6.ショーペンハウアー自分を救う幸福論より學ぶ 3
価値認識に於ける壱種の思い込みが破壊を呼び込みむしろ世界を崩壊へと導いて行くことでせう。
わたくしの場合は其の崩壊を何とか食い止めやうとして居る訳ですが社會的自我の範囲では其れはもはや無理ですので個個人に於ける認識上の転換を促す為に且つまさに自分を救うべく認識上の誤謬に就き語り出したところです。
例えば此の世の中には右翼と左翼と云う政治的イデオロギーの上での立場の違いがありますが僕が其れを此れ迄に學んで来た限りに於いてはどちらがどう正しいとは理性的にむしろ規定出来ぬものです。
要するに其の右だの左だのと云う抽象的な立場に拘って居るうちはむしろ妄想して居ると云うことに等しいことだらう理性的段階にある。
右⇔左
とのことですので本来ならば自己に於ける認識を最大限に拡張し實は双方を認められるやうにならなければならない。
理性とは元来観念のことですので具象性、具體性は放棄出来るが故に少なくとも其れを成り立たせるべくさう努力すべきなのだらう。
ですがいざ其れをやりますともう何が何だか分からなくもなって参りませう。
要するに其れは以下でのやうな論理によるものです。
観念的完全性→具象的領域ー行為ーの喪失
観念的不完全性→具象的領域ー行為ーの拡大
さうして考える方が完璧に近くなればなる程に行動力や具象的體験に欠けて来るものと相場は決まって居る。
逆に考えない即ちおバカでもって何でもやっちまいますと無思慮な行動や犯罪へと引き寄せられたりも致しませう。
で、前者はインテリさん方の典型的な資質となります。
また後者は凡人の典型的な資質でせう。
前者の場合が悪い訳では無いのだがイザソコに嵌り込むとイキナリ後者へと突っ込みすぐに滝から飛び降りたり火を点けたり人を刺したりする虞が多分にあると云うことなのだ。
逆に後者の場合はまさに衆愚政治を成立させたりまたスマフォ病となり其れを視ながら歩き地下鉄のホームから落ち電車に轢かれて死んだりもまた致しませう。
故にむしろ救われ難いのは後者のおバカさなのですが其処でひとつだけ彼等が優位なのは洗脳状態にてまるで夢遊病者の如くに考えずに生きて居るものですからそも悩みが無い=考えずとも良い、と云うこととなりませう。
即ち彼にとってはむしろ其の「洗脳された状態で居ること」自體がひとつの信仰であり生の目的なんです。
さて其の「洗脳」と云うのは自ら考えず周りにばかり思考の軸足を置いて居れば必然としてさうなります。
典型的な例がかのナチス・ドイツや我が國のファッショ政権に於ける「洗脳」であったことでせう。
さらに言えば戦後民主主義其れ自體が其の「洗脳」でありまた天皇制にせよ共産主義革命にせよ全てが其の社會的洗脳です。
対するアナキズム又は「放棄の思想」と云うのはまさに其の社會的洗脳の部分を個人的にカットして仕舞うと云う立場であり究極的には其れは「僕は個としての理性」をのみ生きて行きたいのです、と云うある意味では超近代的な、且つ究極的に身勝手な立場を標榜するものとなるのです。
アナキズムは國を破壊する悪い思想だとさう思われて居るのやもしれぬのだがこと理性的には明らかに整って居り逆に個と云う實存にとっての至極潔癖な思想です。
ですがアナキズムもまた可成に観念的理想に傾いた考え方であり其れが正しいのかどうかを現時点で決め付けることなどは無論のこと出来ない。
では壱體何を信仰すれば良いのですか?と云う御話となる訳ですが最終的にはむしろ其の観念的な拘り、観念的な信仰の対象としてのイデオロギーにソコまでの信を寄せるなと云うのが僕の結論です。
だからむしろ其れは信じるやうなことでは無い。
要するにデカい問題や課題には煩わされぬ自我を生きて行くことの方がより建設的な生き方でせう。
と申しますのもわたくしは長年に亘りむしろデカい問題や課題ばかりに観念的に振り回されて来た。
但しデカい問題や課題ばかりに観念的に振り回されること即ち洗脳を解き自ら考えることで必然的にさうなって仕舞った訳だ。
ですが其のことにより個としての實存的価値が増す訳では無くむしろ其れが消耗して行く訳だ。
其の状態を長く続けて居れば居る程にわたくしの精神の安定は損なわれむしろ疲弊して行く訳だ。
ですのでバランスを取る為にわたくしは先人の智恵に學ぶことを選びましたのです。
つまりは大問題をむしろ過去へと飛ばしてやることで其の破壊としての未来の重圧から逃げやうとして居るのです。
元より其れは科学的な立場ではありません。
ですが人文の世界にかうして生きて来た我に取り其れ以外の方法など見出せなかった。
つまるところはまさに其れがわたくしにとってのタイムマシンでした。
我我は其のタイムマシンに乗り過去へと遡り其処にて其の事實としての歴史を是非學ぶべきだ。
ところがかのショーペンハウアーは過去を振りむく奴は馬鹿で未来を見据える奴こそが利口だ、位のことを實は述べて居ります。
ですが其れはオカシイのではないかとさう思いますのです。
