目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ショーペンハウアーの悲観論は案外まともなものだーショーペンハウアー『自分を救う幸福論』より學ぶ 1ー

3.ショーペンハウアー『自分を救う幸福論』より學ぶ 1

 

 

 

 

元より其の思想、哲學とは生活上の飯の種にはなり得ぬもので、また藝術にせよ宗教にせよ多分にそんな性質を帯びて居るものである。

従って文學者や哲學者また宗教家などは其の生の本質的課題を常に考えて行くものであり故にむしろ其の生活上の課題の解決能力が弱くなりがちなのだ。

 

わたくしもまた多分にそんな部分がありだから生活者としてはダメなのだらうがさりとてやれることと言えばかうして何かに就き語ることのみなのでまさに其れを長年に亘りして来た訳だ。

するといつの間にか此処での記事も千を超えて仕舞った。

 

だがわたくしにとり其の数などはどうでも良いことなのだ。

第壱三流出版社にでももし拾って頂けるのであれば無論のことわたくしは千位の記事はすぐにでも書いてやる積もりである。

 

でもわたくしはプライドだけは芥川賞作家並なのでまずは其れも難しいことであらう。

 

尚、私は以前に東京の掲示板ですでに千以上の記事を書いて来たので要するにすでに弐千以上の記事をネット上に投稿して来て居るのである。

 

まあそんな個人的な自慢話のことはどうでも宜しいことで問題は人間の社會が今後どうなって行くのかと云うことなのやもしれぬ。

だが其れもよーく其処で考えてみればたちどころに分かる筈だ。

 

まともな理性の持ち主であればそんなこと位はすぐに分かる。

其れが分からないのはおそらく認識論の方が狂って仕舞って居るからだらう。

 

だからわたくしは其の誤りを今正さうとして居るのだ。

だから至極眞面目なのだが兎に角寒い。

 

何故なら私の部屋には暖房が無い。

よりによって何故?

 

 

いやストーヴをね、台所へ持って行って居るのだ。

其れでももって古いストーヴも片付けで捨てて仕舞ったのでもう暖房が無いのだよ。

 

嗚呼、さう言えば電気ストーヴは何処かにあったのかな。

 

兎に角わたくしは死ぬか生きるかと云う其の緊迫感を持って其の人類の精神の課題を是非考えたいのだ。

 

お前、然し其れでは凍え死ぬぞ。

いや我は殺しても死にゃあしません。

 

何故なら色んなものを食うのでいつもかうしてメラメラと體が燃えて居りますのです。

 

 

さてコロナ禍の問題だが其れは畢竟「大の思想への限定ー制限ー」なのだとさう考えられやう。

どうも思想には其の大と小の性質の違いがあるやうに思われる。

 

大の思想=発展化、構築型⇔小の思想=鎮静化、非構築型

 

でもって釈迦の思想や他の印度の解脱思想、さらに老荘思想などは明らかに東洋型の小の思想の流れである。

対して近現代思想は明らかに其の大の思想の流れである。

 

其の大の思想の流れの顕在化即ち近代化こそが大問題ばかりを社會的に引き寄せて居るものと考えられる。

なので東洋型の小の思想の流れへとシフトするとすれば確かに問題はより小さくなって行く訳だ。

 

かって其のことを述べられて居たのが梅原 猛先生であった訳だが其の晩年に新たなる思想の流れを創られることも無く亡くなって仕舞った。

かの梅原 猛先生にしてさえもが思想としての近代の超克を其処に成し遂げられなかった訳だ。

 

 

だから其れをこんな壱自称詩人へと振って来るな。

こんな適当な奴に其の大任をしょわせるな。

 

そんな訳で皆様はたった今僕がどうして生活力には欠けて居て要するに妻子などはとても養えずかうして訳の分からぬやうな哲學のことばかりを飽きもせずに毎日述べ続けて居るのかと云うことがお分かりになった筈である。

 

つまるところ其の大任があらうことかわたくしの頭の中に全て任されて仕舞って居るのだ。

もはやコレは信長公級の大任でありプレッシャーであらう。

であるこそわたくしは自らを信長詩人だとさう名乗って居るのだ。

 

 

で、問題はあくまで其のショーペンハウアーの所謂悲観主義哲學のことである。

其のショーペンハウアーは変わり者の哲學者であることは先に述べた。

 

つまりは当時かのヘーゲル進歩主義哲學とは正反対のことばかりを延々と述べ立てて居た訳だ。

また其のショーペンハウアーの思想が何故わたくしの頭の中身とピタリと壱致したかと云うこともすでに述べた。

 

要するに彼は常に世の中を批判的に見詰め世の趨勢とは反対のことばかりを述べて居たのである。

 

だとすればショーペンハウアーこそが非國民であり且つ思想犯だったのですか?

