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カルトな封建國家としての日本ー『同調圧力』による近代的価値の破壊と日本の再生の御話ー

カルトな封建國家としての日本ー『同調圧力』による近代的価値の破壊と日本の再生の御話ー

 

 

 

 

覚醒剤取締法違反で逮捕…!”キメセク牧師”と呼ばれた男が保釈後に信者を前に語ったこと (msn.com)

 

宗教的な肩書を利用しかうして惡を為す奴はまず地獄へ堕ちる。

また政治的な肩書を利用し惡を為す奴もまず地獄へ堕ちる。

 

 

同調圧力 | 現代新書 | 講談社 (gendai.media)

 

さて問題は此の本である。

此の本を1月25日に壱気に読んでみた。

 

其れは大變優れた書であった。

其れも此処五年ばかりの間では最も優れて居る。

 

其処では、

 

1.知性は此の「日本社會が置かれた閉塞状況」を的確に考え抜いて居る

2.此の世の中にはさうした類での優れた知性が常に存在して居る

 

ことにまずは気づかされた。

従って知性を信じて生きて行くことは矢張りと云うべきか「間違い」なのでは無い。

 

 

 

【佐藤直樹】日本世間学会の研究者に聞く、日本に「自粛警察」が生まれる理由:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)

コロナ禍における「世間」と「同調圧力」(前)|NetIB-News (data-max.co.jp)

 

此の本が論じて居ることは其の「世間」が如何に日本社會其のものを圧迫しあらゆるものを壊して行くかと云うことである。

其の「世間」とは「前近代的な意味でのしがらみ」のことであり要するに封建的な意味での「體制維持の力」のことだ。

 

ところが其の封建的な意味での「體制維持の力」が働く社會であるが故に日本社會は、

 

3.清潔で且つ犯罪が少なく

4.所謂「おもてなし」の力に長け

5.人間的には「良い人」の多い集団

 

であり続けることが出来る。

 

ところがまた其の「體制維持の力」=「世間」こそが逆に日本社會を縛り続け挙句に「息苦しく」さえもして行く訳である。

其の「世間」とは要するに「みんなで渡る世界」の意味である。

 

さうしてあくまで「みんなで渡る世界」なので「個として渡る社會」なのでは無論のこと無い。

ところが近代的政治原理とはまず「個として渡る社會」なのである。

 

だから其れが契約社會となりまた法治國家としての基礎的社會となる。

ところが厳密には其の契約社會もさらに法治國家さえもがかの國日本では成立してさえ居ないのである。

 

何故なら日本は其れこそ「和を以て尊しとする👪主義の國家」なのであるから。

なのでむしろみんなが👪なんだ。

 

👪だから國が戦争をやればみんなもまた其れに従わざるを得ない。

また御國の為に死んで來い、つまりは「特攻せよ」とさう命じられれば何処までも敵艦に體当たりをしてつまりは華華しく散らねばならぬ。

 

天皇陛下萬歳!!!ドッカアーン、バラバラバラ。ーアナタの體がバラバラになった音のことー。

 

 

だが誰しもそんな死に方はしたくは無い。

無いのであるが此の國では「建前」=「世間體」が常に優先されるのでそんな「バラバラバラ」こそがまさに正解となる。

 

對して、「戦争反對!!」と共産党員やアナキストが叫ぶと即牢へ入れられ彼等の多くは獄死する。

つまりかの國では正しいことがむしろ圧殺され其の正しくは無いみんなで歩む道の方が常に優先される。

 

でもって「世間體」があるので生活保護も受けられやしない。

だったら親子の縁を切り生活保護を受けやうと我などは即思うのだが日本人の方方に限り其れは「恥」なのでよもややってはならぬことなのだ。

 

そんな「恥」もクソもあるかと正直さう思うのだがあくまで「正しい日本國民」の方方は其の「恥」があるからさうして負けられやせぬ。

だが負けて何が悪いのだ?

 

第壱もう日本の全部が負けてるぞ。

なのに壱體何の為にさうして「和の連帯」にばかり拘るのだ?

 

 

まさに其の「和の連帯」にばかり拘るので所謂「自立的思考」が出来ない。

つまりはソコが弱いので「宗教」や「哲學」の分野に頗る弱い。

 

また日本人は必ずしも非宗教的な民族では無いが眞の意味での宗教の意義に就きまるで知らない。

宗教とは願掛け=御願いとの現世利益主義に毒されて居り要するに別に自分自身を救わんが為に宗教を選ぶのでは無い。

 

何故ならさうして「世間」が彼等の幸福を約束して呉れて居るからなのだ。

だが其の「世間」は基本的に近代社會の政治原理を外れた云わば「漂流物」でしか無い制度である。

 

要するに其れが前近代的な封建的要素なので所謂近代的自我として其処に認められるやうな社會的要素ではまるで無い。

其処を壱言で言い表せばそんな「変われない👪的封建主義としての體質」をかの國は近代化以降もずっと引き摺り今に至る訳なのだ。

 

「変われない👪的封建主義としての體質」=「世間」である。

 

對して欧米圏やまた社會主義體制を布く國國の多くが「内発的近代」を履行して來て居る。

つまり此処日本に其の「内発的近代」は無いのである。

 

まさに其のことをかの夏目 漱石がかって述べて居たのである。

さうして日本の近代化はむしろ須らく内発的なものでは無く外圧に屈する形にて齎されたものであるに過ぎぬ。

 

 

では「和」とはそも何か?

「和」とは「世間としての連帯」のことだ。

 

あくまで其れは「世間の連帯」なので「社會の連帯」とは違う訳である。

つまるところさうして日本社會は「近代の連帯」をして居るのでは無く「世間の連帯」にて万事が滞り無く営まれるカルト國家な訳だ。

 

ところが次第次第に其の「カルトな連帯」にも綻びが生じて來る。

 

6.民主制の機能不全

7.エッセンシャルな労働の崩壊

8.教育の崩壊

 

等が取りあえずは挙げられるがまた其れに加え「宗教的」にも破綻して來て居る可能性が高くある。

 

と以上で述べたことは其の『同調圧力』を読み強く示唆を受けた我が理性が考えたところでの部分を述べたものである。

 

 

9.日本には「社會」が存在して居ない

10.兎に角「同じ」であることこそが至上の価値

11.みんなでもって滅びることこそがむしろ「世間」の論理が欲するところでのもの

 

とのことなのでもう反對意見は誰も言えぬ。

でも其れを言うてる人も居て其れが「同調圧力」には屈しない人人である。

 

また我なども明らかにソチラの側の人間なのではないかと思う。

何故かと言えば「みんなでもって共に滅ぶ」のがイヤなばかりなのだけれども。

 

さて其の「同調圧力」が齎すものとは所謂「全體主義」である。

其の「全體主義」はかっての「大東亜共栄圏」ばかりでは無く「高度経済成長」にせよまた「自民党壱党支配」にせよむしろ全てがさうだったのだ。

 

何故なら、

 

「高度経済成長」反對!!

自民党壱党支配」反對!!

 

とは實はなかなか言いにくい。

つまり其れは「世間」が是認するものなので其れに對し反對することが出来ない。

 

またつまりは其の「全體主義」國家であることから必然的に様様なものが壊れて來る。

現在の日本人の経済的苦境などもまた資本主義に對する「全體主義」がまさに其れを齎して居るのだ。

 

其れにも増して怖いのが先にも述べたところでの「日本人の宗教的崩壊=精神的崩壊」の部分である。

 

何故なら「世間」には宗教が要らず「社會」にこそ宗教が要るのであるから。

日本には社會が無くよって宗教が本質的には要らずでだから最終的に宗教団體などが儀礼化習俗化しとどのつまりは「現世利益」の為の組織と化して行く。

 

そんなもんは無論のこと宗教には非ず。

其れはむしろ👪主義にさし貫かれた「世間」話の類のものでよって厳密には日本社會に宗教其れ自體が存立して居らずだ。

 

 

などとまた過激なことまでつい言っちゃいましたが要するに其れは全てが「全體主義による自己矛盾」の世界のことを述べて居るのである。

 

また重要なことが理性は其れをむしろ「直視」して置かねばならんと云うことなのだらう。

自分はまさに其の「直視」の様を『同調圧力』と云う書籍より強く感じたのである。

 

故に「絶望の度を深める」どころか逆に「絶望の淵より救い出され安堵する」ことが出来た。

要するに其の「モヤモヤ」とした正體不明の息苦しさに對し答えを出して呉れたことに関する爽快感が勝って居たのである。

 

左様に「理性的に」物事を見詰めることでこそ明らかにされる部分が確かにある。

ところが例えば政治で例えるとアノアベだの🐊(アソー)だのまた🐵(ガースー)だの何だのではそも全てが其の理性的範疇以前でのケモノ力の集合體ですので兎に角理性的にはまるで埒が明かぬこととなる。

 

またキシダの場合理性はあっても何せ👪主義ですのでつまりは其の「世間が齎す全體主義」から逃げおおせることなどはまるで出来ぬ。

 

ではどうするの?

どうする、日本?

 

まあすでにどうにもなりまへん。

だから其の「全體主義による自己矛盾」の世界の中を只ひたすらに潜行して行きハッと気付くともはやどうにもならんデカい肥溜めの中に落ちもがいて居たと云うことでせう。

 

何でさうして日本其れ自體を肥溜めの中に落としたくなるの?

いや自分が其れを落としたいのでは無くあくまで自身でもって危険な野っ原を突っ切り挙句にドボーンと其の肥溜めに日本が落ちたのです。

 

 

日本を支配する「空気の暴走」は止められるのか | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

さてこちらの記事はとある塾の先生が「空気」の観点より日本社會を論じられて居るものです。

此処での要点とは「空気」を全否定せずに置きしかも「空気の暴走」は断固阻止するとの点でせう。

 

尚自分の場合にはあくまで其の「空気」とは「全體主義」のことだとさう捉えて來て居ます。

従って其れこそ理論的にはそんな「全體主義」は否定されてしかるべきなのだとも考える。

 

其の「全體主義」はそも村落共同體の如き前近代的な社會に於いては至極有効に働くことだらう社會的原理です。

またつまりは其れが「非近代的な意思決定」なのであり且つ「非合理的な意思決定」なのです。

 

其れ即ち感性主義ー感情に基づく意思決定ーであり要するに👪主義のことでもまたある。

ではあるが其れはあくまで「近代に對し誤謬」であるに過ぎないが「前近代に對し正解」なのでもまたあり得る訳だ。

 

だけれどもあくまで近代と云う時代構造に對し其れは反旗を翻して居るものです。

但し近代は正しいやうに見えて實は「間違い」の塊です。

 

よって問題は「変われない日本の価値構造」を自覚するか否かの部分だと考えます。

其れはむしろ「変われない日本の価値構造」を武器化して行くことなどもまた壱つの日本の理性的選択であるとさう捉えるからだ。

 

 

其処をもっと具體化して述べれば、

 

12.「鎖國」へと進む勇気と覚悟の涵養

13.「共同體主義」へと進む勇気と覚悟の涵養

14.「自給自足経済體制」へと進む勇気と覚悟の涵養

 

との点に於いてむしろ其の日本の価値構造の非近代性が功を奏する可能性なども高くある。

要するに「自己中心的に」國家を成り立たせて行く方が今後かの國が受ける利益は大きくなるものとさう判断する。

 

但し問題は其の全體主義による「洗脳」が日本國民の頭の中をすでに蝕み始めて居ると云うことである。

其処にて「洗脳」=「空気の暴走」=「全體主義」ですので其れに寄りかかれば寄りかかる程に日本人の精神性はダメとなることでせう。

 

 

元より「近代」と云う時代は其の「特殊なる日本の社會構造」とはまるで別箇での大問題を孕むものだ。

「近代」が良いか悪いかと云うことを考えまするにむしろ其れは悪いとさう捉えて行かざるを得ない。

 

