哲學9
さて我が来し方を振り返りますに、まさに其れは壮大なる牢獄、他と我が織り成す巨大なる軋轢の大伽藍のやうなものなのであった。
しかしながら其れは何も我に限ったことではないのやもしれぬ。
とさう還暦に至り思う事屡となった。
だが其れより以前にはさうした思いに浸されることなどついぞ無かったのである。
さらに所謂社會と云うことと我=個とは何か別者であると云う感をまた強く抱くやうになった。
其れが昂ずると其の社會と云うことこそが何らかの形での悪の所業であらうと云う判断にも至った。
即ち人間の質、其の持って生まれし心理的性質を変えることは結局出来ない。
なのでまさに其れが「限定」なのである。
其の「限定」其れ自體が良いか悪いかと言えば元々其れは其の善悪規定を超越するものでもある。
要するに其れが心の方向性をさう決定して居るもの其のものである。
其のやうに論理的、哲學的に心的現象=實存的価値は歩んで行くが其れとは別に「生活」の難儀と云うことが常に實存に対しふりかかって来る。
謂わば其処をこそ解決に導いて行くのが庶民の力即ち生きる意欲の顕現のことなのだらう。
また其の「生活」力は主に社會が要求して居るものでもまたある。
論理的、哲學的に實存を導けばさうする程につまり心を磨き込めば磨き込む程にむしろ其の「生活」力の方は弱まって行く。
其のことは其れこそかっての旧制高校生達や芥川を代表とするやうなインテリ文豪達の壱番苦手な部分なのでもまたあった。
其の生活力を欲する👪即ち此の社會の最少単位こそが厄介事の始まりでもまたあらう。
其れもあくまで理性にとっての悪夢の始まりだと云う訳だ。
さて其の社會即ち👪の延長線上にある人間の形態に関して、むしろ此れ迄に様々な理性が其の都度助言、進言を重ねて来て居ると見て置く方がより自然な認識であらう。
つまりは全ての答えは其の過去としての智慧の集積の中にこそすでに語り尽くされて居る。
むしろ其れを見られず何処か別方向を向いて歩むものこそが現代の文明社會の様なのだと個人的にはさう解釈して来て居る。
即ち全ての答えはすでに過去に用意されて居る。
にも関わらず社會としての認識がオカシイので其れを掬し取り己が血肉となすことが出来ぬことこそが現代社會が陥った病の正體である。
またさうしてあれもこれもとやって仕舞い結局は何が何だか分からなくなって行く訳だ。
其の様やまさに我が國に於ける大乗佛教の様ともまるで同じである。
其処でもってまず我が考えてみたことこそがまさに「限定」と云うことであった。
其の「限定」は人文的理性への限定であり回帰と云うことだ。
要するに理性的に時間を遡ると云うことである。
つまりは其れが「タイムマシン」と云うことだ。
「タイムマシン」は科学上創ることは出来ないのだがこと観念に限れば其れは可能である。
但し其処でもって其の強固なる個と社會の結び付きをあえて切断して行かねばならぬことだらう。
で、自ら率先して其れを切断してみた。
其れでも樂となった訳では實は無い。
なのではあるが様々なことが壱つに繋がりようやく事の眞相が「分かって」来た。
「分かる」とは「知る」ことであり「知る」ことこそが「分かる」ことだ。
だが世の中では相変らずかうして「分からぬ」、「分からぬ」とやって居る。
でも其れはものの見方がそもオカシイからなのだ。
其の進歩史観即ち唯物性、功利性ー現世利益性ーに大きくバイアスがかかった尺度でしかものを見られて居らぬので人間とは何か?と云うことに対する答えなどそも見つけられやしない。
さて前回よりショーペンハウアーの哲學に対するわたくしの愛慕の念を述べて来て居る。
では何故わたくしが彼ショーペンハウアーの思想を心より愛してやまぬやうになったのか?
其れを哲學的に述べればひとつの具象性への恋慕であり過去の思想に対するノスタルジアのことだ。
謂わば合理化社會への反駁であり血も涙も無い其の合理的改変に対する温かなものとしての人文知への回帰であり恋慕の様である。
さても其れは四年程前に壱冊の本を求めてみたことがきっかけだった。
其の壱冊の本により人生其のものへの見方を変えられることさえ屡あるものだ。
だがわたくしの場合其の本にてものの見方が変わった訳では無い。
何故ならわたくしのものの見方は廿代の頃からまるで変わってなど居ないからだ。
では其処では何が変わったのか?
其れを壱言で評せば其れはわたくしの観念に対する「大きな援軍」だったのである。
其れも孤立無援の其の偏屈で且つ時代と逆行するかのやうな考え方に対する大きな援軍だったのだ。
なので其の本は結果的にわたくしの心を根本よりさうして暖めても呉れたのだった。
尤も其れ以前より『存在と苦悩』こそがわたくしにとっての愛読書だった。
其の内容は概ね我が心のあり方と悉く壱致して居た。
其れも世の趨勢である考え方とは悉く反することとなる己が考えだと云うのに。
尚わたくしは『存在と苦悩』を哲學書として読んだ訳では無い。
むしろ我我實存がどう「心の平安」を得られるものかと云う観点からむしろ實用の書として其れを愛読して居たものだった。
其処から得られし結論とは「苦悩其れ自體が悟り」と云うやうなもので要するに大乗佛法で云う「煩悩即菩提」と云うやうなことに近いものであった。
つまりは其処から「苦悩と向き合う方法」をこそ學んだ訳だ。
ところが文明の価値観はあくまでそんな人間の悩みや苦しみ、さらに悲観性や消極性をむしろ躍起となり駆逐しやうとして居るが如くだ。
其処からも矢張りと言うべきか文明其のものの価値観が間違って居たんだ。
其のことに気付かせて呉れたのがまさに其の『存在と苦悩』なのでありまた哲學者としてのショーペンハウアーの思考其のものだった訳だ。
左様にショーペンハウアーの思考は世の価値観と闘い傷つき疲れ果てて居るわたくしの心にむしろ希望の灯を齎した。
希望?
