其の文明による「全體主義」を共感覚者の側から解読してみるー+マズローの欲求段階論ー
さて其の「全體主義」と云うことは所謂「集団心理」の問題と関わるだらう人類の抱える最大の問題です。
何故なら環境破壊などもまた其の部分よりむしろ生み出されて行く訳なのだから。
「全體主義」とは其れ即ち「社會でもってやる主義」のことなのであり要するに其れはそもやることの範囲が常にデカい。
でもって単純に考えて個が仕出かす間違いによるリスクとは桁違いに其のリスクを増して行くのである。
どだい所謂近代主義を信奉し進む文明世界が良いものとさう決まって居る訳ではありません。
ですが近現代人は皆其れが「正しい」とさう思い込んで居る訳です。
なのだがあえて其の部分に己の理性を磨き込み挑んでみると次から次へと疑問が出て参ります。
なんですが其れもまた御勉強の結果で其のやうに判別されるやうになるだけのことで其の御勉強をしませんとつまりは其の全體主義社會に流されまた全然違う意味での人生の上での御遊戯をして行く他はありません。
ですので結局は「とりあえずアナタは社會に對し疑問を持って居ますか?」との御話に集約される話なのだらう。
だけれども現存在のほとんどの人は日日の暮らしに追われて其の「疑問を持つ」ゆとりすら無いと云うのが實状です。
其れでもって現存在のほとんどの人が社會は何とかなるとさう信じ込んで居ます。
逆に人文詩人は其の部分がむしろ壱番ヤバいのではないかとさう正直思いますのです。
さて集団心理が何をどうするのかと云う点に就きすみませんが自分は不勉強でもってまるで分かりません。
だが集団へ埋没すれば樂だと云うこと位は自分にも分かる。
要するに「みんなで行けば」樂でしかもやることの全てが危険でも何でも無くなる。
だって責任が其処では分散するじゃないですか。
さうか、じゃあ此のやらかしちまったことの責任はみんなにあるから僕は少しも悪くは無いな。
然し其れは多分宗教的には赦されぬ罪の集積なんでせう。
尚自分は元元社會が嫌いな人間で所謂社會性の部分に難があるのだと思って居ます。
其の代わりに動植物とは普段から何かと心が通じ其れに危機意識を常人より強く持つタイプの人間である。
其のことはまた自分が共感覚者であることとも強く関わりのある部分なのだと思う。
所謂共感覚者は別次元の要素を統合し理解する能力を元元持ち合わせて居ます。
故にか自分は両性具有的であり且つ論理も感性もまた同時に働かせることが出来る。
其れは自慢では無く何故かさうなって仕舞って居て、であるからこそ自分は紛うことなき詩人であるとさう名乗って來たのです。
尤も文明の問題を取り上げたのは自分がかって塾の社會科の講師だったからです。
其れも都合半世紀近くにも亘りー其れも中学時代からー文明の問題をずっと考え続けて來ました。
まあ其れも幾ら考えても分からぬ大問題であることだけは確かなことです。
要するに人智と申しますか人間の考える能力を超越する問題なのでもまたある訳です。
さて其の「全體主義」程気持ちの悪い人類の癖もまたありません。
元元人類は所謂生殖期間ものべつまくなしでさらに大脳新皮質は異常に発達しているわである意味ではまさに👽的な生物です。
つまりそも普通では無い訳です、其れもあくまで其の自然界から見詰めると。
普通では無いのに「威張る」点がどうも若かりし頃より自分には気に入らない。
でもそも何でそんなに「威張る」のでせう?
其れは🐱のボスの威張りや🐵山のボスの威張りとはまた別物での「非限定的」に過ぎる威張りではないですか。
そも威張るな!
