目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

むしろ問題は文明の頭の出来が悪いことにこそあるー直観を駆使しつつ考えたところでの悲観的な文明論ー

72.むしろ問題は文明の頭の出来が悪いことにこそあるー直観を駆使しつつ考えたところでの悲観的な文明論ー

 

 

 

 

ー 通学時にうんこを漏らし、学校のトイレで水洗いするも、完全には汚れを落とせず、授業中に異臭を放ってしまうのだ。誰もが臭いに気がついていながら、同時に、誰もその臭いについて口に出せないことで、クラスには不穏な空気が流れる。いたたまれなくなった山田少年は、学校を早退した。

 

 平たく言えば、これまで多くの男性が雇用されてきた職場は失われつつあり、給与も減る一方であるが、それでもほとんどすべての男性は働き続けているということになる。

 男性の生き方を変えていこうという気運は、過労死が社会問題になった1980年代後半やリストラに注目が集まった2000年前後にも高まったが、「男性は仕事中心の生活をするべき」という強固な「常識」の前に、その勢いは長く続かなかった。

中年男性の7割が「人生つまらない」…「普通の人生」に潰され、家族のためにひたすら働く (biz-journal.jp)より

 

 

此の社會とはまさしく其のウンコ臭いのとは正反対での価値構築の場です。

ですが本質的には人間は其の自らがウンコたれであることからは決して免れ得ない。

 

にも関わらず其処に幻想としての価値の帝國、謂わば逆向きの価値の流れを築き続けて行くことこそが現存在としての宿命です。

わたくしなどはかうしてなまじ感度が良いものですから、さうしたものの全てがもう黙って居ても普段見えるものですからかうして時に奈落の底へと引き摺り込まれるが如き哀しみのやうなものを常に其処に感じて仕舞う訳だ。

 

尤もさう云うものを常に感ずると云うのは同じ文學ではあれ小説的なものでは無く明らかに詩の方でせう。

 

さて其の「仕事」に関してですが、本質的には其れは🚺の方が向いて居るものと個人的には感じて居ます。

何故なら🚺には直感力があり其れに加えコミュニケーション能力つまりは集団への適応力が高くあるが故に。

 

 

但し最近分かったのですが、♀の🐈に取って他の♀や其の子は本質的には全部敵なのです。

勿論🐈の♂はもっともっと他の♂に対し闘争的な部分を発揮するが他面では意外と優しく例えば出産間近の♀を優しく舐めてやったりも常にするものです。

 

其れを哲學的に規定すれば内部的に深いところに規定される闘争本能はむしろ♀の方にこそ有り、逆に♂の闘争心や破壊的活動はあくまで表面的、表層的なものではないかとの結論へと至るのです。

 

よってくれぐれも申して置きますが壱面的な理解に留まらぬやう常に思考力の方をこそ磨き込んで行かねばならない。

其れも大多数の人人ー世人としてのレヴェルーはむしろ其の逆をやり其れが昂じるとまさに「洗脳」となる訳ですが其の洗脳状態に抗するのは結局己が理性のみであることでせう。

 

今ひとつ気になるのが其の世人レヴェルに於ける所謂大局観の無さです。

要するに其処では大きく考えられて居ないので思考が細切れでの断片的なものになり易く結局は何も考えられて居ないことと同じこととなって仕舞いがちだ。

 

 

しかしながらあくまで当人は其れこそ必死の思いでもって考えては居るのですけれど。

 

左様に逆向き思考をするとむしろみんなには見えないものがまた見えても参ります。

其の人には見えないものを見て其れに就き御話をするのが詩人の役目なのだと常に個人的には思って居ります。

 

 

さてさうして美に囲まれつつ暗くうち沈んだ状態で現存在に対する哀しみを感じて居るのが好きな我は元元藝術方面には強く基本的には其れが何であれ分かる訳です。

 

但し其の分かると云うことは其れを藝術作品として値踏みするやうな類での能力のことには非ず。

むしろさうした現實的且つ打算的な見方とは逆方向のことにて見た途端に其れがパッと分かると云うことです。

 

さうした感度の如きものは自然への理解、美への理解のやうなものと密接に連なって居ます。

ところが人間とはあくまで社會的な現象ですのでむしろ人人は其の美其のものをさうして直観するのでは無くむしろ其れに対し社會的に与えられる評価なりを基準として其の美なり自然なりを評価し且つ其れに接して行く。

 

 

まさに其れがハイデガーが述べるところでの非本来的な意思決定へと連なる訳だ。

でもってして其処での問題とは果たして其れが眞の意味で物事を理解することに繋がるのかと云う素朴なる問いのことです。

 

