目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

まさにココロの羅針盤としての佛法とクリスト教に就いてー正教の意義とは何か? ー

是非眞面目に聴いて頂きたい宗教詩人の終末的宗教論ー佛法とクリスト教はさう人類の滅亡を見届けつつニンゲンのココロに希望の光を与え続ける ー

 

 

 

 

ローマ教皇フランシスコが死去、これからどうなる?

 

まずはかの羅馬教皇の御逝去に即し心より御悔みを申し上げる。

かのフランシスコ教皇はなかなかの人物にてつまりは弱き者の立場と政治上の不正や汚濁と云うことにひときわ敏感な方であったことであらう。

 

またかの聖フランチェスコのやうに清貧に甘んじ自然界とのタマシイの交流があった方であったのやもしれぬ。

でもまさかソレは無いか。

 

さうクリスト者は常に神の認識の基に「平等」に物事を観る目が無ければなるまい。

また實はソレが佛教徒であるにせよ同じであり即ち佛の認識の基に「平等」に物事を観る目が無ければなるまい。

 

まずはソノやうな「脱ヒエラルキー」こそが正教に於ける認識の要諦部なのだと言い切ることが出來る。

だが現實としての娑婆世界はむしろヒエラルキー=序列を強固に築きつつ歩む社會活動となる。

 

ソノやうに世俗の世界では常に利を得る者と吸い上げられる者との格差が生じ結果的にソノ搾取がむしろ社會秩序を壊しにかかるものとさう相場が決まっとる。

つまるところはソノ上位者のデカい欲が最終的には民人を疲弊させるに至りニンゲンの社會は何時迄経っても良くはならずにやがてソレに何もかもが破壊し尽くされ地球はさうして人類は滅亡する。

 

あああ何なることか。

だからこそ民人よ心して聞け。

 

宗教とはまさしくソノヒエラルキー序列の無化のことぞ。

でも羅馬教皇の葬儀にはおそらく数億円かからうが君の葬儀は大體拾萬で済む。

 

えっ?拾萬もかかるのかこんなワシの葬儀に。

なんだなら壱萬でイイのか?

 

いや出來得れば千円位でやって貰いたし。

どだい宗教詩人はかうして宗教の専門家ですので墓も何も無くとも必ずや天國へイケるのだ。

 

かうして煩悩や罪に苛まれつつ地獄の業火に灼かれて居るにせよ兎に角さうなる。

するとクリストや佛陀がまさかそんなアナタを放って置かぬとのことなのか。

 

さうです、ワタシの目の前にはすでに天國への階段がしかと観ゆる。

ああ後はソノ階段を壱歩壱歩上るばかりなり。

 

 

さて宗教は認識としてニンゲンの本質的な意味での瑕疵性の部分にまずは切り込んで行く。

故にソレは食って寝て働いてとのそんな社會的な営為が決して気付けぬ本質的問題であり課題への入り口ともなる所謂「精神的」なレヴェルでの御話なのだ。

 

すると社會にそんな精神性などは無い?

尤も社會にそんな精神性があれば世界はむしろ良くなって行くことだらう。

 

でも現實にはまさにソノ逆をして御座る。

 

さうかあ、するとこんなオレは壱流企業の正社員だぞ!などとはまさか威張って居られないのですね。

だからソコへあえて価値を置き全的に信頼したりして居るからこそ定年後にやることが無くなったりもするのです。

 

だがワシなどはむしろ今の方が忙しいのですぞ。

ナゼナラかうしてやることダラケなもので…。

 

要するに世俗の世界に仕組まれる価値がそも精神的な次元のものでは無く単なる数的還元値だったりもするのです。

宗教ソレも釈迦やクリストの如き正教の開祖による認識はまずそんな風に世俗での価値観とは正反對なものとなる。

 

だから世間をこそ信じてる=さう社會に洗脳されて居る=全體主義による操り人形となる人はまずもって釈迦やクリストの言ってることがまるで分かりません。

ですがほんたうのほんたうはむしろソノ逆であり釈迦やクリストが仰って居ることこそが正しいのでした。

 

でも佛法やクリスト教なんぞはもう古臭くてしかもウザい。

もうそんなもんはこんなシンポ社會にはまるで要らんので是非滅びて呉れ。

 

馬鹿者!!

