目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「神」と「佛」の認識の違いとは所謂「相對分別」への對し方、処し方の違いのことなのであるー聖人ガンディーによる無抵抗の思想をヒンドゥー教の聖典より読み解くー

皆さんには「神」と「佛」の認識の違いのことがまずもって分からない、だがソレではイケませんのでまずはしかと御勉強を致しませう。ー聖人ガンディーによる無抵抗の思想をヒンドゥー教聖典より読み解くー

 

 

 

 

さうまずは聖俗の立場に於ける「認識上の違い」と云うことを宗教詩人は問題として捉えたのでした。

ソレはまさにさうで、なんとなれば俗の立場に於ける認識がもしも〇であるならばコノ文明世界は劣化することも無くむしろ永続致しませう。

 

ところが實際にはまさにソノ部分こそが✖ですのでかうして世が進む=ニンゲンの認識を押し通さうとすることでむしろ色んなものを破壊しつつ歩んで行く他は御座らぬ。

ですが問題はソノ迷いの境涯のやうなものをむしろどう捉えるかとの部分とならう。

 

つまりはソレが〇なのか✖なのかと云うことであらうが宗教はまず前提としてニンゲンの認識をソノ侭に〇だとは捉えて居ないことが多い。

ソノ顕著な例こそがクリストと釈迦による認識です。

 

他にはジャイナ教であるとかまたグノーシス主義であるとかそんなある意味では「悲観主義」に傾く宗教などではむしろ✖✖✖です、とさう捉えるのやもしれん。

逆に神道イスラーム教、さらにヒンドゥー教などはまた意外と現世肯定主義でせう。

 

いずれにせよそんなクリスト教徒と佛教徒は結構世界に多く居ますのでソノ宗教としての基礎認識の部分位は押さえて置く方が宜しいのではないか。

 

ですがおそらくは基本的にカンチガイをしつつ我我庶民はソレを見詰めて居ることだらう。

ですのでまず言って置きますが、クリストと釈迦による認識に「現世利益性」はほぼ認められません。

 

よってクリスト教はコノ世でのニンゲンの繁栄には無理があるのでアノ世にて全能の神の認識に全的に委ねる他は無し、との半分位悲観論的な教えの内容です。

また釈迦の認識では「中道」=「弐重極否定」との論理にて「価値」を捉えソノ「価値」をも最終的には滅する=脱構築する、ことで「佛」と成るとのまた如何にも哲學的な内容の精神論でありコノ場合には「神」はドコにも出ては來ず。

ー但し佛教には屡「神」が登場する。ソレは純粋なる佛法=釈尊御自身の御考えとはまた別に他宗教の影響を受けることがどうしても避けられぬからであらう。ー

 

尚悲観論としてはあくまで釈尊御自身の御考えこそが最右翼であらう。

ナゼナラ兎に角「現象としての自分(ニンゲン)を完全に消し去る」ことこそが「佛」の意味なのだから。

 

ところが相變わらず世間では所謂豪華絢爛で立派な御墓に入りさらに御布施を壱千萬位積めばもうワシは即佛になれるぞ、また先祖供養はしかとやらねばならんぞ、でないと地獄へ堕ちるぞよ、などとなんかもう何も言えなくなる程のカンチガイでの信仰の世界を生きておるのです。

 

ですからコノワタシ=宗教詩人の苦しみの約半分はむしろそんな非理性的な世間での勝手な佛法解釈の部分にこそ有り申した。

だから教義上、また哲學上の眞理探究の苦しみバカリかむしろソレのずっと以前での世間の訳の分らぬまるでケモノみたいな認識と常に闘って來ねばならなんだ。

 

だからワタシはもうハッキリ申してとても疲れたのだよ。

だからほんたうは三河の山奥へ逃げソコにて穴を掘りゼヒ「入定」したい位である。=宗教詩人様がついに宗教上人様となるまさにソノことよ

 

まあだがコノ世間また現象世界はさうカンタンに我をして「解放」させては呉れぬ。

とどのつまりがそれ程厄介で且つ罪深い世界だとのこととなりませう。

 

だが他面ー物質面ーでワタシはやりたい放題をすでにやりましたのでもはや思い残すことなどは無し。

 