おそらく其れは近代以降、特に現代に於いては直観的認識ー無分別智ーに対し益益不純なものとなって来て居ることでせう。

さうした意味では現代とはまさに其の直観的認識から遠ざかりつつある精神的過程であるとさうも申せることだらう。

 

要するに其の認識上の全体主義としての「みんなでもって歩む幸せへの価値」が常態化ししかもより堅固に築かれて行く、そんな認識上の過程をこそ今まさに現代人は歩んで居るのではないか。

ですが其れはハイデガーが述べた如くに「頽落」の様なのだらうと個人的には思われます。

 

 

さて其の🚺には直感力があると申しましたが最近思うのは其の直感と直観は矢張り別物ではないかと云った点です。

直感とは謂わば現状保存の為の防御力なのでせうが、直観とはあくまで理性を介した上での気付きの力であるやうに思う。

 

ですので結局其れは出所が違う訳であり、言わば其処で直感の方は眞理を探求する訳では無くむしろ眞理以外での現状の保持力や包容力のやうなものをより高めて行くのです。

対して直観の方にはそんな日常的価値には止まらず多分に智慧の光の如きものが混じって居ります。

 

 

尚わたくし個人にはまた其の力が共にあると云った感じです。

どちらかと言えば直観力の方がより強くありますが、其れでも単なる現存在としてかうして日日生きても居るのですから直感の方が無いと其の生の闘争の場を生き抜いてはいけません。

 

其の現存在に於ける「頽落」の様を其れこそ先駆的な気付きの力にて阻止して行く、即ち本来的な自己に至る即ち「目覚める」と云うのがあくまで理論的な展開なのだらうがまさに其処には「死への先駆性」ばかりでは無くかうした意味での直観の能力の有無が其処に大きく問われて居ることだらう。

 

個人的には其の直観こそが所謂「世界をありの侭に見詰める」認識のあり方であり智慧のあり方なのだらうとさう見て居る。

しかしながら直観智こそが其の「頽落」せし現存在に取っては最も遠くに位置することだらう認識のあり方なのだ。

 

 

尤もわたくしに取り其れは常に近しいものの見方であり其れこそあえて説明などせずともむしろ生得的に其れが得られて居るやうな感じで故に日常生活の中でもポンポンと其れが飛び出して来るが如き感じである。

だからさう云うのは小説だの何だのでは無くむしろ須らくが詩の世界での出来事なのだ。

 

わたくしはもう長くそんな精神の領域、心のあり方をこそ生きて来たのだと言える。

ですが實は其れはそんな生得的なものでは元元あり得ませんでした。

 

即ちむしろ理性的な錬磨、努力の末に次第にさうなって来た感じが何処かで致します。

 

さて其の直観能力は生其れ自體を顕わに見る認識のことで屡佛法では「無分別智」などとも言い表されて居ます。

其の「無分別智」にも或は階層構造やまた方向性の違いなどの幅が有るのやもしれぬが概ね其れは「パッ」と分かり「ピッ」と来るもののことだ。

 

其れは例えば藝術の分野などでも屡語られて居たりする認識のことです。

仲でも天才的な藝術家などはさうした能力が強くあるが故に例えば並外れた優れた作品を世に遺すことが可能となる。

 

 

ところが其の天才的感性もまた感性と理性の統合力や表現の上での技術力に欠けると其処で眞の意味での藝術作品とはなり得ません。

要するに幼児の絵などは感覚的にはブッ飛んで居ても統合的な意味での纏まりには欠け藝術作品だとはよもや認められません。

 

自閉症や精神領域での病のある人などもまた優れた才能を発揮することなどがあり要するにむしろ藝術や宗教などの分野では所謂常識的では無い人の方に屡創造性が発揮されて居たりもまたする訳だ。

其のやうに常識的では無い見方からは何かが生まれ易いとまた言えるのやもしれません。

 

されど其れが最終的に理性的に統御ー秩序化ーされたものでないと現存在に取っての価値を形作ることなどはまずあり得ません。

 

 

問題は然し其の直観や直感の方ばかりでの生き方ですと容易に現實離れをし即ち内面的な方向に何処までも沈潜して行く、つまりはそんな病的な方向へと常に行き易くもなる点でせう。

従って藝術であれ宗教であれまた學問の分野であれ自らを壊す寸前でまさに寸止めし其処に優れた作品だの立派な教義だのまた學問的な成果だのを如何にして構築して行くかと云う部分にこそ全てはかかって居ます。

 

