我が座右の思考としてのショーペンハウアーー今を生きる先哲の思想としてのショーペンハウアーー
創価学会・池田大作氏死去 巨大な「生みの親」失った公明党の今後は (msn.com)
其の宗教や政治は所謂「生身の人間」を拠り所として意思決定されるところでの「ヒエラルキー現象」であるに過ぎない。
だが「生身の人間」を拠り所として意思決定されるところでの「ヒエラルキー現象」とは實は「眞理」だとは言えない。
まさに其の「ヒエラルキー現象」の構築を「理性的」に制御することが出來ねば現存在は眞の意味での「精神の階梯」を登ることが適わぬ。
眞の意味での「精神の階梯」とは人に非ず動物に非ず亦生命に非ずでの壱種の「非道の途」となる。
即ち其れは「感情」でも「愛」でも無いのである。
即ち其れは「理性」の働き其のものなのだ。
「理性」無きところに「超剋」もまた「解脱」も無し。
「理性」は「組織」には生ぜずつまるところ組織の中に其れは無い。
だが宗教や政治はまさに其の「組織」として動く他は無し。
故に其れは結果「理性」として機能せず時を経てむしろ腐りさうしてやがては破壊されて行く。
「人ではなく、モノですから」貧困女子の切実な現実 趣里、「東京貧困女子。」主演で感じた本音 (msn.com)
東京の「生活保護」はまったく機能していない いまの日本は「階層」がはっきりしている | 貧困に喘ぐ女性の現実 | 東洋経済オンライン P.1(toyokeizai.net)
東京の「生活保護」はまったく機能していない いまの日本は「階層」がはっきりしている | 貧困に喘ぐ女性の現実 | 東洋経済オンライン P.4(toyokeizai.net)
東京の「生活保護」はまったく機能していない いまの日本は「階層」がはっきりしている | 貧困に喘ぐ女性の現実 | 東洋経済オンライン P.5(toyokeizai.net)
別に其の江戸の社會だけが惡いのでは無く大都市は皆大變大きく問題を抱えて居るのである。
さう大坂であれナゴヤであれ倫敦であれ北京であれ皆大きく問題を抱えて居るのである。
其れもまたおそらくは「ヒエラルキー現象」なのでさうならざるを得ぬのである。
おそらく人類は其の「ヒエラルキー現象」を乗り越えることが可能な程に理性的には非ず。
だから御釈迦様はもう「人間なんてやめちまえ!」とかってさう説かれたのであらう。
またイエス様の場合には「神に人間の全てを託せ!」とさう説かれたのだった。
ちなみに御釈迦様は新興宗教の教祖をまずは認められて居らぬ。
またイエス様の場合にも新興宗教の教祖をまずは認められて居らぬ。
つまり御釈迦様とイエス様以外に教祖などは金輪際居らぬ。
まずは其のことをこそしかと覚えて置かれたし。
『今を生きる思想 ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く』(梅田 孝太,アルトゥール・ショーペンハウアー):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)
さてこんな本をたまたま昨日読んだ。
其れも昼過ぎより参時間程で読み終えた。
其れは生涯に何度も無いやうな素晴らしい読書體験だった。
此の本こそがまさにそんな名著である。
まずは此の本をこそ是非御勧めして置きたい。
何故御勧めするのかと言えば其処に「人生の苦しみに對する処方箋」が書かれて居るからだ。
其のショーペンハウアーなる哲學者が「何をどう考え生きたか」と云うことが克明に其処に描かれて居る。
其のショーペンハウアーの思考こそが此処廿年來自分に取り「座右の書であり且つ思考」である。
ショーペンハウアーの名言。哲学者の言葉 | 癒しツアー (iyashitour.com)
ー幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる。ー以上より
如何にも意味深な言い方ですがさうも言えるとのことでせう。
「ショーペンハウアー」の思想と『幸福について』や名言を紹介 | TRANS.Biz (trans-suite.jp)
ショーペンハウアーが云わんとするところでの「幸福」とはあくまで精神的なー観念的なー意味での「幸福」のことであり世間的な意味での「物質的に満ち足りた状態」のことには非ず。
ショーペンハウアーは半分哲學者ですが後の半分はまさに求道的な観念論者でありよって「物質的に満ち足りた状態」のことに就き概ね否定的です。
つまりは其れが「幸福」には非ずとさう述べて居るのである。
