原始仏教、小乗仏教が直球としての正論を吐くのだとすれば、対する大乗仏教は変化球、其れもグルグル曲りくねったりストンと下に落ちたり要するに目を眩ませる魔球のやうなもので其れでも尚真理からは外れずに、まさに訳の分からんやうで居て意外と真面目、また腐った仏教のやうに見えて意外とまともな様を見せて呉れる。
そんな曲者の二項対立仏教こそが大乗思想なのではないかとわたくしは思ふ。
従って大乗仏教の訳の分からんところは思想的にもまた行動の上にも必然として表れて来る。
なのでより純粋な仏教には思いもよらなひやうなことをあへて大乗宗派は為して来たりもして居る。
ですが、其れは仏法の上での必然としての矛盾領域を其処に引き受けて居るからこそさうなって居ることだらう。
とわたくしは見て居る。
だからあくまで悪魔崇拝とは違ふ。
神父様などに或は一部の仏教は悪魔教だと思われたりして居るのやもしれぬが無論其れはさうではない。
ただし余りやり過ぎると邪教化することもあり得るので其処は控えめにして置いた方が宜しひことだらう。ー例 オウム教ー
基本的にはまあ何でもあり仏教なので不純と言えば不純なのだが其れも一概には悪ひとは言えない部分が大乗仏教の強みの部分だらう。
逆に言えば純粋で直球勝負のインテリは常に正論を振りかざし常に融通が利かない。
わたくしも多分にさういうところがありしかも其れは自分で拵えたものと云うよりはまさに運命的に詩人として持たされたものなのでまさに分かっては居てもどうにもならなひ部分だ。
然し其の融通の利かない部分こそが真理に対しては欠点、欠陥を生じさせて仕舞ふことすらもがあるのだ。
真理と云うものはさうした類での曲者なので少なくとも直球勝負ばかりでは容易にホームランされガックリとうなだれマウンドを去ると云う羽目にも陥ることだらう。
「確かにさうなんだけれども、正論を振りかざすな」
隣の区の法性寺と云うお寺の前の掲示板にこう書いてありました。
謂わば正論が通らない世界が此の現実世界なのです。
理想、信念、真実、また真理などもまさにそのままでは通らなひ。
だからこそ曲者なのです。
曲者だからなかなか宗教でも立て直せない世界なのです。
ある意味では大乗仏教はさうした領域まで踏み込んで真理を目指そうとした試みだったのかもしれない。
なので大乗仏教とは仏教哲理上の高度な理論体系と何やら胡散臭いやうな部分ーむしろ謗法に近いやうな部分も多分にあるーまでをも包括する仏教としての巨大な乗り物なのです。
- ヴァジュラッチェーディカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)
- プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)
- 「二十五頌」から成る最短の般若経典。最古のサンスクリット本が法隆寺に伝わる。(7~8世紀の写本とされている)
- 残存する漢訳は、『摩訶般若波羅蜜大明咒経』鳩摩羅什訳(402年 - 413年)、『般若波羅蜜多心経』玄奘訳(649年)があり、こののちも4本残存するが、玄奘訳が広く用いられている。
所謂空の思想ですが、コレを一言で評せば高度に理知的な世界解釈が其処には展開されて居ります。
ただしコレは釈迦御自身の教説には非ず。
後世の仏教哲理の理論家がまさに大乗の論理として編み出したものです。
ちなみに般若とは真理を見通すに足る智慧のことで、単なる分析知=科学的知識のことではない。
尚以前わたくしは般若心経の内容を直観致しました。般若心経
直観したと云うことは考えずとも自ずから分かったと云うことです。
其処で般若心経につき考へて居たのでもなければ大乗の思想即ち空性につき考へ込んで居たのでもない。
むしろ何も考へて居ませんのでしたが瞬間的に感得して仕舞ったのです。
また其れが何時だったのかと云うこともハッキリしません。
