目覚めよ!

文明批判と美の探求と

縁起の理法よりパンデミックを語るー釈迦の視点から語りしパンデミックー

先回ニーチェを全否定したとつひ述べて仕舞ったのだったが冷静になり良く考へてみたところ「神は死んだ」と云ふ観点に於ひて其れは眞實である可能性がまた高くあり其処であながち彼と彼の思想を葬り去ることなどは出来ぬとさう結論するに及んだ。

より正確には其れは「神佛は死んだ」と云ふことなのでもある。

 

先にも述べたやうに神にせよ佛にせよ其処で現世での利益をお願ひするものなのではなく「精神の救ひ」をこそ其処に乞ひ願ふべきものなのだ。

さうした根本の意味では確かに「神佛は死んだ」のかもしれなひ。

 

其れと宗教の自己矛盾が事實として顕在化して来てもまた居やう。

 

1.宗教勢力によるテロル

2.宗教への無関心

 

尚日本人と言ふか日本と云ふ國の精神的土壌はまさに変わって居て、其れはまさに「臭ひモノには蓋をする」と云ふ価値観へとやがては落ち着くものだ。

即ちこれだけ多様な宗教的基盤のある國なので、其の大枠としての宗教と云ふ領域をこそ視なひやうにまたは触れぬやうにし無用な争ひを避ける方へと精神の舵取りを為して来て居る。

 

いやだからこそ佛教の上での多くの宗派が其れぞれに信者を獲得して居たりもするのである。

なんだけれども、實は其れは宗教を信じて居るのではなく其の争ひを避ける=和でもってみんなで生きる、との信仰より齎されし精神の流れのこと其のもので故に其れは宗教其のものへの信仰などでは元より無ひ。

 

すると其処では其れもいつの間にやら恐ろしひことが起きる。

 

其れ即ち宗教の破壊である。

 

 

元々さうした日本の社会の和の原理の上での基本構造が存在して居た。

其処へさらに邪教によるテロだの各種の新興宗教団体による妄想的価値ヒエラルキーの構築だのが推進されても行く。

 

これでは宗教など無ひ方がマシだとさう思ふのも至極御尤もなことだ。

さらに其処へ持って来てイスラム原理主義キリスト教的価値世界との限定的戦争が勃発したりもした。

 

だからまた余計に宗教など無ひ方がマシだとさう思ふのも至極御尤もなことだ。

だが事實上さう思ふのは馬鹿のみのことだ。

 

 

お利口な人はさうは思はずまず自らを反省する。

自らを反省するのは理性の働きによるものだ。

 

ところが理性が有るか無ひかと云ふことは学歴や経歴とは實はまるで関係無ひことだ。

では理性とは何か?

 

 

まあ其れは此処にて示して来て居る理性的な人間による営為こそが其の理性其のものなのだ。

 

だから自分でもってコレが理性だなどとは判断せぬやうに。

何故そんな自由を奪ふのだとさう思はれるのやもしれぬがココはさう云ふ意味での自由を奪ふ場のことでもあるので其処を是非ご承知置き頂きたし。

 

 

要するに縛りの場だ。

ズバリMの場だ。

 

 

つまり其の諸構造により日本人の精神性が限りなく薄められ精神的に極めて危険な状態へと陥って行く。

其れが日本人の精神の破壊であるとわたくしはことあるごとにこれまで述べて来て居る。

 

 

事實として日本人の精神の崩壊は引き起こされて来て居やう。

日本の若ひ女共の性的な堕落、邪教の蔓延、嗚呼まさにパッパラパーな利己的世界観の増殖などが。

 

だが重要なのはさうした一連の精神の破壊としての事實にあるのでは無く宗教の破壊其のものにこそ問題が存すると云ふことなのだ。

 

 

元より今は病の流行により多くの命が失はれつつある。

だが其れはあくまで一種の必然的な流れによる現象であるに過ぎぬ。

 

わたくしは其のことを述べ続けて来たのであるし勿論今後も述べ続けていくことだらう。

 

其れは謂はば「縁起」により齎されて居るものなのだからこそ。

 

 

 

縁起(えんぎ、: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ[2][3][1]。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す[2]仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦悟りの内容を表明するものとされる[2][3]因縁生縁起法縁生因縁法[2]此縁性[3][注釈 1]ともいう。

此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。— 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)縁起より
 

 

釈迦は元来とても理性的な方で、故にか佛法を社会的に広めやうなどとはまるでされて居らずもしも其れを広めるのであれば誤解、曲解される虞が多分にあるだらうことをすでに知って居られたのだった。

だが心が清ひ=EQレヴェルが高ひ人が此の世には居るのかもしれぬので其の余人には理解し難ひことだらう法をあへてかうして世に説かれて来たのであった。

 

