目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『汚れた顔の天使』と『惑星ソラリス』

汚れた顔の天使』での菩薩道の實践ー+『惑星ソラリス』に於ける「海」の解釈ー

 

 

 

 

さて自分は「現實」とはニンゲンの「意識世界」のことであるとさう考える。

そも「意識世界」とは「唯脳的」な世界であり其れ即ち所謂「認識論」に於ける世界観のこととなる。

 

大乗佛法などにもまた「唯識 - Wikipedia」なる世界解釈の方法論が有るが其れなどと似て居るのやもしれぬ。

でもって其の「認識世界」が「本能的錯誤」により齎されて居り要するに現存在は「眞實ー實相ーとしての認識をして居ない」との捉え方でありつまりは其れが御釈迦様の認識にほぼ重なるものとなる。

 

またかの哲學者カントは所謂「理性」による認識世界のむしろ不完全性の部分をこそ描き出して居たのだと思われる。

要するにニンゲンの認識世界には神の如き「完全性=全能性」を望むべくも無い。

 

ニンゲンはそも左様なケモノー本能の奴隷ーであるに過ぎぬと云うことがまずは壱つ有る。

ではどう其の認識上のケモノ性を排除し「正しい」認識に至るのかと言えばすでに其れは「哲學」の領域よりも「宗教」の領域での御話とならざるを得ぬ。

 

 

尤も彼カントは「定言命法 - Wikipedia」なる理性的道徳律を生み出した。

即ち理性體としての「現存在」は無条件に其の理性的道徳律にこそ従うのである。

 

むしろ例外無くさう「内なる理性の声」に従い生きる訳だ。

但し無論のことニンゲンの全てが「理性的」であることなどは無い。

 

ニンゲンでもさう「理性が利く」人は元來限られて居り其れは大體壱割以下の人人であるに過ぎぬ。

ではアナタはもしやソコに入ってるのか?

 

うん、何だか知らんがどうも入って居るやうです。

其れも多分百萬人に壱人居るかどうか位の話なのだらうが。

 

でも其のことを何でそんなに威張る?

はい、つい威張り過ぎました、どうもどうも御免なさいまし。

 

じゃあ御前は其の「定言命法」をズバリやれるのか?

やれますがやれません。

 

何だ、其のコタエ方は。

やれさうでやれずやれずなのにやれる、とのことです。

 

何だ、其の「のらりくらり」の様は!

どうもすみません、もしアナタがビンタでもして下されば其れにてシャキッとします。

 

バシッ!!

…痛っ。

 

なる程、理性を整えるにはまずはさう肉體を虐めることこそが大事なのか。

 

 

理性體としての「現存在」が無条件に理性的道徳律に従うのだとしても「本能」が壱杯ではソコに「理性」が入り込む余地など無い。

故に「理性」が入り込む余地を生じさせんが為にむしろ認識を限定する=「社會的自我」をブロックし「個的認識世界」への価値観のシフトを行う。

 

まさに其れが我が「限定論」に於ける「理性的転換」の様を理論化する部分となる。

でもアナタの認識論はむしろ「自閉症」をやれとさう述べる如きものだ。

 

いやだから「自閉症」で居ることの方がむしろ「イケイケドンドンヤルキー自我」=「近代的社會的自我」などよりも平和だし安全だし何ら破壊に至らしめる部分が無い。

 

なる程、するとニンゲンは「自閉症」で居ることの方がよりイイのですか。

何故ならそんな「ヤルキー文明世界」程危険な価値観はありません。

 

そんな「ヤルキー文明世界」は今後どうなりませう。

まあせいぜい持って後弐、参拾年ですので其れに就き考えて居る時間が有ったら「ほんたうに自分がしたいこと」をこそドンドンするべきでせう。

 

じゃあ「起業」だとか「金儲け」だとかそんなものでも良いのか?

まあ其れも本質的には「間違い」ですが兎に角やりたいことを是非やって置くべきでせう。

 

ならば👩に飛び付いたりそんなことでも良いのか?

