目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

相対分別ー観念的認識ーの功罪

認識上の誤謬ー認識其れ自体がすでに誤謬ーと云ふまさに哲學的な命題がわたくしの頭の中を支配しあれこれ思ひ悩まさせられたりもして居る。

 

そんなことで思ひ悩んで居る奴は哲學者又は宗教學者などを除き何処にも居なひ筈だ。

 

わたくしはさうした哲學上の問題に就き大ひに親和性がありむしろ幼き頃より此の種の問題に就き思慮を巡らすことが屡だった。

 

と云ふか兎に角好きである。

考へること自体が好きと云ふかまるで苦にはならぬ。

 

死ぬまで其処でじっと考へて居ろと言われれば勿論さうして居るのだし其れが決して苦にはならぬのだ。

 

だからそも其の根本の精神の性質がアナタ方大衆とは少し違ふ。ー但しあくまで半分は我もまた大衆のひとり、残りの半分は人文者(ゲージツ家であり文學者であり世間を無視するバカ)だー

 

さて、問題は兎に角其の認識上の誤謬と云うか認識上の矛盾のことだ。

 

 

其の認識に於ける自己矛盾は言語にて乗り越へる=解決することが出来ぬ。

 

なので釈尊は其れを苦と捉へた。

 

エス様は其れを罪として捉へた。

 

 

其の言語矛盾に関してはかのウィトゲンシュタインから學ぶと宜しひかと思われる。

 

ウィトゲンシュタインは教師の職がむしろ合って居たが、其れも頭が良過ぎて学校を追ひ出され挙句の果てには庭師をやって居たが結局どこぞの大學ーケンブリッジ大學ーに招聘され其処に於ひて哲學教授に任ぜられた。

 

かように教師をやり其れが合って居たと云ふのに辞めざるを得なくなる天才と云ふものは居るものでかの宮澤  賢治なども明らかに其の類の人間なのだ。

 

ウィトゲンシュタインの學説は廿世紀に於ける思想的な転回ー言語論的な転回ーを齎し以降言語と云ふより根本的ー観念的ーな領域にて哲學的に追求されていく。

 

 

「言語論的転回を始めたひとりとして、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが挙げられる。彼の初期の仕事における、哲学的な問題が言語の論理の誤解から起こるという考え、および彼の後期の仕事における言語ゲームに関する所見が、その起源と考えられている。」

「言語が思考の透明な媒体でないという事実は、ヨハン・ゲオルク・ハーマンヴィルヘルム・フォン・フンボルトの仕事に始まる言語哲学によってすでに強調されていた。ただし分析哲学はこの伝統に関連しておらず、その問題意識は必ずしも同じではない。

1970年代に、人文科学は構造化の動因である言語の重要性を認識した。」言語論的転回より

 

 

謂わば言語としての論理は矛盾を孕んで居る訳だ。

 

言語=論理なので其れは観念の大元での矛盾をあからさまにする。

 

 

つまり、思考とは、そも矛盾を生じさせることの温床である。

 

なんですが、前々から述べて居りますやうに、人間は考へる葦であり逆に考へぬ人間は人間では無ひ。

 

さうだ、考へぬ人間はもはや人間では無ひのだ。

 

 

だから皆考へなければならぬ。

 

女は女で考へるべきなのであるしガキはガキでもって考へなければならぬ。

 

其の考へることは然しそも間違ひだ。

 

間違ひであり誤って居ることなのだ。

 

 

でも人間だから考へなくちゃいけないんだ!

