目覚めよ!

文明批判と心の探求と

心の中での森林火災の鎮火の仕方

ー1月第2週の時点で、オーストラリアの歴史で最悪の状況となったこの森林火災は、10万平方kmの土地を焼き、27人の命を奪い、2000軒の住宅を焼失させた。動物は10億匹が死亡したとみられる。

 

オーストラリアの火災のほとんどは自然発火が原因だが、アマゾンなど近年の他の主要な山火事と同様に、気候変動の影響を受けていると思われる。

大気中の二酸化炭素濃度の増加は気温を上昇させ、暑く乾燥した天気や、長い干ばつ、蒸発率の上昇につながっている。これらの条件が、森林火災のリスクを上げている。

もちろん、問題はオーストラリアに限らない。カリフォルニア州は2018年に史上最悪の山火事を経験し、2019年のシベリアの森林火災では2万6000平方kmが焼失した。

森林火災は、温室効果ガスを大気中に排出することで、さらなる気候変動をもたらすだろう。

 

エクセター大学の地理学のリチャード・ベッツ(Richard Betts)教授はThe Guardianに、「世界の気候が産業革命前より摂氏3度上がったら、オーストラリアの森林火災のような極端な出来事が当たり前に起こるようになる」と語った。世界の平均が1.1度の上昇に対し、オーストラリアの平均気温は1.4度上がっている。

「未来の世界がどうなるかを示している。気温が3度上昇した世界では何が当たり前になるか、我々はその兆候を見ている」とベッツ教授は述べた。ーオーストラリアの火災、煙が国土の70%を覆う…宇宙ステーションからの最新の写真より

 

 

此処での最も恐ろしひ部分は今後世界中で森林火災が起こり生態系が壊滅する虞があると云った部分であらう。

かうした大問題が頻発していくのが21世紀が問題として抱へることだらう世界的な環境の劣化の問題だ。

 

畢竟其の劣化は人為的なものだと考へられやう。

 

さうした人為的なものではなく二酸化炭素地球温暖化には関与して居なひとする説もまた一方にはある訳なのだが。

 

だが究極的には全ての責任は人間の行為に帰する。

 

其れも人間を生じて仕舞ふ世界の側にあるのではなく世界を創っている人間の心の側にあるのだ。

 

 

たとへばキリスト教の立場で此の破壊過程を説明すれば其れは人間が神の意図に背き諸の欲望と云ふ悪魔に捉へられて仕舞ふー心を汚して居るーからこそさうして失楽園としての劣化世界を生きて行かざるを得なくなる。

 

 

佛教の場合は現象としてより根本的に其の劣化を捉へる。

 

つまりは人間の煩悩が其の劣化過程を生じせしめて居るとさう捉へるのだ。

 

即ち娑婆世界ー必然的に劣化するに至る悪ひ世界ーを生じせしめて居るのは他ならぬ己の煩悩だ。

 

故に心を清くするつまりは煩悩を滅却することにより此の不完全で且つ苦に満ちた世界を離れていかうとする。

 

 

其処で注意して頂きたひのは共に其の世界の劣化其のものをどうこうのしやうとはして居なひと云ふ事実なのだ。

 

 

何故なら究極的にはキリスト教では此の世は一度滅ぶ必要がありむしろ其のことにより神の王国としての天国の再生が成就されやう筈。

 

佛教はハナから客観的に現象する世界など問題にしては居らずむしろ其の客体を生じさせて仕舞ふ虚としての主体=自我の方を消し去る修行を其処に積み重ねていくのみ。

 

 

また重要なことは共に世界ー客体ーを良くしやうなどとは思って居なひ点なのだ。

 

あくまで其れも本質的にはさうだと云ふことである。

 

尤も表面的には教会でもお寺でも世界への愛や感謝が説かれ世界中が皆仲良くしていきませうなどと屡説かれたりもしていやうが。

 

 

では科学の立場ではどうなのか。

 

特に自然科学の場合には今のところは客体世界が全てなので予想される未来はほぼ絶望的なものと必然的にもさうならう。

 

社会科学や人文科学の場合には不確定な要素や心理的要素が其処に入り込むが故に必ずしも絶望に傾くばかりでもなひことだらう。

 

どだい文學は主観的事実を述べる場なので、其れこそ絶滅を目の前にして楽観論を滔々と述べ続けて居たにせよ其れは其れでひとつの文學の成立となる。

 

さうした虚構性の入り込む場なので結果としてはむしろ宗教などの概念規定の方により近ひ訳だ。

 

