目覚めよ!

文明批判と心の探求と

どうも文明はウソコキだー「ほんたうへの幻想」=共同幻想=「ウソコキ」ー

さて、其れでは人間存在の抱へる自己矛盾的な精神のあり方に就き本日は考へて行くことと致してみませう。

さうして其れは此処一年程わたくしがことあることに述べて来た「価値観」の持ち方に於ける問題なのでもまたある。

 


まず人間とは何かと云ふ時代を超越する普遍的な問ひに就ひてですが、結局其れは抽象的意思なのだとさう規定すべきことかと思はれます。

では其の抽象的意思がどんな価値観を持ち得るのかと言ふことですが、畢竟其れは抽象的価値しか持ち得ぬものでありよしんば具象的価値に気付くことはあっても其の方にはまるで魅力を感じにくひ、つまりは其れを大した価値には思へなくなるやうな基礎認識を有する意思だと云ふことが言へることかと思ふ。

 


だったら何処が抽象的価値なんですか?

かうして妻も子も爺ちゃんや婆ちゃんもまた町内会やお寺さんもましてや会社も國も亜細亜欧羅巴もさうして地球其のものがみんな今此処にあるものでほんたうのものですが。

 


ほんたう?

今君の述べた其のほんたうとは何だ?

所詮其れは君の「ほんたうへの幻想」であるに過ぎぬことだらう。

 


でもかうしてコロナ解放を祝ひ👪でもってしてうな丼を頼みましたところうな丼が四つ来其の代金一万二千円をたった今デリバリーの兄ちゃんに払ひましたところですが其の金こそが痛みを伴ふほんたうの出費ではありませぬか?

 


其の金は然しおまへの金では無ひ筈だ。

あくまで其れは社会が抽象的に規定し価値であり即ち経済的価値であり其れは為替ルートの変動だの不況だのまた頼む丼物の違ひなどで幾らでも即ち無限に変はり得る不確か且つ「ウソコキ」での価値のことだ。

 


おまへはもしやそんな「ウソコキ」の価値におまへ自身の心と全価値を預けて来て居たのか!

もはやおまへなどは人間では無ひ。

おまへは人間以下の🐵だ、🐶だ、🐒だ🐕だ。

 


此の馬鹿者めがいつもさうして走り回っておれ、其の精神としての無明の荒野を。

 

 

 

でもアンタの言ふことは全部頭がおかしひ。

事實金は此処にあるし不細工な妻が居て成績がオール壱の子なども居りますが。

 


待て待て、其れも是非疑っておくべきだぞ。

ほんたうに其れは不細工妻なのか?さうして出来の悪ひ子なのか?

 


もしや其れは社会がさう規定したばかりでの価値ではなひのか?

其れも婚姻届けだの住民登録だのをし、尚且つ家を建てたり学校へ入れたりさうして社会的抽象的な手続きによりさうなって居るばかりにて一体何処におまへのほんたうの妻子が居ると云ふのだ。

 


ちゃんとかうして實存的に居りますよ。

其れも勿論明日になれば消へてる訳では御座らぬ。

ちゃんとかうして縛られて居りますよ、養育及び扶助の義務をしかと課せられて。

 


だから其れが抽象的だと言っておるのだ。

たとへば🐕や🐈のオスはやり逃げして養育及び扶助の義務などまるで負はぬものだぞ。

 


あれ、まさにさうだった。

よりによって何でワシはまさに今こんなとこに縛り付けられて居るのだらう?

 

 

 

で、おまへは会社に行って居るな?


ヘヒ、さうです、働かないと何処からも一銭も出ぬ故にです。

 


其の会社もまた町内会ものみならず國家も人間の社会的営為は須らく抽象的にさう規定されしものだ。

つまり其れは自己幻想の範疇のものでは無く共同幻想による価値観でのものだ。

 


かの吉本 隆明によれば共同幻想による価値観は自己を幽霊化して行かざるを得ぬ。

むしろ其の社会的関係其のものによる自己疎外、個としての社会的疎外を甘んじて受けさうして自己實現の叶はぬ圧迫されし自我を生きて行かざるを得ぬ。

 

 

 

果たしてそんなに難しひ話なのでせうか?

