目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「今を生きる」べきでは無ひ

禅やマインドフルネスなどで屡云われるのが「今を生きる」と云ふ概念です。

 

其れは究極としての苦悩の脱し方なのだと屡紹介されて居たりもします。

 

ですが、逆にわたくしは現代人は「今を生きる」べきではなひ、とさう捉へるのであります。

 

では何故「今を生きる」べきではなひのか?

 

 

ひとつには現代人には時の流れの感覚が薄ひか又はほとんど無ひからです。

 

其れは何故か?

 

勿論現代社会が忙し過ぎるからです。

 

現代社会が、此の忙しき毎日がさも当たり前のことであるかのやうに我我は信じ込んでいませうがこんなものはもう全く異常な状況であって人間らしいまとな生活であるとは間違っても言へませぬ。

 

ですから、其の現代社会とは異常、なのです。

 

其の異常を異常として受け取られぬ部分にこそ人間の危機が潜んで居やう。

 

 

なので理性的でもって諸に対し批判的な方、或は感度が鋭くて見へ過ぎちゃう方などはもっともっと現代社会に対し様々に提言されていかれるべき。

 

尤も近現代が異常な時間を生きて居ること位は皆良く知って居ることです。

 

 

言ふまでもなく人間の生きる時間とはもっともっと自然でゆったりとして居るべきものです。

 

 

第一おかしひと思われませぬか?

 

たとへばスポーツの世界では百分の一秒単位で其の速さを競ひ合ったりセンチメートル単位で飛んだ距離や投げた距離を競って居たりも致します。

 

でも其れってバカバカしひことでせう。

 

其の百分の五秒速くゴールに着き優勝したりすれば其の人は英雄で、逆にドベにでもなれば其れは国賊ぞとばかりに非難、罵倒の言葉が投げかけられる。

 

でも其れってバカバカしひことでせう。

 

 

其の価値観自体がバカバカしひと言ふことです。

 

 

其のバカバカしひ価値観の巨大な集積が現代文明の推進力として機能して居ると云ふことだ。

 

経済発展に於ける利益至上での価値観などもまさに其れと同じことで實にバカバカしひことです。

 

 

で、其のバカバカしひ価値観の巨大な集積であるところでの文明が好んで自然を破壊し宇宙を蹂躙し釈尊やイエス様の御言葉を顧みることなく何処までも「今」を続けやうとして躍起な訳です。

 

なんですが、勿論其れは間違って居ることなので自然と様々な難局に遭遇しやがてはにっちもさっちもいかなくなり現代文明は崩壊するに至る。

 

現代文明が崩壊すると云ふよりは現代文明を取り巻く環境の劣化や暴虐化、並びに人間の精神の劣化、即ち人間じゃないやうな心の持ち主=モンスター人間が次第次第に増へることにより機能停止するより他無くなると云ふ意味での崩壊でせう。

 

 

其の「今」は近現代が合理的に築き上げし今です。

 

近現代が齎す思想は歴史に學ぶことも無ければ、さらに未来への持続性に就ひて思ひを馳せ現在を反省すると云ふことすらもはや出来ませぬ。

 

つまりは其れは「今」この瞬間のみを生きて居ると云ふこととなりませう。

 

 

文明自体が今の栄誉、今の快楽、今の満足、今の持続、だけを乞ひ願ひ続けて来て居るのですから計画も何もあったものでは無ひ。

 

結局其の「今」が良ければ其れでイイ、と云ふ一種の刹那主義が近現代に於ける欲望の拡張主義を支へて来たのであります。

 

 

なんですが、確かに自然界も其の刹那主義でもって生きて居ります。

 

今、メスを捕へて其の腹の中に子を仕込む。

 

今、草食動物を食ひ殺しバリバリと其の肉を喰らふ。

 

今、お花の処へ飛んで行きチュウチュウと其の蜜を吸ふ。

 

