目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

連休スペシャル 五 まさに究極としての宗教的映画を視るー映画「神の小屋より」を視て心を洗われるー

宗教が目指すべきこととはそも「樂」であるーさう「神の小屋より」を視てスッカリ海の底より脱け出しましたー

 

 

 

 

さて連休中に宗教詩人がして居ましたこととはまさに宗教的探究でしたのです。

ですがソレをしつつあえてアノ藤原 紀香氏の股の間のことを想像したりもまたして居りました。

 

そもナゼソコにそんなにコダワる?

さてもね、かう異常にナニかにコダワルのが彼の生まれつきの性質でありソコはかのベートヴェンが淹れる珈琲の豆の数に細かく拘って居たのとまるで同じことなんです。

 

でも君の場合はまるで實力が無い。

即ちどんな實績もソコには無い。

 

うんにゃちゃーんとソレは有るぞよ。

まさにソレはな、コノワシがココ廿年以上かうしてネット作家でもってしてやり續けたおおまるでタダ壱つの業績のことぞ。

 

でもソレを読んだ人の数が何せ少ないダケで…。

 

ふうんそんな垂れ流してすぐに消えてくやうな作文でもってしてナアにが作家だ、おめえのはタダの言葉の排泄物じゃあねえか。

またイキナリそんな酷い表現でさうして立場の弱いボクのことをいたぶる。

 

でもそんなSMプレイの殿堂でもってイイのかココが?

いえさうでは無く確か聖なる眞理探究の場であった。

 

さうか分かってるじゃないかまるで…。

だったら大人しく聖なる眞理探究の場作りの手伝いでもせい!

 

 

さて昨日2025年の五月六日にワタシはかう閉ざした心を開かれました。

でも君は確か深ーい海の底で買った石のみと戯れて居たのだろ?

 

はいさう戯れつつもかう何かモヤモヤしたものを感じソレでもって宗教の研究に勤しんでおった。

 

 

アーミッシュ - Wikipedia

現代文明を拒否する人人~「アーミッシュの世界」

 

さうクリスト教徒にもまたこんな凄い人人が居られやう。

またクリスト教徒に限らず佛教の原理派やまたジャイナ教ヒンドゥー教さらにイスラーム主義に於いて物凄い人達が世界には結構居られやう。

 

またワタシはかって創価學會にも在籍し實践倫理宏正會やエホバの証人の人達とも若干の交流が有った。

即ちさう元元宗教には縁が深く有るニンゲンなのだ。

 

だが主に學びを進めた佛法に於いて「法華経」を始めとする大乗経典に疑問を抱くやうになりよってソノ後は主に原始佛教聖典の内容を独學にて學びまずはソノ釈迦の認識の凄みに打ちのめされることとなる。

また同時に原始佛教と現代の🗾社會との余りにも大きな距離感にほぼ絶望の思いを抱き且つ我が國の大乗各宗派へ疑惑の念が大きくなりつまりは大乗佛法=非佛説との視点よりソレ等をずっと批判しても居た。

 

ですので大乗佛法なんて昔はほぼキライだったのですよーキライどころかソレ等は皆邪教扱いだったのですよ。(そんなココロの中での邪教でした)

 

が、實はソノ構図を救って呉れたのが他ならぬクリスト教でした。

 

1.クリスト教の開祖クリストは磔の刑=コノ世で最も酷い仕打ちの壱つ、でもって死んだ。

2.自分はかってクリスト教徒だった優しい伯母が居る幼稚園へ通って居た。また幼い頃は英会話の為に教會へと良く通って居た。

3.25歳位の頃に瑞穂競技場横の林に捨ててあった聖書壱式を拾って帰ったことがある。

 

そんな経緯にて學んだのは主に佛法(大學でも全てソレを履修した)であったが實はクリスト教にもまたナゼカ開かれて居たのです。

ですが🗾の右寄りの學者ー例えば梅原 猛先生ーは西欧由來での哲學や文化(宗教)に對し常に批判的でした。

 

またソノことは社會科詩人などもまたさう考えて居りさう「近代」なる時代を組み上げたであらうプロテスタンティズムに對し疑惑の念を抱きさらに言えばクリスト教自體にも不信感を募らせて居たものだった。

さうかこんな文明をやっちまったのはそもアノクリスト教のせいだろ。

 

アイツら毛唐が信じるモノはアノ拾字架なるものであんなもんはすぐに折れちまうわい。

ー實際に昨年ワタシの胸に吊るした翡翠の拾字架は見事に折れましたー

 

そんな訳でほんたうのほんたうはワタシは佛教徒でありソレも佛法としてよりディープな「禅」の信奉者です。

ですがソノ「禅」もまたソコでの學びが進めば次第に「ナニをもコダワらぬ」感じへと進んで行くこととなる。

 

