目覚めよ!

文明批判と心の探求と

此の暮れに考へたところでの時間の構造

#さても限定論とは何か?

 

わたくしの考へ方の基本にあるものとは所謂「全体論」であり其の「限定論」です。

 

「限定論」とはわたくしが創った考へ方のことで要するに此の世の全てが限定物の寄せ集めだと云ふやうなことです。

 

わたくしはかうして屡自らの哲學を語ります。

 

だからちょっと気を抜きますと現實を離れて考へが何処までも膨らんで行ったりも致します。

 

 

ちなみにわたくしは此の年末に所謂時間の構造のことにつきずっと考へ続けて居ました。

 

で、其れも其の「限定論」にてある程度まで理論化を致しました。

 

 

わたくしの捉へ方からすれば時間とは其れ即ち「限定」です。

限定とは限られて居るか又は区切られて居ると云ふことでありつまりは有限であると云ふことです。

 

即ち時間とは其の有限としての分離された認識上の産物です。

 

其ればかりか空間をも含めた時空其のものが有限であり其れ即ち「限定」なのだらう。

 

さうして時空が限定なのであれば其処に生じて居ることだらうあらゆる現象もまた限定され分離されて居る。

 

と云ふことは物質的にも限定されて居ざるを得ぬと云ふさう云ふことだ。

 

 

其れ等がさうして限定されて居るが故に対義的に生じるのが観念としての物自体ー神佛としての超越者の智慧ーです。

ですが物自体は不可知ですので物質的にも観念的にも認識とは無関係です。

 

現象は、

 

物質⇔観念

 

と云ふやうな対義的関係となるが故に其処に相剋し且つ相即する関係が生じても参ります。

 

 

要するに其の相剋し且つ相即する関係性が生じるやうな認識こそが現象としてのあり方ー認識の形式ーだと云ふことです。

 

其の限定とはまさに分離であり分裂です。

 

まあ全体論からの離反こそが其の分離であり分裂でもあることでせう。

 

つまりは全体論的な価値の喪失の過程こそが現象としての分裂の過程だと云ふことです。

 

 

要するに細切れにされるやうな価値認識しか人間には出来ぬのでさう現象して居るのです。

いやさうした認識の形式を取って居るのが所詮は人間だと云ふことなのだらう。

 

 

尚わたくしが観念的に到達した限定論とは其のカントによる認識論と佛法の内容及び旧約聖書の失樂園の部分とがごちゃ混ぜになったやうなものでほぼオリジナルなものです。

 

でもわたくしは其のオンリーワンの世界が實は得意過ぎるので其処がむしろじぶんではイヤなのですがね。

 

 

兎に角現象其れ自体が相対分離されて居ります。

まあ此処は佛法に於ける認識論のことでせう。

 

即ち現象とは有ると思ひがちですがむしろ其れは無ひものだ。

 

有⇔無

 

其の有無と云ふ概念的分離ー相対分別ー其のものが現象を現象たらしめることの正体であり物自体からの離反でもある訳だらう。

 

即ち神からの離反であるまさに失樂園のことで同時に佛からの離脱のことでもあり故に此の地の上ではかうしてやがては末法の世界を形作ることともなるのだ。

 

 

有ると無しとはかうして対概念なのですが、対概念には相剋し且つ相即する関係が生じるので實は互ひに無関係なのではありません。

 

要するに現象其れ自体に対義化することだらう呪ひのやうなものがかけられて居るのでさうして二元分離、二元分裂して行かざるを得ぬ。

 

そんな分離は全てが限定性を帯びるのだとさう申して来て居る訳だ。

 

 

二元分離の世界は旧約聖書による世界観の上で言へばまさに神の園から追放されて地に降り立った原罪に充たされし世界でありまた佛の智慧からすれば煩悩まみれでのまさに肥溜めのやうな世界のことでせう。

 

重要なことは常に其れがドロドロに腐った肥溜めのやうなものだと云ふことです。

なので、そんなところを科学などの言ふ通りに美化して見詰めたりして居ては金輪際ならぬ。

 

そんな自然科学の言ふ通りで行くといつしかみんなは獣化されて仕舞ひ🐵か🐶か🐊や🐍などにでもなる他ありません。

では🐻や🐅ならば良ひのだらうか?

 

いや君はあくまで人間だらう?

人間ならば持って生まれた其の理性を大事にしろよ。

 

だって其の理性こそがイケナヒのでせう?

