目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

さう本質的な意味でのニンゲンの救済は可能であるー「神」と「佛」と「脱観念」とがまさにソレを担うー

大事件としてのそんな釈迦の🦴のことー八事山興正寺釈尊の御眞骨が寄贈せられしことー

 

 

 

 

「時代に逆行してますね」成田悠輔からの質問に、88歳・横尾忠則が語った“究極の人生哲学”とは?「お金もそうだけど、みんな…」

 

まずはソノ横尾氏の考えであるところの「身體性=具體性、具象性」の重視との部分ですがある意味ではまさにソレが究極的な「思想」でせう。

そもソレが示すところとは「観念の不具性」との部分にこそ有る。

 

ソコをあえてカンタンに申せばそも「言葉」を基準とするところでの「観念」には正解が無い=相對矛盾に陥る、とのことなのだ。

ま、今日もまたイキナリ話が難しくて御免なさいまし。

 

でも藝術家や哲學者はむしろソレと壱日中取り組みつまりはソレ等と格闘するのだ。

でも誰も観て居ないって。

 

はい?ナニのことで?

もう誰も観て居ないってそんなややこしい話の内容を。

 

さうかだから人類は22世紀迄に滅亡するのか。

分かりました、たったイマよーく分かりましたのですがソコをあえて「馬の耳に念佛」、「🐱に小判」、さらに「暖簾に腕押し」とまでやるのがこんな文人気質の使命でせう。

 

 

でも皆様は少なくともココの読者だ。

ココの読者はもう他とはまるで違う。

 

ナゼナラ君等はこんな天才詩人の波動をすでにしかと受け止めし居り。

またぞろでのそんな自慢話はイイからとりあえずは普通に書け。

 

いやソノ「普通」とはそもナニか?

 

いやでもソコへ行くとまた延延と哲學の話ともなるよ。

さうでしたどうも御免なさい、どうもどうもいつも有難う御座ります。

 

もう話が支離滅裂だね…。

 

さて兎に角ソノ「身體性=具體性、具象性」こそがむしろニンゲンの認識に於ける「正論」への鍵を握る部分となることは明らかだ。

横尾氏はソノことをおそらく「藝術的に體得」=「直感」して居られやう。

 

なので👛にも考えること(観念)にもすでに興味が無い。

が、そんな横尾氏は若かりし頃にむしろ印度を放浪し世界を充分に見詰め且つ考えられても居た。

 

わたくしはかって横尾氏の「インドへ」と云う著作を繰り返し読みソコより大きく衝撃を受けた。

[古本]インドへ/横尾忠則 (著) | 古本と喫茶 おくたま文庫

現代美術家・横尾忠則さんがインド旅行を通じて旅の真意に迫る。 | POPEYE Web | ポパイウェブ

横尾氏の本質部とはむしろそんなとてもマジメニンゲンなのだ。

 

逆を言えば世間の奴等はむしろソコんトコに蓋をし延延と利己主義世界を生きることだらうダメ認識ばっかりだわな。

 

(2ページ目)「悪魔になろう。世間から憎悪され抹殺されるような存在に」成田悠輔が東大生に語った“教育論”《特別講演録》 | 文春オンライン

 

コノ成田と云う多分ほんたうの天才がまた色んなことを言いますが例えばココでも「洗脳」がヤバい旨を述べて居ますがワタシはソノ意見がまさに正しいと思う。

ソレとコノ人のメガネはそも形が變ですがナゼカ欲しくなる〇□メガネです。

 

だから彼の頭の中身もまた〇□メガネ並みに變でしかも正論だとのことでせう。

ソノ「👿」云云の部分に関しては多分「イイ👿」と「惡い👿」が居て成田氏やワタシはおそらく「イイ👿」の方であり世間の全體主義性の方こそがむしろ「惡い👿」なのでせう。

 

 