例えば昨日はピザ(L)弐枚をペロリとたいらげた。

ナゼナラソノピッツアが何と「半額」ですぞ。

 

つまり弐枚で壱枚分の値段です。

さてソレを注文する店がまずは問題です。

 

熱田の方の店で注文すれば送料がかからないのだししかも焼肉系のピッツアが頼める。

ところがこちらは結局値段が高いのですしまた遠いので配達に時間もかかる。

 

でもって地元天白川の際の店の方にした。(マリノの店)

ココは以前何枚か🚲で買いに行ったところである。

 

でもってソノ配達の過程がネット上で今や視られます。

なる程技術のシンポとはまさにかうしたことなのか。

 

あれ、コイツまた變な道で我が家へ向かって居るな。

さうかこやつはまさしく自転車での配達なのだな。

 

もう近く迄來てるので門の格子戸を明け放ち待つ。

「ここら辺かな?」

 

などと云いつつ兄ちゃんがデカいピッツアを抱え現れた。

ソノピッツアは「マルゲリータ」である。

 

しかもソレが焼き立てで美味い。

でもって日曜の夜には相生山での蛍観賞を予定して居るのでまずは精を付けねばならん。

 

實は昨日医者へ行きまた買い物を済ませ家に帰るとアタマが痛くどうも體の調子が惡い。

なので昨夜はさうしてピッツアを貪り食いまたPL顆粒を飲んで早く寝たのだった。

 

※Lサイズの「マルゲリータ」×2+配達料=2,210円

…どう考えても安いだろ!

 

が、イザ栄養過多のワシ自身の體に取ってはむしろソレが惡い!

さう惡い物であれ必要でありつまりは體が欲することもまたあるとのことだらう。

 

 

映像の世紀バタフライエフェクト 塩の行進 ガンジーの志を継ぐ者たち - 動画配信

 

さて今回取り上げる聖人様とはまさにガンディーです。

ソノガンディーがまさに偉人とされて居る訳ですがではどの点でさう偉人とされるのか?

 

※ココでのガンディーに関する記事ーガンディー の検索結果 - 目覚めよ!

 

でもってして彼ガンディーが精神的な支柱となしたのが「バガヴァッド・ギーター」でありまさしくソレはヒンドゥー教聖典なのだ。

 

個人的にヒンドゥー教に對しては幾多のギモン点も御座りますがソレを脇に置きまずはソレを學んでみなければ話が始まりますまい。

まずはソノ「學ぶこと」こそがニンゲンに取り大事です。

 

さうアナタの価値観はまず脇に置きさうして學ぶことだ。

世間の人人に壱番多い誤りがさう「學ぶこと無く」自分でもって成した価値観を絶對視することだらう。

 

 

100分de名著 ガンディー“獄中からの手紙” 第1回「政治と宗教をつなぐもの」 - 動画配信

100分de名著 ガンディー“獄中からの手紙” 第2回「人間は欲望に打ち勝てるのか?」 - 動画配信

100分de名著 ガンディー“獄中からの手紙” 第3回「非暴力と赦(ゆる)し」 - 動画配信

100分de名著 ガンディー“獄中からの手紙” 第4回「よいものはカタツムリのように進む」(最終回) - 動画配信

 

でもってかうして動画を幾つか視る位では學んだことにはなりませんのですがソコにまずは彼ガンディーの全體像が浮かび上がることダケは確かなことだらう。

 

こころの時代~宗教・人生~ シリーズ 闘うガンディー ~非暴力思想を支えた「聖典」~2 結果を求めず行為せよ - 動画配信

 

また中でも重要なのがまさにコノ動画でせう。

ソノ「結果を求めず行為する」とは「バガヴァッド・ギーター」に於けるクリシュナ神の教えの内容となる。

 

良い(善い)行い→〇

悪い行い→✖

 

まずニンゲンならばソレも少しは理性が働くニンゲンであれば誰しもさう考える筈だ。

ですが實を申さば必ずしも神の認識の次元がソレを求めるのでは無いのです。

 

ナゼナラ神の認識とはむしろソノ全體なのだ。

あえて難しい言い方をすれば「認識に於ける全體論」こそがソノ神の認識の正體だらう。

 

