山に入ると、こんな🐻に食ひ殺される虞が多分にあらう。
🐻とは生易しひものでは無く生きたまま人間の内臓や手足などを貪り食ふ。
其の折にはバリバリと骨の砕ける大きな音がする。
其処では🐻は人間を獲物としか見て居らず情け容赦なく人間の肉体を食ひ散らかすのだ。
何故🐻は人間を喰らふのであらう?
其れは彼等には理性が通じぬからだ。
元より自然界に対しては理性など通ずるべくも無ひ。
熊、虎、鮫、ワニ、などの肉食動物には元より理性など通ずるべくも無ひ。
奴等には合理的な肉食、タダ其れのみが神から与へられし能力なのであり其処には観念的な意味での理性などこれっぽっちも無くあるのはタダ血に飢へし本能だけだ!
其の本能の力と今まさに対峙してみよ。
イザ山のさ中で其れに遭遇してみよ。
其れこそAIどころの騒ぎでは無ひぞよ。
AIなどは金輪際要らぬと其処でしかと気付かせて呉れやうぞ。
山の神よ、おお血に飢へし胃袋よ殺戮の掟よ。
尚、🐻は特に女子供を狙ひ襲って来やう。
だが熊がほんたうに好むのは熟れた女の肉の方だ。
あな怖ろしや。
何が怖ひと言って自然界に於ける合理性程恐ろしきものは他に無し。
もはや其の前には理性など何の意味も無ひ。
謂わば神も佛も無し。
其れ以前での殺戮のみが其処での掟であり力の源なのだ。
其の破壊力の前に理性は粉々に粉砕されやう。
「やめて呉れたまへ。もっと理性的に解決しやうではなひか。」
バリッバリッ。
きゃああああああああああああああああああああー。
かように其処では大學生の理性も無論のこと通用せず。
何と2016年にも発生して居た!
かようにツキノワグマでさへ人を食ふのだ。
ツキノワグマならば多分其の辺にも確実に居ることであらう。
さて其の本能こそは原始の力である。
人間の力が原子の力であるのと其れは対照的だ。
ところが人間の躰にも其の原始の力は宿って居る。
たとへば性欲こそが其の原始の力である。
よって暴力である征服欲と性欲は可成に似通って居る。
ところが性欲は征服欲ー暴力による破壊力ーと受容力ー愛による創造力ーとに二元化される。
無論のこと♂が前者であり♀が後者なのだ。
だが其のやうに絶対的に規定される訳では無く相互に入り組んで居る。
謂わば対義的に相克し且つ相即して居る。
其の性欲を我我はいまだに保持しつつある。
が、今後は其れも其のあり方が移り変わっていくことだらう。
謂わばより抽象化されていくと見て置ひた方が良ひ。
たとへば食生活の方も随分と変わった。
我我は今インスタント食品や缶詰などを好んで食するがアレは元来自然界には無かったものだ。
インスタント食品や缶詰は抽象度が高ひ食べ物なのだとも言へやう。
問題は其の抽象度の高ひ食べ物を口にするのと、🐻やサメやワニが機会あらばバリバリと人を食ふことのどちらがより罪深ひことかと云ふ点にこそ存する。
結論としては、🐻やサメやワニが機会あらばバリバリと人を食ふのは其処へ人間が入り込んだことに最大因があり🐻やサメやワニがより罪深ひ訳では元より無ひ。
食われる為に其処に居るのだからこそ食われる方に注意力が足りぬのである。
🐻やサメやワニにとり神ー抽象的存在ーが必要な訳では無く彼等にとり必要なのは常に肉ー具象的現象ーなのだ。
尚兎に角山が好きなわたくしはサメやワニよりも🐻と遭遇する可能性の方がより高く其れでもって🐻に妙に興味が湧くのである。
エゾヒグマ (Ursus arctos yesoensis) 多摩動物公園(2009年3月)
だが兎に角🐻は怖ひぞ。
もうどうしやうもなく怖ひのだぞよ。
然しあれだけ山の中をほっつき回ったにも関わらず何故か熊とは一度も遭遇して居なひ。
遭遇したのは、カモシカ、🐗、🐒などで中でも🐒は兎に角良く遭遇したものだった。
🐗は元々わたくしが亥年の生まれなので何かと縁が深ひ。
🐗は三河の山奥へ行くと檻になど入れてあり其れを具に観察したりも出来るのである。
紅葉の名所でもある香嵐渓 一ノ谷と云ふところで幼き頃にシシ鍋料理と云ふものを屡一家総出で食ひに行ったものであったが要するに其れはぼたん鍋のことである。
亥年生まれの人は本質的には大人しくは無くこれぞと決めると所謂猪突猛進する。
わたくしの場合もこれほどまでに理性的ながら實は猪突猛進の度が激しく其れでもって小さな諸の破壊ー衝突ーを生じせしめたりもして居るのである。
と言っても🐗なんぞは🐻にはまるでかなわぬ。
其の抽象度の低ひ自然の様は直に自然に触れてみなければ決して分からぬことであらう。
抽象度の高ひ都会での生活は次第次第にさうした肉体性、即ち顕わな本能力をつまりは原始の力を抑へ込んでいく。
其れでもって理性だの神だの何だのとつひわたくしの場合も理性の枠内でのお話に終始して仕舞ふのだがほんたうはそんなんではダメだ。
さうではなく🐻の怖さを思ひ知らねばならぬ。
其の食われると云ふことの恐怖を是非にでも思ひ出さねばならぬ。
ちなみに🐒は林道などに屡出没する。
🐒は人間に似て根性が悪く悪さばかりをしつつ毎日山の中で暮らしておる。
🐒は利口、つまりは🐗などよりは遥かに知能が高く存するが故に兎に角其の行動が憎たらしひ。
🐒は温泉なども大好きだし狡賢く隙あらばボス猿になりたがるところなどが實に人間に良く似ておる。
さて抽象度の高ひ其の人間の罪とは果たして何ぞや?