ソレだからこそ汝は肥溜めに落ちるのだ。

 

いや違った、地獄へと堕ちるのよ。

 

あああーさてもココはドコだ?まさか地獄では?おおおーアソコに何やら血の池地獄のやうなものが観える。さらにアチラではニンゲンが切り刻まれ肉団子のやうなものが捨て置いてある。うわあー触るな汚らわしいこんな高貴なボクに金輪際触るでない、コノ👹共め亡者共め!

 

ふと気付くとかの宗教詩人はナゼカ地獄界の眞っただ中を漂って居りし。

うほーいナゼだナゼなんだ?こんなに正しいつまりは清廉潔白なワシがよりによりナゼこんな地獄へと送られたか?

 

…まだ分かりませんか?

ソレはアナタがおおまさに「教祖」にならうとしたからですよ。

 

いやまるでならうとはして居ません、ソノ教祖とやらには。

ソレばかりか生前に自分は主に御釈迦様とクリスト様への賛歌バカリを書き留めておった筈。

 

そんな善人がまたなんでコンナ地獄へと堕ちる?

いやさう云うものですよ、コノ世間は。

 

ええっ?するとボクは宗教の地獄では無く世間の地獄に落とされた?

さうですアナタは心根が清過ぎてよって世間とは正反對のことバカリをかって述べておった。

 

ソレもアノ禍々しい反體制ブログの「目覚めよ!」でもってしてまさにソレをしておった。

だからアナタは死んでからおおまさにコノ精神的政治犯としての牢獄へと繋がれたのです。

 

あ、じゃあイイです、もうソレで…。

もうイイんです、ボクは兎に角ほんたうのことを言ったのだから。

 

かくして宗教詩人は永遠に獄に繋がれし。

だが彼はまるで後悔などはして居らぬ。

 

さうあくまで彼は正教への信心と伝教にこそ生きたボーサットゥであり👼の壱人だったのだから。

 

 

兎に角當時はさう新興宗教の教祖でありし釈迦とクリストはむしろ思い切りに當時の常識的価値観に對し抗った。

 

釈迦はかのバラモン教(現在のヒンドゥー教)を始めあらゆる教説を外道として退け正しいのは佛法ダケだとさう信じて疑わず。

さらにクリストはパリサイ人を批判しまた神への正しい向き合い方が為されて居ないと怒り正しいのはクリスト教ダケだとさう信じて疑わず。

 

兎に角共に物凄く頑固で且つ偏屈でまさにとんでもねえ新興教の教祖です。

ですがソレが次第に正教化しよってニンゲン界で最高峰の偉人に迄祀り上げられた。

 

でもってして實際にコノ御弐方の聖人様以外にほんたうの意味での聖人様は居ない。

 

とのことでまずは宗教詩人が述べたかったのがソノ世俗的価値観と宗教的価値観がまるで別物だとのことなのだ。

だけれどもさうハッキリして居るそんな正教程むしろ現代人には理解し難くつまりは人気が無いと來てる。

 

とのことは結果として現代人並びに現代社會に於ける価値観が現金化(現世利益化)=世俗化して居るとのこととならう。

 

正教化=コレではイカン⇔世俗化=コレでイイ

 

つまるところは認識上コレでイイとさう捉えるのかソレともコレではイカンとさう捉えるかとのこととならう。

言うまでも無く佛陀とクリストは「コレではイカン」とさう捉えられた。

 

故にこそ救いへの方法論は異なるにせよまさにソレを正教と呼べるのだ。

ですがソノ逆にかうしてシンポが好きな現代社會はもう誰が観ても破壊野郎バカリです。

 

ソノ破壊野郎にみんなが洗脳されて居て果たしてソレでヨイのでせうか?

