1.ショーペンハウアーを學ぶ前に言って置くこと
哲学言葉「神は細部に宿る」の意味とは?細部に神は宿るの英語訳や類語も | BELCY
さても此の世での価値観をまずは逐壱疑って置く方が良いことだらう。
何故なら今此の世界はアンバランスに満ちた悪い世の中=社會となって居るからだ。
無論のこと其れは人間の持つ価値観が偏って居るが故にさうなって居る筈だ。
ところが人間界は人間界を批判する力には元元欠けて居やう。
まさに其れこそが利己的に成就される欲望の典型的な成り立ちである。
例えば「愛」と言えばかのキリスト教なのでは無いが良いことのやうに思われ易い。
だがキリスト教が認めて居るのはむしろアガペーであり世俗の色欲、生の保存欲などでは無い筈である。
また佛陀はより理性的であったのか、其の愛をも弐重否定し其の利己的な欲望其れ自體を全否定しやうとした。
愛⇔非愛
「愛」には必然的に其の「愛では無いもの」が含まれて行かざるを得ない。
まさに其れは憎しみであり殺意であり破壊への衝動ですらある。
故に釈迦は其の相対概念其のものを逐次否定して行く。
其れは其の相対認識其れ自體の否定であり根本的放棄である。
他方でキリスト教は愛を否定する道を選ばず其の愛を昇華するー高めるー道をこそ選んだ。
愛⇔愛では無いもの
の対立は最終的に其のやうに神と👿との対立其のものだ。
但し佛陀の教えの中に其の対立が顕在化して居る訳では無い。
厳密には佛陀の教えは無神論でありしかも内部から自分でもって自己の認識を変えて行くことなのだ。
佛陀の教えの中には其の意味での超越者などは何処にも居ない。
勿論其の佛陀其れ自體が超越者なのだがあくまで其れは自己の内部に宿る超越者なのだ。
今此の世界はアンバランスに満ちた悪い世の中=社會となって居ることは、まずは其の「愛」の無理解より生じて来て居るものと見ても良いことだらう。
其れも其のキリスト教的な意味でのアガペーに対する無理解である。
何故なら神の愛が普遍化されたものであるのならば当然に其の愛の影響力は細部にも宿る筈だ。
但し東洋の神神もまた細部にこそ宿る。
即ち神とは大なるものであると同時に小なるものでもあり得る訳だ。
大⇔小
此の両極を行ったり来たりするものがまさに神の御業なのであらう。
但し其れではあくまで他力救済となりついには自力救済出来ぬので釈迦は其の対立的認識の両極否定を行った訳だ。
釈迦は其のやうに人間の認識の誤謬をむしろ普遍的に正さうとした。
対してキリストは人間の認識の誤謬を神の愛の次元へと棚上げしー其れを打ち消すことでー矢張り普遍的に正さうとした。
で、結果的には共に悪=👿と闘って居ることとなるのである。
尚、神はまだしも抽象的な意味で「生きる存在」なのだが佛はどんな意味でも「生きる存在」なのでは無い。
其れ即ち佛とは永遠の生との決別のことであり神とは永遠の生との格闘の保証のことである。
永遠の生との決別=慈愛⇔永遠の生との格闘の保証=愛
愛とは闘争の意でもまたある。
何故なら愛は憎しみと対になり生ずるものでしか無いが故に。
故に👪愛や共同體、また國家への愛は半分は戦争や破壊などと云う過酷な面を孕んで居るものとして見て置く方が良い。
尤も其れがリスキーなものであることが分かる者は其処には比重を置かず其れこそ神の次元へと其の愛を高めやうとし教會などへも頻繁に通うやうになる訳だ。
だが大多数の者は👪愛や共同體、また國家への愛こそが大きくて良い愛だとさう信じて御座る。
