ー「労働も、生産も、医療も、防災も、防衛も、ありとあらゆるものが高度に理性化されている。にもかかわらずそこには意図せざる暴力がなぜか湧き出てくるのである」
「暴力とは一時の感情において、もしくは自分の利益のみを考慮して、他者の精神や身体を傷つける行為であり、その暴力を抑止して平和と共存を作り出すものが理性である。(中略)しかしながら今日、こうした枠組みは疑問に曝されている。なぜなら学が発達し、法が整備され、教育が普及し、社会が合理的に組織されればされるほど、まさにその合理性を通じてあらたな暴力が胚胎し、人々がそれに苦しめられているからである」
(『理性の暴力』 序章より)ー「悪」は「善」から分泌される——哲学者・古賀徹が語る「真理」とは。ーより
かように其の合理性の追求こそがむしろ暴力化して来て居る訳だ。
即ちまさに其の様こそが理性の原始退行化であり自己矛盾としての様なのだ。
1.原始退行化=獣化=暴力化
2.合理性に名を借りた偽の理性の横行=名ばかりの理性=偽りの理性(偽善的理性)の増殖ー結果的に言へば分析的理性の増殖=エビデンスベースの増殖ー
尚此の1.と2.がわたくしによる理性の自己矛盾を説明するところでの理論的骨子である。
尚わたくしはかうして屡社会學者のやうなことさへをも述べる。
特に以前の記事では此の自分なりの理論を頻繁に述べて居たことかと思ふ。
さて日本のみんなには「社会が悪ひ」と云ふ意識がそもほとんど無ひことかと思はれる。
其処を逆にわたくしは「社会が悪ひ」と決め付け毎回ボロクソに糾弾して居るものだからまるで邪教の教祖の如くにも思はれて居ることだらう。
だがわたくしは元々可成の理論派なのだ。
わたくしはさうして感情や感性に流され意見表明するのでは無くちゃんと理窟の方も重視しつつ此処でも常に何かを語って来た積もりだ。
善⇔悪
でも理窟的にはあくまで社会は悪ひのである。
何故なら人間もまた悪ひ奴等だからなのだ。
善⇔悪
さうした相対者である他無ひと云ふこと自体が實は悪なのだ。
無論のこと佛教及びキリスト教で根絶されるべき対象とされるのは其の相対悪としての認識のことだ。
つまるところはまさに其処こそが👿であり罪であり煩悩のことなのだらう。
でも人間には善意もまたある筈でしょうが。
ままありませう。
でも大方の人間は利己主義と云ふ獣を自らの内に飼って居る。
なので金が無くなったり健康を害したりすれば其の本性がつひ出て獣化致します。
イザさうなればクリスマスも除夜の鐘もまた正月も何も御座りません。
其処ではもうタダひたすらに自己利益の達成をこそ望むものだ。
要するに其れをたとへ盗んでも成し遂げやうとする筈だ。
だからそんな善意はむしろ偽善であり反キリストなのです。
また贋の佛であり嘘の善玉のことです。
対する正しひ認識とは自分を半分殺して生きて行くことです。
大きな欲望は皆捨て去り小さく少なひところでもって生の価値を構築して行くべきだ。
其の「社会が悪ひ」のは其処でより人間の相対的自我が増幅され欲望が増長されて仕舞ふからだ。
其のやうに何をやってもむしろ社会は悪くならざるを得ぬ。
だから其処をこそ理性の力にて直観致しませう。
またイキナリそんなことを言はれても、つまりはバカにイキナリそんな説法をされましてもわたくしどもには何を言って居るのやら其の言はんとするところがまるで分からずかうして右往左往するばかりで御座ります。
まずは其のイキナリなのを止めわたくしどもにも分かるやうに懇切丁寧に、まさに幼稚園児にお話し下さひますやうに平仮名の書き方、また片仮名の書き方、さらにみんなでの御遊戯、まさにそんな初歩での教育を、其の寝小便たれなどを治す教育をこそ今はお願ひ申し上げたひものだ。
分かり申した、では其の教育を始めさせて頂くこととする。
ー「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名づけました」
「ソクラテスやプラトン以来、私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例が無いほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました」
「思考の風がもたらすのは知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても考え抜くことで破滅に至らぬよう」(映画「ハンナ・アーレント」(字幕版)のシーンから)
※ハンナ・アーレント:ドイツの政治哲学者。ナチス幹部でユダヤ人の大量虐殺を主導する立場にあったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し「エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」(1963年)にまとめた。裁判でのアイヒマンの供述などから、アイヒマンはいわゆる、邪悪な人間などではなく、思考停止の状態で自分の任務を忠実に遂行した結果、ユダヤ人の大量殺戮を実行したのだと報告。世界中で議論が起きた。ー「悪」は「善」から分泌される——哲学者・古賀徹が語る「真理」とは。ーより
左様に人間は考へることでこそ人間であり得るのです。
即ち人間は考へる葦である。
左様に“思考”とは分別する能力のことだ。
分別せぬと、決まって人間ー社会ーは意思決定の力を失ひ魔道へと堕ちる。ー其の選択により過ちを犯して仕舞ふー
其の分別は理性が行ひます。
では科学技術文明とは其の理性的選択による善行なのですね、嗚呼、良かった。
馬鹿者!!
