81.社會的な意味での洗脳への解毒と普通の個の幸福に就いてー日本社會と同質性の齎す罠ー
さて我が幸福論の骨子となることこそがまさに「限定」です。
何故なら人間と云う現象は常に限定的にしか幸福を見詰められません。
其れはどんなに偉い人間であれまた金持ちであれ逆にどんなに見下げ果てられ且つ食うや食わずでも其のやうに人間は常に限定的にしか幸福を見詰められません。
其の限定を解除する方法はありまさに其れが宗教的認識です。
宗教的認識こそが其の非限定的幸福へと向かうものですが其処には信仰と云う高いハードルが設けられて居る。
尚宗教的認識と👪生活や社會生活を両立させ共に求めることは本質的にはあくまで不可能です。
少なくとも眞理探究のレヴェルにて其れを行わわんが為には宗教ならば其の宗教に専念して行った方が良いことでせう。
要するに教義の解釈だの云云の前に世俗の生活は眞理探究とはまた別の次元での現象でしかあり得ません。
但し宗教的な認識は實生活にもまた大いに為になることでせう。
だが其れが眞理への道であるなどとはよもや思わぬ方が良い。
壱般に宗教家や余程の文化人でもない限り眞理領域のことなどはまず見えては参りません。
大抵の場合はさうして只人間としての生活を生きまさに其処に殉じて行くのです。
でも私の生はまた其れとも違うことでせう。
私はどちらかと申せば所謂普通のことをやることが苦手です。
其の代わりに常に何かを掴んで居るが其れはあくまで周りには理解し辛いことばかりです。
つまりは其のやうな認識世界を常に生きて居る人間なのだらう。
だからどんな変わったこともまた申せますが我に限れば好きなのはそんな崖っぷちの認識のやうなものでは無くごく普通の日常的な出来事です。
さうしてそんな日常的な出来事こそが美しいのだと思う。
但し此の世はそも分裂した世界ですのでまさに苦もあれば樂もあり、良いことがあればまた悪いことも半半にてつまりはゴタ混ぜにて起きて来るものである。
さて本日は月に壱度クリニックにて中学の先輩の先生に診察して頂く日だ。
だが雨が降って居る。
自転車はまた頗る雨に弱い。
であれば歩いて行けば良いだけの話である。
約壱キロ程なので其れも15分程度で行ける話である。
たとえ股関節がどうあらうが其の位は歩くのが人間にとって当たり前の話である。
其れを🚙に乗り行こうとするのでそも話がオカシクなる訳である。
其れではまた何かあったら何ぞ力になれるかもしれぬので連絡して下さい。
母のことで先生がさう言って下さった。
先生もまたかって長く母親ー女医さんーの面倒をみられて居たのである。
いつものやうに眠剤とPL顆粒を貰い向かいのスギ薬局にて奈良の蕎麦を買い家へ帰る。
かうして歩いて帰ると特に様様な🌸が見られより幸せになれる。
紫陽花にクチナシ - Wikipediaが今盛りである。
梔子の香りもまた壱種特別だ。
其の🌸こそが限定のもので、其れは現象としての生命の儚さを伝えるものなのでもまたある。
よって🌸は現實其のものであり思想や宗教のやうな幻想なのでは無い。
其の宗教のやうにまさに幻想のやうな眞實の世界と此の眼前の梔子の香りとはまた別物なのだ。
こんな風にわたくしは幻想家なのでむしろ努めて現實の方へ向き直りまさに其の現實と交わらうと常にして居る。
こんな梅雨時には兎に角蕎麦が美味い。奈良大和路割子そば…奈良県って蕎麦で有名だったっけ? | TOPPY LIFE
暑い日などは弐食は此れを食うのである。
尤も腹が減って居る場合には壱度に弐つコレを食うのだ。
つまり此れは幾ら食ってもむしろ體には良いのである。
でもってこんなものもまたスギ薬局にあったので買って来た。
此の金沢の定番の菓子と云うのを先日初めて食った。
其れもカレー味と普通のものがあり共に可成に美味かった。
初めてこんなものが食え我は今とても幸せである。
別に大金を使った訳でも無くまた🚙さえ乗って居ないが道の途中で様様な🌸にも出遭え其れが可成に幸せである。
人間の幸せとは本来こんなものであるべきものなのだらう。
