目覚めよ!

文明批判と心の探求と

欲望の相対化と視野の拡張に就いて ー+読者を牢に入れてみましたー

76.欲望の相対化と視野の拡張に就いて ー+読者を牢に入れてみましたー

 

 

 

 

さて其の所謂凡俗の認識の正體とは、

1.固定(絶対)概念ー固定観念ーに捉われ価値ヒエラルキーを堅固に設定し其処からものを考える

2.固定(絶対)感度ー固定感性ーに捉われ価値ヒエラルキーを堅固に設定し其処からものを考える

 

とのあり方であり、普通人間はまさに其れに従い価値観を決め行動して居ります。

 

ところが其の人間の中でも例えば聖人と凡夫の中間に位置する認識の保持者が居て其れが所謂声聞、縁覚つまりは独覚の類であり其れを世間の言葉に翻訳すれば人文インテリや理系インテリとなるのであります。

人文インテリや理系インテリの力は強力ですが主に彼等は、

 

3.固定概念と相対概念の間を常に行ったり来たりして居る

 

ものなのです。

ですのでまだまだ其処では認識としての眞理へ至って居る訳では無くおおまさにあーだかうだと眞理と俗の認識との間を行ったり来たりして居る訳だ。

さうしてとどのつまりはわたくし自身がそんな人間なのです。

 

そんなわたくしには其の眞理らしき認識の世界がまた仄見えては居りますが、さりとてかうして世間を捨てられずに居るので「生活」の方に圧迫され其処へと飛び込むことは事實上不可能である。

ですがほぼ大多数の方方がおそらくは其の眞理としての認識の上での端緒にもまた付いて居ないと云うのがおそらくは實情なのだらう。

 

故にわたくしは其の自分をも含めたインテリの認識と凡なる認識を為して居る人人に対し共に憐みの心を持つに至りました。

さう云うのは所謂菩薩(梵名ボーディ・サットヴァ)と云うことですが、わたくしは菩薩を欲して菩薩の心を持ったのでは無く逆に菩薩ではあり得ぬー👿の御友達ーが故に結果的に菩薩的な人間となりましたのです。

 

故に生命または地球の営為に対し大慈悲心をすでに有して居り従ってどんな生命に対しても常に合掌しつつ相対して居りますが其れでも歩けば🐜を踏み潰しまた夜中に蚊が襲い来れば其れをフマキラーにて撃退致します。

其のやうにまずは人間は心のあり方こそが根本義として問われる部分なのです。

 

 

但し其れを狂わせて行くのが常に社會的関係です。

であるとすればむしろ其の社會的に規定される欲望のあり方、即ち認識のあり方をこそ正さねばならない。

 

ところが其の社會其れ自體が此れ迄に理想的に運営されることなどはむしろ無かった訳だ。

故に個は其の社會に対し常に脆弱な立場しか持ち得ない。

 

要するに其の社會が進める矛盾的な文明の推進に対し個は常に無力でしかあり得ぬ訳だ。

其の無力さは今後より壱層高まって来ることだらう。

 

何故なら此の世はそも平等でも眞理でも無い利己的な欲望成就の場であり其の理想だの眞理だのに寄り添うことだらう「正しい」認識を旨とする世界では無いからだ。

よってまずは其の世界の性悪性即ちタチの悪さ、其処にほぼ絶対に齎されて居ることだらう絶望的な状況に気付かねばならぬ訳ですがおそらくは其れを認識出来るのは全人類の壱割にも満たぬ人人ばかりです。

 

尚わたくしは勿論其の壱割以下の人間の中の壱人ですが其の中での気付き度と申しますか心のインテリ度を設定致しますればおそらくわたくしの場合は上、中、下の区別の中でもおそらくは高気付き度を持ってる人間なのだとさう思われます。

なので此のレヴェルの方方ー作家や詩人の先生方をも含めてーは兎に角世間に対し色々とものを言いますが我の場合はかうして無冠のしかも自称の詩人ではあれむしろお前等よりは言ってることが常に過激だらう。

 

 

でもってしてでは我我のやうな気付きのある人間が何を認識して行くべきなのかと云うことに就き壱言申し上げて置きたい。

 

