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ヘーゲルによる「進歩史観」を其の根本より批判してみるー現存在を「神人間」化して行く恐怖の歴史過程への大批判ー

ヘーゲルによる「進歩史観」を其の根本より批判してみるー現存在を「神人間」化して行く恐怖の歴史過程への大批判ー

 

 

 

 

【出口学長・哲学と宗教特別講義】ショーペンハウアーがヘーゲルに反論した理由 (msn.com)

 

さて其の「哲學」の部分と「宗教」とは常に密接に結び付いて居ます。

さらに言えば「藝術」もまた其れ等と密接に結び付いて居ます。

 

従って其の「哲學」や「宗教」に弱いとされる日本人は「藝術」にも實は疎いとさう言わざるを得ません。

また意外かもしれませんが「政治」などの分野もまた「哲學」や「宗教」とは密接に結びついて居ます。

 

であれば日本人はまた「政治音痴」なのでもまたあり得る訳だ。

日本人は左様に「自ら考えない」民族となりつつある。

 

即ち「みんなで進めば其れが正しくあえてソコで考える奴は頭がオカシイ」との意見がむしろ普通なのです。

でも其の「普通」さとはおそらくは「全體主義」にやられた洗脳體制のことである。

 

社會科詩人はすでに其処迄述べて仕舞いました。

故に「早う牢に入れ此の肥溜め詩人!」とさう思われて居るか其れとも尊敬されて居るかのどちらかなのでせう。

 

其れもどうもオカシイと思うのが此処日本では「政治」と「宗教」と「哲學」の分野のことを日常的に論ずることがむしろタブーなのです。

要するに其れは其れ等の分野を論ずる為には自立的思考であり自律的意思が不可欠なこととなるからなのでせう。

 

つまりは日本の體制其のものがむしろ其の自立的思考であり自律的意思を欲せずむしろ押さえつけて來た=操り人形化して來て居る訳だ。

まあ自称の詩人は兎に角考えの方が過激ですのでついに其処迄を洗い浚いに述べて仕舞いましたのですが。

 

 

さて以上の記事はまたとても分かり易く哲學的な内容を噛み砕いた形でもって書かれて居ます。

其れに就きまた考えの方を進めてみませう。

 

まず其処には、

 

絶對主義⇔相對主義

 

との重要な哲學上の概念としての弐項對立の様が出て参ります。

 

其れでもって「ヘーゲルによる進歩史観」と「ショーペンハウアーによる解脱観」の對比が其処に良く分かる訳です。

 

また其れは、

 

正の思想⇔負の思想

 

とさう言い換えても良いやうに思われる。

 

また、

 

樂観論⇔悲観論

 

との對比にもまたなって居ります。

 

但し共に所謂「観念論」的な考え方なのでせう。

よって其れは所謂「アニミズム」や東洋思想的なものとは本質的には異なるものです。

 

ですが結果的にショーペンハウアーの思想はまさに其の東洋思想と「観念論」を融合したかのやうなものとなる。

「観念論」はまた壱種の「進歩思想」ですのでショーペンハウアーの場合であれ「解脱」はむしろ観念的に「意志を断滅」することにより達成されるものとなる。

 

其の辺りはまた微妙な御話となるが結局「佛教に於ける解脱思想」とはまた異なるものです。

即ち「意思による意志の断滅」と「意思否定に於ける意志の断滅」とはまた違う次元での御話でせう。

 

 

さて、

 

ヘーゲル進歩史観=正としての生をより高次な正としての生の段階へと持ち上げること

ショーペンハウアーの解脱観=負としての生を正としての生の段階へと持ち上げること

 

なのであり實は其れは「進歩思想」としての弐形態なのではないかと最近わたくしは考えて來て居る。

ちなみにわたくしはショーペンハウアーの哲學の熱烈な信奉者でありつまりは我が座右の書が其のショーペンハウアーの「存在と苦悩」と云う本となる。

 

但しヘーゲル進歩史観は「社會の進歩」を論ずるものですがショーペンハウアーの解脱観はむしろ「精神の進歩」をこそ論ずるものです。

まさに其の点でショーペンハウアーの哲學は所謂「生の哲學」の範疇に属するものです。

 

まさに其処では、

 

正→正=進歩史観

負→正=解脱観

 

との関係性が成立するもののやうにもまた思われる。

 

では果たしてキリスト教や佛教の場合には其れがどうなるのか?