そんな「酒と👩とギャンブル」に限り出來れば避けて頂きたい。

 

またつまりは「理性的」に生きた道程のみが我我現存在の履歴として此の世に残る。

逆に言えば「ケモノ」ばかりを生きた挙句に「ニンゲン」としての成果がまるで示せずに終わって仕舞う。

 

まさにさう云うのこそが「凡暗」としての「ニンゲン」の生き方となる。

でもソレをアンタも結構やって來て居るぜ。

 

はい、確かにソレもやりましたのですが反面「理性」の方もまたちゃんと磨いて來た。

だから自分の場合半分救われるが後の半分はむしろ救われ難い。

 

さうか、其れも何だか可哀想な人生だな。

御前にさう言われたくは無いわ、御前なんぞも結果可哀想な人生其のものだらう!!

 

でも我我はかうして「運命共同體」なので何処までも壱諸だよ。

うーん、でも何だかソレこそがイヤだな。

 

エッ?今何と仰りましたのですか?

ハッキリ申せば御前の顔を毎日見且つ御前の発言を毎日聞くのがイヤなのだ。

 

…確かにイヤだらうがもう決して離してはあげない。

なる程、するとこんな「腐れ縁」こそが「人生」なのか。

 

さうそんな「腐れ縁」にて永遠に合體することダケがこんな人生の意義なのさ。

「ガシッ。」

 

さう詩人の「理性」が「本能」を求め且つ詩人の「本能」が「理性」を求め続けて行く。

おおまさにそんな様こそがゲージツ家としての詩人の生き方のことだらうよ。

 

 

マトリックス (映画) - Wikipedia

 

さても映画では例えば其の『マトリックス』などはどうですか?

結局『マトリックス』は「面白い」ですが「社會批判」の面ではいま壱つでせう。

 

ドニー・ダーコ - Wikipedia

 

映画『ドニー・ダーコ』あらすじネタバレ結末と感想 | MIHOシネマ (mihocinema.com)

超難解映画『ドニー・ダーコ』タイムトラベルの考察【ネタバレ解説】 | ゾンビ飼育係の日誌 (gimmemackerel.com)

 

またこんな「難解映画」などもまた有るやうですがいまのところ左程視たいとは思わない。

 

 

惑星ソラリス - Wikipedia

ソラリス (映画) - Wikipedia

 

私の場合はタルコフスキー作品の惑星ソラリスこそが常にSF映画での難解な作品なのだとさう思う。

まあ其れは壱種究極的なソヴィエト版SF映画でせう。

 

尚此の映画では何でも複製して仕舞う惑星ソラリスの海が其れこそマトリックス - Wikipediaのやうに描かれる。

マトリックス」とは其のやうに元來「子宮」のことを言う。

 

また翻り現存在の認識世界も其の「子宮」が生み出すもののこととなる。

ですが其の「子宮」其のものが壱種の不具性としての「反理性的性質」を帯びて居る。

 

そんな「反理性的性質」としての認識世界を生きざるを得ぬことこそが生命としての「悲劇性」でありなんともならんところです。

でも「子宮」の無い🚹は「理性體」と化し其れに立ち向かうのか?

 

まあ天才はまさにさうなのだらう。

例えば天才SF作家のレム氏だとかまたクラーク氏などが。

 

またスタートレックで言えばアノ「スポック」氏などが。

確かに「スポック」氏などはまさに「論理的知性體」です。

 

でも半分地球人なので意外と感情的で且つ👩好きですね。

 

では惑星ソラリスの「海」とは生命を生み出す「子宮」の象徴的表現なのですね?

おそらくはさうであらう。

 

まあどちらの作品もDVDを持って居ますので此れ迄に五回位つつ視ても居るのですがね。

そんな「子宮」の本能と「理性」とは元來異なるものである。

 

故にか佛教でもまたクリスト教に於いてもそんな「子宮」の本能の部分を其の侭に受け容れる訳には非ず。

 

ですよね。

前前からギモンだったのですが何故佛教やクリスト教などの壱流の宗教は「本能」をむしろ抑えてかかるのか?