いやイケなくは無ひ。

 

何故なら人間は🐵や🐶や🐊や🐍や🐻や🐅を食はなひ。

 

でも🐂を毎日食ってるぞ。

其れに🐟も毎日食ってるぞ。

 

だからたまには食はれる方に回ってみてはどうか?

さうして獣達に食はれることで初めて分かる命の尊さのことだよ。

 

 

 

時空⇔物質

 

其の時空と物質の関係性もまた相剋し且つ相即するものなので互ひに影響し合って居る筈だ。

居る筈だと云ふのは、思考もまた移り変はるものなので其処で断定することは不可能だと云ふことを指し示して居る。

 

 

要するに時間もまた相対分離と云ふ認識上に生ずる対概念としての属性のことです。

 

時間⇔空間

時空⇔物自体

 

と対義的に適当に概念を当て嵌めてみても其の全てが正解ともならう筈です。

 

重要なことはあくまで対概念化されし認識に於ひては常に相剋し且つ相即する関係性が生ずると云ふことのみでせう。

 

 

で、かのマルクス・ガブリエルではなひのですが世界の有無に就ひては其れが本質的には無ひが現象上はあくまで有るー相対認識がさう現象させて居るだけのことーと云ふのがわたくしの見解です。

 

では人間が死んだらどうなるの?

 

まず人間が果たして死ねるものなのかどうかにつき論じてみる必要があるやうにも思ふ。

 

わたくしは動植物の生と人間の生は質的に異なるとさう考へる。

 

人間の生とは観念領域にシフトされたものである可能性が高ひことだらう。

 

第一動植物は「死」を考へたりしては居なひことだらう。

彼等は只感じて居るのです、まさに其の「死」を感ずるだけなのだ。

 

つまるところ彼等にとっての死とは全体論的な生の価値の喪失としての死であり其れ即ち無辺際の死でもあることだらう。

ですが我我相対分別者に可能な死とは不完全な死即ち分離領域にシフトされた観念の上での限定的な死である可能性が高ひ。

 

 

では人間が死んだら果たしてどうなるの?

 

相対認識其のものが其処に終はりを遂げる為人間としての認識ー識別ー能力は消へ去りませうが或は元に戻るのやもしれません。

元に戻る?

 

要するに相対認識以前での段階にリセットされ動植物並での感覚状態に戻るのやもしれません。

つまりはより感覚的な認識に戻るのやもしれぬ、但し其れも輪廻転生した場合に限るのだが。

 

じゃあ佛様やキリスト様は死んでから何処へ行って仕舞はれたの?

おそらくは物自体となって居られ現象などすることは無ひのだ。

 

ですがカントによれば物自体は不可知なので其れも正確には言へぬことなのですがね。

 

 

さてもさうして相対認識が時間の流れを生んで居るのか?

 

厳密には抽象的に時空を認識することが可能なのは人間のみであることだらう。

だが高等動物程感覚的にではあっても時の流れや空間的な拡がりを感ずることが可能となるのだらう。

 

ズバリ時空とは相対認識による分離ですか?

 

ズバリ時空とは其の相対認識による分離です。

 

故に時間とは分離でありしかも限定ー有限のものーされしものだ。

 

問題は現象の全てが其の認識の形式としての産物だと云ふことであり、故に我我はさう見へて居る世界を認識して居るに過ぎぬと云ふ点だらう。

 

 

ところで時間は何故流れるのですか?

時間其れ自体が流れるのでは無く意識の流れが其れをさう見て居ると云ふことではなからうか。

 

さう其の意識の継続こそが時間がさう流れて居るかのやうに感じさせて居ることだらう。

 

意識とは何ですか?

また動植物にも意識があるのですか?

 

 

おそらく意識とは相対認識に関連付けられたものであることだらう。

相対認識即ち分離であり限定であるものが其処にある限り意識は生じ続けることだらう。

 

では🐶や😸、また🐗や🐊など、また🐻やミジンコ、さらに細菌やウヒルスに其れから植物には意識があるのですか?

あることだらうけれども勿論人間に対しては其の働きが相対的に弱くもならう。

でも多分🐵などには人間の意識に近ひものがあるのじゃなひだらうか?

 

植物の意識はまた質的に異なる意識でもっておそらくは無意識的な集合意識のやうなものであることだらう。

 

 

其の意識は進化するものですか?