 

さて以上の説明にてすでにお分かりのことかと思われるがもはや宗教を選び取るしか無ひ段階へといつの間にか我我人類は歩んで来て仕舞って居るのだ。

 

即ちすでに其処にしか救ひを見ひ出すことの出来ぬ段階へとかうして至って仕舞った。

 

 

尤も宗教なんて嫌ひだと云ふ人は宗教には頼らず御自分の考へを構築して頂ひてもまた良ひ訳だ。

 

ところがどんなに理窟を捏ね回してもなかなか此の客観的事実を跳ね返すだけの力を持つ理論は創出されぬものだ。

 

ちなみにわたくし自身に限ればこのところ具象性と抽象性と云ふ概念の持つ対義的な性質につきずっと考へ続けて来た。

 

 

其処でまずは抽象的に規定される欲望が世界の具象性を根本的に葬り去らうとして居ると考へてみたのだ。

抽象的に規定される欲望は度を超すとさうして必ずや破滅を齎すのである。

 

抽象的に規定される欲望とはまず機械力である。

無論のこと此れは道具の力が進歩したものだ。

 

次に情報の力が其処に加わる。

此れは言葉の力が進歩したものだ。

 

 

おそらくは此の二重の進歩により現代社会の価値観が全的に抽象化されるに及んだのだ。

 

其の価値観の抽象化は果たして何を齎すのか。

結局は其の価値の抽象化こそが自然破壊を招ひて来て居るのではなひだらうか。

 

ひいては社会の劣化を引き起こして来て居るのではなひか。

 

 

高望み、まさに高望みの態。

 

さうして人間は分不相応な高望みをし過ぎて来たのでなかったか。

 

むしろ其れを抑へるのが宗教の役割でもあった筈なのだが。

 

 

だが宗教こそが其の抽象的概念でもまたあらう。

 

なので宗教其のものもさうして自己矛盾に陥るのだ。

 

 

其の価値観の抽象化は神へと至る道などでは無く結局自らを壊すに至る道程のことだ。

 

だが其れを今や誰も考へはしなひ。

 

 

尤も幾ら考へても有効な処方箋が出せぬことを考えぬことはある意味理に適っても居やう。

 

但し其の無思考には二種のあり方がある。

 

ひとつには思考を放棄し堕することであり、いまひとつは思考を神又は佛へと奉じ昇華させることだ。

 

 

只思考を放棄するのであれば其れは即獣化すると云ふことであり謂わば其処に原始退行を伴ふと云ふことにしかならぬ。

思考を神又は佛へと奉じ其処に抽象的に規定されることだらう楽園を築く。

 

事実上はまさに其れしかなひのではなからうか。

 

実際にはもうひとつ方法があり抽象的思考をあへて重ねることで次第に人間離れしていくことだ。

 

現代文明は此の第三の方法をあへて選択して居るのだとも言へやう。

 

即ち科学技術の齎す抽象的な幸福を具現化することで人間に与へられし抽象性を永遠に擁護していかうとして御座る。

 

 

いずれにせよ其の人間による抽象性の履行の部分こそが鍵だ。

 

たとへば禅宗では観念による概念構築を極端に嫌ふが其れは何故か?

 

観念による概念構築は決まって幸福の絶対化を図ることだらう。

 

 

即ち価値のヒエラルキー化を画策するのだ。

 

だが価値とは本来ならば相対化されしものだ。

 

即ち幸福度其のものの絶対化などは出来ぬ相談だ。

 

何故なら同価値の環境に置かれたにせよ人それぞれに幸福度はまちまちなのが実相なのだ。

 

 

其の硬直した価値のヒエラルキー化により社会的に豊かな國と貧しひ國、また進んだ國と遅れた國、金持ちと貧乏、高学歴と低学歴と云ふやうに二極化が進んで仕舞ふ。

 

さて其れでは其処に宗教的な要素を加へてみやう。

 

勿論宗教ではそんな格差などそも認めて居なひのだし事実其処ではどんな人でも救われるとさう説かれて居るのである。

 

つまり其処に神仏による幸福度としての絶対化が成る。

 

 

以上より観念による概念構築は決まって幸福の絶対化を画策するが其れは成らず其処にもしも幸福の絶対化を成らしめるのであれば宗教の領域に於ひてより他は無ひことが了解されやう。

 

科学技術の齎す抽象的な幸福とは所詮観念上の願望なのであり、其れは所謂魂の叫びとしての心の奥底から発せられし希求とは自ずと異なるものであらう。

 

 