従って其れは「近代的な合理主義」に於ける誤りの問題なのでもまたある。

でもって最終的には其の「近代的な合理主義」を肯定するか其れとも否定するかの弐者択壱の選択となる。

 

よって其処に於いて其れを否定出来る可能性はむしろ日本的な意味での「前近代的な意思決定」のあり方であるつまりは「非合理的な意思決定」の中にしか無いと言える。

少なくともさう考えると其の日本人の意思決定の非自立性、概念の非自律化の部分があながち悪いとも言えなくなって來る。

 

従って日本國は其の特殊な社會性の部分をむしろ武器とするやうな方向性へと是非向かって行くべきなのではなからうか。

其れ即ち、

 

15.経済成長には捉われずに経済的自立性を追求する

16.共産主義や社會主義に對する生理的な毛嫌いを無くす

17.肥溜めの中で溺れぬ理性の力をこそ磨く

 

とそんな点に就き頑張れば日本國が良くなる可能性もまた残されて居りませう。

但し『同調圧力』の本の中にはそんなことはまるで書かれては居りません。

 

其処では要するに其の「世間」としての「同調圧力」から「社會」としての「同調圧力」に変えて行くべきだとさう書かれて居ます。

尚「世間」と「社會」は確かに違う。

 

例えば日本の會社は「世間」を渡るものだが他の世界の會社は「社會」を渡り歩くものである。

 

 

さて個人的に「世間體」と云う言葉が兎に角大嫌いです。

「世間體」なんぞを気にするから「個」としての意思決定が出来なくなるとさう良く思います。

 

「世間體」はさうして「肩書き」=「地位又は名誉」にコロリと騙されて仕舞う。

「肩書き」だの「金の有無」などは人格とは無関係な価値でありよって人間は其の人が何を考え何を言って居るかと云うことこそが全てです。

 

さう考えるからこそ「人間の中身」こそが大事になる訳だ。

ところが此処日本社會では「肩書き」だの「金の有無」に對しむしろ人格評価の力点を置きがちである。

 

まずは其れこそが間違って居ます。

 

其れこそ最初に述べた如くに「肩書き」を隠れ蓑と化し惡事を働く輩が此の日本の社會には多く居る。

 

其れと社會と個はあくまで別者です。

ところが多くの日本人がむしろ「世間」=「個人」位にも思って居ます。

 

つまりは其の自我分離が無く共同體の中に埋没し易い。

其のことはこと近代に對しては不利どころか誤り=✖ながらも前近代的な社會システムに對してはむしろ〇です。

 

結論としてむしろ日本國は其の「カルトな封建性」を武器としてまさに其れを+の価値へと是非変換せしめて行くべきだ。

だけれどもあくまで其れをするにはまさに「國際連合」を脱退する位での強靭なる意志の力が必要だ。

 

つまりは其の「空気國家」乃至は「同調圧力國家」其れ自體が近代と云う時代の枠内ではむしろ完全に✖なのですが其処から抜け出すと云う点に於いてはむしろ其れが有効に働く可能性が高くあるのです。

 

 

さて以下では佐藤 直樹先生の考え方を基に日本社會の異質性に就き考察してみます。

 

ーそのような同調圧力も世間に由来するものでしょう。日本人の間では「みんな同じ」という同質性の同調圧力が働くために、隣の人がちょっとでも違う行動をとることに過敏でした。たとえば屋外でマスクをしなかったり、外出自粛要請を守らなかったりと、「世間のルール」に反する逸脱行為とみなされます。これが相互監視を生み出すのです。コロナの感染が広がる中では、世間による同調圧力と相互監視の肥大化につながりました。ー【佐藤直樹】日本世間学会の研究者に聞く、日本に「自粛警察」が生まれる理由:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)より

 

其の「みんな同じ」と云うことは価値ヒエラルキーが無いと云う良い事の筈ですが實際には日本國に於ける身分制の秩序はほぼ絶對です。

だからまずはソコがそも矛盾して居ります。

 

あくまで「みんな同じ」なのであれば例えば共産主義アナキズムとの親和性があるのですが身分価値ヒエラルキーは縦の序列として殊の外堅固ですので共産主義アナキズムも勿論認められません。

 

つまり其の革新的進歩思想とは極めて相性が悪いのがそんな「世間」としての制度なのだ。

また其の「世間」に於ける意思決定の正邪はむしろどうでも良く要するに間違って居てもみんなでもって其れをやり切ることが大事なのです。=戦時中の価値観

 

ーそれが正当化されるのは、「人に迷惑をかける」行為が、日本ではきわめて悪いことであるとみなされているためです。日本では「世間のルール」に反したものに対して、法的根拠もなく、権利や人権も無視されて、世間が事実上の処罰をおこなっているといえます。ー【佐藤直樹】日本世間学会の研究者に聞く、日本に「自粛警察」が生まれる理由:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)より

 

此処日本にはかやうに正確には法律さえ無いんです。

また議会制民主主義其れ自體がそも成立して居りません。

 

要するに其れはズバリ言って前近代的な國家のあり方で要するに精神の方が過去にしか無いと云うことなのだ。

 

ー「空気を読む」「忖度(そんたく)」という言葉も世間に密接に関係していると考えます。劇作家の鴻上尚史さんは「『空気』とは『世間』が流動化した状態である」と定義しています。つまり、がっちりとしていない、ゆるい「世間」が空気だといえます。「KY(空気が読めない)」は、2007年ごろから若い世代の間で広がったといわれますが、この空気に動かされるのも世間の特徴でしょう。ー【佐藤直樹】日本世間学会の研究者に聞く、日本に「自粛警察」が生まれる理由:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)より

 

まさにそんな「空気」による緩い「世間」としての価値を奉じ日本社會及び日本人は動く訳だ。

つまりは其の「世間」乃至は「空気」による洗脳を受けて居るのである。

 


ーこれらのルールは海外では通用しないが、実は11世紀、12世紀ぐらいまではヨーロッパでも「世間」があったという。それを宗教、つまりキリスト教が他宗教を排斥する過程の中で「社会」に変えていった。

同様に日本でも近代化によって「世間」は少しずつ崩れ「社会」に変わっていくと思われたが、グローバル化によって復活し逆に強固になるという現象、バックラッシュが起きる。ー日本人が大事にする「世間」の正体~コロナ禍と日本人論 (seikeidenron.jp)より

 

「社會」=近代的価値であり「世間」=前近代的価値です。

新自由主義的な秩序が「世間」を放逐した訳では無くむしろ其れを強化して居ます。

また文明の危機もまた「世間」を放逐した訳では無くむしろ其れを強化して居ます。

 

ー「日本は明治に入り近代化を進めました。欧米から『ソサイエティ』という言葉が入り、『社会』という言葉を造語します。しかしその当時、日本に『社会』はありませんでした。では、150年たった今、日本に『社会』はあるかといわれると、無いのです。

社会は『インディビジュアル=個人』が集まってできますが、当時の日本には『個人』の言葉はあっても実態がありません。その代わりにいるのが“個人ではない人”です。それはまさに現代のような“悪目立ちしない”在り方です」

明治以降、日本は海外からの法制度や政治制度の輸入には成功したが、その根底にある社会、人間関係の作り方の輸入はうまくいかず、それまでに存在していた集団、つまり『世間』が残ることになる。ー日本人が大事にする「世間」の正体~コロナ禍と日本人論 (seikeidenron.jp)より

 

 

まさしく此の佐藤先生による近代化と世間との関係のあり方ー近代化の失敗ーの解釈の部分こそが最重要での部分です。

つまるところ日本人は精神の近代化にはかうして失敗した訳です。

失敗すれば其処でもってむしろ其れ迄連綿として受け継がれて來た共同體的な感性ー感情ー=👪主義としての感情に頼らざるを得ません。

 

ー「日本人は皆どこかの『世間』に属していて、自分の『世間』の状態をとても気にします。『世間』はウチとソトが隔てられた“閉じた”もので、パブリックが存在しません。日本人は『世間』のウチでのことは積極的にやりますが、ソトのことはどうでもいいと思う。一方、『社会』は原理的に閉じておらず、そこにはパブリックという概念が存在します。『世間』は『社会』より狭い。そのため医療従事者への拍手も一部にとどまったのです」ー日本人が大事にする「世間」の正体~コロナ禍と日本人論 (seikeidenron.jp)より

 

つまりは其の閉鎖環境としての👪主義的な封建體制ダケが大事なのです。

要するにそんな内向きでしかあり得ないのが「世間」であり其れはよもや「近代社會」では無い。

 

尚名古屋人は特に其の「世間體」を気にする内向き志向が強いものと考えられる。

だがわたくし個人に限れば「世間體」は気にせず内向き志向が強いタイプであり其処は少しばかり変種なのであらう。

 

また日本人は「人の目」ばかりを常に気にする。

「人の目」ばかりを気にするから少数派のキリスト教徒にもまた共産主義者にもまさかなれない。

 

だが實際には「人の目」ばかりを気にするやうな奴に自己の意思決定などとても出来ぬ訳で故に要するに頭の中がスッカリ洗脳されて行かざるを得ない訳だ。

また其の意味での精神の非自律性から要するに新興系の邪教などにも洗脳され易いのだとも言える。

 

ちなみに自分は最近ほぼ其の「人の目」を無視して居るが實は其の方が気樂に生きられる。

がなるべく他己を尊重して來ては居る積もりである。

其れでも屡喧嘩などすることが無いでは無い。

 

ー「開催されたらされたで楽しみますよ。そういう空気になるからです。空気というのは非合理的で、持続せず、変わるものです。日本人は思想や信条があまりないので、空気が変われば自分も変わってもいい、と思うのです」

海外と比較すると日本人は合理性に欠けるように思えてしまうが、アフターコロナに向けては前向きな空気が欲しい。息苦しい日本の状況が変わっていくにはどうしたらいいのだろうか?ー日本人が大事にする「世間」の正体~コロナ禍と日本人論 (seikeidenron.jp)より

 

そんな日本人は全く合理的な民族では無くむしろ前近代的で且つ非合理的な感情にまみれむしろ其れにこそ流されて仕舞う哀れなる人人です。

だからかうして歴史のドツボとしての肥溜めにも落ちるんです。

其れもみんなでもって笑いながらドッボーンと其処へ落ちたのですから。

 

さて其の「世間」は結局「全體主義」を招くので其の「正義の全體主義者」等は正しい論理を振りかざし惡を糾弾する訳ですがなんのことは無い、實はソイツラの側こそが洗脳されて居てむしろ惡人なのです。

 

「世間」は結局価値の自己矛盾をかうして招き其れが自己崩壊への引き金を自ら引くのだと言える。

其れと「世間」は基本的に「馬鹿」=「非理性的」でありまるで動物的なものだとさう申しても良いことだらう。

 

なので👪主義などにせよまさに其の本能的で且つ動物的な価値観其のものです。

 

以上から導き出される結論とは、

 

18.日本は脱近代を目指して行けるまさに稀有な國である

19.其の頭の中身が合理的で無いのはイケないことながらむしろ合理主義の亡者となるよりは其の方がマシ

20.なので後は人文學の方をしかと頭の中へ仕込んで政治的には鎖國主義としての江戸時代に戻った方が良い

 

とのことである。

但し馬鹿=洗脳状態だけは治した方が良くまさに其れをやるには「人文學」の方をこそ徹底的に脳内に仕込むと云うことでせう。

カルトな日日ー壱 「七五書店」の閉店ー

カルトな日日ー壱 「七五書店」の閉店ー

 

 

 

 

さて自分が所謂「本屋」に通い始めたのは確か中学生位からのことです。

何故なら小学生の頃は学校、學習塾、お繪描きや習字の塾、其れにカブスカウトとしての活動などで兎に角忙しく余り本を読む暇が無い訳です。

 

