目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

さう佛法を學びつつ自分の思想に就き語るー認識上の大問題としての素朴實在性をむしろ再評価するー

さう佛法を學びつつ自分の思想に就き語るー認識上の大問題としての素朴實在性をむしろ再評価するー
 
 
 
 
 
 
 
 
まずはこちらの記事を是非テクストとして採用ー引用ーさせて頂きたい。
無論のことソノ佛教を學ぶが為のテクストとしてです。
 
尚佛教には元元多くの宗派が有りソノ宗派により考え方ー基礎認識ーが變わったりもし大層御勉強の方が難しいものなのです。
尚ワタシはほぼ四拾年間程佛法に就き學びましたのですがむしろソノ宗派によりコダワル部分の違いを考えない方が良いとする派での方でせう。
 
だから「法華経」が絶對だとかまた「極樂浄土」が絶對だとかまた他の色んなコダワリの部分などをまるで意に介して居りません。
なのでそりゃおめえの宗派の考えに過ぎずどだい釈尊がさう述べられしものでもねえのにソコでナニを突っ張ってんだよ!
 
 
との思いなどがまた強く御座ります。
 
またワタシは宗教的にもまた天邪鬼でして要するに佛教ダケが人類を救うものとはまるで思って居らずだからもしもボクが地獄へ堕ちたら今度は全能の神にゼヒ救って頂きたい、などともまた實に不謹慎ながらさう思うのです。
 
でもワタシはチャンと勉強をして來ては居ますよ。
あっ、君はイマソレを嗤ったな!
 
そんなおめえはな即地獄へ堕ちるぞよ。
 
 
まあいい、場所柄余り不眞面目でもイカン。
何せ御堅い宗教の御話ですのでとりあえずは猥談とギャグだけはしかと封印して置かないと…。
 
 
 
ーでは、なぜ、仏教の考え方は、それ程までに理解が難しいのでしょうか?
 それは、仏教の世界観が、殆どの人が普通に持っている世界観とは大きく異なっているからです。
 通常、私たちの世界観は、いわゆる素朴実在論に根ざしており、全ての人が同じ世界に住み、いつも同じ世界を認識していると思っています。
 それとは対照的に、仏教では、いわゆる物理的な世界も、私達の心の世界の一部であると考えられているのです。
 
 
さてソノ佛法ですがズバリ申して「難解」です。
難解ですが、所謂頭の良い部類の人類には理解されぬものでもない。
 
じゃあバカが分かるのかと言えばたとえバカでもEQレヴェルの高い人も居られるのでさうした方方にも理解される可能性は有るものと考えられやう。
でもってして個人的にはかうして「哲學」の分野が何故か得意なものですから元元佛教の世界観が特に異質なものには感じられませんでした。
 
また哲學者の中にはアノ佛法ジジイであるショーペンハウアー氏なども居られまたソレがナゼカわたくしの座右の書ともなって居りよってあくまでワタシには普通の思想なんですがたとえば👪や友人などにショーペンハウアーが好きだとさう言ったにせよまるで意味が分からん人がほとんどですのでまるで言うては居らずあえてココの場のみでさう言うて來たのでした。
 
 
コレがまさにカルト度の高いコダワリでせう。
 
でもって世間はむしろ、
 
1.👩がスキ
2.カネがスキ
3.ゼータクがスキ
 
との参重奏ですのでソコにショーペンハウアーはまさか入って來ぬ。
 
 
4.佛教はキライ
 
まあソレもさうでせう、何せさう佛教は難解ですので。
 
 
 
さて問題はまさにソノ「素朴實在論」にこそ兆す。
ワタシもかって哲學の面から大衆の素朴實在性の部分を批判して居ります。
 
ではナゼ「素朴實在論」ではダメなのかと申せばつまりがソレでは理性的に生きる基盤をまるで持てないからなのであります。
ところが動物界ーケモノの世界ーでは理性もクソも無く兎に角むしろ「素朴実在論」ダケの世界となる。
 
でもって結論から申せば動物は「素朴実在論」ダケでもむしろ御の字なのだ。
いやむしろ動物がそんなカントだの観念論だの言い出したらもう怖いでせう。
 
なので動物はさうバカですが元元ソノバカを生きるのが彼等のなりわいです。
でもですよ、でもソレをニンゲンがやっとってはイカンでせう。
 
 
なんとなれば我我ニンゲンには新しい脳味噌ー大脳新皮質ーがくっついて居りますがな。
ええっ?でも自然に還れ!とかそんなことを言う自然農法家のやうな人もまた居ますよ!!
 
