目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

東京都民に取り大事な憩いの場である「神宮外苑」を壊してどうする?ー厚化粧の👩の認可が壊す「神宮外苑」ー

東京都民に取り大事な憩いの場である「神宮外苑」を壊してどうする?ー厚化粧の👩の認可が壊す「神宮外苑」ー

 

 

 

 

『キシダのトリセツ』・・・スローガンだけで中身がない岸田政権の「新しい資本主義」に「中身」を詰める方法を考える。|倉本圭造 (note.com)

 

其のキシダが惡いのか其れとも「資本主義」が惡いのかと言えば矢張り「資本主義」こそが惡なのだと思われます。

ところが「資本主義」をイザやれば無論のことこんな豊かになるのでもはや文明はなかなか資本主義を止められぬ。

 

其れどころか社會主義だった筈の大國もまた経済體制ダケ資本主義化して豊かにならうとさえして居ます。

よって壱番の問題は其の「豊かさ」とは何なのか?との哲學的命題の部分に帰結するのです。

 

「豊かさ」とはまずモノが満ち足りることでありわたくしなんぞは個人的に所謂モノマニアであり要するに良いモノをもう飽きる程に長く見て來、且つ自分に可能な範囲で其れ等を入手して來て居ます。

だからモノのことはとりあえず良く知って居ます。

 

ですがかうもモノが多いと結局のところゴチャゴチャとなり自分がとんでもなく良いモノをすでに持って居るのに其の事自體をウッカリ忘れて居たりもまた致します。

 

つまり金などもまたさうなのではないか。

大金を持ち過ぎれば持ち過ぎる程に頭の中がついゴチャゴチャとなり自分がとんでもない大金をすでに持って居るのに其の事自體をウッカリ忘れて居たりもまたすることだらう。

 

でもってさうした意味でのゴチャゴチャな状態は決して人間に取り「幸福」な状態では無い。

ズバリ「持ち過ぎる」こともまた「欠乏」と似たやうなもので眞の意味での「幸福」や満足を齎すものでは無い。

 

では何が「幸福」な状態に近づくことかと申せば其れは「自己限定」することにより「ココ迄」とさう分限を決めた其の時に「幸福」や満足を感ずることが初めて可能となる。

故に現存在ー人間存在ーに取って何が壱番大事かと言えばまさに其の理性的な意味で自らに課す分限=「限定」こそがまさに壱大事であり且つ亦より良く生きんが為の「鍵」となる。

 

 

よってまずは其の「理性的限定」=「分限の設定」を理性は考えねばならないがあらうことか此の世界ー現代社會ーは其の逆に「限定」を解除して行く社會であり文明である。

故に其れがまずは「誤り」です。

 

だから後は其の自らの「誤り」を現代社會が認めるか否かです。

だがどうも其れを金輪際認めたくは無いらしい。

 

また上の記事にもあるやうに「双方向的」に目覚めませんと理性はむしろ「原始退行」し全てを感情論の範疇で意思決定しがちとなる。

ですがあくまで「原始退行」せし理性はニセモノの理性ー似非理性ーでしか有り得ぬ。

 

其の似非理性でもってどんなに考えたにせよニセモノの結論しか出ないこととなる。

現代社會とはさうした壱種の「似非理性による感情的な闘争の場」であるに過ぎぬ。

 

だから此の文明の意思決定には基本的に「理性」が欠如しがちである。

まずは其の部分をこそ何とか回復されて行かれたし。

 

 

地球に似た未知の惑星、太陽系外縁部に存在か (msn.com)

 

もしも其のやうに太陽系の外側に地球に似た★があるにせよ其処へ逃げれば良いからむしろドコまでも文明を続けたれとさう考えるのは何より短絡的思考であり如何にも文明側らしい幼稚な意思決定であるに過ぎぬ。

 

 

【5分でわかる】神宮外苑の再開発、何が問題になっているの?知っておきたい5つのこと | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)

 

さて元よりそんな東京のことなんぞは地元では無いので関係無いことながら此の問題に限りしかしながら最重要なことであらう。

 

1.環境保全

2.そも人間は何を求めるのか

3.文明=開発馬鹿

 

1.に就いて

 

其の「神宮外苑」へ自分は行ったことがないが其処に貴重な自然ー人為的な自然環境ーが残されて居るであらうことはネット上で視て居るだけで充分に分かることだ。

丁度地元で言うと「熱田球場」辺りでの熱田神宮公園のやうなものなのかと自分は思うのだがでもまさかこんなにちっこくはないか?