だからこんな禅こそが正法だぞー、と云うのでは無くまさにアノ壱休禅師の如くにあえて👩の股の間のことを克明に書いたりもするのです。

ー壱休禅師はでもやり過ぎの単なるエロジジイかもしれんー

つまるところこんなワシがワシだけが正教だー、とさう言っておる間はほんたうの意味で宗教が分かって居りません。

 

またほんたうの宗教は概してビンボーです。

さうビンボーなのがおおまさにイイんです。

 

でも「禅」もまた大乗佛法の壱宗派であり且つ中國からかって移入されたものでありつまりは中華佛法なのだった。

ソレと五年程前よりワタシは足の具合が惡くもなりもはや禅定を組むことがままならず。

 

そんなこんなでココ拾年程はクリスト教に大接近して居りました。

ソレはクリスト教の人達がナゼカ優しいからなのだった。

 

ソノ邪教とされるエホバの証人の人であれさういつも優しく紳士的な人人でした。

まあソコは創価學會や實践倫理の方の人人もキチッとされた方が多いのですがソレに加え兎に角優しいのです。

 

元元ワタシは両性具有者にて優しいニンゲンなものですからソレにはコロッと行く訳ですがでもかうしてアタマがイイので兎に角論理的に納得しませんとソレをヤル気にはまさかなりません。

ですので論理的に凄いとさう思わされたのは御釈迦様の解脱法のみだ。

 

他は別に信じてません。

信じてませんがかうして至って宗教が好きな宗教ライターの壱人ですので宗教のことを好んで書くダケの御話です。

 

さてでは本論へと進ませて頂きたい。

 

 

Amazon.co.jp: アメイジング・ジャーニー ~神の小屋より~(吹替版)を観る | Prime Video

 

先に申しましたがコノ映画にはほんたうに驚かされた。

と言うよりもココロの底より打ちのめされた。

 

コレ迄に観て参った宗教関連の映画でコレ程インパクトが有ったのはコレを含め弐作品のみです。

ソノうちの壱つは劇映画のマハーバーラタでありソレはまだ自分が廿代の頃に教育TVにて放映されたものをヴィデオで録画したものであった。

 

ピーター・ブルックのマハーバーラタ | SPAC

マハーバーラタ ピーターブルック - 検索 動画

 

兎に角コノ作品にも打ちのめされました。

しかしながら時代が移り變わりとっくの昔にヴィデオデッキが壊れ且つヴィデオテープも全部捨てましたのでもはやコレを視る術が無い。

 

ところがコノ作品の中で最も分からなかった部分のコトだけはいまだ鮮明に覚えて居ります。

ソレはやる気の無かった王子の壱人アルジュナに對し神であるクリシュナが「闘え」とさう諭す部分です。

 

尤もソノ「闘う」のは所謂「戦い」では無くあくまで内面での闘いなのだらう。

でも映画ではアルジュナが確か馬車付きの戦車に乗り戦うのです。

 

さてソコでまた穿った見方を致せば御釈迦様の教説では「全的な放棄」を行う訳なのでそも「闘う」以前にソレが放棄されて居ます。

ですが神神が出て來る世界ではまるでさうでは無くむしろさう戦うのです。

 

でもってしてかのクリスト教のやうな唯壱神であり全能神の場合でも實はさう闘うのです。

尤も戦争をするのでは無くニンゲンのココロの中で敵を赦す闘いをこそ繰り広げて行く訳だ。

 

「神の小屋より」と云う映画ソノモノがまさにそんな内面でのニンゲンのココロの闘いを描き出すものとなる。

まずはソノ種での眞面目さ、宗教的な意味での内面的な完成度の高さにこそ度肝を抜かれた訳だ。

 

さてナニをどう闘うかとのことですがまずは至極カンタンに映画のスジ書きを致しませう。

 

 

主人公の男性(米國の壱クリスト教徒)の愛する娘がキャンプ場にて變質者に攫われ殺されて仕舞う。

しかも彼に落ち度は無い。

 

ところがある日自宅へ「神」よりの手紙が届く。

ソレを捕まって居ない變質者からの手紙だと断じた彼は拳銃を携え森の奥の小屋へと出向く。

 

事實ソノ小屋には殺された娘が着ていた赤い服が落ちて居た。

だが幾ら待っても犯人は現れず。

 

代わりに参人の神が現れた。ーつまりがソレぞ参位壱體での神の姿のことかー

そのうち壱人がまさに全能の神で壱人はアノクリストでまたいま壱人は聖霊だらう。

 

よって以降はソコがまさに神の國そのものへと化して行くのです。

さう🌸🌸が咲き乱れしかも正しい認識に就いてニンゲンと全能の神の間で議論が行われるだらう聖なる異空間です。

 