つまり心のバカ共にあへて心の法を説かれて来たのである。

心のバカ共はさうして普通につるんで居るだけでもう其れだけでやがてどうしやうも無ひ奈落ー地獄ーの底へと堕ちて行かざるを得ぬことだらう。

 

 

前回のやうな上品な作文とはまるで違ひ今回はまたひでへ表現だな。

 

読者が逃げるぞよ。

 

いや宗教は綺麗ごとだけじゃ無ひ、また人間も綺麗ごとだけでは生きられぬ。

 

 

第一君等が生まれた時其の時は皆ドロドロになり母ちゃんの胎の中から生まれて来る訳だ。

元々そんなものに上品もクソもあるか。

そんなものは皆グオーでありギャオーで、もうまるで悪魔に近ひやうなものなのでもある。

 

其の部分を近代主義が捻じ曲げて人間を持ち上げ過ぎて居るのだ。

さうして人間はいつの間にやら偉くされて仕舞ったのだった。

 

だから今君等は自分が尊ひとさう感じて居る筈だ。

だが其れは所謂抽象的な妄想なのかもしれなひよ。

 

 

たとへば金は大事だとさうも思って居ることだらう。

だがコロナに感染してもしも死んだら其れ即ち其処には金など何の意味も無かったぞ。

 

コロナに感染してもしも死んだら地獄に堕ちぬやうキリスト教又は佛法を確りと學んでおくべきだったのではなかったのか。

 

 

其れで其の縁起でもって今パンデミックが引き起こされて居るのでせうか。

 

さうだ、彼ー客体的現象ーがあるのは此ー主体的現象ーがあるからなのであり、此ー主体的現象ーが無ければまた彼ー客体的現象ーも無ひ。

 

なので最終的には自他分別の抹消を苦の抹消として覚者=聖者は認識する。

 

より正確には無分別の状態へと抽象的認識を高めると云ふことなのだが矢張りと云ふべきか其れは普通の人には心の難度が高過ぎて出来なひ。

 

要するに其れでは救はれやうが無ひ。

 

 

なので誰もが救はれる大乗佛教が出来た。

 

ちなみにわたくしの母方の祖父は在野の佛教の研究者であった。

 

わたくしは其の影響を色濃く受け若き頃より宗教其れ自体を探求して居る者だと思って頂きたひ。

 

 

尚釈迦の教説は苦に対するより本質的な解決を目指すものなので至極哲學的なものであり且つ純粋に抽象性を帯びるものだ。

 

 

ー此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。ー

 

此ー主体的現象ーが生ずれば彼ー客体的現象ーが生じ、此ー主体的現象ーが滅すれば彼ー客体的現象ーが滅す。

 

我我人間は其の侭では所謂相対分別と云ふ認識上の段階にある。

 

謂はばこれかあれか、馬鹿か利口か、👩か👨か、神か佛か、金持ちか貧乏人か?等の概念上の二元的分離を引き起こす認識を常に強ひられて居る。

ー其れが謂はばキリスト教で云ふ善悪二元論のことだ。又は神と悪魔の対立概念のこと。此処からもキリスト教の世界に対する基礎認識は正しひのだと言へる。ー

 

ところが其の相対的な認識自体に問題があると釈迦はお考へになられた。

 

 

其れは認識其れ自体の分離、分裂のことだ。

 

と言ふよりも認識するからこそ分離が生ずるのだ。

 

即ち分離とは認識である。

 

だが認識にはまた相対を離れた領域もまたある。

 

だって、

 

相対⇔絶対

 

でせう?

 

 

さうして相対領域があれば対義的に絶対領域がある。

 

でも其れは抽象的な分別での範疇に止まる。

 

即ち其の抽象的な分別智を乗り越へねば解脱ー苦の超越ーはならぬ訳だ。

 

其処では所謂無分別的な智慧ー具象的認識ーに達して行かねば其れはならぬ。

 

わたくしの理解ではまさに其れこそが抽象的な価値ヒエラルキーの解体であり抹消なのだ。

 

 

ー紀元前6世紀、釈迦族の王子であったゴータマ・シッダールタ出家して修行の道に入り、シュラマナの一人となった。最初は、アーラーラ・カーラーマにつき、続いてウッダカ・ラーマプッタについて修行を続けたといわれる[1]。しかし、彼らのいう究極体験に飽き足らず[1]、また苦行による修行の問題点などに疑問を抱き(苦行放棄)、自らの修行法を中道と呼んで修行を続けるうちに、自ら覚者となったことを自覚した。

彼は、後にブッダと呼ばれるようになったが、自らの修行法と、その認知したことを弟子たちに説明をしながら、修行を補助していった。

無分別[編集]

そこで説いたことは、修行法が中心であったと考えられるが、教学的には、概念化された理解では真実の体験は得られない、ということが中心に据えられている。これは認識が、思考過程で概念化されなくては、人間は理解できないという点についての反省の上に出来上がった説だと考えられる。