進化はするのだらうけれどもよもや進歩などはしなひものだと思ふ。

 

すると人間は意識の上での進化を続けて居るのですね?

 

意識の進化⇔意識の退歩

 

問題は進化すると云ふことが退歩をも含むー孕むーと云ふことなのだ。

 

相対認識の上での分別は常に逆方向での価値を生み出し其処に相剋し且つ相即する関係性を生じさせやう。

 

まさに其の価値の対立ー矛盾ーこそが欲望の所産なのだ。

 

其れも抽象的なる欲望の所産なのだ。

 

 

すると抽象的な欲望の所産である現象を生きる我我人間こそが劣化=破壊の犯人だと云ふこととなり其れでは何処にも救ひが無ひではありますまひか。

 

結局相対認識の上での分別は抽象的な欲望の所産としての劣化ー破壊ーを生じさせて仕舞ふ。

釈迦やキリストが一旦現世否定を行ふのは其の認識上の不完全さを放逐せんが為のことだらう。

 

要するに進めば進む程につまりは時が経過すればする程にむしろ現象界はより不完全な様を曝け出し世界其のものを壊しにかかることであらう。

でも其れでは全部がブチ壊しとなるので釈迦やキリストは一旦現世否定を行った上で涅槃へ至らせたり天國へ行かせたりもする訳です。

 

つまるところ時の流れー時間ーとはまた此の世界ー空間ーとは意識の産物であり欲望の所産なのですか?

 

まあかのショーペンハウアーが述べたが如くに生への盲目的な意志こそが其の欲望を生じさせて居ることだらう。

すると意志ー意識ーが時間を生じさせて居るのだとさうも言へさうですね。

 

 

さうさな結局時間とは意識による分離ー限定ーなのだとさうも結論付けられやう。

 

ではみんなが死んだらそれぞれの時間もまた消へるのですね?

死ぬることで観念-意識-が消え去るかどうか、まさに其れが問題だらう。

或は死ぬることのみでは観念-意識-を消し去ることなど難しひのやもしれぬ。

 

事實釈迦の佛法などでは生死などとは無関係に徹底的に欲望のあり方が隠滅されて行く訳です。

欲望其れ自体が謗法であり悪のやうなものなので其処ではあらゆる現世利益の追求が否定されて行きます。

 

つまりは偉ひ御坊様を讃へたりお寺をお参りしたり立派なお墓をつくることなどはむしろ此の世への未練を宿す=現象に拘ると云ふ意味では立派な謗法ともなるのであります。

 

だとすると釈迦を讃へたりしてもイケナヒのですか?

まあ厳密には釈迦もキリストもまるで役立たずだ、と云ふのが所謂禅での見解なのでせう。

 

 

何せ禅は観念的にもブッ飛んで居るので折角の其の価値ヒエラルキーの部分をあへて脱構築して仕舞ふ訳だ。

 

さうして観念的に価値ヒエラルキーを組み上げた時点ですでに思ひ切り相対分別をして居る訳ですので其れをあへてブチ壊す為に佛なんぞは馬の糞だとかあへて其処で常識に反したところでの滅茶苦茶を言ふ訳です。

 

故にかの一休 宗純などの風狂の僧もまたこんな価値ヒエラルキーの積極的破壊を為して居たりもする。

 

対して世の価値観に従って居る限りは其の風狂の境地を理解することなどまず不可能でせう。

 

 

要するに佛法で一番イケナヒことは此の世ー現象ーに拘ることです。

観念的にまた物質的に拘るー此の世と縁を結ぶーこと自体が實は謗法なんです。

 

だから其処の部分をこそ禅は潔癖に追求して行くので其処では要するに半分頭が狂っても居ませう。

 

だがわたくしに限り其の半分頭が壊れてる世界こそが何故か大好きなんですね。

 

でも禅や釈迦の佛法は實際現代人にはハードルが高過ぎるのです。

 

現代社会は特に戦後現世利益に与るやうな価値ヒエラルキーをむしろ堅固に築ひて来て居ませう。

 

 

ですのですでに救はれやうが無ひことをやって来て居りませうが其処はまさに良くしたもので半分程崩れた大乗佛法や堕落せしキリスト教などに見合ったものであるのがまさに其の現代文明を貫くことだらう精神世界なのです。

 

であるからこそ大乗佛法や現代のキリスト教をこそむしろ我我は大事にして行かねばなりません。

 

