目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

神神と諸佛の交わりー「神佛習合」に於ける「神」と「佛」の接合の様ー

「どうか世界が助かって欲しい」ー特に笹がキレイだった西八幡社での今年の七夕祭りー

ーあえて文明を遮断し神佛に祈る體制を築かんとすることこそが現代人に取っての急務であーるー

 

 

 

「お寺と神社は何が違う?」お笑い芸人で神主の狩野英孝が2億回された質問にすっきり簡潔に一発回答しよう

 

まずは本質的に違うのがソノ神神への信仰は國だの共同體をつつがなく存続させんが為の祭祀のやうなものでこそあることだらう。

よって究極的に言えば神神への信仰にて個人が救われる訳ではないが但し例えば修験道などでの行を積むことで個的な意味での修行、精神の鍛練を行うことは可能となる。

 

また佛への信心は最終的に自分がニンゲンとして救われることを目指し内面的に行われる修行のことでありませう。

だから例えばクリスト教などは當然ながらソノ佛教に近い所謂「創唱宗教」となる。

 

ソノ「創唱宗教」とはズバリニンゲンを救わんが為の教えとのことだ。

ナゼナラ幾らさうして神神を信仰し頑張って修行をして居ても時代が進むと大抵の場合つまりが欲望に負ける形にてニンゲン社會は變な方へと進みますのでつまるところはソコをこそ變えんとこんな風に大問題バカリに晒される惡い世に至って仕舞う。

 

なので御釈迦様は「ニンゲンを辞め」てこそほんたうのシアワセが訪れます、とさうハッキリ仰った。

またイイエス様は「全能の神に汝の全てを捧げよ!」とさうハッキリ仰った。

 

でもってニンゲンを辞めないで世界平和を達成するにはどうしたら良いのだらう?

ソレはさう近代以前のanimismの世界へと戻ればイイ。

 

だけれどあいにく我我洗脳ニンゲンはすでにそんな素朴なココロを失ってる。

じゃあどうするんですか?

 

さうですね、例えば「仙道思想」などはまた随分と面白いものであり修験道なども結局はソコより大きく影響を受けて居るのではないか。

ソノ「仙道思想」はほぼ徹底的に個としての認識の転換のことを説いて御座る。

 

認識の転換=価値観の転換、のことでせう。

ところが現代人に取り常に理解し難いのがソノ「仙道思想」でありさらに「解脱思想」でせう。

 

逆に「全能の神による救い」や「浄土信仰」などはソレ等に比し現實的ー世俗的ーです。

要するに仙人化や解脱者などは特に優れた認識力のニンゲンがうまく行けばやれるかもしれない極めて高難度での精神性の世界の實現ながらイザ神や佛に救って頂くのは基本的に誰でも可能でしかもニンゲンならば誰しも。

 

さう「仙道思想」及び「解脱思想」に於ける認識論的転換は現代人に取りハードルが高過ぎる。

なのでまずはやり易いものからやっていくべきことかとさう存じます。

 

何?そもヤル気が無い?

でもアンタソレ逆だよ。

 

だから會社へ行き日銭を儲けたり妻を娶り子をもうけたりすること以前にまずはソレが大事なんだ。

逆に申せばまずはソレが大事だとさう思えないところにこそ「社會による洗脳」=「全體主義體制」がしかと刷り込まれておる。

 

 

ちなみにニンゲンとはまさにロクなことがやれずに最終的に欲望に引き摺られる形にて自滅するだらう宇宙壱のバカ生物のことを言う。

ありゃーこんなバカでもってどうもすみません。

 

いえいえさう御丁寧に謝って頂いても状況は壱向に變わらぬわ。

 

個人的にニンゲンはすでに「祈る」他は無い状況へとしかと入り込んだのだと思う。

ソノ「祈り」の對象はどうあれ兎に角ソレをやりませんともはや壱刻も持たん。

 

兎に角さう「神社」と「御寺」はソノ目的とするものがまずはまるで違う。

だから「神社」に「解脱したい」と願っては✖なのだしまた佛像の前で「ニンゲン界の永遠の繁榮」を願うことなどもまた✖なのです。

 

さう神道に於いては自然界ソノモノが「神」ですので本來ならば「自然と云う神を壊しまくる文明」を認めてはイカンのでせう。

ですが神道に於いて大事なこととは即ち「継続」であり「再生」なのであらう。

 

だが御釈迦様の思想に限ればまさにソレとは逆方向となる。

御釈迦様の解脱思想に「継続」であり「再生」は無くむしろ「断絶」させ同時に「消去」することこそが眞理なんだから。

 