其の今が無ひとそも自然界は成り立ってはいかぬ。

 

 

ですが其処で重要なことを忘れないで頂きたひ。

 

其れが人間は自然其のものを生きる生き物では無ひと云ふことだ。

 

 

結論から言へば人間は歴史より學ぶことで未来を規定していかねばならぬ生き物だ。

 

人間が本能の支配する世界である自然其のもののやうに振る舞へば其れは結局破壊を齎すだけのこととなる。

 

 

いえ、でも近現代の人間は理性的に振る舞って来た筈なのですが…。

 

いいや、断じて其れは理性では無ひ。

 

其は謂わば名ばかりの理性なのであり、理性的に見へて其の實は本能其のものと云ったウソコキ理性のことだ。

 

其のウソコキ理性、虚偽の理性は結局自己利益のことばかりを追ひ求めておる。

 

其処には理性など微塵も無ひ故結局全てを破壊する方向へしか舵をとることが出来ぬ。

 

 

宜しひですか、第一理性と云ふものは釈尊の説かれた法やイエス様の教への如くに大衆の常識とは正反対のことを述べられて居るものだ。

 

なのに現代文明は其の大衆の常識にこそ完全に迎合して居るではありませんか。

 

即ちより便利でもって豊かでしかも長生きがしたひ。

 

近現代の思想は此の大衆の素朴な願ひー實は本能其のものーに寄り添ふ形で進んで来た。

 

 

と云ふことは我我大衆が悪ひのですか?

 

大衆なんぞは皆死ねとさう仰るのですか?

 

まあ其処まで言っては居らぬ。

 

 

ただし現代社会とはある意味で大衆によるデシジョンが大きな決定権を持つ社会だとさう言ふておるばかり。

大衆其れも女の願ひ、即ち子宮思考が大きな決定権を持つに至った社会だと云ふことだ。

 

 

では其れが悪ひのですか?

 

おそらくは悪ひ。

 

世界大戦も環境破壊もまた大衆社会の成立や大衆に大きく決定権が与へられた社会構造とは無関係ではあるまひ。

 

 

左様に現代社会は「今」のみを観念的に生きて居る状況にある。

 

ところが「今」は本来ならば本能として生きねばならぬ。

 

其れも自然界の枠内でもってさうして居なければならぬ。

 

 

だから人間が人間界でもって観念的に本能を生きれば生きる程に世界は破壊されていくのが必定。

 

よって現在文明が抱へる大問題である持続不可能性は元より当たり前のこと。

 

実際幼稚園児でも分かりさうなことだが。

 

 

観念的に本能を生きる?

 

果たして其れはどう云ふことなのでせう。

 

 

だから其れが此の忙しさ、忙しなさを生んで居る大元での道理だ。

 

わたくしには今人間の社会がまさに観念的に本能を生きて居るかの如くに見へる。

 

観念的に生きられる本能は、個として生きられる本能の領域よりも遥かに大きく其の潜在的な破壊力も凄まじひ。

 

だから観念的に本能を生きるべきでは無ひ。

 

 

社会として生きるべきはむしろ理性であり抑制の方向である。

 

合理主義即ち科学技術至上主義では無くして人文の知恵、歴史の教訓から學び取るべき。

 

 

観念とは其のやうに人間にとりむしろ最も大事な属性なのだ。

 

考へずに生きよ、確かに其れは真理である。

 

苦を滅する為の真理なのだ。

 

 

だが今文明にとり必要なのはむしろ考へることだ。

 

其れも人文の領域より考へ直していかねばならぬ。

 

人文の領域には歴史も未来もあり「今」と今の満足だけでは無ひ。

 

 

歴史から學び直すことで今の欲望を制御し未来への持続可能性を切り拓いていかねばならぬ。

 

 

其の、良く言われて居るところでの「今を生きる」べきなのはむしろ個の方であり社会がこれまで通りに今ばかりを生きて居て其れでどうする?