いや独逸では昔から何をどう言おうと逮捕はされなかったのだ。

 

我が國でも江戸時代までは滅茶苦茶な批判をする學者がまた多く居たものであった。

其れがどうも全体主義國家となって仕舞ったのが近代としての明治以降のことだったのだと思われる。

 

 

其のショーペンハウアーの思想こそが明らかに小の思想=鎮静化、非構築型のものである。

即ちショーペンハウアー悲観主義哲學は近現代思想とは眞逆の流れを元元担って居る。

 

と云うことは近現代思想の行き詰まりに対して元来有効な思想的批判力を有すると云うことなのでもまたあらう。

 

さて今回彼の思想を取り上げるのは、先にも述べたやうに難しい哲學の上での論議を展開する為にさうするのでは無い。

 

むしろショーペンハウアーの思考の實効的な側面即ち現世利益性に就き個人的に是非語ってみたかったので其れをする限りでのことだ。

事實としてショーペンハウアーは偏屈な哲學者であったと同時にむしろ博學で役に立つ知識を多く持って居た人だったともされて居る。

 

 

其の彼の博學振りを示すテキストとして以下の著作を用いることとしてみたい。

ショーペンハウアー自分を救う幸福論/アルトゥル・ショーペンハウアー/著 鈴木憲也/訳 本・コミック : オンライン書店e-hon

 

現在は注文出来ぬ本ながらアマゾンの方では新品も売って居る。

私個人は五年程前に此の訳書を求め半日で読んで仕舞った。-金言集なのですぐに読める本だ-

 

しかしながら、まさに其の内容からほんたうに我の心は救われたのであった。

ある意味では御経の数数よりもむしろこちらにこそ救われたやうな気さえもがして居る。

 

『ショーペンハウアー 自分を救う幸福論』|感想・レビュー - 読書メーター (bookmeter.com)

こちらなども大いに参考とならう。

 

 

尚個人的にショーペンハウアーの哲學は壱種の悲観論なのではあれ厭世主義ー老荘思想の如き厭世主義ーの類ではむしろ無いのだと思う。

其れはまさに、

「大いなる悲観は大いなる樂観に通ずる」

とのむしろ樂観的な悲観論を展開して居るもののやうにも思うのである。

 

であるからしショーペンハウアーの哲學によりむしろ華厳の滝から飛び降りやうとはまさか思わぬ筈なのだ。

さうでは無くショーペンハウアーの考えはむしろ生を援護し其れをどう乗り切るかと云う前向きな視点から語られたものである。

 

但し其の前向きなことの対象が生活力だの金だの名誉だの社會の安泰だのそんなことに対し向けられて居る訳では無くむしろ自己の内面に巣食う認識上の誤謬に対し向けられて居ると云った訳だ。

よって五年前にわたくしはまさに此の著作により大いに勇気付けられた訳だ。

 

即ち世間での価値観ー認識ーもまた前向きなものだが其の認識其のものの向けられて居る対象がそも間違って居るので結局こんな状況を招いて仕舞うと云うまさに其のことに就きショーペンハウアーは語って呉れて居るかのやうなのだ。

 

では早速に此の著作をテキストと為し講義へと入らせて頂くがまずは普通のやり方ではまるで面白くは無いので本の終わりの方から論じさせて頂くこととしてみやう。

其れもこんな変わり種の哲學者の哲學はむしろ逆方向から是非攻めて行くべきものなのだからして。

 

 

ーまとめよりー

此の本の訳者である鈴木 憲也氏はまずショーペンハウアーが人間の醜い面を暴露したとさう仰せである。

但し其の人間の心の醜さは人間自身のせいでは無いと彼が考えて居た旨をも其処に併せて書かれて居る。

 

果たして其れは何故か?

所謂盲目的なる表象としての意志ー本能として規定されし意志ーには元来目的など設定されては居ないからなのだ。

 

其のことは我我が自然を観察して其処には意志など無いとさう見られることとまるで同じことなのだ。

つまるところ人間は半分自然であり且つ半分観念なのだが其の観念が理性的に駆動されぬ限り結果的には其の観念もまた原始退行ーわたくし自身の理論ーし本能に置換吸収されて行かざるを得ぬ。

 

であるからして人間の意志にも元元目的などは無い。

では人間は所詮動物達のやうにー精神的にー救われぬ存在なのか?

 

いやむしろ救われるべくして生まれた現象なのである。

何故なら人間には理性の力が宿って居るからなのだ。

 

 

「私たち人間は、理性を使って自らが悲しい存在(創造主の意志に動かされるだけ)であることを自覚し、できるだけ超越・克服していかなくてはならない。」ーショーペンハウアー自分を救う幸福論/アルトゥル・ショーペンハウアー/著 鈴木憲也のまとめよりー

 

つまりはまずは理性を使い認識すること、まさに其れに尽きておる。

さてもところでジャニーズなどにキャアキャア言って居て果たして其れで理性を使い生きて居ると言えるのだらうか。

 

また男共もすぐにピンサロだの不倫だのへと走るのだしまたさらに大博打だの酒浸りだのへ走り易いのでもあらうがそんなものが少しでも理性を働かせ生きてことになる筈が無いではないか!

