目覚めよ!

文明批判と心の探求と

『デビルマン』に於ける明の選択


ギリシャの小説家であり詩人でもあったニコス・カザンザキスは、かって『最後の誘惑』の冒頭部でイエス・キリストにみられる顕著な二元的な心理の対立、又は葛藤の様を挙げ、さらに其のことこそが自分自身の追求する人間としてのテーマであった旨をも述べて居る。

即ち聖なるものは必然としてかような二元的対立の世界を垣間見て仕舞ふこととなる。
聖なるものであるか又は勘の鋭ひ者=文人気質のある者には必然的にそんな心理領域の葛藤が付ひて回るのだ。

ところが実際に『最後の誘惑』で描かれたものとはあくまで其れもフィクションとしてではありますが人間キリストの弱さでもあった。

後に映画化された『最後の誘惑』ですが其処では確かにイエス・キリストのことが如何にも聖人であるかのやうには描かれて居なひ。

なんですが、逆にわたくしは其処にフィクショナルなものではなひ何かを感じて仕舞ひます。
と云ふのも、其れ即ち聖とは俗のことでまた聖とは魔のことでもあるからなのです。

其のやうな分離こそが人間をさう規定して居りませう。

ところが決まって敏感な人にだけ其の様は見えるのです。

だから心には其の敏感であるか其れともさうではないかと云ふ違ひがあらう。

聖なるものは善の権化でもってして悪を徹底的に忌み嫌ふ性質を持つ。

其れは結果的にさうなるだけのことでむしろ其の内面には常に善悪の闘争状態を抱へ持つ。

勿論悪に傾けば心が弱くもなりませうし善の方へ武装化すれば強くもならう。

だが善とはむしろ弱さでもまたある。


其れこそ軍隊やら警察組織の如くに限りなく己にとっての悪を掃討する全体主義を其処に生み出しかねない。


ですが宗教はまた其れとも違ふ。
宗教は其の対立なり葛藤なりを其のままに抱え込むべきものだ。
故に軍隊やら警察組織の如くに単なる治安維持組織になどなって仕舞ってはならぬ。

