尊い佛陀の教えとソノ内容とーかうクソ暑くてはまさに「眞理」どころでは御座らぬー
さても宗教がナゼ大事なのかと言えば所詮法的な拘束力=法規定の部分には實は自己批判力が欠けて居りソレに従うのみでは必ずしも正しい道を歩んで居るとは申せないからでのことなのです。
つまるところは社會的な成功がニンゲンのココロの上での成就とはまるでならないことこそが問題なのだ。
なのでむしろ社會的な成功者は例えばアノジョブズ氏の如くに佛法へ興味を抱いたりもまたするものだ。
また同様の理由からコノ現代文明が正しい道を歩んで居るとはむしろなかなか申せません。
どだい本日などはまた妙に暑い、何だコノクソ暑さは、こりゃ誰のせいぞ?
まさしくそりゃ現代社會のせいであらうよ。
そんな訳でむしろ現代社會はソノ根本より間違ってる可能性の方が實は高く有らう。
でもってしてワタシがたった今疑問に思いますのは、
1.かうクソ暑いのに文明はオリムピックや営業活動やまた祭りや體育祭などをコレ迄通りにやれるとさう御考えなのか?
2.🍱の配達のバイトなどもまさかやれん程の暑さであるぞ
3.さうそも地球が灼熱化するにせよ相變わらず金持ちがカネ儲けに勤しみまた相變わらず社會はヒエラルキーを作りたがるがそんなもんはそも間違いだ!
いや他にもギモンが多く有りまして要するに「こんな文明はまーダメだ」位にさう思っておるのですがとりあえずはソノ社會に對する怒りをなだめつつ逆に内面世界での充實の上からもひとつ宗教的な意味での立場に就きいま壱度考えてみませう。
別の宗教に改宗したセレブたち 42 アルベルト・アインシュタイン
コノ種での「不可知論」や「無神論」をニンゲンのココロが成立させられない訳では無いのですがソレは極めて難しいことのやうに思われます。
即ちソコでは、
4.高度な知性力
5.強固なる自己中心性
のやうなものが必然として要求されることかと思われよって壱般的なものとは成り得ぬ立場ともならう。
でもってしてクリスト教に於ける救済がかうして現實的な意味での悲惨さに向けられて居ることにまずは気付かされる。
ソレもアル中やヤク中などに良く効く教えとなるやうだ。
つまりは兎に角ヒデえ現實に對しソノ「赦し」と「悔い改める」効果が大きく期待出來やう。
わたくしが現在クリスト教を評価するのもまたそんな塗炭の苦しみよりニンゲンを救うであらうニンゲンの救済力に於いてである。
ー開祖であるクリスト自身がそんな塗炭の苦しみの中で死んだとのことがソノ救済力に大きく影響して居るとさう個人的には捉えるー
ところがかうして世界のセレブの中にはむしろ佛教徒が多く居られる。
ソレと先に述べしアインスタイン博士なども佛教ほど理性的で且つ科学的な教えはない、とさう生前に述べて居られたのださうな。
特にデヴィッド・ボウイ氏は禅宗に深く傾倒しつまりは非常に頭の良い人であった可能性が高くある。
ところが佛教もまた色色と宗派による考えの違いが有りよって壱概にかうだとは語れぬ性質の宗教となる。
概ね神から離れる立場の禅宗こそが大乗佛法の中では最も佛説に近いものと考えることが出來る。
だけれども禅宗とて大乗救済の中での壱宗派なので完全的な自力救済を目指す釈迦の教説とは元元距離を置く。
されど禅宗の教えの中には「神」なる概念は出ては來ずソノ代わりに修行の内容としての「坐禅」や「掃除」や「食事」の様のことが大きく重視され出て來るのである。
尚個人的には「掃除」や「食事」は壱大事だと捉えて居りソレは「具體的」な行為こそが大事だとの所謂仙道修行の方にもまた共通する教えの部分なのではないか。
要するに超越的な力に縋ったり祈ったりするのでは無く自らの身と心を整えることで「佛」の世界へと近づいて行くのであらう。
原始佛法もまた超越的な力に縋ったり祈ったりするのでは無く自らの身と心を整えることで「佛」の世界へと近づいて行くのであらう。
だが大乗教説にはむしろ超越的な力に縋ったり祈ったりするものが多く見受けられるのですがソレを現在は否定しない自分です。
ナゼナラそもクリスト教には罪を赦し神に目覚めさせる救済力が強く有るからなのだ。