逆に申せば「物質的に満ち足りた状態」を「幸福」な状態であるとさう勘違いすることに對しあくまで批判的なのです。
しかしながら「物質的に満ち足りた状態」を否定若しくは軽視して居る訳には非ず。
其処はまさに此の世界が半分は物質世界なので「物質的に満ち足りた状態」が「幸福」に對し役立たずであるとは元より申せません。
事實晩年のショーペンハウアーは愛犬ープードル犬ーを連れ散歩に出かけると「イギリス亭」と云う高級レストランへ寄り食事をすることが愉しみの壱つであったさうです。
ですが其の食の上での満足もまた「本質的な意味での幸福」とはなりはしない。
何故なら食欲や物欲にはまた必ずや渇望が生じよって其れが満足されることなどは有り得ないのだから故に。
逆に申せば食欲や物欲、また性欲などの言わば本能的な欲求は直接「幸福」と繋がるものでは無く言わば間接的に其れと繋がるものとならざるを得ない。
ですのでまずは其のことを「知る」必要がある。
「知る」即ち「自ら悟る」ことでしかほんたうの意味での「幸福」にはなかなか辿り着けやしない。
ー人は幸福になるために生きているというのは人間生来の迷妄である。
人生の幸福にとって自分は何者なのか、すなわちその人の身におのずから備わるものこそ、一貫して第一の最も重要なものである。
何者であるかということの方が、何を持っているかよりもはるかに我々の幸福に確実に寄与する。ー「ショーペンハウアー」の思想と『幸福について』や名言を紹介 ー『幸福論』より
要は「幸福」にならねばならないとさう強迫的に考える必要などは元より無い。
「幸福」にならねばならないとさう強迫的に現代社會は人間に教えたがるがではそも何で現代社會は人間を幸せに出來ぬ社會でしかないのか。
なのでさう云うのをまさに「矛盾」と言うのである。
「矛盾」と言うか「失敗」と云うか兎に角そんなもんである。
「其の人の身に自ずから備わるもの」が確かに皆違って居る。
だが「其の人の身に自ずから備わるもの」を己がものとして自覚し得る人間の数は常に少ないことだらう。
即ち自らが「何者であるか」と云うことをそも知らぬので其の評価を他人へと委ねて仕舞うのが大方の人間の意思決定なのだ。
だがさうして仕舞えば最後眞の意味での「幸福」は逆に遠退いて行く。
「幸福」とは左様に「他に委ねる」ものでは無く自ら掴み取るものなのだ。
ー誰もが結局は独りであり、いま独りである自分はどんな人間なのかが問題である。
自分の中に見出す楽しみの源泉が多ければ多いほどそれだけ幸福になる。ー「ショーペンハウアー」の思想と『幸福について』や名言を紹介 ー『幸福論』より
常に人間は繋がりたがるが最終的には「独り」でしかない。
即ち自分の「生老病死」を他が引き受けて呉れる訳には非ず。
其れを「神佛」が引き受ける場合はあるにせよ其れはかうして生きてあるうちの観念を引き受けて頂くのであり自分の全てを引き受けて頂く訳には無論のこといかぬ。
いざさう観念して生き抜くのであれば愉しみが多い方が良いに決まって居らう。
また其れはどんな樂しみでもまた良いのだ。ー酒池肉林以外でのー
あくまで主體的な意味での趣味であるのならば。
ー他人の思惑をあまりにも重要視し過ぎるのは世間一般を支配する迷妄である。
私たちの最大の楽しみは称賛されることだ。だから自分で自分を率直に称える境地に辿り着いた人が、もっとも幸福な人である。
人間の幸福の源泉はみずからの内面にある。「ショーペンハウアー」の思想と『幸福について』や名言を紹介 ー『幸福論』より
他とは本質的に「自我」の生み出す幻影のやうなものなのだらう。
よって「自我」とは本質的に迷妄なのだが他方で「自我」が無ければ其の「称賛」もまた「幸福」も無い。
「自我」など無いのが理想だけれども理想と現實はまた違い「他」=「社會」はむしろ余計に迷妄の度を深めるものであるので逆に自分で自分のことを褒め称えてあげる方がより罪は少なくなるのだ。
即ち我我人間の「幸福の源泉」はむしろ「自我」としての内面世界の中にしか有りはしない。
ーもっとも幸せな運命とは、精神的にも肉体的にも過大な苦痛なき人生を送ることである。
苦痛なき状態でしかも退屈でなければ、幸福を手に入れたといえるだろう。
最大級の喜びや享楽を基準にして一生の幸福を測ろうとする人は、まちがったものさしをつかんでいる。ー「ショーペンハウアー」の思想と『幸福について』や名言を紹介 ー『幸福論』より
彼ショーペンハウアーが語るところでの幸福論の要諦とはズバリこんな「消極的な幸福」の部分にこそある。
