目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

民衆の悲嘆に寄り添ふ佛法としての浄土教

田中美佐子、兄がアルコール依存症で…山口達也さんを心配「ものすごく怖い病気」

 

まさに此の飲む、打つ、買ふと云った部分こそが古より🚹が陥り易ひビョーキのことなのです。

 

だから兎に角此の三要素への深入りにだけは気を付けて下さひ。

 

ズバリ申しますれば此れ等とはまるで無縁な方が身と心が清められ眞理への指向性が生じて参りますものです。

 

 

でも家庭を持つために社会では嫁を貰ふことを奨励して居ますが…。

 

だが本質的には其れは良ひことでは無ひ。

 

其の家庭と云ふ社会関係其れ自体に洗脳されて行く可能性が高くなるからだ。

 

尤もいま少し非社会的な関係でのパートナーを持つことは生き抜く為には大事なことだ。

 

但し其の場合にも👩の體にはむしろ触れぬ方が良ひことだらう。

 

 

が、實はもうひとつ🚹のビョーキがあり其れが観念病のことです。

 

でもむしろこちらは御勉強の方が出来る方での病気なので余り世間では叩かれませんのですが實は此れも立派な業病のひとつです。

 

尤も🚺には其れが何のことやら分からぬことかとは存ずるが🚹の頭の良ひ奴などはたとへば華厳の滝から飛び降りたりもすると云ふことですな。

 

また芥川だの太宰だの三島だの川端だのと云った文豪の連中もつまりは皆其の業病でもってかって死んだのです。

 

要するに観念病のことでせう。

 

また釈迦やキリストもかって観念的に随分と苦しまれたことだったでせう。

 

お釈迦様などは小鳥が虫を啄むー他を殺し生を維持するーことに酷く心を痛められまた人間に病があることや死が訪れることまた老ひて行くことなどに大きく心を悩まされ続けた訳だった。

 

 

 

いづくにか身を隠さまし厭ひても憂き世に深き山なかりせば

                      山家集西行

憂き世には留め置かじと春風の散らすは花を惜しむなりけり

                      山家集西行

 

尤も西行の場合にはむしろ失恋からの出家であり世捨てでもあった訳だ。

 

思ふに失恋と申しますか愛の破局と申すかそんなものこそが🚹にとっての生き方を変へる契機となるやうに思はれてならぬ。

 

わたくしの場合もかうして眞理への指向性を深めたのがまさに其の愛の破局から齎されしことでした。

 

 

但し其の愛への探究を止めたのでは無く其処でむしろより大きく存して居る愛ーより普遍的に存する愛や慈悲ーに就き探究を始めて行ったことかと思ふ。

 

だが今やわたくしはかう考へるに至った。

 

愛⇔憎しみ

生⇔死

 

其の愛も生も結局は単独では取り出せぬものなのです。ー対概念としてしか現象されぬもの故にー

 

故に最終的には其れは幻と化すしか無ひ虚としての概念のことだ。

 

其の観念化した「愛」と云ふ形のものはさうして何処にも無ひ。

 

謂はば其処で「愛」と云ふ概念ー観念ーと戯れて居るだけのことなのだ。

 

 

つまりは其の対概念其れ自体をこそ抹消せねば本質的に生命が救はれることなど無ひ。

 

だからこそ対概念としての一対を二重否定して行かねば全てを消し去る訳にはいかぬ訳でまさに其れが釈尊御自身による解脱ー涅槃ーへの論理です。

 

対概念の抹消⇔対概念の継続

 

ですが、「対概念の抹消」と云ふこと自体が概念なのでどうしても其のやうに両義性が生じて仕舞ひます。

 

なので最終的には脱概念化し此の両義性をも去らねばなりません。

 

だが脱概念化すると云ふことは此の世では最も難しひことで其れは言葉による規定では言ひ表せぬこと=語り得ぬこととなって仕舞ふ。

 

まあ其処を信仰の力なり或は禅の如くに禅定化ー無分別化ーすることで成し遂げて行かうとするのが宗教のやり方なのです。

 

左様に脱概念化するには二種の方策があり、ひとつには釈迦や禅でのやうに自力救済する方法とまたひとつには禅以外での大乗各宗派とキリスト教による他力救済のやり方でせう。

 

自力救済するには自分自身を何処までも聖化=非人間化して行かざるを得ぬので現代人にはもはや不可能なこととなります。

 

たとへばわたくしにせよ其れはもはや不可能なことでせう。ーこれだけ変はってるわたくしにせよ其れは難しひことだー

 

 

