目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

目には見えぬ實存的価値の追求に就いてー「見えないものでも有るんだよ」ー

社會と接する宗教が社會批判を行うことに関してー「社會と宗教」の関係性に就いてー

 

 

 

 

 

 

さてソノ實存的価値とはコノ世界ではむしろ最も大事な価値のことです。

されど社會生活に於いてソレが重要な価値だと認識されぬことコソがまずは問題なのだ。

 

ですのでソノ価値に就き何も知らない侭に(ナニかかうモヤモヤは有るにせよ)生涯を終えて仕舞う方が實は多いのではないか。

尤も気付きの力の強い御仁はまた別の人生を歩むものと思われる。

 

ナニを隠さうワタシの生涯はほとんどがソノ實存的価値との格闘であった。

具體的に言えばソレは宗教や藝術や文學、また哲學的な意味での闘いソノモノでした。

 

しかしながらソノ實存的価値の追求はまるで見えない的に矢を放つやうなものでむしろこんなに不確かで且つ心許無い行いもまた無いものなのだ。

故に世の人人はまたソレゾレに實存的価値をカテゴリー化し例えば宗教家になるだとかまた藝術家になったりさらに作家や哲學者になったりもするのであらう。

 

ですがイザワタシの追求ともなればまさにソレはソレ等のゴタマゼなのだ。

とりあえずはソレ等を全て理解することは可能ですのでソレ等をゴタマゼにしてさうして見えない的へと矢を放つのである。

 

ところで以前に詩人の金子 みすゞ氏のことを書いた時に、

 

「見えないものでもあるんだよ」

 

との言葉に出くわし確かにさうだとさう思いましたのです。

 

さうして「見えない世界」を探求するのが詩の世界の原理でありソレはタダ食って働いて寝る、とのこととはまさに別次元でのことなのだ。

但しさう「見えない世界」を探求するのは観念的営為=理性的営為のことですが實はソチラばかりに気を取られますと言わば實利的要素に欠ける=生活力を失う羽目にもまたなりかねぬ。

 

ですので現象界では兎に角「バランス」こそが大事となるのだ。

されど陥り易い過ちとはズバリ現實世界を見過ぎて精神世界を見失うことでありませう。

 

要するに詩人と凡人の壱番の違いとはソコにこそあるのだから。

でもってして彼詩人は大抵が常にソノ「實存的世界」をこそ生きるのだから。

 

 

尚世の中を見渡しますとそんな「實存的世界」には縁の無いニンゲンの方が多く見受けられる。

ナゼナライザ「實存的世界」に浸り切りますと所謂社會生活と齟齬を來たす場合が多い。

 

要するにさう認識が「變」なものになり易くもなる。

でもソレってほんたうに「變」なのか?

 

例えば變な宗教家=教祖などがまた居られませう。

また藝術家には所謂變人が多い。

 

さらに作家や哲學者などはまた独特に言う事が變だ。

 

でもソレって「變」なので?

そりゃ「變」じゃなくてむしろソレを變だとさう思う社會的価値観の方こそが變なのでは。

 

ですのでたったイマココでワタシが語ることとはそんな實存的闘争の世界を生きるニンゲンはむしろ村八分とされさらに出る杭は打たれ易いものですから多分ボコボコにやられることだらうがでもソレにもめげずにドコ迄も頑張りませうね!とさう申して居るのであります。

 

いやだがワシはもはや疲れた。

まーボロボロだ、もはやどんな気力も涌かぬ。

 

おやついに鬱病が昂じたのでせうか?

さうかでは御辛いことでせう、ならば精神科へでもかかりますか、ソレとも宗教へ走るか?

 

いや精神科へかかり治る精神病などはまず無いですよ。

またワタシは精神病では無くタダの疑い深さより起こる気鬱症ですので医者へかかるとまた余計に不眠の度が酷くもなりませう。

 

ふーん、さうかそんな「疑い病」では確かに精神科医位ではまるで治せませんな。

さうなんです、であるからこそワタシはたったイマ宗教へと走らねばならん。

 

いやあーでも大變ですね、ソノ實存的価値の追求とやらも…。

もうボクなんぞはソレを四拾年もやって來たのでなんかかう慣れて仕舞っては居るがでも最近は以前よりもプレッシャーがナゼか強く有る。(もしや死期が近いのか?)

