子供は大人で大人が子供+「絶對」的な超越的存在をむしろ脱構築するだらう「禅」に於ける宗教観=寒山、拾得の子供っぽさに就いてー
自己肯定感が-高い人-と-低い人-の幼少期の過ごし方-3つの違い
實際に日本人が不得意なのが自分の意見をかうだと述べることせう。
自分の意見をかうだと述べることの前提にはオレの意見は他とは違うぞとの自立的意思決定過程が御座ります。
でもってしてさう自立的意思決定過程がしかと成るニンゲンの場合はほとんどの場合「自己肯定感が高く有る」のでせう。
ですのでワタシはまさにソノ「自己肯定感」のカタマリの如きニンゲンです。
即ち本質的にはあくまで非常に自己へのプライドが高く有りよって「自己肯定感」のカタマリの如きニンゲンなのだ。
ですので基本的に自分は他者に對しむしろ不寛容でした。
ですが此の世の不条理の部分を長く生きるうちにアタマの良いことや知識に長けて居ることはほぼ世渡りの役には立たないな。
などと達観するやうにもなりましたものです。
さう不条理の部分を長く生きるうちに所詮は己をも含め皆バカなのだからさう感情面から主に生きてつまるところは御釈迦様やイイエス様の教え=理性的智慧の世界には思い切りに背き最終的にはみんなでもってさう地獄へ放り込まれぎゃあー、ぐえー、ドン泥リン、と業苦と無明とに苛まれみんなでもって野垂れ死んで行くのです。
ドン泥リン?
さうソノどんどろりん。
ソレってもしやアノ手塚 治虫による「どろろ」の世界観なので?
さうですね、でも「どろろ」ー確か👩の子だったか?ーが仕える百鬼丸はむしろ早うニンゲンになりたいのですのでソレは佛陀やクリストの世界観のむしろ逆でありソコは如何にも医師としての手塚 治虫氏のニンゲン観が投影される部分でせう。
す、すると佛陀やクリストの世界観とはむしろニンゲンを辞めれとのそんな非常識な教えのことなので?
まあクリスト教もまた司祭は独身を貫かねばならずつまりはキビシイ宗教の筈でせう。
また佛法も小乗佛法迄は如何にもキビシイ教えとなる。
要するに世俗の価値観は聖なる階梯に於いて徹底して排除されやう。
じゃあ自己肯定感が低いとのことはつまるところ「自我」の持ち方の問題なのか。
さうですね、歴史的に🗾人はヒエラルキーの上位者に對し従う世界観こそが「正しい」ことだとさう洗脳されて來て居りますので例えば政府や國が決めたところでの誤った意思決定に對してもナニも申せません。
ですが「自己肯定感」のカタマリの如きニンゲンが彼等の中にも少数派ですが居て例えば彼等は戦争中であれ「戦争反對!」と叫ぶのだしまた近代全體主義に對しても「近代反對!」とさう叫ぶのです。
でもそんなものはタダの天邪鬼なのではないの?
はいですが天邪鬼の果たしてドコが惡いの?
まあ強いて申せば自分は地獄へと堕ちる可能性がまた高く有りますのでなるべくソコを相對化し例えば常に「信仰」を持ちソコへと逃げ込む位のことがむしろ適切でせう。
だがほんたうはまたソノ自立的意思決定こそが大事なのだ。
なのでそんな自己構築と自己放棄とをむしろ同時的にやるしかないのだから。
天邪鬼さん、もしやアナタは佛陀やクリストの使徒(菩薩や天使)なのですか?
へい最初はさうなれたらイイなとさう思って居りしがソコをまたよーく考えましたところソレはまるで違うとのことにようやく気付きました。
ではナニになるのか君宗教詩人は?
結局ワタシは声聞道であり且つ縁覚道でのニンゲンだらう。
即ち自分勝手にサトリを開いて行くタイプでのニンゲンなのでありし。
なる程すると矢張り他力救済系では無く自力救済系でのアタマの中身を持つニンゲンなのか。
さうです、でも佛陀程の能力には至らずよって悟った、アアコレで悟ったぞよ!などと言いつつほんたうはソコにはまるで及んで居りませぬ。
でも例えば宗教ライターがやれる位の力は有るのでかうして菩薩道ならぬ声聞道であり且つ縁覚道の追求をこそ行いつつある者なのだ。
はあー、するとアナタ宗教詩人さんはまさに声聞道であり且つ縁覚道を歩まれんとする先達の御壱人なのか。
はいそんな方方がおそらくは歴史上で五百人~五千人程も居られた筈です。
ならばアノ維摩居士だとかまさにあんなやうなソレこそ理屈ダケは御釈迦様級に立つイヤなニンゲンとのことなのであるか。
いや正直申してワタシもまた理屈は立てられます。
ですがかう弱いニンゲンですので實は信仰により強い精神力を得たいと是非さう願う者でもある。
ふーん、じゃあヤッパリ君の場合はあくまで普通とは違うので?