でもってしてかのクリストが浅黒い顔での中東の壱兄ちゃん化して居り白人ではまるで無いのでコレは凄いわとさう思いました。

尚佛陀もまたつまりはネパールの人ですのでおそらくソノ顔立ちはさぞや平べったいものだったことであらう。

 

また神の方は漢にもまた👩にもなれる訳で事實ソノ両方が登場します。

 

さて問題は彼主人公が半分は家へ帰ることを望みつつも結果としてそんな神の園を去らずに最終的に神の認識に従う形にて娘を殺した變質者を赦す場面にこそ有る。

いや問題ではまるで無くまさにソレが救済とのことである。

 

救済つまりは心理的救済のことである。

さうクリスト教は心理的救済をこそ行う宗教です。

 

でもヒンドゥー教でもまたイスラーム教ですら畢竟ソレ等は心理的救済を行う宗教でせう。

さらに言えば佛法はむしろソレ以上にニンゲンの心理的救済を行う宗教です。

 

ですがどうもソレゾレにソノ方法論が異なって來る。

ソコで本來ならばまさにソコを比較宗教論として纏め上げて置きませんと何せゴッチャになり易くもならう。

 

でもソレはまた後で行いますのでひとまずは映画の御話を続けませう。

 

彼主人公はソノ最大の敵である變質者(小さいオンナの子をいたぶり最終的には殺すのが趣味)を赦した瞬間に救われます。

ソノ救われると云うのは全能の神の認識に等しくなったとのことである。

 

故にソノ後彼は娑婆世界に戻り👪と共に幸せな暮らしを取り戻す。

ですがまさにソノ為にはどんだけ苦しい思いをせねばならなんだことか。

 

 

1.全能の神の認識はニンゲンの認識とまるで別でむしろ逆だ

 

即ち普通ニンゲンは惡を憎むことだらう。

特に現代社會にはキチ外みたいな奴がポツポツと居てソイツがナニをやるものか分らん。

 

だからアナタの娘や妻が犯されたりまたアナタの息子が殺されたりもまたするのです。

だからソレがイザ起こった時にアナタはソノ變質者を果たして赦せますか?

 

無論のことワタシは赦せません。

だからワタシは佛教徒でありソレも御釈迦様の直弟子になりたい方ですのでハナから👪を持たぬ主義なのだ。

 

さうかするとアナタ自身が犯されたり殺されたりする以外にソレは起きやうが無いとのことなのですね。

だからソレが御釈迦様の教えの内容でありつまるところは「無い方、また少ない方がイイ」との教えですね。

 

じゃあでもナゼアナタはたったイマそんな「全能の神」のことを語るのでせう?

だってみんなには👪が居るでせう?

 

あ。さうか、じゃあ普通の人にはアナタのやり方つまり御釈迦様のやり方は無理でつまりはクリスト教やまた他の救済宗教の方がそも合ってるとさう仰りたいので?

まあワタシよりは観念が薄い人人には少なくとも合って居る気が致します。

 

でもアナタは「机上を樂園にしたい!」とか言いながらさう物質的快樂の世界をたったイマ追求中の筈だが…。

…だから物質的快樂のみでは無くかうしてちゃんと精神的探究もまた同時にしてるでせう。

 

…確かに今回はまた全部が精神世界のことなのだな。

 

2.さう兎に角「有る」ものは弐元的価値を包摂す

 

すると「全能の神」は有る?

さう神はね、ソノ神にせよ神神にせよ「有る」のです。

 

ですので「無い」のはそんな佛バカリなり。

ソノ「有無」の区別はでもニンゲンのココロが生む幻なの。

 

でも「有る」とさうイザ決めればもはや神か又は神神を「信じて」生きるより正しく生きる方途などは無いの。

 

はあーでもイキナリそんな佛様の認識のやうなことを言われても…。

イキナリじゃなくて物凄く多くコトバヲ費やし上にて言ってるでせう。

 

いいですか、ですからまずは、ソノ「有るか」ソレとも「無いか」です。

ソコにてもしも「有る」ことにするのだとすればソコには必然として神か又は神神の認識が登場する。

 

じゃあアナタに限り神か又は神神の認識を必要とはせずにさうして藤原 紀香氏の股の間のことを想像してなど居ればイイのですか?

…まさにソレでもって全然イイの。

 

アナタはもしや👿なのではあーりませんか?

ま、ソコは確かに👿の如くにも観えやう。

 

だが壱休禅師はどう考えても聖人だらう?

 

どうでもイイけどソノ「禅」と「全能の神」をゴッチャにして語るのダケは止めて呉れないか?