 

 

いいですか、宗教とはまずはソノ實存的価値の追求のことなのだ。

故に會社へ行き働き給料を貰うことや家族を養うことなどとは別次元での価値のことです。

 

ソノ別次元での価値を別次元での価値として理解せぬ大衆がまた多過ぎる。

まずはソコが大衆が根源的に抱えるであらう「無知」なるカンチガイの部分だらう。

 

 

オウム真理教の「土谷が落ちましたよ」化学兵器サリンを生成した男が自供した“驚きの理由” | 文春オンライン

 

されどかうして理系の「マッド・サイエンティスト」程怖い者は無し。

どだい近現代により「地球を破壊」して來しのは間違い無く近代科学なのだ。

 

《麻原彰晃の次男が組織を…》オウム元最高幹部が明かす“アレフ新教祖”31歳の実像「彼は幼少期から“グル”」「内向的で宗教に向いている」

 

さてもまたオウムがナニかをやるぞよ。

さて最近ワタシが述べて居ることとはズバリ「社會と宗教」の関係性のことなのです。

 

ではまずはワタシなりの社會に對する結論を述べさせて頂く。

 

1.畢竟ニンゲン(ホモ・サピエンス)とは「矛盾」の産物

2.「社會」とはむしろソノ「自己矛盾」を加速させるだらう装置のこと

3.故に「社會」よりどう逃げるかとのことが「實存」に取っての内面的課題となる

 

よって主に3.に就いてコノブログにて論じても参った。

でもって最終的に「實存的価値」を追求せんとするのがインテリの使命であることも述べたのでした。

 

逆に申せば「大衆」がそも「實存的価値」などを見詰めることは無い。

要するにさう「理性」を使い生きるのでは無く主にケモノの延長線上でのソノ場、ソノ時での幻の如き知覚と戯れるのみ。

 

さてしかしながらソノ「理性」を磨き込むことは可能です。

ソレも持ってるEQの偏差値がたとえ五拾程であれソレをやがて七拾程迄磨き込むことは可能です。

 

事實ワタシのアタマの良さはむしろさうして御勉強を重ねることにより築き上げしものとなる。

まあでも「直観力」が有るのはあくまで生まれつきでのものなのだらうが…。

 

 

さて問題は「宗教」の分野が最も大きくさうして高く「實存的価値」に就き規定するであらう部分なのだ。

尤も例えば「藝術」の分野がしかとやれればもしやソノ「宗教」は不要となるのやもしれん。

 

また完全に「哲學」の世界に生きればもしや「宗教」は不要となるのやもしれん。

 

ですがどうもワタシ自身はさうでは無く「神」か又は「佛」コソが必要なのだ。

兎に角さう「不完全な理性的矛盾領域」に對し壱種懐疑的なのですぞ。

 

 

ー「社會と宗教」の関係性ー

 

コノことはまた各宗教の各宗派によりソノ度合いの差が認められやう。

例えばクリスト教などは「社會のシンポ」と大きく関係して來て居る。

 

さらにイスラーム教などもまた原理派がかって米國を攻撃したりして明らかに社會と大きく関わり合って居る。

また佛教にせよかのダライ・ラマ師のやうに社會的、政治的に発言したりする人などもまた居られる。

 

ですが概ね佛教は元來「社會」の動きとは無関係な宗教でせう。

むしろ佛教は「世捨て」=仙人化の部分が本來ならば色濃く入ることだらう教義ですのでさう元元社會とは関係が薄くもなる。

 

なのではあれソレでも「社會」と大いに関わり合うのが例えば「密教」であり「浄土教」でありさらに「日蓮主義」でせう。

故にコレ等の大乗佛教各宗派はおそらく純粋な意味での佛教なのでは無い。

 

おそらくは「謗法」と言える程にも不純化した佛法ですのでまさに御釈迦様御自身が御聞きになられたら「喝!」とでも叫ばれるのやもしれません。

しかれども實はソノ不純化にもおそらくはしかと意味がありませう。

 

例えば「密教」はバラモン教ヒンドゥー教)化した佛法のことで「浄土教」は景教(クリスト教の壱派)化した佛法のことでありさらに日蓮宗系はなんだかまるでイスラーム原理主義のやうなのだ。

 

尚ワタシは参拾代の頃にソノ日蓮宗系の法華原理主義を學びましたのですがソノ後ソノ「法華経至上主義」のヤバさにハタと気付きソレへのコミットメントをしかと止めました。

まあでも法華原理主義でもってしてやりたい方はソレはソレで良いのではないかとさうも思うのです。

 

兎に角かう世界は宗教的にゴタマゼでありそんな普通の宗教に限らず邪教やまた悪魔主義などを奉ずる教えなどもまた有りますのでソッチへ行くよりはむしろずっとエエのかとさう思うのであります。

