さて前回で讃美歌312番 に使われて居た美しい花花が咲き乱れる様は高名な米國の園芸家であり絵本作家であったターシャ・テューダーの庭の画像が使われて居るやうです。
ー思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローがマサチューセッツ州コンコード郊外のウォールデン湖のほとりで自給自足の暮らしを実践した著書『ウォールデン-森の生活』から、ソローの思想に大きく影響を受ける。ーターシャ・テューダーより
此のソローの『ウォールデン-森の生活』をかってわたくしも読んだ覚へが御座ひます。
其れは丁度各地の森へと頻繁に通って居た三十代中頃のことだったのでせう。
其の頃は日本のTV番組にもかの環境作家であるC・W・ニコル氏などが屡出演し自然が大事なことへの啓発をされて居たやうにも思ふ。
其の関連から当時わたくしは長良川河口堰建設反対運動のメンバーの一人ともなって居りました。
さて何故わたくしは長良川河口堰に反対して居たのか?
所詮は其れが儲ける為の無駄な事業であり清流長良川を破壊する行ひ其のものだったからなのだ。
ところで何故わたくしは自宅からは遠く離れた長良川のことにそんなに反応して居たのか?
何故なら叔父の別荘へ行く折に長良川近くの道路を屡遡り其処へと通って居たからなのだった。
まさに其の清流こそが人為にて汚してはならぬ聖なる川であった。
わたくしには其の聖なるものへと感度こそが多分並外れてあるのだ。
長良川河口堰は結局完成し以降は屡水質の汚染なども問題となって居たが今はどうなって居るものなのやらまるで分からぬ状態にある。
かうして何故か文明は自然を破壊するのが趣味でもあるかのやうだ。
ターシャ・テューダ―の話へと戻れば其の緑豊かで花花が咲き乱れるターシャの庭こそがまさに反文明であり脱文明であることの指標となるものだった。輝ける季節しか見られないターシャテューダーの庭
其のやうにターシャの庭には一種の思想的なプロテストの流れさへもが組み込まれて居たのだった。❀今再び蘇る!🎶 偉大なターシャ・テューダー 特編版 ❀ Tasha Tudor
自然に親しめば親しむ程に其の思想的なプロテストの流れが自然と了解されて来るやうになる。
だが其れは普通に社会生活を営み狭い範囲で生きて居るだけではおそらくはまるで分からぬことかとも思ふ。
但し其のプロテストの流れとは言葉による批判では無くあくまで彼女の生き方を通じて表現されるものなのでもあった。
まさに其処が女性的に素晴らしひ現實の体験の上でのプロセスなのであった。
さて此処日本ではベニシア・スタンリー・スミスさんによる英国流隠遁生活の方がむしろ有名なのやもしれぬ。
余分なものを持たず全て今あるもの、活用すべきものを活用して生きる其の生き方こそがある種潔癖な反現代文明的な生き方なのでもある。梶山正「京都大原で暮らす」|第二十話 目が悪くなった妻に手を差し出す
但しターシャさんのやり方の方がより徹底されメッセージ性が強かったやうにもわたくしには思はれる。
ー2歳のときに両親が離婚し[6]、再婚を繰り返す母ジュリアナに従って国内外を転居し、6歳からジャージー島セント・ヘリアの小学校に通い、10歳から6年間ヒースフィールドという寄宿舎制の女子校で学ぶ。ロンドンの女子高に進学し、花嫁学校を経て[7]、19歳の時に母国を離れてバックパッカーとしてインドに辿り着き、暫く現地でグルに従事しながら生活をしていたが、1971年に船で日本の九州南部に渡り、1974年に日本人男性と結婚[2]、東京・岡山の生活を経て、1978年から京都長岡で英会話学校の経営を始める。
1992年に登山家の梶山正と再婚し、1996年に大原に移住。これがきっかけとなり、テレビ・新聞・講演・カレンダーなどメディアが取り上げている。打ち込める趣味としてガーデニングを始め、友人のアドバイスでハーブを育て始め、6年後の2002年にNHKの「わたしのアイデアガーデニングコンテスト」で特別賞を受賞したことをきっかけに、ハーブ教室を始めるなど、ハーブ専門家として活動を始め、2007年に初めての著書『ベニシアのハーブ便り』を上梓し、その後エッセイ本やDVDなども出版[8]。また、NHK「猫のしっぽ カエルの手 京都 大原 ベニシアの手づくり暮らし」のスタッフによるドキュメンタリー映画が2013年9月14日に公開された。ーベニシア・スタンリー・スミスより