さうして宗教こそが人間其のものを見詰める領域のものであるべきなのだ。

左様に悪の本質とは弱さです。

弱さではあるが他面では其れは其処に人間性を問ふものでもある。

だから善のみを見詰める宗教と云ふものは存在しなひ。

人間存在が抱へ持つ悪と対峙してこそ、また不合理な面と対峙してこそ人間の全体像が其の心の全てが顕わにもならう。


勿論文化とは其の弱さを見詰め続けていくものでもある。

美とはさうした弱さをも見詰め続けていくものでもまたある。

が、弱くあれば同時に強くもあり得強くあれば同時に弱くもなり得やう。

まこと此の世の事象とは相克し同時に相即するものなのだ。


たとへば善と悪。

此の人間の心理の本質としての対立は美を生むと同時に醜を生み、生を賛美するかと思へば破壊へと導く。

善と悪もまた相克し同時に相即する関係であることからは免れず、故にまさに善あって悪があり悪あって善があらう。

善のみの善は無く悪のみの悪はまた無く其れを生きて行かざるを得ぬのがまさに人間なのだ。


人間を離れて其の対立的でかつ相互に依存する関係が成立するものでは無ひ。

人間以外に其の矛盾と葛藤に充ちた心理を体験せねばならぬ者は居なひ。

故に人間が何をどう生きるかと云ふことこそがむしろ其処に問われて居やう。

対立的でかつ相互に依存し合ふ善と悪の関係に於ひてこそ其処での選択権が与へられて居るのだ。

其のやうな選択こそが人間を形作る何か本質的な作用だ。

選択にこそ人間の意義があり其の意義は常に問われて居る。



其処に純粋なる善は存せず、且つ又純粋なる悪が存することも無ひ。

我我はどうも其の複合体なのだ。


善であり得、且つ又悪であり得、であるからゆえに善其のものではなく且つ又悪其のものでもなひ。

ただし常に其の立場を選択し得る現象なのだ。

其の相対的規定としての善悪の立場を選択し得る。

其の選択の行為こそが神と魔の闘ひであり、或は佛と魔の闘ひでもまたある。


宗教的な心理過程とはまさに其の選択の過程をこそ示したものだ。

常に其れは善であり続けやうとするが同時に悪にも傾く。

なんとなれば本質として善は悪を抱へ持つからなのだ。


逆に悪もまた善をも抱へ持たう。

故に悪もまた善の一部であり同時に善もまた悪の一部なのだ。

ただし選択は常に突き付けられて居やう。

人間の行為は選択により生じ選択にて幕を閉じる。

人間は自然物ではなくかように観念的選択を生きる生き物なのだ。


善悪を論ずるには宗教的な場が是非必要とならう。

だが宗教の反対側から其れを攻めることさへもが可能だ。


さう魔の支配する世界から其れを規定していくことさへもが可能なのだ。


わたくしが中学生の頃、まさにそんな世界観を持つアニメに出くわした。

其れがデヴィルマンである。

デヴィルマンと云ふ物語では魔性と聖性が相克し、しかも相即して居やう。

まさに其れは宗教の反対側から見詰められし人間としての物語なのだ。

まさに愛と破壊とが、其の強きものと弱きものの不断の対比が散りばめられし人間の物語だ。


かように善悪とは人間の中で生ずるひとつの業としての振幅のことだ。

其の振幅こそが罪を生じ且つ煩悩を生む。

理性は本能との振幅を生む。
論理性は感性との振幅を生む。
高貴さは低俗さとの振幅を生み、
聖性もまた魔性との振幅を生む。


其の振幅は畢竟矛盾を生む。

其の矛盾とは苦である。

尤も苦ではあるが、楽である。

楽ではあるが、まさに苦だ。


人間の認識は此の二元論の世界より逃れられぬ。

宗教は其れを善の立場より一元化していく。

だがさうはしない立場、さうは出来ぬ立場もまた此の世にはある。

たとへばアカデミズムに対するサブカルチャー、官憲に対するヒッピーやロッカーと云ふやうに文化には常に幅があらう。

ヒッピーやロッカーが真面目な場合も往往にしてあり得、逆に其の教条主義の方が遥かに不真面目な場合も往往にしてあり得やう。

其のやうにまさに文化にも幅がある。

其の幅こそが人間の幅であり苦の幅であり楽の幅で且つ矛盾其のものなのだ。


デヴィルマンにはまず愛が語られて居やう。

愛とは保持であり友であり👪であり恋人のことだ。

其の愛をあへて破壊する者が悪魔だ。

ところが、其の破壊の根本にもまた愛がある。

デーモンの心の中にさへ愛があり保持がある。

なんとなれば人間を見詰める其の眼差しの中にこそ愛があるからだ。

逆に人間自身に成り切った人間の心中には善と悪、創造と破壊の二極のみしか残っては居らぬ。

其の二極こそが人間をして人間たらしめ、即ち善人と悪人とを生み、世界への同調と反抗を生み、且つ又愛と死、渇望と充たされることとの、即ち苦と楽との、其のざわめく振幅の巨大なる伽藍を形作る。


よって悪とは悪で無ひ。

善とは善で無ひ。

悪も善も、また魔も聖も人間と云ふ二元的展開の属性でしか無ひ。

だが選択権は人間の中に常に存して居やう。

時代を超越しまた性別をまた金のあるなしを問わず其の選択権は永劫に亘り人間の心の中にこそ存する。


たとへばデヴィルマンでは、明君の美樹ちゃんへの愛こそがサイコーの愛であらう。

また明君の大魔王サタンへの友情が其れに続く愛だ。

然し美樹ちゃんはやがて人間共にバラバラに切り裂かれ死んで仕舞ふのだ。

またアキラ君は大魔王サタンに下半身を吹き飛ばされ死んで仕舞ふのだ。

少なくとも此の映画ではさうなって居る。

今プライム・ヴィデオで視聴出来る『デビルマン』ではさうなっておる。


ちなみに此の『デビルマン』はサイテーの映画だとの評価であったが、わたくしに限り少し他とは見方が違ふのでいやコレもなかなかの映画だと思ひつつ感動的に視終へたのだった。