尚最終的に「観念」は放棄されてしかるべきものー考えても意味の無いものーだがソノ考える過程自體は文學やまた學問やさらに宗教の分野として世に遺せませう。

文學やまた學問やさらに宗教の分野はさうして「弱さ」=「善良さ」を武器に化すことの出來るまさに人文領域の御話となる。

 

故に人文領域は常にニンゲンの認識に取り最重要です。

なんとなれば「弱さ」=「善良さ」こそが言ってみればニンゲンの良心の部分なのだから。

 

ですが最終的にはニンゲンの良心にさえ拘らずむしろソレを相對化するやうな視点こそがニンゲンには求められて行くのだった。

 

では今回はあえて「神學」の上での諸問題に就き論じてみます。

但し何時もの如くに「比較宗教學概論」のこととなりますのでさうクリスト教のことを語りつつも實は「佛法」に就き語って居たりもまたする。

 

 

カトリック司祭が守らなければならない多くの特別な規則-04

 

さてまずはソノ「禁欲」ですがそもソレがナゼ必要なのか?

 

でもってしてあえてさう「禁欲」を進めないと最終的には「限定性」の罠に陥る形にてニンゲンの社會は壊れます。

さう古來より多くの文明が興り榮え最終的には滅んで來て居る。

 

但しむしろニンゲンは欲のカタマリですのでソノ全部を😣すれば所謂生き甲斐が無くなりシアワセには生きられぬものだ。

ですのでやれる範囲でなるべく😣をするべきだ。

 

でもってしてワタシ個人は最終的に👪主義や社會的価値観に背を向けむしろソレを批判的に解釈しておりますがそんなものはほぼアノ倉本 聰先生級での認識ですので今年から彼の自称の弟子とさせて頂いて居りますのです。

尤もワタシはかうして物質的に放埓ですのでソコに整合性が取れて居るかと言えばまるでさうでは無くむしろソレを破って居ります。

 

要するに社會的に抑えて居る分の価値をさう所有欲などに転換しあえてさうして居るがソレも無制限にやればモノ地獄へと堕ちますので「限定」しつつソレをやります。

ですが最大の欲とはむしろソノ👪主義や社會的価値観の方なのだ。

 

故に求道者はソレに對しあえて背を向け「精神」の領域をば生きることとなる。

「正教」とは常にさうしたものなのだ。

 

故に「正教」は👪主義や社會的価値観の方に安易に与せず。

ワタシの知る限りではクリスト教と佛教にはソノやうな傾向が多分に認められる。

 

キリストは身代りに罪を背負った

 

カトリック司祭が守らなければならない多くの特別な規則-04

 

ですがクリスト教の方がより👪主義や社會的傾向が有るのではないか。

なんとなれば釈迦御自身が「哲人」でありよって余り👪や社會には興味が無いのと異なりおそらくクリスト御自身の方がみんなと何かをやりたいタイプの方だったのではなかったか。

 

でもってして大乗教説の中でも禅宗は世俗を厭い山奥にて「分かった人」ダケが修行しサトリを目指すとの主義である訳だ。

でも日蓮宗だの浄土思想だのさうしたものはまさに無學な民人でもタダ強烈に信心をすれば悟れます、とのある意味でクリスト教化した佛法です。

 

いや日蓮宗なんぞはもう御本佛が日蓮上人様ですのでソレは佛教の開祖釈尊以上にエライのでした。

でもソレは如何にも變だろ?

 

いいや信心とはまさにさうしたものなのだ。

曰く、鰯の頭も信心から、でもってして…。

 

問題はさう社會性を帯びる宗教は大抵の場合「ヒエラルキー」化するとのことであります。

例えばソノ日蓮宗以上に過激であったオウム教の場合も全てがアノ教祖を王と戴く「ヒエラルキー」社會であった。

 

またクリスト教に於ける「全知全能の神」なるものはソノ「ヒエラルキー」化のむしろ究極の形である。

ですが壱点だけ日蓮宗やオウムとは異なり「神はニンゲンでは無い」とのことなのだ。

 

す、するとさうニンゲンを神にするからこそ邪教なのですね?