ですが分かりました、と云ふことだけは確かに分かりました。
兎に角とりあへずは般若の智慧若しくは其れに近いものを感得したので其れを其のままに「般若心経講義」としてこちらにも書きました。
わたくしは此のやうにむしろ自分で分かっていって仕舞ふ方なのです。
逆に縛らずに自由にさせておく方が新宗教だとか何かを創れるのではないかとも思ふのですがさてどうでせうか。
わたくしはバカバカしくもサラリーマンなぞやって居るタイプではなく謂わば所謂独覚なんです、独覚。
なのでほんたうは山の中で修行したひのですが其れがならないのでまさに苦痛の俗世間での生活に甘んじて居ります。
尚般若心経に登場されるのは観自在菩薩(観音様)であり釈迦佛ではありません。
観自在菩薩が舎利弗に語ったと云う形で所謂「空」の思想が展開されて居ります。
「色即是空、空即是色」
物質的現象(かつ精神的現象)には実体が無ひが故逆に現世へと迷ひ出て来て居る。
また、物質的現象(かつ精神的現象)は、実体が無ひことを離れて現象であるのではない。
まさに此のことをかって直観致しました。
ちなみにわたくしは以前法華経のことばかりを学んで居りました。
般若心経には興味がさほど無く但し空と云う概念のことばかりは知っても居りました。
空と云うのは空虚の空で実体が無ひと云ふ事でせう。
だから我我は幽霊なんです、むしろ我我こそが亡霊であった!
」
現象と云うのは其のやうな負の過程でありまたは虚偽=仮虚の過程です。
負債であり引け目であり罪であり悪であり決して善きこと、望ましきことでは無ひ。
其のことをまさにわたくしは其処に悟りました。
ですから生は虚妄としての地獄なのでもある。
矢張りと云うべきか其れが生き地獄なのか?
で、其の時同時に二項対立の問題が浮上して参りました。
現象には必然としての二元的対立が生ずる、と云う道理を其処で感得した訳だった。
ところが此の二項対立の乗り越へ方がどうしても分からなかったのです。
其れは釈迦の中道としての真理で乗り越へていくべきものなのでせうが其処ではそも観念的な意味の場が原始仏教の場合とは異なる訳です。
即ちあくまでわたくしは大乗的な理論的枠組みの中でこそ小悟して居たのです。
だからあくまで大乗的な理論的枠組みの中で其れを解決していくより他は無ひ。
其の大乗的な二項対立の乗り越え方としては所謂「即非の論理」と云うものがある。
「諸心皆為非心、是名為心」般若経
ー心は心に非ざるが故に其れでもってして心と名付けるー
否定される其のものであるが故に其のものである。
コレぞ相対ー限定ーを絶対化ー無辺化ーする唯一の術なのだろう。
謂わば肯定されるべきものこそがー逆にー否定され否定されるものであるがゆえに迷ひ出でて来るのだ。
かように現象とはー在るーと云う本質を備えて居なひものであるからこそ―無ひーと云う本質を保ちつつ現れて来るものだ。
即ち本質を備へなひからこそ生じて居り(現象して居る)、しかも其れは意味が無く空疎で=迷ひのさ中にあり、逆に本質を備える実体は生じず(現象しない)且つ意味が有りまさに實としての本質其のもの=真理其のものだ。
AはAではない故にAである。
コレは形式論理としてはそも成り立たない。
即ち否定されたものが肯定される論理形式は論理的には存在し得ぬ。
だからコレは所謂無分別知のことであり分別知のことなのでは無ひ。
現象のややこしいところはさうしたカラクリを誰も見抜けないところにこそある。
さう特殊な人を除いては其のカラクリをまるで見抜けぬ。
わたくしには幸か不幸かまさに其の特殊な性質があるのですが何度も言って居るやうにもうそんなのはイヤだから普通に生かして置いて下さいと其ればかりを乞ひ願ひつつ生きて参りました。
ですが其の特殊が否応なくわたくしを規定して居り其れでもっていつもこんなに世間離れしたことばかりを俎上に載せ其れを論じて来て居るのです。