要するにガマンして会社へ行ってこき使はれることでご褒美にお金を貰ひ其れでもって妻子を養育して居るだけの話なのですが其れの何処が一体問題なのですか?

 


即ち其れは抽象性が高く設定されし価値だ。

抽象性が高く設定されし価値は壊れることも實はまた容易だ。

 


今回のやうなコロナ苦、また今後の温暖化による肉体的被害、さらに生態系の破壊による食糧難と飢饉により實は容易に崩壊するのが其の抽象的価値其のものだらう?

 


ではやり逃げだけして家や妻子はもう持つなとさう仰るので?

其れは然し社会の価値観への反逆であり否定であり放棄の様ですよ!

 


だが理論的にはまさにあくまでさうだ。

 


会社も町内会も國家も全部否定し放棄せよとさう仰るので?

 


たとへ詩人でもこれまでにソコまで過激なことを言った人など居なひ筈だが其処をあへてさう仰るのか?


ー理論的にはまさにあくまでさうだ。

 

 

 

「ほんたうへの幻想」=「ウソコキ」の価値に自ら尻尾を振りつつ個としての価値観の構築にとり大切な自己幻想域を否定され汚されてはならぬとさう言ふておるのだよ。

 


社会が抽象的に規定し価値とは所詮は其の本質が「ウソコキ」だ。

即ち虚の価値、虚構性に於ひて成立するであらう社会化されし全価値なのだ。

 


つまり現代社会は全的に其の虚構性を生きて御座る。

其処を養老先生の考へ方でもって言へば「脳化」されし価値観でありハラリ氏の言葉でもって言へば「虚構性」による歴史的意義ー価値ーの構築となる。

わたくしの言葉に置き換へると其れは価値の「抽象化」と言ふことだ。

 

 

 

何だか凄ひな。

 


いや、お世辞は要らぬ。

わたくしは普通にして居るだけでかうして世界の知の巨人と何故か思考のネットワークにて繋がって仕舞ふやうなのだ。

 


つまりいつの間にか世界の知性と同じことを言って居ることにしかと気付くのだ。

尚わたくしの考へでは「抽象化」の過程を合理化過程として捉へ近現代其のものが其の合理化推進の為の時代なのだとさう捉へる訳だ。

 


でだからこそワシの妻子の価値や会社の価値や町内会の価値や國家の価値が皆ウソコキでもってもーど-でも良ひやうなものだとさう仰りたひので?

 


あくまで理論的にはど-でも良ひ。

全体論的につまりは包括的にまた俯瞰的に人間存在の価値としての眞理を其処に探究した場合にはさう規定されて行かざるを得ぬ訳だ。

 

 

 

其の「ほんたうへの幻想」=「ウソコキ」とは罪でせうや?

あくまで宗教的には罪とならざるを得ぬ。

 


だが宗教にはまた二種類がある。

即ちほんたうの教へと世俗の為の教へとの其の二種類が。

 


かってのオウム教などはどちらですか?

ほんたうの教への方へと寄らうとした邪教だったのだと申す他は無ひ。

 


世俗の為の教へではたとへばsexを禁止しなひのだが其れは何故かと云ふと子孫が絶たれた場合宗教教団がもはや存続出来なくならうからだ。

だがほんたうの教へでは無論のこと其れは禁止されやう。

 


ほんたうの教へでは社会性は須らく絶たれて行くとさう近年わたくしは理解するに及んだ。

即ち宗教団体として諸の社会活動をするのでは無く「神」其のものと繋がるか「佛」其のものを指向するものがほんたうの宗教的次元なのだ。

 