 

いずれにせよ其の熱田神宮公園の辺りは頗る環境が良く兎に角🚲での移動時であれば此処を通リ瑞穂区の家へ帰りたいとさう思わされるところなのだ。

また自分は堀田のカインズへ良く買い物に出向くが其の行き帰りの折りにも實はなるべく山か若しくは神社佛閣などがあるつまりはなるべく緑のある道をワザワザ選択するのである。

 

自分は左様に兎に角「緑」が好きである。

逆に言えば所謂コンクリート・ジャングルのやうな都會の様が嫌いである。

 

また其のことは所謂田舎臭い感度の持ち主だからなのでは無くむしろ特等に都會的な感度の鋭い藝術家の壱人であるからこそそんな都會の様が嫌いなのだ。

だから時に其のコンクリート・ジャングルにションベンでもひっかけて逃げて行きたくもなる。

 

又は野💩ならぬ🏢内での💩垂れをしてしかも💩まみれにしてやりたくも正直思う。

立ち小便や野糞はまさにそんな自然的行為であるからこそあえて其処にてやりたくなるのである。

 

でもって文明は果たして何がやりたいのか?

其れも「環境保全」が大事だとかさう言いつつ果たして何がやりたいのか?

 

 

2.に就いて

 

其れもまた本音で言えば「より金持ちになりたい」のである。

何故なら「金持ち」となればより「物質的に充たされる」からだ。

 

例えば環境の良い孤島や山奥にはまず「金が無い」ことが必定となる。

そんな環境の良いところに限り金はびた壱文落ちて居ない。

 

だからまずは「金」だ。

人間であることは左様にまずは「金」を求める。

 

どだい「金」が無いとエンゲル係数がしこたまに押し上げられ壱日たった五百円で暮らさねばならなくなる。

だからおおまるで樂園の如き孤島や山奥でも「金」が無ければほぼ死んで居るのにも等しい精神的な苦しさだらう。

 

だから其処で海に潜り🐟を獲ったりまた山奥で罠を仕掛け🐗を捕獲し其の皮を剥ぎ其の肉を喰らえばむしろタダでもって飯が食える。

だが現代人はすでに軟弱化されて居り其れでもって生きていける程生活は甘くは無い。

 

ところが、だ。

ところがイザ環境を破壊し都市化を進めると「心の憩いの場」のやうなものが何処にも無くなって仕舞い易い。

 

だから大都市の住人はむしろ其の「心の憩いの場としての緑」をこそ次第に求めて行くやうになる。

またさらに突き詰めて考える場合そも「何の為の文明の発展であり進歩」なのかとむしろ其のことばかりを思うやうになる。

 

故に近年では大都市圏を離れつまりは田舎へ移住する人などが増えて居るのである。

だが此のことは大都市圏の人でなければ決して分からぬことであるので当の田舎の人人は「壱刻も早う都會へ出て金持ちになりたいもんだ」などとさう願って居る始末である。

 

 

つまりはそりゃ誰しも金が欲しいんだがイザ金となる大都市に暮らしてみると其処はむしろ「人間が住むところでは無い」が故に多大なストレスだの汚ねえ空気だのさらに惡い菌だのまた惡女などがウヨウヨして居り要するにある意味で強い人間でないと大都會では生きて行けぬやうにさう出來ておる。

 

なので大都市に限りルンペンさんが澤山居るものである。

だが孤島や山奥にルンペンさんは居らず例え其れに近い人が居たにせよ彼等はむしろ「仙人」などと呼ばれて居る訳だ。

 

うーん、すると孤島や山奥でもって「仙人」をやる手などもまたエエのかもしれんねえ。

但し余程に器用な人でないと例えば半年位で死んで仕舞いさうですが。

 

 

3.に就いて

 

