ー対立の激化、それにアメリカと北朝鮮の核・ミサイル問題についての交渉の停滞や宇宙やサイバースペースを舞台にした新たな軍拡競争の激化などで世界的に軍事的な緊張が高まっているためだとしています。
また気候変動に対する各国の関心が低く、効果的な対策がとられていないことも人類にかつてない危機をもたらしているとしています。ー終末時計 残り「1分40秒」 これまでで最短 かつてない危機より
ー米科学誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」(「原子力科学者会報」の意味)が発表した。同誌のレイチェル・ブロンソン最高経営責任者は「世界の滅亡まで、時間でも分でもなく、秒単位だ。真の非常事態で、いささかの誤差や遅れも許されない状況だ」と危機感をあらわにした。ー終末時計「残り100秒」 20秒進み史上最短より
そも「世界終末時計」と云ふ概念其れ自体がおかしく實は「文明終末時計」と云ふ風にしなければなりません。
どだい地球又は世界は消滅などすることはなく何処までも破綻や滅亡を繰り返しつつ続ひていくことでせう。
問題は其処に縛り付けられて居ることが生命体にとりまさに苦であると云ふ状態にこそある。
ところが實は我我は其の生きると云ふこと自体を喜ばしひこと、何かとても楽しひこと、何度でも繰り返したひことであるかのやうに認識して居る。
仏法の立場では其れこそが顛倒した価値観だと述べられて居る。
其の生の上での苦を認識出来ぬ心理状態であること、乃至はキリスト教の場合には罪を自覚出来ぬ心理状態であることこそが悪魔に魅入られて居ると云ふこととなる。
なんですが、苦を認識しつつ生きることこそがまた悟りへも繋がり罪を自覚して生きることこそがまた神へと連なることでもある。
故に人間にとっては人生に絶望を抱き其れを苦や罪として認識することこそが大事だ。
わたくしが批判して居るものとは社会ですが最終的には其れは人間の其の認識其れ自体、価値観其れ自体を批判して居る訳です。
其のやうに「有る」ものには全て矛盾が生じ劣化します。
仏法から言へば其れが諸行無常となりキリスト教の教義から言へば其れが失楽園である状態のことです。
「有る」ものには下品な諸の欲が生じて居るので其れが理性ー純粋な心ーを乱し現象化して仕舞ひます。
また「有る」ものは實は無ひのであります。
本質的には其処に実体が無ひのでさうして現象化して居るのだ。
逆に在るものは実体化することは無ひ。
在るものには下品な諸の欲が生じやうが無くしかも元々無ひ。
在るものとは一応神仏だと捉へておくのが話がより分かり易くなる。
では無神論者の場合にはどうするのだ?
高次の理性体であるとか矛盾を超越した存在であるとかそんなことにでもして置けば宜しひ。
つまりは価値の最上位者のことなのですか?
いや、むしろ価値を設定しなひ者のことだ。
価値を設定しなひ概念のことだ。
すると神仏は所詮概念なのですか?
所詮概念ですよ。
苦を増大させる方か又は罪をより罪深くする方向性に対しての対概念こそが其の神仏なのだ。
いいかひ、概念と云ふものはだな、其れでの究極のところまで考へ抜き弐元性を生じさせていかねばならなひ。
よりクッキリと其の対立を顕わにし其処で其の矛盾から生ずる苦ー罪ーの内容を咀嚼しておかなければならなひ。
要するに其処にこそ苦しむ。
嗚呼、今まさにかうして罪深ひと其処にこそ十字を切る。
嗚呼、とんでもなく我は淫蕩でした。
とさう自らの獣性を反省せよ。
實は世界が滅ぶかどうかなどと云ふことは我我の知ったことでは無ひ。
元々世界は滅ぶに決まって居るので其処へかうして来て仕舞って居る自分が悪ひのだ。
いや今問われて居る問題はさうでは無く文明が滅ぶかどうかと云ふことであった。
だが心配は要らなひ。
文明は2050年位までは何とか持つ。
其の代わりに其れまでの其の三十年間が意外と苦しくならう。
これまでに考へられて居たことよりも破壊の度が酷ひので必然的に我我はより苦しくならう。
文明は何故自己矛盾するかと云ふことであるが其れは人間がデカひ欲望としてのケモノの道をあへて突き進んで来たからのことだ。
結論的に言へば我我は抽象的に欲望を解放し過ぎて来たのだ。
其の抽象的な欲望と具象的な世界とのバランスの欠如が今我我にかうした危機を齎して居るのだ。
では我我は今何を為すべきなのですか?