1.欲望の相対化

2.視野の拡張ー俯瞰視し得る視座を確保するー

3.今此処にある幸福に気付くー實存への感謝と學ぶことへの幸福を學ぶことー

 

1.に就いて

欲望は社會的自我に組み入れられた時点で即👿化致します。

まずは其のことが人類の九割方の人人に取りまるで分からぬことです。

 

ところが欲望は個の意志により相対化することが可能です。

つまりは其の欲望を相対化し「みんながやって居る今の幸せ」から離れて行くこともまた可能である。

但し其の場合には其処に強靭なる理性の力が常に必要とされる。

 

つまるところは頭が良いだけでは其れが無理でもう壱段上の批判的自我、批判的理性にて其のやうにあえて世間的価値を放棄するだけの精神的プロセスを歩んで置かねばならない。

さうして欲望其れ自體の消去は我我には無理だが其の欲望の対象を意志的に転換、変更して行くことは常に可能です。

 

でもって其れを具體化して述べれば「デカい欲望には与せずあえて小欲の世界でもって生きる」とのことです。

 

✈か又は🚢にて海外旅行へ行きたい→むしろ家の近所などを探検してみる

デカい會社でもって良い給料を貰う→むしろ中小企業、零細企業でもってヘロヘロになりつつ頑張るが其れでも給料は安い

豪邸に住まうセレブ→あばら屋に住まう貧乏人

 

 

ですが、其処でもって壱つよーく考えてみやう。

其の「あばら屋に住まう貧乏人」であれ橋の下のホームレスさんよりははるかに恵まれて居ます。

 

また豪邸に住まうセレブは色色と問題を起こし幸せどころか人間らしい暮らしなどまるで出来て居ない人がむしろ多く居るやうだ。

其のやうに欲望とは常に相対的にしか規定し得ぬものなのだ。

 

だからたとえどんな状態であれ其処から幸福となる心の芽を生じさせることが出来る。

但し其れは自分でもって築く価値ヒエラルキーに沿って現成するだらう幸福の形です。

 

そんなものは幸福などでは無い、オレは大金持ちとなり豪邸に住み美人妻を得るのだ。

との考え其れ自體が不幸の源であり且つ👿の認識なのだ。

 

また學歴ヒエラルキーにて勝利せんが為に高偏差値大學ばかりへ皆行きたがりますが實は大學は何処であれ自立的に御勉強することは可能です。

ですが大學へ行きませんと高等思考に於ける基礎的訓練がなかなか出来ませんのでどんな大學であれ行って兎に角知性の力に目覚めて欲しい。

 

 

2.に就いて

 

其の俯瞰視と云う形での認識は作家や哲學者などが好んで行うものでせう。

また科学者であるにせよ壱級の知性ならば主に此の俯瞰的解釈を取り入れまた直観的な認識ですらすでに身に付けて居るものです。

 

ものを考える時には此の認識上の俯瞰性の有無が實は非常に大事です。

 

ですが其の俯瞰的なものの見方は統合的知性のみが齎す認識ですので此れもまた其の壱割の人間の中のおそらくはまた壱割位の人に可能となる認識の形式なのではなからうか。

無論のことわたくしは日頃からむしろ其の俯瞰視をこそ常態化し自分の考えの方を述べて来て居ります。

 

俯瞰視は普遍視のことでもまたありよって其処では細細とした日常に於ける制約を外す形で物事を普遍化し且つ非限定的に見詰められることとなるのです。

 

 

3.に就いて

 

物事に就き考えると云うことは逆に其のやうに肉體的、物質的具象性の制約を受けぬと云うことだ。

ですが当たり前のことですが考え込んでばかり居ると其の反対面での肉體的、物質的具象性に与えられる生の喜び、其の實感のやうなものが疎外されるに及びます。

 

故に其の理性的に齎される思考の過程其のものをも相対化し謂わば「原始退行」させる必要が生じて来るのです。

其れを原始退行させる限りは理性的な枠組みをむしろ取っ払うが如き荒療治が實は必要で、主に其れは自然に親しみ且つ其処から學ぶことで可能で、と申しますか兎に角其の自然界の摂理に常に触れて居りますとまさに自然と脱概念化、脱観念化されて参りますものです。

 

