目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

腐った社會に對する怒りは義憤ながらむしろ其の義憤には潰されぬやうに是非したいものだー「大塩 平八郎の乱」より考える「義憤」としての行方ー

腐った社會に對する怒りは義憤ながらむしろ其の義憤には潰されぬやうに是非したいものだー「大塩 平八郎の乱」より考える「義憤」としての行方ー

 

 

 

 

さて年を越しても相変わらず馬鹿 - Wikipediaが多い此の世の中を渡って行くのはほんに大變である。

尤も僕の場合には今や其の「世間」を「限定」的にしか捉えて居らずつまりはもはや変な正義感を発揮し此の「腐り切った世の中」を変えやうなどとはほぼ思って居ない。

 

と申すか結局「他己」を変えることなどは出来ずつまるところ周りはさうして「洗脳」された挙句にほんたうの「馬鹿」となり滅びるものである。

だから其れはある意味で「ザマアミロ」なのだ。

 

であるとすれば別に焦って「何とかしやう」と精神的に「あがく」必要などは何処にも無い。

そんな訳でむしろ僕は今「嗤いながら」人類による愚かなる数数の意思決定の様を俯瞰視して居るかのやうな感じである。

 

何時の間にかそんな「仙境」に遊ぶ人となり「ついにやったぞ」と云う感覚と共に壱種の寂寥感をも感じて居りだから其れが良いのか悪いのか分からぬが兎に角其れが偽らざる自分の心境なのである。

 

猶自分は常に「理性的」な人間であらうと欲して來た訳だが其の「理性的」な意味での正しさは往往にして此の腐った世の中には通じないと云うことを此の際壱言述べて置きたい。

 

 

「大塩平八郎 信念を貫き社会を変える!」 - 先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) - NHK

11月1日 NHK・Eテレの「知恵泉」に大塩平八郎が登場: 大塩事件研究会のブログ (cocolog-nifty.com)

 

さて本日我は此の「知恵泉」の「大塩平八郎の乱の回」をTVにて視た。

尤も其れは弐度目の視聴である。

 

大塩平八郎の乱 - Wikipedia

 

其の元大坂の役人だった大塩 平八郎は腐った社會制度ー幕藩體制ーに於ける矛盾と腐敗に對し怒り決起をした。

だが其の乱はすぐに鎮圧され彼大塩は爆死したつまりは體が黑こげとなり死んだのだった。

 

では大塩 平八郎は間違って居たのか?

いえ其の義憤其れ自體は正しいのである。

 

また大塩 平八郎が役所を辞し所謂私塾を開き「教育」に勤しんだことは完全に正しいことだった。

何故なら要するに「自分自身の頭にて考えられる人」を育て上げることこそが眞の意味での教育の目的なのであるから。

 

其れに其の「自分自身の頭にて考えられる人」が社會に増えればまた社會は「変わらざるを得なく」なる。

要するにまさに其れが理性的に「人間を生きる」ことなのだ。

 

逆に申せば知識による「洗脳」だけをして居ては逆に此の世はより悪くもならう。

要するに高学歴の「馬鹿」共が増えるダケなので余計に搾取だの汚職だのが横行するより悪い世の中となって行くものと相場は決まって御座る。

 

 

で僕はそんなバカ共とは違いかうして悲しい哉頭の出来が良い。

だからかうしてみんなとは違うこともまた言えるのだし其れに👩にもまるで触って居ない。ーほんたうに其れに触れば触る程バカになるぞ!ー

 

ま、其のことは別として兎に角自分もまた頭が良い分所謂社會的に潔癖でありまた悪いことに大學の方のゼミが體制史の方だったので此れ迄もうモロに其れにかかり切って來ちゃった。

また文明論の類も其の辺の學者並みに御勉強して来たので其処でほぼ現代社會に未來が無いことなども分かっちゃってる。

 

そんな僕が今インテリの學生さん達に御伝えしたいことがありまさに其れは社會的な価値を「放棄せよ!」とのことである。

 

ええっ?

「蜂起」又は「革命」の間違いなのでは?

 

いいや、違う。

其れはズバリ「👩と社會を放棄せよ!!」とのことである。

 

 

是非其れ等を放棄し「私塾」を開くべきだ。

もしや其処にて「革命分子」としての靑少年を育てる御積りなのか?

 

いいや決してさうでは無い。

何故なら「蜂起」又は「革命」を志すと其れこそ大塩 平八郎の如くに黒焦げになり焼死する他は無いからだ。

 

だからむしろ其の思想塾にて「社會をバカにし捨て去る人間」だけを育てることに専念すべきだ。

アンタ其れでも教師なのかい?