まさにその通り。

 

またクリスト教に於いてイイエス様を完全に神化するのも「ヒエラルキー」化を促進するのかもしれん。

ヒエラルキー」化つまり権威主義化であり序列化の流れを呼び込むのやもしれん。

 

左様にクリスト教にもまた大乗佛法にも「矛盾」が含まれソレは主に👪主義や社會的傾向の方より齎されるのではないか。

されど小乗佛法や禅宗は釈迦の教説により純粋にコミットするが故にソノ部分に関せば心配は無いが壱種の独善性(自己本位性)に陥り易くはなるのであらう。

 

よって重要なことはたとえ「正教」とは言え「絶對性」などはソコに無いこととならう。

むしろさうして比較化、相對化して宗教をも論ずる視点でこそ「正しい」解釈が生ずるやうに個人的には思われてならない。

 

カトリック司祭が守らなければならない多くの特別な規則-13

 

司祭にはさう自らの罪を赦すことが適わず。

ソレもさうでナゼナラまずは彼がニンゲンなのだから。

 

ニンゲンはさう罪を裁けずさらに赦せず。

故に超越者としての神が必然として必要となる。

 

尤も御釈迦様は神は要らぬとさう考えられた。

ひゃあーまたひっでえ無神論だぞ。

 

いやより正確には神が居ても居なくてもニンゲンの煩悩は減りゃあせぬとさう御考えになられた。

じゃあドッチが正しいので?

 

無論のことクリスト教では常に全能の神こそが正しく佛法ではまさに佛こそが正しい。

ではカタキではないのかむしろソレが?

 

いいやさうでは無くドチラも實はイケるのである。

但しイケて無いものが有りソレがむしろ現代社會なんだな。

 

ええっ?じゃあ現代社會ってヤバいものなの?

さうだよむしろ超ヤバいもんだよ。

 

だってそんなこと教わってないよ僕等は。

だからソレが天才の成田氏の言う「洗脳」のことだよ。

 

全く天才はさう「洗脳」のことばかりを言ってるな。

うん多分頭がオカシイ程に世の中のことが良く観えて居るのだらうよ。

 

じゃあそんな「神」でもまた「佛」でも兎に角そんな世間離れした宗教的自我の部分にコミットし「信仰」に生きて居ればそんなヤバい社會でもまた助かりますか?

いえ宗教でもって社會を救うことはまずムリだ。

 

宗教はまずは個を救わんが為の教えです。

ですがクリスト教や大乗佛法(禅宗を除く)、ソレにヒンドゥー教イスラーム教にはどうもソノ社會性の部分が感ぜられやう。

 

同時に👪主義の部分もまた感ぜられやう。

さらに神道やひいては希臘神話世界などもまた👪主義でせう。

 

ひょっとしてまさにソノ👪主義の部分が矛盾化し易い?

さう矛盾化し易くなりますが全能神の場合はまた少し違う。

 

でもそも全能神ってナニのことですか?

ソレに就いてはまた後で語る。

 

 

カトリック司祭が守らなければならない多くの特別な規則-16

 

さてもソノ「トンスラ」なるものがまた美しい。

おおまさにソレが佛教の御坊様方の剃髪の様にもまた重なるではないか。

 

左様にまずは「形」を整えることで精神世界を旅する気概をこそ示すのだ。

するとコレが皆様方にも是非おススメの髪型なのですね?

 

いいえさうでは無くナゼナラ床屋へ行きゼヒ「トンスラ」で御願い致す、とさう申してもソレがやれる人はまず居ません。

故にわたくしは昨日床屋へ行き「長いスポーツ刈りカット」にして貰って参ったところです。

 

そんな「長いスポーツ刈りカット」でもまた壱面では坊主刈りに近い。

するとソノやうに宗教者は常に髪の毛を減らすべきなので?