むしろ其れは理性によらぬ悪行のことぞ。ー自己矛盾化した理性による獣性の實行ー
では此の際哲學致します。
哲學して科学技術文明を抑へガソリン🚙を廃止し電気🚙と燃料電池🚙だけにすることを此の度政府が決めました。
どうです、🐵も🐶も今回ばかりは偉ひでせう?
だが其れは如何にも遅ひぞ!
其の決定に至る迄一体何故こんなに時間がかかって居るのだ?
おまへたちはつまりはたはけか?
おまへたちはもはや人間では無くズバリ獣だ。
獣は其処いら中でウンコをたれさうしてメスにも飛び付きたがる。
おまへたちにはもはやクリスマスだの除夜の鐘だのまた正月だのをやる権利は無ひ!
おまへたちには理性つまり考へる力などまるで無く神佛のことにもまるで興味が無ひものと来てる。
おまへたちはもはや宇宙の藻屑となり即刻消へよ!!
サアサ早う此の世から消へて失くなってお仕舞ひ!
分別智⇔無分別智
但し其の理性による知=分別智にもまた限界が御座ります。
故に最終的には其の“思考”をも超へて行かねば社会が抱へる問題をより抜本的に解決して行くことなど出来ぬ訳だ。-まさに其の部分こそが宗教の課題だが-
ー自己を解放する手段としての理性それ自体が自己を拘束する箍(たが)へと転化するとき、(中略)哲学は自ら理性としてその理性自身を省察するものとなる。理性の自己反省によって哲学はもろもろの理性的建築物から距離を保ち、それを見抜き、もう一度自由と自立を得ようとする。つまり哲学の伝統のうちには、脱呪縛を志向するおのれ自身がつねにそれ自身呪縛へと転化することの自覚、それへの不断の警戒が存していたのである。(『理性の暴力』終章より)ー「悪」は「善」から分泌される——哲学者・古賀徹が語る「真理」とは。ーより
「理性としてその理性自身を省察」する。
まさに其れが分別智其れ自体を疑ふと云ふ意味での理性的領域なのだ。
さう「脱呪縛を志向するおのれ自身がつねにそれ自身呪縛へと転化することの自覚、それへの不断の警戒」こそが眞の意味での理性の働きー仕事ーであるべき筈のものだ。
ー「公害の被害者と語るときしばしば問われるものは、現在の科学技術に対する不信であり、憎悪である。衛生工学の研究者としてこの問いを受けるたびに、われわれが学んで来た科学技術が、企業の側からは生産と利潤のためのものであり、学生にとっては立身出世のためのものにすぎないことを痛感した」(宇井純 『公害原論』「開講のことば」から)ー「悪」は「善」から分泌される——哲学者・古賀徹が語る「真理」とは。ーより
其の「立身出世」と云ふ謂はば前向き指向と云ふもの其れ自体がほぼ獣の論理なのであり理性的な内容の物語には非ず。
対して眞の理性は立身をもまた出世をも拒む。
其の種の現世利益性を逆に放逐して行くことこそがまさに眞の理性の役割なのだ。
或は理性が眞に目指さねばならぬことこそが其の企業の側からの生産と利潤の論理からの脱却であらう。
特に利潤追求の論理は良く無ひ。
利潤追求は必ずや搾取を生じ其の搾取により資本主義は最終的に矛盾化しやがては回って行かなくもならう。
利潤追求の論理其のものが誤謬其のものなのでやがては其のやうなことに陥って行かざるを得ぬことだらう。