 

むしろ「本能」を抑えてかかるからこそ「理性」と云う瀬が宗教的な次元にて浮かび上がるからでのことだ。

曰く、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」。

 

惑星ソラリスの方はまさにそんな「理性」と「本能」の闘いの様を、と申すよりも「本能」が最終的に「理性」を圧し切り其のソラリスの海ー子宮ーの中に取り込まれて行くことを描く作品であるやうに思われる。

其れも弐拾年位視続けて來てようやくさう思えるやうになって來た。ーDVDの前はヴィデオ作品の方で其れを視聴して居たー

 

惑星ソラリス』はそんな超難解なSF映画作品でありまた古い映画でもあるので今の若い人は知らない可能性があるのであえて述べてみた。

 

 

さて對してソラリス (映画)の方は是非御勧めしたいSF映画となる。

此の映画の方は原作のレムのSF小説とはまるで別物で即ち難解では無い「SF恋愛ドラマ」となる。

 

だが「愛」の意義に就き深く考えさせられる良い映画となる。

尤も其の「愛」とは「性愛」のことであり「神の愛」であるとかさう云う次元のことでは無い。

 

ですがまさにかけがえの無い「性愛」に就き此の映画は語って居る。

そんな大變心に沁みる映画となる、SF映画としては珍しくも。

 

さて現在詩人はさう映画を視聴しつつたまに「タイガーマスク」などのアニメ作品を視たりする毎日を過ごして居る。

タイガーマスク」は「死ぬ迄に是非もう壱度視たい」アニメ作品なのでさう視て居るのである。

 

ところが「死ぬ迄に是非もう壱度視たい」映画作品もまたあり其れは小中学生~参拾代の頃に映画館やTVなどで見て忘れられない作品のこととなる。

 

 

汚れた顔の天使 - Wikipedia

【 #死ぬまでに観たい映画1001本 】『汚れた顔の天使』善人と悪人を繋ぐ絆チェ・ブンブンのティーマ (france-chebunbun.com)

 

例えば現在はこちらを視て居る。ープライム會員でも有料視聴となるーAmazon.co.jp: 汚れた顔の天使 (字幕版)を観る | Prime Video

昨日壱度視たが明日まで視ることが可能だ。

 

其の汚れた顔の天使をTVにて視たのが兎に角若い頃となる。

だから30~40年前に視たものとなる。

 

だが此の映画こそが此れ迄に視た全ての映画の中で最も感動した作品なのだ。

 

此の映画は、

 

1.クリスト教に於ける「良心」を示すもの

2.「普遍の愛」とは何かを問うもの

3.宗教的な理性の勝利を謳うもの

 

なのだと評することが出來やう。

 

故に此の映画を視ればクリスト教が正教であることをすんなりと受け容れることが可能となる。

また「宗教的な理性」に限らず例えば「道義心」であったり「徳義」であったりさうしたものと直接結び付くだらう「精神性」を保つ映像作品となる。

 

だから別にクリスト教には限らず佛教徒が視ても涙が自然と溢れ出やう。

でも重要な役回りとして主人公「ロッキー」と云うギャングの幼馴染みとしての神父様が登場する。

 

ジェームズ・キャグニー - Wikipedia

ギャングの「ロッキー」を演じるのは往年のギャング映画の大スターだったジェームズ・キャグニー氏となる。

 

其の「ロッキー」と「ジェリー」ー後の神父様ーがまずは🚞の貨物より「萬年筆」を盗む。ー其の萬年筆はかの萬年筆黄金期(1930年代物)での米國製の壱流品であらう。むしろワシが其れを盗みたい位だわな。ー

 

さうして其の盗みが発覚し「ロッキー」は逮捕されやがて感化院へと送られ其の後ギャングとなる道を歩むこととなる。

對して彼の親友は逃げおおせ後に聖職者への道を歩むこととなる。

 

でもって孤児のやうな少年達がやがてそんな羽振りの良い「ロッキー」をヒーローと見做し次第に惡の道へと進むやうになる。

だが神父は無論のこと其のことをヨシとはせず。

 

神父は無論のこと少年達を正しい道へと導かんが為に尽力する。

 

 

でもまた世の中には惡の手先が澤山居る。

そんなギャング全盛期の1930年代でもさうだが現在にせよそんな惡の手先は世の中に澤山居る。

 

むしろ今の方が世の中が惡くもなってる。

さうギャンブル浸けとなり酒浸りでしかも👩狂いなのだ。

 

また政治家連中の方がむしろ「惡」の要素が強くもなってる。

例えば彼麻生や彼トランプは明らかに惡人だ。

 

またプーチン習近平やアノデブも結局は惡人だらう。

キシダのみが善人だが彼には権力がそも無い。

 

そんな優しい奴はすでに黒幕共の操り人形だ。

どだいキシダは何時迄総理をやり続ける御積りなのか?

