目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

イエス・キリストによる社会への謀反

薬師丸ひろ子、事実婚夫と地方移住 両親は近所の別荘暮らし

ひろ子ちゃんはお利口、こんな具合に出来るものなら都会からは逃げ出しませう。

都会の文明は正直これから何が起きるか分かりません。

 

ー「都会に住むということに、こんなに大きなリスクがあるとは思いませんでした。リモートで仕事ができる環境も整ってきたし、月に何度か東京に出てくれば充分に仕事は続けられる。住みやすい地方の物件を本気で探しています」(40代フリーランス女性)

「田舎で暮らす80代の両親のことが気になるのに、感染症を防ぐため、東京の人は地方に行くことができません。いま倒れられたら、死に目にも会えないのではないかと、気が気でないです。こんなことなら夫の退職を機に、住み慣れた地元に帰っておけばよかった」(60代主婦)ー以上より

 

 

カメラが捉えなければ、誰も信じなかったでしょう。動物の助け合いのシーン

此のやうに動物とて本能による弱肉強食の世界のみで生きて居るのでは無ひ。

其の意味ではまさに世界は複雑なのだ。

 

此処からしても動物に理性は無く本能だけしか其処には無ひと云ふ二元論は實は誤りなのだ。

但し動物の場合には其の理性が常に限定されて居やう。

 

個としての生命現象には双極としての二つの価値観が常に突き付けられて居る。

まさに其れが生死である。

 

自然界ではまさに食ふか食はれるかのことなので、生きることとは死ぬることで、また死ぬることこそが生きることだ。

其処での其の生死は常に待った無しにさう突き付けられて居る。

 

まさに其れが具象的現在の様である。

具象的現在とは言はば待った無しに突き付けられて居る価値の矛盾のことであらう。

 

即ち個は誰しも生きたひ。

生きるとは個を存続させ増へることである。

より生存としての領域を此の世に拡げじぶんの眷属をのさばらせて行くことである。

 

みんな此の世にじぶんの血肉を擦り付け其処に兎に角影響力を持って居たひ。

 

さうしてメスを追ひかけ此の世のボスとなり何でもやりたひ放題にやってみたひ。

 

ところが實は人間でも其れは同じことで、みんなはさうしてメスを追ひかけ此の世のボスとなり何でもやりたひ放題にやってみたひ。

 

即ち其の差は具象性と抽象性の差に於ひてのもののみなのだ。

 

だから人間も所詮は其の獣よ。

 

 

只、其の獣共にも良心のカケラ位は残って居らう。

 

何でかと言へばかうして動物でさへ助け合ふのだからして、より高等な人間様がさうして助け合ふことが出来ぬ筈は無ひ。

 

ところが人間はより厄介だ。

 

其処に欲望が抽象化される分より合理的に生への信心を確立しやうとする分利己主義化して仕舞ふが故に。

 

つまりはより心のレヴェルに於ひて下等となり眞理に対する盲目度が逆に高まる訳だ。

 

エッ?じゃあ人間はどーぶつよりも下等なの?

 

其れはむしろ下等だと見做しておくべきものだらう。

 

下等なのだが欲望の具象性のレヴェルでは動物達と同じやうに助け合ふことも出来やう。

 

 

其の突き付けられて居る生の課題は結局人間でも同じことだ。

事實として我我は日々生きるか其れとも死ぬかだ。

 

コロナ禍は其れを拡大して見せて居るだけのことで本質的には常にさうである。

 

勿論文明とは其の状態からの脱却を図ったものである。

 

文明化して其の生きるか死ぬかの切迫した現在をもっと楽なものへと変へて行きたひ。

もっとみんなが楽に生きられたらいいのになあ。

 

さうお利口なホモ・サピエンスは考へ、社会をさうして宗教を発明した。

だが未だにみんなが生きるか死ぬかなので、結局其のホモ・サピエンスの知恵も能足りんなものに過ぎずしかも余計に厄介な社会崩壊の問題に直面して居るのだと昨今の情勢からは言ひ得ることだらう。

 

其の抽象的な今をあへて生きることにしたホモ・サピエンス共は然しほとんどどーぶつである。

即ち食欲と性欲の制御がままならぬどーぶつである。

 

でも食ふか食はれるかなんてもうイヤだ。

其処を社会が何とかするんだ。

 

其れでもって何とかなった。

今は誰も食はれることの無い社会をかうして築き上げた。

 

 

其れは偉ひ!

ホモ・サピエンスは動物であることをつひに脱却したのだ!

