さて、其のネガティヴな感情、謂はば負の情動が果たして合理化により失われて仕舞って良ひのか、と云った部分である。
かのランボーでの話でのやうに正義の怒りとしての社会への報復としての戦闘は其れが凄まじひものであるにせよ間違ひなくひとつの力として作用して居た批判力だった。
逆に社会に役立つ怒りとして体制側にとっても其れが必要なものでもあった。
まさに宗教などの権威化する力にとってもさうなのだが、其処への逆向きの力の作用こそがむしろ宗教をして均衡させ長きに亘り其れを保持することにも繋がらう。
其のやうにして、保持すること、維持すること即ち保守の立場に於ける要諦とはむしろ逆向きの力を厭わぬことなのだ。
現状でのむしろ逆向きの力をこそ其処で見詰め其処から學んでいくべきなのだ。
何故なら此の世界とはまさに二元的に構築されし世界であるからなのだ。
根本のところでもさうであるが、西欧近代としての価値観を奉ずる以上はまさにさうである。
其の善と悪の二元対立の有様、現実に即して言へば勝ち組と負け組とに二分される資本主義社会の様、また勝ち組と負け組とに二分される帝国主義による世界侵略の様、さらに戦後の資本主義陣営と社会主義陣営によるイデオロギー対立なども皆其の二元的な対立としての枠組みの中での話である。
最終的には其の対立が神と悪魔との対立、即ち善と悪との対立にまで還元されやう。
さうして西欧近代としての枠組みの中ではむしろ其の負の情動こそが必須であらう。
たとへばトランプ政権とは其の負の情動としての象徴でもあらう。
まさに其のやうに分離して居らう。
だから分離を厭ってはならぬ。
ネガティヴな情動を失ふべきでは無ひ。
其の為にはまずは女の尻に敷かれること、まさに其のことから逃れねばならぬ。
女の尻に敷かれることとは、其の女の尻の価値観にまるで染め上げられしことぞ。
いや女の胎の奥の奥のおおまさに其の悪魔としての欲望にしかと染め上げらしことぞ。
まずは其処を遮断すべし。
さうしてもって文學と哲學とに親しみ現世に於ける諸の巨大なる欲を断つのじゃ。
するとアラアラ不思議、此の世の全てが、いや人間の営為のみがまるでアホンダラであるかのやうに見へて参りました。
さうだ、其処にこそ君の理性化は成ったのだ。
結果的に君は一万冊もの本を読みもはや廃人と化して居らう!
其のやうに理性の追求の果てに於ける解脱の方法もまたあるにはあらう。
が、其の理性化は常に危険を伴ふことであらう。
危険を伴ふ其のことの内容につきかって書かれた小説があり其れがコレだ。山月記 中島敦
コレがまさにじぶんのことが書かれたものだったので實は昔から気になって居り一度是非評してみたかったのだけれど心理的な余裕が無ひ故是非そのうちに書かせて頂く積もりである。
🐅になれリングの🐅になるのだと云ふまるでかのタイガーマスクでのやうなお話なのだが實は理性と現実との闘ひの様を描きし日本文學としての名作である。
が、本日はコレにつき書く積もりは無くさらに過激なことにつき論じてみやうかと思ふ。
つまりは其れが『仁義なき戦い』のことだ。
何とコレが今アマゾンのプライム・ヴィデオにて視放題だぞよ。
其れも会員になって居ればの話なのだが。
それではコノ事につき少々論じてみやう。
まず、暴力であるが、其れは=破壊であり創造、維持との対概念である。
なんだけれども、暴力が實は生を駆動させてもおる。
何故なら生の駆動力とはそも矛盾なのだから故に。
創造、維持=愛とも目されやうが、そも其の愛もまた矛盾化しやう。
君等の妻への、また子への愛などは皆矛盾化するのである。
理性的に解釈する限りはどうしてもさうなる。
其処で宗教は其の矛盾化せざるを得ぬ限定されし愛を逆に普遍化していく。
キリストの愛や佛や菩薩としての慈悲、また母の無償の愛などが其の普遍化されし愛の内容である。
但し母の無償の愛はケモノ臭さがまた混じっているが故にアガペーの段階へと至っては居らぬ。
さらに實は暴力もまた其処に含まれておる。
なんとなれば生とは二元的対立要素間での相克し相即する過程其のもの、つまりは其の矛盾的展開を推進力とする一種の破壊過程でもまたあるからなのだ。
むしろ其の破壊と云ふか劣化こそが本質的変化なのである。
要するに良くはならなひ。
其れも残念ながら人間だけが良くはならぬのだ。
じゃあ自然は良くなるの?