では自然が全部正解で人間は全部間違いかと申せば其れはさうでは無くさう思い込むこと其れ自體が誤りなのだ。

何故なら此の世に正解など無いと気付くことが實は正解なのです。

 

対して近代科学にせよ政治體制にせよ文明は常に正解を求め続けるものだが其れを求め続ける限りむしろ正答は得られません。

でもって其の種の社會的認識の誤謬に対し唯壱効力を持つのが「自力にて認識」することです。

 

 

其のやうな他力による誤った認識を離れ「自力認識」へと至れば其の価値構築の上でのヒエラルキーの逆転が其処にようやく可能となり其処に「眞我」の如きものが形成されて参る。

其の「眞我」による認識を旨として生きることこそが人間に取っての正しい生き方を形作る訳だ。

 

其の「眞我」による俯瞰的で且つ相対化されし認識よりようやく眞の幸福への道筋がまた見えて来やう。

個に取っての眞の幸福への道筋とは其の価値ヒエラルキーに毒されし認識なのでは無くまさに己自身の認識にて己と周囲とを見渡すことだ。

 

すると初めて其処に「今此処に生じて居る己が認識」に対する幸福感が生じて来る。

だから其れにまず頭を下げ感謝する。

 

さらに其の「今此処に生じて居る己が認識」を成り立たせて居るのはむしろ世間なのだと云うことさえもが分かって来る。

故に其れにもまずは頭を下げ感謝して置く。

 

大體のところを述べれば其のやうにして個としての認識の完成へと近づいて行くのです。

 

 

ですが先に述べた如くにむしろ多くの認識はバイアスがかけられて居る即ち洗脳されるに等しい限定性の中でこそ営まれて居るものなのです。

其のやうに個としての価値認識が著しく洗脳されたものであれば其れは其処で本質的な意味での幸福の成就が不可能となることをこそ指し示して居る。

 

従って、さうして

「みんなで渡る赤信号」とは其処に個としての認識の死、個としての本質的不幸=精神的不幸を呼び招くものでしか無い訳だ。

 

さうでは無く兎に角精神として自分を保つものであることにだけ留意して是非自らの考えを進めて行くべきです。

精神の世界はさうして壱種孤独の度を深める面が常にあるが故にむしろ多くの人人は其の精神の自立が齎すことだらう孤独と絶望感に対し打ち克てず自ら頽落し社會ー世間ーの奴隷と化して行かざるを得ぬ。

 

わたくしは其の様がまずは哀しいとさう申して居りますのです。

対する眞我による認識の方もまた壱種哀しくはあるのですが其れが人間の理性領域として完成されたものである以上自信と自負にだけは満ち溢れて居る。ー故にかさうして眞の認識はむしろ世間との齟齬や軋轢を引き起こすものだー

 

さて、眞の意味での自己による認識、其の世間の価値観から脱し新たな認識の枠組みを形成するか又は認識の枠組みを取り戻す為の手順に関しましては以上にてすでに述べ切って来て居ります。

ですが言うは易く行うは難しで其れは世間の多くの人人の為にわたくしが述べたことでは無くむしろ壱握りのインテリ層乃至は感度の良い人人の為に其れを述べたのです。

 

 

でもってもっと普通ににくたらしいことを言えば此の世は負の過程であり文明はまさに其の罠に引っ掛かりもはやにっちもさっちもゆかぬところにすでに追い込まれて居ると云うことです。

従ってすでに全ての価値が負のエネルギーにさえ捉えられて来て居る。

 

勿論其れでも自然はかうして輝きを忘れず我我の心を癒し続けて居て呉れる。

其の自然界に展開される美が其処に根こそぎ奪われる訳には非ずだ。

 

ところが其れも注意深くよーく観察致しますればすでに自然界其のものが人類により浸食され且つ崩壊への兆候を見せ始めて来て居る。

其のやうな状況で猶も己が邪なる欲望を垂れ流しまた其処に死と生に関する深い洞察を持つことなくして只現在と云う欲望の成就の機会にのみ安住し続ける人間共の醜さったらもうありません。

 