1.お勉強
2.世捨て
3.女嫌ひ
へとたとへば走るべきだらう。
此れ等の要件を精密に履行していくとやがてマニアックな心理段階へと必然的に至らう。
事実マニアは其の分野でのお勉強が大好きでしかも出世や権威権勢などにはまるで縁が無ひものと来てる。
さらに女にもモテなひ。
むしろ其れが最高の価値の低俗化だ。
そんな低俗でも良ひので?
良ひ、むしろ低俗で充分、低俗でありがたう、だ。
なんとなれば高尚なものほど苦しひものだ。
高尚なもの程何でも苦しひのだ。
漱石は萬年筆の愛好者であったにも関わらず万年筆の蒐集をバカにしておりましたがたとへば其処をどうお考へなので?
漱石は近代文明を否定しつつ万年筆やら洋服やらの愛用者でもまたあった訳なのだから其処でそも矛盾して居やう。
さうして人間は矛盾して行かざるを得なひ。
なので人間はどんなに偉ひ人でも皆バカでアホでマヌケで能足りんなのだ。
其の事実に気付くと自己を反省することが出来るやうになる。
さうして其のバカでアホでマヌケで能足りんの人間が徒党を組む=社会化するともうロクなことにはならぬものと其処に即座に了解されやう。
実際同じ社会化するなら宗教の方がまだずっとマシなのだ。
其の宗教に走るのだとして、宗教団体へ入るのと独りでマニアックに追求していくのとではどちらがより理想的なのでせう?
後者である。
残りの生涯の全てを仏法か又は聖書の研究に費やしくれぐれも現代の情報過多に調教されおバカ化などされぬやうに。
だが我我は今環境破壊をさうして地球温暖化を食ひ止めなければならぬ筈だ!
いや、別に其れは我我の使命などでは無ひ。
あくまで其れは文明の側の課題だ。
だが文明は畢竟其れを食ひ止めることなど出来ぬ。
何故なら文明の其の心掛けが悪ひからだ。
だからバカにしつつ眺めて居るだけで良ひ。
其れも全否定しつつ眺めてやって欲しひ。
かの芥川のやうに皮肉を込めて且つ冷笑しつつ。
アンタはいつもさう冷めた心で言ふが何よりおまへ自身が其の文明の享受者ではなかったか。
其れはさうだ。
でも芥川でも漱石でも其れは皆同じだらう。
享受はして居てもかうして其れは違ふぞとさう言って居ること自体が謂はば大事なことなのだ。
そも「文明終末時計」には意味が無ひのだと言へやう。
謂わば其れは自然科学による自虐的歴史史観なのだ。
では何故かうして我我は自らの滅亡をさへ予測するやうになったのか。
勿論其れは其の予測すること其れ自体が人間の癖だと云ふことに尽きて居やう。
さうかうして人間は予測される未来をこそ今抽象的に生きて居るのだ。
文明はさうして生の具体性を葬り去ろうと画策して御座る。
ならば我我に残された未来とは一体何か。
其処では一体どんな未来が待ち受けて居ると云ふのか。
畢竟其れは其の抽象性の追求の果ての悶絶死であらう。
抽象性の檻が其処かしこを雁字搦めとなした上で未来へと続く自己矛盾としての大伽藍を構築するのだ。
好むと好まざるとに関わらず我我は今其の大伽藍のさ中にこそ在る。