まさに其れは具象的に展開される限定的幸福の形である。
ところが世間の人人はさう云うのを幸せだとは普通言わぬものだ。
彼等の幸せとは株で幾ら儲けたとかまた子が有名大學へ入ったとかまた壱流企業へ行ったとか大體そんなものが多いのである。
だがわたくしは其れを幸せだとは思わない心の位置をすでにかうして生きて居る。
だからこそ此の雨降りのつまらぬ日の出来事の全てがむしろ永遠なる迄に至極幸せなのだ。
尚クリニックでは大きなTVが待合室に掛けてあるが此処数年は殺伐としたニュースばかりなので本を読み待つこととして居る。
本日はマルクス・ガブリエル氏の本を持参した。つながり過ぎた世界の先に | マルクス・ガブリエル 著/大野和基 インタビュー・編/髙田亜樹 訳 | 書籍 | PHP研究所
再再読なのだが書いてあることが可成に理想論的な内容であり改めて驚いて仕舞う。
要するにマルクス・ガブリエル氏は現代の天才哲學者として世の中のあり方に働きかけやうと懸命に努力して居られる。
流石は独逸の哲學的知性としての流れである。
おそらくは自らが率先して世の流れを変えやうとさう努力されて居ることかと思う。
だけれども我はつい食い気の方へ走りかうして何時の間にか「ビーバー」を食って居る。
うーん、此の昆布風味が兎に角良い。-かうして我は昆布が大好きなのだ-
其のカレー味の方にも其の昆布風味が効いて居て兎に角美味い。
Amazon | 北陸製菓 ビーバー・白えびビーバー・のどぐろビーバー・カレービーバー・ちゃんこビーバー 各1袋 5袋セット | ノーブランド品 | せんべい・米菓 通販
ぐわあ、こんなまさに色んな味のものがまたアマゾンでもかうして売られて居るぞ!
勿論食うばかりでは無く何かを常に考えて来ても居る。
だがどちらかと云うと其の観念のデカい流れのやうなものに対し近頃次第に懐疑的にもなって来て居る。
つまりは此の文明は本質的には変えられずに結局滅ぶと云うやうな悲観的な解釈である。
なのだけれども其れ迄を充實させ生きて置かうと云うそんな論理へと傾きつつある。
所詮ホモ・サピエンスのやれることとは其の位のもんだと云う解釈である。
其れに人間は所詮馬鹿だからとても助かりゃせぬと云うのが我が基本的解釈なのだ。
だから後は所謂酔生夢死すれば良い訳なのだが我に限れば酒は飲まぬのでかうして菓子を食いつつ夢死するのである。
マルクス・ガブリエル氏はまだお若いのであらう、兎に角可成に文明の未来に対し理想を投影して居られ其の点では勿論前向きである。
我はどちらかと言えば此の日常が維持されるのであれば文明のあり方なんぞはもうどーでも良いのだとさう思いつつ日日を生きて居る。
但し論理的、また哲學的にはガブリエル氏が仰ることはまさに正論であり文明が其れを是非實現して行かねばならぬことだけは確かだ。
さうは思うのだがかうして雨の中🌸を愛でつつ歩き帰ってから蕎麦とビーバーとを食うことだけが兎に角幸せなのである。
「マルクス・ガブリエル」の記事一覧 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
かうしてガブリエル氏は結構色色と吠えられて居るので興味のある方はかうした記事を読み御勉強して置かれると良いのかもしれない。
但し本や記事を読むことで人間の誰もが哲學者並の思考力を持てるやうになる訳では無い。
尚わたくしは元元思考力がある人間なので別に哲學書の類などを読まずともガブリエル氏などとも似たやうなことをかうして述べられるのである。
だから其れは其れをそも持ってることなので外側から得られたものでは逆に無いのである。
「日本はスマホに支配された異常な国だ」天才哲学者がそう断言する理由 マルクス・ガブリエルは警告する | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
マルクス・ガブリエル氏は流石に独逸人の哲學者らしくハッキリ物を言われる方なのである意味では日本人は面食らって仕舞うことだらう。