なのですが其れもまた壱歩誤れば奈落の底へと落ちて行く作業のことですので其れだけでも彼等には大きくプレッシャーがかかって来る訳だ。

そんな訳にて藝術であれ宗教であれまた學問の分野であれさうした壱種世間離れした精神の分野は決して精神に取り樂な世界なのではありません。

 

 

ですが多くの藝術家などはまさに止むに止まれぬ気持ちに突き動かされむしろそんな綱渡りでの創造的価値をしぶとく生き抜いて行くことでせう。

また其のしぶといのは世人の方もまさに其れで、要するに彼等は直観に煩わされたりせずとも良い壱種の現實感覚には長けて居るのでまさに其れを最大限に発揮し「現世利益」に対し祈りを捧げて行くのですから其れはもうしぶとく其れこそ神社でもって「凶」のおみくじを引いても其れを良いやうに解釈しむしろ前向きに生き抜く、つまりは精神の上でのデリカシーにはそも欠けて居るので大層打たれ強く出来上がって居るのです。

 

だからこんな詩だとかまた死の先駆性だとかそんなことを言われてもまるで「何のこっちゃ?」のことであり逆にさうして毎日屁をコキつつ今日と明日食う飯のことばかりを心配して御座る。

さらに旦那の言う事をまるで聞かぬ不細工な妻や出来の悪い子等に囲まれおまけに會社でもいびられるわでもう毎日が針の筵である。

 

おまけに日銀と自民党も結局は其の悪の手先であった。

 

だが詩人はそんな辛い生を生きるアナタの常に味方です。

さうしておおまさに今此の世でもって苦しんで居る現存在の哀れなる様。

 

今まさにわたくしは其の為にこそ闘おう!

まさにそんな生の齎す哀しみに同調しもう何処までも戦って行くぞ。

 

 

もしや其れは民主化運動ですか?

其れとも革命運動ですか?

 

いや結局脳内での民主化運動であり革命運動です。

かうしてわたくしが目指して居るのはあくまで認識上の転換であり外面的、社會的な意味での価値観の変更には非ず。

 

ではそも人生はつまらない?

 

いえさうして洗脳され切った状態では矢張りつまらないのだと思う。

でもルイ山田氏のやうにかってウンコを漏らしたお蔭で芸道の世界に活路を見出せた人などもまた居られる訳だ。

 

但し我は洗脳を全否定するものではまた無い。

よって言わば其の洗脳こそは必要悪です。

 

 

だけれども価値観の全部を其の洗脳の方に寄り掛かると現存在はまず頽落致します。

 

そも人生は樂か苦か?

樂=愉しい、苦=辛い、ですかね?

 

其処はこんな哲學詩人よりも皆様の方が良く御存じの筈で、要するに其れが常に半半に有る世界だと云うことでせう。

ならば其れでもって全然良くて何処にも悪いことつまり👿などは居ないではないですか?

 

いや其れが👿は居るんです、神や佛のおわす世界には其の対となるあくまでそんな悪い奴等が必ずや出て来る。

 

するとそも其処では何がダメなのですか?

劣化がつまりは頽落の部分から悪が侵入し此の世其れ自體を破壊するに至る。

 

 

其れはもしや社會的劣化、即ち文明の崩壊のことなので?

むしろ常にさうしたこととなりませう。

 

要するに現存在の頽落とはあくまで社會的な現象其のものだ。

まさに其の劣化であり頽落を食い止めんが為に個による気付きの力=目覚める力が是非必要だと云うことを説いて居ります。

 

なる程、すると社會が悪いのはもはや直しやうが無いがあくまで個個人としてはー眞理領域ーとして其れを救済することが可能である、とさう述べられて居るのですね?

まさに仰る通りでのことです。

 

 

でもさうして社會とは常に悪者なのですかね?

其処には文明の恩恵や知恵が満ちて居るやうにもむしろ見えて来るのですが…。

 

いや其れが常に「愛」には欠けて居ることだらう。

結局は「愛」により築かれた文明でもない限り長持ちなどはしません。

 

尚此の社會がダメだと云うことはたとえば壱度でも社會科の教師でもやればむしろたちどころに分かる御話です。

社會科の先生は皆其の滅亡論者ばかりなので?