 

そんな風に今ばかりを生きて居たのでアマゾンの方で大火災は起きるわ、また温暖化の影響で集中豪雨は頻発するわで、果たしてそんな体たらくで文明が維持出来るものなのか甚だ怪しひ。

 

むしろ此のままでは文明は存続出来ぬと見ておくのが正論と云ふべきもので、だから何故そんなことになったのかと云ふことをしかと考へ早う文明が仕出かしたことの尻拭ひをせよ。

 

 

平たく言へば文明とは自然の対極に位置するものだと云ふことが出来る。

 

個はまだしも自然には近ひのだとも言へやうが、こと文明ともなれば其れは自然とは真逆の観念性=社会的自我に寄り掛かり推進されていくものなのだ。

 

故に個と社会とは違ふ、そも性質が異なり其処で制御が効かなくなり破壊に勤しむのは決まって社会=文明の方なのだ。

 

 

其の文明が危うひものであるからこそわたくしはかうして其のことにつき論じて居るのだ。

 

観念的に本能を生きることで近代以降文明は様々な恩恵を社会に齎して来た。

我我はいつしか豊かとなりいつでもどこでも何かが食へいつでもどこでも快適に過ごせるやうにもなった。

 

但し其の豊かで便利で快適な様とは文明が大きく無理をすることでかろうじて成り立たせて居る現在なのだとする認識すら次第に薄れていく。

 

其処に浸り切り安住して居るのでいつの間にか其れが当たり前のこととなって仕舞ふ。

 

だが間違ひなく其処には犠牲があることだらう。

 

 

其の犠牲とはまずは自然のことだ。

 

さうして自然は文明により破壊し尽くされていくことだらう。

 

 

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さてこんなんで大丈夫ですか?

 

いや、大丈夫では無ひ。

 

大丈夫では無ひからこそ狂ったやうなことはもう止めて清く正しく美しく文明は歩むべきだとさう述べて居るばかりだ。

 

文明の其の価値観の誤りは今後より顕著な形でもって問題を生じやがて其れが我我の身に直接ふりかかって来ることであらう。

 

 

であるからして「今を生きる」べき云々では無くして如何に此の「今」を脱出するかと云ふ問題なのだ。

 

「今」の欲望に固執する文明の価値観を如何に抑へていくかと云ふ其ればかりでのことなのだ。

 

 

よって「今を生きる」と云ふ概念には重大な誤謬が含まれて居る。

 

まず、人間は所詮観念的動物だと云ふ視点が其処には欠けて居る。

 

観念的動物だから必然として過去や未来のことを気にする。

 

さうして其れが悪ひかと言へば別に悪くは無ひ。

 

然し其れは動物ー自然界ーにとっては悪ひ。

 

動物には過去や未来や死などに就ひてのハッキリとした意識が無ひ。

 

其れが分離ー分裂ーされては居ない故分からない、と云ふよりも分かる必要が無ひ。

 

なのだが人間の場合はむしろ其れをハッキリと自覚しておかねばならぬ。

 

 

自覚することでこそ全き社会が建設されやう筈なのだから。

 

勿論真理はさうした自覚ー自我ーと建設を否定する。

 

仏教にせよキリスト教にせよむしろさうした理性的な類での建設を無意味と見做すのだ。

 

何故か?

 

理性的な類での建設は常見の方に傾き易く其れ即ち欲望の温床となって仕舞ふからやがては利害対立ばかりが膨らみ其れこそ全的に破壊を齎さうからだ。

 

其処をあへて理性的に世界の抱へる大問題を何とかしていかうと云ふのがわたくしの提唱するところでの真の保守としての論理なのだ。

 

 

だから人間はむしろ大ひに夢見るべきなのであり、即ち未来や過去に思ひを馳せ理想の社会の建設に邁進していくべき。

 

但し其れはこれまでのやり方ではダメだ。

 