彼は米國流の合理的諸制度をそも認めて居らず要するに独逸流のやり方の方が常に正しいとさう思われて居る要するに其処は如何にも独逸人らしい知性をお持ちの方である。
また日本のことは文化-日本の料理-にせよ哲學ー戦前の西田哲學ーにせよ大きく評価をされて居り要するに其の偉大な日本の文化のことに就いて良く分かっても居られる方である。
だけれどもまた其れとは別に今の日本の社會のあり方は理解不能であるとそんなことを屡述べられても居る。
尚わたくしもまた其の点では同感なのでありだから其の内容に就き吟味してみやうかとさう思う。
1.日本人は社會的に孤立して居る
2.日本人はスマフォー情報ーに支配されて居る
3.日本人は議論が苦手
4.合理的な根拠を持つー哲學的ー論議がそも成立して居ない(理不尽な)社會
4.に就いて
日本での意志決定はそも合理的なものでは無く即ち非合理的上意下達に刺し貫かれたものです。
要するにいまだにソコが幕藩體制の侭です。
また3.に就いても其れが言えます。
上からの命令が来て其れに従う社會ですのでそも議論も何も無く要するにお上に於ける決定こそが全てなのです。
民主制自體も厳密には機能して居ない可能性の方がより高くある。
何せかうして自民党壱党支配が基本であり連立政権は刺身のツマの如きものであり要するに威張るのはいまだに自民党の御偉い派閥の領袖さん方です。
兎に角そんな封建制ですので議論もクソも無くまた批判もクソもありません。
要するに近代國家として現實的な力だけは付けたが精神の方で大人としての近代化などはまるで出来なかったのです。
ですのでまさに2.の如くにほぼ洗脳されて仕舞う訳です。
要するにみんながやることをまさにヨシとする気風があるので此の際みんなでもって洗脳されませうとのことで何処でも誰でもさうしてスマフォを持って歩き屡側溝へ落ちたり🚇のホームから落ちて轢かれて死んだりもまた致します。
此の馬鹿等めが…。
1.の命題に関しては其れもまたなかなか難しい論題ですが壱つには80年代辺りから自民党により加速されて行われた米國流の合理主義社會の移入の枠組みが日本の共同體的な連帯を破壊して行ったことでせう。
つまりは其れが壊れたからこそ日本人は孤独となり他方で會社は合理化されたのでもはや帰属する精神の拠り所が無く其れでもって其の現代の神器としてのスマフォへと走る他は無い訳だ。
要するに此処まで精神と申すか自立的思考と申すか其れが崩されたー壊されたー國は他にも例が無いことでせう。
わたくしは常常日本の社會はダメだと考えて居ますが日本の文化もまた自然もさらに菓子なども良いものがありますので其れをむしろ生きて居るうちに是非味わい尽くしませうと云った立場です。
さらに酷いことを申せば日本の社會は強度の洗脳社會ですらある虞がある、要するに其れがまさに全体主義での社會だと云うことだ。
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其のガブリエル氏はソーシャル・メディアなるものを大批判なされて来て居りそんなもんは洗脳もエエとこだ、位のことを實は述べて来て居られます。
また其のことは我が意見とほぼ同じこととなる。
我もまたソーシャル・メディアを壱切やりませんがかうして充分にネット上のー其れも高度なー情報に日頃より触れて来ても居り此れ以上のものは要らずまた何処にも無いのだとさう思います。
「本人が望まない自己を押し付ける場」こそがソーシャル・メディアの場だとガブリエル氏は仰います。
其れは壱種の洗脳の場になって行くことであらうとわたくしの場合もさう思う。
ですがわたくしが今周りに対し其れを言うと逆に病院へ閉じ込められるのは此の我です。
いや其ればかりかもう「🚙には乗るな!」「全体主義も禁止!」とさう言いたいのだが其れを言ったが最後牢に入れられるのは逆に僕の方なのだから。
其のソーシャル・メディアに対してのデジタル・デトックス(解毒)が是非必要だと続けてガブリエル氏は述べて行かれる。
