目覚めよ!

文明批判と心の探求と

其のインテリジェンスとしての彼の過失とは?-東大前での通り魔事件に思う事-

5.東大前での通り魔事件に思う事

 

 

 

 

さても彼の如きインテリ靑年が今回此のやうな愚挙に至りしことはまさに我我教師の責任でありまたPTAや日教祖ひいては文部科学省の指導の至らぬところでありよって其れに関わる全ての人人がまずは床屋へ行き丸坊主にして来ることこそが大事だ。

まずは其れこそが教育を担う側の反省たる部分の實質面であらう。

 

で、医学部へ其れも東大の医学部を受験しやうとして居た其の有名進学校の彼に対し本日は是非わたくしが指導することとしてみたい。

わたくしはかって其の私立の有名進学校にかって通い結局頭が狂って六拾位で死んだ人のことを實は知っておる。

 

なので別に頭が良過ぎて頭が狂うことを非難して居るのでは無く彼が理性と云うものに就き完全なる勘違いをして居ることに対し指導をさせて頂くのである。

さて元元頭の良い人程さうして狂気へと傾いて行き易い訳だ。

 

 

頭の良い人もさうだが感度の高い人人などもまた其の狂気へと傾いて行き易い。

だから僕なども結構危ないのでなるべく下らぬことなどにも頭を突っ込むやうにし且つヘラヘラと笑って生きるやうにも實は心掛けておる。

 

尤も僕の場合はソコまで高偏差値なのでは無く要するに藝術家並に感度が高くまさに其のことにより拾代の頃よりずっと苦しめられて来たのだった。

だが彼の場合は何せ東大の医学部を受験しやうとして居た訳なので其のインテリ度故の悩み方はほとんど日本壱だったのであらう。

 

でも僕に言わせると彼の理性の使い方其のものがまさに理性的では無い。

人類の理性に対する教師であるカントやショーペンハウアーにせよもしも今生きて居るならばまずは其のことを指摘することであらう。

 

では理性とは何であるかと云うことであるが、畢竟理性とは其の理性其のものに対する信仰のことである。

さうして其の信仰とはあくまで抽象的に成就されるべきものでありまさか行動に移されるやうなものであっては決してならない。

 

 

即ち理性とはあくまで観念的態度のことなのであり故に人を包丁で刺したりまた何処かに火を点けることなどとはむしろ正反対の次元でのことなのだ。

故にすでに彼は其の理性への信仰其のものを欠いて居る。

 

また其れが或いは狂気により破壊されたのやもしれぬ。

 

であれば是非追求されねばならぬのは其の彼の陥りし狂気の部分なのであらう。

但し狂気もまた理性的な弱さから生ずることをインテリさん方はしかと知って置かねばならない。

 

其のやうに理性とは常に強靭なものでなくてはならない。

では強靭とは何か、たとえ拾年かからうが東大の医学部へ入ることかと言えば其れはさうでは無い。

 

理性とは多様な考え方の方向性を同時に頭の中に浮かべて置くやうにして行くことだ。

どだい学校での御勉強と眞の意味での御勉強とはむしろ正反対なことなのだ。

 

偏差値教育⇔自ら行う學び

 

 

實はコレがそも価値観として正反対となり対立して居る。

さうして本来の意味ではむしろ其の両方をやらねばほんたうのお利口さんにはなれない。

 

其の自ら學ぶ御勉強にも色んなやり方があるのだが例えば藝術家や宗教家の方方は別に試験問題がスラスラと解ける訳では無いのだが眞理に対しては常に高偏差値を維持しても居られやう。

また其れは要するに知識と知恵はまた別物だと云うことなのでもあらう。

 

だが知識は役立つこともまた多い。

幼児の如くに知識が無いと其処に藝術や宗教を成り立たせることなどは無論のこと不可能なのだ。

 

ズバリ言って其の名古屋の有名進学校の弐年生の彼は其の自らの學びへの契機をまさに理性的に閉ざして仕舞った。

なのでまずは其れが理性にとり許されざる反逆其のものなのだ。

 

 

故にわたくしは彼の其の獣性に対し苦言を呈して居るのであり彼が犯罪としての構成要件に該当するやうなことを為したことに対しどうかう言う積もりは無いのである。

其のやうに恵まれた知性を生きる彼が何故己が理性を信じ自ら行動を抑制しなかったのか?

