非苦非樂
非生非死
非俗非佛
釈迦の佛法に於ける認識の基本構造は分別認識に於ける極概念を同時に否定すること。
だから、コノ世界の全てが、
有るのでも無く且つ無いのでも無い。
また生きることが、
苦なのでも無く且つ樂なのでも無い。
また我我認識するニンゲンが、
生きているのでも無く且つ死んで居るのでも無い。
さらに、
俗な奴等ばかりなのでも無く且つ佛のやうな奴等ばかりなのでも無い。
要は弐重での極否定なのでソレは本質的に「暗い」とも言えずさりとて「明るく」も無く要するにどっちつかずでの認識をむしろ徹底した形で行うとのこととならう。
またナゼそんな認識をあえて行うかと云うにソレはひとえに「解脱」したいからなのだ。
さう「解脱」したいのに極のどちらかに擦り寄ればそも「解脱」など出來やせん。
じゃあクリスト教徒は解脱出來んがソレで良いのかとさう云うこととなるが彼等は別に「解脱」したい訳ではまるで無い。
じゃあジャイナ教徒などはむしろ佛法より厳しく自己を戒めー彼等の間ではむしろ苦行は〇とされるー「解脱」したいのであるがソノ方法でもって解脱したとはほぼ伝わって居ない。
「解脱」とはまずソノやうに心のあり方=認識の方の問題なので普通現代人などにはまずムリな認識世界のこととなる。
どだい御釈迦様はニンゲン界壱の變人であり全然普通では無いから普通の壱🗾人であるアナタ方にそんな訳の分からぬ認識が通じる筈が無いではないか。
どだい宗教詩人位に變わって居ないと御釈迦様の變人振りはついぞ伝わらぬものなのだ。
じゃあアナタは御釈迦様の次位にもしや變人なのか?
うん、まあイヤだけれども多分可成に近いのではないかとさうも思われます。
でも何せソレがイヤなので個人的には半分位はイエス様の方を努めて向くやうにしては居る。
では御釈迦様は確かに變人だが「暗い」ばかりでは無いのだと?
いや可成に暗いです、またソレも實感としては。
どだい原始佛法の目的とはニンゲンの認識の「無化」=「消去」とのことですよ。
兎に角「消す」のですからまさに其れは「死ね」と言って居るやうなものですよ。
ですがイザ「死んだ」にせよ解脱はなりません。
要するに認識がバカの侭で幾ら肉體を切り刻んでも「涅槃」が訪れることは無い。
じゃあ古舘 伊知郎氏位にまた宗教詩人さん程に認識が理性的であれば「涅槃」へ至ることが可能なのか?
いえまずムリです、ソレは。
ムリですが、要するに彼等はソノ認識自體が變わって居るのでチョット違うぞ、と云う部分だけはおそらく此の世に残せることでせう。
さう認識がチョット違う位でナゼさうも威張るのだ?
いやまるで威張って居ません、むしろ威張って居るのはアナタ方の認識の方です。
ソノ古舘 伊知郎氏は相當に努力されたのでせうがまだまだソノ認識が常識的です。
何せ彼はさうタレントさんなので。
じゃあ宗教詩人の認識の方が上だとさう威張りちらかしたいのだな?
まるでさうではありません。
脱ヒエラルキー+脱イデオロギー
ナゼナラ最近ボクはコノことばかりをむしろ述べて來て居る。
またソノ「脱ヒエラルキー+脱イデオロギー」の部分こそが原始佛法に於ける「解脱」への認識のあり方ソノモノなのだ。
但しソノコトはむしろ社會的事象が決定するだらう価値認識を離れた上で目指しませんと結果として不可能なこととならざるを得ぬ。
社會⇔個
洗脳⇔脱洗脳
ソノ「社會」は主に諸価値を分別分離し「常見」の世界を目指す。
但し其は「神」の認識とは異なる。
よってクリストの認識に於いてソノ誤った認識を基に進む社會はやがて滅びる。
他方で佛陀の認識に於いて滅ぶのは誤った認識を基に進むニンゲンソノモノとなる。
つまりはいずれにせよコノ「社會」は滅ぶ。
またソコに救いは無い。
尤もクリストの認識ー神の認識ー又は佛陀の認識を実践することにより個としての精神的な救済のみはソコに可能となる。
宗教が指し示すこととはまさにソノ精神的な救済のみ。ー但しクリスト教では壱旦誤った社會を滅ぼし神の社會へとソレを再編するー
だが神や佛に帰依すればニンゲンの社會=文明社會が救われる訳にはまるで非ず。
つまり救われるのはまさにソレを信じたニンゲンの認識のみ。
ソレ以外のものを信じてももしや救われ得るのではないか?