矢張り其れは自然破壊へと直結する欲望なのであらう。
自然が去勢されればされる程に🐻の生息域が破壊され其処で食物を得られにくくなる故🐻が里山或は町へと進出し始める。
イザさうなれば上記での事件以上に怖ろしひ惨劇が引き起こされぬとも限らぬ。
抽象度の高ひ其の人間の罪は一見善の行為であるかに見へて實は本質的に世界を破壊し尽くすに足る行為でもまたあらう。
元より🐻が🐗がさうして🐒がどんなに其の本能の赴くままに行動するにせよそんなものは破壊にはまるで至らずタダ人間の手足が引きちぎられ首と頭だけ残して食われるばかりである。
其れも運の悪ひ山の中に住む人がさうなるばかりである。
だが人間の行ひは、其ればかりは確実に自然にとっての本質的な破壊を齎さう。
つまり其の暴力による破壊力の抽象度がケタ違ひに高ひのだ。
たとへ🐒がどんなに頑張ったにせよ言語を習得するまでには至らず宗教を論じられるやうになる訳でも無ひ。
🐒の頭は所詮は🐒の頭なのだ。
其れに🐻の頭、🐗の頭などは勿論問題外である。
但し🐻の牙、🐗の牙には人間は負け続ける。
だが人間は武器を使ふことさへ可能だ。
其れでもって🐻や🐗が實は怖くは無ひ。
怖くは無ひので其れを食ふ。
逆に🐻や🐗は食われることも存外多ひ。
其のやうに人間には牙が無ひにも関わらず怖ろしひ猛獣どもを食って仕舞ふ。
ああ、さう言へばサメなども屡食われ🐊などはハンドバッグや手帖などにもなっておる。
そんな経緯にて其の牙が無ひにも関わらず地球上に君臨する人間様の抽象力こそがわたくしにとっての批判対象となったのだった。
即ち其れを批判する人間が居らぬ故あへてしてみて居るだけのことだ。
其の抽象性ー観念性ーをどうやっつけていくか。
此処のところはむしろ其の事ばかりを考へて居り肉体的な鍛錬が疎かになりがちだ。
山で襲われた時に素早く🐻や🐗から逃げる瞬発力をば是非涵養しておかねばなるまひ。
さうだ考へてばかり居ると此のやうに肉体が弱くなる。
さうかと言って山へ入ると必ずや獣の牙がか弱き詩人の肉体をズタズタに引き裂ひて仕舞ふ。
ハアー、困ったな。
もはや行くところが何処にも無ひ。
コノPCの前にしかわたくしの生きる場所は無ひ。
いずれにせよ具象的な暴力よりも抽象的な暴力の方が遥かに破壊力は強ひと見ておくべきだらう。
即ち🐻や🐗や🐒よりも何よりも怖ひのが實は人間である。
其れもタダの人間ではなく文明化されし人間程怖ひものは無ひ。
されど文明化されし人間程弱ひものもまた無ひ。
即ち抽象度の檻の中に自ら閉じ籠り肉体の鍛錬をスッカリ忘れておる。
だから牙が怖ひ。
兎に角牙と云ふ牙が怖ひ。
其のご立派な牙にてバリバリバリッと食われることがむしろ一番怖ひのだ。
ーある日山の中でー
助けてー、我は詩人だー、食ってもまずいぞー、理性だ、理性、此の理性にて話し合おう、話せば分かる何事も。理性こそが真理ぞ、神ぞ、断じて嗚呼断じて牙による暴力では無ひぞよー。
バリッバリバリバリッ。
きゃああああああああああああああああああああー。
そんな理性詩人の最期を看取ったのは山の神のみであった。