 

一見さうも見へやうが實はさうでは無ひ。

ホモ・サピエンスが放逐したのは他に食はれることだけだ。

 

で、逆に食っておる、まさに地の繁栄を食ひ尽くさうとさへしておる。

其れもより合理的に食おうとして御座る。

 

家畜も畑も皆其の合理化の結果だ。

 

そんな訳で社会ー文明ーは自然界から離陸し二元的な価値対立の世界を一元化して行くに及んだ。

文明と云ふ形での価値の一元化を為したのだった。

 

我我が今🐻や🐅や🐊や🐍に食はれずとも生きて行けるのは全てが其の文明様のお蔭であらう。

 

でも其処には別の意味での抽象的苦が生じて仕舞ふ。

 

即ち其れが金が無ひ苦であり人間共の根性が悪ひ苦であり文明に持続性が無ひ苦であらう。

又は会社が馬鹿である苦であり組織が腐ってる苦であり國家がまた文明が崩壊して行く苦である。

 

さらに科学技術が暴走する苦であり世界人口が爆発する苦である。

 

うはあー、そんなものはもう自然以下のことだ、自然以下での営みであり食はれることよりもむしろ悪ひことばかりだ。

 

 

だから其の様をこそ直視せよ。

其の食ふか食はれるかでの二元的価値対立が只抽象化したばかりのことなのだとさう達観せよ。

 

さうして我我は日々抽象的に社会に食はれつつある。

さうして日々社会に搾取されつついつの間にか食ふか食はれるかの世界に投げ込まれて居る。

 

 

即ち闘争の場の次元が変はっただけのことで我我の本質は今でもまさにどーぶつの域を脱し切れては居らぬ。

さて人間がいつまで経っても精神的に動物なので、かうして世には様々な形での闘争が蔓延しいつも心穏やかでは居られぬ訳だ。

 

 

尚本能と理性は事實上相剋し尚且つ相即する関係にある。

おそらくは其れが眞理であらう。

 

其の関係性は本能に振れ過ぎれば失はれ、また理性に振れ過ぎても失はれやう。

 

何故か?

そも此の世での出来事はバランスを失した時点で破壊されるやうに出来て居るが故にだ。

 

 

先に述べたやうに自然にもまた其のバランスを回復する方向性が認められぬものでは無ひ。

無ひのだが、基本的に自然界の摂理はまた弱肉強食であり利己的な価値観への信心のことなのだ。

 

其れに対し文明は謂はば理性的に其の二元対立から逃れやうとして来た。

イヤらしひ其の根本での対立を離れ人間としての自律的な価値を生きやうとして来たのである。

 

 

だが其の試みが正しひことだと言ふ保証などは何処にも無ひ。

保証などは何処にも無ひが、🐻や🐅や🐊や🐍に喰はれるくとよりもまだしもマシなのだらうか。

 

ホモ・サピエンス共よ!

おまへたちはかって皆さうして食はれて居たのだ!

 

其の静かな夜に此の地の上でもってバリバリバリバリッと食はれたのだった。

 

 

そんな生き方だけは金輪際イヤだ。

兎に角食はれぬやうになりたひ。

さうだ、社会化しやう。

 

さうして宗教に縋るのだ。

きっと神様がみんなを救って下さる。

必ずやさうなる。

 

食はれると体のあちこちがもう滅茶苦茶に痛ひ。

血がぴゆーぴゅーと噴き出て何処までも其れが止まらなひ。

ぎゃあもはや骨まで噛み砕かれたぞ。

 

 

さうした意味で動物と人間の違ひは質的なものである。

だが質的に変はったにせよ本質的な意味で其の苦の様は変はってなど居なひ。

 

むしろ精神的にはより負担が大きくなりつつある訳だ。

其れも肉体的な苦痛が減った分さうなったのである。

 

其の精神的負債は新たな次元としての社会的関係がさう齎して居るものだらう。

 

 

ところでキリスト教はまた初期の佛教は其の本能と理性としての自然界と人間界の違ひを質的なものとしてあくまで見詰めて行く。

逆に大乗思想が、または神道に代表されるアニミズム宗教の流れこそがむしろ其の違ひを質的なものから解放して居るのだとも言へやう。

ところが、もしも人間を本気で救済するのであれば後者の立場では弱くなり前者の立場でこそ其の救済が可能となるのである。

 

何故かと言へばキリスト教や初期の佛教はまさに本気で人間を救おふとして居るので其処に一度人間と動物との絆のやうなものを一度断ち切る必要があるからなのだ。

 

 

人間のみんなが自然と繋がりずっとハッピー。

 

實は其れ、所謂偽善なのである。

 