例えば極左の文明否定者となり北海道の山奥で独居し死ねばソレはソレである意味救われた人生なのでは?
まあ牢に入らねばソレはソレで良いのかも。
だがソレも北海道の山奥で独居し🐻に齧られる虞などが多分に有るのであらうが…。
また「極左」だの「極右」では無く「イデオロギー否定者」と化す方がむしろより良いのではないか。
ちなみに釈迦とクリストは明らかにそんな「イデオロギー否定者」である。
君のソノ極端な「社會否定」の部分がおそらくは他のニンゲンには壱番伝わらぬことだらう。
でも釈迦もまたかってさう「社會否定」して修行の森へと入って行かれたのだよ。
ではコノ世はそも「社會」が目指すやうに「シンポし良くする」やうなところでは無いとさう述べて居られますので?
うん、確かに社會は間違ってる可能性が最近は99パーセント程にもなって來た。
そんな99パーセントと云うことはもう近いうちに世は滅ぶぞよ。
まあでもソレは宗教詩人のみがさう申して居ることであり別に佛教やクリスト教としての見解ではありません。
兎に角コノ社會はおそらくダメだらう。
さうしてダメなことにして置き自分ダケ何処かへ逃げると云うのがつまりはアナタの論理ですよね。
理性(大脳新皮質)⇔本能(大脳旧皮質)
コノ對立関係もまたつまりは「縁起」が齎すところでの惡因縁ー惡いクセーのやうなものなのだらう。
クリスト教ではソノことを「罪(原罪)」と言い佛教ではまさにソノことを「煩悩」と言う。
ココで重要なのはあくまで「理性」の方が善であり上位者では無いとのことなのだ。
ナゼナラソノ縁起関係に於いて諸要素は「相剋し且つ相即する」ので本質的にはドチラがより良くまたドチラがより優れて居るとも言えないのであらうから。
うーん、確かに場合により「自然に還れ!」などとも言われて居ますよね。
さうだからあくまでソレは優劣では無く性質の違いのことなのだ。
じゃあ自然科学が絶對に優れる訳でも無いのだと?
ソノ「絶對」と云うことがそも縁起関係に於いては存在して居ない。
故にクリスト教はまさにソコを力技にて捻じ曲げ「全能の神」なる領域をあえて創り出すのだ。
でもって眞理領域に於いて認識上正しいと云うことはほぼ自分には正しいと思われぬことをあえて見詰めて行くことであることに他ならない。
故に「正しい」とさう信じ込んで居る価値に就きむしろ逆方向より眺め且つほんたうにソレが正しいのかと常に自問自答すること。
まさにソノコトこそが「正しい」=理性的である、とのこととなる。
また世俗に於ける👪主義だの前向き思考だの「優しさ」の希求だのさうしたことは基本的に「眞理」とはまるで無関係な感情的要素の発露となる。
【ブッダの教え】ブッダから学ぶ「目からうろこ」の本当の優しさとは! (youtube.com)
【ブッダの教え】実は悟りを開いている人、悟りを開ける人、覚醒する人の特徴【人生 人間関係】【禅僧に学ぶ】 (youtube.com)
本当に優しいことはむしろまるで優しくは無く常にキビシイ。
此の世には目に入る世界以外に目に入らぬ世界ー精神的世界ーが常に付属して居る。
世の中には2種類の人間がいます~魂がある人と魂がない人~2つの人間の特徴と彼らが決定的に異なる理由【スピリチュアル】 (youtube.com)
https://www.youtube.com/@user-rurii
悟りを開いた人が他の人とは違う理由~覚醒する人の価値観とは?神へと戻る道を行く (youtube.com)
尚ワタシは所謂「スピリチュアル」な方面にはまるで興味が無い。