だって根っから「普通」でないのに「普通」になりなされとさう言われてもそりゃ無理と云うものでせう。
ならば君は例えば法論を書きソレを携え八事山興正寺へ行くことが可能なのかい?
まあ場合によりソレもまたやれぬことは無い。
ですがソレは多分に面倒臭い。
聖⇔俗
善⇔惡
ところで相對分別概念に於けるこんな分離関係は基本的に等価です。
ソレはさう概念上(観念的)はあくまで等価とのことでありよって神や神神がソノ関係性ソレ自體を否定する訳ではありません。
さうむしろソノ相補的な関係性の世界を否定してかかるのは佛陀の教説のみだらう。
じゃあ佛陀の教説って果たしてナニをする為のものなの?
ソレがなんとニンゲンであることをなるべく早う辞めよ、との至極カルトな内容の教えです。
ならばむしろニンゲンであることを永遠に辞めるのですか?
と言うよりもむしろかうしたこととなる。
即ち「分かって居ない人」がたとえ事故や自殺で死んだにせよ結果として似たやうな次の生をまた与えられつまるところ「理性的な生」を営むことにはならん。
だがソノ「理性的な生」にもまた精神の段階が有り佛陀のものはむしろ誰もやれぬので後はもう普通の宗教家位のことしかやれません。
またクリスト教などの他力救済の場合でも充分に「理性的な生」を目指すものとして認められやう。
だったら他でも無いアナタが解脱と救済とをくっつけてサイコーの宗教をつくりソコにて教祖としてゼヒ君臨すべきです。
いやでもワタシは教祖では無くおおまさに無欲での壱独覚ぞ。
またさうした性質を持たされて此の世に生まれて來たとのことなのだ。
ではアナタに取り眞理とは全能の教祖なのではない?
いいかいさうした社會的な役割にこそヒエラルキー化並びに全體主義との大問題が兆すものなのだ。
故にこそ自分はソノ社會的な価値観の部分をまずは遮断する。
うーん、すると佛法で言えば大昔の佛教の方でまたクリスト教で言えばつまりが初期のクリスト教なのか。
さうまずは「出家」乃至は脱俗しないと解脱も救済も無理だとの考え方を取る。
なる程すると佛法ならば小乗的なもの迄、また禅宗迄でクリスト教で言えば幾ら下ってもカトリシズム迄とのことなのであるか。
さうですのでわたくしはそも大乗佛法的にニンゲンが皆共に悟る=成佛す、とのことは無理だとさう考える。
ではありますが壱概に大乗佛法を否定する訳には非ず。
逆にニンゲンであることを辞めること無く即ち全能神だの全能佛だのを信仰し強い救済力を引き出すのはまさに大乗佛法の役目であらう。
じゃあアナタもまたニンゲンであることを辞めたくは無い?
だってかう飯も食いますしかう物もまた集めます。
但しソレダケですとタダのバカですがとりあえず理屈の方はこねられるのでつまりが半分バカなダケなんですう。
なる程さうか、するとそんなアナタもまた半分はすでに「分かった」タイプでのニンゲンなのか。
…さうなんですう。
でもあくまで「半分」なので全能者でも無ければ佛でもにゃあ。
…にゃあ?
さう、にゃあにゃあのにゃあ。
うーん、でも今回の解説にてアナタの宗教的な立ち位置の部分が可成に良く分かりました。
つまるところ君は菩薩や天使ではまさかにゃあ。
だが實は独覚タイプでのニンゲンでありでも独覚タイプは兎に角アタマが變なのですぐに山奥へと逃げたがり即ち眞理を大衆に對し説くことはしないのだな。
まあもっと分かり易く申せば偏屈のビンボー作家タイプだとのことなのです。
さてまたぞろ急に難しい内容の話をすれば御釈迦様の佛法はソレ自體が相對的となる分別概念規定(ニンゲンの意思決定)自體の相對化であり脱構築化(無化)とのことであらう。
自⇔他
天國⇔地獄
幸⇔不幸
ソノ縁起関係的對立でのプラスの要素(前者)を重きに置くが余りに縁起関係自體のバランスが崩れ逆に後者なる惡の価値を引き込むのがニンゲンなのだらう。
愛⇔破壊(暴力)
ソノ「愛」もまた、
罪⇔赦し
のやうにバランスを取りませんと最終的に破壊を齎す主因と化す。
ー例えば祖國愛はまた👪愛は最終的に破壊を齎すー
なのでほんたうのほんたうに大事なのは「現象としての精神的なバランス」のことなのだ。
ですが御釈迦様の教説の場合は相對概念の極同時否定による「中道」バランスのことでありワタシのやうな「有的」思想では無く「無的」なる思想です。
さらに言えばクリスト教の場合は全能神の認識によるニンゲンの精神の脱構築過程を行う試みです。