でもわたくしは其の大の愛への執着こそが謂わば社會的に齎される洗脳なのだとさう感じて来ても居る。
最終的にはキリスト者であるのならば其の愛の洗脳を打ち消し眞の意味で大きな神の愛へと至るべきなのだらう。
佛教徒であるのならば其の愛の洗脳を打ち消し眞の意味で己を利己愛の軛から解放すべきである。
尚、慈愛とは生きとし生けるものを慈しむことであらうが其の言い方がむしろ誤解を招いて居るものとわたくしは見て居る。
慈愛とはさうして訳も分からずに只本能ー煩悩ーにより生かされて居る状態への理性的な憐憫の情のことをこそ言う。
つまるところ佛教では生きて居ることが必ずしも良いことでは無くむしろ悪いことー迷いーと認識されて居る訳だ。
ところが大乗佛教は其の根本の部分を現世利益追求性にて誤魔化して居り故に我我大乗佛教徒が願うこととは其の生からの己の抹消どころかより良く此の世にまた生まれ出て来たいと云う思いの成就である。
だが其れはむしろ他力救済として壱元化して行く精神の流れのことであらう。
他力救済はさうして最終的に其の超越者との壱元化を乞い願い歩むものだ。
大⇔小
美⇔醜
高級⇔低級
神及び佛に於けるー本来のー認識論では弐要素をしかと見ねばならぬと云うのに近代社會は左側ばかりを追い求めて行く。
より進歩しより大きくまたより欲望の要請に対し豊かであることこそがつまりはより便利で合理的に欲望を成就して行くことこそが近現代社會の目的である。
ところが先にも述べたやうに、神は細部に宿ると云う意味に於いて其れは大きさを超越する存在である。
またより正確には美醜さえをも超越する。
さらに神は低級なものをも等しく愛する。
其れは佛がらい病病みなどの悲惨なる病気に罹った人を差別したりせぬことと全く同じである。
また佛にも大きさや小ささ、出来や不出来、さらに利口か馬鹿かと云った分別的認識がそも無い。
つまるところは其の神と佛のみが其の分別的認識ー迷いとしての認識ーを離れ我我生命とはまた別箇の価値を其処に生じさせて居る訳だ。ー分け隔て無く愛し分け隔てなく憐れむー
我我人間は確かに生命の中では最も進んだ認識能力を持つ。
我我は文明に於いて主に幸福を生きることを主眼ー目的ーとなしつつ其れに対し邁進して来た。
だが確信を持って其れをやって居たところ何故か神佛に於ける認識とはかけ離れたものとなって仕舞ったのは其れは壱體如何なる理由によるものなのか?
なので其れはそも其の確信其のものが間違って居た可能性が高いのではないか。
かうしてみんなでもってより良い明日を目指せば必ずや文明はまた生活はより良くなる。
第壱其れはイエス様やお釈迦様がさう述べて居られたことだらう。
いーや、イエス様やお釈迦様はかって其のやうなことを述べられたことなどは金輪際無い。
第壱教會や御寺にでも出向いてみ給え。
教會も御寺もちゃんとさうして生の両面を見詰めて居るではないか!
だからイエス様やお釈迦様は幸福のことばかりを其れも物質的幸福のことばかりを述べられて居たのでは無くむしろ精神の苦難の道、まさに其の心の艱難辛苦の道のことに就きしかと述べて居られやう。
すると現代社會が今オカシイのはイエス様やお釈迦様の教えを反故にして勝手にみんなで赤信号を突き進んで居るからなのですか?
まさに其の通り。
其れも政治家も教師もまた識者も誰もかれもがさうしてイエス様やお釈迦様の教えを反故にして勝手にみんなで赤信号を突き進んで居るのだ。
ああー怖い!