とさう言いたくもなるではないですか。
兎に角人間ほど威張りちらかす生物は居りません。
其の「威張り」とはとりあえずは「自信」であり「自負」のことでせう。
そんな「自信」であり「自負」があるのでつまりは其れが所謂自尊心の発露の部分となるのです。
けれどもさう云う認識上の間違いの部分は所謂宗教的な精神の段階で解決されるものなのかもしれません。
宗教にもまた色色とタイプがありますがとりあえず邪教とは「教祖を崇拝せんが為の宗教」であり正教とは「人間を見詰め其の認識上の誤りを正さんが為の宗教」となることでせう。
「修行しやう、修行しやう、サアアノ教祖を御祀りしかうして我等は何処までもイクぞ!」
だからそんなもんはむしろ宗教による「全體主義」の履行のことだらう。
威張る=全體主義
とどうもさうも言えさうである。
威張る=力であり権力
だともまた言えさうである。
尚先にも述べましたが人間はデカい場でこそより頑張る訳です。
其れは其のデカい場に認められたいと云う社會的欲求なんです。
しかもマズいことに其の社會的欲求は非社會的欲求としての所謂表現衝動よりもむしろ上位にあるものです。
所謂表現衝動は内面的限定的欲求ですが社會的欲求ー権威、権力、名誉欲ーは己の外側からの承認を伴う所謂「御墨付き」のタイプでの欲求です。
所謂自己實現欲は内面的限定的にもまた外面的非限定的にも満足され得るものです。
例えば眞の意味での表現者ー眞の意味での藝術家ーは前者のみを限定的に選択する。
ですが俗っぽい藝術家となると後者の方もまた視野に入れより生臭く生きることとなる。
また政治家や官僚は所詮後者の枠内だけで成立する世界ですので結局は至極生臭く現金な世界でのものとならざるを得ない。
尚お気付きのことかと思われますが宗教は矢張り前者のタイプでの価値を標榜する。
だけれどもイザ邪教系ともなればむしろ後者での価値の方がより増して來るのである。
さて「全體主義」とはあくまで「洗脳體制」のことですので自ら御勉強することで其の洗脳から目覚めることは常に可能となる筈です。
其処で今回は「マズローの欲求段階論」に基づき其のことを是非考えてみませう。
マズローの欲求5段階説とは? 知っておくべき心理の法則 - STUDY HACKER(スタディーハッカー)|社会人の勉強法&英語学習
問題は其の欲求のピラミッドの上部構造があくまで「人間が観念的に欲する」欲求である点です。
ところが其の「観念的欲求」はそもバランスを欠く欲求である可能性が高い。
大脳新皮質⇔大脳旧皮質
此の弐者は相関すると同時に反発する。
ところが理性的欲求ー観念的欲求ーは其れ自體が自然の摂理に對し非限定的です。
ー對して本能的欲求は其れ自體が自然の摂理に對し限定的だー
要するに理性的欲求ー観念的欲求ーのみを取り出して其れを完遂させると元來自然界には無いものですので「バランスを欠く欲求」とならざるを得ない。
但し「相関すると同時に反発する」関係を築く侭に其の欲求を構築すれば何とかバランスが保てる訳だ。
さうしてまずは其のピラミッド構造に是非注目して頂きたい。
すると人間の欲求は自然界の欲に乗っかる形にてつまりはより高次の欲求として社會性や宗教性などの観念性としての場が築かれて居ることが其処に分かる。
何でそんなにややこしくなるのかと云うに其れはさう「観念」が欲するからなのである。
つまるところは「観念」が「社會」即ち「社會性」の母胎であり宗教的次元などもまた其の「観念的な価値」となるのである。
でもってあくまで高次の欲求としての「自己實現」の場が實は弐種の様態に分かれると云うのがわたくしの考えるところでの理論的帰結である。
しかも其のことを最初の部分でもう書いて仕舞った。
全く詩人は何を考えて居るものやらまるで分からん。
ではいま壱度其の部分を引用してみやう。
「尚先にも述べましたが人間はデカい場でこそより頑張る訳です。
其れは其のデカい場に認められたいと云う社會的欲求なんです。
しかもマズいことに其の社會的欲求は非社會的欲求としての所謂表現衝動よりもむしろ上位にあるのです。
所謂表現衝動は内面的限定的欲求ですが社會的欲求ー権威、権力、名誉欲ーは己の外側からの承認を伴う所謂「御墨付き」のタイプでの欲求です。
所謂自己實現欲は内面的限定的にもまた外面的非限定的にも満足され得るものです。
例えば眞の意味での表現者ー眞の意味での藝術家ーは前者のみを限定的に選択する。
ですが俗っぽい藝術家となると後者の方もまた視野に入れより生臭く生きることとなる。
政治家や官僚は所詮後者の枠内だけで成立する世界ですので結局は至極生臭く現金な世界でのものとならざるを得ない。
尚お気付きのことかと思われますが宗教は矢張り前者のタイプでの価値を標榜する。
だけれどもイザ邪教系ともなればむしろ後者での価値の方がより増して來るのである。」
とつい先程さう書いて居ります。
では此処にてわたくしは壱體何を言いたいのか?