良くもなりませう。
何故なら彼等には観念欲が無ひのだから。
でも恐竜があのまま進化したとしてですよ、其れでもって恐竜人間にでもなれば結局は同じことで彼等もまた其の観念欲にて滅んでいきませう。
つまり人間だけが悪魔でもって人間だけが何かとてもイケナヒものなのだった。
何でそんな思想が組み上がりますかねえ。
誰がどう見てもオカシヒ考へだと思ひますよ。
いや、其れはほんたうのことです、ほんたうの。
但し此の世ではほんたうのことは述べられぬことにもなって居りませう。
其れを述べると決まって🐅にでも変身して仕舞ふのだ。
ですから、ほんたうのことだからと言ってかのランボーのやうに戦闘したり社会をネチネチと批判して居るともうエラヒことになりまっせ。
なんですがわたくしはまだ一度も発砲などして居りませんのですし爆破するとも言って無ひしただ小言を述べ続けて来たばかりでのことだ。
だからわたくしは近ひうちに🐅となり皆様の視界から消え去っていく運命にある。
いや、おまへが🐅になることなどはどうでも宜しひ。
第一おまへは今日は山月記に就ひて論じたりはせぬとさう述べて居た筈ではなかったか。
ああ、まさにさうでした。
今日はわたくしの大好きな菅原 文太氏につき是非論じていかねばならなかった。
故菅原 文太いや暴力につき是非考へていかねばなるまひ。
さてつまりは其の愛こそが破壊と裏腹である。
創造こそが破壊と裏腹なのだ。
だから一神教の神は民を愛すると共に神に背きし文明を破壊するのだぞよ。
要するに破壊と維持、愛と破壊は1セットなのである。
だから其れをリセットする為には神に救済されるか、或は佛に帰依し此の世から消え去るか、のどちらかでしかあり得ぬ。
もしも俗世間的にケーザイの成長だの👩と年寄りの活躍社会だのそんなことを目論んで居るうちは其の破壊とはまるで縁など切れはせぬ。
正しくはケーザイを停滞させ皆で山に籠り其れも一軒家にてずっと静かに暮らしていくことこそが大事。
其れでは日本国は滅びませうが。
さには非ず。
日本国はさうして山の民としてこれからを生きていくのよ。
文明に背を向け文學三昧でもってしてしかも哲學三昧。
まるでかの竹林の七賢の再来の如き国民性が其処に醸成され世間離れして居ること此の上無し。
尚ヤクザとは一体何であらうか?
ヤクザとはアウトローでありアウトサイダーのことなのであらう。
元よりコレは社会に背を向けて歩む逸れ者、溢れ者のことなのであらう。
だが其れを言へば詩人や作家もまた本質的には其の逸れ者、溢れ者であると云ふことにもならう。
只武器が違ふだけのことであり、本質的には表現者もまたアウトローでありアウトサイダーであることからは免れ得ぬ。
暴力即ち物理的な破壊力と批判力即ち精神的な破壊力との差があるだけの話で結局は共にヤクザである。
暴力即ち物理的な破壊力が社会的に是とされる場合もあり即ち其れこそが歴史上枚挙にいとまなく繰り広げられて来た戦争の歴史である。
重要なことは、大規模な戦争は社会の発展と共に引き起こされて来て居ることだ。
狩猟採集の民が大規模な戦争を引き起こすのではなく農耕牧畜による文明の発展と共に次第に大欲望が解放されるに至り従ってより大きな戦争へと至るのである。
即ち戦争とは實は至極理性的な意味での暴力なのだ。
其れは理性に欠けるが故に引き起こされるものでは無くむしろ理性的に自国の利益、人民の利益を追ひ求めるが故に引き起こされしものなのだ。
つまるところ愛がある故に、愛国心、郷土愛、妻への愛、子等への愛がある故に其の暴力的な破壊が是認されて仕舞ふのである。
釈迦ではなひが、其の愛を根本から捨て去ることなくば此の世から戦争など無くなることはなひ。
ほんたうに理性的に生存の意義を考へるのであれば其の愛をも共に捨て去っていかねばならぬ。
だが其れでは人間の社会を維持することも出来なくなる。
其れでも釈尊御自身は真理を重視されたがゆえに善逝の母国はやがて大国に侵略され滅びた。
其のやうな意味で社会を存続させることこそがむしろ破壊乃至は矛盾の根本因となるのである。
其の破壊こそが暴力の本質であらう。
おまへなんかもう此の世から消へ去れ!死ね!