父親が實業家で豊かな家に生まれたターシャ・テューダ―や元々は英国貴族でもあるヴェニシアさんはまたとても知性的な女性達なのでもある。
女性もかように知性を持つと子宮思考をある程度抑へることが出来人間としての品が良くなって来るものだ。
ヴェニシアさんはそれにしてもかのヒッピー・ムーヴメントの折に何と印度でもってグルに仕へつつ生活して居たのだそうな。
おそらくは印度の思想を學ぶことで西洋文明への根本の疑問を解消しやうとされて居たのやもしれぬ。
其のやうに人間は社会のことを広くしかも深く學び其れに対し批判を貫くことで初めて思想的な素地を持つことが可能となる。
ちなみにわたくしは知性的な女性に限り彼女等が嫌ひでは無ひ、むしろ好きだ。
ところが眞に知性的な👩を見つけることは常に困難を伴ふものだ。
尚西洋の文明の本質とはさうした二元対立からこそ推進力を得て来て居ることだらう。
要するに進歩思想と其れに対する限定思想としての反文明の二つの思想の流れが相剋しつつ常に闘って居る。
ところが日本國では経済成長だけを発展させ其の思想的対立には目を瞑って来たと云ふべきでいやそもそもそんな二元対立なんぞ日本社会には何処にも無ひかのやうに感じられる。
つまりは日本の西洋文明理解とは甚だ底が浅くつまるところは良いトコ採りでのまさにご都合主義であるに過ぎぬものなのやもしれぬ。
問題は西洋の文明の根底には大矛盾が横たはると云ふことであるが其れ以上に日本の社会には矛盾があり其れはある意味で西洋文明の🐵真似だけをして来たことなのやもしれなひ。
とさう其処まで来るとまさに救ひが何処にも無くなって仕舞ふ訳であり時節柄余計に辛くもならうから其処はもはや不問に付し我我がどう救われて行くかと云ふ論点に絞り話を展開させて頂くこととしてみたひ。
重要なことは其の二元的な文明の選択の流れに於ひて悪の流れと善の流れが常に鬩ぎ合ひ現象して居ると云ふ事實に就ひてである。
其の社会的構造はまさに善悪の二元的対立の流れであり悪が増長すれば勿論逆に善の機能は弱まっても行くことだらう。
つまるところ現代社会はキリスト教に於ける善悪二元論へと所詮は還元され得るものなのだ。
ところが日本の社会では往々にして其の善悪二元論による滅びの世界と其れと対義的な救ひの世界とがまるで理解などされて居なひ。
特に神道及び大乗佛教は生の歓びを世襲していくものであるに過ぎず特に神道は神代の時代に於ける荒ぶる神、破壊としての自然なる神の恐怖を大衆に伝へることには失敗して来ても居やう。
つまり破壊としての自然神の怒りを鎮めることこそが本来の神道としての役割であらうのにー勿論皇室は其れを確りと行って居るのであるがー我我が今神社にて祈るのは良縁の成就やら学業の成就のことつまりは御利益のことばかりになってしもうた。
大乗佛教にせよお墓のこととか佛壇のこととか葬式のこととか永代供養のこととか其ればかりとなって仕舞ひ肝心の苦しひ時への御坊様方よりの説法がまるで為されて居らぬのだが其れは一体どう云ふことなのだらうか?
日本人のみんなが苦しひ今こそ御坊様方は目一杯に頑張りたとへば檀家訪問などを貫徹してせねばならぬのではなひか。
佛法の教へは元より偉大である。
即ち其れは釈迦が偉大だったからなのだ。
でも今日本の御坊様方は果たして日本人としてのみんなのことを親身になり心配して呉れて居ると言へるのだらうか?
そんな訳で日本の大乗佛教のあり方にはかねがねより疑問を抱ひて居りましたが故に今回少しだけ苦言を呈させて頂きました。
要するにそんなことではキリスト教の方を向く方がむしろ心が癒されるのであった。
「暗ひと不平を言ふよりも 進んで灯りを点けませう」
ところで神様はほんたうに居るのですか?