さても其れの何処が希望なのか?
其れも其処でかのヘーゲルの進歩史観の反対のことばかりを述べて居るではないか!
だから彼ショーペンハウアーの天敵こそが其の大哲學者ヘーゲルだったのだ。
で、其のヘーゲルの弁証法過程こそが近現代を構成しかうして人間の世の中全体を次第に豊かにして行ったのだ。
対するショーペンハウアーが為したこととは畢竟其の世間の価値の解体であり新たな価値観の構築である。
尤も廿世紀迄の哲學は皆其のことをこそ旨として居た訳だ。
だがショーペンハウアーの哲學は壱種文學的でもあり特に心には食い入る面を持つ。
要するに「現に悩みつつある實存」に対し感性的に大きく効力を発揮しても呉れやう。
ーショーペンハウアーは楽天主義的な予定調和説を説いたゴットフリート・ライプニッツの充足理由律を発展させて、独自の主意主義的悲観主義を構築した。若い身空で華厳の滝に身を投じた藤村操もその死に臨んで記した『厳頭の観』を「大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを」と締め括っていた。ー悲観主義 - Wikipediaより
さて問題は其の所謂「悲観主義」が只の悲観論で終わるのかどうかと云う部分である。
悲観的⇔樂観的
此の弐元的概念もまたさうして分裂して居る訳なので實は其れ等は相互補完的な性質ー絶対矛盾的自己同一性ーを持つ。
故に實際にはどちらかがどちらかを否定することなど出来ずもしも其れをやったのだとしたら常に其の結論は誤りに陥る。ー所謂アンチノミーに陥ることだらうー
従って本当のところでは其の弐項対立を生じせしめるやうな相対認識其のものに誤謬が含まれて居る。
よって其の認識其れ自體がそも根本矛盾を生じさせる元凶だと云うこととなる。
でもって其の壱高生の藤村はさうして「死も亦善なり、死も亦樂観なり。」とさう考え死に急いだ訳であるがさう云うのはおそらく眞の意味での悲観主義とは異なるものなのである。
では眞の意味での悲観主義とは何か?
まさに其れがショーペンハウアーの言葉から紡ぎ出されるやうな「ー理性としてー耐えて生きる」生のあり方なのではなからうか。
其のショーペンハウアーが實はほとんど悲観的なことを語らず、むしろどう生きるかと云う点にだけ論点を絞りまさに其のことを我我に対し述べて居るばかりでのことだ。
作家の五木 寛之先生ーわたくしが好む作家のひとりのーがかって其の著作で「観念では悲観し行動では樂観して生きる」と云うやうなことを述べられて居た。
其れはけだし名言なのだと思う。
また哲學者アランの言葉として「悲観主義は気分だが、楽観主義は意思である」と云うものがある。
だがコレ、完全に間違って居ます。
正しくは、「樂観主義は気分だが、悲観主義は意思である。」
です。
其の哲學者アランとは所謂「幸福論」で有名な人ですが個人的にはダメな哲學者かと思われます。
其のダメ人間の考えの特徴としては、兎に角まず樂をしたいと云うことこそが挙げられませう。
其の樂とは便益の追求、また現世利益としての追求のことです。
しかしながら眞の意味での心の樂=平安=アタラクシアとはむしろ其の便益だの利益だのを放棄することでしか得られぬものなのです。
まさに其のことを大哲學者であるショーペンハウアーや大作家であらせられる五木 寛之先生は良く分かっておいでだったのだらう。
尤も其れを逆方向からもし捉えますとアランのやうなおかしな思考をして仕舞うこととなる。
つまりは其のアランこそが洗脳哲學者なのです。
其れも我我を洗脳してかかる近代に対する御用哲學者なのでせう。
「樂観主義は気分だが、悲観主義は意思である。」
さて此れは其のアランの思想とは逆のわたくしとしての思想の言葉です。
つまるところ其の悲観主義とは非常に理性的な立場をこそ表すものです。
対して樂観主義とは謂わば生命に備わる本能のことです。
ですが人間はよもや本能にだけ生きるべきでは無い。
人間が本能其のものを生きたらむしろ破壊を生じさせるより他は無い。
さうして近現代文明はまさに其れをやってのけた訳だ。
ですからこそ其の部分での社會の価値観を是非百八十度変えて行かねばならない。
ちなみに其の「悲観的」である筈の御二方の言葉からむしろわたくしは此れ迄に大いなる慰めを与えられて来て居ます。
其れは何故か?
其れ等が共に如何にも理性的な悲観論だからからなのです。
先生方は共に理性を最低地点から出発せられて来て居る。
要するにまずはドン底から論を組み立てられて来て居る。
故に其れが至極快適なのだ。
其れも現實に打ちひしがれもはやヘロヘロでもってボロボロな心に対し其れがまるで神の福音の如くに響いて来る訳だ。
対して其のアランの言葉はまさに文明至上主義目線からまさに本能的に説かれて居ます。
対して僕が述べたのは兎に角悲観せよ、其れももう心の奥底から悲観しでも金輪際滝へは飛び込むな。
滝へは飛び込まずに兎に角理性を磨け。
理性を磨く即ち暗く考えしかる後に明るく樂しく遊ぼうではないか。
…である。
悲観主義とはつまりは其の眞の意味での樂を得る為の理性的選択のことだ。
其れ即ち、「大いなる悲観は大いなる樂観に壱致するを」からなのでもまたある。