 

惡どい政治家=惡代官

でもまあそんなことはどうでも良い。

 

そんなこと迄語ると作文が余計に長くなるだけのことですわ。

 

 

「ロッキー」は惡どい他のギャング達に騙されさうになり結果彼等を撃ち殺して仕舞う。

ついには官憲に追い詰められ彼「ロッキー」は投獄される。

 

無論のこと彼に下される判決は「死刑」となる。

だがそんな「死刑」を待つ身の「ロッキー」に神父は懇願する。

 

どうか英雄として死なないで欲しい、少年達を更生させる為にむしろ「見苦しく」死んで欲しい。

其の懇願を彼「ロッキー」は鼻でせせら笑いつつ聞いて居た。

 

刑場へと出向く彼「ロッキー」の顔にはかのクリストの苦悩に近い表情さえもが浮かんで居る。

さうして刑が執行されるまさに其の時に彼は「叫ぶ」。

 

「オレは死にたくない、死ぬのが怖い!」

さう何度も繰り返し叫びつつまさに見苦しく彼「ロッキー」は死んだ。

 

其の「ロッキー」の死に様のことが新聞にも大きく書き立てられた。

嗚呼まさに其の新聞を読み少年達は彼への崇拝を止めた。

 

さう彼「ロッキー」こそがそんな「汚れた顔の天使」だったのだ。

 

 

ちなみに先日ポストに「幸福の科学」の機関誌が初めて入って居り其れを読んでみると「まず天使になりましょう」とさう書いてあるではないか!

だが「エホバの証人」や「幸福の科学」に於ける「天使」とカトリシズムやプロテスタンティズムに於ける「天使」とはおそらく別物なのではないか。

 

4.自己犠牲の精神

5.天使と菩薩

6.クリスト教と大乗佛教の親和性

 

まずは其の「自己犠牲の精神」こそが美しくそんなラストシーンに涙がドバドバと出た。

さらに「天使」と「菩薩」はむしろ「まんま」だなとさう思った次第である。

 

さらに言えば大乗佛教徒ー法華経信奉者ー宮澤 賢治が何故『銀河鉄道の夜』にてまるでクリスト教徒のやうな「十字の★」やら「ハレルヤ」やらそんなものを盛り込んで居たのかと云うことが何となく理解されたものだった。

 

大乗佛教徒は特に浄土教信徒は正しくクリストの教えを世に広めんとしてかうして日日頑張るであらう立派な壱クリスチャンのことぞ!!!

すると「阿弥陀如來」様こそが神なのですね?

 

「神」?

 

うんさうだ、まさに其の「神」だらう。

ひょっとして「大日如來」様の方もまた其の「神」なのか?

 

まあ「神」だらうが「佛」だらうがどうでも良い話で、つまり壱番大事なことは「他を助く」との「菩薩道實践」の精神のことでせう。

 

なる程、するとたとえ「大乗佛教徒」であれ彼「ロッキー」の「天使」振りには涙が溢れてやまぬ訳だ。

さうだな、だから『汚れた顔の天使』こそがまさに「菩薩道」を實践せんとする映画となる訳なんだ。

 

いやあ流石は宗教詩人さんの御見立てです。

ところで今宵はまたどんな映画を御覧になるので?

 

アア其れは『エイリアン4』です。

さらに他のエイリアンモノなどもまた視てみます。

 

でも壱番凄い難解SF映画はあくまで『惑星ソラリス』とならう。

さう其の『惑星ソラリス』こそがみんなが死ぬ前に壱度は視て置かねばならん映画なんだから。