兎に角「苦痛の少ない」生涯こそが「幸福」なのである。
逆にデカい「幸福」を得やうとして頑張る奴などは其れ即ち認識のあり方其のものが狂って御座る訳で故に其れではまさか本質として幸せにはなれんのである。
故に其れは「アホ」か又は「バカ」の仕業となることです。
對して御利口な人は認識上の物差しソレ自體が違う。
つまりは「ちっこい幸福」をこそ彼は常に求め続けて居る。
うーん、やっぱし「天才」は考えて居ること其れ自體が違う。
左様に兎に角「ちっこい」ものでしか有り得ぬのが我我人類に取っての「幸福」なのです。
逆に現代社會は其れを最大限化しやうとすらして居る。
だからこそ世界がブチ壊れて行くのだが。
なのでたった今壱番大事なことは其の「最大限での人類の幸福實現」をキッパリと止め「天才」が語ったところでの「ちっこい幸福」の方へと価値観をシフトさせて行くこととならう。
ショーペンハウアーの認識では大多数の人間の認識はほぼ迷妄の域にあるとのまるで御釈迦様級の認識をして居られ要するにほぼ此の世に於ける人間の認識が間違ったものであるとさう結論付けて居るのです。
此の世に於ける人間の認識が間違ったものであるからこそ彼ショーペンハウアーは所謂宗教的な世界観に對し最大限の敬意を払っても居る訳だ。
さてそんな先哲としてのショーペンハウアーによる認識は現代に於いてほぼカルトチックなものとならざるを得ぬ。
ショーペンハウアーの論敵であったヘーゲルの考えにより近代世界は進歩壱筋となり兎に角何でもがシンポ、シンポです。
ですがショーペンハウアーからすれば其れはあくまで倒錯の世界観であり間違った思想其のものでしか無い。
よってヘーゲルの思想を壱掃したくさうアノ世で乞い願っても居ることでせう。
ちなみにショーペンハウアーが解脱に成功し御釈迦様と共に今浄樂世界に居るのかどうかは分かりません。
分かりませんがショーペンハウアーは欧羅巴人としてはおそらく最高位の佛弟子です。
兎に角彼の他にはこんな佛教だの印度哲學だのが分かる奴などは居ませんことでせう。
其れでもって本の話に戻ればショーペンハウアーの厭世主義は現在の如き厳しくも生きにくい時代にむしろピッタリと合うのでした。
逆にたった今ヤル気壱辺倒での樂観論はバカにしか見えぬ訳です。
で實際に其れは確かに「馬鹿」なんです。
しかも「大馬鹿」です。
つまるところ最も大事なこととは「認識」のあり方であり且つ「価値観」の持ち方なのだ。
其の「認識」のあり方であり且つ「価値観」の持ち方が狂えば現象界の全ては狂うと云っても過言では無い。
じゃあショーペンハウアーと其の似た者同士のアナタの認識以外は全てが間違いなのですか?
まあさう云うことにもなりませうね。
ではもっともっと詳しくソコんトコを是非述べよ。
いや寒いし眠いし哲學どころじゃ無い。
アンタ果たして何をしてんですか?
いや何せストーヴが無いので…。
ストーヴが無い?
ストーヴが無いこと程思考に取り宜しいことは無い筈だ。
いえさうでも無いよ、寒いとこんなに脳味噌が縮むのだ。
うーんさうか、其れは飯を食わんと頭が働かんのと同じ理屈ですね。
ですが分かりました、ではやりませう、是非にも。
壱體何を?
いえ其のショーペンハウアー特集を。
其れも師走にやりませう。
たった今やれ!!
今はやらん。
今は兎に角ある余韻に浸って居ます、そんな優れたショーペンハウアーの解説書を読めたことへのよろこびの中に自分の心はズッポリと嵌まって居る。
1.此の本は潰れた「七五書店」で確か弐年程前に求めたもの
「上智大学」と言えば確かにアナタはつい先日其れと對話されましたね?
いや「上智」と言うからにはよっぽど「上の智」なんだらうから相手に不足は無くひとつやっつけたらうかとさう思いましたのですが流石に「上智」なのでつい話にのめり込み批判には至りませなんだ。
でも不思議なことがあるものですね。
まさにさうしたものが「シンクロニシティ」と呼ばれる偶然の壱致のことで何故か學問の世界では結構高率で引き起こされることです。
でも其の本を何故読まなかったのか?
いえ本屋のカヴァーが付いて居てどんな本か分かりませんでしたのです。
でもってカヴァーを捲ってビックリ!
其れがまた凄いショーペンハウアーの顔が付いて居るのです、まさに其の本には。
其れがこんな顔です。
まさにコレぞ眞理を見据えるであらう顔でせう。
即ち世の中に「眞理」などは無くもしも其れが有るとすれば彼ショーペンハウアーのこんな顔付きの中にしか其れは無いことだらう。
※資料