目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

壱種いかがわしくも儚いまるで🎇のやうなものとしての藝術の場ー🎇は結果文明の藝術作品だったー

壱種いかがわしくも儚いまるで🎇のやうなものとしての藝術の場ー🎇は結果文明の藝術作品だったー

 

 

 

 

「目を覚ませ」脱化石燃料を訴える大規模デモ 気候サミット前のNY (msn.com)

若者たちが「環境問題」の常識を変えていく背景 「地球温暖化対策」で私たちが取り組めること | リディラバジャーナル | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

 

さう目覚めよ、現行文明!

でも何時迄経っても其れは目覚められぬ。

 

さても其れは何故か?

何故なら環境問題とはあくまで「個の課題」では無く「社會の課題」なのだから。

 

さう其れは兎に角此の現行型の文明が仕出かしたところでの「犯罪」としての問題である。

其の「罪」こそがまずは拭い難い。

 

ではどーすりゃ良いので?

じゃあレジ袋貰うのを止めスマホを止め會社を辞めケッコンも止め夢も希望も止めついでに人間も止めるのですか?

 

いや其れがもしもやれれば其れは凄いまさに釈迦級、クリスト級の聖なる認識の段階だ。

だが我我淫欲及び汚れた罪にまみれし大衆はそんな認識の次元にそも生きて居る筈が無い。

 

我我のやうな💩タレで大飯喰らいでさらに邪淫にふけりつつ酔っぱらうのが大好きな馬鹿共にはそんな眞面目な認識がそも成立するとは思えん。

ではどーすりゃ良いので?

 

だからソコをまずは自分で考えよ。

まずは自分で考えられるやうに社會の洗脳を解け。

 

まず話は其処からだな。

 

 

だけれども環境詩人のアナタの論理では何でも要らん、止めよ!ばかりでありつまりは「文明」の諸価値に對し常に否定的であり其れも事實上不可能なことばかりを述べて居られる。

さう言えばさうなのかなあ。

 

いやもう最近は耄碌が酷くどうのかうのでは無く常に「怒って居る」ので何を言って居るのか自分でも分からん程になって居ります。

昔良くなんか知らんが怒って居るジジイを街角で良く見たものでしたが今まさに其れにこそなって居ることでせう。

 

 

目覚めよ、現行文明!

でも何時迄経っても其れは目覚められぬ。

 

其れは「個の認識」が「社會の認識」に大きく依存し過ぎて居ることから齎されるまさに「呪い」の如き現象である。

とどのつまりは、

 

個<社會

 

なので個がどう叫ぼうが社會が回ることの方が要するに偉くなる。=価値がある

だが其の社會のことを「御勉強」すればする程に其れが信ずるに足るものではむしろ無いことが分かって來る。

 

だからあえて其処にて其の社會に對し批判的な自我をこそ築くべきなのだ。

ゆえに資本主義社會であれば其れとは逆のマルクス主義をまずは學び、また諸諸の「進歩」に浮かれる社會の様を冷ややかに見詰め✖をこそ其処に付けやう。

 

現代社會、御前なんぞはもうダメだ、零点坊主だ!!

だから如何にも極端なのですって、其の批判の内容が。

 

ありゃさうかなあ。

ですが「社會のあり方が變わらぬ」限りもはや人類は助からぬ。

 

とソコ迄言うても此の社會はついぞ變わらんものだ。

では何故常にさうなるのか?

 

何故なら社會には變えられるものと變えられぬものとがある。

變えられるものとは「小さい」もののことで變えられぬものとは「大きい」もののことだ。

 

でもって現行の社會では「大きい」ものの領域ばかりがむしろ肥大化して來て居る。

 

 

其れも例えば、

 

「大きい」=過剰なエネルギー消費

 

「大きい」=宇宙開発

 

「大きい」=情報過多

 

「大きい」=「全體主義」の蔓延

 

などは皆大きい。

 

だがあくまで個による認識は小さい。

 

つまるところ右側のデカい要素は「社會」自身が望みさうするところでのものである。

故にまずは其れを否定的に見詰めて行くべきだらう。

 

其れ等を否定的に見詰める程に認識のあり方がまさにわたくしのやうになって行く。

其れってでもなんかイヤな予感がするぞ。

 

じゃあ此の侭に地球が壊れてもエエんか!