「全體論」

 

要するにさう「分かれ」ては居らず。

しかしながらむしろさう「分かれ」るのがむしろニンゲンの認識のクセのことであり、よってニンゲンの認識からは「全體性」が失せるが故に常に「不完全」で且つ「壱方通行」での言わば独善的で且つ利己主義的な認識をして居ざるを得なくなる。

 

さてたったイマ宗教詩人が述べて居ることはまさに「眞理レヴェルでの認識」に就いてのことです。

よって至極分かりにくくなることかと存じますが是非耳でもかっぽじって御聞き願いたし。

 

さてさうクリシュナ神は戦士であるのに感情的にへタッたつまりは「戦い」=「闘い」から逃げやうとするアルジュナに對しあえて「戦え」とさう諭す。

ですがイザニンゲンである彼アルジュナはもはや戦えない。

 

1.戦争の相手=敵には親族や友も居る

2.人殺しなんぞそも眞っ平御免だ

3.もう心身共にエライわ、ソレに怠い。

 

ワタシの場合は2.と3.に該當しもはや戦えまへん。

だが神の意思決定はソレとはまるで違うのだ。

 

ナゼナラ神は「善」と「惡」を始めから内包する存在だからなのだ。

さう言えばとたったイマ気付かれたアナタはエライ!!

 

もしやワシの弟子位にはなれるのかもしれません。

さうソレはクリスト教の全能の神が「善」と「惡」を本質的には区別しない神であることとまるで同じことなのだ。

 

ええっでもそりゃ違うだらう?

そも全能の神は「善」のみを救い「惡」を滅ぼすことで神の王國をこそ到來させるのだから。

 

だからソレはイザアノ世でのことでせう?

でもコノ世ではあくまで「善」と「惡」が等価に扱われ故に「惡」だからと言って滅ぼされたりはせずむしろ「愛され」さうして「救済」されるべき對象なのだ。

 

むううわーするとイザ神の認識の次元では「善」と「惡」の区別は無いか又は逆に「惡」であれ「救われる」のですね。

だったら惡でもイイじゃないか、さうかじゃあ惡の行為にでも早速手を染めてみるか。

 

ま、ソレは止めて置いた方がむしろイイですよ。

ナゼナラアナタのココロが多分汚れるから。

 

でも「やれっ!」ってさう言ってるじゃないかあんな靑ーい體のクリシュナ神が!!!

あっ、ソレ實は止めてもイイんです。

 

止めるとソレは主に佛教の方へ行くこととならう。

あーすると「やれっ!」って言うのと「止めとけ!」と言うのが有り「止めとけ!」と言うのがむしろ純粋な佛陀の教説でありつまりはソレが無神論であり有佛論なのですか。

 

流石は宗教詩人の片割れだな、まことに分かりが早いわ。

またジャイナ教などは佛陀以上にむしろ「止めとけ!」だらう。

 

じゃあ君もソノジャイナ教徒にでもなったらどうだ、兎に角さう「ヤル気無しニンゲン」なんだから。

はいソレもまた是非考慮させて頂きたいところです。

 

 

すると、

 

神=相對認識を必ずしも惡とは認めず

佛=相對認識を迷妄と捉え滅する=解脱を図る

 

との区別がソコに生じて参ります。

なる程、すると神と佛の認識構造にそも違いが有るとのことなのであるか。

 

尚佛説に於いてむしろ「神」は「佛」よりも下の存在なのだ。

即ち「神」もまた輪廻転生の對象者となりつまりはソコにまさか全能性などは無いのです。

 

ソコをあえて全能神にして居るのがクリスト教や他の壱神教に於ける世界観でありでも流石にクリスト教でも佛陀の宗教観は全否定出來ぬので彼佛陀が聖人の一人として列せられておるやうだ。

だけれどもそんなニンゲンを解脱した存在=佛陀が宇宙壱エラクなることはどう考えても全能の神からすれば赦し難いことだらう。

 

でもソコをあえて赦すの?

さう赦すのかクリスト教は?

 

赦せるのかなあそんな無為で且つ無私の佛陀が?