尤もショーペンハウアーもまた完全なる知性では無くよっておそらくは解脱出来ずいまだ霊として何処かを彷徨って居るのやもしれません。
だが他のところでは95点位に其の認識は正しいので僕はかうしてショーペンハウアーを信じるやうになったと云う訳です。
さうしていつも95点も取れれば東大以上の認識力なのだと個人的にはさう思いますね。
001 幸福は、自己に満足する人のものであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
まずは其の「幸福」とは何か?と云うことですがショーペンハウアーは其れがあくまで「自己に満足する人のもの」だとさうハッキリと述べて居る。
つまるところ其れは外面的評価では無く内面的評価によるもののことだ。
で、我は今自己満足することだけは人には負けないつもりです。
なので僕は至って幸福者なのだ。
尤も外面的には薄氷を踏むが如くに極めて危ない幸せなのですがね。
「幸福は、自己に満足する人のものである。」
尚實はコレがかのアリストテレスの言葉ださうです。
ですので其の考えを彼ショーペンハウアーもまた支持すると云うことなのだらう。
002 幸福とは、自分の特技や好きな仕事がやれることであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
と云うことは結局自己が自己の特性を発揮出来て居るかと云うことが問題なのです。
つまりはあくまで自分をやれるか否かと云った問題なのだ。
また其れは仕事に限らず例えば趣味でもまた良いのだと思われる。
何故なら好きなことは樂しくイヤなことは辛い、其れはまさに当たり前のことなのだから。
003 自分が今持っている以上のものを望むなーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
また其れも当たり前のことです。
何故なら持っている以上のものは常に外部にしか無い。
ですが確實に持って居るものはむしろ内部にしか無い。
004 人生で価値のあるものは人としてのあり方であるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
1.人のあり方
2.人の所有するもの
3.他人の思惑
此処でショーペンハウアーは1.が最も重要だと述べて居ます。
其れは気質また知性のあり方などから醸し出される人格としての實存的価値のことなのだらう。
また世間では2.及び3.ばかりを求めがちだが其れは誤りだとも述べて居る。
實際に世間では何時まで経っても2.及び3.が重視されがちですがたとえ2.及び3.が低評価であれ1.を確立出来れば其の人こそがまさに幸せ者でせう。
005 健康や心の朗らかさこそが一番価値があるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
即ち其の1.に属する健康や明朗さによる価値の方が財産や地位や名誉即ち社會的に与えられる価値よりもより大事である。
意外なことにかうして悲観的哲學者であるショーペンハウアーは如何にも御尤もなことを述べて居ります。
006 他人の思惑に重きを置くのは間違いであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
他人の思惑を目標として生きるのは虚栄心のなせる業で其れは生まれ付きの病気のやうなものだとも述べて居る。
また理性的に考えれば虚栄心は現在の五拾分の壱しか必要が無いのださうな。
其の虚栄心が齎す価値の愚かさから脱する為にまずは其れを愚かなことであると認識せよとも。
007 社会的地位や名誉に対する要求は最小限に下げよーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
ちなみに僕にはさう仰ることが良く分かる。
どだい成功だの金だの地位だのそんなものを求めて幸福になどなれる筈が無い、
むしろ其の線を最小限に下げてこそ内面的充實はしかと図られやう。
また価値の有る無しをさうした外面的思惑に向けた生き方こそが惨めな生き方だとも述べて居る。
要するに彼ショーペンハウアーは所謂世間的に構築される前向きな価値ヒエラルキー其れ自體をむしろ否定して居ます。
だとすれば有名進学校から東大医学部へ入り偉い医者になるなんてのも別に本人さんにとってはどーでも良いことなのだが…。
008 一番大事なものは、自分自身の人柄・人格だーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
其の人柄・人格は神が与えて呉れるもので生涯不変なのださうです。
其の人柄・人格をこそ最大限に活用せよとも。
と云うことはもしもおバカに生まれたにせよ其のおバカなりに頑張った人はまさに偉い人なのでせう。
また自分に合った生き方を選べば良いとも述べて居る。
で、僕はどうもショーペンハウアーの考え方とは壱致することが多いのでかうした言葉がまさに素直に了解されるのだ。