とのことでさう本來ならばソノ「神道」と「佛法」は逆向きでの思想的ベクトルを持つにも関わらずココ🗾國ではまあ何せ「加工」が上手いのでソレが何だか最終的には壱緒くたとなり故に何時の間にか「神社」に「解脱したい」とさう願ってみたりまた佛像の前で「ニンゲン界の永遠の繁榮」を願うことなどが往往にして有り得やう。

 

ですのでまさにナニがナニやら分かりません。

 

また先祖供養に関してはさう御坊様が記事にて書かれて居りますやうに明らかに「儒教」の影響でせう。

兎に角御釈迦様御自身は相當に潔癖な方でしたのでソノ先祖供養にもまた偶像崇拝にもまるで興味の無い御方でしたのでせう。

 

また御釈迦様はズバリ👩嫌いであらせられた。

ソレもさう👩嫌いであるにも関わらず妾を何人も与えられソコはさぞや苦しい毎日を御過ごしだったのだらう。

 

ですが神道の方は結構👩好きですからね。

 

またソノ道教やまたバラモン教の神神などが何時の間にか佛教や民間信仰の方に取り容れられたりもして居るので余計に話がややこしくもなる。

なのでハッキリ申せば🗾人の宗教観ってもはやナニがナンだか分かりません。

 

いやソコはたとえボクのやうにちゃんと長く勉強を続けて参りました御人ですらもはやナニがナンだかまるで分かりません。

 

 

でも、です。

でも神道はまたイイのです。

 

でも佛教もまたイイ。

 

さて丁度七夕でしたので8、9日に家から百五拾米東の西八幡社へ出向くと笹が階段に沿いずっと立てかけられて居る。

無論のことソコには「願い」を書いた短冊がかけられソレと共にまるでクリスマスツリーのやうに様様な飾りが付けられておる。

 

「10000まで数えられますように」

「樂しい予定ダケにしたい」

熱中症よ飛んでけ!」

 

とソノやうに子供の書く短冊の内容は如何にもストレートであり面白い。

ところがソレを大人が書くと、

 

「世界が平和になりますように」

「七夕には牽牛と織女が出合えますように」

 

などと云うやうに途端に社會的で且つ切實な要望と化す。

 

さても個人的にはまさにソノ「社會」なる概念、「社會」なる組織ソレ自體に何らかの問題が兆して居ると考える訳だ。

たとえばヘルマン・ヘッセと云う独逸の大作家がニンゲンの「幸福」に就きかって論じて居る。

 

尚ヘッセが提示するニンゲンの幸福とは意外にも「子供時代の認識に戻る」とのことであった。

 

本地垂迹説は、日本の神々は仏菩薩が化身としてこの世に現れた姿(権現)だとする理論だ。この結果、たとえば天照大神大日如来が本地(本来の姿)。瓊瓊杵尊は釈迦如来八幡神阿弥陀如来などである。こうして、神社の神殿で、偶像が祀られていく。同時に、神宮寺、別当寺などという形態で、神社に付随する寺院も増えていった。そこに住持する社僧も現れた。

したがって、特に中世以降における寺院や神社は、現在のように「仏教=寺院」「神道=神社」と明確に分けて存在したのではない。同じ境内地に仏菩薩や、権現としての神々などが混在して祀られ、それをひっくるめて「寺」と呼んだのだ。

寺院の中には「社」がつくられた。現在でも寺の中に鳥居やお宮があったりするが、それはかつての神仏習合時代の名残りである。このように、寺院と神社が混じり合った宗教施設があちこちに出現した。

 

「お寺と神社は何が違う?」お笑い芸人で神主の狩野英孝が2億回された質問にすっきり簡潔に一発回答しようより

 

さてコノ「本地垂迹」との考えは重要である。

ソレは言わば「違いを同じにする」観念的飛躍のこととなる。

 

さう🗾人はまた🗾の社會はソノ「違い」を「同じ」にすることで封建時代を乗り切って來た。

 

〇=ソノことのメリット=異文化や異なる宗教を受け容れる寛容な精神性に繋がる部分

✖=ソノことのデメリット=兎に角ナニがナニやら訳が分からんやうになり易いこと

 

ですが、こと現代に於いてソレを見詰めると、むしろ優れた宗教的概念の処理能力なのだと言えやう。

いやむしろ世界壱アタマが良いとされる🗾民族にしかソレはやれぬことなのだった。

 

と世界壱アタマが良いとされる🗾民族の中でも特にアタマが良いと思われるワタシはたったイマさう思う。

 

で、ではかの大日如來様こそが嗚呼まさに宇宙神であるかのブラフマンなのですね!

