相對分別世界に求められるだらう「相剋し且つ相即する」だらう関係性のこと=コレからはゼヒ「仲良く喧嘩」しな
「プレッシャーで人は成長する」は本当か?→宇宙飛行士・野口聡一氏の答えが正論すぎて、ぐうの音も出なかった
仰るやうに必要以上にプレッシャーをかけ成長ーシンポーし続けやうとする現代社會はそも間違って居る。
また現代社會は「人権擁護」を叫ぶ割りに酷く差別を助長するー容認するー社會なのでもまたある。
さうみんなが不幸で且つココロが折れ易いのはむしろシンポをやりたい現代社會のせいなのであり我我庶民や宗教者のせいではまさか無いのです。
さてここのところ我は言わば人生の上での総決算とでも言うべき宗教上の精神的闘争に明け暮れて居る。
故にソレは文學の世界の御話なのでは無くまさに實存としての大闘争の模様なのだ。
尤も世間は世間でむしろソレとは無関係での「グオー、ギャオー」とのケモノ的な闘争をば繰り広げて御座る。
アアイイなあそんなおバカな本能世界ダケを生きて。
だって理性的な闘争はソレとはまるで違いつまりは精神の疲れ方が尋常では無い。
なのでかかう酷く疲れた。
もはや永遠に深い海の底でもって眠りたい。
嗚呼でも相變わらず我が家の庭にはかうして露草の群落が美しく靑く咲く。
ソノ美しさはまさに宇宙随壱でのものよ。
無論のことソレは伐れぬがでも庭から歩道へ突き出た雑草だけは全て伐った。
もうソレダケでデカいゴミの袋が四つも出來る。
ですが實存とはまさにさうしたものなのだ。
かうして生きる限りは食って出して掃除して寝て置かないと生命ソレ自體が回りません。
いやソレは分かるがでもアレはナニか?
ソレはNHKの世界のニュースでやってるおおまさに塗炭の苦しみでの世界情勢のことぞ。
うーん、どうもコレは社會が元元惡いのではないのか?
ですが御釈迦様の教説では常にニンゲンの認識ソレ自體が惡い。
だが待てよ、例えばクリスト教は「原罪」と言うがもしやソレって「ニンゲンの罪で有ると同時に社會の罪」をも問うものなのではないか。
うーん、さうか、確かに最後の審判の後に再建される「神の國」とはニンゲンの拵えしダメ社會を根こそぎに止めさせるものだわな。
ありゃするとクリスト教とはもしや世直し宗教だったのか?
そんな訳で改めてクリスト教の持つ社會性の部分に気付かされし本日です。
尚對して佛陀の教説には元來「社會性」の部分が欠けて居る。
佛陀は元元根暗な御性格の方であり「成道の為に社會は要らん」位に考えられそいでもって國も妻も子も捨て山に入られた。
で、ではもしや佛法でもって社會を變えることはまずムリなので?
さうまさにムリだ。
どだい釈尊は👩ギライであらせられたがソノ👩こそがまずは「社會の第壱歩」となり同時に「社會の全て」となるのだから。
あれすると佛陀はもはや初めから「社會を否定」して居られる?
だがクリスト様が率いる集団にはむしろ初めから👩が混じっておった。
またソレにクリスト様の生母であるマリア様への信仰すらもがソコには存して居らう。
じゃあアナタの論理であるソノ「社會が惡い」とのことは元元クリスト教の中に組み込まれる形でのナニカだったので?
うーん、だからまあそんなもので…。
ソレと「社會が惡い」とのことからかの宗教改革だのまたマルクス主義だのが必然として西欧世界に生まれて行くのである。
でもココ🗾では「社會が惡い」とさう言ったが最後即「村八分」でせう。
もしやアナタはさうされたのですか?
さうされたと勝手に思い込み「🗾社會が惡い」とさう言ってもおる。
さうクリスト教には少なくとも「社會が惡い」と考えて居るやうなフシがどうも有る。
だが他方で汝の敵を愛せ、などとも述べて居られる。
されどどうも「社會が惡い」のだ。
どだいこんな母ちゃんの股の間から産まれたケモノ共にイイ社會がやれやう筈も無いではにゃーか。
「社會が惡い」=原罪
どうもさうしたことなのではにゃーか。
社會科詩人様、もしも「社會が惡い」のだとすれば今後の人類はどうなりませう?
いやソコにはほとんど希望はにゃあ。
…にゃあ?