ですがたった今「目覚めた」人の認識と「目覚められぬ」人の認識はまるで違うとのことを日日考えて居ます。
また例えば本日の作文の上の部分で展開したやうな壱種の哲學的な認識論はおそらく極めて珍しいものなのではないか。
逆にわたくしはかうしたものならばソレこそ壱週間位連続でやれと言われればまたやりますのですが。
つまりはソレが「スピリチュアル」な方面の公式のやうなものには當て嵌まることは無いにせよ明らかに「壱つの世界」として成立するものなのです。
またソレが他人に取りどんなに奇妙な認識であれ自分に取ってはソレが至極當たり前で且つ「自然」な認識ですらもまたある。
ソノ意味でわたくしは明らかにさう「目覚めた」ニンゲンである。
ところが周りにはむしろ「目覚められぬ」ニンゲンの方が多く、よって、
無常(非常)⇔常
苦⇔樂
現象(生存)⇔涅槃(非生存)
こんな訳の分からぬ縁起関係式のやうなものを頭の中に持って居る人などまず居ない。
またコレをデカく紙に書きイキナリスーパーのレジのオバちゃん達に見せるとほぼキチ外だとさう思われませう。
ピーポー、ピーポー。
おおまさに精神病棟送りのソノ文言。
だからキチ外だとさう言われても良いが確かにかうした眞理領域での縁起関係式がことわたくしの頭の中では日日グルグルと回ってる。
非有非無
非苦非樂
非生非死
非俗非佛
さてもソノ御釈迦様の認識はむしろ非常に論理的なものなのです。
まずは何より御釈迦様は「佛法」と云う宗教哲學の開祖様であり佛教の開祖と云うよりは學者的でもある。
但し同時に御釈迦様は「學」の限界もまた知って居られたが故に理論的では無い修行からの成佛に関してソレを否定されませんでした。
つまりは論理的なもの以外からのアプローチでもまた「悟りへの道」は拓ける。
ですが後に佛法が大乗化することで佛法ソレ自體が所謂不純化して行ったとの皮肉な歴史過程などもまたあった訳なのです。
論理⇔脱論理
つまりはまたソノこともどちらかをやり過ぎますと「縁起関係」に於けるバランスが崩れます。
理性⇔本能
つまりはまたソノこともどちらかをやり過ぎますと「縁起関係」に於けるバランスが崩れます。
「縁起関係」=「現象」の構造
即ち「現象」とは虚偽認識でありつまりは虚構的認識世界のこととなる。
虚構的認識世界は主に弐種の虚偽認識により駆動される。
1.社會的虚偽認識
2.個別的虚偽認識
さらに、
3.顕在化(顕在意識)と冥落化(無意識)
とのことが加わり余計に話がややこしくなる。
さてもワタシの理論は1.の方を限りなく脱して行くべきだとの認識となる。
4.子が居ないと子の心配は無し
5.孫が居ないと孫の心配は無し
6.會社へ行かんと仕事上の心配は無し
7.でも温暖化の被害はドコに居ても被る
8.會社へ行かんとカネは無し
9.ソノ代わりに文人をドコ迄もやれる
つまりはそんな「虚偽認識」の集會場のやうなところがコノ認識世界なのでコノ世界が良くなる筈は無くむしろドンドン惡くなる。
とのことがほんたうの意味での「眞理」としての認識となる。
要するに佛陀の認識にせよまたクリストの認識にせよコノ世が良くなるなどとはまるで仰って居らず。
だからさうしてみんな這い蹲って生きるのだ!
さうして這い蹲りしかも水吞み百姓化されこれからはコンナ温暖化地獄だの飢餓地獄だのまた地球の絶滅だのそんなことばかりに囲まれつつ苦しみ抜きながら御前等は生きてイケ!!
だからソノ場合にはむしろ子や孫は居ない方が良い。
また壱億円持って居るべきでは勿論無い。
むしろ数千円を握り野たれ死ぬのである。
10.ついに目覚めた!