文明世界ではむしろ「開発」こそが「善」となる。

「開発」されぬ「手つかずの自然」は彼等文明人に取り理解不可能な「惡」としての価値を内包するものとなる。

 

但し其れは欧米型の近現代社會に取ってさうなのであり此処🗾を始め東洋の國國の文明圏はまた其れとは異なるであらう「自然に近しくむしろ其れと共に生きる」文明のあり方をすでに長きに亘り築き続けて來て居た。

 

よって問題の根本とは近現代社會の普遍化であり地球規模での近代的価値の蔓延其のものとしてのことだらう。

まさに其の近代的価値観の蔓延により世界中の「自然」が搾取され「何か違うもの」へと變えられて行く。

 

自然を「何か違うもの」へと變えることこそが「文明の仕事」であり「文明の仕事」を懸命にやるエライ人は同時に金持ちにもなれると云うのがまさに其の文明側の論理である。

だがわたくしから言わせればまずは其の文明に於ける基本的な思想設計こそが「間違い」だ。

 

逆に言えば「惡」としての論理の履行者とはむしろ文明側である君等ー統治者側ーの方である。

 

でもって「惡」は限りなく欲する者としてやがて👿の如き者となる。

故に問題は現行文明にて文明の推進側の多くがすでに👿化して來て居るとの事實だらう。

 

だからすでにそんな惡魔に何を言っても耳には届かず其れを強く批判しやうがどうしやうがお構い無しに文明を続けて行くだけのこととなる。

よって最終的には其の「惡」の推進側とはあえて離れむしろ逆方面にて自分なりの諸価値を模索する方がずっと有意義となる。

 

 

要するにたった壱度の人生でもって「環境破壊の片棒」を担がされたり文明世界の言いなりとなるつまりは文明の諸価値に洗脳され其の惡の體制其のものに繋がれること程理性に取り辛いことは無いのである。

 

よって文明の価値観からはなるべく意図的に離れてみるべきだ。

とどのつまりは文明よ儂はおまえなど決して認めん。

 

ええい汚らわしいわまるで肥溜めみたいな文明めが!!

わたくしに触れるな此の精神の高みにあるわたくしに触れるでなーい!

 

「開発」=善

「未開」=惡

 

「未開」=善

「開発」=惡

 

つまりはさう認識を逆転させんと「絶對」に此の環境破壊の問題は解決しない。

結局は現代社會が「文明の発展」を是とする限り環境破壊の問題は解決しない。

 

 

ーこの再開発計画では、神宮球場秩父宮ラグビー場の場所を交換して建て替えるほか、190メートルや185メートルの高層ビルの建築が予定されている。

そして、この工事のために、神宮外苑創建時に植えられた歴史ある樹木も含め、多くの木々が伐採される。ー

村上春樹さん、神宮外苑再開発に反対。「一度壊したものってね、もう元には戻りませんから」 | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)より

 

ほれ見よ、兎に角文明側はさうして訳の分からぬ高い🏢やタワーばかりを建てたがる。

でもって其れを建てる為にむしろ「歴史ある自然の様」を兎に角根こそぎに破壊する。

 

其こそはまさに破壊者である👿の所業ぞ。

さうだ御前等こそが其の破壊者としての👿其のものではないか。

 

嗚呼惡い奴等だ。

そんな惡の権化と共に生活するのはもう眞っ平御免だ!

 

おっ、愈愈其の「仙人化」の為の移住計画の遂行ですか?

いや計画も何もそんな事を起こす金は何処にもネエだよ。

 

あれだが待てよ、そんな訳の分からぬ高い🏢やタワーはかの「旧約聖書」に確か記述があったぞ。

 

バベルの塔 - Wikipedia

【聖書】バベルの塔のあらすじとは?簡単にわかりやすくご紹介|キートンの"キリスト教講座" (keaton511.com)

バベルの塔とは?実在した場所や多言語が生じる物語のあらすじまで | 世界雑学ノート (world-note.com)

 

取り敢えず人間乃至は其の人間による文明はむしろかうして古來より傲慢且つ不遜でありよって其れ等の惡業がやがて神の知るところとなりやがて「神の怒り」を買うこととなる。

さう言っても小池都知事を始め自由民主党だのまた官僚の面面はたった今「へへへへ」とさうせせら嗤って居ることであらうがそんな「神の怒り」こそが間違い無くあるぞ!