逆に👿の方がまだしもまともなのやもしれません。

ま、かうして人間を批判することだけは得意な観念詩人はもうやれと申されれば何処までも其れも永遠に其の人間共の醜さに対し逐壱述べ立てても参りますが勿論其れはわたくしの本意では無くわたくしがやりたいこととはむしろ美に就いて語り切ることなのだ。

 

つまりはこんな社會批判では無く其の社會とは無関係に美を此の場に成立させたいだけのことなのです。

従って暫くは其の美に対して是非述べさせて頂きたい。

 

 

但し社會に対しまた馬鹿野郎!と思いましたらまたネチネチと其れを何処までも攻撃致す所存です。

 

尚其の1.及び2.及び3.の認識其れ以前に「みんなでもってかうして歩む人間界はずっと続く」と云う変な確信のやうなものが御座りますのです。

でも其の価値の前提としての信心のやうなものがまずはイキナリ間違って居る訳です。

 

正しくは「みんなでもってかうして歩む人間界はすぐに終わる」です。

其の人間界は近代以降は特に欲望を絶対化し今では本気にて火星へ移住したいとさえ思って居ます。

 

何でかと申せばかうしてやりたい放題をやり地球を壊すに及んだので其の火星へと逃げて行かうとして居るのです。

 

しっかし其れではどんな奴等でせうか?

さう云うのはたとえ👿でもやらんのでは無いでせうか?

 

即ち現存在程厄介な奴等は他に居らず其れはもう立派な宇宙壱の馬鹿野郎でありクソたれ野郎でせう。

だからウンコを垂れるなとあれほど言うて居ると云うになーぜ其れが分からぬのだ?

 

 

汝等、其のウンコ垂れ族としてのホモ・サピエンスよ。

かうして君等はどうもウンコ臭い。

 

だからまずは其の尻の始末を、即ち尻拭いの方を其れも必死コイてやらずしてどうする?

だから其れは株式會社の論理でもまた政府の日銀の論理でも無くまさにお前等壱人壱人の論理でもって動きやらねばならぬことだ。

 

だから何故其れが分からないのですかとさう先生はしかとお尋ねして居ます。

ですが…。

 

其の「ですが…」は要りません!

教室や地球上でウンコを垂れるやうな悪い子はもうかうしてお尻ペンペンだ!!

 

 

先生、其の暴力は今禁止されて居るので其れをやった先生はむしろ犯罪者でありこれから警察の護送車が来ますので其れに乗り早速牢屋の方へ入って下さい。

はい、分かりました。

 

其れではわたくしめは此れから其の牢屋に入り是非「獄中記」でも書かせて頂きます。

 

だが先生はかうして體も弱くまた精神の方も至って不安定で其れでもって果たして牢にて生きて行けるのか、其の点がとても心配なので身代りにあなたが牢に入って下さい。

ところでアナタは誰ですか?

 

僕は単なる此処の読者の壱人だが。

やったー。

 

では君はわたくしの信者だな?

まるで信者では無い。

 

 

でも君は此処を読みたくて読んだ筈だ。

まあ、確かに其れは…。

 

じゃあ君は信者だ。

 

ピーポーピーポー。

どうもどうもお騒がせ致しまして、此のわたくしめの信者としての壱読者がかうして子供の尻を叩いたので御座ります。

 

しっかしひっでえ扱いだな。

何処のブログでもこんな読者を牢屋に入れるトコなどまるで聞いたことが無いわ。

 

だからな、其れはな、あくまで詩人の大先生のな、身代りを引き受け生涯感謝されると云うことなのだ♡。

世の中とはな、そんな持ちつ持たれつでな、うまーーく回るやうにさうつくってあるのだよ。

 

さうか、では僕が犠牲になれば先生は今後を生き抜いて行けるのですね?

いえ其れは常に難しいです。

でも君が牢に入って呉れること自體が我にとっては最高に嬉しいことです。

 

サイコーですか?

今アナタはサイコーですか?

もうサイコーですっ!!

 

 

ピーポーピーポー。

 

アア、また尊い犠牲者をかうして壱人生んで仕舞った。

罪深や、罪深や、ナンマンダブ、ナンマンダブ。

さうだ、何か美味い物でも買って来て彼に差し入れしてあげやう!ーそんな風に常に優しい我ー

 

尚次回からは此の変なギャグ部を書かないやうに是非したいものです。