但し其れでも本を読んでは居た。

当時読んで居たのは親が買って呉れた「少年少女世界文学全集」ー其の正式名を忘れたのであえてさう呼ぶーと小学校の図書館にて借りて来る「少年少女SF文学全集」ー此れもまた其の正式名を忘れたのであえてさう呼ぶーと江戸川 乱歩作の「少年探偵団」の本の数数でした。

 

まあ其のやうに当時から實は結構レヴェルの高い読書をこなして居りました。

「少年少女世界文学全集」には「参國志」だのまた魯迅の作品だのが収録されて居りつまりは其の「中國物」が好きで其れを愛読して居たが他のものもまた例えばオスカー・ワイルドの「幸福な王子」などにも深く感銘を受けたものです。

 

江戸川 乱歩の方は探偵小説の少年版のもので所謂「おどろおどろしい」感じが何処かにして居て其の種のいかがわしく且つ非眞面目な部分が兎に角好きだった。

またSFの方はむしろ怖い作品が結構ありつまりは電脳化される人間だの超人化されもうまともでは無くなる人間などが屡登場し至極怖いのです。

 

 

が、どうも現實世界の方が實はもっと「怖い」のではないかとさう思い始めたのが矢張りと云うべきか中学生の頃からです。

でもって高校生の頃にはすでに人間自身を見切って仕舞って居りました。

 

なんですが、其の「見切った」部分からもまた新たな認識の旅は始まる訳で、よって其の中学や高校の時分は学校の勉強などはほどほどにして置き主に自分の勉強の為にあらゆる本を読みまくりましたものです。

 

そんな訳で本即ち読書とは我に取りむしろ「人間と云う認識」と何処までも闘わんが為のものでした。

其の「人間其れ自體」が信ずるに値せぬものであるだけに其のことが何故さうなって仕舞って居るのかと云うことに就き自らの頭にて考え其の理不尽な様に立ち向かう為の「理性的な武器」其のものが本の世界だった。

 

まあ其の武器にも色色とありませうがあくまで自分に取り「己が理性」こそが武器なのであり其の武器に栄養を与えて呉れるものこそが書籍でありまた筆記具の類でした。

其の意味ではわたくしはもう長く其れこそもう半世紀余りに亘り其の「人間」とこそ格闘して参ったのだと言える。

 

ですがさう云うやうなことを言って居るのはほぼ作家だの詩人だのつまりは文人の方方に限られるか又は画家さんや音樂家の方方さらに學者の方や宗教家の方に限られる訳ですのでさうか、では自分もそんな人間でしかないんだ、とさう思い此処廿年ばかりはかうしてネットライターのやうなことばかりをして來ました。

 

其れでもって「人間」に勝てたかと云えばまるで勝てない。

ですが其の「人間」の間違い方だけは何となく分かるやうにもまたなって來た。

 

そんな我は本日此のクソ寒い中「本屋」へと向かった。

我が訪れる本屋はすでに「七五書店」だけです。

 

 

文筆家愛した書店、閉店へ 名古屋の七五書店、作品のモデルにも:中日新聞Web (chunichi.co.jp)

 

ところが此処が此の壱月壱杯で廃業します。

つまりは「本屋」としては潰れるのです。

 

勿論其のことは我に取り至極悲しいことです。

ですが社會とはまた常にこんなもんです。

 

かうしてむしろ「良いもの」が無くなり「悪いもの」がむしろ蔓延るのが此の世での常です。

つまるところ此の世にはかうしてまさに理不尽な迄に「嘘みたいな矛盾」ばかりが蓄積して行くのである。

 

また其のこともつまりは我が拾代の頃に自ら學んだ「大宰」や「芥川」の文學からすでに其の全てが分かって居たことです。

従ってまさに其のことは「大宰」や「芥川」の文學からでしか學べなんだ訳だ。

 

ではあったにせよソコへ所謂「宗教的な見地」を加えてみたりしますとまた少し違う「世に對する絶望」のあり方となる。

其れはさうで何故なら宗教は其の「絶望」の地点よりむしろ出発して行くのですから。ー但し其のことは正教に限るー

 

そんな訳でそんな程良い「絶望感」に打ちひしがれつつ此の世を生きて行くことは人間の生き様として決して悪いことでは無くむしろ「良い事」です。

但し其のことの成就の為には其の「宗教的な見地」と「學問的・藝術的見地」とがどうしても必要となる。

 

特に「両義的認識の世界」を生きる我には其の全てが必要なのです。

 

 

ところで以前新瑞橋ピアゴー現ドン・キホーテーの弐階に素晴らしい書店ー「夢屋書店 - Wikipedia」ーがあり其処には宗教に関する本が多くあり我は屡其処にて「立ち読み」をして居りました。

我我の如き還暦を過ぎた所謂昭和の世代の人間はまさに昭和の時代にもうイヤと云う程其の立ち読みをして來て居ます。

 

ですので其れが出来る本屋こそが良い本屋なのだ。

さて其のピアゴ新瑞橋店の夢屋書店も五年程前に無くなりところがもっと家からほど近いところに「七五書店」なる理想の本屋がしかとあった訳です。

 

故に此処五年ばかりは屡此処を訪れて居た。

だけれども次第に壱時間ばかり立ち読みをしても他の客が來ないことが多くなり正直申して閉店も「時間の問題」だらうとは思って居た。

 

何故なら本が売れずとも店舗の賃料や光熱費などがしかとかかる訳ですので要するに「赤字」となって行く他はないことでせう。

其の「商売」とは文學だの哲學だのとはまた違う實利的な世界のことなのだから故に。

 

自分は其の「商売」には根本的に向かない人間なので普通の會社へ入り営業マンとなることを拒み大學を出るとすぐに家庭教師となりましたのです。

故に其の「商売」の世界は自分には所謂「生臭過ぎて」ついぞやれぬ世界のことでしかありませんのです。

 

 

長年の営業に幕。瑞穂区『七五書店』の雰囲気を残しておこう。【みずほん写真館】|みずほん (mizuhon.com)

七五書店 - Wikipedia

 

では何が悪くてかうなるのか?

此処の店主の方も大變「努力」されて居たことを自分は良く知って居ます。

 

ですが結局此の世には「世の流れ」のやうなものがありむしろ其れこそがそんな街の書店としての努力をあざ笑うかの如くに全てを覆い尽くして行くのです。

まさに其れぞ「社會が生み出す理不尽な様」でなくて何なのでせう?

 

かっての文豪連中などはまさに其の「社會が生み出す理不尽な様」をこそ書き描いて行った訳です。

かの太宰 治などもまた自分の自堕落な部分をああして赤裸裸に書き描きつつも結局は「人間の世の中が信じらぬ」様をこそ小説として纏め世に示して居たことでせう。

 

従って此の「社會が生み出す理不尽な様」とは「当たり前」と言えばまさに其の当たり前のことなのだ。

要するにむしろ「当たり前」に「社會が理不尽な様」を生み出して行くものなのだ。

 

であるからこそ文人としての藝術家は常に其の理不尽さと闘わねばならんのでせう。

 

 

七五書店(2023年1月31日閉店)(@75bs)さん / Twitter

 

そんな訳にて「七五書店」の閉店を個人的には悲しんで居るどころかまさに其の「社會への怒り」を世にぶつけてやらうと云うそんな闘争力こそが逆にメラメラと燃え上がって居るところです。

まあ確かに此処でもって此れ迄のやうに「立ち読み」が出来ぬことは我が人文理性に取り大きな損失です。

 

ではあるが「本其れ自體」は決して消え去りはしない。

其れも世がどうあらうが人文理性が批判力を失うことなどは無いのである。

 

七五書店行ってきた感想と今は亡き書林房五常の話|HCCMONO/新棚のい|note

 

かうして其の「自称歌人」もまた色んなことを述べて居りますのです。

なので僕もまた「自称作家、自称詩人」としてもう何でも言ったりますわ。

 

ー相変わらず過激やねえ。

さてもお前體調の方はどうなんか?

 

まあボロボロですがかうしてまだ死んでません。

 

其れと飯だけは常に食います。

其れと💩だけは垂れてもまた居ます。

 

尚「消えた書店」は實際数知れず、だ。

 

 

参拾歳前後で「有隣堂書店」が廃業したこと

有限会社新瑞有隣堂書店 - 新瑞橋 / 有限会社 - goo地図

 

此の「有隣堂書店」が所謂「マニアック」系の店で1980年代にますむら ひろしだの白土 三平だのの漫画本やジェット戦闘機に関する専門書を多く扱う店でした。

要するに其の部分だけを取ればむしろ名古屋随壱でした。

 

古本屋でもって「皇と嵐」とか云う不思議な店もまたかって弥富通りにあった。ー但し其の店名は不正確であるー

こちらでは雑誌「太陽」や文學系の本等で良い物が出て屡通って居た。

こちらもまた四拾歳前後の頃に閉店して居る。

 

尚書店はむしろ「大き過ぎない」方が良い。

つまりは落ち着いて長時間に亘り立ち読みの出来る「七五書店」位の店舗こそがベストだったのだと言える。

 

 

同調圧力 | 現代新書 | 講談社 (gendai.media)

名古屋発 日帰りさんぽ 溝口常俊(編集) - 風媒社 | 版元ドットコム (hanmoto.com)

 

さて此の弐冊を本日は買い込んで來た。

他にも欲しい本は無論のことあったが其れはまたアマゾンにて購入出来る。

 

尚其の地元版の日帰り遊びの本は高い本だしまず買わぬ本ながら「七五書店」にて最後に買った本即ち思い出の本として思い切って購入した。

結局は現存在が最終的に何処に逃げるかと言えば其れは「地元」の部分であらう。

 

即ち例え今後「文明が崩壊」するにせよ最終的にはさうして「地元の価値」だけが身近なものとして生き延びる訳だ。

其れと我自身が何時寝たきり老人と化すかもまた分からぬことなのでとりあえずは此処名古屋と云う地元にて出来れば今目壱杯に遊んで置きたい。

 

 

で「同調圧力」の方は文字通りに其の「同調圧力」のことにてまさに其れがかの日本社會が抱える壱つのビョーキである。

もしかすると其のビョーキのせいで日本社會に於ける平等性や自由さなどが破壊されて來て居る可能性が案外高くあらう。

 

左様に日本人は「思想」や「宗教」を自ら進んで選択出来ぬと云うまさに恐るべき精神状況に追い込まれて居るのやもしれず其処を考えるとかうして名古屋人として遊んでばかりもまさか居られぬ。

 

だからとりあえずは其の「同調圧力」のことに就き自分なりに考えてみたい。

そんな訳で最終的には「七五書店」の閉店に悲しみつつ付き合うやうな暇ー心の余裕ーなどは何処にも無し。

 

そんなのはまさに冷たい…。

 

いや只寒いだけだ。

兎に角かう寒くてはまるで體が動かん。

 

ちなみに29日の日曜日には大島真寿美 - Wikipedia吉川トリコ - Wikipediaが來店するとのことですので其の様子だけでも窺いに行かうかとさう思って居ます。

また其の大島 真寿美氏と吉川 トリコ氏が書いた「七五書店」に関する文章の資料なども本日貰って來たところである。

 

かうして日日はむしろ「破壊的」に過ぎて行くが其れでも我にはどうしても破壊せずに守りたいものがあり結局其れは己が人文理性としての生命だけなのだった。

我に取り永遠にカルトな場ー壱 三河の闇苅渓谷のことー

我に取り永遠にカルトな場ー壱 三河の闇苅渓谷のことー

 

 

 

 

ウドちゃんの旅してゴメン傑作選[字] - Gガイド.テレビ王国 (tvkingdom.jp)

 

本日午前中に此の番組をメーテレにて視た。

すると其処で番組の終わりの方で其のウドちゃんが闇苅渓谷 - Wikipediaを訪れて居たのである。

 

其の闇苅渓谷こそがあくまで自分に取っての秘境である。

だが三河の人人に取っては別に秘境でも何でも無くまさに良く知られた観光地でありキャンプ場である。

 

其の闇苅渓谷へはおそらく子供の頃には行ったことがある。

ところが其れ以來此処を訪れたことが無い。

 

水とみどりの森の駅|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト (okazaki-kanko.jp)

動植物図鑑|くらがり渓谷|水とみどりの森の駅|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト (okazaki-kanko.jp)

 

【旅行】くらがり渓谷*愛知県岡崎市*2019.8 - Bing video

 

かうして日本の各地の何処にでもありさうなちょっとした渓谷でもって別に「秘境」と言う程の処では無い。

ならば何故此処が我に取り秘境となったのか?