さうにゃー。
うんどうもソノ社會ソレ自體にナニカ矛盾💣のやうなものが組み込まれて居てソレが常に爆発するのでかう社會が滅茶苦茶になるのでせう。
…矛盾💣?
どだい近代自體がある意味では社會的なシンポの上での禁断の領域であった可能性が高い。
されど世界人口の増加によりやがて人類はソノ禁断の領域へと突き進んで行く。
世界人口の増加とはまさに👩の股の間が成し遂げしすっげえ仕事でしたのでした。
と同時にソレは👿の仕事ソノモノだらう。
はあーまたぞろ出ましたね。
御得意での👩=👿説が…。
いやでもそれはねー、實は原始佛法の専売特許だった訳です。
當時御釈迦様はまさに酷い口調にて👩のバカさ加減やソノ根性の惡さを批判せられておった。
ソレももう滅茶苦茶ですよ。
なので當然に👩はケモノと壱諸でまるで成佛し得ぬ存在なのでした。
ちなみに佛法ジジイのショーペンハウアー氏などもまた👩嫌いだったらしくソノ著作にて兎に角色色と述べられては居ます。
「社會が惡い」=母ちゃんの股の間ソノモノが惡い
ま、さうもまた考えられやう。
ですが特に理性的な宗教で無い限り即ち素朴な教義の宗教の場合は、
多産=豊穣
とむしろ捉えられることがほとんどであり母ちゃんの股の間ソノモノが惡いなどとはまずならん。
また御釈迦様の場合にも後に思想的な修正をされたとえバカな👩ではあれ成佛し得るやうにはなりました。
個人的にはソレはアノムラの娘のスジャータちゃんから乳粥を布施されたことが大きかったのだと思う。
👩=👿
でもいやあ怖い話ですね、もしやほんたうにそんなことが引き起こされて居るのでせうか?
まあソレも可能性とすれば五割位は有る話なのではないか。
ソレにクリスト教でもまたナゼカ魔女とは👩なのですぞ。
も、もしやソノ👩こそがケモノなので?
…まあケモノでせう。
ですがソコもまた余り思い詰めないで…。
ちなみに個人的にむしろワタクシは👩に對しとても優しい。
ソレはモテたいとかさう云うことでは無しに實はワタシが天才肌のニンゲンでつまりは両性具有的で👩の気持ちもまた分かるが故にさう優しくなるとのことなのだ。
兎に角旧約聖書の方にせよ👩が最初から惡者=👿とつるんだ心根の腐った者=イヴちゃん、としてさう描かれてもおる。
ソノイヴちゃんの子孫等がまたポコポコと子を産み挙句に人類は直に百億人にも達するのだぞよ!!
ひゃあーソレってもはやほとんどバイキンの世界ですよ!
うわあああーソノバイキンの退治をば早うせんと直に世界はこんな👿にこそやられて仕舞うのだぞよ!
うーんさうか、すると邪教とかで例えば👩が教祖の食いものにされるとのそんな気持ちがまた分らぬでもにゃあ。
「原罪」=👩の股の間の罪深さ
いやああー、またまた怖ろしいことで…。
でも聖母様は無原罪(の御宿り)とされしかもアノマザーテレサ様などの聖人がクリスト教には列せられて居る筈ですが…。
うんかのマザーテレサ様は案外根性が惡いなどもまたネット上では書かれても居らうがでも貧しい境遇のニンゲンを多く介抱されて居られたこともまた確かであらう。
ところでナゼカクリスト教は特にクリスト様の教説に於いてはキビシイ性的な戒めが多く存して居ります。
即ち「情欲でもって👩を見る者は即ち姦淫者なり」とも。
さうですね、クリスト教もまたソノ点では至極理性的でありつまるところはニンゲンを救済せんが為の宗教だらう。
では逆に👩を豊穣の神と見做したりする古いタイプでの宗教は理性的な宗教では無い?
まあ余り理性的だとは言えぬことだらう。
では佛陀の教説はどうなのか?
まあ何せ👩嫌いであらせられ即ち理性的でせう。
では例えば神道に於いて「注連縄」と云うものが御座りますがソレが何と🐍が交尾をする様なのださうな。
ええっ?するとワタシたちは大🐍の交尾の最中にソノ下で鈴をじゃらじゃらやりつつ御賽銭を投げ同時に祈るのですか!!!