神は居る=信仰⇔神は居なひ=精神の合理化
と、其のやうに今わたくしは理解して居る。
其れを選択するのは人間の意志=理性以外には元より無ひ。
我我には其れを選択することの自由のみが与へられて居ると前々よりわたくしは述べて来て居る。
近代化と云ふ時代の流れの中で我我は其の選択を為さざるを得なひ。
好むと好まざるとに関わらずキリスト教は其の選択の流れをしかと形作って来た。
佛は居る=信仰⇔佛は居なひ=精神の合理化
と、勿論其れでも良ひのである。
良ひのだが、事實上其れはもはや此の世でもって問はれたりはせぬ精神の流れのものだ。
要するに現代文明其れ自体がキリスト教としての世界観により齎されしものなのだから。
では日本の社会とは一体何なのだ?
結局何か分からぬものにもなって来ざるを得ぬ。
何故なら其処には浄土教はあってもキリスト教である必然性など無ひからなのだ。
キリスト教を國教化せよとさう仰るのか?
いや、全然。
さうでは無くキリスト教を御勉強して行くことこそが大事だとさう述べて居るばかりでのことだ。
其れも今急にやるのでは無くわたくしのやうに二年程前から是非じっくりと考へていかねばならなかった。
結論から言へば精神の合理化はむしろ人間を限りなく不幸にして行くことだらう。
でも神を選び取るか佛を選び取るかと云ふことに関しては其れこそ個としての自由な選択に委ねられて居ることだらう。
だが其れは合理化されては居ない領域としての共に古き良き精神の領域なのだ。
其のやうに両宗教は大枠では仲間なのであらうから是非共に學び合はねばならぬ。
ちなみにわたくしは神は創られるものだと最近考へるに至った。
勿論佛もさうなのだが。
人間が精神の次元にて創らねばならぬものが其の神であるか又は佛である。
では無神論者、か又は佛を否定する論者は人間では無ひとさう仰るので?
おそらく其れでは次第次第に魔道へと堕ちて行くのではなひだらうか。
重要なことはそんな精神の領域を失っては決してならぬと云ふことに尽きて居らう。
元より人間の心は弱ひ。
弱ひので其れ即ちバカなのでもある。
では強くなれば良ひではなひか。
まさに其れぞニーチェの提唱した「超人」だらう?
またマジンガーZもガンダムもまさに皆其のニーチェの妄想した「超人」だらう。
ニーチェの気が何故狂ったかと云ふとズバリ其れは「超人」を信じたからだ。
キリスト教を否定し「超人」を信じたからこそ戦後文明は魔道へと墜ちたのだった。
かねてよりわたくしはニーチェが嫌ひでは無くことあるごとに彼を擁護しても居たのだったが今では全否定するに至って居る。
要するにニーチェは「超人」ヲタクであり實存バカの走りなのでもあり牧師の息子だと云ふのに神を信じなひ悪ひ子ちゃんなのだった。
尚ニーチェのキリスト教批判に対する論駁などは今少しお待ち頂きたひ。
精神的余裕が出来たらいつでも取り組むが故に兎に角今少しお待ち頂きたひ。
第一ニーチェは全部気が狂った稀なる哲學者であり詩人なのだ。
さてつまりは人間の精神は弱ひ。
なにせ弱ひので成佛などとてもかなはぬものだ。
其れでもって成佛出来ぬ心がか弱ひ人間に限り全能の神や阿弥陀仏に救って頂く他は無し。
では浄土教もOKなのですか?
まあ場合によっては。
でもわたくしはあくまで自力救済の方で頑張ってみます。
危なひのでは無ひですか、そんな自己救済では?
だからキリスト教の方もかうして常に向ひて居るではなひか。
精神に於ひて其れ以上望まれることなどは何も無ひことだらう。
で、一体何を申されたひので?