 

 

1.此の三ヶ根山 - Wikipedia方面は名古屋市からはほど遠く元元余り縁が無い

2.但し此の近辺には形原温泉 - Wikipediaがあり所謂紫陽花園が有名で其れを観に毎年訪れて居たことはかってあった。ー其れも参拾代初めの頃にー

3.其の闇苅渓谷には「プラナリア - Wikipedia」が居る。

 

さて高校壱年生の頃に我は「生物クラブ」を必須クラブ活動として選択して居た。

だが我我はすでに文系クラスだったので其の「生物クラブ」はたった参名しか居なかったのだった。

 

しかも我以外の弐人は「美術部」の奴等である。

其の「美術部」のISHIKUMAとTAKIGAWAは名古屋人である。

 

奴等は「生物クラブ」のクラブ活動目録の表紙に何と絵を描いて居た。

まあわたくしもまた文學のことばかりを考えて居るロクな者では無く従って其の「生物クラブ」とはほぼ「藝術倶楽部」だったのである。

 

でもって「生物クラブ」の研究テーマはやがて「プラナリアの再生能力」と云うことに決まったのだった。

其れは確か「生物I」の教科書に其のことが載って居たのであった。

 

 

其れではまず「プラナリア」を捕獲して來ねばならない。

其れは結局ISHIKUMA君が闇苅渓谷へ行き捕って來ることとなった。

 

で捕って来た。

よって其処にプラナリアが何匹か居る。

 

其れを徐に切断したりもまたする。

兎に角左様に切り刻み其の再生能力を調べ上げる。

 

 

くらがり渓谷のテレビ情報 | 切っても再生する?プラナリア 身近な場所で採取! | 所さんの目がテン!(2020/07/26(日)07:00) | TVでた蔵 (datazoo.jp)

放送内容|所さんの目がテン!|日本テレビ (ntv.co.jp)

 

プラナリアは結局どう切らうがまず再生する。

だが当時個人的には其の再生能力に強く関心は示せず要するに「下等なる動物」の持つ能力であるやうに思えて居た。

 

人間とはさうした下等動物とは違い例えば文學者としての大宰や芥川の如くに「人生其れ自體に就き思い悩む」謂わば實存的な存在なのだからして。

だがプラナリアちゃん自體はとても可愛く兎に角至極興味深い生物だった。

 

夏休みが終わるとTAKIGAWA君が警察に捕まった件でもって担任の数学教師Iから虐められ結局退学する羽目となった。

彼は同じ瑞穂区の高級住宅街の出の子で所謂「良いところの御坊っちゃん」だった。

 

彼の家へ遊びに行くとまるで蓼科や軽井沢の別荘の如き家で其れはなかなか名古屋では見つからぬ兎に角瀟洒な家であった。

また彼は何度も家へ遊びに來たりもして居たものだった。

 

そんな訳で其の「生物クラブ」の研究の方もメンバーが弐人だけになりしかも我は文人だからまるで手が動かない。

おまけに友達のTAKIGAWAが学校から消えたことがショックでもうどんな文も書けぬ状態にある。

 

其れでもって結局ISHIKUMA君が孤軍奮闘し研究成果を纏め上げた。

ちなみに壱度其のISHIKUMAが描いた繪を観たことがあったが其処からは「繪の才能の何たるか」と云うことを強く知らされたものだった。

 

 

さて其の「プラナリア」とはまるで関係無い話ながら其れから約廿年後に父の🚙がとある🚙に追突されたが其のドライヴァーが何とTAKIGAWA君の父親だったさうだ。

TAKIGAWAは其の後どうなったのか知らないが兄弟には名市大🏥の医師なども居り立派な家柄の人だったのでおそらくは苦労を重ねることとなったのだらう。

 

まるで別荘の如き其のTAKIGAWA君の御宅は廿年程前に取り壊されて仕舞う。

今でも覚えて居るのは弐階の窓から彼が身を乗り出しデカい女郎蜘蛛を撫でたりして居たことである。

 

何でまたそんな変なことばかりが起こるのかまるで分からない。

曰く、人生不可解。

 

自分は其の後より文學としての悩みを深め岩波書店の『芥川 龍之介全集』を求め以降其れを愛読して行くこととなる。

当時は父が勤める役所の関係で書籍などが買えたのでまさに其れを頼んだのである。

 

 

"再生医療の鍵ともなるプラナリアの再生の秘密"8/9 所さんの目がテン!「切っても死なないプラナリアの神秘に迫る!」 - 教養ドキュメントファンクラブ (ksagi.work)

 

尚こちらのブログには其の「プラナリア」の再生能力に就いての詳細な記述がある。

だけれども基本文人の我はほぼ其の「再生能力」に就いて興味が無い。

 

むしろ自分に取って興味のあるのは其の「過去となりし記憶」のことである。

其れも其のISHIKUMA君やTAKIGAWA君が其の後どうなったと云うことでは無くそんな不可思議で且つ不穏な空気に包まれて居たかの昭和の時代のことがまるでつい先ほどであったことのやうに思い返されたりもすることだ。

 

そんな遠い過去の出来事が特に還暦以降はむしろ近しい現實の如くに蘇って來たりもまたするのである。

 

さて「プラナリア」の再生能力はやがて「科学的」にも再現出来るやうになるのであらう。

だが最も大事なこととは、其のまさに万能的な「再生能力」が眞の意味で現存在に取り必要なのかどうかと云うことだ。

 

我は其れを「不要」な力として捉えて居る。

其れも其の「プラナリア」の再生能力を調べた高校時代より「不要」だとさう思って居た訳だ。

 

何故なら其の「プラナリア」は人間と違い如何にも「下等」な生命だったのだから。

其の「下等」さに見合った能力として彼等は其の万能的な「再生能力」を持って居る。

 

だったら何でまた人間様が其れを眞似する必要があるのだらうか?

どだいTAKIGAWA君が高校を去ったことなどの方が余程に納得のいかない所謂社會的に矛盾した現象だった。

 

つまるところ其の頃より我が悩みの内容の全ては現存在自身の矛盾的認識ー矛盾的価値観ーへと向けられて行くこととなるのである。

 

 

凄すぎて、もはや怖い。謎の生物「プラナリア」の最強伝説とは? | せつない動物図鑑 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

かうして科学の目は結局物事を「合理化」して捉えて行く。

だから科学技術文明に於ける全てがより「合理化」された方向へとなだれ込んで行く。

 

されど其の「合理化」其れ自體に文人の我は今大きく疑問を持つ。

 

プラナリアというのは、ウズムシ類に属する動物の総称。昆虫の幼虫などを食べますが、肛門はありません。うんこは口から吐き出します。ー以上より

 

此のプラナリア」にはそも肛門が無くさうして💩を口から出すのである。

物好きなアンタもしや其れを壱編やってみますか?

 

いずれにせよ「自然」は確かに「神」の如きものだが其の「神」と人間とは違い何故なら人間は口から💩をしたりはまさかせぬものです。

要するに口から💩をするやうな下等な生き物だからそんな万能的「再生能力」をもまた同時に持つのである。

 

下等?

では🐕や🐈もまた🐗や🐅や他の獣達も皆下等なのですか?

 

いや其れ等は少なくとも「人間」では無い。

では逆に問う、さても其の「人間」とは何か?

 

其の問いに對する僕の答えは、

「人間とは分を弁える」者との謂いである。

 

つまり「分を弁えぬ者」はまさか人間じゃない。

じゃあアンタの周りは全部が其の人間じゃない奴等ばかりなので?

 

さうは言ってません。

只文明社會はまさか「人間じゃない」とさう言っただけのことです。

 

 

其の「人間じゃない」文明の価値観が暴走するともうロクなことにはならん。

第壱其のうちに人間から肛門を無くし口から💩を垂れるそんな人ばかりになるのやもしれません。

 

 

山奥の滝壺でプラナリアを大量捕獲!!!## - YouTube

 

さても何処でこんなにプラナリアが捕れたのだ?

でもって其の澤山のプラナリアをどうするのだ?

 

まさか食うのか?

 

プラナリアの再生実験 (sakura.ne.jp)

 

尚其の「下等な」動物程概して滅多矢鱈に増えるものです。

まさにさうした部分こそが生命體としての基本原則です。

 

ですが其処でもってよーく考えてみませう。

ひょっとしてひょっとすれば人間もまた滅多矢鱈に増えて居ないでせうか?

 

其のことをもう誰も言いませんが事實其の人間が滅多矢鱈に増えて居ます。

人間が滅多矢鱈に増えることと其の「下等な」プラナリアが滅多矢鱈に増えることとは例え生物學的には同じ現象であるにせよ哲學的にはまるで違う現象です。

 

即ち、

 

プラナリアが滅多矢鱈に増えること<人間が滅多矢鱈に増えること

 

となり其れは何を表すのかと申せばズバリ「リスクの増大」をこそ意味して居る。

つまるところ現代文明はまさに其のハイリスクな部分を自ら生み出しつつある=まるで分を弁えて居ない、のです。

 

分を弁えることとは「理性的」であるか無いかと云うことです。

「理性的」で無いからこそかうして何でも滅多矢鱈に増やして挙句に立ち行かなくなり自爆するのがすでに目に見えた形での文明としての末路でせう。

 

そんな訳で「プラナリア」が居る其の闇苅渓谷こそがまさに我に取り永遠にカルトな場ともまたなり得るのです。

宗教的な意味での精神の自立性とは?ー資本家(國家)による全體主義から我等の精神の自立性を回復させる法ー

宗教的な意味での精神の自立性とは?ー資本家(國家)による全體主義から我等の精神の自立性を回復させる法ー

 

 

 

織田へ金で売られた「徳川家康」不遇すぎる幼少期 | なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

徳川家康は「日本人に嫌われる性格」の典型だ | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

其の家康公が優れて居た部分とはズバリ「考える力=人文理性の力」だったことでせう。

家康公は其の力を人質生活の中での読書により築き上げました。

 

だから其の力はむしろ誰にも奪えぬ家康公自身の力だった。

また「不遇」も何も無く逆に「不遇」故に其の力が涵養されたのでした。

 

其の「考える力」は江戸幕府を通じて壱貫して居たのだとも言える。

即ち江戸時代とは其の人文的な理性の力にて成り立たせたところでの人類の歴史上稀有なる安定した時代だった。

 

 

逆に明治以降の近代日本は富国強兵と殖産興業とに勤しむまさに野蛮なる先進國の壱員となって行った。

ですが其の江戸時代はさうして他國を侵略することなど無く「限定的統治」を實現して居た訳だ。

 

まさに其れ程理性的で且つ平和主義を實現した文明は他に類を見ないのであります。

また其の統治の理念的原則とはあくまで「限定」である。

 

だが其の「限定」こそが現代文明とはまさに眞逆での価値のことだ。

現代文明は左様に限度を知らぬ「非限定的統治」を政治にまた行政に對し強いる文明のあり方です。

 

其のやうな「生物種としての現存在ーニュータイプとしての🐵共ーが分を弁えぬ社會」を推進させればさせる程にむしろ社會は壊れて來ます。

 

 

其れもどうのかうのでは無く、「理性的」な統治で無ければ「近代文明」は維持出来ない。

其れは近代を啓蒙したかのカントやルソーなどがむしろ口を酸っぱくしつつ述べて居たことです。

 

なのに其の近代の行く着く先がこんなコピーやロボットだらけの世の中なのか。

其のコピーやロボットだらけの世の中からはやがて「考える力」其のものが抜け落ちて行く。

 

其れも最終的に現代人は所謂スマホ浸けとなりつまりは其処にて程良い馬鹿の漬け物其れ自體となりEQレヴェルが著しく下がることになってます。

其のEQレヴェルが限り無く零に近くなりもうパッパラパーの家畜の群れよりバカになりつまりは限り無く本能化して行く。

 

 

理性の本質的意義とはまさに其の「限定」にこそある。

また例えば宗教にせよ藝術にせよ其の本質的意義とは「限定」にこそある。

 

でも藝術は「爆発」なんでせう?