 

さうです、アノ作家達のやうな長髪では無くそんな「坊主」であることこそが肝要ぞ。

なんとなれば「坊主」はさう世を捨てる者なるぞ。

 

では「トンスラ」頭の司祭様方もまた世を捨てておいでになる?

さうですね、クリスチャンの方方もまた明らかに世を捨てておいでにならう。

 

だから兎に角世俗主義ではダメでさうちゃんと世を捨てて置かねばならぬ。

 

カトリック司祭が守らなければならない多くの特別な規則-20

 

また宗教者(正教の)はまさかカネに執着などをしてはならぬ。

逆に申さばカネに執着する教祖はほぼ邪教の教祖とさう相場は決まって居らう。

 

さう言えばアナタの場合もまたカネには無頓着か?

はいでも宗教者的に潔癖では無くしてむしろゲージツ家としての浪費癖が御座ります。

 

あれソレもしや壱番イカン奴だらう?

いやさうでも無く潔癖さもまた少しならば有るよ。

 

カトリック司祭が守らなければならない多くの特別な規則-23

 

ええっ?さう酒飲んでイイのか、もう止めて欲しいそんなコトは…。

しかもエライ司祭はまたこんな高級酒を飲むのか…。

 

ひょっとして妻帯などもまた許される?

いや許されて居ないぞアア良かったー。

 

 

 

以上のやうに全知全能の神とはあくまで観念神となる。

即ち眞であり善であり力である神なのであらう。

 

ええっ?じゃあ例えば「近代」とはまさにそんな観念化の過程なのでもありますか?ー近代=クリスト教文明がさう築きし観念的文明圏ー

まあ多分さうなのであらう。

 

ですがさうイザ観念化されし神は逆に具象性を失い易くしてさらにニンゲンの神化を招く虞すらもが有らう。

 

 

聖書に基づく神の主な特性-11

聖書に基づく神の主な特性-02

聖書に基づく神の主な特性-04

聖書に基づく神の主な特性-06

聖書に基づく神の主な特性-09

 

さう創造主であり主権者であり「全知者」である神。

また「超越者」である神。

 

ではそもナゼそんな神がコノ世に必要とされるのだらう?

ソレはおそらくコノ世が不完全でありまた罪深くして(煩悩にまみれており)どうも生きて居るダケで矛盾ダラケになって仕舞うからなのではなからうか。

 

即ちまずはソノ透徹した視座こそが神の存在の根拠となるものなのではないか。

但し同時にソレは佛の存在の根拠となるものなのでもあらう。

 

逆にもしもコノ世が完全でしかも矛盾無き世界なのであれば「神」もまた「佛」も要らぬことだらう。

さうニンゲンが完全でしかも罪や煩悩に汚れて居ないのであれば「神」もまた「佛」も要らぬことだらう。

 

だが現實としてコノ世は不完全でありまた罪深くして(煩悩にまみれており)どうも生きて居るダケで矛盾ダラケになって仕舞う。

あれ運惡くまさにそんな世界に産み落とされたんだわな。

 

まさにソノ厄介な世界を救うのは果たしてダレか?

ソレはクリシュナ神かソレとも八百万の神か?

 

さう云うのはおそらく現實を生きんが為の助けにはなっても本質的な意味での救済を齎す神には非ず。

同時にまた本質的な意味での救済を齎す佛なのでも無い。

 

さう「罪深く煩悩まみれでのニンゲン」を「救う」のがまさに宗教の役割だらう。

但しソコには「本質的救済」と「現世的救済」の別が有る。

 

クリシュナ神八百万の神により現實的に生き易くなるのであれば無論のことソレも壱つの救済なのだ。

だけれども「本質的救済」を求めるやうな向きにはまさしくソレに応じた宗教がゼヒ必要となるのではないか。

 

尚佛法は「超越神」の存在の有無をそも設定せず。

正確に言えば「超越神」は有るのでも無くまた無いのでも無くつまりはソレが問題とは捉えられぬこととなる。

 

要するに形而上の議論となるが故に純粋な佛法に於いて神や神神の存在は問題とは捉えられぬこととなる。

 

では「佛」もまた形而上の議論となるが故に有ってもまた無くてもまるでカンケー無いので?