 

さうでも無いことでせうが我が大學の先輩の高校時代の社會科の教師などはまさに其の酷い滅亡論者でもってして其れも毎日のやうに「社會は滅ぶ!」と授業でもってさう執拗に訴えて居たのださうです。

いやあしかし其れはしつこい程にまたカルトな御話でしたね。

 

 

ですので兎に角其の直観を磨く、若しくは其れが無理なら直感力を取り戻さんが為にも是非自然と交わって置く必要があるのです。

 

でもって今夜我はホタル観賞にて相生山へ出かけるつもりである。

何せ昨日は夜雨が降り結局行けませんしたので…。

 

さうか、其れはまた愉しみなことで…。

いえもはや時期が遅いのやもしれません。

 

其れと年年夜は眠たくもなって来て居りよってそんな真夜中には行けぬのでとりあえずは廿参時頃に出向く予定です。

 

 

結局其の社會的レヴェルでの頽落は最終的には破壊をのみ齎すことでせう。

文明は此れ迄にもそんな滅亡をむしろ繰り返しつつ来ても居りよって現文明が大丈夫かと言えばむしろまるでさうでは無く逆に其れは非常に危険なものなのです。

 

さうした様は直観に基づき認識を成立させた場合にまた「パッ」と分かっても来ることです。

でも其れが分からぬ限りは矢張り何処かで空気を読む認識を繰り返しさうしてあえて洗脳されることにより心としての安定感を確保して居るのです。

 

すると其れがまさに現實か若しくは社會に洗脳され切り安心して居る状態なのですか?

まあさうしたことでせう。

 

ですが藝術家や社會科の教師が洗脳を免れて居る訳では決して無く事實わたくし自身がコロナ禍までは文明はまだまだ継続しあくまで悪いのはむしろ自分が考え過ぎて居ることだとさう思っても居たのでした。

其れもまたある面では当たっても居るのですが實は話はもっと複雑であり今後は特に其の文明に於ける劣化即ち制度的なまた物理的な破壊が連鎖的に引き起こされて来る可能性がむしろ高くあることでせう。

 

 

故に「今後も文明は何とかなる」と云った樂観論は捨て去り文明は必要悪であり其れを信ずる我は洗脳馬鹿だがもはややるしかないので其れをやるしかなく其れは何だか哀しいことなので此の際何かう音樂でも聴こうかな?

と云ったやうなこととならざるを得ぬ。

 

要するに後はもはや藝術や自然其のものが現存在の抱える苦に対し何かを語りかけて呉れるだけのことなのでせう。

 

其れは慰めの調べでありまた慰めでの自然の歓びなのですか?

嗚呼まさにさうしたことでしかすでにあり得ません。

 

だからかうして常にショパンが、またベートーヴェンが、さらに多くの人文書が、おまけに自然が其の現存在の生の苦しみに対し癒しの力を発揮して呉れることだらう。

また無論のこと神社や仏閣、其れに教會などがまた此の苦しい心の内に対し救いの手を差し伸べて居て下さるのです。

 

 

あああー、何やら其れは其れは心強いことだ!

ですが無論のこと其の神社、仏閣や教會の中では決してウンコなどを漏らしてはイケません。

 

 

なる程、するともしや其の藝術とはまた宗教とはまた學問とは「愛」なのですか?

其れもまさに慈愛の次元でのおおまさに普遍的な愛なのですね?

 

其の癒しこそが愛であり慈しみの心其のものです。

其のやうに別に宗教には限らず學問其れ自體も藝術作品もまた其の愛の所産其のものなのだらう。

 

ほんたうの愛とはまさにそんな壱種哀しい形での愛のことだ。

 

 

ちなみに哲學上究極的には有よりも無の方が安定化し得るのだとも考えられやう。

此の世はそんな現象界なので常に何かが次次と引き起こされやう。

 

また其れを佛教やキリスト教は良いものだとはまた見て居ないのだと思う。

其の世界の限定性即ち不完全性に対し常に不足が生じざるを得ぬので言わば苦や罪が其処に生ずる訳です。

 

 

基本的に其の認識の仕方は等しいと我は見て居る。

但しあくまで救済の仕方はまた別物となる。

 

尚其の神の國なるものと佛なるものは矢張り共に其の現存在の限定性を超越して行かんが為のものである。

されどキリスト教の場合は自己の内側に超越者としての神を創造し佛教の場合は自己の内側に超越者としての佛を創造する。

 

 

さうした意味では両者はかけ離れたものでは無くむしろ其の救済宗教と本質的に対置されるのが神道であり且つアニミズムである。

でもってして神道であり且つアニミズムに於ける神は恵みの神であり同時に奪う神である。

 

要するに其れは自然其のものの性質を人格化して行くものである。

なんですが其の自然の人格神には救済能力が常に欠けて居る。

 

要するに人間化せぬ限り現存在に対する救済が可能とはならない。

故に佛教もまたキリスト教も救済の為にあえて「人間」をこそ設定するのである。

 