ほえ元元ニンゲンが自然に還れる筈がねえじゃねえの。
 
 
ちなみに人間は考える葦、なのだ。
なのでソコから考えることを抜くとタダの葦となるのさ。
 
要するに大衆はほぼ動物並みの認識しかやれて居ないとのことなのだな。
またそんな酷い言い方をして…。
 
アナタも結局はアノグレタ氏のやうに嫌われるのだぞよ。
アアエエよエエよもうワシはかうして耄碌ジジイなのだし。
 
 
するとすでに👩には興味が無い?
うーん、余り興味は無いがでも👩に食わして貰うことなどには少しダケ興味が有る。
 
するとヨレヨレのジジイがよりにより若い👩を狙っておるのですか?
まあさう狙うダケの気力が有る分だけ凄いのではないだらうか。
 
 
ところで果たして今はナニの話をして居るのでせう?
無論のことソレはソノ難解な佛法に就いての話ですよ。
 
 
 
 
ーおりしも、科学の世界でも、20世紀前半以来の量子力学の進歩により、素粒子の状態確定に、人間の意識が重要な役割を果たしていることが分かり、それによって、人間存在にかかわりなく初めから確定した状態で存在している物質世界という物の見方に見直しが迫られており、全ての人がいつも同じ世界を認識しているという、素朴実在論はもはや過去のものになりつつあります。
 現在では、現実世界は、無数の在り方の可能性の中から選択された世界であることと、その状態確定と選択に、人間の意識が介在している可能性があることが、明らかにされています。
 そして、そこで提示されつつある、新たな科学的な世界観は、正に仏教の本来の世界観と、極めて似ていることが明らかになりつつあるのです。
 これまでの素朴実在論を前提とした仏教解説は、惑星の動きを天動説で説明しようとする試みに似て、不自然で無理のある印象が拭えず、仏教の本当の奥深さと科学的な妥当性を分からなくしてしまっていました。
 
 
ところで最近アナタは昔と違い引用部とは無関係に話を飛躍させるから読者が読みにくくてならんのですよ。
だって仕方が無いですよ、まさにソコが我が文學の世界なので…。
 
 
さて所謂「常識」なるものは素朴實在性に基づくものとなる。
ソコのところから佛法を読み解かうとするからこそまるでウソコキみたいな解釈がのさばることとなるのです。
 
ですのでまずは、
 
5.哲學的な視座を持ち
6.宗派を比較しつつ多角的に捉える
7.「信仰」以前にまずはソレをやりませんと妄信するに至る
 
 
かうした幅広い佛法理解と哲學的批判性が無くば特に原始佛教を理解することは常に難しくならう。
 
 
でもってして佛法とは原始であるか小乗であるかまた大乗であるかを問わずに「認識論」でありつまりは「心のあり方」の問題となる。
さう凡夫のココロのあり方がそも惡いので變な世界認識であり誤った現實世界の選択をして仕舞うのだとさう捉える。
 
即ち、「ココロの迷い」からついさうなるのです。
ですからソレは👩だからまた子供だからダメなのでは無く👨でも金持ちでもまた権力者であれ皆ダメなんです。
 
ですが實際には認識上のレヴェルの違いは確かに存します。
確かに佛陀以外は皆凡夫ではあれかうして佛教のことを語れる人はまた違うのではないでせうか。
 
 
もしやそんな佛法ライターさんになりたいのだね?
いえワタシの書くものは常に不謹慎で且つ不眞面目でありつまりは佛法を語るやうな資格には常に欠けてる。
 
…だよね。どだい佛陀がタイム・スリップする位なのでソレをバカ話として聞く人は居るにせよまさかマジメに読んではもらえますまい。
 
 
 
いずれにせよ、ソノ認識世界の多重性と云うか虚妄性と云うかそんなものに関しては現在科学的にも証明されつつあるのでせう。
但しワタシ個人としてたったイマ考えることとはむしろ「素朴実在論」の強みと云うことです。
 
 
ソノコトを言い換えれば大衆の認識の打たれ強さとのことに尽きる。
要するに少し文學的に申せばアノ天才作家の芥川 龍之介がソノ晩年に「河童」なる作品を書きソコにて「生活教」の醜さをこっぴどく批判したのでした。
 
ところが彼芥川はソノ明晰な理知力の故に生活力(本能力)のやうなものを次第次第に失いついには睡眠薬による自決を遂げた。
よって理知力が常に世界から好まれて居る訳ではむしろ無い。
 