人間のみんなが自然と繋がりのべつまくなしに欲望を垂れ流しにすればまさに現在のやうなことになるのは必定。

 

だから、キリストも釈迦もとりあへずは自然を絶ち切る。

人間は特別なもので其れは神なる理性を理解するものである。

神の恩寵を受けるにふさはしひ存在なのだ。

 

また人間は特別なもので成佛への機縁を持って御座る。

故に釈迦の教説に於ひて自然其のものが成佛出来る訳では元より無ひのだ。

 

尤も其の後の大乗思想に於ひては佛性を萬象に認める方向へと百八十度変はって行った。

つまり地球上の生命のみんなが成佛出来ることと相成った訳だ。

 

 

だが釈迦が其れをもし聞ひたら或は卒倒されるのではなからうか?

其の偽善の部分につき初期のキリスト教や初期の佛教は潔癖なのだとわたくしは思ふ。

 

つまるところ救ひとは自然を救ふことには元より非ず。

自然はさうして常に罪深くしてしかも煩悩其のものを生きて御座るのだが何故か健全である。

 

自然界の摂理は二元的対立による苦又は矛盾か或は不条理即ち不合理な様に常に晒されて居るが故に其れは楽園なのでは無ひ。

だが其れはまさしく楽園なのでもある。

何故なら其れは限定物であるが故に。

 

過剰な自意識も過分な欲も彼等は元々持ち合はせてなど居なひ。

だからと言って彼等が持って居るものは神其のものの如き理性には非ず。

 

彼等もまた等しく失楽園して居り其処にさうして蟠って居る。

だが其の根元をしかと握られて居るのだ、其れ即ち神の叡智にしかと守られて居る。

 

 

つまり自然はビョーキなのでは無ひ。

ビョーキなのは人間だけで、しかも邪教も病気だし議院内閣制ー民主制ーや官僚機構ももうほとんど今はビョーキの域だ。

 

さうだ社会が今酷ひ病気に罹りつつある。

 

個人的にはもう全部が怖ひ。

もうなるべく早う何処ぞへ逃げて行きたひ。

 

ところで、先日ホタル観賞に行き23時半に眞っ暗の相生山を歩ひて居たところ何と二人の👩が連れ立って楽しさうに会話しつつ歩ひて居るではありませぬか。

かうしたことは四十年前にはあり得なかったことです。

此処からも変なところを必要以上に元気にさせてはなりませぬ。

 

 

では救ひとは何ですか?

救ひとは人間の社会的関係をトコトン戒めることです。

 

人間の社会的関係とは何ですか?

ズバリ観念性ー抽象性ーによる相対分別です。

 

さう其の相対分別こそが罪であり煩悩なのだ。

つまりは人間の脳其れ自体による理性的営為が双極としての矛盾による破壊を齎すことなのだ。

 

エッ?

其の理性による認識こそが神の御業を全てに認めることなのでは?

 

だからキリストはまず其の理性による認識をまずは全否定し霊的な次元での認識の再構築を行って居るではなひか。

其の意は失楽園し悪魔化した現世の全否定より始まる眞の理性に基づく神の叡智による価値の再構築のことなのだ。

 

だから佛陀はまず其の理性による認識ー分別知ーを全否定し無分別智に基づくことで霊でも現世でも無ひ次元にて認識其れ自体の消去を行って居るではなひか。

其の意は動物からの脱出であり負債としての生命状態からの脱出でもあらう。

 

其のやうに自然状態を共に一度は放逐するのが實は眞理を目指す此の弐宗教の本質なのでもある。

 

 

エッ?

じゃあ一体どうやって自然は救はれるのでせう?

 

何度も述べて居るやうに自然は元々救はれて居るので其処には救ひも宗教も要らぬのだ。

但し其れも本質的には救はれて居らず其の侭に劣化しやがて滅びへの道を辿ることだらう。

 

救はれずに救はれて居る様其れこそが自然の本義なのだ。

不自然なのは人間の認識のみで其れが必ずや破壊を生み出さうから其の地獄の様から人間を救ひ出す為にキリストと釈迦は此の世に生を受けたのだった。

 

 

なる程、矢張りと云ふべきか人間だけだったのですね、悪ひ子ちゃんは。

 

其の通り。

自然はグオーギャオーのどーぶつなので悪ひ子ちゃんのやうで居て實は悪ひ子ちゃんには非ず。

其れは創造の御業により形作られたものだとさう理解して置けば宜しひ。

 

もしや進化論を否定なさるので?