また實にイヤらしい質問をしかもワザとしたもんです。

 

でもソコを議論致しますとおそらく明日の朝までかかりませうがもしや君はソレでもイイの?

誰がコンナトコにさうすき好み張り付いて居ますか!

 

こんなことやらずに早うヤフオクをしたい!

 

でもアナタの論旨からすればどうも御釈迦様の認識こそが全知全能の神様化して居るやうな気が致してならぬ。

御釈迦様の解脱論は兎に角自力的な自己救済ですのでね、でも大丈夫、君には絶對にやれまへん、無理ですそも無理だ、たとえ七生生まれ變わりコノ世に出て來たのだとしてもソレはまるでもって無理だ。

 

アアだから君はあえてかうして全知全能の神様のことを語るのか。

でもソコんトコがまともな人にはついぞ分らぬことですね。

 

まあアノ成田氏などもまた言うてることが普通とはまるで違う訳でしてね…。

 

いずれにせよでは君はそんな超越神をもまた認めるとのことなのか?

まあワタシの考えではこと本質的救済との面で全能神と佛は並び立つとのことである。

 

さうまるで違うモノをあえて同じに纏めるのが實は共感覚者が持つ特殊能力の部分なのですよ。

 

 

聖書に基づく神の主な特性-07

聖書に基づく神の主な特性-08

 

そんな「永遠」で「不變」である神。

ところが多神教の神は必ずしも永遠でもまた不變でも無い。

 

例えば希臘の神神や印度の神神ー神話上の神神ーは必ずしも永遠でもまた不變でも無いのではないか。

また🗾の八百万の神神は永遠でもまた不變でも無いのではないか。

 

いずれにせよコノ壱神教的な神の特性が欧米近代の文化的背景にしかと有ることだけは確かだ。

さらに言えばソノ壱神教的な宗教観をかって哲學者の梅原 猛先生は否定的に見詰められて居た。

 

また佛法の視点よりソノ永遠であり不變である「存在」を見詰めれば「常見」となり得即謗法となる。

即ち「邪教」にも等しい考えともまたなるのであらう。

 

だがかって哲學者のカントは「物自體」の不可視性を語った。

そも「物自體」をニンゲンが認識することは無理なのでソノ認識されぬ領域を「神」と呼ぶにせよオカシナ話とはならぬのではないか。

 

聖書に基づく神の主な特性-12

 

「神は救世主である」

 

ではイザ「佛」は救世主たり得るのか?

「佛」はむしろコノ世を去る、コノ不完全で且つ矛盾ダラケの世界を自ら捨て去るとのことです。

 

なので救世主では無く救自主とでも言いますか兎に角そんなものでせう。

ですがソコにはクリスト教に於ける「社會性」の部分が出て來て居るのだらう。

 

さうクリスト教は兎に角罪に穢れしコノ世を救世したい訳だ。

さうかだからアノマルクス主義などもまた西欧世界から出て來、また仏蘭西革命のやうな市民革命的な人権擁護思想なども出て來るのだな。

 

じゃあ全能神がコノ汚れ切った世界を壱遍滅ぼしそいでもって最後の審判で選ばれたクリスチャンのイイ人ばかりが神の國に再生されるのですか?

じゃあこんな物狂いでもってして佛教徒(佛的な懐疑主義者)の惡い子はまさかそんな神の國に再生されたりはせんのでせう。

 

さても困ったな、かうイクところがすでに無い。

だったら印度思想の神神やイスラームの世界観の方で救われてみては如何か?