つまるところ其処では社会のウソコキを無視しつつ歩まざるを得ぬ。

要するに自己幻想としての延長線上にある精神的格闘こそがほんたうの教へを理解する契機ともなる筈だ。

 

 

 

尚、現在わたくしは佛教及びキリスト教には眞理が存するとさう理解して居る。

何故なら釈迦の非社会性とキリストの反社会性はまさに当時似た者同士でもまたあった訳で、其ればかりか常識=世俗の価値観=ウソコキとしての抽象的価値観に対し眞逆ー正反対ーなのも實は御二方共まるで同じなのであった。

即ち聖人としての同類項が余りにも多く散見されしかも同じやうに「人類を救おふ」とさう思はれておったのだった。

 


但し違ひはある、其れは先に述べしやうに最終的に抽象的現在への対処のし方の違ひー処方の仕方の違ひーとして現れて居りキリストの場合には抽象的現在を全否定しむしろ具象的に抽象性を一次元高めた上での人間存在の永遠性を獲得して行くことから「有」の救済を實現し佛陀の場合は抽象的現在其のものの抹消=涅槃としての人間存在の「無」の救済を目指して行く。

 


だが其れは所詮対概念としての有無なのだ。

まあキリスト様の教へが女であるのならば佛様の教への方は男であったと云ふやうなものなのだらう。

 


尚女性にとっては明らかにキリスト教の方が向ひて居るとでも言ふか少なくとも理解はし易ひことかと思はれる。

両宗教に於ける本質的抽象度はむしろ佛教の方がより高くあらう筈だ。

 


勿論其れはほんたうの教へ=釈迦の佛教に於ひてのことで世俗の為の教へとしての浄土教などはむしろキリスト教の亜流でもまたある訳なので其れこそ女性にも向ひて居らう。

 

 

 

尚「ほんたうへの幻想」=「ウソコキ」とは人間の社会的営為つまり歴史規定其のものがさう陥らざるを得ぬ本質的性質なのでもはや何をやっても社会的営為が其処に救はれることなどは無く要するに文明がドンドン歴史を進めて行くにせよ其れがどうにかなる訳ではなく本質的にはむしろドンドン悪くなっても行かう。

 


つまるところ人間の社会的営為は其の「ほんたうへの幻想」=「ウソコキ」=共同幻想からはどうしたって実際逃れられぬ。

 


なので「ほんたうへの幻想」=「ウソコキ」=共同幻想を如何にして壊して行くか、其の幻想性=ウソ振りを如何にして具象化し其の元凶である地獄としての抽象的現在より脱け出すかと云ふところにこそ知恵ー理性ーを使って行くのがほんたうの智慧の使ひ方であり理性としてのあり方なのだ。

 


即ち理性とは反対のものを見る働きのことだ。

だが理性が文明の営為と同調して居るやうでは其れは「ほんたうへの幻想」の理性であるに過ぎず且つ「ウソコキ」の理性であるに過ぎぬ。

 

 

 

釈迦はまたキリストは其の理性を理性通りに即ちほんたうの価値へと使はれた唯一対としての人類なのだ。

即ち社会としての共同幻想は世界を何処までも虚なる価値にて充たして行かうとすることだらう。

 


だが社会は我我個の為に存在し我我個を幸福たらしめる為にこそ存在して居る筈だが。

 


さうでは無ひ。

社会とは人間であり、人間とは悪である。

 


悪は人間を幸福へと導かずむしろ不幸へと導くもの其のものだ。

 


極端な思想だ。

いや、極端では無ひ。

 


当時釈迦はまたキリストの思想は世の人々には受け容れ難ひものであった。

何故なら御二方が世間とは眞逆の価値観に就ひて語られ始めたからなのだった。

 


其の価値観の中には明らかに社会を否定する要素さへもが入って居た。

だからこそ為政者はまた民衆は当初其の思想を其の侭に受け容れることはなかった。

 

 

 

だが結果的に其の逆の思想こそ世に受け容れられて行った。

何故なら其の逆の考へこそが眞理だからなのだ。

 


と云ふことは眞理とはウソコキとは逆の価値なのですか?