こちらの場合も確かに救済が成立致しますがソレは根本的な救済では無くあくまで現實的な意味での救済でせう。
さてソノ縁起関係としての對立概念を如何にして無害なものと化すのかと云うことこそが独覚的なわたくしの精神に突き付けられし最大の課題でもありました。
ソコに突如として登場致しましたのがかの西田哲學に於ける「絶對矛盾的自己同壱」なる脱論理的なテーゼであった。
利口⇔バカ
漢⇔👩
大人⇔子供
例えばコレラの縁起関係に於いて「利口ソノモノ」と「バカそのもの」、また「漢そのもの」と「👩そのもの」、さらに「大人そのもの」と「子供そのもの」とを分けて存立させることは出來ぬ。
ナゼナラまさにソノことがコノ現象世界での法則なのだから。
即ち「利口ソノモノ」は「バカそのもの」を前提に規定される価値でありだったらバカが居なけりゃそも利口だとは言えん。
即ち「漢ソノモノ」は「👩そのもの」を前提に規定される価値でありだったら👩が居なけりゃそも👨だとは言えん。
即ち「大人ソノモノ」は「子供そのもの」を前提に規定される価値でありだったら子供が居なけりゃそも大人だとは言えん。
要するに、
1.ソレ自體で現象する名称と形態は無い
2.さう「矛盾」的に「同壱」化するのが現象世界=縁起関係世界での理
3.神佛⇔ニンゲン
最終的には「神佛」もまた概念となるが故にさう縁起関係を構築す。
故にソコに純粋なる意味での絶對性は付与されず。
しかしながら、
ソコをあえて力技にて「唯壱神」なる絶對性を構築するのがクリスト教、ユダヤ教、イスラーム教などの壱神教での世界観となる。
またソレに近くなるのが多神教に於けるまさに「数の論理」での絶對的世界観となる。ー禅宗を除く大乗佛法や神道に於ける宗教観ー
じゃあ「禅宗」ってソレは果たしてナニなのか?
ほい「禅宗」とは例えば馬の糞なり。
ありゃあまた至極難解なる公案の世界のことで…。
ほい「禅宗」とはアノ壱休禅師が👩の股の間がスキとのことでもあり。
だからな禅宗は余りに變態なのでこんなワタクシでも良く分からんところが有り…。
例えばすげえ繪などをココに出しちゃいますか。
おおまさにコレゾかの横山 大観先生のすげえ宗教画だぞよ。
さてもココには、
4.釈尊とクリスト様が並んで描かれる珍しい構図
5.またちっこい子供がナゼカ描かれる=寒山か又は拾得構図
となる。
さてもソノ寒山、拾得と云うのはさう子供なんですが實はすでにほぼ悟っておる=菩薩級か?位に精神のレヴェルが高く有る禅僧とのことだ。
つまるところは禅の修行が進むとほぼ無分別の精神の領域に達し自然と子供のやうな精神と化して行くのであった。
まあワタシもまた壱面では可成に子供っぽい。
ソレもアタマは良いが社會的なコダワリや守るべきものが少ないので自然とさうなるのであらう。
さう子供っぽいので💩、💩とは良く言います。
またソノコダワリとは主に社會的な意味でのコダワリを捨て去った上でのモノへの耽溺のことよ。
左様にあくまで眞理レヴェルでは社會的な意味でのヤル気だの使命感だのまた防衛力だのは不必要なものでしか無いものとワタクシは理解致す。
故に御釈迦様はまずソノ社會的な意味でのコダワリを捨て去り出家することで成道への方途を開かれんとした筈なのだ。
故に別に👩の股の間ソノモノにコダワルのはイカンはイカンがむしろソレが個人の自由であり壱番拘ってはイカンのが社會的に齎される権威だの権力だのまた大金だのむしろソチラの方なのではなからうか。
ほうするとさうちっこくコダワルものには大きくは罪が生じぬとのことでありますか。
さうソノ👩の股の間ソノモノは単なる物質であり抽象的な価値などでは御座らぬ。
よって具象的な価値=物へコダワルことは抽象的な価値にコダワルことよりはずっとマシなことだよ。
ひゃあついにかの壱休禅師の👩スキの部分をほぼ完全に擁護されましたのですね!
じゃあ君もまた例えばアノ藤原 紀香氏の股の間ソノモノなどが御好きなので?
別に好きではにゃあ。
ナゼナラ面倒臭えからなのだな、まさにソノ👩がよ。(實際時折ケモノっぽく感ぜられる)
ソレと寒山、拾得はさうガキだから別に👩が好きな訳ではにゃあ。
兎に角さう「無分別知」=直観知=般若智の持ち主が壱見子供っぽく観えて仕舞うのである。
されどほんたうのほんたうはすでに彼等は分かって仕舞って居るのだよコノ現象界の理のほぼ全てを。