 

なんとなれば壱神教に於いて惡は常に滅ぼされる對象なのだから!!

…ガラガラガラガラッ。

 

おや何だ?今何かが崩壊する音がどうもしたぞ。

其れは「神の怒り」によりたった今世界中の高い塔と🏢が崩壊した音です。

 

でもあくまで此処🗾は多神教の國家ですが…。

いいやさうでは無い、もっともっとよーく考えてみよ。

 

たった今🗾國がやりつつあるのはそんな多神教の文明では無く其れ即ち欧米流の壱神教文明だらう。

あっ!仕舞った!さうだったのか、では早速に昔の🗾に戻らう。

 

もう遅いわ、ほれ見よ、かの東京でも大阪でも名古屋でも福岡でも仙台でも札幌でもまた広島でも高層ビルとタワーが皆ガラガラガラガラッとデカい音を立てたった今崩壊中なんだ!!!

うわああーこんな神の怒りがあー!!!!!!!

 

「神の怒り」が🗾をかうして🗾の大都市圏を須らく瓦礫と化して行くぞ!!

 

 

うーん、また實にエエ眺めだわい。

もう最高に爽快な気分だわ。

 

然しどうも何かに似て居るな。

嗚呼さうかアノ9・11のテロのことか。

 

 

尚かの坂本 龍一氏や村上 春樹氏などの藝術方面からの文明への提言に對し眞摯に向き合わぬと現行文明に未來など無いぞ。

何故なら藝術は常に感覚的に齎される眞理をこそ目指して居るのであらうから。

 

坂本龍一さんの願い「神宮外苑の樹木を守って」を引き継ぎ、アーティストらがデモ | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)

 

そもアーティストは何故環境破壊に異議を唱えるのか?

何故なら彼等は開発ー環境破壊ーにより人間に齎される壱時的ー壱義的ーな価値よりも樹木其のものとしての自然の価値の方がより大きくしかも正しいものであることを皆「直観的」に知って居るからなのだ。

 

まずは「藝術家」とは左様な価値認識を可能とするであらう「感覚」ー所謂「直感力」ーの持ち主のことである。

 

でも藝術が「開発」を嫌うのはオカシイ。

何故なら開発された場に「藝術作品」が置かれる筈なのでむしろ其れは藝術に取り良いことだらう。

 

だがそんな藝術作品は本物の藝術とはまるで違うものだ。

本物の藝術とはな、ズバリ「自然」のことぞ。

 

ウソコクな、「自然」は「藝術作品」とは違うぞ。

確かにさう言えばさうだね。

 

「自然」は別に「藝術」其のものでは無いやうな気がしますね。

どだい「自然」さえありゃ「藝術」なんぞ要らんぞよ。

 

まあ確かに。

藝術<自然

 

でも別にオカシクは無い。

だが其れを言い始めると次のこともまた成立する。

 

人間<自然

ですが此れを認めた途端に所謂文明の上での諸価値は全的に崩壊する。

 

尤もどうも藝術は自然と人間の関係を結ぶものとして有るやうな気がしてならぬ。

其の人間ー文明ーと自然の価値観ー認識ーが剥離し過ぎて居るので其れを繋ぎ止める最後の絆のやうなものが藝術の役割なのではないかしら。

 

但し常に藝術は自然其のものには非ず。

其のことだけは認めて置かざるを得ぬ。

 

 

では「神の怒り」がどう藝術に對し向けられるのか?