其処でもって進化は確かにします。

 

でも其れが必ずしも合理的な進化だとは言へぬことでせう。

其処には結局非合理領域が残るので創造の御業であることを事實として認めざるを得なくもならう。

 

 

さても佛は何で要るのですか?

アンタ等がさうして毎日グオーギャオーを抽象的に欲望を成り立たせてみてご覧?

 

其のグオーギャオーは価値が抽象化されてるので必然として其処に大破壊が組み込まれて仕舞ふのだ。

即ち理性的な文明の末路は全的な地球の破滅へと結局帰して仕舞ふのだ。

 

 

 

「狹き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。」— マタイ傳福音書7章13節(文語訳)

 

キリスト教とは其の社会の罪即ち人間の原罪に対する救ひー根本的解決法ーを世に示した宗教である。

ところで、当時イエス・キリストの言説を信じた人などが果たして居たのだったらうか?

 

イエス・キリストと其の集団はまさに当時の反社会勢力であり、しかもイエス・キリストは潔癖な人間なので「社会が悪ひ」ことを社会が悪ひと其の侭に社会にぶつけて仕舞ふのだった。

勿論そんなことをすれば完全な危険分子であり大罪人である。

社会に対する大罪人なのだ。

 

だから結局磔刑に処せられ自らが若くして命を落とすのだった。

だがキリストが述べられたこととはおそらく全てが正しひことなのだった。

 

まさしく神の次元に於ひて其れは常に正しひのである。

其処からもイエス・キリストとはさうした社会的次元に於ひて世の中と交はり闘った人だった。

 

 

ところが、佛陀には其の大枠での社会との闘争の部分が元々欠けて居る。

勿論王族故に様々な社会的関係が存して居たことかとは思ふが釈迦自身は元々内省的な哲學者タイプで其れでもって社会のことなどに余り興味は無かったのだらう。

 

事実釈迦の國であるシャキャ族ー國ーは滅び事の道理として其れは自然とさうなって行くより他無かった。

佛陀の社会性と云ふ面では實子や養母また親類の者などを後に弟子として居る位のことでところが当時は切迫した政治状況にあったと云ふのに釈迦は社会との闘争を其れこそまるでして居なひのである。

但し教義上の社会への反抗だけはむしろ思い切り為されて居たものと見做すべきなのだらう。

 

其の社会闘争に於ける面でのキリストと釈迦の性質又は性格の違ひと云ふことがキリスト教と佛教に於ける根本の違ひである可能性もまた高く存して居ることだらう。

 

即ちキリスト教は社会としての人間を救ふ面を元々色濃く持った宗教なのだ。

だが佛陀は社会を救おうなどとはまるで考へては居られなんだ。

 

其れは其の後の教団の形成や布教活動などにも大きく影響を及ぼして居たことだらう。

 

キリスト御自身は教団を築こうとなされたやうだが佛陀御自身は教団を築こうとは当初なされて居られなかった。

此処からもキリスト教は築くことで人間の罪を贖おうとした社会的宗教であり佛教はむしろ築かぬことで人間の煩悩を離れやうとした個人的な悟りのことだらう。

 

其の思ひ切り二元分離しつつ社会と闘争しまさに其の社会に殺されたキリストと心の中だけで二元分離を離れ社会のことなど皆捨てて悟りを拓かれた佛陀とはまさしく社会的に言って好対照なのだった。

 

 

 

イエス・キリストの生涯

 

尚今回大変勉強になったのがプライム・ヴィデオにあったこちらのドキュメンタリー作品であった。

其の内容はあくまで史實に基づくものと思はれ、しかも其処ではキリストを取り巻く当時の社会的状況がこと細かく調べ上げられても居る。

 

結局キリストは社会と命がけで闘争し其の闘ひに殉じた革命宗教家でもあった訳だ。

其の社会的闘争こそはまさに苛烈なものでした。

 

何故キリストはさうして社会と闘ったのか?

結局其れは社会の価値観を正す為に闘ったのです。

 

但し其れは人間其れ自身の内面的価値観を正す為の闘争でもまたあった訳だ。

 

キリスト教自体の教義はしかしながら其の闘争に比して如何にも穏やかなものだ。

其れは結局非暴力での内面的価値革命を為し遂げる為の教へだった。

 

 

キリスト教に於ける其の社会との闘争の歴史の部分こそがわたくしにとり今大きく気になって居る部分である。

キリスト教は或いは社会を根本から変へやうとしたのではなかったか?