ですが我が理性に限り法華経ソレ自體への信仰はすでに失せたのです。

 

 

2.「社會」とはむしろソノ「自己矛盾」を加速させるだらう装置のこと

 

なのではあれココんトコが實は重要でありさう社會と必要以上に関わる宗教はソレこそ「全體主義」的となり易いので實は邪教化し易くもまたある。

 

4.「全體主義」は宗教的にもまた発生し易い

 

さうイザ社會と結託せし宗教はまさに暴走し易くもなる。

まさにソレが色んな宗教戦争や紛争の火種となる場合が多い。

 

なのでむしろ敵を愛し且つ赦さねばならんのでせう。

 

だが宗教はたったイマそんなことをしとる場合ではにゃあ。

なんとなればむしろイマ宗教が闘うべきものとは現代社會に於けるシンポ主義ソノモノなのではないか。

 

5.現代社會の価値観とは常に距離を置く

6.常に神秘の秘法をば目指すがソレをやり過ぎるとアタマがオカシクもなるのでほどほどにしてやる

7.さうクリスト様や空海上人はいまだ生きて居られるのだぞよ

 

でもソノ7.はでも特にオカシクないですか?

うんにゃまるでオカシクは無い。

 

さう空海上人が生きて居られるが故にかの高野山では日日御膳を御供えしておる。

果たしてソレを誰が食うのだ?

 

はいワタシが時折食いに行ったりもしております。

と言うのは眞っ赤なウソながらほんたうにソレをゼヒ食ってもみたし。

 

だが高野山は🏔の生き物にゼヒ🍚をあげるべきなのではないか。

ナゼナラ🏔の生き物こそがおおアノ大日如來の化身なのであらうから。

 

すると🐻もまた🐗もさらにカモシカや野鳥も皆神のまた佛の御使いなので?

さうソコがまさに壱神教に於ける世界観とは異なるところとならう。

 

壱神教では左様に「ニンゲン中心主義」でありあくまでドーブツ達よりもニンゲンの方が上なのだから。

ではあれクリスト教の場合でもまた特に心根の清い聖人様はドーブツ達に對し説教することが出來やう、アアアノ聖フランチェスコの如くに。

 

ーニンゲン(ホモ・サピエンス)とは「矛盾」の産物ー

 

東洋に於けるニンゲン観にはニンゲンを特別な生き物とは見なさずむしろ「危険」なものと見做しソノ認識を制限して行くとのある意味究極的な認識に於ける「放棄」の価値観が含まれる。

逆に近代以降は特にニンゲンの認識をより純粋に履行して行くとの流れが生じ故に近現代との時代はまさに「ニンゲン中心主義」を履行せんが為の時代となった。

 

ですがソノ結果むしろ「矛盾」が積み重ねられ次第に地球環境はブチ壊されて行くこととなりし。

即ち彼等ニンゲン共は「豊かで便利なシンポ的生活」をやらんが為によりによりさう👿にココロを売り渡し地球ソノモノを食い潰して行くのだった。

 

 

とのことでまずは「豊かで便利なシンポ的生活」を目指すこと自體がそも誤りなのだ。

ではアナタのやうにさう部屋に閉じ籠ってうんうん唸りながらナニかを考えて居る方が正解なのか?

 

いやソレは人によりまたソレゾレに思考や行動に於ける定めが有らう。

兎に角「社會」と関わり合う宗教は面白いと言えるがまた逆に申せば危なくもなる。

 

じゃあ「法力」でもってして雨を降らすとかまた地球の温暖化を止めたりさらにクリスト教のやうに壱度神の怒りにて世を滅ぼしソコへイイエス様が再臨し「千年王國」を築きソレが最終的に全能神による新世界秩序へと繋がるのですか?

 

まあさうなるのであればむしろソレでもヨイ。

ソレでもヨイが例えば禅宗のやうにソレとは無関係に只管打坐をするのもまた壱つの手であらう。

 

「社會と宗教」

 

かってワタシは宗教は「社會」と関わるべきではないとさう考えて居た。

ナゼナラ宗教が「社會」と関われば関わる程にナゼか不純化して行くからなのだった。

 

だが今やソノやうな潔癖な観念性の部分に執着すべきではないのではないかとも思う。

なんとなれば實際に宗教は「社會」と関わりむしろ世界中で戦争や紛争を引き起こしても居るが故に。

 

ー故に「社會」よりどう逃げるかとのことが「實存」に取っての内面的課題となるー

 

イザ「社會」に組み込まれし實存は所謂「全體主義」へと落とし込まれ即「批判精神」を失う。

なので「社會」よりどう逃げるかとのことを考えた方がヨイ訳です。

 