 

とどのつまりは理性を使った認識が普通の現代人にはなかなか出来ない。

いやさうでは無かった。

少なくとも此処の読者は眞面目なのでむしろ我以上の理性の使い手としての熟達者ばかりなのだらう。

 

だが君等はちょっと我が堅い話をし出すといつの間にやら逃げて行くこともかうしてちゃんと分かって居るぞ。

でも其れではイカン。

むしろわたくしが述べる哲學のカテゴリーだけを是非読みなされ。

 

だから、我我はそんな情けない=悲しい現象に過ぎないのだ。

其のやうに認識することこそが悲観主義であることの要諦なのだ。

 

其の哀しみをこそしかと見詰めよ!

 

其れも自称の詩人さんはな、其の哀しみをかうしてずっと見続けて来たのだ。

 

「人生で幸福や心の安心を積極的に求めると、必ず幻滅を味わう。なぜなら、人生は生活者による『苦痛』と、満足した状態で感じる『退屈』との間を行ったり来たりしているものである。だから、この世では、苦痛と退屈の波をスムーズにすることが幸せに通じる。」ーショーペンハウアー自分を救う幸福論/アルトゥル・ショーペンハウアー/著 鈴木憲也のまとめよりー

 

此の部分に就きかって我も述べたのだったが、

幸福⇔不幸

とのことなので幸福なる状態と不幸なる状態は紙壱重であり且つ裏腹の関係となる。

よって本来ならば其のどちらも求めてはならない訳だ。

 

まさに其れが釈迦の見解なのでもあり、まさに解脱へと認識を高めて行く為の唯壱の方策である。ー其れも自力救済としての意味に於いてはー

ショーペンハウアーの哲學は壱種の解脱哲學だともまた考えられるのだが個人的には釈迦の思想程厳しいものでは無く若干キリスト教や釈迦の思想以外の印度哲學の影響が見て取れるので其の点では完全に解脱を完成させる程潔癖では無い。

 

ですがとりあえずは彼が主張することとは理性的認識による本能的意志の否定である。

であるから結果的には我が述べて居ることとまるで同じことを述べて御座る。

いや然し其れは我がショーペンハウアーの哲學に結局嵌り込んで仕舞ったが故にさうなって居るのやもしれぬ。

 

さらに彼ショーペンハウアーは藝術殊に音樂が大好きだった。

まあ僕の場合は画なども音樂と同じ位に好きなのですがショーペンハウアーは兎に角音樂を褒め称え其れが「人生の苦悩の万能薬になる」とまで述べて居る。ーショーペンハウアー自分を救う幸福論/アルトゥル・ショーペンハウアー/著 鈴木憲也のまとめよりー

また人間の心理のあり方としては「同情」する心であることを重要視した。

「同情とは愛だ。」とまで述べて居る。ーショーペンハウアー自分を救う幸福論/アルトゥル・ショーペンハウアー/著 鈴木憲也のまとめよりー

 

ショーペンハウアーは佛教を最大限に認めて居るが他方ではかうしてキリスト教もまた認めて居たのである。

要するにショーペンハウアーもまた多くの宗教の教義と同じやうに「本能を其の侭に生きてはならない」旨を述べむしろ其の眞理を哲學的に論理化させて行ったのだと云えやう。

従ってショーペンハウアーは常に宗教を重視して居る。

 

即ち「同情」するには是非とも宗教的な見地が必要なのだ。

佛法には「異の苦」や「同苦」と云った言葉があるが結局其れは他人の苦しみに自己の苦しみを重ねる程に敏感であれと言って居るのではなからうか。

 

またキリスト教などでは「汝の敵を愛せよ」などともまた言うのである。

 

ところが本能の侭に生きて居ては此れ等の命題を履行することなどは不可能だ。

よってつまるところは人間は本能を自制し生きることで初めてまともな人間ー理性的な人間ーとなれる訳だ。

 

だが其れを忘れた途端に壱挙に地獄へと堕ちる。

尚其の地獄へと堕ちる奴等が多過ぎるやうに感ぜられる昨今の世相である。

 

 

さて其の藝術至上主義は我の場合も全く同じことでむしろ若い頃よりわたくしはさうであった。

元元我は詩や文豪の小説などを独學にて研究して行くと云うまさに市井の文學マニアの壱人であった訳だ。

 

従って文學に限れば専門書の類もかっては屡読んで居たものだった。

しかも其れを趣味としてして居たのであるから今思えば其れも大したものであった。

 

然し藝術の分野と云うものは根っこの方では繋がって居るものなので自然と画や音樂へも引き寄せられて行くこととなった訳だ。

 

いずれにせよショーペンハウアーの考え方はむしろ全然オカシクは無く至極まったうなものだと云うことが以上からもお分かり頂けることかと思う。

ショーペンハウアーが注目されるやうになったきっかけとは『人生知のための金言集』だったのであり其れが何と彼が63歳の頃に出した本であったさうな。

 

で、僕は今年何と其の63歳となるのである。

さてもなんて縁が深いのだらうか、彼ショーペンハウアーとは。

 

尤も彼ショーペンハウアーは女の敵として評価が確立して居る人物なのだがわたくしの場合は別に女の敵でも何でも無く分け隔てなく人を愛してやまぬ優しい御爺ちゃんです。