まさか金輪際赦せん!そも全能の神の御名に於いてまさかソコは譲れん!!

 

ほーれみよまたぞろ宗教戦争だぞ。

いや佛教徒にせよかっての僧兵の如くに武器を携えることなどもまた御座りますが故に…。

 

ぎゃあ世界が大宗教戦争に突入しかうしてあちこちで殺し合いなどが行われて居りますが…。

うんまあソレも仕方があるまい。

 

イザさうなっちまってるものはまたどうにも出來まへんのでソノ侭にやらせて置きなはれ。

アンタはでもそんな宗教戦争のことを書かんが為にココへ出て來たのか?

 

あ、まるでさうではありませんでした。

 

すると宗教詩人さんの見解では「神」と「佛」の認識の違いとは所謂「相對分別」への對し方、処し方の違いのことなのであると。

さうですね、だから「神の認識」は「相對分別」としての全體論を標榜し逆に「佛の認識」は「相對分別」を離れる、消去する、脱論理化の過程とのことであるな。

 

故に至極カンタンに言えば「惡」なる罪をもまた赦し「善」への転換を図るのがクリスト教の方法論でありヒンドゥー教の場合はまたソレとも異なり「行為と結果」即ち因果律に関する神とニンゲンの分担の部分をこそ指し示して行く。

「行為と結果」?でも惡い行いが良からう筈も無いだらうに。

 

だがクリシュナの神即ちヒンドゥーの神はニンゲンが受け持つのは「結果」では無く「行為」だとさう述べる。

すると「結果」を考えずにタダ「やれ!」とのことなので?

 

「結果」に関してはあくまで神の認識に於ける領分なのでソレに拘らずに「やれ!」とのことなのでせう。

さう兎に角「やれ!」

 

でもそんな「やれ!」でもって夜逃げや閉じ籠りになった人をアナタは何人も知ってる筈ですが…。

だがさうなってるものは仕方が無いものでもまたありませう。

 

 

尚壱般大衆の認識ですが兎に角ソレは狭いのだと言える。

そもさう考える範囲が狭くまたソコより導き出される愛や論理や結論が狭く要するに「ちっこい」のです、ソノ考えソノモノがちっこい。

 

なので宗教の全體像やまた政治の全體像がまるで観えて居りません。

ですのでまずはソレを拡げんが為の精神的な意味での努力を重ねること=御勉強に勤しむことこそがソノ認識を少しでも變えて行かんが為の要諦部となる。

 

「結果を恐れずにやる」

コノことはコレで確かに壱つの眞理なのではないか。

 

ナゼナラニンゲンは常にさう「やる」しか無い生き物だ。

と云う部分こそがほんたうはビョーキなんですが兎に角さう「やる」しか無い。

 

でも余りに心理的に進んで仕舞った方などはむしろやらずに「捨て去って」も良いことだらう。

ソノ場合には佛教やジャイナ教の方へ進んで行く他は無し。

 

兎に角さう宗教哲學的には佛教やジャイナ教以外はソコに必然として「神」の世界観が出て來ますのでソノ「神」はむしろ「やらぬ」ので無く「やる」方となるのです。

じゃあ🗾國の八百万の神などもまたさうやるので?

 

まあさうヤルのでせう。

でも宗教詩人様御自身はまさかヤラぬのでせう?

 

まあ半分程かうしてすでに「入定」しても居りますので…。

でもさうしてイザアナタが佛化すると神や神神がさぞや御怒りになられるのでは?

 

うん滅茶苦茶に怒るのだらう。

うはあーコレがおおまさにコレこそが「神の御怒り」ぞー!!