それが後に無分別智と呼ばれるものであり、これこそ修行体験によってのみ得られる智慧であるとされる。しかしながら、これは論理を否定することでもあり、概念化なしに認識を認識のまま受け入れるということによって、既成概念なしに観察することができて、正しい知を得ることができる、とする。ー仏教哲学 #釈迦より

 

 

此の無分別化の流れこそが釈尊の掲げられし枢要な仏法上の流れであることは論を俟たぬことだらう。

大乗佛法に於ひても特に禅宗は其の釈迦による無分別化の流れを汲むものである。

 

其処では所謂概念の否定が徹底的に行はれ其れも道元禅に至っては只管打坐即ち只禅定による修行、其れも生活全般に亙る修行こそが其の無分別化への流れだとして兎に角さうして生の全局面を解脱への修行として捉へる。

尤も対して浄土教では謂はばキリスト教化し徹底的な他力本願即ち他力救済への流れを枢要な修行の内容と化して行く。

 

 

だが特に戦後日本では宗教教育が否定されて来た経緯がありー無論のこと其れは國家神道と國家との癒着を防ぐ為のGHQによる施策であったー、其の佛法への基本的な理解のみならず遥か其れ以前での佛教の目指すところ其れ自体への無理解と曲解ー現世利益的な佛法の価値としてのーが横行するに及んだことはまさに情けなひ限りでの我が國の宗教上の問題だった。

 

また近年は新興諸宗教との佛法の融合が進んで居り、なのだけれども實は其の新興諸宗教の教祖様の教説などはむしろどうでも宜しひことなのであり、無論のこと其処であへて宗教に縁するのであれば少なくともまずはお釈迦様又はイエス様の無垢なる教へにこそ顔を向けねばならぬことであらう。

 

 

では浄土教は認められぬのですか?

 

いや、どうぞ御自由に。

 

信仰と云ふものは基本的に無ひよりはあった方が良ひものだ。

 

 

ー縁起[編集]

さらに釈迦は、教えとして縁起と呼ばれる、存在のあり方の説明をした。この縁起の考えでは、すべてのものの存在は、孤立するものではなく、関係性の中で存在現象として現れていること(サンカーラ)を説明した[3]。これは、単に自らが縁起によって存在しているというだけではなく、回りのすべての存在現象も、同様に関係性の上に現象していると言う。そのために、というものはないという点で、ウパニシャッドの説明を否定した。これを諸法無我という。ー仏教哲学 #釈迦より

 

即ち其の忌むべきパンデミックでさへもが孤立するものでは無く関係性の中で現象して居るものなのだ。

関係性の中で今まさに地獄の有様として現象して居るものなのだ。

尤も究極的には文明が神佛を顧みず地獄をなり立たせて仕舞ふやうな要素を多々積み上げて来て居るからこそさうなって仕舞って居ることに過ぎぬ訳なのだが。

 

但しまた其れは解脱とはまた関係の無ひ話なのでもある。

もしも解脱したひ場合には此の世との悪因縁をそもそも断つべく修行していかねばならぬ。

 

キリスト教の場合にもまさに其の此の世との悪因縁を断つべくして修行していくのだ。

エッ、キリスト教もまた修行の一環なのですか?

 

さうだ、修行じゃ、修行。

此の際もはや全部が修行だぞよ。

 

事實イエス様もかってああして荒野にて修行されて居たではなかったか。

 

 

即ち此の世の悪ひ誘惑とは「繋がらぬ」価値を模索し自己を律し眞の自我を形成して行かねばならぬ。-眞我の形成-

 

即ちパンデミックは現代人の心の貧しさとは無関係なことでは元より無ひ。

 

むしろ心が貧しひからこそパンデミックが引き起こされて居る。

 

其れは技術がどーたらとか経済がどーたらとかさうしたことには非ず。

 

重要なことはかうした艱難辛苦、まさに現實に苦難として認識される事象が今後いや増しに増へていくだらうことなのだ。

 

 

尤も宗教は其の艱難辛苦に対し動ずることは無ひ。

 

何でか?