其の「爆発」と「限定」はそも違うではないか。

 

藝術の「爆発」はあくまで内部での「爆発」であり外部を「爆発」させるものではよもやあり得ない。

むしろ藝術は心静かに其の美の対象を見詰める=「限定」する行為である。

 

宗教はさらに其の内部をも限定してやまぬ。

 

 

永平寺に学ぶ食の作法 - YouTube

禅寺の精進料理 - YouTube

 

例えば宗教で面白いのが此の「食」に於ける「限定」だらう。

左様に禅宗などは兎に角きちんと綺麗に物を食います。

 

まさに其れが「理性的」な物の食い方である。

逆に動物は其れを食い散らかし其の「綺麗さ」にはまるで拘って居ない。

 

尤も其の「綺麗さ」は壱種の「観念的潔癖性」のやうなもので其れが本質的に自然の営為に對し効力を有するものでは無い。

要するに其処まで綺麗につまりはまるで椀を舐めるが如くに綺麗に食わんでも自然其れ自體はあくまで清浄其のものでありむしろ人間の心のあり方の方が汚れて居やう。

 

従って宗教とはあくまで「人間の汚れた心=認識」を根本より正さんが為のものとなる。

まさに其のことの為には其の壱見無駄に見える潔癖な具象性の部分が大事なこととなるのである。

 

 

即ち身の周りの汚れは「精神の汚れ」に即繋がるのであるから。

さて現代人に欠けて居るかのやうに見えるのがまさに其の「観念的な形式性」の部分である。

 

其の「観念的な形式性」は「美」を理解することにも繋がる壱種の「精神の上での拘り」のことだ。

さうして佛教の各宗派に於ける典座の方方は常にさうして「本質としての食」を日日用意して居られる訳だ。

 

だが我我現代の世俗の者が得られる食事とは謂わば「虚としての食」であるに過ぎぬことだらう。

だが此の體に對し飯は「眞」も「虚」も無く常に其れは「生きんが為の天よりの食」なのだ。

 

其の思いにてかって釈尊は布施としての食事をしたが或いは其れが痛んで居たのか其の飯に当たり其の死期を早めて仕舞ったともされて居る。

其の食事が生命に取り重大事であることはかうして禅宗に於ける食に於ける作法などを視るにつけ直ちに了解されることである。

 

また重要なことは其の禅宗が其の「食事」と同様に「掃除」も認識上の修行其のものとして捉えられて居る点である。

其の掃除が行き届いた禅宗の寺などをたまに訪れると嗚呼まさに心が洗われる感がする。

 

其れも汚ねえ我が家からソコへ出向くと余計に何やら淫売窟から佛の世界へ至ったやうな気さえもがまたするものだ。

 

さて今わたくしが述べて居ることとはまさに其の「理性とは本質的に潔癖性を有する」とのことである。

また其の「潔癖性」は宗教に限らず藝術の分野にても見出されることだ。

 

 

即ち藝術作品に基本的に「ダラケた」物などは無い。

「ダラケた」物は所謂「贋物」=「偽物」であり其れを藝術作品だとはまさか言えぬことだらう。

 

ところが此の現代なる社會構造はむしろ周りを「贋物」=「偽物」ダラケにして仕舞って來て居る。

つまりは全てが「コピー」の「ロボット」としての「偽物」なので「本物」の持つ「潔癖性」など其処に望むべくも無い。

 

まさに其のことを我は「認識上の誤謬」の問題であるとさう捉えるのである。

 

じゃあ全部がそんな寺になれば良いのか?

えっ?

 

じゃあ全部が寺や教會か若しくは「美術館」のやうにピカピカになれば良いの?

いやなれば其れに越したことは無いがこんな貧民窟で且つ淫売窟の世間からもはや我我は脱することが出来ない。

 

つまりは其処には「理性」が無く従って「限定」もまた無い。

第壱現代文明其れ自體に「理性」が無く従って「限定」もまた無い。

 

 

 

曹洞宗・安泰寺 ドイツ人住職 ネルケ無方 - YouTube

 

其の食に對する「潔癖性」がまた違う形で出て居るのがかうして自給自足にて僧侶が暮らす寺としての安泰寺でせう。

要するに海外からの佛道修行者を多く受け入れて居る自給自足の貧乏寺のことながら其の行いは常に示唆に富み魅力的に見える。

 

さて其の大変理性的な方だと思われる元安泰寺の御住職のネルケ氏のことを我は勝手に師と仰ぎまさに私淑させて頂いて來て居る。

 

 

さて佛法にも様様がありあくまで其の教えの内容としての本質部は千差万別なのだと今我は考えて居る。

また少なくとも大乗佛法以前の原初的な佛法としての要素には所謂「社會性」の部分が組み込まれて居ない。

 

其れは何でかと申せば「釈迦の佛法」は言わば「個」を救わんが為の教えであり故に「國家」だの「政治」だのとはほぼ関係の無い「解脱其のもの」に就いての考察であり哲學其のものであったのだった。

 

で御釈迦様御自身は自らが「解脱」せんが為に「國」もまた「👪」もお捨てになられた所謂人間味の無い方なので其れを感情論の面から解き明かそうとすると即齟齬を來たし其の試みは悉く徒労に終わることだらう。

 

要するにカントやショーペンハウアーよりももう壱段階理性的な考え方なのでまず凡人には理解出来ないものと見て置くのがむしろ正解となる。

理性と云うものはむしろさう云うものでありつまるところは宗教家にせよ藝術家にせよ考えて居ることが庶民ー凡人ーとはまるで異なるのである。

 

 

だからあくまで其の「眞の意味での理性=智慧の段階」から見る場合には人生は有るよりも無い方が良くまた其の社會もまた有るよりも無い方が良く👪などもまた有るよりも無い方が良い。

まずはソコんとこが凡夫には絶對に分からない点だらう。

 

 

仏教とは、ゲームを降りること | 人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方 | web春秋 はるとあき (shunjusha.co.jp)

 

まずはこちらにて「リアル」と「バーチャル」の話がなされて居ます。

其れが何でかと申せば佛法其れも原始佛法では「現象界」其のものを「虚妄分別」の賜物だとさう見做して居るからなのだ。

 

其の「虚妄分別」とはズバリ「虚偽としての認識に惑わされる=迷わされる」状態だと云うことです。

従って極論的に言えば我我現存在の認識其のものが其の「迷いとしての認識」=「虚偽としての認識」其のものの内側にしかない。

 

だからつまりは物の見方が全部間違って居ると云うことなんです。

さう兎に角全部が間違いなのだ。

 

だがこんなに綺麗な自然も間違いなので?

まあ厳密には間違いだ。

 

そんなもん所謂全否定じゃねえか!

まあ其れにも近い。

 

だから価値構築すれば自己矛盾せざるを得ぬそんな壱種魔的な世界こそが此の現世其のものなのだ。

なので此の世に価値構築したい其の気分其れ自體がすでに妄執であり虚偽としての産物なのだ。

 

アンタそんなもんもう滝から飛び降りた方が良くはないか?

だからかってのインテリさん方はまさにさうしたんでせう?

 

また文豪さんとか画家さんとかがさうしたんでせう?

なんだけれどもさう「全否定」してもまさか此の世は消えない訳だ。

 

何でかと申せばオギャアと生まれた其の「認識」其のものが変わらんので何時迄経っても此の世は変わらんのである。

でも変わらんとどうなるの?

 

まあ滅亡するしかない。

そんなバカな!!

 

 

要するに其れは「罪の自覚」の問題です。

ネルケ師はキリスト教が危ういとさう仰せですが自分はむしろ其の「罪」の自覚こそが最も大事なのだと思う。

 

つまりは「現象界」其のものが「バーチャル」な認識でのもので其れは相対認識ー大脳新皮質と旧皮質によるアンバランスな価値認識ーに於ける想像世界ー妄想世界ーでしか無いのです。

 

だが「学校」も「會社」も「外國」もかうしてちゃんとあるぞ。

まあ縁起の副作用としての「外界」として其れが虚妄分別されて居る訳だ。

 

じゃあ其れも自分が生み出した幻なのか?

より正確には「現存在の認識の形式性」により虚偽分別された「本來的」には不要な価値のことだらう。

 

だが最も問題なのが其の虚偽分別其れ自體が70億も80億もまた100億も積み重なると容易く地球は壊れると云う部分にこそある。

要するに我我現存在は認識上「リアル」な価値を見詰められぬやうにさう出来て居ます。=「👿」なのだと言ってもまた良い。

 

もしや其の「👿」を地球上から追い出す宗教こそが其の「原始佛教」なので?

まあ其れも文學的に壱種強過ぎる表現ながらまさにさうしたことです。

 

對してキリスト教の場合には其の👿共を回心させまさにあの世にて神の眷属として分別其のものを焼き直す訳だ。

 

 

「ゲームを降りる」

エッ?と思われる佛教徒の方も中には居ることでせう。

 

そんな方は「佛法は世の為人の為になるものだ」とさう思い込んで居られませんか?

確かに「世の為人の為になる」佛法を目指す大乗佛教の宗派などもまたあることでせう。

 

ですが其のやうに所謂「社會的」な佛法は元來釈尊が説かれた佛法とはまるで別物です。

本來的に佛法とは「人間と云う迷いの認識としての現象」其のものを抹消せんが為の教えですのであくまで其れでは逆方向の教えとならざるを得ない。

 

其の意味ではあくまで其の「ゲーム其のものを降りる」ことこそが佛法上の正しい選択となります。

「ゲーム其のものを降りる」のですから、其れこそ其の「ゲーム」から起因するところでのあらゆる虚偽としての力ー例えば地位や名誉や権力、さらに國力やあらゆる現世利益ーからもまた同時に離れて行かねばならない。

 

尚其のやうな認識に至って初めて「物への趣味」が発生するのだと個人的にはさう思って居る。

また其処では其れ以上「罪」を重ねぬ為に其のことをあえて利用するのである。

 

 

次にネルケ師は現存在の「嘘コキ」のことに就き書かれて居ます。

でもって学校の教師や父母はむしろ此の世の實相としての非本來的な世界の方に「洗脳」され切って居るのでむしろ「社會=體制中心」に価値観を組んで居ます。

 

ですが其の「體制」が正しいとはむしろ限らず其の體制をこそ粉砕せよ!とさう述べて居るのが其の学校の教師や父母とは正反對のことを述べるアナキストです。

其の「體制」は平和が長く続けば必然的に腐り壊れて來ますがあくまで其れを「正しい」とさう信じて居るとまさに其れが正しいのでアナキストの考えの方が✖なのです。

 

だから其の信じた侭に「體制」は沈没して行きます。

なのでさう云うのが最終的に「嘘コキ」だと云うことでせう。

 

對してアナキストは政治の上での眞實を述べるがあくまで其れは学校の教師や父母に取り「思想上のオウム教」の如きものでつまりは顧みるだに値せぬ単なる妄言の類でのものなのです。

ですが戦時中の共産主義者アナキストは皆さうして「戦争反対!!!」を叫びつつ獄中にて死んだのです。

 

 

つまり「社會的に正しい」と云う価値は往往にして「嘘」なんです。

第壱戦後大儲けした日本の🚗産業などはもうどんだけ地球を壊して來たか分からん位のものですがあくまで経済的には「偉い企業」ですのでそんな嘘コキの枠内では何処までもむしろ偉いんです。

 

また上場企業は皆資本主義の戦士であり偉いんです。

たとえ地球を壊さうがどうしやうが偉いんです。

 

なので其の社會の論理に我が身我が頭を浸しつつ長く歩んで居ると所謂「本質的価値」に對し鈍麻しちゃう=おバカ化しちゃう。

對して藝術や宗教の方ではそんな状況に對しまた疑問などが呈される訳ですが所詮かの岡本 太郎氏は壱人しか居ないのだしまた現代では麻原だの大川だのと云う異常な教祖しか出ない訳でして其処はもう出て來ない方が良い位でのものでせう、そんな偏執的な教祖等は。

 

じゃあ果たしてどうしたら良いんですか?