だから同じ洗脳されるなら正教にこそ是非洗脳されてみやうではないか。

 

 

では次にこんな邪教の教祖が主に神学上並びに佛教哲學の上からの諸諸の論点に就き講義させて頂くこととしてみやう。

尚コノ講義は是非眞面目に聴いて頂きたい。

 

さてもソノ眞理とはナニか?

眞理とはおおまさにココロの榮養のことぞ。

 

尚實はココでもかってはより深いレヴェルでの宗教的探究を重ねて居りしことがあった。

例えば、

 

グノーシス の検索結果 - 目覚めよ!

 

マニ教 の検索結果 - 目覚めよ!

 

などと云ったつまりは異端的な意味での宗教的眞理探究の歴史をば探って居たのであった。

なんとなれば眞理はむしろより古くしかもより多様な宗教的な探求の場より垣間見るものであるが故に。

 

要するにそんな壱種の考古學的な視点よりまずは探究すべきものとならう。

じゃからナニ教やナニ宗が絶對の教えだとさう思い込む以前にむしろソノやうな幅広い意味での宗教的探究が眞理に對し重要な意味を持つのである。

 

じゃあ釈迦の教説は絶對では無い?

いやホントは絶對だらう。

 

絶對ですが、結果としてソレはニンゲンにはやれん教えのこととなる。

でも正しいのならソレだけでむしろ充分でせう?

 

だからまさかソレはやれませんって。

どだいアンタ👩の屍を何日も観続けソレがドロドロに腐って行く有様を直視することで生殖する気を失くすなんて修行に果たしてダレが耐えられませう?

 

あ、もうソレ壱つでもうニンゲンは耐えられません。

あれ、でもどうもオカシイな。

 

確か佛教って父母への孝養とかそんなこともまた謳って居りますよね。

うんソレもまた厳密に申せば中華佛法に於いて儒教思想などが混淆したものであらう。

 

また所謂先祖供養だとか墓の継続だとかそんなものも御釈迦様の思想とはほぼ無関係なものとならう。

だけれどもアアまさに不純化した佛法に取りソノ佛教組織の維持、存続の為に是が非にも守らねばならんだものがまさにソノ先祖供養であり墓の存続であり坊主の墓参りであった。

 

だが御釈迦様御自身の思想は非常に合理的且つ哲學的なものとなる。

よって佛法は當初言わば佛教なのでは無く佛陀と云う大哲學者が説いた説論のことであった。

 

御釈迦様はさう悲観主義の哲人のやうな方で要するに生命現象ソレ自體に對し随分と否定的であられたのだ。

故に生命現象ソレ自體を止滅する方法論として佛法なるものをまさに自力にて創出されて行くのである。

 

だがソレもまた厳密には相對概念分別の否定であり且つ本能の否定であり要するにさう否定に否定を重ねるとの所謂弐重否定(中道)との方途にて概念ソノモノや知覚ソノモノの限定性を脱し「涅槃」なる永遠の浄樂の場へと至らんとする試みのことであった。ーさう精神的に救われんとする方法論ー

 

永遠の浄樂の場?

でも永遠の樂園=神の國、などとも近くはないのですかソレが。

 

ほいだからこそソノクリスト教に於いても「永遠の浄樂(浄福)の場」こそが与えられやう。

但しソレには唯壱で且つ絶對の「神」とソノ創造主を信仰するニンゲンの双方が必須ともなるが。

 

自然界⇔ニンゲン

神⇔悪魔(👿)

 

クリスト教はさう弐元論化して行ったのでとりあえずは現實的な教えとならう。

なんとなれば、

 

善⇔惡

高級⇔低級

継続的⇔非継続的

 

とさう現象世界の事象は實際に何でも弐元化されやう。

 

芸能人⇔壱般人

御役人⇔壱般人

権力者(為政者)⇔壱般人

金持ち⇔ビンボー人

常識人⇔ホームレス

常識人⇔ゲージツ家

資本主義⇔共産主義

 