 

あくまで宗教は客体としての現實其のものを救ふものでは無く主体としての内面を救ふものであるからなのだ。

 

主体としての内面が救はれれば客体としての現實其のものがまた変はり、客体としての現實其のものが変はれば主体としての内面もまた救はれやう。

 

其のやうな相即不離の関係がまさに此の世の根本でのなり立ちなのだ。

 

だからもう其処でもって繋がって居る。

もうこんなのはイヤだ、とさう何処へ逃げたにせよ實はしかと繋がって御座る。

 

 

うわー、おぞましひ、👩など大嫌ひだ。

👩の出なひ山奥へと逃げて行きたし、金輪際顔も見たく無ひ。

 

ウソこくな。

おまへも實は半分は👩なのだ。

 

即ち只凸か凹かの違ひだけなのだ。

 

 

尚今やほとんどの佛法が紛ひものであるか謗法の領域にあるものとして断じて置く方が良ひことだらう。ーこれもまたひでへ話ですがー

實は佛法の本職の御坊様ですら釈迦の佛法は重視しなひか或は學ばぬやうにさへなって来て居るらしひ。

 

但し釈迦の佛法を重視して来られて居る日本の僧侶の方々もまた少なひことではあらうが事實として居られることも確かだ。

 

先にも述べたやうに日本の大乗佛教は佛法が日本風にアレンジされ場合により釈迦の教説とは程遠ひものともなって仕舞って来て居る。

丁度🍜が日本独自の食べ物なのだが元々は中華料理としてのルーツを持つこと、また🍛が英国流で且つ日本独自の食べ物なのだが元々は印度料理としてのルーツを持つこととまるで同じことだ。

 

即ち🍜や🍛はとても美味しく元より我我にとり無茶苦茶に価値が高ひ訳なのだが中國やら印度には實は同じものがまるで無ひ。

 

 

故にわたくしはウソ佛法としての大乗思想を否定などは勿論せぬ。

ウソ佛法であれ何であれ人間を救って下さる有難ひ教へであることには変わりは無ひ。

 

なんだけれども、其処でちょっとだけ理性的にもなってみやう。

ちょっとだけ理性的になり眞に理性的な人だった釈迦の教説にも耳を傾けてみやう。

 

さても其の日本人の其のアレンジの能力の高さとは一体全体何なのだらう?

 

 

さて其のやうに本質的には地獄の様は人間の心のあり方が決めるものであると宗教は捉へる。

先にも述べたやうに其処に於ひての地獄の捉へ方も佛教にせよキリスト教にせよまさに同じやうなものなのだ。

 

 

尚近代的なもの=科学技術として捉へられる諸価値が全的に無用なものとして捉へられる訳では無論のこと無ひ。

なのではあるが、科学技術は限定性を欠くものでもまたあることだと云ふことを常に考慮に入れて置かねばならぬことだらう。

 

ところが今現代人の多くは其の事實を逆に捉へて仕舞って来て居る。-いつの間にかさうした認識へと洗脳されて来て居る-

即ち科学技術は信頼出来我我の未来を形作るものだが宗教は信頼するには足らず逆に我我を迷妄の淵へと引き摺り込むものだとの誤った認識がある。

 

其れは資本主義と科学技術が巧妙な関係にて連携し我我に其れをひとつの宗教として擦り込んで居るからこそさう感じられるものだ。

 

第一まず我我は金が欲しくしかも壊れた電気冷蔵庫や電気炊飯器の代はりに早く新しひものが欲しひ。

なんとなれば其れが無ひとそも生活が成り立たぬからだ。

 

要するに衣食住が満足されねば現代社会は成り立たぬ。

尤も其れは昔からさうなのではなかったか?

 

 

いや、違ふ。

昔はそんな時周囲が何かと助けて呉れ其れに何か食へる雑草だの山菜だって其の辺に生へて居たことだらうし薪でもって飯を炊くだけのことだった。

 

要するに危機の場合の自給率が高かった。

然し今は危機に対しての高ひリスクが存するやうに社会を築き上げて居る。

 

現代社会其れ自体が其のリスクを最大限に加速させて来ても居らう。

 

 

第一ひとつ考へてもみ給へ。

 

PCだの何だのは勿論停電することで使へなくもなる。

まだ其れは良ひのだとしても、炊飯器や電子レンジが動かぬと飯もまた食へぬのだぞよ。

 

左様に資本主義と科学技術が巧妙な関係にて連携することで抽象的な価値ヒエラルキーを極大化させて来て居る。

冷静になりよーく見詰めてみると其の抽象的な価値ヒエラルキー(グローバル経済の流れ)からこそ今回の感染地獄もまた始まって居るのだ。

 

 

何度も何度もこれまでに述べて来て居るが、其の抽象的な価値の肥大化を止めぬ限り人類は2100年まではとても持ちやしなひ。

重要なことは逆に具象的な価値の美しさ、大切さに気付くことであり要するに理性と同時に美的センスや宗教的センスを磨ひて行くべきだと云ふことだ。

 

尚わたくしには理系のセンスなど元よりまるで無ひぞ。

 

わたくしはかって大きな研究所にも居たが総務関連での仕事をして居ただけで兎に角数学や物理などまるで理解出来ぬ。

が、文學や絵画を理解し自然を友とすることが出来る。

 

但し理系の合理的な考へ方其のものが實は嫌ひでは無ひ。

元々非常に理窟っぽひ人間なので文系的にだが話が常にややこしひだらう筈だ。