と云ふことなのでまさに其れぞ悪魔の囁きのことだ。
無論のこと其れはヤクザの本質にもしかと組み込まれて居やう。
だから映画『仁義なき戦い』では其のヤクザ同士による殺戮シーンが次から次へと登場する。
だが其の殺戮シーンに対する心理的な捉へ方は男女により大きく差が出ることだらう。
おそらく女性は此の『仁義なき戦い』を正視するに耐へぬのやもしれぬ。
だが男性は案外楽しくコレを鑑賞するのである。
何を隠さう、わたくしは昔からコノ手の映画の大ファンで、其れも全シリーズを視た後に五年程経つとまた決まって全部を視たくなるのである。
かと言ってDVDは持って居らず動画での視聴の購入の方も存外に高ひので今回の無料視聴はまことに嬉しひ限りでのことだ。
男性はかように殺戮シーンがとても好きである。
元より愛の詩人である我なども何故かコノブチ殺しが嫌ひでは無く何でかと云ふとスカッとするからだ。
そうかと言って暴力反対!の面が無きにしも非ずで其処はまさに矛盾して居るやうにも思われるのだが逆に言へば愛があるからこそ其の反対に破壊が即ち暴力が存するのだ。
だが其れはあくまで男性の心理に於ける二元性なのだ。
女性の場合にはあくまで肉体的な二元性なのでまた違ふ心理特性を持ちおそらくは此の種の殺戮シーンを視ることなどまず考へられぬことだらう。
社会の不条理さを絵に描ひたかのやうな矛盾に充ちし組長に向かひ、
ヤマモリさん、まだ弾は残っとるがやう。
と言ひ放つ文太演じるところでの廣能の反骨精神たるや凄まじひものだ。
其れは👨一匹でもってして社会と対峙し刺し違へんとするかのランボーに於ける破壊力とまさしく相似形のものである。
其の男の生き様、惚れ惚れとする気風の良さに対し男性は限りなく心理的に惹かれていくのであり其処に必ずしも肉体の破壊を玩んで居るのでは無ひ。
大きな、さうして変わりやうのなき矛盾や不条理に対して否定を突き付ける其の男の胆力にこそ我我男性陣は惚れ込むのでありよって其れぞひとつの男性的なエネルギーであるとさう見ておかねばなるまひ。
一方でさうした男性的原理に対する風当たりが妙に強くなりつつもある。
即ち無頼や放蕩、また反骨と云った精神のあり方が時代の変化ー合理化ーにより反社会性と云ふ負の価値へと貶められつつある。
其の反社会性のレッテルは、しかしながら少々違ふのではなひか。
強ひて言へばさうしたオヤジ共のちゃぶ台返しこそがかの國の発展を支へて来た何ものかではなかったか。
其の恩義を忘れ単なる机上の平和思想、暴力反対!思想に堕するやうではそれじゃあまるで日本共産党の掲げる理想論と同じやうなものだ。
わたくしのやうな批判体質者も確かに厄介なものながら自称の詩人は自称の詩人でまた腹を括った上で其れをやって来てもおる。
ちゃぶ台返しも時に勃発する男性同士での殴り合ひもまたかっての日本社会ではあって当然のものだったのであり逆に無ければ其れは女々しきに堕した草食👨としての姿を晒すだけのことだ。
わたくしはかように女々しく出来上がって居る故か力強ひ男性が其れも見た目にでは無く根性のある男性、腹の据わった男性がとても好み♡なのだ。
尚反社会勢力は無ひに越したことはなひのだが謂わば必要悪であるとわたくしは考へて来て居る。
つまりはヤクザが居るからこそ警察の方もまたあるのであらう。
其の関係性は男女であるとか、老人と少年であるとか、さうした対義的なものでもまたある筈だ。
どだい平和とは戦争が無ければおそらくは成り立たぬものなのだ。
平和其のもの、幸福其のもの、非暴力其のものを極として此の世で追求していくのはおそらくは欲張り過ぎなのではなひだらうか。
暴力は無ひ方が良ひかと言へば必ずしもさうとは言へずむしろ其のことにより鍛へられていく心と云ふものが明らかに存して居る。
わたくしはこんなに理性的であるにも関わらず昔は存外に車でのトラブルなどで殴ったり殴られたりもして居たのである。
そんなところからむしろ暴力の怖さを肌でもって知ったのかも知れぬ。
さて、ひとつだけ最後に言わせて頂きたひのは、子宮思考に取り勿論暴力は反対の筈である。
ところが戦争でもって武勲を立て敵を何十人も殺し勲章でも貰へば何処の國の女共でも其の社会的評価を喜ぶのであらう。
むしろ其の価値観こそが一番の暴力だ。
矢張りわたくしの批判力は其の👩の矛盾にこそ向けられていかねばならぬことであらう。
暴力団対策だの何だのさうした男性批判のことではなくか弱き女共をこそ攻撃する、そんな眞正直で立派な詩人にならずしてどうする。
か弱き女共こそが實は最高権力者でありコノ腐った世の中の支配者であらう。
そんなお局様方の攻撃から身をかわしつつ近代思想と結託せし子宮思考と刺し違へてみよ。
尚文太さんのことを書き洩らして仕舞った故次回は是非男らしく文太特集の方でいかうと思ってもおる。
「師走特集 もしや文太さんは左翼?」てな感じでな。