ー水俣を知ったことにより、それまでオーディオや無線やパソコンが大好きだった私は技術への生き生きした素朴な歓びに翳りを抱き、ひいては自分自身に深い罪責感を感じるようになった。(中略)科学技術は、何かを覆い隠して成立している。その蓋を私は開こうとしていた。(『理性の暴力』第四章より)ー「悪」は「善」から分泌される——哲学者・古賀徹が語る「真理」とは。ーより
わたくしも何度も此れ迄に述べて来たのだったが、近現代とは科学技術による暴力の時代であった訳だ。
🚗や✈はまた原発や🚀がまさに其の暴力其のものだった。
何せ元々まさに詩人肌の詩人にはそんなこと位はずっと昔から分かって居た。
でも理系の癖に其のことに気付ひた此の方ははほんに偉ひお人である。
ー脱呪縛がそのまま呪縛化するというこの矛盾は、日本語における哲学教育、もしくは哲学研究にそのまま妥当する。(中略)はじめて哲学書に触れたときには世界が開かれていく胸躍るような解放感にとらわれ、そのまま哲学を専攻することを決意するも、ある思想家研究を自分の専門と決めてそれに追従するようになると、いつしかそのテクストの洞窟に閉じ込められる。(『理性の暴力』終章より)ー「悪」は「善」から分泌される——哲学者・古賀徹が語る「真理」とは。ーより
かくして言語による概念其のものが元来呪縛化されて行かざるを得ぬ。
哲學も基本的には言語により構築されし概念なのでいつしか其の枠内に認識が落とし込まされて行かざるを得ぬことだらう。
では考へねば良ひのかと言へば無論のことさうでは無ひ。
人間は考へることを止めるとさうして獣となって行かざるを得なくなる。
科学技術が考へぬのは、むしろ其れが信仰の域にまで達して仕舞って居るからだ。
だが其処は矢張りと云ふべきか無知としての洞窟なのだ。
其れもかのプラトーンが述べたが如き無明としての洞窟の住人であるに過ぎぬ。
ー西洋の伝統は、貴族の城館や秘密警察の本部といった暴力装置を、その建築物を破壊することなしに使用目的のみを転換する。暴力的な支配者の執務室は民衆によって占拠され新しい市長の事務室となる。暴力の前線基地は平和の本拠地となる。革命の勝利はその転換を展示し現実に機能させることにより公衆に対して常に可視化されてきた。(中略)だから理性はいかにそれが腐敗し、崩れ去ろうとしたところで、自らの構築物がリノベ―トされる希望を未来に持ち越すことができる。(中略)崩壊した何かを組み替える可能性を未来に贈与することができるだろう。(『理性の暴力』終章より)ー「悪」は「善」から分泌される——哲学者・古賀徹が語る「真理」とは。ーより
なる程近現代文明の暴力装置はさうして価値転換され再利用されて行く訳だ。
ー暴力の前線基地は平和の本拠地となるー
全く恐ろしひー空恐ろしひ限りでのー社会での流れがかうして組み上がる。
ちなみにわたくしの場合もまた此のブログにて社会の善なる価値の其の虚偽性を突ひて来たつもりである。
最も単純な例でもって其の社会の虚偽性を以下に示さう。
さても第一次世界大戦と第二次世界大戦は一体誰が引き起こしたものなのか?
其の世界大戦により近現代以前にはまるで考へられなかった程の数の犠牲者を生んだ訳だ。
で、誰が其の悲惨を、まさに阿鼻叫喚の様を其処に現出させるに至ったのか?