だが壱歩間違えば即精神病棟送りだな。
尚自分は「スピリチュアル」系での認識論や所謂陰謀論のやうなものが語る「決め付け」のやうなものが嫌いでむしろソレは「邪教」のやうなものなのだとさう考える。
但し自分の「縁起関係式」には實は可成の自信を持って居り次第にソレが絶對化しても來るので危ないと思いそんな場合にはキリスト教の伝記映画などを好んで視て居ります。
とどのつまりは「スピリチュアル」系での認識論をほぼ信用して居ないがアノ柔和な江原氏がソコ迄言うからには矢張り何ぞコノ社會には根本的に問題があるのではないかとさうも思うのです。
さて中國より今日届いた緑色の菩薩像がパソコンの光を浴び透けつつ今目の前で輝いて居る。
いやあ綺麗な菩薩像です。
また菩薩像には宝玉だのまた金の首飾りや装飾品の類のものが付けられることが多い。
要するにボーサットゥはそんな両性具有での認識上の天才のことなのだから故に。
まるでボクみたいなものなのかなあ。
ちなみに好きな菩薩像は多いが、
不空羂索観音像と日光・月光菩薩像(2011年以前の安置状況)- 東大寺法華堂 - Wikipedia
とりあえずはソノ「不空羂索観音像」が好きでコノ像にはまた宝玉の類が使われて居ります。
が、御釈迦様の像=釈迦佛像にはそも宝玉の類が使われて居ない。
ソレは何故か?
御釈迦様の認識には💎趣味がそも無いからなんだな。
ですがボーサットゥの場合はそんな💎趣味があらうとちゃんと天才の認識もまたして居るのだから…。
さうかボーサットゥは何やら俗ですね。
ボーサットゥに限らず「👼」などもまた案外俗である。
天使ってアノ羽根が生える奴ですか?
そんなもんほんたうに居ますか?
いや居るんです。
居ると信じればソコに居る。
非有非無
非苦非樂
非生非死
非俗非佛
ところでコレは菩薩の認識ですか?
まあさうですね、菩薩の弐重否定認識だらう。
でもそんなものをやる人は即精神病棟送りでせう。
…仰る通りです。
だから、菩薩や天使にそも會いたければまずは精神病棟へ行き「ボサツさーん、👼さーん」とさう名を呼び探してみればまず弐、参人はソコに集まります。
またソノ中に、
無常(非常)⇔常
苦⇔樂
現象(生存)⇔涅槃(非生存)
コレを紙に書き付けて居る者が居りほぼ間違い無く彼が宗教詩人です。
なる程、するとソノ「縁起関係式」こそが「決め手」となることなのか。
さう彼宗教詩人はかうした「縁起関係式」をドコ迄も書いてイケる。
ではソノ「縁起関係式」で壱番マズいものは果たして何か?
神⇔👿
佛⇔マーラ
神⇔佛
ニンゲン
さてもソノ孤立した概念はナニでせう?
はいつまりはソレがニンゲンソレ自體です。
するとニンゲンは「縁起関係式」からも仲間外れなのか。
さうニンゲンは永遠に不滅の仲間外れです。
そんな「永遠に不滅」の巨人軍なのですか?
「永遠に不滅」と云う言葉の使い方はそも間違いです。
そんなニンゲンとはそ何か?
まるでソノことが分かりません、特に最近は。
あれたとえボーサットゥでも分からない?
さうボーサットゥでも天使でも分からないものは分からない。
ニンゲン⇔神佛
ああさうか、あえて言えばむしろさう云うことか。
ところでむしろニンゲンは壱度滅びた方が良いのですか?
ワタシはソレにはまるで興味が無くかうして毎日ボサツフィギュアや💎と戯れるバカリです。
なる程、まさにソレが深刻な大問題からの逃げ方ソノモノなんだ。
さう問題をまずは小さく認識して行くコト。
まずはソレしか申せません、今のワタシには。
いずれにせよ全ては「認識」の世界のことなのですから、ソレも「正しく」認識することで「煩悩」や「罪」の度はより小さくなるのです。
我我個にはソレしかそもやれず、よって地球温暖化で焼け死ぬことからはもはや誰も逃れられぬ。
尤もソノ責任は近現代社會にこそ有りソレはまさにニンゲン全體の罪であり煩悩ですので消し去ることの出來ぬ過失であり禍根となる。
またであるからこそ救済宗教がまた有るのですからソレに救いを求め擦り寄ることは惡いことでは無くむしろ良いこととなる。
ですが元來救済宗教は「スピリチュアル」系での認識論とはまるで異なる精神的次元に有る。
ソレでも江原氏の述べられる危惧の部分は何らかの直感的な體験に基づき主張されたものであらう。
故にあえてココに貼り付けて置きましたのです。
そんな「世の終わり」は確かに有るのかもしれないぞ。