よってむしろ観念を滅するところにこそ絶対的な幸福の世界が拡がって居るのやもしれぬ。

 

 

 

以上のことから、

1.客体世界は変わりやうが無く

2.抽象的な幸福こそが人間の幸福となるが抽象性な真の幸福とは宗教的にのみ規定され得ること

3.科学技術の齎す抽象的な幸福とは原始退行化せしもので其れは人間の獣性をのみ満足させること

4.禅宗が観念性を否定してかかるのは抽象的な欲望の地獄に堕ちぬやうにする為のこと

 

との結論が導き出され結局我我が今為さねばならぬことは近現代に於ける価値ヒエラルキーへの従順では無く反抗であり、其の逆に今我我が屈せねばならぬものとは自己の信念などでは無く自己の魂を救済するに足る宗教的原理への接近である。

 

 

かようにもはや世界は火だるまと化して居り結局其れは何が燃へて居るのかと言ふに人間の欲其れも邪な欲其れ自体がさうして燃へ盛って居るのだ。

 

其の邪欲とはつまりは社会的な欲のことだ。

 

尤も根本のところでは個に於ける諸の欲もまた森林火災へと連なる欲である。

 

が、我我は欲を制御する力には元々欠けて居らう。

 

 

欠けて居るからこそかうして此処に現象化して居るのだ。

 

尤も其の現象に胡坐をかひて居ると世界は次第に劣化しまさに火だるまと化していかう。

 

故に自己批判と自己抑制こそが其処に求められて居やう。

 

 

だが低級な我我には元々自己批判や抑制が出来やせぬ。

ではどうしたら良ひのか?

 

欲望を解放する其の場自体を自ら変へていくべきだ。

 

これまでは抽象的に社会的な価値の構築をこそ考へて居たが其の価値観こそは誤りであった。

 

 

むしろこれからは社会的な無価値であることこそを目指さう。

 

でも其れでは空虚だ、折角此の世に生まれて来し甲斐が無ひ。

 

 

其の此の世に生まれし甲斐が無ひことをこそ指し示したのが諸の文學上での成果である。

 

なので其れにこそつき従ひこれからは皆が下らぬことへの消費を旨として生きていくことこそがより望ましひことだらう。

 

即ち社会的に無価値であることこそがむしろ大きな価値を生んでいくのだ。

 

 

ではかのグレタさんのやうな環境保護活動は無価値なのですか?

 

環境保護活動は其の無価値を目指す為のひとつの価値である。

 

心理的な生の無価値の是認=受け容れを目指す為には無価値を目指す為の価値の集積こそが是非必要とならう。

 

 

では具象的に構築されし人間の価値は全て認められるのか?

具象的に構築されし人間の価値、たとへば食欲だとか物欲だのにはさほど抽象性が含まれて居らずよって其れによる破壊力は必然として小さくもならう。

 

だがたとへば👩に唆されて地位や名誉又は権威権勢などと云ふ大きな社会的欲を求めるやうになればなる程に人間の心は乱れ穢れ切っていくものと相場は決まって居やう。

 

 

ではズバリ性欲はどうなのか?

おそらくは最もヤバひ欲であらう。

 

性欲を抑へることなど基本的に動物には出来なひ。

 

もしや抑へることが可能であるとすれば其れは人間に於ひてのみ。

 

性欲を抑へることがもし出来ればかうした劣化する世界には二度と生まれて来なくて良くなることだらう可能性が高く存する。

 

いずれにせよ我我はそんな自らの欲望の結果と今まさに向き合って居るのだ。

 

 

かうして燃へて居る。

 

燃へて居るぞ、世界がさうして燃え盛って居る。

 

嗚呼、仕舞った。

 

我もまた燃へて仕舞って居た。

 

 

燃へ盛ることが良ひことだとさう社会に諭され思ひ込んで居た。

 

だが違ふぞ、違ふ。

 

一緒になって燃へるのでは無く是非鎮火しやう。

 

 

煩悩の焔をかうしてふっと吹き消すのだ。

 

其の煩悩の焔は他ごとをして鎮火する他は無し。

 

 

他ごとにはマニアックな追求が皆含まれて居る。

 

尤も本来ならば其は含まては居らず。

 

本来ならば人間は皆無一物。

 

 

だが社会は欲しがる。

 

兎に角欲しがるのだ、其の大きく抽象化されし幸福の形を。

 

 

だから其れには背を向け何処までも歩んでいくのだ。

 

常に具象的な欲望を携へかうして社会に反旗を翻すのだ。