 

負→正=キリスト教の教義

負→負=佛教の教義

 

となるのではないか。

 

 

尚其の右側の正、負の別とは所謂「構築型」と「脱構築型」の違いのことを示して居ます。

左側の正、負の別とは「生其れ自體への基礎認識」の部分をこそ示す。

 

とりあえずはショーペンハウアーによる「解脱史観」を「構築型」としてみましたが其の理由は其れがあくまで「観念論」哲學であるからなのです。

だが其れが「脱構築型」の部分に足を踏み入れて居る部分などもまた無きにしも非ずです。

 

正→正=進歩史観

 

さて問題はまず此の生の認識構造の単純さと申すか思慮の無さと申すか兎に角「屈折の無き」部分です。

 

ですが理性の本質とはむしろ「屈折」でせう。

「屈折」とは「逆方向性」のことであり「複雑さ」のことなのでもまたある。

 

即ち「逆方向」があるからこそ「全體」が初めて見える訳です。

ですが其の「ヘーゲル進歩史観」には所謂「負としての認識」が何処にもありませんのです。

 

まずは其処に「理性としての不具性」を感じざるを得ません。

 

理性⇔本能

 

逆に申せば其の不具としての「絶對的理性」なるものに拘るからこそ文明の方向性を違え全てを破壊するに至らしめることとなるのである。

即ち「理性」もまた常に「相対的」なものでありそんな壱神教の神の如き理性がそも🐒に毛の生えた如き生き物の現存在に宿る筈などが無いではありませんか。

 

でもかのカントもまた其の「理性」をこそ絶對視して居たのでせう?

いいえ、全然。

 

第壱カントが述べて居たのはまず「理性が通ずるであらう範囲」のことでせう。

其れ即ち「理性の限度」をこそ彼は述べ只其の「限定的理性」=「相對的理性」を信じるが侭に近代人は歩むべきだとさう言っただけのことです。

 

なる程、すると今此処でもって貴殿は「ヘーゲル進歩史観」其のものをやっつけて居られるのですね?

まさに御察しの通りで其れがそも理性的には「オカシイ」とさう批判を致しましたのです。

 

ところで貴殿は何でまたよりにより「ソコ」にこそ頭がフル回転したりするのですか?

そりゃあまるで分かりません。

 

分かりませんが只自分はそもヘーゲルの顔が大嫌いなのだ。

Hegel_portrait_by_Schlesinger_1831.jpg (452×572) (wikimedia.org)

 

そんな「好き」とか「嫌い」とかで哲學的なややこしい命題のことをまさか論じるのですか?

さうなんです、まさに其のことが「直感→直観」との所謂「般若智」的な智慧の部分を発動し得られる結論なのだからして。

 

 

兎に角平たく申せば其のヘーゲルによる「絶對的理性」の構築の部分こそが近現代の進歩史観の原動力であり且つ「破壊的自虐史観」の履行者であると云うことです。

さらに申せばまた其れはキリスト教による価値観迄をも踏みしだく訳です。

 

要するに其の「ほんたうの神」の代わりに「ウソの神としての人類ー文明ー」を置くとのまさに神をも畏れぬ所業でありおおまさに其は反キリストであり👿としての思想其のものなのだ!

 

うーん、するとヘーゲルこそが其の👿なので?

まあさうでせう。

 

するとショーペンハウアーこそが神であり佛なので?

いえ神であり佛其のものなのでは無く多分善人だったとさう云うこととなりませう。

 

エッ?

すると近現代は其の惡人のヘーゲルの考えの方をこそ社會推進の支柱として採用した訳なので?

 

…仰る通りです。

何故なら此の世では常に惡人が榮え善人の方は大抵罪を着せられ磔の刑に処せられたりもまた致しますものです。

 

おお怖い…。

 

いいですか、今日僕はほんたうに文明の根本での哲學的命題に就き論じそんな「惡の思想」にこそ鉄槌を加えましたのです。

 

負→負=佛教

さて此の部分もまた、

 

負→正=佛教

 

などと考えることなどもまた可能です。ーあくまで解脱思想としての範囲ではー

但し近代的世界観の上からはどうしても「負→負」の流れと規定されるのです。

 

また其れ以前に「構築型」であるか其れとも「脱構築型」であるかとの思想的なパラダイムの流れの差異が其処に生じて居ることだらう。

 