尚わたくしは最近新興宗教をも含めて宗教は矢張り大事なものだとさう思ふやうにもなりました。

なので何教が悪ひなどとも決め付けぬ方が良ひことでせう。

 

宗教は社会生活を営む上での精神の礎となり得るものです。

 

実際に赤信号を平気で渡って行くやうな歩行者が今ほんたうに増へて来て居る。

 

其れに今ほんたうにコロナウヒルスが蔓延して来ても居ります。

 

誰しも本心ではこりゃヤバひぞとさう思って居ることだらう筈だ。

 

 

でも相変はらず我我には明日の予定だの経済の動向のことなどが気にかかって居るのです。

 

要するに現象其のものに捉へられさうして認識が分離されても居りませう。

 

認識の分離=拘りです。

 

其の拘り=欲望が今を生じさせて居る。-現象を生じさせて居る-

 

でも今には二種があり、禅や原始佛教にて捉へられる今とは時空を超越した今のことです。

 

つまりは其れが相対分離と云ふ認識を滅し去ったところでの今なのです。

 

相対分離と云ふ認識を滅し去った今とはそも其処に時の流れを含んで居ません。

 

時の流れを含んで居なひ=今だけの今、なのです。

 

つまりは意識の流れをも滅し去った今のことなのでせう。

 

 

でも其れはもはや我我には不可能なことです。

惜しひ哉あくまで其れが不可能なのでまさにキリスト教での終末論の如くに世界が破滅に向かって居るかのやうでもある。

 

まあ其処では神に祈るか其れとも禅やタオの道の如くに風狂化または仙人化するより他は無ひのやもしれぬ。

 

要するに他力救済に属するものでなければ我我には出来なひことと必然的にはならう。

 

釈迦御自身による佛法は解脱する智慧としてはまさに完璧なのですが残念ながら我我にはもはや手が出せぬ領域にあるものなのだ。

 

 

なので此の際自力救済への道は諦めるべきでせう。

 

我我はまた来年もコロナが生じさせる肥溜めを何処までも泳ぎ続けて行く訳ですが其処に眞理の花を咲かせるかどうかはそんな我我一人一人の「拘りの無さ」にこそかかって居ります。

 

 

現代社会は其れ自体がかうしてより問題をデカくし我我個に生存としての圧迫を強めて来ることでせう。

 

つまるところ社会にはまるで期待など出来ぬので我我は此の分別された「今」と云ふ肥溜めを自分でもって泳ぎ続けて行く他は無ひのです。

 

くれぐれも申しますが其の今に拘り家族だとか地位だとか金だとかに拘って居るうちは時間の内部に囚はれて仕舞って居るのです。

 

まさに其の時間ー時の流れーとは縁を切るべきでせう。

 

 

と言へば狂ってると思はれるので其れを言ふのは止めて要するに学校とも仕事とも縁を切りませう、と云ふことだ。

 

嗚呼また言って仕舞った。

 

👪とも彼女とも縁を切りませう、と云ふことだ。

 

嗚呼さらに言って仕舞った。

 

 

もう何かを言ふことは止めやう。

 

ではどうしますか?

 

 

詩人さん、アンタは実際これからどうするのですか?

 

どうもしませんのですしかうして家で京都のおせちばかりを食って居ます。

 

ガマンが出来ずにもうおせちを食って居るのですか。

 

そんな体たらくにて良くもこんな高尚な哲學のやうなことが言へたものだな。

 

 

現代文明に於ける唯一の問題点とはいつしかかうして社会の問題を神佛の世界へと丸投げして仕舞って居ることだ。

 

其れでもさうしてワクチンを打てばみんなは助かりませうか?

 

ワクチンにてたとへ肉体は救へてもおそらく現代人の心を救ふことなどは難しひことだらう。

 

でも祈る対象はある訳なのでむしろみんなで祈りに教会や神社、其れからお寺へと是非出向かうではなひか。

 

でも其れは行くなとさう政府に言はれてることでせう。

 

其れに雪も降り何より寒ひことでせう。

 

だからこそ空ひてますよ、多分神社仏閣、教会などは。

 

 

さても来年文明はどうなることでせうか。

まあなるやうにしかならんことかとは存じます。

 

ーさうして来年のことを考へること其れ自体が相対分離としての時間に囚はれて仕舞って居ることなのだらうー

 

さうして観念的に時間を超越した上で来年は是非解脱することをのみ目指すべきだらう。

 

其れでは皆様良ひおせちを。

 

では無くて良ひ御年を。