故に其の壱神教としての神はむしろ人間臭く創造されて行く。

故に佛教の開祖である釈迦は悩み苦しんだ挙句に理性的に解脱を成就させられた。=釈迦は元元人間である

 

 

要するに共に「人間離れ」した宗教なのでは元元無い。

されど佛法の場合は本質的救済を成就せんが為に「人間じゃ無い」状態へとあえて精神のあり方を変えて行くのである。

 

なのだが實はキリスト教の場合も現存在の心其のものをあえて神に託して仕舞うのだから半分位は人間を辞める=神の価値観を受け容れることで人間其のものではもはや無くなる、のである。

うーん、さうか、結局宗教の本質的意義の部分は結構複雑なのですね。

 

 

さらに現存在への洗脳と云う意味では、

 

キリスト教→神による洗脳は〇で、神の価値観と対立する邪なる社會や👿の価値観は✖。

佛教→佛は結局ある意味では自己洗脳でありむしろ其れは〇で、其の自己洗脳を否定するやうな社會の価値観はむしろ✖。

 

なのである。

だから佛教にはまたオウム教の如き社會的価値の否定がそも起こり易いのだと言えやう。

されどキリスト教ではまた神としての価値への洗脳がそも〇なので其れ即ち神の為に死んでお役に立ちたいなどと云う所謂殉教精神が其処に芽生えても来るのである。

 

また絶対性と云う意味に於いては、

 

唯壱神→絶対的価値

佛→相対的絶対的価値

 

なのやもしれぬ。

 

 

佛はむしろ概念の絶対性を放棄するところにこそ生ずるものであり故に本質として其れは絶対的価値とはなり得ない相対的本質的価値なのだ。

されど其処に佛、と言ったら最後佛はあくまで佛としての最高の価値となるので要するに概念分別化した途端に佛は絶対的価値と化すのである。

 

だけれどもあくまで其の佛としての本源的意味、其の本質とは概念分別ー概念的価値ーの消去であり放棄である。

だからより正確には佛は元元居ないのであるが其れでも佛と言った途端に其処に生じて仕舞うこととならざるを得ない。

 

其のやうに謂わば本質的論議をする場合には佛とはまさにこんな難しい話とならざるを得ず其れこそ現實的に何佛を拝むだとか實はさうした話ではまるで無く要するに其処に哲學的な思考を要求されて来るものと必然的になる。

尚釈迦は宗教家と云うよりも根っから哲學的な思考をすることが得意な人であったことらしい。

兎に角日日沈思黙考にふけり続け其れではイカンとさう考えた父王が妾共を彼に与えたやうだが結局其の性質はまるで変わらなかったものらしい。

 

 

さて絶対的であることが絶対かと言えば其れはさうでは無く絶対的なこととは逆に相対化されて居たりもまたするものです。

謂わば絶対的な価値と相対的な価値の場が相剋し且つ相即する場が此の現象界なのであり従ってある基準に沿って例えば絶対的に失敗ー劣化ーして居るにせよむしろ他の価値基準に対し成功ー特化ーして居ることが多いので其処は余り其の価値分別上の優劣には余り拘らずにむしろ自己判断にて其の基準を築いて行く方が幅広く価値に対応する認識が成り立つ訳だ。

 

現象界はおそらくは場としての瑕疵性が形作るものであり本質的にはおそらく其れは+では無く逆に-の性質を帯びて居るものだ。

其の分離されて迷い出て来ること其れ自體がおそらくは-の性質を帯びて居るものである。

 

ところがあらゆる文明はむしろ其のやうには考えず決まって其処に+の価値構築を行う訳です。

ところが其れをやるうちにいつしか文明が抱える問題は複雑化し結局は其れが理性による修復能力を超えることで持続不可能なものへと至って行く。

 

 

よって其の+ばかりでの価値観のやうなものが逆に文明の首を絞めて行くのである。

なので何かをやる、との場合に其処で其の逆のやらぬことの価値=無為の価値と云うことにまるで気付いて居ない。

 

自然破壊の論理にせよ全く同じことでそも相手の論理ー自然の摂理ーに立つと云うことは儲けや現存在へのお役立ちには繋がらぬことながら其の-の場としての此の世のあり方の維持にはしかと繋がることでせう。

其のやうに文明のイデオロギーのむしろ根本の部分に其の厄介な壱方向性が認められであるが故にむしろ近代文明は考え方其のものの方でおそらくは間違いを犯して来て居るのだらう。

 

だから其れはどうのかうのでは無く頭の出来=理性のあり方としての問題です。

要するに其れは文明の頭の出来が悪いからそろそろ此の文明も沈没して行きますよと云うそんな分かり切ったやうなしかも至極単純な御話なのです。