其のやうな深読み、愛と死の意味、また魔と聖の深き洞察が無くばデヴィルマンを理解することなど元よりかなわず、また宗教を即ち聖と魔とを理解することなどかなわず。

さて永井 豪の作品には性と暴力が氾濫して居る。

わたくしの場合永井 豪は『ハレンチ学園』を子供の頃にしか読んで居らぬ。

だがまさに性と暴力こそが生の本質なのだ。

と云ふよりも性=暴力でありエネルギー=暴力なので性とはエネルギーであり其れ即ち暴力の開闢点のことだ。
暴力とは破壊である。
其の暴力とはしかしながら他面では愛へと連なる。

即ち破壊と愛は相克し、しかも相即する。


君への愛は純粋な愛でもって其れが何かとても清く美しひものですよ。

などとはとても言へぬ。

其れは何かとても胡散臭ひもので本質的にヤバいものだ。

母の愛、身内愛、人類愛、博愛。

其の全部が胡散臭ひ。

何故ヤバいのかと言へば其れは本質として逆の面を併せ持つからだ。

第一理性でさへケモノから生まれやう。

其の母ちゃんの腹の中より生まれる他はなし。




昔或る本屋で永井 豪の『ダンテ神曲』をたまたま見つけ其のまま買って来て適当に読み飛ばしておいた。

『ダンテ神曲』とはつまりはキリスト教に於ける胎内巡りのやうなものだ。

「地獄は、アリストテレスの『倫理学』でいう三つの邪悪、「放縦」「悪意」「獣性」を基本として、それぞれ更に細分化され、「邪淫」「貪欲」「暴力」「欺瞞」などの罪に応じて、亡者が各圏に振り分けられている。」神曲 地獄篇より

キリスト教に限らず宗教に於ひて地獄界は不変的に存在して居やう。

其は何故か?

地獄とはまず何よりも心理的な段階を指し示すものであるのだから。

故に其れは理性のあるなしには関係なく人間の心理が陥ることだらう究極としての負の場なのだ。

ただし地獄とは真の意味での破壊の場では無ひのではなかろうか。

何故なら地獄の住人は皆イヤイヤながらも苦しみを受け容れ贖罪の為にまたは煩悩苦に苛まれ刑に服して居やうからなのだ。

ところが現代人の多くは其の罪乃至は無明を自覚することすらしては居らぬ。

むしろソチラの方こそが真の地獄の住人の意なのではないか?


其の罪乃至は無明としての業、まずはコレを自覚することなくば現代人に救ひなど訪れやうがなからう。

其のやうな無自覚としての罪、また無自覚の暗愚としての罪障につき或は彼永井 豪は一石を投じやうとしたのやもしれぬ。

「ほんたうのデーモンは人間である。」
と云ふセリフが『デビルマン』には出て来て其はまさにけだし名言かと思われる。

かようにほんたうの悪魔こそは人間です。

ですが、人間とは弱く即ち脆く永遠に救われず且つ又永遠に欲深き一匹の獣なのだ。

だがおお、たった今見よ、其の眼差しに込められし哀しみを見よ。

汝等の眼差しに果たして邪心があらうや否や?

即ち邪心があるならば汝は悪魔と化し地獄へと永遠に繋がれん。

邪心無きものであるならば即ち清き魔ともなることだらう。


鬼、又は悪魔には、特に東洋の説く悪魔には二面性がある。

即ち善なる鬼、弱き者としての善良なる心の階梯がまた存して居やう。


此処からしても常に人間は邪心無き悪としての途を選択し歩まねばならぬ。

其の邪心無き悪とは多分『デビルマン』の主人公の不動 明君が持ち得る心の状態なのだ。

ちなみにわたくしの本名には其の「明」が入っており其の点からしてもアキラ君が嫌ひではなひ。

ちなみに其の明とは利口の明ー明晰ーだと云ふことであるな。


其の不動 明君とはどう考へても不動明王のことであらう。



さて「ほんたうのデーモンは人間である。」と云ふ命題は洋の東西を問わずにまさに其の通りでのことだ。

たとへどんな猛獣であれ自然界に罪は生ぜず。

罪とはまた無明とはまた煩悩とは畢竟其れは人間の心理が生むものなのだ。

ただし其れを自覚して居るか否かと云ふ選択の問題であると述べて居るだけのことだ。

即ち目覚めるか否かは、其の心の選択の成否にこそかかって居らう。

さうして罪を自覚した人間はまさにキリスト教浄土教でのやうに救済されるのであらう。
また密教でのやうに自性の清浄を観想し其の清浄なる大宇宙とやがて一体となれるのやもしれぬ。