かくして他力救済の宗教は劣って居るのでは無くみんなが出来ぬのでさうなって行ったものであることだらう。

 

つまるところはそんな社会性を帯びた宗教なのです。

 

事實道元禅師は修行の場として山の中の寺=永平寺を選びましたが法然上人や親鸞上人は山の中には籠らず民衆の為の法を説く場を選択された訳だ。

 

 

まあわたくしは社会性がそも無ひ人間ですのでヤッパリ本質的には禅宗の方が其れも山の中で👩も寄り付かぬ永平寺こそが或は向ひて居りませう。

其れとわたくしは妙に観念的な人間でもまたありますが故に。

 

なのですが、實は浄土眞宗の方にも事實惹かれて居ます。

 

其れは何故か?

 

つまりは生命の罪深さと向き合った宗派であることから来て居るのやもしれません。

 

しかと其の生命の罪深さ=👩の生臭さのやうなものと向き合って居るのではなからうか?

 

また悪人であることや貧乏であること、また不具であること、まさにどうしやうも無ひ底辺での生のあり方と常に向き合ひ且つ其れを慰めまた励まして居る。

 

また無論のこと其の視点こそがキリスト教にも存するものでせう。

 

 

さうして常に哀れなるもの、神の愛からも背かれし其の不具性の具現化としての悲惨さ。

 

言葉にならぬそんな哀しみが此の世には充ちて居り其の苦しみを救ふのは山の中の禅寺では無くまさに浄土眞宗の念仏なのではあるまひか?

 

どだひ學問が出来ぬと禅などは理解しやうが無ひ。

 

いや學問が出来ずとも悟りを開く禅僧が居らぬ訳でもなからうが禅は兎に角さうして修行其れ自体が厳しひ。

 

対して非僧非俗の形としてあくまで民衆の中に分け入り救済思想を説く浄土眞宗の庶民に対する優しさと其の救済への決意が胸を打つ。非僧非俗について

 

さう、往々にして民衆は其の深ひ生死の苦悩を体験して行かざるを得ぬものだ。

かうして民衆の立場が弱ひものである限りかうして合理主義社会の家畜として派遣社員化され酷ひ搾取に喘ひで行かねばならぬ。

 

かやうにどんなに時代が変はらうとも為政者は特権意識を手放さず自分等にとっての都合の良ひ社会を形作って行く。

 

悲嘆、嗚呼悲嘆、其れもリンクのところで書かれて居るやうな佛教としての解釈上の悲嘆なのでは無く民衆に於ける生の悲嘆のことです。

 

 

今我我は社会のあり方に途方に暮れ悲嘆してさへも居る。

 

今後社会が一体どう変はって行くのかまるで分からぬやうなまさに不安で嘆かざるを得ぬやうな政策を現に政府が行っても居る。

 

其の庶民の苦しみ、悲嘆にこそ寄り添ふ宗教こそが浄土眞宗ではなかったか。

 

 

なぜ生きる -蓮如上人と吉崎炎上-

此のアニメ映画に感動したわたくしは今浄土宗、浄土眞宗のことにつき學び始めて居る。

 

「念仏に生きる 宗祖親鸞聖人の生涯・上」真宗大谷派大阪教区

 

「念仏に生きる 宗祖親鸞聖人の生涯・下」真宗大谷派大阪教区

 

 権威化し金持ちとなった佛教宗派は無論のこと無學でもって馬車馬の如くに働かねばならぬ百姓を救へぬ。

まさに其れは現在の社会の状況と同じことではなひか。

 

だが今は皆が無学には非ず。

しかれども大卒であれ派遣社員化されて仕舞ふご時世なのだ。

 

其処へもって来てコロナ禍では生きて行く希望さへもがまるで持てぬ世の中ではなひか。

 

しかも其の現代の悲嘆、現代の悲劇を齎した責任を為政者たちは断じて取る積もりなど無ひのだ。

 

現代の悲嘆、現代の悲劇をもはや政治は救へず任期を終へれば無責任にも去って行く彼等の姿。

 

だが彼等にこそ断頭台の露と消へる権利が確かにあらう筈だ。

 

其れも日本國としてのより良ひ世の中をつくれなかった其の責任をサッサと取ることの為に。

 

 

我我はもはや悲嘆にくれ、さらに給料も抑へられ、おまけに病気のリスクに脅かされつつかうして未来を生きて行かねばならぬ。

 

其の苦しひ様を御救ひ下さるのは政府でも民主主義でも無く宗教だ。

 

其れも民衆の為の佛教として成立する浄土の教へこそがまさに其の苦の放逐の為の一助となることであらう。