 

だって人間ですもの。

 

 

 

だから其の考へることこそが苦だ。

 

苦だから苦しひ。

 

人間は苦しひ。

 

たとへ何処へ逃げやうが苦しひ。

 

女の胎の中へ逃げやうと北極圏へ逃げやうとアンドロメダ大星雲へと逃げやうと其の苦ばかりは追って来やう。

 

 

うわー、参ったな。

 

厄介なものに生まれちまったな。

 

我としたことが何処かで何かを間違へたのだらうな。

 

何処で間違って居たのだらうか。

 

 

其れはもう幾ら考へても分からぬ。

 

幾ら考へたにせよ君は今ココに人間として居る。

 

其れも女の胎からポコッと生まれて仕舞った。

 

女の胎からポコッと生まれると相対分別が生じ言語化=論理化されし世界が生まれやう。

 

なので女はタダ人間を産んで居るのではなく相対分別ー言語としての論理世界ーとしての世界其のものを生んで居るのだ。

 

 

が、其の故に女には理性が無ひのである。

 

まことに怖ろしひことながら其のやうになっておる。

 

 

世の実相とはまあそんなところである。

 

但し其処で二種の立場が選択され得る。

 

 

其れは人文の領域が突き詰めて考へし言語としての負債性=言語矛盾を認める立場と其れを認めぬ立場=自然科学的論理との差異のことだ。

 

平たく言へば人文または宗教の領域はトコトン人間其のものを反省するが自然科学にはそもさうした反省力が欠けて居り其れでもって何処までもやりたひ放題に人間の観念的欲望を追求して行くと云ふ其の点のことだ。

 

 

ではどちらがヤバいのか?

 

だから其れは個が選択しなければならぬことであらう。

 

其のデシジョンは最終的に個に突き付けられて居る。

 

 

で、バカ大衆が現状に批判的であることなくホイホイと其処でもって後者の立場を結果的に選ぶともうエライことになるぞよ。

 

 

つまりもはや文明にとり諌めるものが何も無くなる訳なのでもうやりたひ放題だ。

 

即ち酒池肉林の様が未来永劫に亘り繰り広げられやう。

 

 

あ、むしろそっちの方がイイのでは?

 

馬鹿者!

 

だからおまへはバカなんだ。

 

 

さうではなく常に釈迦かまたはイエス様の方向を向いて居なければダメだ。

 

 

だからほんたうは難しひ話でも何でも無ひ。

 

相対分別者である人間は間違っても威張ってなど居てはいけなひ。

 

より不完全でしかも負債=矛盾を抱えしバカ共だと自らのことをさう捉へじぶんが常に牢獄の中におりしかも此処はどう考へても地獄だ、とのただしひ認識が是非必要であり間違っても観念ー社会的自我ーに捉われ此の世にユートピアを建設したひだの、子孫を富み栄へさせたひだの、はたまた宇宙へ移住し永遠に生きるだの、其れに女に触りたい、酒が飲みたひ、大金を掴みたひ、だのそんな欲にまみれ屁にまみれ反省することなく此の言語的矛盾世界をのうのうと生きて居てはいけなひのだ。

 

 

さうです、全てはワタシが悪かった。

 

ワタシが悪ひが故に世界が悪くなり申した。

 

 

いえ、まさか其処までお考へにならずともアナタ様は決して悪からう筈が無ひ。

 

アナタ様は反省力を有するまさに偉ひ人間だ。

 

だから決して地獄には堕ちぬ。

 

 

だがマッドなサイエンティスト共はまず間違ひなく地獄へと堕ちませう。

 

a=bだとか何とかの定理だとかそんなものではそも此の世界は規定など出来ぬ。

 

微分だの積分だの何やら訳の分からぬ宇宙人のやうなことを言ひ出しおって。

 

aとbはそも違ふだろう、まるで違ふ、第一形が違ふ。

 

 

光速度がどうのこうのと、光速度など地球上には存在しなひのだしそんなものを考え始めたからこそむしろ自然が壊れるのだ。

 

光速度で進むと時間が止まる。

 

でも光速度で進むにせよ時間など止まりはせぬ。

 

相対認識を滅した時にこそ時間は止まるのじゃ。

 

 

此の際一度地球を光速船にでも仕立てて実験でもしてみよ。

 

みんなが高速で飛ぶと時間が止まるかどうかを実験してみよ。

 

ーただし正しくは光速で移動中の人間の内部を経過する時間が停止する訳では無ひ。其れを静止した系から観測した人にとり光速で移動中の人間に流れる時間が止まったかのやうに見へるのだー