ハレンチ学園』で描かれし性としての創造は即『デビルマン』で描かれし破壊へと連なる即ち裏返る。
故に創造とは破壊ー暴力ーであり愛ー創造ーとは死ー破壊ーであり聖とは魔のことでもある。

其のやうに二元が相克ししかも相即する形で人間を形成する。

然し真の意味で人間に成し得るのは常に選択のみだ。

弱さとは、一面では真の意味での強さにも繋がって居る。

だが弱きものは単独ではあくまで弱ひ。

勿論強さが無ひからこそ弱ひのだ。

だが実は其れが強さにも連なっていく。
裏返ることが可能だと云ふ意味で其れが強さなのだ。


強きものは逆に案外脆ひ。

強きものは弱きものを反故にして欲望を遂げることなど出来ぬ。

何故なら連なって居るからだ。

或いは裏返るからだ。

だから本義的には同じものの両面でしか無ひ。



尚TVドラマで其の「ヒゲゴジラ」を演じた俳優が実は若くして自殺して居る。


其のいやらしひと云ふことこそが実は人間の本質を示しておる。
其のいやらしひと云ふことこそが神と悪魔の対立を生み出し、地獄及び煉獄の有様を生じまた血の池地獄や無間地獄などを生んでおる。
其のいやらしさを問題として捉へ藝術上の主題として取り上げ追求した人は西洋人にもちらほらと見受けられる。

だが基本的にいやらしさを超越することの出来る理性を持つ人間などまず居やあしなひ。

よって人間は何処までも此のいやらしくしかも騒がしひ世界に縛り付けられて居る。

尤も其処でもって選択することは出来やう。

あくまで其の騒がしくしかも淫蕩な魔としての二元的選択は可能だとさう述べて居るのだ。






こんな新たな解釈でのデヴィルマンの展開もまたある。


デヴィルマンは文明崩壊、人類滅亡の様を描く物語でもまたある。

其処で永井  豪の描く破壊ー所詮は自滅ーの様はまさに徹底されたもの。

最終的には明にとってただひとつのかけがへのなひ愛の対象であった美樹ちゃんさへもがブチ殺されて仕舞ふ。

人間は普通此の愛を原動力となして今を生きる。

自己愛と家族愛、また帰属愛が其の寄って立つ根拠であり生き甲斐其のものなのだ。

たとへ宗教とは言へ此の帰属愛の辺りに留まり一種の閉鎖的な社会愛、共同体愛のやうなものになって仕舞って居る場合がほとんどだ。

だが宗教とは元来破壊をこそつまり究極的に弱きもの、滅びゆくものの側に立ち展開しなければならぬ精神的な次元のことだ。

社会化されし宗教が道を誤るのだとすれば+の面にばかり傾き欲望化されし閉鎖空間に閉じ込められし時だ。

即ち創造的価値、+の価値そのものには元来意味が無く其処に破壊的側面、其処にマイナスの価値を見据へてこそ両義性の全体像が見出され其処で選択することの意義に気付くことが出来る。

デヴィルマンでの文明の崩壊とデーモンによる支配の開始はまさにわたくしにはさう理解される。

おそらくは其のアキラこそが選択者だった。

然し其のアキラは滅びやがてデーモンが蔓延っていく。

所詮其れは人間不信と云ふことなのだらうか。

と云ふよりもおそらくは人間其のものへと向けられし究極的なメッセージなのであらう。

言ふまでもなひが人間其のものを客体化せずば此のやうな結末を導くことなど出来ぬ。

まさしく永井  豪こそが其の善と悪を、さうして聖と魔の意味を本質から問うた藝術家である。

尚かって永井  豪が描ひたキャラではミケーネの貴族夫婦のミイラを一体化したとされる「あしゅら男爵」こそが白眉である。
両性具有と云ふか男女合体の「あしゅら男爵」が齎すインパクトは兎に角強烈だ。