地球が壊れる位なら認識の變態にでもなる方がずっとマシだらう?

 

つまりどうのかうのでは無く「社會の言いなり」の様こそが最惡のビョーキである。

正しくは「社會、御前は間違って居る、ズバリ零点だ!」との認識こそが百点なのである。

 

 

さて参年前より家事をやりつつ思ったことがまずは幾つかある。

 

1.スーパーへ買い物へ行くといつも冷房や暖房がガンガンに効いて居ること

2.兎に角商品の過剰包装が多いこと

3.店員への教育が惡いこと

 

此の参点共がまさに「社會」の問題である。

つまり「社會」が「惡い」のである。

 

其れもまた組織乃至は企業の側の全的な責任であり罪である。

だから其れは「資本主義」がまずは惡いのだが「共産主義」にせよ何にせよおそらく何処でも同じなのである。

 

よってわたくしは「社會其のもの」を批判し且つ否定的に扱う。

常に此の馬鹿社會めが、とさう貶すのである。

 

つまるところ此の社會には理性が無い。

其の理性とは何か?

 

其れ即ち頭が良いことだらう。

其れも日本人はむしろ世界壱頭が良い筈だ。

 

なのに何だ此のぶざまな様は!

壱體何をやってんだ此の動物共らめが。

 

うわあ🐶だ🐱だ🐵だ🐍だ🐊だ💩だ。

でも💩は無いでせう、其の💩は。

 

確かにやり過ぎました、どうもすみませんでした。

 

 

SDGsはこうした行き詰まりに対し、本質的な解決を図るための提言です。「経済発展をSustain(維持)する」一方で、その発展したいというエネルギーで「諸問題を解消する」ということです。つまり、資本主義、企業活動というワードが「サステナブルな」の本当の主語なのです。

SDGsとは企業が発展することをやめ、慈善活動をすることを求めているように誤解しそうになりますが、そうではありません。むしろ発展し、利益をどんどん出すことを目指してよいのですが、その結果、社会がいい方向に向くような経済の仕組みを経済界全体で作り上げようということなのです。ー知っていても意外と説明できない「SDGs」の本質 SDGsでいうところのサステナブルとは何か | 気になる英語気になる日本語 | 東洋経済オンライン(toyokeizai.net)より

 

所謂地球温暖化や生物種の激減の大問題を引き起こして居るのはまずは「企業」であり「組織」です。

さらに言えば「社會」であり「文明」です。

 

「社會が良い方向へ向く」ことはしかしながら現状では可成に難しいことでせう。

ですが所謂倫理的な「企業」であり「組織」であることを目指すこと自體は惡いことでは無い。

 

但し🗾社會はすでに其れどころではありません。

其れも自由民主党による政権支配が長く続き過ぎたばかりにすでに國民が「食うや食わず」の域へと貶められて來て居ます。

 

「食うや食わず」のみんなはすでに先進壱等國のみんなでは無く単なる「参等國の餓鬼」であり實は自分もまたさうである。

尤も自分の場合は物質的放蕩にてさうなって居ますのですが。

 

そんな「食うや食わず」の中小企業やまた零細企業はサステーナブルもクソも無く只百萬の金、弐千萬の機械のローンを今月どう払うかの問題でありまさに地球が壊れやうがどうしやうが知ったことでは無い。

 

要するにさうして其処にこそ命が係って居る。

嗚呼まさに👪と社長の命とが今其処にこそ係っておるのです!!

 

 

ダイバーシティーとインクルージョンSDGsの項目である以上、これも「サステナブル」であらねばなりません。実はすでにダイバーシティーとインクルージョンが経営的にも有利になるような仕組みが始まっています。ー知っていても意外と説明できない「SDGs」の本質 SDGsでいうところのサステナブルとは何か | 気になる英語気になる日本語 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)より

 

ダイバーシテーだのインクルバージョンだのそんなもんは屁でも無く中小、零細企業では兎に角毎月の如くに支払いの期日が迫っておる。

 