 

そんな神や神神ってさうして意外と感情的であり佛陀のやうな超理性體とはチョット違う。

 

 

どうでもイイけどガンディー氏のことがまるで語られて居ません。

ガンディー氏は結果さうして「バガヴァッド・ギーター」を毎日読み込み「やらう!」とさう思われたのでした。

 

まさにソノ行為こそがかの「塩の行進」であり「糸車紡ぎ」でしたのです。

そんなガンディー氏は可成の理性體の方であったかと目される。

 

さうとても頭の良い方でかっては弁護士をされて居たがやがて印度思想を現代に用いて「社會を變える闘い」へと進まれることとなる。

また實際に彼ガンディー氏の活動がきっかけとなり植民地として大搾取され続けて居た印度は独立を勝ち取ることに成功せり。

 

但しガンディー氏はかって佛教國である大🗾帝國が帝國主義的侵略をして居ることを痛烈に批判して居たものです。

でもそんな政治的闘争は兎に角危険ですのでついに彼ガンディー氏は何とヒンドゥー教原理主義者により暗殺されて仕舞うのだった。

 

ふーむすると彼ガンディー氏はクリシュナ神の教えとしての「ヤルキーニンゲン」となりついに印度を救ったのですか。

さうです、でもイザアナタはやりますか?

 

いやまるでやりたくはありません。

でもやらないとそんなピザはまさか食えんぞよ。

 

じゃあイヤイヤですがやりませう。

あーなんだかとても腹が減りました。

 

かう御勉強って意外と腹が減るもんです。

ところで昨日素敵なマリア観音像が中國より届いた。

 

天然木材の聖母マリアの像-01

 

まさにコノ侭の像でちっこいが精緻に彫られ素晴らしい像だ。

またソノ値段は1233円です。

 

天然木材の聖母マリアの像-03

 

かうして共産主義的にさう価格破壊をやり続ける中國は結局生き延び對して🗾國の企業は國際的にはおそらくもはや生き残れない。

故に内需中心で経済を回しソレこそ江戸時代の如くに自給自足の鎖國體制でイイのでせうが無論のこと政治家でもしもそんなことを言えば變人だと笑われませう。

 

あ、でももうソレはどーでもエエわ。

早速コノマリア観音像に祈りを捧げるべし。

 

天然木材の聖母マリアの像-02

 

アアマリア観音様…。

どうもどうも御免なさい。

 

どうも周りがこんなバカばっかりで御免なさい。

ソレはまさにボクが彼等を教化出來んかったからでのことです。

 

マリア観音様、どうかどうかこんなワタシを「神の國」へとゼヒ御連れ下され!

おい君、でもソレはそも違うだろ、なんぞもっと大事なことをやらねばならんのではなかったか?

 

あれスッカリ忘れておったわ。

まずワタシがイクところは「天國」では無く「興正寺」だった。

 

しかもソコにはたったイマ釈尊の御眞骨がしかと安置されておる。

故にまずはソコへ御挨拶にイクべきだったのだ。

 

御釈迦様、かうして宗教詩人めがたったイマ参上致しました。

本日は御挨拶の為に正装しつまりはかうして黑い喪服に身を包んで参りました。

 

御釈迦様、ココ🗾の地は相變わらず不穏ソノモノです。

しかも🗾の坊主共はこぞって肉食妻帯しもうやりたい放題だ!

 

アア御釈迦様、ワタシはもう東南亜細亜へと出向き小乗佛法の坊主にでも是非なりたし。

または印度へ出向きガンディー氏の墓参りなどをゼヒしたい。

 

でも實は印度カレーを壱番食いたし。

 

ところで御釈迦様、もしやわたくしは謗法者でせうか?

こんな拾字架のアクセサリーなどが部屋には澤山御座りますのですがもしやソレって大罪なのですか?

 

そんな訳で兎に角早う興正寺へと出向きたいのですが今夜は相生山にてヒメボタル探しです。

 

さう宗教的な探求はまさに人ソレゾレでせう。

ですが宗教には基本となる原理原則のやうなものが必ずや有るものとわたくしは考える。

 

まさにそんな基本となる原理原則のやうなものをわたくしなりに規定(結論)付けて行くことこそがワタシに取っての宗教なのでありソレはまた厳密に言えば「信仰」とは違うものなのです。

ですが部分的にですがワタシは「信仰の力」乃至は「信心の力」をもまた用い己が苦境を乗り切ったりもまた致します。

 

タダソノ折りに祈ったり縋ったりする對象がソノ都度違ったりもまたするのである。

さらに言えばソレでイイのだと常に自分ではさう思っておるのです。

ーココでの投稿を暫く休止しますがまた蛍の様子などを語りに戻って参りますー