まさに其れが我が述べる「洗脳を解く」行為其のものです。
ガブリエル氏は米國流の革新的合理化社會に対しかうして極めて懐疑的な眼差しを投げかけられて居ます。
まさに其の部分は我が考えともほぼ壱致する訳ですが氏は民主的で自由で且つ倫理的な社會の建設を目指され我はまた共産主義社會や反文明的な生き方を理想として掲げる部分もまたある訳ですので其処はまた微妙に考えがズレて来て居る訳です。
さらに其の新たなるソーシャル・メディアの創成とのことですが個人的には矢張りそんなもんは要らんのでもっと日本の自然に親しむ心の余裕ー時間ーを是非政府が國民に対し与えていかぬ限り此の國は精神的に滅びるとさう訴えるばかりでのことだ。
其の日本人は日本人から見ても謎と申しますかまるで分からん社會的生物です。
或は🐜だとかそんなものにも近いものなのやもしれません。
まあ🐜ですとか其れとか🐶ですとかそんなものの混合物こそが日本民族としての實態であるのやもしれません。
だから多分人間以下の生物である可能性もまた御座りますのでせう。
まあかうしてワザとこんな酷いことを申しては居るのですが…。
もしも氏が仰るやうに日本社會が承認を求める為に死ぬるまで戦う社會であるならば確かに主張が強く自己を曲げぬと言うか少なくとも許し受け容れる社會なのでは無い。
其れはまさに日本の社會又は日本人に大きく「心の不安」があるからなのかもしれません。
其の不安は日本の社會がやりがちな全体主義に対する不安なのやもしれません。
屡言われるところでの其の日本社會が課す同調圧力ですが其れは此処によれば独逸にもあるが其れでも独逸の方がまだしもマシなのださうです。
其の社會的圧力のやうなものはおそらく社會は個より偉いと云う考えがおそらくもう長く続いて来たからなのだらう。
其れこそ封建制と云うのがまさに其の社會は個より偉いと云う考え方其のものです。
されど此のコロナ禍や今後の自然災害への対応、さらにインフラ劣化に対する抜本的対策などで今後も日本の政府を始めとする統治機構側は迷走を続けて行く他は無いことだらう。
いざさうなるともはやいつまでもそんなに為政者が威張って居られるのでせうか?
むしろ自分から遜り壱人壱人の國民の立場に立って考え物事を進めて行かねばならぬことでせう。
其の「威張り」も畢竟搾取の壱形態なのです。
威張る奴にロクな奴は居らず要するに彼は所謂悪代官みたいな奴ですので最終的には地獄へ行って貰わねばならぬ人間であるとしか申せません。
其の本質的な意味での「許し」の無い日本社會は仰るやうに他者と出会う機会を欠いた社會であったのかもしれない。
同質性=同じと云う点にこそ承認を求めて居る訳で日本の社會は極めて閉鎖的であり同時に鎖國主義なのでもまたある。
他者を受け容れないと云う同質性の中でのみ承認される日本社會特有の価値観の持ち方は確かに気持ちが悪くも感ぜられます。
或は同質性の罠のやうなものが何処かにあり例えば其れがさうしてみんなでもってスマフォを視つつ道路を歩くと云うやうな部分にも表れて居るのやもしれません。
尚常に同質であらうとすることは人の目=社會の評価を気にすることですので其ればかりをして居ると其れこそ価値ヒエラルキーに雁字搦めとされ其れこそ自己本位での幸福のあり方にまるで気付けなくなって行くことだらう。
ですがほんたうの幸福とは今此処にまた誰にでもあるものです。
むしろ其れを見えなくして居るものこそが社會的に齎される価値ヒエラルキーでの部分です。
其の實存としての確かな価値が確かに其処にあるのに雑音が酷くてまた妄想の類が余りにも多くして其れに掻き消されて仕舞うのです。
詩人はむしろ今其の種の洗脳とだけは毎日しかと闘って居ます。
さうして雨の日でもまた足の痛い日でもまたどんな日でも其処には生きる歓びがしかと拡がって居るものだ。
だから其れは君等社會が云云するものでは無くしかと僕のものなんだと云うことだけを此処に訴えかけて置きたい。
まさに其れこそが今此処にこそ咲く實存的価値なのだとさう言い得ることでせう。