 


さうだ、ぜんぶがむしろ逆の価値なのだ。

さうか社会の奉ずる「ほんたうへの幻想」=「ウソコキ」=共同幻想とは眞逆の価値なのか。

 

 

 

だがどうもアンタの言ふことは全部頭がおかしひ。

其れではまるでオウム教のやうなことになって仕舞ふではなひか。

 


いや、オウム教とはまるで無縁じゃ。

邪教とは無縁にてまさしく此れぞ眞理への道ぞ。

 

 

 

結論としては、人間は社会的な価値をむしろ選択的に限定していくべきだ。

 


たとへばたとへロボットやアンドロイド社会となっても其れを認めず閉じ籠りにでもなって置く方がまだしもまともだ。

たとへばリニヤ鉄道にて五百キロで移動するより自転車にて其の辺を走り回ることの方がより有意義だ。

 


たとへば合理化された不倫や援交にハマる位ならじぶんが女性化してオカマでもやってる方がナンボかまともだ。

兎に角其の抽象的な限定の価値の解除には一切関はるな。

 


パソコンにも関はるなと?またアマゾンにも関はるなと?

其れ等はむしろ原始的な電脳領域だらう?

 


今後の電脳領域はより一層合理化され個に対する洗脳を次々となして行くことだらう。

 

 

 

わたくしは今むしろ新たな分野での抽象性に対する危惧では無く近代三百年による破壊により世は滅びかけて居るとさう捉へて来ても居る。

其れ即ちすでにダメなんであるが、洗脳されし現代人の鈍感振りでは其の破壊にまるで気付けぬのだとさうも思ふ。

 


其の大衆の鈍感さにせよ新たな問題では無くむしろ近代全体としての問題なのだ。

 


いずれにせよ現状でも充分過ぎる程に「ほんたうへの幻想」=「ウソコキ」=共同幻想としての価値観に我我は浸り切って居る訳だ。

であるからこそわたくしは其れ等の具体例としての抽象性のひとつひとつにつき此れ迄批判して来た。

 


其の合理化されし反省無き嘘の様をかうして日々糾弾し続けて来たのだった。

 

 

 

かうして本質としての人間の社会的営為が文明としての破壊を生み出さざるを得ぬのであるから文明が滅びることはむしろ必至であり要するに此の侭社会に従って居ればインテリであるか馬鹿であるかに関はらず我我は等しく沈没して行かざるを得ぬことだらう。

だが其のことを予知したり又は系統立てて考へることが出来るのはまさに一握りの知性だけなのであり此のブログこそが其のひとつの知性としての文明の悪との闘争の様を描くものなのだ。

 

 

 

人類はもはや手遅れですか?

おそらく其の人類の癖としての抽象性には有効期限のやうなものがあるのやもしれぬ。

 


我我はもはや長く其の抽象性をつまりは「ほんたうへの幻想」=「ウソコキ」=共同幻想の様を続けて来ても居やう。

要するに五千年程も其れを続けて来た訳だ。

 


其の五千年分の抽象度の積み重ねこそが我我をしてかうも圧迫し不安定な社会の状況を生み出して来て居るのだと言へやう。

 


さて其の抽象性による進歩其れ自体よりも最近わたくしにとり気にかかって来て居ることはズバリ此の気候の不安定さのことだ。

つひ先日までは快晴の其れこそ陽光溢れる暑ひ日々が続ひて居たのだったが昨日今日とまるで梅雨の日々のやうでしかも気温が低ひ。

 


どうも其処にこそ人類の存続を握る鍵があるやうな気がしてならぬのだ。

或は文明がまさに具象的に地球の気候を壊して仕舞ったやうな気がどうしても其処でして居る。

 


わたくしは論理だけでは無くそちらの面での具象的な直感もまた働くので其の部分こそがどうにも気になって仕方が無ひのだ。