ほうです、また神社ではまさに木製のチンポのデカいのを担ぐ祭りなどが🗾の各地にありますね。
つまるところは自然界の営為は不浄なものでは無く逆にニンゲンがさう意識的にイヤらしく捉えて仕舞うのです。
でも、だ。
でも佛陀御自身とクリスト御自身はさうあくまで性的な意識なり行動なりには厳しく戒めを与えられて居る。
でも前回宗教詩人様は👩の股の間にコダワルのは自由だと確かさう申された筈で…。
いやそりゃあくまで高僧の場合にはとのことで…。
ソレに寒山や拾得は何せガキだからそんな👩の股の間などにはほとんど縁がネエのだし。
さてワタシは元社會科の塾講師として「社會のヤバさ」のことに就きコレ迄延延と申し立てて参りましたがソノヤバさの中での最大の問題とは「人口問題」であるとさう捉えて居ります。
またソレと匹敵するであらう大問題こそがまさに「地球灼熱化」の問題でせう。
すると今後に於いて人類はソノ「人口爆発+地球灼熱化」とのうへえーもうどうにもならんやうな大問題の連鎖にこそ苦しめられて行くこととなる。
でも實際にはいまひとつ大問題が存しソレは「原罪としての社會関係」とのことであると今朝ようやく気付きましたのです。
「人口爆発+地球灼熱化+原罪としての社會関係=罪深き社會」
どひゃあそんな「参重苦」だぞよ。
確かに佛陀の教説に限れば「原罪としての社會関係」との概念は有りません。
でも後の大乗教説では所謂「末法思想」なる社會的な惡の世界観が描かれることとなる。
どひゃあそんな「参重苦」だぞよ。
が、ソレもまた御釈迦様御自身が「末法」なる概念を御持ちだったかどうかは分かりません。(ソコにはまた諸説が有り)
ですが御釈迦様御自身もまた「ニンゲンの社會に對しての危惧」を御持ちになられて居たことだらう。
なんとなれば「ニンゲンの社會」がまさに其の侭に上手く回るのであれば「救済宗教」などはそも要らぬ御話でせう。
ですが實際には御釈迦様やまたクリスト様が「コノ侭ではおみゃーらはまるで助からん、ソレではイカンのでイマすぐに解脱するかまた死んでから天國へと至らう。」とさうハッキリと教えて居られるではあーりませんか。
君、君、またぞろ社會をコケにし過ぎだよ。
…ですか?
でもクリスト教は結構現代社會のことをボロクソに言っても居ます。
しかしながらあくまで佛法では内面こそが形象(現象世界)を形創るのだから君の内面こそが惡いとさう仰るのです。
惡いのは社會⇔惡いのは内面
即ちあれまたココもかう分裂致しますので個人的にはソコに「縁起関係」的なバランスを取ることが大事なのではないかと考える。
即ち「相剋し且つ相即する」関係を築くことこそが肝要であらう。
要するに「對立しつつも仲が良い」関係をこそ築くことだ。
さて昔「トムとジェリー」なる米國のアニメ番組が有り我我還暦世代は子供の頃にいつもソレを視つつ育ちましたのです。トムとジェリー - Wikipedia
ソコに出て來る常套句こそが「仲良く喧嘩しな」でした。【懐かしアニメ】トムとジェリー主題歌【ノーカット版】 - YouTube
さう🐱と🐀が仲良く出來やう筈も無い。
されど番組中では確かにソレも毎回「仲良く喧嘩する」🐱と🐀とが描かれて居たものだった。
まさにコノ「相剋し且つ相即する」関係=縁起世界での實相、とのことを直観致しましたのがワタクシの宗教人生に於ける壱発逆転でのホームランなのでした。
またソノことを兎に角より分かり易く申せばつまりが「仲良く喧嘩しな」なのだ。
さう正しくはあくまで、
「仲良く喧嘩する」漢と👩=〇
「仲良く喧嘩する」國と國=〇
「仲良く喧嘩する」クリスト教とイスラーム教=〇
「仲良く喧嘩する」佛法と壱神教=〇
對立せし相手を皆殺しにする=✖
對立せし相手國のインフラをボロボロに破壊す=✖
さう👿である👩に唆され敵と云う敵を殲滅す=✖
👩は皆教祖の性ドレイと化し教祖の思いのままにしまた時には子を孕ませる=✖
さうむしろ敵と👩とを愛す=〇
なのだから。