 

だからもうそんな社會から降りたんでせう?

はい、スッカリ降りさせて頂きました。

 

其れならもうどうかうすることも無いでせう。

言わば其の「降りた」との事實こそが此の人生の懊悩に對する回答であり洗脳を解いたと云うこと其のものなのだから。

 

 

一神教はなぜ争うのか? |BEST TiMES(ベストタイムズ) (kk-bestsellers.com)

仏教の冷たさ キリスト教の危うさ - Bing video

 

さて以前此の著作より大きく示唆を受けて居ります。

其の佛教とキリスト教の違いに就き考え込んで居りました折にまさに其れが非常に勉強になったと云うことです。

 

ネルケ師は兎に角キリスト教に関して厳しいと云うかそも可成に批判的な態度を貫かれて居る。

要するにキリスト教による教えでは自分は救われず其の代わりに佛陀の教えの方を選ばれた訳ですのでまず当然と言えば当然です。

 

ですがあくまで我が解釈によればあくまでキリスト教であれ救われる人は大勢居られることかと思う。

問題は其の佛教とキリスト教の違い以前での「宗教離れ」=「精神の合理化」の面にあり其れは壱言で言えば極めて危険な精神の状態を此の世に現出させる。

 

要するに「合理化」はして良い部分としてはならない部分がそもあると云うのに其の理を知らず現代社會が「精神の合理化」へと突き進むが故にかうして大問題が生じて仕舞う。

對して我が國の大乗佛教が抱える矛盾などもまた常に大きいものがある。

 

要するにキリスト教にせよまた大乗佛教にせよ存続の危機に面して仕舞って居ます。

ところが其れ以上にヤバいのが現代人に於ける「精神の非自立化」の問題でせう。

 

 

其のことの根本には「國家」による「圧迫」の部分が21世紀以降より強く「個」に對しのしかかって來て居ると云うまさに社會的な大問題があります。

要するに「全體主義」の度がより強く國民の生活其のものを締め付けて來て居るのです。

 

まさに其れは「現代文明」其れ自體が凋落若しくは崩壊の域に達して來て居る訳であり其の主犯は主に経済的な意味での合理性の追求でせう。

また別の表現で言えば資本主義社會に於ける「無制限な発展の追求と儲け主義」=「富裕層による飽くなき欲望の追求」其のものが國民の生存権までをも危機に陥れて居るのです。

 

ところが社會の支配層は其のより「金と力を持つ」人人ですので要するに其の「資本の論理」の自己矛盾構造により現代社會は崩壊して行かざるを得ない。

また其の意味からもさらに悪循環を繰り返し「精神の非自立化」が進んで参ります。

 

極端な話、其の宗教家が諭すところでの「聖なる御話」などに耳を傾けずとも「會社の上司だの資本家だの國家だの」の言うことを只ハイハイと聞いて居れば其の場だけは丸く収まります。

でもって其の「ハイハイ」でもって實は恐ろしい「洗脳」が行われる訳ですがイザさうして洗脳されし壱般大衆はたとえ苦境に陥らうとももはや誰にも文句は言えぬ訳です。

 

 

なのでそんな腐った社會構造はむしろ自分の側で「ブロック」し且つなるべく「捨て去る」ことこそが大事な点です。

また其の「捨て去る」ことはキリスト教の場合にも可能なことではないかと個人的にはさう感じて居る。

 

少なくとも其の「文明規模」での経済的「洗脳」に對し自分なりに考え捨て去るべきところは捨て去ると云う精神的な意味での自立性の有無こそが今や現代人には大きく問われて居るのではなからうか。

 

また其の「解脱」に関し宗教は大きく意義を持つものだと考えます。

其の種での極めて現實的な面にまですでに「全體主義」による恐ろしい「破壊」の様がさうして突き付けられて居るのです。

 

よって「現代」とは現存在の「精神」に取りまさかでの「最悪」の時代なのだとも申せませう。

ですが自由主義を標榜する國ではあくまで其の過ちに満ちた現代社會の基本原理を「捨て去る」自由の方もまたさうしてしかと保障されて居る筈です。

「JinHao X159」に嵌まりまくる今年の我

「JinHao X159」に嵌まりまくる今年の我

 

 

 

 

黒田日銀が「自爆」した…総裁退任の直前でやらかした「ハイリスクな奇策」の中身 このまま無事に退任できるか? (msn.com)

 

其の日銀が良いのか悪いのか今の私には正直分かりませんのですがどちらかと言えば矢張り悪い方なのではないかとさうも思って居ります。

と申しますか資本主義自由経済體制其のものに自分は大きく疑問があるのですがとりあえずは物だけは色色と其処にて買えるんですね。

 

個人的には其の「物」がまた大好きなのでとりあえずは其の観念的な「疑問」には蓋をして置き前へと進みませう。

 

 

早稲田のシンボル『角帽』ピンチ!!! 応援部、クラファンで復活プロジェクト – 早稲田大学 競技スポーツセンター (waseda.jp)

 

さても其の『角帽』がどうしても欲しい!!!

 

【2023年最新】大学角帽の人気アイテム - メルカリ (mercari.com)

 

おおっ、おおおおおおおー、かうして決まって値が高え。

しかも早稲田のは皆売れとる。

 

大幅値下!【希少品】同志社 角帽 - メルカリ (mercari.com)

 

でも同志社のは安い、だが同志社の角帽なんぞは要らねえぞ。

 

早稲田大学 角帽 学帽 59cm - メルカリ (mercari.com)

 

コレだ!!だが売れて居た。

實は我が頭はまるでネアンデルタール人の如くに後頭部が突き出て居り従って帽子は60センチ無いと入らないのである。

だが59センチあれば何とか入らぬでも無いことだらう。

 

 

ヤフオク! - 早稲田員久 油彩画 真作 アンティーク (yahoo.co.jp)

 

素晴らしい薔薇の繪だ、是非とも欲しい。

 

此のやうに其の「資本主義自由経済體制」の中では次次に欲しい物が生まれて來る。

従って決まって「欲望」に火が点き實際何時迄経っても満足されぬこととなる。

 

だから其処ではむしろ「欲望」の「限定」ー縮小化ーを行うことこそが理性的な営為となる。

だけれども「欲望」の「限定」化はまた可成に難しい。

 

だが其の弄物が卑しいことだと分かった上で其れをやるのはまさにかの壱休禅師が卑しいことだと分かった上で「👩に触った」ことと同じでつまりはすでに「風狂の境地」に達して居り逆に〇である。

 

 

ちなみにたった今我には狂いまくって居るペンがありまさに其れがJinHaoのX159である。

師走に初めて壱本を求めまずは其れに度肝を抜かれた。

 

JinHaoの159自體はかって参本を求めたまに使って居たが其れは至極重い金属軸のペンで結局今は使って居ない。

 

ところがX159なるニュー159は軸が軽く作りの方がより良く感ぜられる。

 

1.其の軸の精度の良さは拾段階評価で9.5以上ーつまりは9~10ーとなる。

2.理想的な重さー28グラム~29グラムー

3.巨大な8号のペン先の出来が秀逸

4.フィード(ペン芯)の出来もまた秀逸

5.兎に角低価格ー其れも九百円台からあるー

 

よって総合評価で百点中95~100点を与えられる。

またつまりは日本のメーカーの廉価万年筆で此れに太刀打ち出来る品が皆無である。

 

6.現在我が使うX159は弐本。

 

基本的にどちらも秀逸なペンだ。

但し細かな部分での個體差のやうなものはある。

 

JinHao X159 緑軸

 

JinHao X159 緑軸

JinHao X159 緑軸




JinHao X159 靑軸

JinHao X159 靑軸



緑軸…インクフロー(インクの出方)を良くせんが為に最初に可成書き込みを行った。

靑軸…最初からインクフローが良い。

 

でもって共にコンバーターにインクを入れセットしただけではインクは出ないから少しインクにペン先を浸す必要がある。

だが其れでダメだと思ってはならぬ。

 

何故なら経験上むしろインクが最初出にくいペン先の方がインクの出が良い場合が多い。

結果的に靑軸の方は「馴らし書き」をせずに最初から完調である。

 

尚此のX159のペン先は交換する必要を感じさせない。

其れ位に出来の良い鐵合金のペン先なのだ。

 

 

此の大きなペン先は元より柔らかいものでは無いが生硬な硬さを感じさせずしかも安っぽくも無い。

だから何で此のペンがたったの千円で買えるのだらうか、其れもこんな円安なのに。

 

要するに此のX159の最大の売りの部分は其のコスト・パフォーマンスの高さにこそある。

つまりは此のX159を拾本買っても総額壱萬円で済む。

 

さて此のX159は単に「チープ」な品とは違う。

即ち100円ショップで売られて居る日本のメーカー製の108円の万年筆や或は540円の万年筆などとは本質的に異なるのである。

 

何故なら、

 

7.万年筆に求められる部分とはまずは「筆記具としての本格性」であり

8.さらに作りが良く長期に亘り安定的に使える部分

 

なのだ。

 

でもって普通其れが可能となるのが弐千円以上する御品となるのである。

ところが、此のX159こそがまさに其の部分をこそ半値で満足させたのである。

 

 

JinHao X159 Acrylic Fountain Pen Metal Gold Silver Clip Fine 0.5mm Nib Writing | eBay

 

おまけにかやうに色合いやクリップの金色、銀色などが選べる。ーこちらは我が購入する出品者の品だー

例えば弐本目はダークブルーの軸でペン先やクリップは銀色ークロームメッキか?ーの方を選んだ。

 

其れがまた大変シックな色合いで夜だと黑に見える位のものだ。

だが兎に角調子が良いペンなので最近は此の弐本のX159ばかりを使って居りつまりは他の万年筆を使う機會がめっきり減って仕舞った。

 

Jinhao x159 • あらゆる面で優れている? • 万年筆レビュー - YouTube

 

正直其の「あやゆる面で優れて居る」廉価万年筆である。

無論のこと世界壱の廉価万年筆となることかと思う。

 

最近はかうして欧米の愛好家もJinHao 100や此のJinHao X159をべた褒めして居る場合などが多い。

其の理由の壱つに欧米では今万年筆が高級品化して仕舞って居り其れも壱萬、弐萬の世界では無く皆拾萬程の世界のものと化して仕舞って居るのである。

 

要するに万年筆其れ自體が眞の意味での「特権層」=金持ちの為の御品であり趣味と化して仕舞って居るのだ。

だが其れこそ昭和の時代位までは場合により良い万年筆を安く購入することなども可能だった訳だ。

 

またつまりは「万年筆趣味」其れ自體が「特権層」化して仕舞った。

だが例えば左翼アナキストとかで頭は良いが金の無い人もまた居る訳ですのでそんなもんでは其の「悪い社會」とまるで闘えぬではないか。

 

だから其の為につまりは「特権層」をやっつける為の御勉強を重ねんが為にまさに此のJinHao X159が製品化されたのだらう。

いや違うか、要するに中國共産党の其の覇権主義が此のペンを生み出したとも言えるのだらうか?