其れは其のデカい場に認められたいと云う社會的欲求に生きる奴はむしろバカだとさう言いたいのだ。
まあ其れを言えば可成に過激な物言いにておそらく皆様は心理的に引くことでせう。
でもってして自己實現欲は内面的限定的に満足させることで欲望の非限定性を抑えることが出来ることをこそ世に訴えたい。
其れも可成に難しい御話をして居りますのですが御分り頂けたことでせうか?
つまり外面的非限定的にー社會的にー自己實現欲を満足させるとロクなことにはならない旨を述べて居るのです。
何故なら人間の社會はそも限定的なものですので其処に自己實現欲が振り撒かれると逆方向としての破壊活動が其処に始まる訳です。
つまりは其のバカ共が「威張る」ことで観念的な意味での欲望の非限定性が垂れ流されるつまりはのべつまくなしに社會的に欲することに繋がり要するに其処に搾取は酷くなるわ、また豪邸は次次と建つわ、おまけに其処にて夜毎酒池肉林の宴が繰り広げられよって不倫は増えるわ離婚が多いわ、また子の出来は悪いわ女子高生はふしだらだわでもうロクな世の中にしかならないのだ。
ですので、おおまさに其処にて眞の意味での理性の保持者は其の「社會的欲求」をこそ封印するのです。
また宗教的欲求の方にせよ其れを常に内面的限定的に取り扱わぬともはやエライこととなるのです。
つまりは「社會的欲求」がモロダシで邪教化し實際そいつらが「もうハルマゲドンだー」などと訳の分からぬことを叫びつつ地下鉄にサリンを撒いたりもまた致しますのです。
ですので其の「御墨付き」の部分になど騙されてはよもやなりません。
「御墨付き」があれば正しい、とさう思う其の全體主義思考ー全體主義志向ーにこそ問題があるのだから。
實際に今此の世には其の全體主義思考がかうして蔓延して居ります。
きゃあああー、たっちゃんー!
きゃあああー、オータニくーん!!
其の野球は自分も大好きですが純粋に球遊びとして其れを観且つ樂しむのが自分の流儀です。
其の野球には権威化も全體主義もまた高額な年棒もまるで要りません。
また野球の試合と國家はあくまでまるで関係の無い話です。
宜しいでせうか?
本日わたくしが述べましたのは「抽象的欲求ー観念的欲求ーの非限定性」ならびに其れの「全體主義への親和性」のことでした。
以上からも観念的欲求ー社會的欲求ーはなるべく抑えて行く方が良いと云うことです。
また其の「マズローの欲求段階論」は欲求の「ヒエラルキー論」なのでもまたある。
ですがわたくしはあえて其の「ヒエラルキー」を壊した形にて自らの論理的帰結の部分を述べさせて頂きました。
其のやうに自分は「反ヒエラルキー主義者」ですので其のピラミッド型の欲望のヒエラルキーを其の侭では良しとしては居ないのであります。
逆に申せば「眞の意味での内発的自己實現」の世界こそが其の欲望のヒエラルキー構造を脱する手立てともまたなり得る訳です。
また其れを具體的に申せば「藝術や哲學や宗教としての純粋な営み」が其の欲望のヒエラルキー構造を無化することに役立つのだとさうも申せませう。
其処にてイザヒエラルキーを崩せば逆にピラミッドの下部構造としての本能的な欲求の世界が逆に光り輝いて來る訳です。
つまりは自然界の営為其のものが人間の観念的欲望などよりも下だなどとはよもや言えなくなるのです。
即ち近現代に於ける社會的認識で行われたであらう最大の過ちがまさに其の本能的具體性を軽視する部分です。
其れはまさしく近現代と云う社會的認識が犯したであらう最大の罪でせう。
其のやうに観念的欲求が社會的欲望と壱致して仕舞うことこそがむしろ悲劇なのです。
だけれども其れを惡いことだとさう言って居るのは今世界にわたくしだけでもあることでせう。
嗚呼我ながら全く困った奴だな。
尚今年の冬場の鳥へのエサやりもすでに終わりを迎え最後に残った🍊壱つを自分が食うか其れとも庭に來る野鳥にくれてやるかと云うことを丁度今考えて居るところです。
ですが何でもさうして🐱やら🐦やらにくれて仕舞うのは明らかにやり過ぎで故に自分の體が次第に弱りつつあるのかもしれません。
お人よしもエエ加減にせえ!