もうダメだ、絶望だ、此の人類のやり方こそがすでにドツボに嵌って居ることだらう。
ようやく気付いたのか。
其れにつけても気付くのがちと遅過ぎる。
だから其処でもってひとつよーく考えて見やう。
ほんたうに此の文明のやって居ることはまともなことなのかと云うことをしかと考えてみねばなるまい。
…まともだとは言い切れない部分がある、確かに。
だったら其れがまずは君の理性が気付いた疑問点である訳だ。
であればむしろ其処から価値の逆ヒエラルキー化をしてみよ。
其の正の価値ヒエラルキーに対する眞逆の価値をあえて生きてみるのだ。
でもさうなると非國民となりまた浮浪者ともなりかねずさらに思想犯として牢屋に入れられて仕舞いさうですが果たして其れでも良いのでせうか?
別にまるで構いません。
何故なら君の心にはイエス様やお釈迦様の教えがさうしてしかと息づいても居やうから。
常識⇔非常識
其れ即ちイエス様やお釈迦様の教えとはむしろ世間の価値観ー世俗としての価値観ーに逆行する非常識な教えであることがほとんどなのだ。
では常識とは何か?
今此処で其の内容を具體的に列挙してみよ。
其れはまずより金持ちになりより豊かになりさらにより多くを知り人間としての格を上げて行くことだ。
其れ見よ、其の価値観の全てが間違って居るぞ。
正しくはより貧乏になり即ちより心を磨き鍛えまた余分な學を捨て去り人間としての格をむしろ下げて行くことだらう。
其のやうに心根より謙虚になることで初めて見えて来るものがありまさに其れが神佛の世界ぞ。
第壱人間としての格を上げると人の哀しみに無頓着となるものだ。
また金を持ち過ぎても心は次第に悪の方へと傾いて行き易い。
さらに知識を持ち過ぎると結局は周りをバカにし人の哀しみに無頓着となる。
だからそも君の其の近代的に洗脳された価値観こそが全て誤りなのだ。
だったらどうすれば良いのですか?
まさかアンタの言うやうに社會としての価値観を切り捨て唯我独尊でもって生きて行くとすればむしろ死ぬのではないか?
いや個としては死ぬにせよ其の悪い社會の影響はすでに捨て去って居るが故にむしろ身軽ですよ。
身軽即ち樂だからむしろコチラの方でこそ長生きが出来るのだよ。
さうかなあ、どうも信用がならない。
其れは全てが螽斯詩人の逃げの言葉だとしか思えないのでありますが…。
大⇔小
美⇔醜
高級⇔低級
其の認識として、
大>小且つ大<小、
美>醜且つ美<醜、
高>低且つ高<低
と云う価値の絶対化は宜しく無い=間違って居る訳だ。
正しくは相対価値は相対的にのみ規定し得るものなのだから。
故にむしろ其処に絶対的価値ヒエラルキーを築くこと自體が危険極まり無いことなのだ。
対して神佛による価値ヒエラルキーはむしろ其の観念的上下関係を粉砕するものだ。
さう神の愛と佛の慈悲こそが其の観念的上下関係を粉砕し得るのである。
神の愛と佛の慈悲はあくまで与えられるものでありさうして人間が妄想するものには非ず。
すると近代とは人間ー文明ーの妄想により観念的上下関係を設定し突き進む壱種の自滅行為のことなのですか?
まあ最初からさうだとさう述べて来た筈です。
文明の誤り=問題とは須らく認識上の誤謬のことであり其れぞまさに其の妄想的社會的自我が成し遂げるもののことだ。
であるからこそ認識上の誤りをまずは正して置かねばなりません。
では神佛を信じることで其れを為し遂げることが出来るのですか?
神佛を信じることこそがおそらくは最善の選択となりませう。
ですが現代人はすでに其の選択を選び得なくもなって来て居る。
要するに其の妄想的社會的自我による洗脳の度が酷くもはや戻れない心理的状況へ陥って居ることだらう可能性が高くある。
ではどうするのですか?
どうしたらみんなはまともに戻れるのですか?
いや誰も自分がまともで無いなどとは思っては居ません。
逆にこんな理窟詩人の言うことを戯言だと思いつつみんなは此処を読んで居るのです。
つまり僕の方の頭がオカシイのだとさう決め付けて居るのです。
さてもところで君は誰ですか?