ソノジョージ・ハリスン氏はかってズッポリと印度思想にハマリましたのです。
ですがヒンドゥー教徒だったとは初めて知りました。
ジョージ・ハリスンが大好きな我は「諸行非常」なるアルバムを昔良く聴きましたのです。
「諸行非常」、「諸法非我」、「涅槃寂静」。
尚元來クリスト教徒には東洋思想が確かに魅力的に観えることだらう。
クリスト教の本質部は全能神による他力救済にこそ有りますが佛教の本質部は他力救済ではあれあくまで自己を救うのは己が認識でせう。
ですが他力救済の場合にはまずは神佛への帰依(信仰心)が大事な要件となる。
よって自己を救わんが為に神佛への全的な認識の投射を行わずを得ぬ。
ソノ構造はあくまで全能神による他力救済と同じであるが最終的に神佛への帰依を決めるのは己が認識でせう。
尚前回も述べましたやうに佛陀自身による教説が至極分かりにくいのは、
6.諸価値の相對化(絶對的な価値の否定)
7.理性的な分別価値とケモノ的な本能的価値の同時的弐重否定
の部分にこそ有りはしないだらうか。
兎に角さう佛陀の認識は壱筋縄では行かぬものとなる。
よって場合によりキビシイ修行よりも村の娘が差し出した乳粥が大事だったりもまたするのである。
なんとなればすでに餓死寸前の御釈迦様にはソノ乳粥こそがイノチの糧となりつまりは其こそが「悟り」へと通ずる道ともまたなるのであった。
乳粥?
でもそんなもんはまさに修行の妨げではないですか!
いや何ぞ栄養の有るものを食わんとニンゲンは死に至るのだぞよ。
だからクリスト教徒もまた良くパンと葡萄酒を食すのだから。
また御釈迦様はインテリの僧が「諸行非常」、「諸法非我」だとさうまくし立てて居たところ何とソレは違う!とさう仰ったのださうで。
ええっ?じゃあ彼インテリの僧は果たしてどんな教えをソノ後に授かったのか。
ソレが何と「諸行常」、「諸法我」とのつまりは眞理の方向性とは眞逆の概念であったのだと云う。
ええっ?じゃあ彼インテリの僧は余計に何もかもが分からなくなり心理的に迷うことになりますね。
さうですね、ほぼ完璧にナニもかもが信じられなくなりますよね。
ひゃあじゃあ御釈迦様はもしや天邪鬼さんなので?
さうですね、例えばココにSiriusαなる👩嫌いの僧が壱人居ることとしてみやう。
すると御釈迦様は多分👩のことばかりを仰り挙句には是非ケッコンせよ、などとも仰るのやもしれん。
ええっ?でもそんなのウソでしょ?
いいやホントのことなのだなあ。
つまりはさうして絶對的な価値構築の世界(ヒエラルキー化されし価値観)を常に脱構築されて居られたものと思われるのです。
じゃあアナタはむしろ👩のことばかりを考えられる?
いえ何せ生來の性質ですのでかう👩嫌いながらソノ「脱構築」に関しては素直に賛成致したいのです。
じゃあもしも煩悩もまた有って良いのでせうか?
いやあくまで煩悩が滅した上での観賞ならばイイのではないだらうか。
す、すると絶對的な佛を頂く大乗佛説はもしや佛法だとは言えないので?
はい學者の中にはさう述べて居る方などもまた居られます。
尚最終的には「悟り」なる概念や「佛」なる概念に對し「脱構築」する意味で御釈迦様は眞理のコトバに對しても相對性を与えられたのではないか。
ソノやうに概念化し外部に祈る(縋る)ことでも救済は可能とならうが御釈迦様の目指された救済はあくまで自力でのものなのであえてさうなされていかれたのではないだらうか。
仏教とは何か? 基礎編8 諸行無常と諸法無我の本当の意味 - 仏教の全てが分かるブログ
さてココは可成に意識の高い解説がされて居るやうなのでボクもまた読者となりましたのですがでもワタシの考えて居るコトとコノ人が考えて居ることはおそらくまるで違うのではないか。
ナゼナラソノ佛説に於ける大問題とはまさに眞理規定の部分にこそ有るのです。
即ち、
「諸行非常」、「諸法非我」。
と奴(Siriusα)が申します。
奴はだいぶアタマが良いらしくほぼ偏差値が70以上は有る。
ところがソコへ何故か佛がタイムスリップして来迎された!!