 
さう考えたのか戦中~戦後にかけかの太宰 治や坂口 安吾などの所謂無頼派の作家の面面がむしろ生活の上で滅茶苦茶をやり正直申して大衆の倍か又は参倍程もの👩たらしで且つ大酒飲んでもうヒロポンだらうが催眠薬だらうがやりまくりましたのでしたが結果はヤッパリロクな死に方はやれぬのでした。
 
ソレと比べるとソロバンのOGAWA先生はまさにエライ。
 
 
ソロバンのOGAWA先生はさうしてソロバン教育壱筋に生涯を捧げられしかもいっつもビンボーなのでほぼ食うのはカレー饂飩バカリである。
しかもピンクサロンへ行く余裕も無くされど町内のゴミ出しの音頭を取りまた庭木の剪定などが得意でいつも松の木を刈り込んで居られた。
 
だが先生の家の中はほぼゴミ屋敷状態であった。
でもワタシは思うのだ、もしも私が👩であればまさにこんな人にこそ付いて行きたし。
 
 
なのでOGAWA先生はさう佛法のことなどを深くは知らずともさうニンゲンとして立派な方なのである。
ニンゲンとして立派なのはさうカネでも無く権力でも無く且つ知識でも無くつまりは學識でも無くましてや文學でも無い。
 
 
つまりはさう普通に立派な人が此の世にはむしろ多く居られるのではないか?
さう普通に立派な人に宗教は必ずしも必要な訳ではないのではないか?

 

そんなことをまさに感じて仕舞う今日此の頃です。

 

とさうわたくしの哲學的方法論とは常に両極を見詰め且つ両方を同時にやるー認めるーとのことである。

ですのでソレは御釈迦様による同時極否定による中道の認識とは元元異なるものです。

 

なんとなればワタシは別に解脱をしたいのでは無いのです。

ワタシはむしろそんな社會の低辺でしかと生きる善人をこそしかと応援して居たい。

 

さて分別概念認識は虚妄世界を生みソコでの最大の敵は自我に固執することによる「利己主義」となる。

さう認識世界にて獣性を剥き出しに生きますと「利己主義」の蔓延により世界は劣化しやがては滅ぶとのこととならう。

 

またさうした世界を選択して居るのが他ならぬ自我意識であるとソレを否定的に捉えるのが佛法としての基本構造だらう。

ですがワタシは別にソレを否定して捉えるのでは無いのであります。

 

つまるところズバリ申せば虚妄世界にもまた「眞實」は有る。

無論のことソレは所謂「實體としてのもの自體」による實相世界なのでは無い。

 

故に宗教家は「實體としてのもの自體」を目指すか又は還れとさう仰る。

でもソレって基本的に無理が有りませんか?

 

要するにワタシの考えには「仙道思想」的な要素がまた有り故に世界が全て虚妄認識にて成り立つのでは無くありのままの世界を邪な認識にて捉えることで逆に不幸な世界へと貶めて行くのである。

なのでつまりはソノ邪な認識を捨て去ればイイだけの御話であり邪とは主に多くを望みちっこい幸せに満足出來ぬ状態をこそ言う。

 

だがアナタの身の周りにすでに🌸🌸は咲いて居るのだよ。

またソコを蝶が舞い飛び世界はさうして正しく本能にて駆動されて行くのだ。

 

でもニンゲンの認識ダケが世間に惑わされ變なのでさうして常に不安や不幸や渇望の思いに苛まれて居るのだよ。

 

要するにどちらかと申せば認識の自律性、自立性を重視するので佛法に於ける自律性、自立性を全否定する認識法とはまた異なる部分などが御座ります。

そんな訳でワタシの宗教論は宗教的でも無くまた信仰とも違い要するにゴタマゼ状態のものとなるがでも釈尊御自身の教説がまるで合わないと云う訳でも無いのです。

 

尚「實在」とは實體のことだ。

「實在」とはまさにソレのみで成立する価値のことだらう。

 

例えば「神」や「佛」がソレに該當しやう。

でも「實存」はまた違う価値なのだ。

 

「實存」とは主に生と格闘するニンゲンの価値のことだ。

例えば政治的に闘う価値などもまた「實存」的価値なのだ。

 

また政治家とてあれこれ言われつつさう政治をやって居ります。

故にワタシは概ね社會を批判は致しますが實は常に皆さんに頭を下げつつソレを言うておるのです。

 

要するに今回ワタクシが申しましたこととは、

 

8.「神佛」が絶對的な価値なのでは無い

9.「實存」的価値の中にも眞實は存する

 

との實は庶民寄り=大衆寄りにて逆に認識の素朴實在性を擁護するかのやうな御話でもありましたのです。ーさう常に弐極の視点よりものを語るー