ー皆さんも「エシカル消費」という言葉を聞いたことがあるかと思います。環境によいシャンプー、人道的に問題のない組織で作られた作物を買う、といった消費行動ですね。

「Ethical(エシカル)=倫理・道徳的な」「Ethics(エシックス)=倫理」といいますと少し前はパワハラや贈収賄をしないといった社員の倫理規定の意味で使われていましたが、昨今ではこうしたSDGsなどに関連した行動をしているか、会社単位でエシカルであるか、という問いの中で使われるようになってきています。ー知っていても意外と説明できない「SDGs」の本質 SDGsでいうところのサステナブルとは何か | 気になる英語気になる日本語 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)より

 

尚わたくしはシャンプーなどは使いませんが石鹸、實はコレなども環境を破壊するのやもしれません。

わたくしは其の石鹸の消費量が並みの人の倍~参倍程もあるつまりは石鹸詩人ですので其のことで今丁度悩んで居る最中です。

 

尚其の「エシカル」な消費にせよ生産にせよ其れは資金に余裕のある大企業やまた生活費に余裕のある中流以上の家庭での考え方なのでありまさに其れは世界80億の人の壱、弐割位にしかならぬ御話なのだらう。

 

でもって動物界ともなりますともっともっと酷くて事實野良猫共は日日食うや食わずです。

嗚呼、つくづく人間で良かった。

 

ですが最近は其の人間でも事實上「食うや食わず」が増えて居ます。

 

でもって壱つ提案ですが、「エシカル」な生産をすることの可能な大企業に我我「食うや食わず」の人間を是非救って頂けぬものだらうか?

例えばかのTOYOTAがたった今百兆円を國に納めたとしてみやう。

 

其の金で例えば「年金」を倍増すれば良いダケの話であらう。

すると其れダケで世界が薔薇色となる。

 

でも其れでは高齢者が得をするダケの御話のやうですが…。

此の馬鹿者!

 

そんなホクホク顔の爺ちゃん、婆ちゃんが子や孫にドンドン御年玉を出せるやうになるではないか。

そんな國🗾こそが必ずや最高に幸せな國となる。

 

でも何故TOYOTAばかりから金を毟り取るのか?

其れはアンタ兎に角其の大TOYOTAこそが金をしこたま持ってるからだ。

 

 

サステナブルダイバーシティーとインクルージョン、エンパシー、エシカル。今回はカタカナ語のオンパレードでしたが、少しは肚落ちしたでしょうか(肚落ちという日本語を最近覚えました)。

SDGsはこうした背景がからみあって出された、われわれ経済界に課せられた行動目標です。皆さんの会社、SDGsにどのように取り組まれていますか?ー知っていても意外と説明できない「SDGs」の本質 SDGsでいうところのサステナブルとは何か | 気になる英語気になる日本語 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)より

 

さう、まさに其のSDGsとはあくまで経済界の問題なのだ。

そんな金満の経済界はデカく對して我我個人の資産は所詮ちっこい。

 

つまるところ地球環境破壊の問題のほぼ全てが其の経済界の問題なんだ。

また其れと科学技術の問題でもある。

 

我我個の生活がかうして近代化され次次と「新しい物」に囲まれて行くことなどもまた其れは「現代社會」がさう我我に常に強いるものとなる。

でもって其処で「スマホは要らん」だの「服は廿年前のがある」だの「TVは昭和製のがありまた電子レンジは1984年製だ」などとさう云うとまるで犯罪者の如くに君等は昭和の詩人を扱うではないか。

 

だが其処にてあくまで詩人の主張は正しいぞ。

其れにPCも旧式でエエわ、だがそも何で其のサポートを止めて仕舞うのか。

 

何、エンパシー?

あくまでエンパシーとは中小企業や零細企業やまた野良猫に対するシンパシーのことではないんかのう?