實は其れは時代であり進歩であるところでの其の抽象性こそが引き起こして居るものなのだ。
だから誰が悪ひ、アレがイケなかったと云ふ具体的に示される悪事では無ひのだ。
また右の思想ー全体主義ーが悪ひ、或は左が悪ひー自由主義ーと云ふものでも無ひことだらう。
強ひて言へば其の人間の社会其れ自体の進歩であり時代であるものこそが悪ひのである。
いやもっと言へば人間の社会其のもの、或は人間其のものが悪ひのだとも言へやう。
つまりは結果的に此処まで来て仕舞ふ。
すると其の問題の須らくはまさに宗教的な課題と化して仕舞ふことだらう。
ーだから理性はいかにそれが腐敗し、崩れ去ろうとしたところで、自らの構築物がリノベ―トされる希望を未来に持ち越すことができる。(中略)崩壊した何かを組み替える可能性を未来に贈与することができるだろう。(『理性の暴力』終章より)ー
さうして理性に可能なのは常に宗教的な方策よりもより限定的な方策とならう。
つまるところはー崩壊した何かを組み替える可能性を未来に贈与することができるー位のことしか其れは出来ぬのだ。
ある面では其れがまさに人文、また社会科学としての課題なのだらう。
だが科学技術其れ自体にはむしろ一番必要な「考へる」力其のものが欠けて御座る訳だ。
ー「なんで建築が嫌になったんだろう」と考え続けるうち、「きっと私が何かを作る力をその建築が奪っているからだ」と思いつきました。
人は学校という職業訓練校を出たらどこかの組織の「部品」になる。そこで得た金でモノを買う。家だったら、建築家が設計したいわゆる「クリエィティブ」な家をローンで買う。でもそこで自分の創造性は全く活かされません。出来上がった家に創造的に関わることもできません。これも要するにテンプレに従って働いて、それにしたがって買っているわけです。建ったばかりの新品が一番いい状態で、建築物の中での日々の暮らしにおいて分泌されるであろう何かを「無いもの」にしている。
そもそも建築って何だろう。生きている人間が、自分の住まいを作るということはどういうことなんだろう。それを考えると、今までできあがってきた方法論が、疑問にさらされるようになる。
だから僕は「自分で(家を)ちょっとずつ作ってます」「ボロボロの家を買い、こんな感じに自分で作り直して暮らしています」と話しています。そうするといわゆる建築家はあまりいい顔をしないんですけど。ー「悪」は「善」から分泌される——哲学者・古賀徹が語る「真理」とは。ーより
さうして何かを造ることこそが構築だ。
人生とは其の構築であることからは決して免れ得ぬことだらう。
だが其の構築主義には實は盲点がある。
何故なら創造とは破壊であり、破壊とは創造のことでもまたあるからなのだ。
創造⇔破壊
神⇔👿ー罪ー
佛⇔煩悩
現象とは其のやうに常に対義化される相対物のことなのだ。
近現代の文明を築くこととは左様に創造と破壊を常に繰り返して行くことだ。
其れも近現代以前での社会での創造と破壊をより抽象的に組み上げて行くことなのだ。
だからこそ其れは社会が悪ひんである。
元々其の社会が危うひ訳だ。
其の社会が危うひ様を常に見詰め構築せし価値の修正を計らねば其の価値は全的に崩壊して行きかねなひ。
其れは常に危機に対してセンシティヴな対応が求められて居ると云ふことなのだ。
ところが社会に従ひ生きると、残念ながら其の社会的な方法論に沿ひ価値観が組み上げられて仕舞ふ。
学校だの塾だのが社会の部品として其れを教へるものだから其処に固定化された価値が堅固に組み上げられて仕舞ふ。
いや学校ばかりか、天皇制だのまた其の逆の革命思想にせよさうした社会的に構築される価値は思想的に絶対的なものとなって行き易ひ。
政治的、思想的な価値に限らず宗教的な価値もまたさうなのだが其れを堅固に築く程に絶対的なものとなって行き易ひきらひがまた其処には常にあらう。
だが哲學は自身をも疑ふことで其の構築主義其れ自体を脱構築して行くものなのやもしれぬ。
つまりは、
神佛⇔哲學
なのだともまた言へやう。
尚、ひとつ御留意頂きたひのは、○⇔✖の関係に於ひてどちらが上、またどちらが下だと云ふことはそも言へぬことなのだ。
👨⇔👩
印度人⇔阿弗利加人
白人⇔亜細亜人
利口⇔馬鹿
人間⇔動植物
此れ等の関係はそも相剋し尚且つ相即するものなので其処に優劣としての上下関係が生ずるものには非ず。
まさに其れが無分別の智慧から見た平等且つ横一線での認識なのだ。
さらに極端に言へば、
金持ち⇔ルンペン
ともなり、要するに菩薩級の智慧からすれば金持ちーたとへば大金持ちのイチローや大儲けのTOYOTAーもルンペンさん-すでに死んだが大借金のかの岸部シローや大赤字のNISSANなどを含む-もほぼ同じ穴の狢であるに過ぎぬ。
ではより高度な問題に就き考へてみませう。
うはあ、コレなんぞはまさに史上最大の難問だぞ。
しかしながら、ま、此の場合にも所詮は相剋し尚且つ相即する関係性にあり従って優劣は付けられぬと云ふ結論へと導かれやう。
佛教⇔キリスト教
と云ふこともまた言へ他方を否定することなど出来ぬとわたくしはまた考へる。
だから教会へも出向きたひところながら12月はまたバカバカしくも何かと忙しく教会のツリーのイルミネーションは近くの瑞穂グランドの横の教会位しか見に行けぬ。
さても寺の方はどうなって居るのだ、其の寺は?