かうして「苦」に向き合ふキリスト教の姿勢より學んで居るのだ。
何故なら今全世界が苦悩に満ちて居る。
其の死は宗教ですら拭ひ去れぬ程にも大きくさうして苦しひ状況にこそあらう。
故渡辺 和子シスターの御言葉
1.神を信頼し自らを正し生きることは現世利益を求めることには非ず。
2.神以外は皆不完全であり、其の不完全な世界に天災、人災が起こるのは当然のこと、また人間が互いを傷付け合ふのも当たり前のこと。
3.神は我我の力に余る試練をお与へにはならなひ、試練には其れに耐へるだけの恵みを与へて下さる、また神は悪からも善を引き出す。
尚わたくしはかって所謂「般若波羅蜜多」を直観して居るのであるが、まさに其の時に現象の不完全性、瑕疵性、不具性を其処に見ひ出し小悟したのであった。
だから其れ以降はずっと其の現象の不完全性並びに瑕疵性、不具性を述べ続けて来て居ることかと思ふ。
現象が不完全である以上其れと対義的に生まれる神佛と云ふ概念は完全性を帯びざるを得なひ。
完全とはさうして概念的にこそ成立するものであるが決して現象しなひと云ふ具象性を超越するものであるが故にむしろ其れは實在として在らねばならぬものなのだ。
つまるところあくまで神佛は在らねばならぬものなのだ。
但し其れは釈迦の捉へ方ー両極否定=中道ーとはまた異なるだらうさうしたあくまで二元的な解釈の仕方であって其処ではむしろキリスト教的な解釈を其処にあへてして来て居る訳だ。ー何せ今や現代の社会なのでー
さて其の神は我我の力に余るー手に余るー試練をお与へにはならなひとは結局「此の世で起こったことは此の世でもって収まる」とでも云ふことなのだらうか。
しかも試練には其れに耐へるだけの恵みさへもが与へられても居やう。
けだし悪は普通まさに憎むべき対象の筈だがむしろ其処からも善を引き出し其れを愛するのだとキリスト教は常にさう述べる。
大乗佛教に於ひても法然や親鸞の浄土教としての思想はまさに同様の見解を示す。
其れが所謂悪人正機説のことだ。
但し原始佛教に於ひてはまた其れとは異なる方策を取る。
即ち其の善悪二元論としての分別を相対化し無分別化することで無効として仕舞ふ流れのことだ。
其れは概念的な価値其れ自体をむしろ消去して行くことなのだ。ー分別の消去であり言葉の消去ー
なので必然的に釈迦の佛法では其処に人間味が須らく消え去って行くのだとも言へやう。
まるで人間らしくは無ひ思想なので逆に最終的には佛として生まれ変はるのだらう。
其れが普通の人間には出来ぬが故にキリスト教的な佛法が出来たりもまたしたのであった。
なので本来の佛法では現世利益などまさになんのこっちゃ、なのである。
利益も何もクソも無く只其の人非人としての佛になることを目指すと云ふだけのことなのだ。
其処では所謂人間らしひ価値観、価値ヒエラルキーの類はとりあへず全否定される。
だから國も会社も👪も組織も何も無く實は宗教さへもが其処には成立しなひ。
釈迦の佛法はキリスト教とはまた正反対にさうして価値ヒエラルキーを設定しなひ、むしろ其れを無力化して行く。
おそらくはより哲學的ー抽象的ーでありより根本での苦の解決法が其処には示されて居ることだらう。
なのですが、キリスト教はキリスト教でまた至極現實に即した欲望の放棄の仕方を述べる。
尤も其れでも其の救ひは霊的な部分でのことに限られるのであらうからまさに半分は悪魔と番ひし客体世界を放棄して行くのではあらう。
其の悪魔乃至は悪をも含め「全ては恵みの呼吸=被造物のもの」としてあるがままにあるものだから当然に感謝して受け取るべきものなのだ。
神の恩寵をかうして受けたとへパンデミックとなるに及んでも其れは神により試練が与へられて居ることであるに過ぎぬ筈だとさう認識すべし。
赦し難ひ人々をさうして受け容れ耐へ難き困難を耐へ受け容れる。
まさしく其れは人間が自身でもってさう受け容れ赦すのでは無く神が又はキリストがさう受け容れ赦すのである。
同時に神と連なりし心の階梯に於ひて人間自身もまた全ての現象をさう受け容れ赦すのでなくてはならぬのだらう。
「どんなことにも感謝する」
だが其れは普通人間には出来ることでは無ひ。
元より社会とは「不幸」と云ふ黴菌の巣窟なのだ。
其れを吸へば誰しもが「不幸」と云ふ病にも罹る。
だが其れを自らが増幅して人又は社会に吹きかけてはならなひ。
何故なら其処には其れを吹きかけぬ為の自由と云ふ神の選択が常に可能なのだから。
此処からも其の今突き付けられしマイナスのこと、歓迎などは決して出来ぬ今の状況をこそ人は契機と為し自らの心のあり方を変へて行かねばならぬことだらう。
キリスト者ー神を信じる者ーとしての故渡辺 和子シスターの御言葉にはそんな深い意味合ひが込められて居るやうに思へてならぬ。
ー尚多忙の為四月一杯は投稿回数が減ることかと思はれます。-