だからこんなものはわたくしにとっては普通つまり当たり前のことで逆に分かり易ひと思われて居ることが至極理解に苦しむことばかりなのです。
たとへば男と女と云ふ違ひは皆様には至極普通で分かり易ひことでせう。
でもわたくしには難解ですね、まさにコレこそが分からぬことだ。
ただし理窟的にはおそらくこういうことでせう。
男性は男性では無ひが故に男性である。
女性は女性では無ひが故に女性である。
前にも申しましたが常に男性は本質的に女々しくて弱ひ。
逆に女性は常に雄々しくて強ひ。
だからソッチこそがほんたうのことでまさに其れと同じことでせう。
無分別智としての大乗の智慧からすると、明らかに「AはAではない故にAである。」なのです。
だとすると般若心経の説く空性などもたちどころに分かって来やう。
「色即是空、空即是色」
物質的現象(かつ精神的現象)には実体が無ひが故逆に現世へと彷徨ひ出て来て居る。
また、物質的現象(かつ精神的現象)は、実体が無ひことを離れて現象であるのでは無ひ。
空とは其のやうに実体の無いことですので其の現象界の虚無性乃至は非本質性を説ひたのが此の「般若心経」なのです。
ですが以前にも書きましたやうに其の空概念の成立は釈迦入滅後に様々な知性により成り立ったものでお釈迦様ご自身は空=空っぽと云う位の使い方しかして居られません。
其処を逆に捉へれば大乗の思想こそが其のややこしい、ある意味では現実に即した矛盾の内容に対してメスを入れ理論化することに或は成功して居るのかもしれない。
つまるところ不純なものを多分に含む仏教であるからこそさうした現実に即した理論体系の構築に成功したのだとも言へさうです。
だからカン違いしてはいけないのは、大乗仏教は呪術的かまたは救済宗教的に不純であるばかりではなく高度に論理的でもあり高度に論理的であるからこそ形式論理をも飛び越え非合理領域へと迫ることだらう論理展開をも生み出した訳だと云ふことだ。
其のやうに謂はば大きく二元に分解されて居るのが大乗仏教だと云う事です。
また其のやうに二元に分解されるからこそ無分別智の獲得に成功して居るのかもしれません。
大乗仏教の大言壮語的なところ要するに不純なところがスッカリもうイヤになり大乗などナンボのもんじゃい、全くそこいらじゅうで火焚ひたりそこいらじゅうで唱題、念仏したりでアタマがおかしいんとちゃうか。
などとも思ひましたが色々と調べてみるうちに逆に大乗思想の意味なり意義なりが見へて来て最近ではむしろ大乗の各宗派を尊敬するやうにさへなりました。
相変らず多くの人が訪れ五年、十年位前よりもむしろ盛況でした。笠寺観音 節分会
結局社会が悪ひから皆が仏頼み、神頼みとなり祈ることでこそ何ぞご利益をとつひさう思うのではありませうが元より其れは誤りなのだらう。
「確かにさうなんだけれども、正論を振りかざすな」
ハイハイ、其の通りですね。
穢れておるから生きておる。
さうだ生きることこそが穢れとしての生き地獄そのものだ!
まあ、さう興奮しないで。
さても君は独覚ではなかったのか!
サア心を落ち着けて、兎に角落ち着くのだ!
要するに二項対立仏教でなければ分からないこともまた色々とあると云ふことなのだ。
ただしどうか誤解なきようにお願ひしたい。
二元的対立としての矛盾性としての非論理性をも踏まへた非合理性の許容から逆に一元化を図るのが大乗思想の本義である。
逆に大乗仏教こそは物凄ひ宗教だ。
ああー、阿弥陀如来をバカになどして居なくて良かったー。
さうだ、是非阿弥陀如来にも手を合わせておかう。
「神様仏様、迷へるたましひを是非御救ひ下され。」
其の神と云うのは祈る対象がちょっと違ふのかもしれぬがまあ此の際其処は何でもエエのだ。
此のやうにお寺へ行くと諸の真理に気付かされるものです。
ただし私の場合いつもは仏像に手を合はせたりはしない。
ただただ無病息災だけを念じて其の樟薬師に対し一年に一度だけ手を合はせて参ります。