つまるところ佛教に於ける「解脱思想」の思想的構造はあくまで「脱構築型」であり其れ即ち西欧近代型の「構築型」の思想とはそもパラダイムを違えるものなのだからして。

 

 

さて所謂「近代的合理性」とは其のヘーゲルによる「絶對的理性」の構築の部分こそが生み出したものです。

ところが其の「ヘーゲル進歩史観」には實は「負の要素」が何処にも入って居りません。

 

「負の要素」が何処にも入って居ないが故に其れはむしろ「絶對的原理」化するのである。

だがかのキリスト教であるにせよ實はそんな「負」の部分より出発して居たのです。

 

現存在は其のやうに正負の両面を常に理性的に見詰めて行かねばならない。

逆に申せば其の「絶對的原理」としての近代的要素は須らく眞理からは遠ざかり欺瞞化、偽善化して行くこととならざるを得ない。

 

エッ?

では自然科学による諸諸の成果や此の便利でもって快適な生活の全てが欺瞞化、偽善化して行くとさう仰るので?

 

まあさうしたことと必然としてなる。

だったらどうすりゃ良いのだ?

 

だから其れはまた哲學者の方方にでも聞いて下され。

いや自分もまた哲學詩人として何らかの処方箋を述べても良いが所詮皆様は僕のことをバカにして御座るので…。

 

また急に何をイジケて御座る?

君は左様に至極論理的である癖にまた妙に感情的であり感傷的なのでもあるな。

 

さうかなあ、別に普通なんですがね、まさにコレが僕にとってのこんな普段通りの生活なのでもあり。

 

 

さて「構築型」の思想は「ヒエラルキー形成」からは免れ得ない。

逆に「脱構築型」の思想は「ヒエラルキー形成」を無効と為します。

 

故に資本主義経済體制も科学技術文明もさらに宇宙開発や核開発に至る迄全ては「ヒエラルキー」化致します。

ヒエラルキー」化すれば「競争」が其処に生じ兎に角「ヒエラルキー」の上部構造を目指し現存在はまた國家はしゃかりきとなり頑張らねばならなくなる。

 

でも其れは前近代の歴史過程に置いても同じことだったのでは?

こと前近代迄の歴史過程に置いては其処迄徹底された全體主義的な努力が其処に必要とされた訳では無かったことでせう。

 

要するに其れはもう少し緩やかなーゆとりのあるー努力でも良かった訳だ。

 

また「競争」原理が強く働く社會であるからこそ何が何でも勝たうとして紛争や戦争、さらに環境破壊や宇宙開発などの流れが生じるのです。

つまるところは近現代社會が陥る「破壊」者としての人類の姿とはそんな意味での「思想的誤謬」の部分より齎されて居るものです。

 

 

じゃあそんな變人としての「解脱観」を説くショーペンハウアーの考えの方が實は正しく其のヘーゲルの「進歩史観」を奉ずる近現代の文明は其の全てが間違いなのですか?

いや間違いである可能性が高くあるとさう述べた迄のことで「絶對に間違い」です、などとはまだ言って居りません。

 

ならば「絶對に間違い」です、とほんたうは早うさう言いたいのですね、其れも明らかにヒネクレタそんなアナタは?

でも「絶對」など此の世には無いとさう何度も口を酸っぱくしつつさう言って來たでせう。

 

だってキリスト教イスラーム教の「神」の「絶對」はあくまであの世での救済のことを信じた上での「絶對」でせう。

つまりは其れを信じない異教徒に取り其れは「絶對」でも何でも無いのだから其の「絶對」はあくまで「限定的」なのです。

 

するとそもコレが「絶對」との「思想的洗脳」こそが間違いの元なのですね?

まさに仰る通りでのことです。

 

あくまで思弁的哲學的に考えた上ではさうなると云うことです。

左様にそも思想として構造的に「洗脳」を前提として成り立つのが近代的世界観なのだ。

 

だからこそ其の近代的世界観に對しては常に「懐疑的」でこそあるべきなのです。

 

 

また以上の全ての概念を壱言に纏めて言えば、

 

「人類ー文明ーをウソの神」化することこそが近現代社會としての究極的な目的であると云うことです。

即ち現存在を「神人間」化して行く歴史過程こそが近現代社會としての正體其のものなのだから。