なんとなれば極度に観念化されし社会的自我を近代以降我我は生きて来た。

 

然し其の社会的自我には反省力が備わって居なかった。

 

逆に言へば前近代の歴史過程までは其の反省力の伴ふ社会を人間は生きて来て居たのだ。

 

近代以降の功利的かつ唯物的な価値観が其の反省力を悉く追ひやり「今」だけの快楽と便利さとを生み出す社会を築くに至る。

 

 

でも其れではダメだ、持続不可能な社会など其処で幾ら熱心に築ひたにせよダメなんだ。

 

ただし理性は、其れがたとへ人文の知恵と科学技術が融合した知の形であるにせよかの矛盾化された世界の改革者としての決定権を持つには及ばぬ筈。

 

平たく言へば世界の推進力は矛盾でありドロドロの様であるので其れを理性的に解決することがかなわぬのだ。

 

 

以上からも我は人間の観念的能力を否定する者には非ず。

 

むしろ大ひに悩むべきだと考へて居る。

 

社会こそが大ひに悩まねばならぬとさう捉へて居るのだ。

 

 

今社会の価値が無価値であるのは、まさにさうした理由での無価値ー破壊へと勤しむ価値ーなのであり無論のこと文明の意義なり意味なりを全否定するものでもなひ。

 

さうして大衆は地獄へ堕ちるなどとも言ったが、其れは其の破壊への無批判ばかりかむしろ大衆の次元に置ひて其の道理に気付かぬ様、むしろ破壊への片棒を担いで居る様を其のやうに批判したばかりでのことだ。

 

 

尤も我がさう述べる以前に宗教などは仏教にせよキリスト教にせよ欲望の追求ばかりに勤しむと必ずや地獄に堕ちるものと相場は決まっておる。

 

しかしながら其処で問題として捉へられる欲望の追求とは個に於ける瑣末な欲望の追求のことでは無ひ。

 

文明と言ふ社会的自我が追求する大欲望だけが其の対象物なのであり、さうした意味では大衆は地獄に堕ちやうと思っても堕ち切れぬものなのでさう心配したものでもなひ。

 

 

問題は我我が其の社会的自我にしかと組み込まれ、或は其れに洗脳された形での其の一員として毎日しかと役目を果たして居ることなのだ。

 

だから我我は地獄へはさうカンタンには堕ちぬが社会の一員として否応なく堕ちることもまたあると我はさう言うておるばかりなのだ。

 

 

たとへば戦争は誰もがイヤだ。

 

だが我我はかって其処に参加して居た。

 

イヤイヤながら参加するのが我我大衆だ。

 

対して個として反抗した人は皆牢屋行であった。

 

結局現代文明に関しても其れと同じことなのだ。

 

 

故に個としての理性を磨き社会に対しては常に距離を置く。

 

否定するのではなくして、其処に緩衝地帯としての理性的反省を個として加へる場を用意しておく。

 

其のやうな理性の形こそが或る種理想としての理性的立場ではなひか。

 

 

であるからしてわたくしは個としてのそれぞれにもっともっと理性を磨ひて頂きたひ。

 

理性を磨くことこそがわたくしにとっての「目覚め」なのであり其れは必ずしも宗教的自我に生きると云ふことでは無ひ。

 

わたくしはこれまでまさに其のことを貫徹して来た積もりだ。

 

其れは長く険しひ道程であったがかうしてわたくしは此処まで登り詰めて来た。

 

 

が、むしろ其の地点から見ゆるものとは理性の無力性と世界の持つ暴虐的な闘争本能ばかり。

 

其れでも尚且つ我我は観念と云ふ牢獄から去る訳にはゆかぬ。

 

我我は二重に分離されし運命を、其の定められし人間の歴史を築ひていく他は無ひ。

 

 

其の人間としての宿命こそが我我にとっての今である。

 

無論のこと其の今を離れ我我にとっての今に仕立て直しても良ひのではあるが。