クリスマスの期間にはイルミネーションの無ひ寺のことなどはどうでも良ひのか?
いやさうでは無ひのであるが、12月に限れば矢張りと云ふべきかイルミネーションのある方でのことだらう。
さても此のコロナまみれでの年の瀬を迎へし人間の社会は一体今後どうなるのでせうか?
まあどうにもなりますまひ。
さうして京のおせちでもって年越しして相変はらず腹一杯となりつつ相変らず下らぬ吉本のお笑ひ番組などを視ての寝正月でせう。
でもNHKの番組の方は馬鹿番組では無ひでせう?
まあさうですね。
とりあへず正月にずっとTVを見て居たことなどこれまでに無かったことですのでーずっと正月休みが少なかったーフリーの身となる来年は是非TVばかりを視て居たひ感じですかね。
其れと神社巡りですね。
いや、然し神社巡りも其れは今やマズひですよ。
第一神社を参拝し、「コロナに罹りませんやうに。」とさうお願ひしたところ一緒にお参りして居た其の見知らぬ人のコロナを確り移されちゃひましたー、では話にも何もなりません。
第一あんな熱田神宮だの伊勢神宮だの日に何万人、何拾万人も参拝者が訪れるところはどうなるのでせうか?
其れもまあ御賽銭が減ることだけは確かでせう。
いや、待てよ、さうか!
其の初詣も結局寺へ行けば良ひのだよ、其の寺へ。
さうして初勤行に初念佛でもってして佛法としてはまさに完璧だ。
するとクリスマスは教会ー南山や岳見の教会でーのイルミネーションを見てからクリスマスケーキをひとつ全部食べ正月にはまた神社と仏閣巡りなのですね?
まあさう云ふことです。
其れと御屠蘇ね。
家からたった百米の西八幡社でもって其れがふるまはれる可能性も零では無いので其れを狙って行ってみる価値はありませう。
しっかしクリスマスケーキひとつを全部食へるものですかね?
食ふ時を二回に分ければ楽勝です。
何せ菓子の量を食へるのがわたくしの特技なのです。
ではデカひクリスマスケーキふたつを一日で食っちまふことも或は可能なので?
食ふ時を四回に分ければおそらくは其れも楽勝です。
また恒例の年末の第九も教育TVにて是非視ねばなりません。
其れも普段は聴かぬのですか?
交響曲は余り聴きません、ベートーヴェンはピアノソナタの方をあくまで専門的に聴き込んで居りますので。
其れももう四十年余りもね。
尚来年は是非宝蔵寺ー其の西八幡社の横の曹洞宗の寺ーの参禅會へと出向ひてみる積もりで居ります。
いずれにせよ社会にもまた我にも来年は何かが起きそうな気さへも致しますがさて果たしてどうなることでせうか?
ー何せ料亭だの観光地のホテルだのが今後廃業に追ひ込まれて行くことだらう可能性が高まって来た。また飲み屋の多くも今後潰れることだらう。問題は政府や自治体に其の危機への対応能力がそも欠けて居ることだ。全くのところ社会が馬鹿過ぎてお話にもならなひ。馬鹿も此処まで来るとまるで獣並だ。でもじぶんだけはボーナスを何百万も貰ふつもりなのだ、全くそんな偽善が此の世の中に罷り通るとでも思って居るのだらうか!ー
ーもう革命しろ!此の際革命だ。為政者は挙って早う断頭台へと出頭すべきだ。ギラッチーン。で、我はさうして年末年始のTV番組を視ながらケーキやおせちを食ってるばかりだらう。ー
其の正月の御勉強のご予定などは?
毎年恒例の冬休みの宿題からはもう引退するのだ。
其れにかうしてもう教養にてまさに頭の中がはちきれんばかりだらう。
だから此れ以上御勉強などしちゃダメなんだよ。
でも其の割に読まねばならぬ本がむしろ山積みなのだ。
とりあへずは『哲學と謎』と云ふ實に面白さうな本を読んでみるつもりだ。
さても哲學はコロナの大問題をどう規定して行くのか?
と云った至極現實的な興味もまた其処には生じて来て居る。
其れは哲學者の面々がコロナ禍と云ふ具象的限定を果たしてどう捉へて居るのかと云ふ問題のことでもまたある。
嗚呼、さう言へば昨日上司が祇園の花舞と云ふところのおせちを注文したとさう自慢気に申しても居りましたとさ。京都祇園 「華舞」監修特大重 夢の舞