009 自分に起こる出来事を面白がる賢さを持てーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
でも僕には此のことが出来ない。
自分に起こる出来事はむしろ悲惨なことばかりだと今でもさう思うのだ。
だが賢い人は凡人にとり面白く無いことを面白がると云った件は理解することが出来る。
まさに僕自身がさうなのだから。
012 幸福は、苦痛と退屈がなければ達成されるものであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
其の苦痛と退屈の無いことにより達成される幸福こそが本物の幸福であり其れ以外から齎される幸福は幻想だともまた述べて居る。
貧乏は其の苦痛を増幅させ逆に金持ちで且つ知性を欠くことは其の退屈を増大させて行くことだらう。
また精神的に得る激しい喜びや大きな快楽は苦痛と退屈が無いことに勝るところが無いさうである。
尚僕はまさに其の考え方より精神のアタラクシアを求めやうとしたのであったが概ね其れは無理なことでもあったやうだ。
013 幸福とは、障害と闘って勝つことであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
其の障碍と云うものにはマイナスの面とプラスの面の双方とが考えられやう。
但し幸福の価値基準を何処に置くかにより其の+と-は正反対の意味を持つこととなる。
世俗的な意味で成就される幸福=主に物質的な面で恵まれること⇔精神的に成就される幸福=自己の価値を確立させ其れを生きること
とのことで、概ね世間に於ける価値観とはまさに物質的な充足でありつまりは其の虚栄心や感覚上の満足のことだ。
だが精神の階梯を歩む者に取り其のやうな幸福は虚の価値でありむしろ眞の幸福へ至る為の道を閉ざす価値其のもののことだ。
故に其の世間での幸福の価値観即ち幸福の定義其のものがより潔癖な人人にとっては障碍其のものとなる。
逆に世俗的な価値観に逆らい構築されるある種の聖なる価値観こそが世間にとっての障碍其のものとなる。
だから何に対し闘いを挑みまた何に対して勝利するのかと云うことが個が寄って立つ立場の違いによりまるで正反対のものとなる。
世間ー社會ーに於ける認識上の誤りとはまさに其の違いがまるで分かって居ないと云う面にこそ存して居らう。
即ちみんなが東大へ行き且つ高給取りとなり揚句に脳減る賞でも取れば其れがサイコーの幸せだとさう思っても居やうが其れは誤りだ。
だから僕などは今の侭で充分である。
第壱こんなに知性にも恵まれ且つ教養はもうはちきれんばかりなものだから此れ以上を精神的にもはや何も望み得ない。
但し周りの認識のあり方に就いては其れを認めては居ない。
要するに世間の認識がどうもオカシイ、変だとさう幼稚園児の頃より思って来た。
だから今まさに其れに就き述べて居るわたくしは世界壱の幸せ者である。
可能性としては世界壱の阿呆なのやもしれぬがそんな阿呆の侭死ねれば其れ以上に有難いこともまた無い。
015 自分の力でどうにもできないことは当てにするなーショーペンハウアー自分を救う幸福論より
ストア派の哲學者であるエピクテトスは人間が個として出来ることと出来ないことを区別したさうだ。
さうして個の力として左右出来ぬ問題に対し当てにしないこととしたさうである。ーまた其れに対しショーペンハウアーも同調して居るかのやうだー
故に究極的にはコロナ禍も東南海地震もまた富士山の大噴火もさらに地球温暖化も我我個に取りどうにか出来る問題なのでは無い。
要するに大問題にて心が搔き乱されて居ては己が認識を正すと云う大事な作業の前に其の種の社會問題に飲み込まれて仕舞う。
だから其れはまた別。
其れは人間の社會の問題であり我我壱人壱人の重要な心の課題には非ず。
我我壱人壱人の重要な心の課題とは其の種の社會の認識上の課題と自己の認識上の課題を分けて捉えまずは自己の認識上の課題に就き學びまさに認識を正して行くことだらう。
其の認識上の誤りとは世間と密に繋がった上で其れがまさに自己の認識其のものであるかのやうに其れを受け容れて仕舞うことだ。
ショーペンハウアーはそんな常識的なものの見方に対し其れが「誤りだ」とさうハッキリ述べて居る。
故に人間が個として富や家や國家の存続、さらなる文明の発展を乞い願うことなどは其の人間の幸福とは全く関係の無いまさに抽象的な社會の欲望の追求としての所産であることはほぼ確かなことなのだ。
逆に其の種の倒錯せし価値観よりどう人間を解放して行くかと云うことこそが彼ショーペンハウアーがかって述べたところでの認識論上の救いなのではなからうか。
さうして認識を違え歩む道を間違えれば早晩文明は火の玉と化し煩悩と罪とが織り成す地獄の底へと堕ちて行く筈だ。
だからさうはならんが為にショーペンハウアーは世間に対し認識上の誤りを教えてあげたのであり従って彼程人類に取り偉大なる教師は他に居らぬ。
まあカントもまた其の偉大なる人類の教師ではある。
だから先生方の言われることは此の際素直に聞いて置きませう。