いや確かに放蕩詩人やぐうたらで酒好き👩好きでロクデナシの作家や画家また音樂家などは皆其の「神の怒り」の対象になって居る感じが致します。

 

さうかすると藝術とは放蕩としての過剰さのことであるか。

まあ過剰なことだけは確かでせう。

 

ですが藝術家の全てが大宰みたいな👩好きでまた安吾みたいな半分キチ外だとは言えぬことだらう。

 

元元さうして知的欲望に對し過剰なんですがでも「環境破壊」がヤバいことだけは感覚的に分かるとのことでせう。

また自称の詩人も「環境破壊」だけはやってはイケないことだと常にさう思って居ます。

 

 

翻り哲學モードにて此の問題を考えるとまさに其処には、

 

文明⇔自然

 

との弐元對立の様が浮き上がって來る。

 

弐元對立は余程に上手くバランスを取らないと「崩壊」を生じさせる。

つまりは「文明」と「自然」が相剋し且つ相即する関係性のさ中に其れを置かぬ限り「どちらかがどちらかを飲み込む」かまた「どちらも互いに飲み込まれる」こととなり要するに片割れするか共倒れすることとなる。

 

まずは「環境問題」其れ自體がそんな「弐元論の超剋」としてのバランスの問題であることをこそ現代人はまず知らねばならぬ。

「弐元論の超剋」はかのヘーゲルマルクスによる弁証法的過程では根本的な解決を見ない。

 

尤もマルクスによる弁証法的過程には「限定」された要素が入るが故に「環境問題」其れ自體がより大きくは生じないこととなる。

但し無論のこと其の場合は其れこそ全世界が社會主義革命を経験しなければならん。

 

よって全世界が社會主義革命をやると文明が助かる確率は80パーセント位に高まらうがでも世界のみんなは社會主義革命が大嫌いなのでなかなかさうはならん。

だから未來のあるアナタ方にやる気があるかどうかだが未來の無い自分に限り其のヤル気は無い。

 

 

…ヤル気満満。

壱體何のヤル気か?

 

いや神宮外苑を「壊す」ヤル気です。

でも其れダケはイカン。

 

「壊す」ならアノキシダにでも銃口を向けよ。

またどうせ「壊す」なら小池都知事の厚化粧の方だらう!

 

あれまた何で石原 慎太郎氏がアナタに乗り移って居るのですか?

いやね昔此処で石原 慎太郎先生の環境意識を論じたことがあった。

 

石原 慎太郎先生は右翼だらうが環境問題に関し高い見識をお持ちだった。

故に其れは右とか左とかさうしたことでは無いのである。

 

たとえ右でも左でも環境だけは絶對に守らねばならん。

また「目先での文明の充實」=利益のことなどはむしろどーでも良いことなのだ。

 

 

さらに世界的作家の村上 春樹氏がいみじくも仰るやうに、「壱度壊したものは弐度と元には戻らぬ」ものなのだ。

現代文明が抱える問題点とはまさに其の「破壊」を平気な顔でやり続ける其の厚顔さー厚化粧ーであり不遜さの部分にこそあらう。

 

要するにどうのかうのでは無く「全體主義としての惡の履行者」=「👿」其のものへとすでに文明は化して來て居るのである。

其の「👿」其のものがやることを我我庶民が喜んで観ていて良い筈が無からう。

 

まさにコレが其の「👿」への天誅だーーーー!!!!

アンタ此の作文の内容ダケで文明に勝てるとさう御思いなのか?

 

いえまるでさうは思って居ません。

だがわたくしは壱表現者としてどうしても文明の価値観と壱戦交えたかった訳だ。

 

なる程、するとあくまでそんな「文學」として文明と闘われるとのことなのですね?

まあさう云うことです。

 

そんな馬鹿文明と戦いもろともに宇宙大の肥溜めに落ちて行く其のことだけを念じつつたった今わたくしは穏やかな日日を此処に送って居る。

 

 

尚神宮内苑を護る為に神宮外苑を開発するのだとすればつまりは神宮内苑側がむしろ此の開発をこそ望んで居るのだとすればもはや其れは矛盾もエエところで誰も何も言えなくなって仕舞う。

ですがむしろたった今文明が抱える矛盾とは其のやうな形での「如何ともし難い」類でのものが何故か多い。

 

要するに問題ソレ自體がデカ過ぎるとのことだ。

問題ソレ自體がデカ過ぎるのはおそらく「弁証法過程」の失敗によるものだらう。

 

よって「弁証法過程」を奉ずるよりはむしろ戦前の西田哲學の方をこそトコトンやるべきです。

西田哲學萬才!!

 

大🗾帝國萬才!!

だが大🗾帝國と西田哲學はまるで別物であることを此の際是非御忘れ無く。