つまるところ常識人にはソレはハードルが高過ぎる認識ともなりますので…。

 

兎に角さう全能の神の認識とニンゲンの認識は質的にまず異なる。

故にニンゲンには憎しみの感情がすぐに生ずるが神にはまるでソレが生ぜず。

 

まさにソノことは神の認識、また神神の認識が言わばマイナス方面にも深く根差すであらうものであるからなのだ。

ですが結果的に佛陀の認識もまたマイナス方面をも観通しておる。

 

なんとなれば彼佛陀にはすでに👪が居らず。

またさらに酷いことにソノココロにはすでに神や神神ですら住して居らず。

 

うーん、すると例えて言えば彼佛陀はすでに非生命體であり神や神神は生命體を超える霊的な存在でありでも弐元的現象をすでに包摂するナニカなので死んだ、生まれた、カネ、地位、幸福、股の間などにはもうまるで拘らぬ霊的現象なのですか。

うーん、なんかワシなんぞよりもずっと良く分かって居るじゃないか。

 

でも佛陀は罪を赦すので?

いやだから佛陀は煩悩を滅しておりソコにはすでに罪もナニも無えだよ。

 

さうかあー、じゃあ佛陀の認識は全てが「罪以前での御話」なのか。

 

3.さう自らが罪を赦すことで初めてニンゲンのココロに宿る罪が赦される

 

とのクリスト教に於けるまさに本質部がソコに語られる映画とならう。

故におそらくは聖職者による監修が可成に入って居るものと思われる映画となる。

 

またクリスト教に於ける要諦部とはあくまで「全能の神」による「他力救済」となる。

だが「全能の神」にはまた惡も包摂されるが故にコノ世が其の侭に神の國となることは無い。

 

むしろコノ世は罪深いニンゲンの認識の働き=👿のココロにより次第に劣化しやがては破壊されやう。

しかしながらであるが故にニンゲンには救済が必要となりまさにソレを「全能の神」が受け持つがソレを信じぬ限りまさかさうはならぬ。

 

要するにさう信じるが故にソコに「全能の神」が生まれるのだ。

さう「神」とはあくまでニンゲンのココロの中で生じる霊的な過程のことなのだ。

 

さてもコレこそがまさにソノ實に厄介なココロの内容を描き切るだらう史上最高の宗教映画なのではないか。

ですが「佛陀」の方もまたあくまでニンゲンのココロの中での霊的な過程のことなのだ。

 

だが「佛陀」の方法論の場合はまずニンゲンにはやれぬ(無理)なこととならざるを得ぬ。

ナゼナライザニンゲンを辞める気がアナタ様には御座りませうや?

 

ま、ソコはわたくしもまた無理なのですがね…。

ソコからすればコノ映画は案外👪主義的でありつまるところはより現實的であり自分もまたやれさうな感じが少しはする。

 

でも兎に角甘い映画などではまるで御座らぬ。

むしろ非常にキビシイ内面の葛藤や苦悩を描き切るだらう映画となっておる。

 

4.そも宗教はナニの為に有るか

 

とのことを思わせて呉れる映画なのでもまたある。

現在ワタシは宗教とはそも認識の違いを語るものだとの思いが強く有る。

 

さう唯壱神による認識と多神による認識がそも異なる。

また神と佛の認識もまた大きく異なる。

 

だがソレ等に共通して居るものがありソレは「善」では無くむしろ「樂」なのを追求して行くだらうことだ。

例えば「樂園」や「樂土」に「浄樂」などと云う言葉がソコに語られる。

 

つまるところソレは「地獄」を離れるだらうココロの場のことなのだ。

またソノやうな場は「現象」が必然的に生み出すだらう幻のことなのだ。

 

但しイザ「現象」に取りつまりはニンゲンに取りあくまでソレはほんたうの「地獄」なんだな。

だからソコから「神」やまた「神神」に救って頂くより他に方途は無い。

 

尤もアナタがもしも「佛陀」にでもなれるのならまた話は別ですが…。

…ワタシですか?

 

こんなもんにはまさかやれんことでせう?

 

 

うわっ!!だからおんみはクリスト教の方もまた同時に向いておったのか!!

いえより正確に申せばもう全部の宗教がゴッタ煮状態でしてね。

 

故に何教であれ語れるのですよ實は…。

まあでもあんな神様のおわす御🌸畑にワタシもゼヒ行ってみたい。

 

でもソレにはとりあえず「洗礼」を受けませんと…。

いや實はワタシ壱応「得度」して居りましてね。

 

ええっ?ではそんなアナタが御坊様だったの?

いえさうでも無いのですがとりあえずさう「得度」はしてるんです。

 

ですが禅宗の方にゼヒ改宗したい、かうしてもう年寄りになったのだし…。

そんな年寄りになってもいまだにそんな👩の股の間のことが気になる?

 

いえもはや気になるのは神佛のこと以外はまるでもって無し。