 

 

全くもうバカ社會めが。

要はデカいものは「搾取」することにてさう肥え太るのです。

 

現代文明がかうして榮えて來たのはズバリ「自然」を本質的に搾取して來たからのことだ。

故に其の「自然」からの反発ー報復ーの部分は免れ得ぬこととなる。

 

 

ーソ・ホチャン教授は「生態系破壊の根本的な原因は、生命としての自然の価値を無視する人間中心主義にある。自然は人間が征服する対象ではない。自然に存在しているすべての生物は、生存・繁栄の権利をもっており、自然は自らをヒーリングする能力を持っている」と指摘します。そのうえで、「人間が自然より上に位置し、自然は人間が『開発・管理』するものだとする考え方は、環境だけでなく人間そのものの破壊も招く」と話します。

人間が引き起こした環境問題の行方を決めるのは、人間自身です。人間が環境に順応するか、それとも従来のように環境を自分たちに順応させようとするのか。まさに私たち一人一人の生き方が問われます。

これまでの環境問題は、科学技術だけで解決しようとしていました。しかし、ソ・ホチャン教授は「生態系の危機の原因は、科学技術にあるのではなく、人間そのものの人間性を発揮できないことにある」と言います。人間も地球という共同体の一員であり、だれもが本心ではそうあり続けていと願っているはず。「人間にもとより内在している人間性を目覚めさせることが、環境問題の解決の糸口になる」(ソ・ホチャン教授)のです。ー環境問題の本質 – 一般社団法人 ECO (earthcitizen.jp)

 

こちらなどはまさに「あっぱれ」な御意見です。

 

環境問題の根底には其の「人間中心主義」=「社會中心主義」の部分が横たわって居る。

ところが普通人間は自らが属す「社會」を貶すことが出來ぬ。

 

まあ其れも環境詩人の如くに「村八分」を覚悟した上で社會を批判することは可能ですが常に其れは「茨の道」とならざるを得ぬ。

 

「生態系の危機の原因は、科学技術にあるのではなく、人間そのものの人間性を発揮できないことにある。」

「人間にもとより内在している人間性を目覚めさせることが、環境問題の解決の糸口になる。」ー以上よりー

 

我我個がたった今欲するものとは其のほぼ多くが「社會的な欲求」によるものとなる。

「社會的な欲求」は時代により其の内容が移り變わる。

 

例えば百年前には💡壱つが宝物だったやうに今我我はより良いPCやスマホをこそ求める。

問題はむしろ其の科学技術の進歩に振り回されホイホイと其れに飛び付く人間の弱い心の側にこそある。

 

尤も個人的には旧式でもエエんだがそんな旧式に限りもうサポートされないんだ。

 

さて此処にて「人間性」なる意味深な言葉が出て参りました。

 

人間性」とは例えば「理性としての自立性」のことなのではないか。

だが社會の側はあくまで何時迄経っても儲け主義=搾取體制を止めない。

 

社會の側はあくまでさう「進歩」することで文明社會はより良くなるとさう信じ込んで居る。

まあ其れも所詮壱種の邪教なんですが「進歩」することで確かにPCとか🚙や✈に🚢などは良くなります。

 

だが逆に「進歩」することで「人間性」即ち「理性としての自立性」を欠いて行くのではないか。

つまり豊かで便利な社會は逆に人間の心としてのあり方をおそらくは麻痺させるつまりは洗脳へと至らしめるのではあるまいか。

 

なので詩人は此の半年程でせうか、「洗脳」、「洗脳」、「洗脳」ともう其ればかりを述べて來た。

「洗脳人間」、「洗脳野郎」。

 

さう言われてイヤな気分にならぬ人は居ないことでせう。

だから實はワザとさう言ってあげましたのです。

 

 

人間性を目覚めさせる』ー以上よりー

 

うわあー、まるで此処其のものですな。

まさに『目覚めよ!』ってか。

 

でもさう『目覚めよ!』って言われると記憶には残るでせう?

其れと此処の此の大仰な雰囲気は壱度視たら忘れられないでせう?

 

さても其の『目覚めよ!』とは「個」に對してのものであり同時に「社會」に對してのものだ。

ですがどうも最近は「社會」がより目覚めにくくなって居るやうな感じです。

 

全く此の馬鹿社會めが。

 

 

さて昨日九月十七日の19時より日進町で「夢花火」を観て参りました。

日進町は遠いー七~八キロ位はあるーのですが自分は近道を知って居り参拾分で現地へ着いた。

 

其の近道とは天白川のサイクリングコースである。

此処を通れば日進町迄信号は弐つしか無い。

 

まずは天白川のサイクリングコースの際に生える草が夕焼けの空と共に物凄く美しい。

其れもアホらしい社會問題などよりもずっと綺麗である。

 

