目覚めよ!

文明批判と心の探求と

危機に於ける實存的な疑問

元よりインテリ即ち精神の貴族にとってもまた富豪即ち大金持ちにとっても今が苦しひことには皆変はりは無ひ。

 

其れ即ち其処で「持ってる」分余計に苦しひのだ。

 

庶民即ち馬鹿でお気楽な所謂大衆は「持って無ひ」分楽だが何せ持って無ひだけに明日を迎へるのが苦しくもあらう。

 

どちらが良ひとは多分其処には言へずどちらも結局は苦の世界だとさう捉へるのが真理への理性としての捉へ方=釈迦の結論だ。

 

ちなみにわたくし自身が今苦痛を感じて居るのは世間的な苦のあり方とはおそらくは逆方向での苦しみ方なのだ。

 

 

其れはズバリ人間が余りに分からず屋=鈍感であることに対する苦しみなのだ。

 

さうまさに其処こそが余りにも大きく苦しひ訳である。

 

だがあなた方はおそらくさう云ふ苦しみが大きく拡大されることは無く、自らの保身から始まり妻のこと子のこと孫のこと町内のこと会社のこと郷土のこと國のことなどをそれぞれに憂ひて居たりするのではなひか。

 

そりゃ確かにわたくしにも其れがあるのだがむしろ其れは小さひ問題でありデカひ問題こそが人間全体の問題なのだ。

 

 

で、何だか知らなひがこれまでの一萬冊の読書ー比喩表現ーと哲學的思考によりさうした価値の逆転現象のやうなものが自分に突き付けられて居るのでわたくしは詩人で居るより他に無くなったのだった。

 

なので兎に角思考がデカひ。

 

思考がデカひので人類規模の話は何処までをも追求していくことが可能だ。

 

 

が、わたくしが不得意な分野があり其れはズバリ週刊誌ネタや酒場での乱痴気騒ぎ又は下ネタである。

ところが世間のおっさん連中にはむしろソッチの方が得意な人の方が多くさうした人々にあへて難しひ内容の話をすると即気分を害し怒ったりもするのである。

 

往往にして此の世にはそんな下品な矛盾が其処かしこに拡がって居るものだ。

 

 

故に今わたくしに見へて居るのは生自体に対する苦なのでも無く死に対する苦なのでも無くまさしく人間に対する苦其のものなのだ。

 

何故さうして人は決まって理性的な存在であり得ぬのかと云ふ、おそらくは古来より多くの知性が悩みに悩み抜ひて来し大問題こそが等しくわたくしにも覆ひ被さって来て居るのだった。

 

漱石が、さうしてトルストイが人間を探求した揚句に何処へ辿り着ひて行ったのか?

 

 

太宰や芥川や賢治が辿り着ひた場所を若かりし頃に探究したわたくしは今こそ其れをやらねばならぬのだ。

 

だが相変わらず世間は猥雑でもってしてしかもグオー、ギャオーである。

 

其れどころか感染症にて生きるか死ぬかの瀬戸際なのでもまたある。

 

 

もはやコレは神の怒りなのやもしれぬ。

 

神の御怒りは必ずやある、として弐年位前からわたくしは此処でも屡そんなことを書ひて居たがほんたうにさうなって来たのではなかったか。ーだからこのところずっとキリスト教のことを書き続けても来たー

 

 

なのだけれども、今述べしやうにわたくしの悩みはあくまで其の人類滅亡への具体的な道其のものにあるのでは無くさうしたことへの洞察や思考を何故か世間に邪魔されること自体にあった訳だ。

 

つまり価値観が多分逆転して居るのだらうね。

 

いやわたくしも實は馬鹿にはなれるんだ。

 

なれるのだが、イザ馬鹿になると詩人の位置までまた物凄くエネルギーを使ひ飛翔していかねばならぬ。

 

 

そんな訳でわたくしの悩み=苦とはむしろ世間とは逆方向でのことだった。

 

 

さて其の理性と本能の闘争、或は合理的なものと非合理的なものとの相剋、つまりは藝術と下ネタ、佛性と下ネタとの相剋こそが問題だ。

 

さらに大思考と小思考と云った問題がまたある。

 

わたくしは文哲の方をやり過ぎたのか多分大思考をすることが普通なのだ。

 

 

ところが世間での思考は多分に小思考の方だらう。

 

大思考は全体論的でもっておそらくは危機には強ひと云ふか少なくとも事前に用意周到に準備して置けやう。

 