 

だから其れは最終的には彼の狂気がさうさせた業なのだ。

でもって彼の行為が法的には問えなくなる可能性すらもがまたあらう。

 

だが理性への罪は其処に消え去ることが無い。

理性を生きることとはさうした壱種厳しい荊の道を自ら選んで生きることに他ならぬ訳だ。

 

 

故に彼は東大医学部と云う偏差値ヒエラルキーのトップから齎されるプレッシャーに負けたことのみならず自らが理性的に人間を生きること自體に負けて仕舞った訳だ。

 

【東大前3人刺傷】17歳容疑者少年を駆り立てたエリートの重圧「生徒会選挙に立候補、成績上位で期待も」(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース

其れ見よ、まさに典型的な高偏差値の子の犯罪である。

 

「すごく頭が良いと」東大前刺傷事件で逮捕の少年 (msn.com)

 

要するに華厳の滝から飛び降りるのとまさに同じやうに利口が仕出かした狂気の沙汰だったと云う訳だ。

 

だから利口は元元利口なので誤魔化しが効かぬ訳だらう。

利口はテストでみんなが六拾点のところを八拾点、九拾点と取る奴等のことだ。

 

 

僕もまた昔社会科や國語のテストで九拾点位は取ったことがあったがほんたうの御勉強はむしろ学校を出てから始まったのだとさう思って居る。

左様にテストで高得点を取るのと「人間とは何か」と云うことを考えることとはまた別次元での御勉強となるのだ。

 

「人間とは何か」と云うことを考えることはむしろ其の偏差値教育とは正反対の道を歩んで行くことなのでもまたある。

だから其れをあえて放棄して仕舞った君は理性に対する罪を背負う謂わば高偏差値馬鹿であるに過ぎぬ。

 

 

尚此れは僕自身に対する諫めの言葉でもまたあるのだけれど壱般に頭の良い人は兎に角融通が利かず「コレしか無い」とさう思いがちである。

しかしながらむしろ現實としての世界ではさうして理性的に眞實が規定されるやうな構造にそもなっては居ないのである。

 

だから「コレしか無い」とさう思いつつ華厳の滝から飛び降りたり人を刺したり火を点ける前にまずはもっともっと幅広く學びエエ加減即ち「適当に」生きて行くことをこそ其のインテリ層こそが學ばねばならぬ。

 

確かに僕もかうして随分とキレ易い訳です。

そんな時はむしろおバカにこそなってみませう。

 

 

おバカになってかうしてカントだ、さらにショーペンハウアーだ、と、さらにセザンヌゴーギャンだ、などとあちらこちらの御花に引き寄せられ其処でもってチュウチュウと蜜を吸いますのです。

するとあらあら不思議、いつの間にやら其の社會への憤懣や恨みが消え去りさうして其れ等先哲を讃えむしろ進んで彼等の奴隷となることで自身の精神的な苦しみが減ぜられて行くのであります。

 

ですのでわたくしはまさに其の様こそが學的救い、御勉強による壱つの救いであるとさう申して居るのです。

 

また無論のこと宗教を深く學んで行くことなども是非御勧めして置きたい。

眞の意味での御勉強とはさうして幅広く理性に就き學ぶことだ。

 

 

だから沢山の本も読まねばならず不純なる異性交遊や飲酒や博打に興じておるやうな時間は何処にも無い。

眞の理性はさうして獣を生きることを嫌いむしろ御勉強にのみ生きることだけを選ぶ。

 

だが学校の御勉強だけに偏ることはむしろ理性に取っての背任行為ですらある。

其の偏差値ヒエラルキー其れ自體を批判することが出来る位にむしろ御勉強を進めて行かずしてどうする?