僕はみんなで壱緒に赤信号を渡る常識人ですが其れも結局は理窟詩人さんの片割れのやうなものです。
いやー、君みたいな変な常識的な考えがこんなに精神的に潔癖な僕にもあったとはまた驚きですね。
ではどうするのですか?
どうしたらみんなはまともに戻れるのですか?
ですからまさに其れをこれから此処にて考えて行かねばなりません。
すると其の価値観の問題とは必然として社會的な課題となるが故に藝術の守備範囲では無くして結局は哲學及び宗教の上での模索となって行かざるを得ない。
其の壱環としてまずはショーペンハウアーの認識論と申しますか金言集の方から考えて行ってみやう。
尤も其れは難しい哲學的な談義なのでは無くショーペンハウアーの考え方が平易に述べられたものです。
平易に述べられては居るのですが其処で言われて居ることはまさに思い切り屈折して居ります。
と申しますのもショーペンハウアーはあくまで所謂常識人ではありませんのです。
其のショーペンハウアーは西洋人の癖に当時印度思想などまで學んだまさに変わり種の學者でした。
ショーペンハウアーの思想は大元で佛教思想に似て居り事實彼は佛陀の思想を最大限に褒め上げても居ります。
故にか彼ショーペンハウアーの思想はかって我が國の作家や思想家に大きな影響を与えたともされて居ます。
では私が何故ショーペンハウアーの書を座右に置くことになったのか?
まさに其れは他人の認識が自らとはまるで違うことーむしろ正反対であることーに対し長年に亘り悩み切って居たからなのです。
其の認識上の齟齬に関して「かうした認識の仕方は誤って居る」とさう彼は逐壱指摘し世間ーの所謂常識的なものの見方ーをやりこめて居ることに感動をさえ覚えました。
謂わば周りの見解こそが誤って居り自らのものの見方の方が正しかったと云うことをむしろ彼だけが述べて居て呉れたからなのです。
ショーペンハウアーはさうして常識的な認識をむしろしない人ですが其処に滅茶苦茶を述べて居る訳では無くあくまで今や大哲學者として世に認められた先哲です。
其れも当初彼の哲學は理解されず其れでもってヘーゲルの進歩哲學には負け何処かで隠棲しつつ考えて居たやうですが其処で書いた金言集が世に迎えられやがては其の哲學も知れ渡るやうになりました。
彼ショーペンハウアーは見栄だの虚飾だのを好むことであらう女性的感性をこっぴどく批判して居るが故に屡「👩の敵」であるなどともされて居ります。
要するにかの光源氏だの何処ぞの白馬の王子様だのに群がるバカ🚺共をバッサリと斬りそんなものは馬鹿の最たるものだ、位に罵って居ります。
其れはまるでアノ韓流ドラマだのジャニーズだのに群がるバカ👩の素の姿其のものでは御座りませぬか。
いや其ればかりでは無く松平 健や沢田 研二に群がるバカ婆さんの素の姿其のものでは御座りませぬか。
さう云うものでは無く本来ならばショーペンハウアーを愛しさうして慈しむことこそが眞の意味での知性的な女性の嗜みであることでせう。
ちなみに僕は其の知性的な🚺が實は大好き♡なのです。
つまりは其の知性的なメガネ👩の頭の中を逆に否定する即ちどうしたって其の知性では僕には敵いはしないことをズバリと指摘し其の知性的自信を打ち砕くことに限りない喜びを感じて居る者なのだ。
まあ其れでももしも僕が負けるやうでしたら我は喜んで其の知性👩の奴隷になっても宜しゅう御座る。
もしもさうでしたら實際僕は何でもやります。
掃除洗濯お買い物からペットまでもう何でもやらせて頂きます。
ですが事實上僕は自分より頭が良い👩を此れ迄に見たことが無い。
其れも男性の場合は何度も負かされて来ては居りますが女性の場合にはついぞ其れは無かったと云うことなのですが…。