小思考は分析的でもっておそらくは現在=現實的で同時に下ネタにも強く其の代はりに危機が訪れやうものなら皆沈没しやう。

 

 

するとどうも現代文明は其の小思考の側でのループのやうなものに浸り切って居たのではなかったか。

 

特に日本型の現代文明は伝統での型が足枷となり余計に其の小思考の側でのループのやうなものに浸り切って居たのではなかったか。

 

 

どうも全ての問題は其の辺りのことにも起因するもののやうだ。

 

阪神大震災東日本大震災での諸問題、さらに統治システムの上での様々な問題、さらにパンデミックや今後の経済的不況の問題へと連なる問題の根っこにはさうした大思考の決定的な不足と云ふことが横たはって居るのやもしれぬ。

 

其の大思考は然し普通子宮思考を離れなひと成らぬ。

 

子宮思考=現世利益を追ひ求める思考であり一言で言へば其れが現實主義と云ふことだ。

 

 

先に作家や詩人による🐺思考のことに就き述べて居たのだったが作家や詩人が何故🐺思考に陥り易ひのかと云えば要するに其れは現世利益主義=現實主義とは常に反対のところで思考を巡らせて居るので必然としてさうなって仕舞ふのである。

 

だったら作家や詩人をたとへば参議院へ入れるとか政府のアドヴァイザーとしてもっともっと活用していくべきではなひだらうか。

 

でも三島先生のタマシヒだの石原先生だのが其処に入ればもうエラヒことともならう。

 

 

かと言って此の侭で行くとまず日本は沈没しやう。

 

だがあへて其処でよーく考へてみやう。

 

日本は沈没=「下山」するのが實は理想的なのだ。

 

何故なら五木 寛之先生やら浄土思想やらがさう仰って居るからなのだ。

 

しかも先生や佛教ばかりでは無ひ。

 

わたくしも實は前々から「限定」の思想を此処でもって述べて来て居る。

 

 

つまりは「下山」=「限定」なのだ。

 

尤も其の「限定」とは個人の主観を排除したところでの価値観には非ず。

 

むしろ個としての主観から自ら望んで限定するところでの理性の働きのことを言ふ。

 

対して「下山」とは他力の思想が齎す必然的な主観の解体であらう。

 

 

 

尚かって實存主義と云ふものが流行って居た。

 

此れはかのプラトーン以来の形而上学としての理想論を「主観的」に排斥するものであった。

 

確かに主観ー主体ーは客観的に排除することが出来ぬ。

 

 

プラトーンアリストテレース以来の形而上学はむしろ客観的に其の主観性を排斥して居たのである。

 

人間の認識が主観を基準として構築されるものである以上其処にそも価値観の絶対化など出来ぬことともならう筈。

 

だとすれば神もまた言語も相対的な主観に基づく押し付けでの認識となって行かざるを得ぬ。

 

 

要するに此の世には絶対と云ふものは無ひ。

 

絶対と云ふものが無ひ不安で不確實な世界を生きるものが其の實存と云ふ現象なのだ。

 

 

近代的な夢が脆くも崩れ去った其の瓦礫の集積のさ中から不死鳥のやうに甦る為には価値観の転換がまずは必要だった。

 

戦後の文明世界は何処に於ひても心の拠り所を失ひ結局のところ進歩へと走ったのだとも言へやう。

 

其の近代化としての進歩を加速させて行ふことで不合理なもの、不条理なものの全てを消し去ろうとして行ったのだった。

 

 

其の試みは半分は成功し半分は失敗に終はった。

 

何故なら不合理なもの、不条理なものの全てを加工し消し去ることなどはそも出来なかったからだ。

 

不合理なもの、不条理なものの全てを加工し幾ら自由だの人権だので保護したにせよ其れがむしろ逆効果となり其処で不自由や酷ひ搾取を横行させたりもするものだ。

 

 

人間はさうした本質として酷く矛盾した生き物である。

 

なので理念的抽象性にばかり拘り続けると必然として其処に破壊が生じ結果として幸せになどはなれぬものなのだ。

 

 

其の理念的抽象性を主体的に遮断するのが「限定」でありだからと言って其れは實存主義でのやうに人間の主体性を重視する余りに無神論へと傾くのでは無くむしろ不合理なもの、不条理なものの象徴としての不具や悲運、其れから沈黙する神や誰もなれはしなひ佛さへもが其処にはある。

即ちむしろ限定されるが故に不合理なもの、不条理なものの象徴として人間と云ふ自己矛盾の様が初めて其処に成り立たう。

 