とさう兎に角分かれる。

 

👨⇔👩

漢⇔オカマ

💩⇔オシッコ

💎⇔屑石

💎🖊⇔屑🖊

 

とほりゃ何でもさうイケるぞよ。

だからソコで問題となるのが實はソノ「⇔」の部分となる。

 

ソノ「⇔」が實は自然界には有ってしかも無い。

確かに自然界でもまた、

 

🐻⇔🐟

🐍⇔🐸

🐯⇔🦌

 

などと例えば食う食われるの関係でもってしてもさう分かれやう。

 

故に自然的現象とはソノ具體的(具象的)分離なのでありとどのつまりが観念的(抽象的)分離には非ず。

されどニンゲンに限ればソレは生命としての質が違いつまるところソレは観念的に分別による価値の分離(認識上の)を引き起こすこととなる。

 

さてココ迄述べれば我等ニンゲンの認識が所謂クセ持ち(クセ者)でありまさかソノ侭では救われぬことに例え鈍感なみんなではあれやっとのこと気付くことかとさう存ずる。

じゃから宗教的な次元の目的としての全てはソノクセ者であるニンゲンの認識による価値観を如何に抑えソレをより素朴で且つ原初的な階梯へと導くかと云うことにかかって來やう。

 

なのでまさにソノことを佛法やクリスト教がさう述べて居たのだった。

でも佛陀のやり方は高等過ぎて誰もやれんのでさうクリスト教が出來たのだと?

 

うん佛陀の方法論は高等に過ぎソレをイイとさう申したのはまさにアノショーペンハウアー位のもんだらう。

またソコからも、

 

佛法⇔クリスト教

 

とまあさう言えなくも無い。

コレもまあ方法論としてはまさに正反對ながらソノ目指すところは「ニンゲンの認識の上での永遠の浄樂(浄福)の形成」なのだ。

 

すると佛教徒はむしろ積極的にクリスト教と交わりソノ逆にクリスト教徒はむしろ積極的に佛教徒と交わり御遊戯を是非すべきなのか?

別に御遊戯はせんでもエエだらうが兎に角ちゃんと正統の宗教としての自負、自信のやうなものは持っても良からう。

 

 

でもってしてたったイマ「環境破壊」や「種の絶滅」の大問題が顕在化しソレばかりかソレ等の大問題が逆にニンゲンの営為を追い詰めて來さえしてもおる。

要するに近代文明による破壊が蓄積するに及びソノコトにより地球が疲弊しついに破壊されるに至る迄にソノ影響が及んで居るのである。

 

ではどーしたら良いのか?とさうニンゲンの中でも「意識が高く有る」人人は思われやうがそんなに意識が高いのであればちゃんと解決策位は出してみろよと個人的にはまず言いたし。

でもってボク自身の解決策としては以上の如くにソレが宗教的に解決されるものとさう最終的には考えます。

 

されど「環境破壊」や「種の絶滅」や「地球温暖化」自體をニンゲンのココロの向きが解決し得るべくもまた無い。

故にソレは其の侭に進みやがて地球は破壊され尽くされませう。

 

ですが僅かながらまだ時間は有ります。

ソレも多分後拾年、廿年位のことだらうが多分自分の死後には逆にソレがドンドン酷くもならう。

 

ですがまたそんな中でも生き残るのはまさにソノ宗教的なパワーの方だらう。

會社がまた國家がさらに👨‍👧‍👧がさらに共同體がブチ壊れるに及ぶにせよソコに生き残るのはそんな佛法でありさらにそんなクリスト教の教えでなくてはならない。

 

そんな訳で自分に取り正教とはさう人類が滅亡する迄の文明の歩みを厳しくも戒めつつも共に歩むことだらう精神的な意味でのまさに羅針盤の如きものなのだ。

ー元よりソコに希望などは無い、むしろ正教がソレを形作るのだ。ー