うん君は確かに良く考えては居るがもうまるでもって全然ダメな認識だ。
ええっ?では果たしてボクのドコが悪いのでせう?
かう四半世紀も👩を遠ざけ原始佛典を學びましたのに…。
だから君はむしろ👩を観なされ。
どひゃー、そーんなバカなー、まさかウソだろーそんな教えは…。
いいやウソではにゃーぞ、むしろ君は👩の股の間のことをしかと念じてみなされ。
…さうかこやつは御釈迦様に化けた魔の働きソノモノなのだ。
いかんいかん、こんな奴を相手にするのは止めて原始佛典の解説書でもちゃんと読もうっと…。
「涅槃寂静」
ほれみよ、おおまさにココにはさう書いてあるのだぞよ!
いえソレ間違ってるよ。
正しくはな、涅槃はガヤガヤ。
又は涅槃がゴタゴタ、なのよ。
でも御坊様でそんなことを言われる人はドコにも居ませんが。
そりゃさうだ、佛陀はワシ壱人なのでワタシ以外にソレはまさか言えません。
さう観るにおぞましくつまりはまるで地獄の有様のやうな(逆向きの)説法が彼に對しソノ後参時間ばかり行われた。
要するに相對的分別概念(我との非實體的認識)が「コダワリ」を生みまたソレを絶對視する働きを助長するのでまさにソレを佛は否定されて居るのでした。
逆に申さば「コダワリ」はむしろ「神佛」に對すものであるにせよ持つべきものでは無いのであらう。
だけれどもソレはあくまで「佛陀」の認識に於ける価値観の御話のことであり例えば大乗教説などとは無関係なのであらう。
でも大乗の教説にせよ例えば「佛とは馬の糞なり」などと云う酷い言葉が語られて居たりもまた致します。
ソノ意味(意義)するところとは「佛とはコダワって成るものには非ず」とのまさにソノ眞理規定ソノモノでせう。
さて乳粥の話に戻れば逆に體の方にコダワらないと即ち激しい断食行の果てに命を落としませう。
あれっさうかでは體の方にも栄養を与えてやらんとサトリもクソもありまへんわいな。
そんな「中道」の御考えにて突き詰めて考え抜かれさう断食行者に禁止されて居た御布施としての食事をあえて釈尊は口にされたのだった。
實際に此の世には所謂「精神論」のみでは解決されぬ本能的な場のやうなものがドコにでも貼り廻られて居る。
故に論理のみ、道理のみで此の世は成り立って居ないのだった。
またそのことに似て佛や神が絶對の世界でも無いとのことなのであります。
相對的分別概念は虚妄分別とされつまりが虚構の認識に捉われる状態=煩悩まみれとなる状態のことだ。
ですがソレもまた個人差が大きく存しドコの煩悩にドレだけ惑わされて居るかはまた人ソレゾレなんだ。
またワタシはイマ👩を😣出來るのですが御飯を食うのと石を愛でるのダケは😣がなりません。
…さうかまたイイことを聞いたぞ。
ヘッ?ナニを言われる御積りなのでまた今度は。
じゃあズバリ御飯を食うのと石を愛でるのをゼヒ止めなされ!
アナタでもそんなことをすればワタシが死んじゃうではないの。
いやあなかなか死にゃあしねえよおめえはよ。
兎に角佛陀の論理にはさう脱論理的で且つ相對主義のところが有りますのでソレをイザ常識的な価値観に照らし合わせる上で理解しやうとすると無理が生じます。
よって「佛」ばかりは絶對なり、ではソレは絶對神と同じこととなって仕舞う。
ですので「煩悩」に就いてもある程度ですが柔軟な捉え方をして置く方が我我凡夫に取りやり易くはなる。
元來御釈迦様の佛法をソノ侭にやれる僧侶すら居ないのですからある程度は物事(眞理をも含め)を柔軟に捉える修練を積めばやがて大乗の教説にも全く腹が立つことは無くなります。
なので後はまさに信心でせう。
どうも自分の場合には複数の宗教や宗派での信心となるのやもしれませんが兎に角ソレをやって行かないとコノココロの上でのモヤモヤダケは決して晴れぬことだらう。