とさう思いつつ思い切って今夜🍊を食おうかとさうも思うのである。
先にも述べたやうに共感覚者としてのわたくしはむしろ動物達との付き合いの方が人間との付き合いよりもより大事なんです。
5+3が7になるのはなぜ?共感覚という個性 | その他 | NHK生活情報ブログ:NHK
共感覚とは?代表的な種類と具体例、心理学研究に加え、テストや学べる本を紹介 - Psycho Psycho (psycho-psycho.com)
まさに其の共感覚に気付いたのがわたくしの場合は五拾歳位のことでした。
結局社會とは其のやうなもので會社勤めをして居ると其の種の部分がまるで見えなくなりがちです。
ですがネット上で判定してみると「強い共感覚」の持ち主とのことで實験材料にされさうでしたので其処で連絡するのは止めて置きました。
尚共感覚者は正常と異常、また天才と常人との橋渡しをするやうな存在だと自分は考えます。
要するに高感度であり且つ超感度の持ち主だと云うことです。
で、気持ち惡く見えるかもしれないが實はまともで逆に感覚分離者ー壱般人ーの方がオカシイのです。
だけれども年を取っても共感覚者なのは「原始退行」的な感覚の持ち主でありつまるところ彼は頗る変わって居ます。
要するに幼年期にはむしろ人間の感覚又は認識が未分化状態であり其処まで戻って居る侭で還暦となることが普通はあり得ない訳だ。
ところが共感覚者は其れこそ色や形、また音や手触りなどの原生的體験のやうなものに鋭い知覚能力がありまた屡其の感度域が混線します。
共感覚 - Wikipedia-としての人物名-
自分の場合には数字や文字に色を感じることが出来る。
共感覚者はつまりは幼児に近い感覚の持ち主であり其れと論理的體験が合わさればまさに天才的な人間となることが多分出来る。
また共感覚者は自然に對する親密度がおそらくは常人以上にある。
さうして共感覚者は藝術家などには至極多い。
わたくしにもまた其の藝術がピッと分かる。
おおまさに其の瞬間に原稿用紙で百枚分位の何かが天から舞い下りて来る。
なんですが意外と理屈っぽいのがむしろ自分としての實状です。
つまりは人文學的に理論化して何かを語ることこそが壱番得意なのだから。
また其の論理と感覚の部分を両方同時にやるのもわたくしの日頃目指すところでのものである。
さて其の共感覚者は多分「全體主義」のやうな社會性の部分が何より嫌いなのだと思う。
何故なら自分はまさに其れが大嫌いなのですから。
「御墨付き」=地位だの名誉だの金だのと云った現世利益のこと
まさに其れを求めて止まぬのが所謂俗物性の部分であり且つ「全體主義」としてのなせる業なのだらう。
でも自分の生は其の「全體主義」とは無縁の壱種穏やかなものであったやうに今は思って居ます。
實際にはまさにドロドロでの社會との格闘ばかりでの人生でしたが今思い返すことは其の夢の如くに美しい自然との語らいの様のことばかりです。
其れでウィキでの共感覚の例の部分を読んで居たところ「音に色を感じる」音樂家の例などが出て居りました。
早速其れでは自らを實験材料となし試してみませう。
ドレミファソラシド
ド=黄土色
レ=黄色
ミ=緑
ファ=藤色
ソ=靑系
ラ=茶系
シ=銀色
ド=薄紫
との結果が出た。
其の結果に就いての疑問点
1.ドがおうど色のドでレがれもん色のレでミがみどり色のミなのは単なる言葉の上での連想ではないのか?またソの靑はそらの靑だぞ。
2.最初のドと最後のドはそも何で色が違うのか?
1.に就いて
さうなのかもしれんがイザさう出たもんはもう変わりゃあせんてー。
2.に就いて
そも音程が違うわい!まっとよーソコを勉強せい。
そんな訳で共感覚者はどうも「全體主義」とは相性が惡いもののやうだ。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12
白、赤、黄、黑、空色、黄土色、靑、緑、えび茶、金、銀、紫
尚最近は少し色が読めなくなって來たので9以降は色が変わる場合がある。
あ、い、う、え、お
赤、灰、靑、黄系、緑系
もしやあはあかの赤なのか?
そりゃ知らん。どだい超感覚に訳など聞くな。
あくまで超感覚が正しいと言えば其れでもって正しい訳ですので。