 

尚五木先生の仰る「下山」の場合には浄土思想に従ひ他力にて阿弥陀佛と云ふ佛様のお力にて救済して頂く為のむしろ下山であらう。

 

ところがわたくしの「限定」の場合には個としての価値観の選択をむしろ最重要視する。

 

其処は考へ方としては釈尊御自身が説かれた佛法に近ひと言へば近ひのだが同時に其れとは程遠ひと言へば程遠ひ。

 

要するに其れは宗教的な選択などでは無くカントの定言命法によるもののやうに謂はば自発的な理性による選択でのことなのだ。

 

 

要するに人間がお馬鹿なこと其れ自体には罪は無ひのだが此の侭お馬鹿を続けていくと今は時代自体また文明其れ自体が暴走して居る手前赤信号を平気で渡ることでもって皆死んで仕舞ふ。

 

そんなことはやって無ひと誰しもがさう思ふかもしれぬのだが、さうしてつひホヒホヒと海外旅行へ出掛けたり夜の街にて女の裸ばかりを追ひかけて居たりまた便所紙やマスクを兎に角大量に買ひ漁ることなどは事實として皆がやって来しことだ。

 

其のやうな罪深き行為こそが皆で赤信号を平気で渡ることであり其れは他の何ものでも無ひ。

 

 

故にさうした罪深きこと、煩悩にまみれし悪の行為を今すぐに放逐するのだ!

 

「下山」の場合は多分に宗教的行為でもって必然として其処に絶対性や形而上學的な要素が付加されやうが「限定」の場合には結局此の世の全ては限定なので一面では無神論的なのでもあり其処が原始佛法にも近ひと言へば近ひところでもまたあるのだ。

 

 

 

存在としての神佛⇔非存在としての現象

 

實在=永遠、絶対⇔現象=時間的空間的制約、相対的制約

 

 

現象は常に二元化されて居る故カントが語るやうに實在其れ自体=物自体を認識することは出来ず認識して居るのはあくまで現象の他極としての概念上の實在に限られやう。

 

つまるところウソの神佛をウソとしての我我現象が認識するものでしか無く其れでも其処にはウソの神佛だけはしかと発現しても居らう。

 

どだひウソの神佛をウソとしての我我現象が認識するのであれば其れはむしろほんたうの神佛だとも言ひ得るのやもしれぬ。

 

 

「限定」としての現象は限定されて居るが故の分離ー分裂ーと云ふ罪、乃至は癖としての煩悩をしかと背負っても居やう。

 

だから其れを自発的に消去するか、其れとも神佛としての概念に消して頂くかと云ふ其の選択のみが我我現代を生きる個に与へられし自由の内容なのだ。

 

くれぐれも自由に貿易したりまた自由に人が交流したりまた自由に援助交際したり自由に便所紙を買ひ占めたりして居ては金輪際ならぬ!

 

 

そんな風に意味をはき違へず其の自由の意味をよーく其処で考へてみよ。

 

 

だからまずは批判力のあるカントを學ばねばならぬ。

其れから矢張りと言ふべきかやる気の無ひかのショーペンハウアーとヲタク風のニーチェとはまた必須であらう。

 

 

尚、原始佛法はあくまで無神論なのだ。

 

佛法では元来神よりも佛の立場の方が上なのだ。

 

いや、神だの佛だのと云ふ価値ヒエラルキー其れ自体を佛法は消し去って行く。

 

さうした分別された認識による価値ヒエラルキー其れ自体を錯誤であり煩悩への執着であると断じて消し去って行く。

 

原始佛法は結局自分をも含めし世界全部を丸ごと精神力?にて消し去って行くと云ふ謂はば逆ヒエラルキーヒエラルキーの滅却を目指す解脱への道を述べたものだ。

 

 

 

ー日本では当時、文学者として国際的な評価も受けていた芥川龍之介第一次大戦後に「ぼんやりとした不安」という言葉を残して自殺している。

森有正は自著『経験と思想』(1977)において、日本語では印欧語とは違って人称依拠で代名詞や動詞形が作られるという基準がないので、現実(の上下関係)が嵌入してしまい、構造的に実存に至りにくいと書いている。自他間区分した西欧的実存に限定するならば、妥当性のある主張である。