 

兎に角現時点で日本の万年筆メーカーはもう明らかに敗北しておる。

でもって勿論日本の万年筆メーカーでも同じ位の物は幾らでも作れるが最低で五千円、いや其れもまた苦しく大體壱萬円位の品となって仕舞うことだらう。

 

 

The $10 Jinhao x159 fountain pen - not a Montblanc 149 alternative but a darn good pen - YouTube

 

其の独逸の壱流万年筆であるモンブラン149ですが、

 

価格.com - モンブラン マイスターシュテュック 149 (万年筆) 価格比較 (kakaku.com)

 

かうして其のNo.149の現行品の価格を調べてみたところまさに驚愕の値となっておった。

しっかし幾らなんでも12萬とか10萬とか其れは無いでせう?

 

だったらもう現行品は買わずにヤフオクなどで4、5萬の70年代物を買う方が御品の作りも逆に良いことですしずっと御得です。

要するにモンブランと云う企業其れ自體が所謂金権資本主義と結託して居り要するに地に落ちたと云うことでせう。

 

 

でもってしてNo.149は確かに良いですが現行品に限れば拾萬だ。

でもNo.149を眞似て作られたJinHao X159の方はあくまで千円です。

 

無論のこと本物に比ぶれば当然にチープ感はあります。

但し其のチープ感は所謂「安からう、惡からう」のチープ感では無くまさに「値段以上に出来の良い」チープ感なのです。

 

兎に角今我は此の万年筆にゾッコンで實は参本目もすでに頼んである。

其れはアボガド・グリーン即ち春を先取りするかのやうな御色をした御品である。

 

勿論最終的には壱年をかけ拾本は得たいとさう考えて居る。

尚同じ万年筆を何本も買う奴はバカじゃねえかとさう思われるのやもしれぬがあくまで其れはさうでは無い。

 

實は万年筆には個体差があるので拾本位買えば弐、参本が完全に「当たり」の御品となるのですから。

尚自分はかって高価な万年筆でも大抵は弐、参本ずつ持って居りましたものです。

 

 

兎に角此のJinHao X159には此処のところ完全にしてやられて來て居り逆に本家としてモンブラン149を使う機會が減って居ると云った始末である。

尚中國の万年筆の歴史はまさに「模倣」の歴史でありかっては「パーカー」の製品が眞似られて居たが最近はさうして独逸物まで眞似られて居るんである。

ーJinHao 100などはパーカーのDuofoldを眞似て作られたものですー

 

但し眞似て同じやうに金ペン付きの高級万年筆とするのでは無くあくまで廉価万年筆として居るところにこそ面白さがある訳です。

ちなみに先程此のJinHao X159の日本での売値を調べてみたら何と四千円台の後半から六千円台もの値でもって売られて居た。

 

とするとべらぼうに儲けて居る奴が其の日本の文具業者の中には居ることでせう。

 

かうしてJinHao X159は兎に角樂しい万年筆です。

其れ即ち「安くて良い」物を得ることこそが今の我に取り最も樂しい物との付き合い方なのだからこそ。

 

 

金豪 X159のヴァリエーション及び仕様諸元

「パイロクスマンガン鉱」の採集はサイコーに樂しいことだった

パイロクスマンガン鉱」の採集はサイコーに樂しいことだった

 

 

 

 

「クラシック音楽沼」にハマった人たちの“凄まじい沼りっぷり”、クラシックオタクがお教えします (msn.com)

 

さてコレクションと云う意味ではかうしてクラシック音樂に限らず何でも其の蒐集の対象となることでせう。

其れもまた、

 

1.肉體的余裕

2.精神的余裕

3.金銭的余裕

 

が無いと結局は出来やしないことですので「コレクション」をして居られること其れ自體が可成に幸せなことだと言えることでせう。

また其の「コレクション」が下賤なことであるかどうかに就いては、「半分下賤」にてむしろ「半分高尚」なのだと個人的には思う。

 

昔から所謂「玩物喪志」なる言葉があるがでは「常に志が高くあり人類文明の御役に立つ仕事を為した」なんてのは果たして良い事なのか其れはこと哲學的にはなかなか良いとは言えぬことです。

どだい「人類文明の御役に立つやう頑張りました」系での科学者なり企業なりが實はセッセと地球を破壊して居たりもまた致します。

 

なのでむしろ自分は其の地球の破壊を阻止せんが為にかうして物と戯れ遊んで來たのだと言える。

其れと人類の社會は所詮馬鹿ですので完璧な統治だの完璧な體制だのは布かれず其れでもって結局は自分等の欲を満たさんが為の権力の使い方しか出来ずよって社會其れ自體もやがては搾取されまくりつまりは壊れて参ります。

 

だから其れとも余りまともには向き合うべきでは無い。

逆に眞面目な人が「世直し」をしやうなどと思い頑張るとかの大塩 平八郎の如くに焼け死ぬ可能性などが高くあらう。

 

と云うことは結局其の「社會の馬鹿」とは付き合わずにむしろ自己本位に「遊び」を追求して居た方が幸か不幸かインテリのアナタには向いて居やう。

尤も其の「遊び」には其れこそ「藝術」や「宗教」方面での真摯なるものから単純なる物質趣味迄大きく幅があるのだとまた思われる。

 

また「読書」などもまた其の「遊び」の壱種である。

では所謂「👩遊び」や「ギャンブル」などはどうなので?

 

アンタ其の弐つは歴とした犯罪ですよ。

其の生臭い遊びの類をしては決してなりません。

 

 

兎に角其のやうに、

 

「僕は文明や人類の矛盾から逃れる為に『物』へと逃げる」と云う考え方はむしろ壱番御利口な選択となることだ。

また其れは「僕は文明や人類の矛盾から逃れる為に滝の上から飛び降りる」ことよりも遥かに建設的な生き方となることだ。

 

まあ昔のインテリはさうして良く滝の上から飛び降りたものでしたが其れももういまどき流行らない人生の苦悩の上での解決法である。

だからもう逃げれば良いんだ、其の「物」に。

 

また読書や藝術などの場合にもあくまで「物」として其れをやるのもまた悪くは無いのではないか。

まあだが其れも余りやり過ぎるとかの岸部 シロー氏の如くに自己破産するに至る訳だから兎に角程程にして置きませう。

 

但し其の「限度内」ではむしろ目壱杯に其れをやらねばなりません。

何故ならとりあえずは「蒐集への根性」が無いとコレクターなどにはなり得ないものです。

 

1.肉體的余裕

2.精神的余裕

3.金銭的余裕

 

さて此の参点の要件を満足させるにはむしろ「独身」である方がやり易くなるものだ。

従って其の「蒐集への根性」を貫かんが為にあえて「独身」を貫く方もまた男女を問わずに居られるものです。

 

ですが個人的には「文明及び現存在の認識に對する疑問」が余りにも大きいが為に僕は独身を貫いて來て居ります。

尚さう云うのはむしろかのカントやショーペンハウアーが独身を貫いた理由としかと重なることでせう。

 

さて其のカントには妹が居て「結婚したい」と言ったので兄のカントは其れに大反對したさうですが結局彼女は嫁いださうです。

ですが其の後カントは其の妹と壱言も口をきかなくなったさうだ、其れも此の世を去る迄。

 

つまり其のおそらくは歴史上人類壱理性的だったと目されるカントは「結婚」を本質的には全否定して居たことでせう。

まあ御釈迦様なども当初はほぼ其れに對し「全否定的」でしたので其処は矢張りと云うべきか「理性」に取って結婚は墓場以外のものではないのです。

 

なので其処からも「理性的な人」が「物」に走るとの精神の上でのパターンはむしろ昔からあったことなのでせう。

だけれどもより「理性的な人」は「物」では無く「観念」に走るものですので其の分「物の趣味」はどうしても下品となる。

 

 

さて其のやうに我が論理ではあくまで「物趣味」を肯定的に捉えて居りむしろ精神的な格闘の深み=「観念地獄」に嵌まることよりは良いことだとさう規定し終えて來て居ます。

 

 

 

ヤフオク! -「パイロクスマンガン」の落札相場・落札価格 (yahoo.co.jp)

 

さて此の「パイロクスマンガン鉱」ですが地元愛知(名古屋)での鉱物ショーには拾年程前迄は良い物もまた出て居たが此処拾年程壱級標本の売り物を見ては居りません。

よって今はむしろヤフオクの方で其れこそ引退されるコレクターさん方が良い標本を放出されて居る感じが此処参年余りは続いて居る。

 

其れと今やヤフオクの方での「パイロクスマンガン鉱」の注目度の方が地元愛知(名古屋)での鉱物ショーよりも高いものがあることでせう。

パイロクスマンガン鉱」の産地である其の田口鉱山もすでに立ち入り禁止となり久しく要するにほぼ絶産して居る訳です。

 

ヤフオク! - パイロクスマンガン石 国産鉱物 (yahoo.co.jp)

 

つい忙しさにかまけ知りませんでしたがこちらなどは小さいながら良い標本です。

 

ヤフオク! - 国産鉱物 愛知県田口鉱山 パイロクスマンガン石 (yahoo.co.jp)

 

こちらもまた昨年暮れに出た良い標本でした。

 

ヤフオク! - 国産鉱物 愛知県田口鉱山 パイロクスマンガン石... (yahoo.co.jp)

 

ところが私自身は其れよりも前にこちらを得て居ました。

結論から言えば前者の方が良かったかと思われます。

 

 

但し石もまた縁のものであり「得られた物」こそが全てなんです。

其の私が得た方ー後者ーの石は所謂形と大きさが程良く其れは其れで独特の風格のやうなものが何故かある石です。

 

然し結晶部の赤みの方がイマイチです。

まさにソコは前者の標本の方がより赤かったことでせう。

 

 

ヤフオク! - 国産鉱物 愛知県田口鉱山 パイロクスマンガン石 (yahoo.co.jp)

 

ちなみにこちらが今出されて居る石ですが左様に可成に赤い結晶部をして居ます。

 

ですが昨年此の神奈川の出品者さんより得た標本が此の種の赤さを持って居た。

 

赤い結晶付きの神奈川よりの標本1



赤い結晶付きの神奈川よりの標本2

 

其のパイマン標本の「赤さ」はまた難しいもので概して「赤さ」は強い方が良いのですが實は「赤さ」ばかりでも無く例えば、

ヤフオク! - パイロクスマンガン石 国産鉱物 (yahoo.co.jp)

先の此の標本なども結晶の仕方が至極良い訳です。

 

ですのであくまで石の諸要素としての総合的な判断とはなるが其れでも「大きくて赤い」結晶部が付いて居れば其れだけで壱級標本となることは間違いありません。

 

 

尚個人的に昨年よりパイロクスマンガン鉱標本の壱つー自己採集した標本ーを「握り石」と化して居ます。

 

其れは6✖4センチ程の母岩付き標本で或は全體的にパイロクスマンガン鉱なのやもしれないが結晶部はさう華やかなものでは無い。

故に「握り石」になって居る訳ですが其れがある意味では糸魚川翡翠」の「握り石」以上にパワーがある感じすらする。

 

矢張りまるで三河産の赤味噌の如きパイロクスマンガン鉱にはまさにアノ家康公並みのパワーがあるのでせう。

 

 

自己採集での分離結晶ー小ー

自己採集での分離結晶ー大ー

 

尚此れ等の分離結晶は坑内から採取した物です。

大の方の中央部の分離結晶は壱センチ以上ありしかも厚みの分厚い良質な石となる。

 

 

S氏標本

 

其の「握り石」は此の石とはまた違う物ながら此れに近いやうな石を握って居ると云うことです。

但し全體がパイロクスマンガン鉱のやうですので結局此れよりはずっと上でせう。

 

田邊標本

 

高名な鉱物コレクターさんである田邊さんから廿年程に譲って頂いた標本で何とズリにて拾われたさうです。

 

No.1標本ー1ー

No.1標本ー2ー

 

此のNo.1標本は吹上の名古屋ショーにて求めた物で10年程前に五千円程値切り弐萬以下程で買って居ます。

 