 

さて以前に書いたのだったがかの舘ひろし氏は何度受けても医学部が受からぬので医者になることは諦めアノ暴走グループに入ったのである。

 

だが俳優としては其の後大成功を収めた。

また我が中学の後輩の内藤  朝雄ー現明治大学準教授ーはとある高校の管理教育に反対し其れを糾弾するビラまで撒き挙句には退学したが後に東大の大学院まで進み今やいじめ問題の第壱人者となって居る。

 

だからさうした反抗の末の大成功を見逃してはならない。

むしろ眞の御勉強による理性とは其の種の大反抗を決して見逃さぬものなのだ。

受験生・学生へのメッセージ

ー優秀な人は,自分で勉強し,自分で進化できる人。そのためには優秀な欲望と優秀なエゴイズムが必要。学校頭を自分頭に切りかえろ。頭がよくなるぞ。 たとえ日本が亡びてもあっけらかんとわが道を行こう。ー内藤 朝雄 | 明治大学 (meiji.ac.jp)より

 

  • ー昔からさまざまなニートが世に棲んでいた。金持ちの馬鹿息子とか、道楽者の父さんとか、いい年をしてぶらぶらしている「ろくでなし」は、悪口を言われながらも、世の風景にとけ込んでいた。(中略)考えてみれば仏陀イエスニートのガキたれではなかったか。仏陀は労働を厭い乞食の生活を勧めていたし、イエスにいたっては神殿で露天商に暴力をふるって屋台を破壊する「キレやすい」ニートでなかったか[2]。ー内藤朝雄 - Wikipediaより

 

彼内藤氏の生き様より私が學んだことはまさに「負けて勝つ」ことであり其れ即ち自らの理性を信じて生きて行くことであった。

学校が何を望んで居やうが其れには組み込まれることの無い自己としての考えを確立させることこそが眞の意味での頭の良さである。

 

また佛陀にせよイエスにせよ体制には組み込まれぬ形で眞の意味での自己の価値観を生きたのだった。

尤も其れは長年に亘り苦労しつつ御勉強を進めた上でようやく分かって来ることであり高校生や大學生のうちはまるで分からないことなのでもまたある。

 

 

尚御勉強は生涯に亘り継続されるものだ。

故に偏差値ヒエラルキーの勝ち負けなどに拘る理由などはむしろ何処にも無い。

 

偏差値ヒエラルキーに負けると確かに生き辛くはならうが其れも結局は自らの心の捉えやうなのだ。

例え東大を出て居るにせよ自分でもって學び進化出来ぬ人は眞の意味で利発な人なのでは無い。

 

例え中学しか出て居なくとも自分でもって學び進化出来る人は眞の意味で利発なのである。

 

何より「理性に対し誠實に生きること」こそがおそらくは大事なのである。

また其れは偏差値ヒエラルキーに勝つことを必ずしも意味するものでは無く例えば藝術家や宗教家になったりすることさえもがまさに其の理性的な生き方なのだ。

 

さても其の名古屋の優等生さんは理性的な生き方を何故自ら放棄したのだ?

むしろ其の意味での理性を完遂させることの方が東大の医学部へ入ることなどよりもずっと大事である。

 

但しくれぐれも以下を間違えること無きやう。

 

 

偏差値教育⇔自ら行う學び

 

結論的には其の双方が大事である。

但し医師や弁護士、また教師や學者を目指すのであれば偏差値教育の比重もまた高めねばならず、逆に藝術家や宗教家となるのであれば自ら行う學びの方をより重視して行くべきだ。

 

では家庭人となるにはさても何を重視するのですか?

家庭人は決まって獣なのであえて御勉強をする必要などありません。

 

御勉強とはまさに理性を磨くことであり家庭人は逆に行為にて生活を磨き込むものだ。

従ってインテリ層に限り是非其の両方を學んで行って下され。

 

其れも両方をやるのだからもはや其処には遊んで居る暇等は微塵も無い。

しかも其れを生涯に亘り続けよ。

 

 

つまりは御勉強が忙しくて人を包丁で刺したり火を点けたりするヒマがそも何処にも無い。

全く空恐ろしいやうな御勉強三昧での人生ですが確かに其れをやってれば犯罪者にはまさかならずに済む。

 

いや其ればかりには非ず。

彼の致命的な欠点はまさに類稀なる教えの場としてのココを読んで居なかったことである。

 

逆にココさえ読んで居れば彼は救われて居た筈であらうに今思えば其こそが如何にも惜しいところよ。