されど現實的に我我現存在はあくまで社會の恩恵に浴する形にて日日を過ごす。

もはや我我個は「社會」を完全に捨て去り個的實存をのみ生きる訳にはいかぬ。

 

あれさうかならばソノ社會にちょっかいを出す宗教はヤッパシ面白いのではにゃーか。

さう面白いのですが矢張りドコか危険な感じなどもまた致しますな。

 

尚精神世界の上で最も危険なのは即「全體主義」でせう。

「全體主義」とは言わば盲信であり理性の崩壊のことであらう。

 

故に世界中でもって宗教に基づく戦争や紛争が起きるのもまさにソノ「全體主義」によるものでありさらに言えばオウム教の問題などもまた「全體主義」による洗脳のしからしめるところでのものなり。

 

また逆に申せば正しいとされる文明世界の推進であれ實は近代と云う価値観ソレ自體がむしろ「全體主義」化して居るのだらう。

故に個として理性を保つ場合には「全體主義」を避けココロを避難させる場こそがゼヒ必須となる。

 

ソノ場をドコに置くかとの個人的な内面世界の道程を書き綴ることこそが現在のココでの内容の全てとなる。

 

 

Sister Agnes Sasagawa and AKITA

 

さてこちらでの「奇跡」の御話がまた何とも興味深く感ぜられる。

結果としてクリスト教は「ニンゲンは悔い改めよ」とのことを常に語って來たのだと言える。

 

即ちソノ侭でニンゲンがヨイ筈は無くむしろ👿に唆される分惡いがでも絶望せずに全能の神に祈り続ければ何時かは救われるのださうな。

 

アグネス姉妹と日本の秋田での聖母のメッセージ

涙を流すマリア像 秋田聖体奉仕会

《驚愕》これがファティマ第三の予言!?秋田の聖母マリアの予言とのつながりは!?

 

ソノ聖母様のメッセージの内容はヤッパリ「ニンゲンがココロを悔い改めぬと神の怒りに触れて仕舞うのだぞよ」、との壱種キビシイ御話となる。

でもってしてイザ神の御怒りが此の世を覆うとニンゲンはイイ人もまた惡しき人も皆死んじゃうのだ。

 

秋田の聖母アグネス・笹川が93歳で死去 | Christian Pure

秋田の聖母マリア〜天からの新しいメッセージ | Ako's Family Gospel Choir

Sr. Agnes Sasagawa, known as the seer of Akita passes away at 93: 秋田日記

シスター笹川の追悼ミサ(大阪)迫っている災難から助けることができるのは、聖母だけであるのはなぜか? | FSSPX Japan

 

だが考えてみればさう「ニンゲン」や「ニンゲンの社會」を叱責して呉れるものが此の世には神佛以外に無いのであった。

特に「全體主義」をたったイマ履行中の「ニンゲン」や「ニンゲンの社會」を叱責して呉れるものはソレこそ「實存的価値」以外に無いぞ。

 

ですので多くの皆様はよりにより「宗教」なんて!とさう思われるのやもしれぬのだがいやむしろソノ宗教家でありまた變な藝術家でありまた變態作家や哲學者でないとまさか「全體主義」をたったイマ履行中の「ニンゲン」や「ニンゲンの社會」を叱責することなどが出來やう筈も無い。

 

だからなコノ世で壱番難しいこととは果たしてナニか?

 

ソレは敵を愛することでありまた煩悩を滅することであらう。

實はいま壱つが有りソレは間違った社會の有り方と戦うことである。

 

尚かうして宗教によっては「ニンゲン」や「ニンゲンの社會」のあり方を否定的に捉えソレこそ「社會よ目覚めよ!」と叱責するものが有るのでせう。

 

ー「社會」とはむしろソノ「自己矛盾」を加速させるだらう装置のことー

 

おそらくソレはコノコトを宗教の側が見切って居るからなのではないか。

ですがまた常に「ニンゲンの社會」のあり方を目覚めさせることは個の内面を目覚めさせること以上に困難です。

 

兎に角さう叱って貰い初めて誰しも目が覚めるのです。

故にソノ神の怒りや佛の諫めは現代社會に取り最も大事で且つ必要なこととなる。

 

なのでAIだの🤖だの🚀だのはニンゲンに取りまるで要らんのですが神の怒りや佛の諫めこそがゼヒ大事なんです。

さう神の怒りや佛の諫めでこそおおまさに目覚めよ!コノニンゲン共の倒錯社會よ!!