もしやこんな雑草こそが藝術以上にエエのではなからうか。

 

日進町の田圃の眞ん中で独り花火を観るが天白川の川向うには高層マンションが何棟も建ち其処の住人はむしろ自宅から花火がモロ観えである。

さて自分は常に感度が高く気難しい人間であり田圃に佇んで居ると農薬の匂いのやうなものがいつも気になる。

 

田圃に限らず畑でもまたさうでありだから田圃や畑ばかりならば其れで良いかと言えばさうでも無い。

但し見物人が居ないのはむしろ良い。

 

さて花火の出來であるがズバリ「最高」のものだった。

其れも18時位からずっと強い風が吹き名古屋から日進へと吹き込むだらう汚染物質を吹き払い完璧にクリアーな環境を其処につくりあげて居た。

 

すると☆迄もが出て其れが輝くのだった。

さらに日進町の夜景其のものがまるで🎇のやうに綺麗である。

 

🎇は30分で終わったが兎に角其の全てが素晴らしかった。

と云うのも打ち上げの會場が変更となりより田圃に近づき下の方でちょろちょろとやる🎇の方までしかと見通せるのである。

 

其のちょろちょろの🎇を何時もは無視して観て居たのだったが今回初めて其れがほんたうは壱番綺麗なのではないかとさう思わされたものだった。

 

 

日進市 夢まつり夢花火スターマイン ドローンからの撮影 - YouTube

 

無論のこと物凄い🎇大會では無いのだけれどかうしてドローンから撮影されると結構綺麗である。ー参年前の夢🎇ー

 

が、19時25分頃よりにより🚙がヘッドライトをハイビームにしつつこちらへ來たので通りざまに其の🚙をデカい声にて罵倒してやった。

 

そんな素晴らしい🎇を観つつ其の🎇はあくまで文明のもので儚い、などともまた考えた。

確かに🎇は「自然」と同じ位に美しいものであるが其れも例えばノーブルオパールは陽の光さえあれば毎日綺麗だが🎇は壱回やるだけで最低数千万円はかかることだらう。

 

…でもだから綺麗なんじゃないか。

さうか、そも文明とはさう云うものなのか。

 

文明とは然し儚いのう。

さう言えば「安土城」や「聚楽第」もまた儚い物だった。

 

さても文明ってそも何だ?

文明の其の罪深さと煩悩まみれの様と。

 

もしや其の文明って👿なんじゃないか。

 

帰りも元気に🚲をこぎ菅田のココ壱番屋でいつものやうに野菜カレーのお持ち帰りをし其れを家で食ったところ滅茶苦茶に暑く汗がダラダラと出た。

 

Amazon.co.jp: 高野山開創千二百年 いのちを紡ぐ 空海 共生の思想を観る | Prime Video

 

シャワーを浴び壱息つくと何か良い動画を視たくなりこちらを視た。

だが宗教が言うことは御尤もなことばかりなのでなんかかう物足りないと申すか👿性には欠けて居るのではないか。

 

ひとりがたり馬渕睦夫【日本を売り渡した亡国の政権】大和心ひとりがたり24回 - YouTube

 

すると此の先生が「洗脳」、「洗脳」とまさに其の洗脳を連発され物凄く悲観的な🗾社會論をされて居るではないか。

 

馬渕睦夫 - Wikipedia

 

はあー、京都の作家でもってヤッパシ京都大學出の人か。

其れもまた「洗脳」、「洗脳」とまさに其の洗脳を連発するのは「作家」か「詩人」に限られる訳か。

 

此の先生の御話はでも面白いぞ。

だから残りも此の際全部視てみやう。馬渕睦夫チャネル - YouTube

 

ですが自分はあくまで其の「政治」や「🗾社會」に振り回されたくは無い。

つまりは其のやうな「社會的」な観念に時間を取られたくは無い。

 

またさらに文明の抱える大問題も全的に其れと對決したいとは思わぬ。

 

自分の目指すところとは其れとはまた違う「藝術的」な場のことである。

そんな「藝術的」な場とは所謂「論理以前での體験」をも含む壱種いかがわしくも怪しくしかも儚いさうまるで🎇のやうなものなのだらう。