宗教哲学者の久松真一は『即無的実存』(1935年)で、禅宗もしくは仏教一般の「即無的実存性」を主張している。有に対する否定としての無を消極的な無と見ている。一方、有と無との間の対立を無化する無を積極的な無と見つつ、こちらの無に即すことを実存としている。西欧の非宗教的哲学的実存は久松から見れば「即有的実存」だといえる。ー実存主義#失われた世代より

 

 

元より芥川は歌人なのでもあり其の「ぼんやりとした不安」が直観されし社会的な不安でもあった可能性が高ひと以前わたくしは指摘させても頂ひた。

時代が現代へと至り兎に角其の社会的な不安、社会的な大問題ばかりが加速され噴出して来て居ることが何より其の不安の内容を物語って居るのではなひか。

 

でもってして實は現在も其の複合的な大問題の只中に我我は生きて来て居るのだ。

ところが現代社会は自らの非を認めやうとはまるでせぬ。

 

事實TVでもってCMなど見て居ると何だかおバカなCMばかりでまるで此の文明は安全、安心に構築されし永遠のものだと言はんばかりに實におちゃらけて居るやうだが其れを垂れ流すTV局自体がいつぶっ潰れるかも分からぬものだぞよ。

況やそんな下品なCMの金を出して居る企業などもいつぶっ潰れるかさへ分からぬものだ。

 

だからたった今大問題が複合して我我に襲ひかかって来て居ると云ふのに現代文明の此の余裕振りは一体何処から齎されしものなのだらう。

 

或はもしやほんたうのほんたうにホモ・サピエンスがお馬鹿化して来て居り其の危機を危機として正しく認識し得る能力さへもがもはや失われて居るのではなひだらうか。

 

 

言ふまでも無く「自他間区分した西欧的実存」と云ふ構造を基本に現代社会は組み上げられて来て居り日本の社会は其れとは異なり封建制での伝統的価値ヒエラルキーに従ひ構築されて来て居ると何度も述べさせて頂ひたところである。

 

だから實存的な認識には至りにくく其ればかりか「和をもって赤信号を渡る」と云ふ實に面妖且つ危険な社会的価値観をお持ちの社会なのでもまたある。

 

だから「和でもって」何かをするのなら危なひことはまさかしてはならず「和でもって」お弁当を拵へたり「和でもって」鎖國したりすることの方が余程に望ましひことなのではなからうか。

 

 

さて其の禅宗もしくは仏教一般の「即無的実存性」と西欧近代以降の文明としてのテーゼとなりし「即有的実存」との対比の様が此処に出て来た。

 

此れが要するに無なのか其れとも有なのかと云った有無の問題なのだ。

 

さうして有無の問題こそがおそらく文明のあり方に直結することだらう方向性の違ひなのやもしれぬ。

 

 

また思考としての大小の問題があることを先に示して置ひた。

 

即ち全体論的に世界を認識するのか、其れとも機械論的、分析的に世界を認識するのかと云った問題である。

 

此の現象世界はさうした大きな性質、性向の部分とも大きく関わって居やう。

 

つまり目で見へて触れることの出来る世界はそんな抽象性とも対義的に関わり合って居る筈なのだ。

 

 

又は目に見へぬ領域さへもが有り其れもまた現象世界に関わりを持って居る可能性もまた高くあらう。

 

さうしたややこしひ世界の成り立ちに就ひては近代化されし社会はまるで不感症であらうからまさに其処は個としての知性が其れを解ひていく他は無ひ。

 

 

 

ところで近くにお化けは居ますか?もしやお化けが好きですか?

 

またイキナリ何でそんな変なことを言ひ出したのだ?

 

 

いや、お化けが何処かに居なひかなあとさう思ひましたのですが。

其れではお化けを見たことが無ひと云ふ訳で?

 

いや、人間の心の醜さだけはこれまでにもうイヤと云ふ程見ても参りました。

 

其れでもって人間の心の醜さはお化けとなり此の世に残るのだらうかと云ふことを屡考へるのであります。

 

 

事實人間だけが此の世ではお化けです。

 

お化けとはお化けと云ふ概念では無く實は人間其のもののことだ。

 

其のお化けに最もふさはしひのが人間であり人間による社会其のものなのだ。

 

 

特に最近は其のお化けとしての社会の度が加速して来て居るやうにも見受けられやう。

 

さても此のお化け文明は今後どうなることだらう?

 

 

さてもおまへはお化けが好きか?

 

へひ、何故かとても好き♡です。

 

では次回は其のお化け特集だな。

 

然しこんな時によりによってお化けの話をするとはまるで思はなんだな。