 

いえわたくしは元元教師では無く壱藝術家ですよ。

尤も其れも自称の壱藝術家なんですがね。

 

 

いやあー、しかしながら良く考え抜かれた結論ですこと。

確かに其れは反乱と言えば反乱ながら其の「捨て去る」こと自體は憲法の「思想、信条の自由」の部分にて保障されたことなのであくまで間違いなのでは無い。

 

其の「バカにする」=「無視する」こととは實は「全否定的」に扱い問題にして居ないと云うことだ。

但し世間では其れを誤って解釈し、其処で屡弱き者を強き者が「いじめ」たりなどもまたして御座る。

 

だから逆に弱き者がむしろ思想武装し其の「強き者」の側を精神的に全否定してかかれば良いのである。

但し反抗し過ぎずにしてちゃんと学校ーしかも大學も出るーへ行き御飯もまた確り食べ其処に兎に角頭の良さをこそ涵養して置くべきことだらう。

 

 

大塩平八郎|誠をつらぬく名言集!「身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐るるなり」 | 歴史上の人物.com (colorfl.net)

 

左様に身が滅ぶのと心が滅ぶのでは心がやられて仕舞うことの方が所謂罪またつまりは煩悩の度がより酷くならう。

また「知行合壱」なる陽明學からの概念は矢張りと言うべきか良い。

 

逆に申せば日本の支配層に其の「知行合壱」が出来ないところにこそ社會的な大矛盾が蓄積されて行く訳だ。

またつまりは其れが先回に申した「利己的に威張りちらす」との部分のことだ。

 

其の根本でのところが治らず結果此の21世紀になっても「支配層としての金持ち連中」の心のあり方が腐り切って居る訳だ。

但し其の「陽明學」だのまた其の幕藩體制の基本原理となった「朱子學」へと今更戻る訳にもいきません。

 

だから新たなる「文明に於ける思想」が今どうしても必要となる。

 

1.循環型経済

2.農業革命

3.哲學的な価値観の教育

 

の流れこそが個人的には必要かと思われる。

でもって僕が今詳しく語ることが出来るのがまさに3.の流れでのことでせう。

 

つまりは其の「哲學的な価値観の教育」の流れこそが今現代人に取り是非必要なのです。

また其の「放棄」としての思想的な流れもまさに其の3.の流れとしてのことである。

 

だからもう僕は今後其の「哲學の先生」となり此処にて何かを書いて行きます。

但し其ればかりでは無く「藝術」及び「物の美」に就いても勿論語って行きますのですが。

 

 

大塩平八郎の檄文 | 何かおかしいよね、今の日本。 (ameblo.jp)

 

さて此の方は「右翼」の方ださうですがかうして詳らかに其の大塩 平八郎に就き語って頂くと彼の人となりが眞に良く分かって來ます。

また大塩が書いた「檄文」の方もしかと載せられて居り其れが大いに参考となる。

 

尚自分はすでに右や左のイデオロギー對立の流れを超克して居り要するにどちらをも放棄しまた同時にどちらをも認めて居ります者です。

要するに其の思想の流れ其れ自體を「全否定」するのでは無く「バカな支配層の利己主義」のみを全否定する者なのです。

 

最終的には其の「バカ」を根絶せしめたいと云うのが理想ですが其れも「乱」だの「革命」だので其れをやるのでは無く「無視」することで是非其れを達成すべきことでせう。

尚其れと是非付け加えて置かねばならないのは、右や左の立場にて思想的に闘争されて居る方方は基本的に眞面目であり所謂「大衆的な傍観」を続けて居る愚民共とは違うと云うことでせう。

 

なんですが別に今僕は思想的に闘争して居るのでは無くあくまで藝術上の其れも「岡本 太郎」氏との藝術家としての「ぶつかり合い」のことだけでもう頭が壱杯でありだから社會のことなんぞはまさに我関せずでの立場にこそある。

 

 

大塩平八郎の檄文 (sakura.ne.jp)

 

社會の組織の不平等性と云うものには常に壱定の法則があり、ですので實は何時代であれ其の搾取の度や社會的な腐敗の度に関しては余り差が無い。

 

ですが、

1.農耕社會以前での原始共産制的な社會に於いては資源消費に於ける平等性はむしろ担保されて居た

2.幕藩體制とはそも「限定」的統治主義のことで其れはむしろ幕藩體制以前での統治構造及び幕藩體制以降での統治構造と比し優れて居た面が多かった。

 

要するに其の「文明化」された以降での統治體制としては幕藩體制こそがむしろ理想的な面を持って居たのだと言えやう。

但し其の統治機構は必ずや腐敗を生む即ち政治的な綻びを生じて参ります。

 

其れが単に政治的な綻びであるにせよ江戸時代に於いてはまさに其れが民に取っての死活問題でした。

また其れを逆に申せば今後地球温暖化の進行により我我庶民に取っての死活問題が今後現代社會に生じて来る虞が今や80パーセント程もありませう。ー特に2050年以降はヤバくなることだらうー

 

であるからむしろ江戸時代の方がまだしもマシなんだな。

また其の番組でも取り上げられて居たが当時の大坂の統治組織が何もせずに居たのでは無く其の飢饉だの米の価格の高騰に對しあれこれと手を打って居たのださうです。

 

要するに統治組織の側もまたみんなが全部死んじゃうと労働力も無くなるのだしさらに税金の方も徴収出来なくなるので要するに「生かさず殺さず」の状態にて目壱杯に搾取して置かんと自分等の方が干上がって仕舞う。