 

 

 

いずれにせよ科学技術文明によって齎されし文明の最大の盲点が此の反省力の無さと云ふこととならうかと思ふ。

 

左様な数的還元による合理的な世界観は一方では人間の社会=文明にとり多大な恩恵を齎すことであらうが他方では何かとんでもなひコトを仕出かす虞に充ちて居りなんですが大衆はそんなことまでとても考へられず今日食ふもの、今日触る🚺、今日会社でもってどう人間関係を構築するか、などと云ふ些事に追ひまくられ正直其処には科学もクソもへったくれも無ひ。

 

アノアマゾン大火災の主因にせよ其れは其の合理主義にあることなどもはや明らかだ。

 

 

其のやうに全部は自然科学が悪ひ=現代社会が悪ひ。

と云ふ解釈もなり立たぬ訳では無ひ。

 

 

ところで人間は何故考へなければならぬのか?

 

 

観念的に分離ー分裂ーせざるを得ぬ立場にあるからだ。

 

対して自然は観念的に分離ー分裂ーせざるを得ぬ立場に追い込まれて居なひ。

 

其の立場の違ひ、又は方向性の違ひは事実として存する。

 

どうも其の構造的な差異は其処に存して居るのだ。

 

 

其の意味で其れは有る、のである。

 

有る、から、其処に苦が生じるのであらう。

 

今一度言ふが其の立場の違ひを自ら相対認識にて成り立たせて居るので苦が生じて居るのだ。

 

 

つまりは其の立場の違ひを自ら認識にて成り立たせて居る=相対分別して居ることこそが人間の抱へる全問題なのだ。

 

 

と云ふことは、

 

仏教ー相対認識の消去にて解脱する=認識の無化

 

キリスト教ー相対認識を神に丸投げする=認識の絶対化

 

と云ふどちらかの方法で何とか人間は救われやう筈。

 

 

ところが、認識を打ち消すともはや其れは人間では無くならう。

 

認識を神の次元で統一すると一種の神人間となり其れも一面では人間では無くなる。

 

 

と云ふことは人間は人間として本来ならば一刻も生きられぬと云ふことじゃ。

 

 

生きて居てはいけなひ、元より其れはならぬ、そも生きて居てはいけなかった!

 

 

でも生きていますよ。

 

かうして日々屁コキながらドロドロの世界を生き抜ひて来ております。

 

 

其れはエライ。

 

ほんたうに頭が下がる。

 

わたくしはもう藝術作品などにはまるで頭が下がらぬのだがそんな毛深き君に対しては常に頭を下げやう。

 

 

キミの其の草魂、まさに屁コキつつ生きていく其のたくましき欲のカタマリの様よ。

 

嗚呼、何て美しひんだ。

 

 

だがわたくしには頭に来ることもまた沢山ある。

 

第一何故皆地下鉄でもって何故マスクをして居なひのか。

 

わたくしなどは育ちが良くてひ弱なものだから君等の其の無遠慮な咳ひとつでもうエライことになって仕舞ふのだぞよ。

 

 

キミがわたくしの顔の眼の前で咳をひとつするだけで育ちが良く免疫に欠けるわたくしは病原菌を移されまず三日は寝込むことと相成る。

 

だから何故君等大衆はそんなに不遠慮かつ下品なのだ?

 

 

そりゃアンタが自称の詩人でもって弱過ぎるからだろ。

 

アラさうでしたの?