 

いや印度思想の神神は好きでして實はイマこんな画像をデスクトップに貼り付けて居ります。

 

クリシュナが『バガヴァッド・ギーター』をアルジュナに説く場面

 

ぎゃあ果たしてアンタドコが釈迦の直弟子なんだ!!

 

ではさう天國へイキたい?

…イキたくも有りまたイキたくも無し。

 

なんだそんな不可知論バカリで御前なんぞはもう大地獄行きだぞよ!

 

ちなみにデスクトップには教會の画像などもまた良く貼り付けますのです。

だって教會の内部ってとてもキレイなんです。

 

さう天國へイキたい?

では早速に念佛を唱え極樂浄土への転生を願うのだ。

 

極樂浄土でもってアノ全能神である阿弥陀佛に御救い頂く!!

いえ急にイキたくなくなり興正寺へでもイキたくなり申した。

 

あっ、ソノ興正寺でもって實は大事件が起きたのです!!!

アレでせう、アノ御釈迦様の御眞🦴が興正寺へ贈られたのでせう。

 

「八事山興正寺」 釈迦の遺骨“仏舎利”を納めた新しい本尊をお披露目 スリランカの寺院から寄贈 40年以上にわたる交流で実現 名古屋・昭和区 | TBS NEWS DIG (1ページ)

 

仏舎利の寄贈-興正寺スリランカの寺院との40年以上にわたる交流で実現

 

さうコレはでもほんに大事件ですぞ。

ありゃこんな風に全能神のことを語っとる場合ではまるでにゃあ。

 

敬虔なクリスト教徒の方方、特にカトリシズムの方方に對しては誠に申し訳が無い。

だが我はどうしても興正寺へ行かねばならん。

 

興正寺の御釈迦様にどうしても御挨拶をしさらに頑張って法論を書いて行きますのでソレをゼヒ受け取って貰えませんか?

御釈迦様の骨がソレを受け取る訳ではないでせう、興正寺の御坊様方にでも渡して置きなされ。

 

でもほんたうにそんなのを受け取って貰えるだらうか?

いいや全知全霊を込めてソレを仕上げニッコリ笑いソレを差し出せば必ずやソレを受け取っても下さらう。

 

君君、だけどヤッパリどう考えてもオカシイわ。

…果たしてナニが?

 

いやさう佛弟子の筈の君がさうして平気な顔にて「全能の神」のことを語るソノ態度ソノモノが解せん。

まあいずれにせよ出來るだけ早う興正寺へ行きさうクリシュナ神に御挨拶するのだ!

 

おいおいクリシュナ神では無く御釈迦様に、だらう?

それにしても君は果たして大丈夫なのか?

 

何だか片割れの自分でも心配になる程の彼宗教詩人の宗教的破天荒振りである。

 

尚釈迦如来の🦴ソノモノには価値など無い。

むしろ御釈迦様は自身の遺骨に決してコダワルなとさう仰せでありました。

 

つまるところ御釈迦様に取り👪主義だの墓だのニンゲン関係だのまた遺骨だのはどーでもイイことバカリなのだ。

佛陀の認識はさうまやかしの世界を飛び越え常に眞理へと直結するものとなる。

 

ですがクリスト教に於ける全知全能の神がオカシイと云う訳には非ず。

逆に申せば實はどちらか、なのだ。

 

どちらでも本質的救済は可能ながら人によりまた機縁によりどちらを選び取っても良いのです。

またソノ本質的救済にそも興味が無くばクリシュナ神八百万の神に救って頂いても良いのですがあくまでソレは現世的な意味での救済ともなりませう。

 

いずれにせよかうして個人的にですが本質的な意味でのニンゲンの救済は可能であると考える。

されど神佛の他にもまた自力的な意味での認識論的救済の次元が有りまさにソレは藝術的な意味での観念領域の抹消のことだらう。(先の横尾 忠則氏の例)