 

だから其の点から鑑みればむしろ今の日本の経済状況の方がより悪いのだと言える。

何故なら今や自民党もバカだわまた日銀もさらに財務省や東京都も大阪府名古屋市も同様にバカだわで要するに総おバカ状態なのでもうこりゃヤバいですよ。

 

嗚呼其れと札幌や福岡、さらに仙台など日本の都市部はもう全部がおバカですよ。

あれ、またちょっと言い過ぎちゃったー。

 

 

尚其の左右でのイデオロギー對立は決して概念的な解決を齎さず最終的には「戦争」を齎しますのでむしろ其の思想の別には拘らず逆に融通無碍に「體制維持」と「革命」の間を行ったり來たりして置くことこそが眞の意味での政治的インテリジェンスの発露の場ともなり得ることだらう。

 

よって特定の政党を支持することなども此の際止めて置くべきだ。

またみんながやって居るからと「投票」に行く必要などもまた無い。

 

但し自分で信じて其れをやるならまた其れも壱つの価値であらう。

尚自分は「共同體主義」のアナキストですので勿論「投票」には行きません。

 

でも何処かでアナキズムの集会やデモでもあればもしや参加することなどがあるのやもしれません。

 

尚其の「共同體主義」と「幕藩體制」の違いは其の「将軍家」のやうな中央集権的な組織が「共同體主義」での統治組織の中には含まれないと云うことだ。

要するに其の「政治権力の集中」にこそ問題が生ずるのだ。

 

また其れは所謂壱党独裁での共産主義體制であるにせよ其の轍を踏むことを免れ得ない。

つまりは其の「デカい力」こそが悪さをするのです。

 

 

だからデカいんじゃ無く「ちっこい」方が良いのです。

また現存在其れ自身もデカい意思決定=大志に生きるのでは無くちっこく生きるのが最も理性的にバランスの取れた生き方其のものとなる。

 

でもって自民党もまた日銀もさらに財務省や東京都も大阪府名古屋市もおまけに札幌や福岡、仙台も皆デカい意思決定となるのでそもダメなんだ。

 

「靑年よ、小志をこそ抱け。」

 

まさに其れが此の藝術家としての我が哲學の内容なのだ。

 

だから其の大塩 平八郎の「檄文」にせよまた以前論じたことのある三島 由紀夫先生による「檄文」も兎に角「何とか日本の政治又は防衛力」を立て直さうとして書かれたものであり至極眞面目なものです。

 

ところが其の「思想的主張」には實は其れ自體に矛盾が組み込まれて居る。

其のことだけはまさに學者並みに政治思想を御勉強して行きませんと決して見えては來ない思想的帰結である。

 

なんですが、あくまでさうして「此の侭ではヤバい」と云うことを無知なる大衆層に知らしめんが為には其の「檄」での類のものが有効でもまたある訳です。

事實そんな「檄文」の類の内容に直に触れますとどんなに鈍感な家畜野郎にせよ「ハッ!」ともさせられることでせう。

 

其の意味での「檄文」の価値を否定するものでは無い。

事實大塩 平八郎や三島 由紀夫先生による「ストレート」な思想の発露の部分は其の後多くの人人に少なからず影響を与えたのではなからうか。

 

だけれどもまた双方とも「壮絶なる死に様」を其処に晒すしかなかった。

其処は要するに此のデカい「社會」と眞正面から對決すれば、

 

個<社會

 

との原理よりズタボロにされて死んで行くより他はないのだ。

 

 

なので、むしろ「無視」する。

其れも「バカだ」、「アホウだ」とさう罵倒しつつ「無視」して置くのが得策なのだ。

 

だけれども其れでもまだ腹が立ちませう。

其れも頭の良い方方などはどうしてもさうなる。

 

また往往にして「絶望」に至ったりもまたする。

だからそんな時はもう其れをあえて「忘れる」のです。

 

或は僕みたくに、

 

社會との思想的闘争<藝術上の藝術家との闘争

 

との闘争の土俵の上での組み替え等を是非してみるべきだ。

まあ僕の場合は左側がほぼ1割で右側がほぼ9割程を占めるに至って居ります。

 

 

但し其のー大塩 平八郎や三島 由紀夫先生による「ストレート」な思想の発露の部分ーからは大いに學んで置く部分がまたあることでせう。

畢竟其れは「意思決定に於ける自立性」のことなのではなからうか。

 

要するに彼等の如くに凄惨な死に方をするにせよまた他のどんな不利益を被らうともー超貧乏となったりまた👪の崩壊に至るにせよー其の「意思決定に於ける自立性」を保持しつつ生きることこそが「観念に生きる人」=「インテリ層」として保ち得る矜持の部分でなくして何なのでせう?

 

「インテリ層」は場合によりさうして「観念」に殉じて行かねばなりません。

でも藝術家は所謂「藝術に殉ずる」のですから果たしてドッチが良いのか?

 

あれまるで分からんやうになっちゃいましたー。

まあだが其処は僕だけの特殊な御話にて皆様の場合にはまさに「そんなのカンケーねえ」のやもしれません。