其の結晶部は最大弐センチ程もある立派な物です。

 

自分は此の「値切り」が實は関西人並みに上手く弐、参萬の石の場合大抵4、5千円は引かせてしまいます。

 

 

鳳來寺山自然科学博物館に展示されて居た巨大な標本ー2006年ー

 

此の標本はおそらく地元奥三河のコレクターさんからの貸し出し品なのかもしれません。

 

結晶部の赤い色合いが素晴らしかったやうに記憶して居ます。

 

確か廿センチ以上はあった巨大なパイマン標本でした。

 

鳳來寺山自然科学博物館に展示されて居た巨大な単結晶ー2006年ー

 

こちらはおそらく弐センチ以上あったと思われる巨大な結晶弐個です。

「寄贈」とありますので博物館の持ち物のやうです。

 

 

パイロクスマンガン鉱は今や日本随壱の結晶鉱物として相場が確定して居ますが其れも1970年代位までは三河設楽の壱部の人しか知らないどーでも良いやうな鉱山の捨て石でした。

 

故に当時は鉱山のズリー捨て石場ーに幾らでもありおそらく其の中にはとんでも無く素晴らしい石なども混じって居たことでせう。

 

また当時の田口には鉄道があり其の駅の横手に其のパイマン結晶が混じった捨て石が大量に積まれて居たさうです。

さらに其処から簡単に良い石を選んで持ち帰ることなども出来たさうだ。

 

要するに当時パイロクスマンガン鉱などはまさにどーでも良い捨て石だったのです。

 

でもって当時は名古屋人もまたそんな石が奥三河で出るなどとは全く知りませんでした。

第壱三河なんぞは香嵐渓と鳳來寺しか知らず設楽なんてそんな山奥へは誰も行ったことが無いのです。

 

だがそんな山の中にこそかうして御宝が眠って居たりするものです。

 

パイロクスマンガン鉱の採集へは都合15回程は行ったでせうか。

其れも今思えば人生に於いて最も樂しい出来事だったのだと思います。

 

其れは其れでまた大名古屋の百貨店などとはまた違った魅力があった訳です。

其れも静けさに満ちた山のさ中でそんな💎が取れる訳ですので其の百貨店以上に魅力的であったのだと今思い返せばさうも思われます。

Plasticsの樂曲の強い藝術性に就いて

Plasticsの樂曲の強い藝術性に就いて

 

 

 

 

さて詩人は相変わらず日日實存的な格闘を独り続けて來て居ります。

また本なども読んで居て其処に重要な発見がありましたのですが其の件はまた後日にでも。

 

尤も今は何でか知りませんが音樂のことをかうして語って居ります。

結局其の「藝術」の領域の存在とは現存在が必ずしも合理的理性領域を生きる者では無いことを指し示して居る。

 

「藝術」は元來ピピッと感じるもので要するに論理以前での認識上の美的把握のことだらう。

ところが其の美的把握が動物的ー本能的ーなもの其のものではむしろ無い部分にこそまさに「藝術」たる所以での認識上の屈折の部分がまたあるのだと思う。

 

要するに其れは動物には「藝術」も「宗教」もそも理解されることが無いと云うことだらう。

逆に申せば彼等はそんな屈折など無しに其の「美其のもの」や「やってはならん事=限度」を知り且つ弁えて居るのである。

 

だから我我人間が「藝術」や「宗教」を最高度の精神的営為として認めることはむしろ彼等の「天然として備える美」だのまた「元來救われて居る様」への憧憬であり且つ回帰をこそ指し示す様なのだ。

 

故に其の「回帰」には「合理性」其れ自體はむしろ不要となる。

なのではあるが其の方向性を定めるものはむしろ「理性」の方である。

 

ところが其れは逆方向を向いた理性なのである。

即ち「非合理的な理性」としての範疇のものである。

 

 

従ってあくまで其れは動植物が本能の侭に感ずる「ピピッ」では無く「理性」にて捉えられる類での「ピピッ」のこととなる。

 

とイキナリまた小難しいことを述べましたのですが御分り頂けたであらうか?

要するに「藝術」や「宗教」は精神としての方向性が同じだと云うことをこそ述べて居りまた其れが「自然回帰」への流れを含むものであることを述べたかったのです。

 

逆に申せば所謂「文明病」としての「進歩をしたいだけして兎に角ホモ・サピエンスの皆が金持ちになり贅沢がしたいです病」とは精神の向きが正反對だと云うことなのでもまたある。

 

尚其の「進歩をしたいだけして兎に角ホモ・サピエンスの皆が金持ちになり贅沢がしたいです病」はむしろ「死に至る病」其のものでせう。

ですが「文明反對ー!!」とか言いつつ騒ぎ回りますと最終的には精神病棟か留置場へ入れられて仕舞います。

 

じゃあ精神病棟や留置場にて死んだ「正しい人」は此れ迄にむしろ多く居たのかもしれないね?

ええ其の通りにて全く怖い話だがさうだとしか思えません。

 

まあ昔は藝術家の多くがさうして訳の分からん死に方を皆しても居ましたので多分其れなどもあったことかと思われます。

 

ところで藝術家の人其れも可成にイッてるタイプの藝術家の人は世の中の常識とは逆のことしか言ってませんがさう云うのもまた関連して居るんでせうね?

おお其れは良いところに気がつかれましたね。

 

まあ僕の言説などもさうですが兎に角分かりにくいでせう?

…ソコは確かに。

 

だから其の分かりにくいのがそも「藝術」なんです。

さうかなあ、何だか騙されて居るやうな気がどうしても致しますのですが…。

 

 

なのでソコはあくまでアナタの信じて居る其の常識こそが腐ってるんです。

 

だからそんな風に直に言うからみんながもう拒否感を示して仕舞うんですよ。

どだいもう少しやわらかくものが言えんのですか?

 

いや腐ってるものは腐ってる。

それにしてもまるでアノグレタのやうな言い分だな。

 

いやグレタ氏が言う言わぬに限らず其の温暖化にて現代文明は壊滅します。

「文明反對ー!!」

 

ところで詩人さんは何でそんなに文明が嫌いになったのか?

うーん、何でかなあ。

 

要するに其れが「不自然」なのですよ。

現代文明の全てが其の「不自然」なのです。

 

 

では現代文明は何処へ行くのですか?

なので此の侭では地球温暖化へと眞っしぐらです。

 

ですがストーヴを焚きませんと寒くてまた體が持ちません。

其れにハンバーガーなどもたまには食いたい。

 

でもって結局はみんながさうですので文明の方向性を変えることは出来ない。

つまりは其の自己矛盾によりまさに文明は崩壊致しませう。

 

だがそんなこと位は「藝術」や「宗教」にとってすでに自明のことです。

要するに彼等は何せ「感度」が良いからすでに「分かって」居ます。

 

 

兎に角自分はそんな意味での「藝術」や「宗教」に於ける「気付き」の力をこそ信じて居ります。

本質として其の力は「社會」が齎す力とは背反するものです。

 

であるからこそ其れは「純度」の高い認識の力であることだらう。

するともしや「社會科」の方では文明を救う処方箋が見つからないと云うことなので?

 

おそらくはさうなりませう。

まさに其の「逆方向」を向くものの中からのみ其の解決の糸口が示されやう筈です。

 

 

IGNORE - YouTube

 

其のPlasticsはかうしてこのアルバムにてより表現の美的完成度を高めて行ったのだと思われる。

其れも内面的に潜航し其処でより藝術的な意味での對話の内容を深めて居るかのやうに感ぜられる。

 

ステキな人はどこにいるの?——佐藤チカと戸川純 - 生前服 (seizenfuku.com)

 

さてこちらにはPlasticsのヴォーカルとして活躍した佐藤 チカ氏のことを含め初期のPlasticsに就いて詳しく書かれた部分が載って居る。

そんな美術系でありファッション系である彼等がある面ではYMO以上の文明批判力を持つ樂曲の数数を持ち歌として保って居たのである。

 

尚美術系でありファッション系である所謂ニューウェイヴバンドは他にも色色と当時結成されて居たことかと思われる。

だけれどもPlasticsの樂曲はあくまで其れが「藝術」の域にまで高められて居りであるからこそかうして我は40年にも亘り彼らのファンなのだ。

 

またさうしてPlasticsの樂曲は海外での評価の方が高かった訳だ。

要するに其れは「日本人にはまだまだ分からん音樂」其のものだった訳だ。

 

其れと其の80年代の初頭当時に「現代文明批判」を眞顔でやる藝術の分野など此の國にはほぼ無かったものと思われる。

其れもかの岡本 太郎氏などを除いてはさうだったのでせう。

 

でもって實はいまだにPlasticsの樂曲が日本人に理解されて居るとは正直まるで思えませんのです。

要するに其処に込められた「文明に對する批判精神」がそも理解されないものですから其の藝術としての本質部もまた分かっては貰えないのです。

 

 

尚佐藤 チカ氏は明らかに歴史上日本壱ブッ飛んだ女性だったと言えることでせう。

個人的には清少納言紫式部またユーミン以上に過激な歌う女傑だったのだと思う。

 

つまりはほとんど「狂気」と紙壱重ながらまるで狂わぬまさに精神的に最強としての日本の女性でせう。

 

コピーはロボット COPY=ROBOT DVD付き PLASTICS / プラスチックス | プラスチックス, 熊谷朋哉(SLOGAN) |本 | 通販 | Amazon

 

こちらを實は持って居ない。

持って居ない=どうしても欲しくなる

類での本である。

 

MELON -SUSHI BUSINESS (LIVE) - YouTube

MELON -GATE OF JAPONESIA (LIVE) - YouTube

 

Melon - Farwaway & Farout Mix - YouTube

Serious Japanese MELON 『夜のヒットスタジオ』 - YouTube

 

Plasticsが解散して後に中西 俊夫氏は佐藤 チカ氏と共にMELONとしての活動を開始するが其のMELONはPlasticsの如き批判精神をすでに失って居たのだと言える。

だから其のMELONとしての樂曲の数数は少なくとも藝術作品として世に屹立する訳では無かった。

 

其処からしても藝術表現は常に難しいものなのだと言えやう。

藝術とは或いは「作って創れる」やうなものでは無いのやもしれぬ。

 

逆に「作為無き」魂の叫びのやうなものこそが眞の意味での藝術表現を可能とするものなのではなからうか。

 

Yellow Magic Orchestra - Full Album - Best Of YMO - YouTube

 

其のYMOの曲をあえて今聴くと矢張りと言うべきかPlasticsの樂曲よりも壱般性ー通俗性ーの方がより強く感ぜられる。

と云うことは其のPlasticsによる藝術表現の方がよりストレートで且つ力強いものだとも言える。

 

良く言えばYMOの曲は流石に「商業的に洗練」されては居るが「心に食い入る」部分がより少ない感じである。

事實としてもう長くYMOの曲を聴かなかったがPlasticsの曲の方は相変わらず月に何度も聴いて居たりもまたするのである。

 

だから我に取りNo.1のニューウェイヴバンドは其のPlastics以外には無い。

其れこそベートーヴェンジョン・レノン並みに崇拝して居るのである。

 

 

Plastics - Welcome To Plastics - YouTube

Plastics - Welcome back (1980 - Full Album) - YouTube

 

ほら、サイコーだ、まさにコレがサイコーのゲージツ作品で無くて何であらう?

 

其処では常に佐藤 チカ氏による狂った歌い振りが兎に角良かったのだと言えやう。

 

だが厳密にはいまだ其のPlasticsが日本人に理解されて居るとは言えぬことかと思う。

要するに何かを勘違いしつつ其れを聴いて居て故に彼等の藝術の本質部がまるで伝わって居ないことかとも思う。

 

80年代の伝説のバンド、PLASTICSが完全復活! メンバー立花ハジメが語った | チケットぴあ[音楽 J-POP・ROCK] (pia.jp) ー但し13年前の記事です。ー