 

 

かように言語矛盾とは人間にとってのほぼ究極の問題である。

 

言語により人間が人間として成り立つにも関わらず、其の言語自体に矛盾が含まれて居るので人間の思考とまた其れにより成立する行ひの両面にわたり負荷が生じ其れにより最終的には破壊が齎されやう。

 

 

とは言へ其れもまた人間の屁コキの様として認めざるを得なくならう。

 

じぶんが人間である限りは其の矛盾をば受け容れて行かざるを得ぬ。

 

じぶんが人間では無ひものになれば或はそんな苦からは解放されていくのやもしれぬ。

 

 

わたくしの場合最近は蝶蝶になった気分で居り、其れでもってあちこちの美しひお花へと飛び回りチュウチュウと其の蜜をば吸ひ尽くしていくのだった。

 

昨日はショーペンハウアー、今日は禅宗、明日はウィトゲンシュタインと、嗚呼まさに色んなお花に体を擦りつけ其処から花粉を奪ふのである。

 

其の花粉を滅茶苦茶に心の中へと塗りたくり其れでもってようやく出来上がったのが他でもなひわたくしの観念的世界なのだ。

 

 

大衆よ、頼むから地下鉄の中で我に風邪を移さなひで頂きたひ。

 

だからわたくしは兎に角風邪に弱ひ。

 

つまりは、結局、

 

バカは風邪ひかぬ⇔バカで無い人はすぐ風邪を引く

 

なんですねえ。

 

 

認識上の誤謬としての相対概念はむしろ其処で絶対領域を希求して仕舞ふのやもしれぬ。

 

 

けだし近代以降の神の死も言語論的転回もまた相対性理論もむしろ其の絶対領域の解体として作用する思想的転回である。

 

また構造主義による文化相対主義や西洋文明に於ける優越的な価値観の崩壊も全て絶対領域の解体として作用する思想的転回である。

 

 

其れでは一体我我は何を奉じて生きていくのだらうか?

 

相対主義に真理は存在しなひので真理其のものを相対化しむしろ忘れ去っていくべきなのだらうか。

 

 

わたくしには其の諸の相対化の過程によりむしろ人間其のものの絶対化が行われて来て居るやうに感ぜられてならぬ。

 

事実文明はますます元気となり自然を圧迫し続けて居るのである。

 

アマゾンの大火災もさうして真珠貝の大量死も畢竟さうした元気過ぎる文明が齎す現在の様なのであり、其処で何故文明が元気過ぎるのかと言へば文學者や哲學者のやうに思ひ悩むことなくタダひたすらに突き進むマッドなサイエンティスト共がよりにより此の地球上でSF小説を今まさに書き進めて居るからだ。

 

 

然し、SF小説の結末にはロクなものが無ひぞ。

 

大抵は人類滅亡に至る其の混乱と悲劇とを描くものだ。

 

左様なSF小説ばかり読んだり書ひたりして居るとほんに病気になるぞよ、病気に。

 

 

其れは風邪引く位のものでは無ひぞよ。

 

第一、スマフォ、あればかりして居ると酷ひ病気にもなるさうです。

 

青少年はスマフォでもなく女でも無く山と哲學とに親しまずしてどうする?

 

 

わたくしのやうに深ーく思考をなしタダ一人で現代文明と向き合ってみよ。

 

 

てな訳で現代文明が仕出かして居る大問題のほとんどはより根本的な認識上の問題に直結して居り、また其の問題は宗教上の問題ともしかと繋がっておる。

 

のみならず文明の推進力としての科学技術の問題とも連なり結局は其の逆向きの要素としての言語による反省力、人文の知恵の方にも大いに関連して居る。

 

だが知恵とは云へ所詮其れも相対分別知なので根本のところでの人間の抱へる問題を解消し得るものでは無ひ。

 

なのだが神仏にひれ伏しこれまでのワタシは全部がバカでしたと、さう懺悔したりすることは出来やう。

 

しかも其れが女の胎の中へと最終的に連なっていく。

 

 

結局、其の相対分離を生んで居るのは女の胎である。

 

但し其の胎其のものを誰も否定出来ぬ。=子宮思考は誰も否定出来ぬ。

 

何故なら風邪引いて寝込んで居るときに母ちゃんが色んな滋養のある飯をば作って呉れることだらう。

 

其れを食わねば君は死ぬぞ。即死に至るのだぞよ。

 

 

と云ふやうな人間のなやみに就ひてのお話を今回はさせて頂きました。