いやだからソノ「梵我壱如」なる思想は御釈迦様に取ってはあくまで「外道」なのだ。

 

だけれども「アートマン」=我は確かにココに有る。

ええっ?でも御釈迦様は確か「諸法非我」とさう述べられた筈ですが…。

 

だからむしろワタシのやうな頑なな學僧には逆に「即ち諸法が我、諸法有我」とさう教えて下さります。

でもそんなんじゃもう何でも有りでどだい無しも有りもさう全てがごちゃ混ぜでもってもう印度社會状態でせう。

 

さうですね、ところで印度社會の性意識は極めて厳しいのださうな。

ソノ割りにまた酷い強姦事件などが屡起きても居りますが。

 

いずれにせよソノ「神佛習合」こそがかっての🗾社會が行いしまさに知恵の部分であらう。

すると八幡社には阿弥陀佛がまたおわすのですね?

 

まあさう考えて置いてもイイのではにゃーか。

また「梵我壱如」なる思想が必ずしもダメなのでも無い。

 

ところで切支丹の人人はかってマリア観音なる木像を拝んでおったとされておる。

ソレが即ちマリア観音菩薩様のことなのでせうか?

 

さうじゃ、アノマリア様ですらもが菩薩様へと形を變え顕現するのだぞよ。

だがどうもややこしくはなる。

 

 

さて問題はまさに待った無しでの現代社會の諸問題に對し🗾社會に於ける信仰の形が対処し切れて居るのかと云う部分であらう。

ハッキリ申せば壱神教的な信仰の世界よりもソレは曖昧なものと化し易いことだらう。

 

されど例えば日蓮宗系の原理派などのやうに壱神教的な信仰の世界に生きる団體もまた🗾には存する。

また右翼の人人は概して🗾社會の「継続」であり「再生」をこそ望むのだから。

 

すると🗾共産党の信奉者はもしや🗾社會の「継続」であり「再生」を望んでは居ないので?

いいや望んでますよソレを、但しちゃーんと共産主義化された暁での🗾社會の「継続」であり「再生」なんですが…。

 

 

ではアナタ左翼教師もまたちゃーんと共産主義化された暁での🗾社會の「継続」であり「再生」をこそ望むので?

いえワタシはもう思想なんてまるで関係無いですから…。

 

思想よりも🍡、てなものでまさにソノ🍡主義者でせう。

何と🍡主義者とな?(純粋なるカリー主義者ではなかったか?)

 

いずれにせよわたくしは「神仏習合」に関しむしろソレを復活せしめるべきとさう考える。

おおっするともはやアナタのアタマの中ではすでにマリア様が観音菩薩化されておったのだと!

 

さうなんだ、さう實は👩菩薩を拝んでおるだけの話でほんたうはクリスト教なんぞまるで関係が無いのだよ。

では佛様もまたナニ佛でもイイのですか?

 

例えば久遠實成の佛でもまた阿弥陀佛でもさらに大日如来であれさうして弥勒菩薩であれ。

いや良くは無いでせう。

 

なのでワタシの場合はとりあえず佛陀は御壱人でソレはかってネパールに住んで居られたシャーキャ族の方でソノ御顔がまた平べったい。

またソノ御釈迦様の御性格が兎に角暗い!!

 

例えばワタシ自身と比べてみますとワタシの倍程もそんな仄暗い部分を御持ちのやうなのです。

ふええそんな暗い性格を御持ちの佛陀だったとは!

 

もう人類なんてつまりはニンゲンなんて全部辞めちまえ!!

でも今考えますとむしろソレが壱番正しかったやうな気がしてならない。

 

ですのでコノ毎日の灼熱地獄もまたソノニンゲン共によりさう引き起こされしことなのです。

 

 

ー社會の「継続」であり「再生」ー

 

つまりはココんトコに思い切り抵触し現代文明はもはやガタガタだ。

でもねそんな時代にもまた變わらないものが有る。

 

ソレは七夕に使う笹の木だ。

ワタシは参拾歳位の頃に七月になると市内の小中学校へソノ笹の木を納品して居たものだった。

 

故に学校のことよりもまずはソノ笹の具合のことなどを鮮明に思い返すのだ。

ソノ笹だの竹だのは今も昔も變わりが無い。

 

されどコノ参拾年の間に世界情勢は大きく變化を遂げた。

どうなったかと言えばつまりは灼熱地獄化しておる。

 

ですが當時そんなことを心配する人などは壱人も居らなんだ。

 

すると待てよ、もしも参拾年後に人類が滅亡に至るものとしてもだ、たったイマソレを言うてる人はバカかキチ外なので誰も居ません。

とのこととなるぞよ。

 

ならば壱言言っといたるか。

 

じゃあみんなはソノ侭で助かりますか?

助からないならイマこそ「目覚める」べきではないのか。

 

さう「目覚める」人は文明とは深く関わらずあえてソレを捨て去って行く。

さう文明に對しウハウハ擦り寄るでは金輪際無いぞ!!!

 

よってあえて文明を遮断し神佛に祈る體制を築かんとすることこそが現代人に取っての急務であらう。