 

どんなにバカにされ足蹴にされ最終的には教祖様が磔となり処刑されたにせよ其の闘ひは成就したかのやうである。

事實キリストを処刑する決定を下した羅馬社会側は其の後キリスト教を國教とするに及んで居る。

 

キリスト教には「愛」としての教義が語られるが其れは常に横暴な社会的権威や特権層の既得権益に被害を被る民人への愛の形其のものなのだらう。

民人は大昔からこんな風に社会から搾取され続け人間らしくは生きられぬ状態を続けて来ざるを得なかった。

 

其れは抽象的に闘争する人としての業で何時の世でも他人へ愛を施すことなど出来ぬ人間の心の内に巣食ふ悪としての偽らざる姿なのだ。

しかも人間の場合にのみ其の悪は無尽蔵に用意されて御座る。

何故なら自然の具象欲には限りがあるが人間の抽象欲には限りなど無ひのだから。

 

其の人間の社会としての救はれやうの無さを、また人間自身の心の救はれやうの無さを神と連なることであへて絶ち切り其処に愛の階梯を築かうとした其のキリストによる精神的闘争こそが称賛に値するものでなくて一体何であらうや?

 

其れなのに嗚呼其れなのに其れからもう二千年も経ったと云ふのに相も変わらず社会はグータラで其ればかりか今や其処には倫理もクソも無く宗教もクソも無ひ。

だからこそ今こそ神の怒りを!

神の御怒りにて此の倒錯の価値観の殲滅を!

 

 

だから其れはオウム教と同じことでせう?

 

確かにオウム教にはキリスト教の教義とかも入って居たのでせうね。

たとへばハルマゲドン、とかがね。

 

要するに佛教が正しひことの一方でキリスト教もまた正しひと云ふことが言へることかと思はれる。

 

面白かったのは、其処にキリストの母マリヤやマグダラのマリヤの視点からまさにキリストの生が捉へられて居た部分だ。

キリストは母の目の前にてまた弟子と目されるマグダラのマリヤの目の前にて社会の敵の大罪人として死んで行ったある意味では物凄ひ親不孝者なのでもある。

 

だが其れは社会の誤りを正す為に即ち人類全体の罪を贖ふ為にさうならざるを得ぬ運命なのだった。

 

 

自分がココの王です、人類の救世主です。

などとイキナリ言ひ始めたらそりゃもう誰も信じてなど呉れぬ筈だ。

 

其れでもさう社会に対し物申したキリストには社会を変へぬと何も変はらぬと云ふ確信があったことだったらう。

 

さうしてキリスト教は人間の原罪に対し必然として発生した宗教であるやうな気がしてならぬ。

まさしく其れが社会的な罪のことだ。

 

対して佛教は社会的な罪に対し対決的では無ひ。

むしろ大乗佛教では一時期寺院が社会化され自身が社会的な罪の発生源にさへなって居たフシがある。

 

また徳川政権による長期安定社会は浄土教による精神規定が大きく其れに役立って居たことだらう可能性が高ひ。

かくして佛教は社会的な罪に対し対決的では無ひが故に本質的に社会其のものに対し寛容である。

 

但し今後は其の傾向に対し様々な形で齟齬が生じて来るのではなひか。

 

 

キリスト教圏としての欧米の社会は常に社会的闘争を抱へて来て居り其れは佛教のやうに社会とは常に距離を取るあり方とは異なって居ることだらう。

要するにイエス・キリスト自身が身をもって示した其の社会との闘争こそが善悪二元論としての善と悪との最終戦争へと確實に連なって行くのだ。

 

でもって其処で救はれるのは常に社会を信じた側では無く神の価値観を信じた側なのだ。

尤も其処は佛陀の教説に於ひても救はれるのは常に社会を信じた側では無く佛の価値観を信じた側なのだらう。

 

 

人間の社会の価値観に普通個は逆らへず其れでもって往々にして社会が引き起こすたとへば戦争での人殺しなどが賛美されたりもされるものだ。

人間は社会には逆らへず其れは悪ひ社会の価値観に対しても常に逆らへぬと云ふことなのだ。

 

だから我我は社会の犯した愚により無一文にならうともまた餓死しやうがどうしやうが基本的には今後も社会に対し逆らへやせぬのだ。

社会とはさうした雁字搦めのものでまさに生易しひものでは無く其の本質とはまさしく悪の履行である。

 

だが史上イエス様だけが其れに逆らって下さった訳である。

ー但し釈迦もまた教義的には当時の常識に大きく逆らって御座ったのだー

 

エス様の場合は御自分が磔となるまでに徹底的に社会に対し逆らったと云ふことなのだらう。

まさに其の社会に逆らって下さった部分こそが人類の原罪への贖罪の意義其のものなのだ。